備品倉庫を出ると、夜の校舎に溜まった冷たい空気が肌を撫でた。
時刻はまだ深夜だ。
それでも避難所となった学校が完全に眠りへ落ちることはなく、廊下のあちこちには毛布にくるまった人影がある。
その間から低い話し声や寝返りの音、時折誰かが咳き込む声が細く流れていた。
非常灯の白い光が床を鈍く照らし、その上に誠とランサーの影が長く伸びている。
誠は歩きながら、一度だけ後ろを振り返った。
備品倉庫の扉はすでに閉じられている。
中には理央と九郎が残っていた。
理央はまだ眠っているだろうし、九郎はおそらくこちらの足音が聞こえなくなっても完全には眠らないのだろう。
誠は小さく息を吐き、前へ向き直った。
「駐車場って、校庭の裏だっけ」
「ああ」
ランサーは片手を頭の後ろへ回しながら答える。
「マスターにはそこまで車を回してもらってる。歩ける程度には戻ってたが、まだ顔色は最悪だったな」
「無理させんなよ」
「分かってるって」
軽い返事だったが、声音は以前よりいくらか抑えられていた。
二人は廊下を曲がる。
窓の向こうには校庭を埋め尽くした天幕がぼんやりと浮かび、点在するランタンの灯りが夜の中で揺れている。
見張りをする人影、毛布の膨らみ、積み上げられた荷物。
人が多過ぎるせいで、どこを見ても生活の痕跡があった。
その時、先を歩いていたランサーが不意に足を緩めた。
「……あ」
誠が眉を寄せる。
「何だよ」
ランサーは何かを思い出したように目だけを横へ向けた。
「そういや、到着してすぐ別れたから、あんたまだボスに会ってねえよな」
誠は足を止めかける。
「……ボス?」
「ああ。この避難所のまとめ役だ」
ランサーは肩を竦めた。
「話の早い人だし、一応顔を通しといた方がいい。俺が勝手に戦力を引っ張り出したみたいになっても面倒だからな」
誠は少し顔をしかめる。
これから食料調達へ向かおうという時に、また知らない人間へ会わなければならない。
正直、今はあまり気が進まなかった。
とはいえ、避難所を拠点にして動く以上、ここを取り仕切っている人物へ話を通しておく必要があることも分かる。
「……寄り道かよ」
「寄り道だな」
ランサーは悪びれもせず頷いた。
「すぐ済む。多分」
「多分かよ」
「この街じゃ、“絶対”なんて言葉はもう死語だろ」
それについては否定できなかった。
誠は諦めたように息を吐く。
「……どこにいるんだ」
「校長室」
思わぬ答えに、誠は瞬きをした。
「校長室?」
「おう。分かりやすいだろ」
ランサーは顎で進行方向を示す。
「避難所の中枢にするなら、一番それっぽい場所だしな」
確かに、それらしい。
もっとも、普段なら教師や来客のためにしか使われない部屋が、今では街の生存者をまとめる司令室のような役割を担っていると思うと、どうにも妙な感じがした。
誠は黙って頷き、ランサーの後へ続く。
二人は進路を変え、駐車場とは逆方向へ向かった。
夜の校舎を進む。
渡り廊下の窓には外の天幕が映り込み、階段の踊り場には段ボールが山のように積まれている。その脇では家族連れが眠っていた。
幼い子供は母親の腕に抱かれ、父親らしき男だけがまだ起きている。
誠たちが通ると、その男は一度だけ鋭い視線を向けてきたが、すぐに何も見なかったように目を逸らした。
ランサーはそうした反応にも慣れているのか、少しも歩みを止めない。
校長室は二階の端にあった、見慣れた廊下の突き当たり。
普段なら来客用として置かれている鉢植えは隅へ追いやられ、その代わりに水のケースや段ボール箱が壁際を埋めている。
扉の前には簡易机まで置かれ、その上にはメモや地図らしき紙が何枚も重ねられていた。
中から灯りが漏れていた。
ランサーは扉の前で立ち止まり、肩を軽く回した。
「まあ、そんな身構えんな」
そう言って短くノックする。
コン、コン。
「入るぜ」
返事を待たず、そのまま扉を開けた。
校長室の灯りが廊下へ流れ出す。
誠は一歩遅れて中へ入り――そこで足を止めた。
想像していた光景とは、かなり違っていた。
まず目に入ったのは、来客用の革張りのソファだった。
そこへ、一人の老人が深く沈み込むように座っている。
身体は細く、背中も曲がっていた。膝の上へ置かれた両手は枯れ枝のようで、首は僅かに前へ落ちている。
目を閉じているのか、薄く開いているのかすら判然としない。
呼吸しているかどうかさえ、遠目には分からないほど静かだった。
眠っているようにも見える。
だが、完全に意識を手放しているわけでもなさそうだった。
起きているのか、眠っているのか。
その境目そのものが曖昧なまま、ただそこに“在る”、そんな老人だった。
そして、もう一人。
部屋の奥、窓際に置かれた机の傍へ、一人の女が立っていた。
その姿を見た瞬間、誠の背筋を冷たいものが走る。
肌が青い。
血の気が失せたという程度ではない。
まるで最初からそういう色として生まれたかのような、冷たく深い青だった。
人間の肌色ではない。
しかも、腕が四本ある。
二本は通常の位置から伸び、その下からさらに二本が斜めに生えていた。
どの腕も細く長く、関節は人形の球体関節を思わせる造形になっている。
そして、顔。
本体の顔へ重なるように、もう一つの顔があった。
半透明の女の顔が右目の辺りへ寄り添い、まるで霊体のように重なっている。
二つの貌。
一つは青い肌を持つ本体。
もう一つは半透明の別の女。
被っている帽子の縁にはファーが付いており、その影と二つの顔の配置が重なるせいで、遠目から見ると巨大な瞼のようにも見える。
巨大な目に、見つめられている。
一瞬、そんな錯覚に襲われた。
誠は思わず息を詰める。
女は動かない。
こちらを見ているのかどうかすら分からない。
四本ある腕のうち一本だけが、机の縁をゆっくりとなぞっている。
誠は視線を逸らしたくなるのを堪える。
ここは校長室だ。
避難所の中枢。
そのはずなのに、いるのは眠っているのか死んでいるのかも分からない老人と、人間とは到底思えない四本腕の女だけだった。
さすがのランサーも僅かに眉を動かした。
しかし、すぐいつもの調子へ戻る。
「ラニ嬢、ボスは不在かい?」
異形の女――ラニは、机をなぞっていた手を止めた。
四本の腕が僅かに重なるように静止する。
不気味なはずの動作だったが、不思議と慌ただしさはない。
むしろ、水面が静かに凪いでいくような自然さがあった。
そして、ゆっくりと顔がこちらへ向く。
本体の顔と、その上へ寄り添う半透明の貌。
二つの視線が同時に重なったような感覚に、誠の胸が僅かにざわついた。
だが。
次に聞こえた声は、姿からは想像できないほど柔らかかった。
「……我が王なら、外出している」
澄んだ声だった。
静かで、どこか子守歌のような響きさえある。
異形の姿との落差が、余計に現実感を狂わせた。
ランサーは「ああ、やっぱりか」と小さく鼻を鳴らす。
「忙しい人だな」
軽口めいた言い方だが、その中には多少の気遣いも感じられた。
ラニはそれには答えない。
代わりに、ゆっくり誠へ視線を向ける。
その表情は意外にも穏やかだった。
青い肌も、重なる顔も、四本の腕も。
それらすべてを忘れさせるほど、見つめる目には柔らかさがある。
「……君は?」
問い掛けも、ごく自然だった。
警戒も威圧もない。
ただ初対面の相手へ向ける、単純な興味だけがあるように聞こえる。
「どうも……灰原誠です」
そう名乗った瞬間、ラニの表情が僅かに変わった。
「……そうか、君が」
四本ある腕の一本が、そっと胸元へ添えられる。
祈るような仕草だった。
重なった半透明の顔も、同じように目を伏せたように見える。
もう一度誠へ視線を向ける。
今度は明らかに、労わるような色があった。
「灰原か」
柔らかな声で続ける。
「事情は概ね理解している。大変だったな」
短い言葉だった。
それでも、押し付けがましい同情ではない。
起きたことを、そのまま事実として受け止めているような響きだった。
誠は一瞬、返す言葉を失った。
「……別に」
誠は視線を逸らし、誤魔化すように肩を竦めた。
「もう慣れましたね」
嘘だと、自分でも分かっている。
ラニもそれを理解しているのだろう。
だが、何も指摘せず、ただ静かに頷くだけだった。
その沈黙に耐えられず、誠は話題を変える。
「……それより」
一歩だけ前へ出る。
「さっき言ってた“王”って……」
そう尋ねようとした、その時だった。
ふっと室内の灯りが遮られた。
同時に、校長室の空気が僅かに重くなる。
誠とランサーの背後へ、大きな影が落ちた。
二人はほとんど同時に振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
戦士を思わせる風体。
がっしりとした体格。
長い外套を肩から纏い、無骨な装備を身に着けている。
だが、その顔立ちは驚くほど柔和だった。
厳つい身体つきとは不釣り合いなほど穏やかな目を持ち、口元には人懐こささえ感じさせる静かな微笑が浮かんでいる。
男が誠たちへ視線を向けた。
その姿を認めた瞬間、ラニの空気が変わった。
「――我が王」
静かだった四本の腕が僅かに震える。
本体の顔だけではない。
重なっている半透明の顔にまで、はっきりと喜びが滲んだように見えた。
ラニは机の傍から離れ、四本の腕を揺らしながら男へ歩み寄る。
足取りは早い。
それでも不思議と優雅さを失わない。
異形の身体をしているのに、その仕草だけはあまりにも人間らしかった。
いや、それ以上に。
愛しい相手の帰りを迎える者そのものだった。
男もそんなラニを見て僅かに目を細める。
驚きもせず、咎めもしない。
待っていた者へ帰宅を知らせるような、ごく自然な眼差しだった。
ラニは男のすぐ傍まで来ると、僅かに身体を寄せた。
上側の二本の腕は胸元で重ね、下側の腕の一本がためらいがちに男の外套へ触れる。
「我が王、変わりないか?」
敬意を含んだ呼び方なのに、声音はひどく私的だった。
先ほどまでのラニの静けさとは違う、明らかな安堵があった。
無事に帰ってきたことを確認し、ようやく緊張を解いたような。
男は小さく笑う。
「ああ。少し外を見てきただけだ。君こそ、変わりはないか」
ラニの口元が僅かに綻ぶ。
青い肌へ浮かんだその微笑は、一瞬だけ異形であることを忘れさせるほど穏やかだった。
その時、誠の目がふとラニの左手を捉えた。
薬指に指輪がはめられている。
細工の細かな銀の台座へ、深い蒼色の宝石が嵌め込まれていた。
校長室の灯りを受けた石は、海の底を覗き込んだような深い色を返している。
ただの飾りではない、大切なものだと一目で分かった。
ラニが男へ寄る仕草。左手の薬指にある指輪。
それだけで二人の関係性はある程度察することが出来た。
夫婦。あるいは、それ以上に深い結び付きを持つ相手。
少なくとも単なる主従や協力者ではない。
誠は無意識にランサーを見る。
ランサーはちらりとこちらへ目を向け、肩を竦めた。
――まあ、そういうことだ。
言葉にしなくても、顔にそう書いてあった。
ラニはまだ男を見上げている。
重なる霊体の顔さえ、その隣へ静かに寄り添うように見えた。
本来なら不気味に映るはずの二重の貌も、この瞬間ばかりはひどく親密なものに感じられる。
誠は妙な気分になった。
人間離れした異形の女と、正体の知れない戦士。
それなのに目の前で交わされているのは、帰りを待っていた者と帰ってきた者の、ごく普通の会話だった。
やがて男は改めて、誠とランサーへ目を向ける。
穏やかなの奥には、確かな強さがある。
ただ柔和なだけの男ではない。
そこに立っているだけで、周囲の空気を静めてしまうような重みがあった。
誠は無意識に背筋を伸ばした。
男はその反応に気付いたのか、少しだけ苦笑する。
「そう身構えないでくれ」
低く落ち着いた声だった。
「名乗るほどの名は持っていない」
一度言葉を切り、自分の胸へ静かに手を当てる。
「……名もなき褪せ人だ」
誠は瞬きをした。
「……あせびと?」
聞き慣れない言葉だった。
色褪せる、の“褪せ”だろうか。
だが、それを人へ当てはめる意味が分からない。
困惑が顔に出たらしい。
男――褪せ人は少し申し訳なさそうに目を伏せた。
「狭間の地という場所があって……いや、説明は少し難しい」
はぐらかしているわけではない、本当に説明が難しいらしい。
褪せ人は小さく肩を竦めた。
「ただ、そう呼ばれていた。あるいは――」
僅かに視線を上げる。
「セイバー、と呼んでくれて構わない」
褪せ人が静かに続ける。
「我がマスターは、あの老人だ」
「……あの人が?」
誠は思わず聞き返した。
ソファに沈む細い身体。
今まで出会ったマスターの中で、誰よりも弱々しく見える。
ランサーが肩を竦めた。
「見た目で侮ると痛い目見るぜ」
軽い言い方だったが、その声には妙な実感がある。
誠は答えず、改めて褪せ人を見た。
長い外套を背負った、戦士らしい装い。
柔和な顔。穏やかな目。
それらを眺めているうちに、胸の奥へ小さな違和感が生まれた。
「……あれ」
無意識に呟いた。
セイバーの顔に見覚えがある。
この男そのものではなく、雰囲気や立ち方、顔立ち。
記憶の底で何かが引っ掛かる。
褪せ人も誠の反応に気付いたらしく、穏やかに首を傾げた。
「どうかしたか」
誠は答えられなかった。
男の顔を見つめ続ける。
柔らかな目元。
頬の輪郭。
今の静かな表情からは想像もできない。
それでも、奥底には確かに何かが残っている。
焼けるような熱。
理性を焼き尽くす狂気。
目を合わせるだけで世界そのものが捩じ切られそうだった圧。
今の穏やかな男とは、どうしても結び付かない。
だが、一つだけ決定的に同じものがあった。
ごく僅かにしか漏れていない魔力だ。
普段なら見過ごすほど静かに抑え込まれている。
それでも、芯にある質だけは同じだった。
燃え尽きた後の灰の中で、まだ消えずに燻り続ける火種のような魔力。
誠の喉が小さく鳴る。
「……いや」
声が乾いた。
「お前……」
もう一度、男を見る。
ばらばらだった断片が、一気に繋がった。
「あっ……」
思わず声が漏れる。
誠の目が大きく見開かれた。
「……お前、まさか」
褪せ人は何も言わない。
ただ静かに誠を見返している。
背中を冷たいものが這った。
雰囲気は違う。
纏っている空気も、あの時とはまるで別物だ。
世界ごと焼き払うような、剥き出しの狂気もない。
それでも。
顔立ちと、魔力の質は同じだった。
見間違えるはずがない。
自分達が死闘の末に、確かに倒した相手。
狂い火の王──キャスター。
「……キャスター、か」
部屋の空気が張り詰める。
ランサーが横目で誠を見た。
ラニは何も言わない、ソファの老人も相変わらず静かなままだった。
褪せ人だけが、ゆっくり目を伏せる。
「なるほど。私と会ったことがあるようだ」
否定しない。
「……やっぱり」
誠の声が掠れる。
信じられない。
あれほど怪物じみていた存在が、今はこんな穏やかな顔で立っている。
同一人物なのだと頭では分かっていても、感覚が追いつかない。
誠は無意識に一歩後ずさる。
褪せ人はその反応を責めることもなく、少しだけ苦味を含んだように笑った。
「私の別側面が、迷惑をかけたようだ」
「迷惑どころか……!」
誠は反射的に声を強めた。
「あの時のお前、もっと……もっとヤバかっただろ!」
自分でも言葉が雑になっているのが分かる。
整理が追いつかない
狂い火。
世界を塗り潰そうとする黄金の狂気。
その中心で笑っていた男。
そして、今ここにいる褪せ人。
同じ顔。同じ魔力。
それなのに、まるで別人だった。
マリアや621の時と似ている。
同じ存在でありながら、別の側面として現れている。
変質や分岐。
あるいは、在り方そのものの変容。
誠は唇を引き結ぶ。
「……そうか」
ようやく考えが言葉になる。
「お前も、なのか」
褪せ人が静かに目を向ける。
「“も”?」
ランサーがやれやれと肩を回した。
「知り合いだったのか?」
「知り合いっていうか……」
誠は褪せ人から目を離さないまま答える。
「殺し合った相手だよ」
ラニの視線が誠と褪せ人の間を静かに往復する。
だが、そこに敵意はない。
むしろ事情を知った上で、どうなるかを見守っているようだった。
褪せ人も表情を変えない。
誠はしばらく言葉を探した。
あの戦いの焦げた記憶が蘇る。
今でも夢に出る。
焼け落ちる建物。
歪む空間。
狂ったように笑いながら世界を燃やそうとしていた王。
そして最後に、アサシンが首を落とした。
確かな終わり。
その記憶が蘇った瞬間、誠は真正面から問いをぶつけた。
「……なんで、生きてるんだ」
室内が静まる。
「お前、あの時……」
誠は一度唾を飲み込む。
「アサシンの持ってた、不死殺しの魔剣で首を落とされたはずだろ」
あの剣は、ただ強力な武器というだけではなかったらしい。
不死そのものを断ち切るための剣。
概念に干渉し、不死者へ本当の死を与えるための武器。
だからこそ、狂い火の王さえ死んだはずだった。
「なのに、なんで普通に立ってるんだよ」
責める気持ちもあった。
だが、それ以上に純粋な疑問があった。
褪せ人は少しだけ目を伏せる。
記憶を辿るように黙り込んだあと、静かに答えた。
「確かに私は、殺された」
その一言だけで、誠の背筋が僅かに強張る。
「不死殺しの魔剣……なるほど。言い得て妙だ」
褪せ人は自分の首筋へ手を当てた。
そこに傷は残っていない。
ただ、確かに斬られた記憶をなぞるような仕草だった。
「だが、その剣であろうと、私を完全に殺すことは不可能だった」
「……は?」
誠が眉を寄せる。
「私は“不死”という性質を持っていた。そして、あの剣は“不死を殺す”という性質を持っていた」
誇るでもなく、言い訳するでもなく、褪せ人は淡々と続ける。
「概念と概念がぶつかったのだ。その結果、完全な死でも、完全な不死でもない状態が生じた」
誠の脳裏へ曖昧な像が浮かぶ。
「……仮死状態、みたいな」
「そう呼ぶのが近いだろう」
褪せ人は頷いた。
「私は長く、生と死の境界に留まっていた」
そこで褪せ人の目が僅かに鋭くなる。
「だが、今回の“性質反転”が起きた」
誠が息を呑む。
突如サーヴァントらを襲った謎の現象。
物事の性質や存在の在り方そのものが歪み、裏返る。
「恐らくは不死殺しという性質が、キャンセルされた」
褪せ人は簡潔に言った。
「その結果、仮死状態が解除され――私は再び動き出した」
誠はしばらく何も言えなかった。
理屈は分かる、納得できるかと言われれば別の話だ。
だが、この街ではすでに、常識で考えればあり得ないことが何度も起きている。
自分自身もその真っ只中にいる。
「……ややこしい」
ようやく出た感想に、褪せ人は小さく苦笑した。
「否定はしない」
穏やかな声だった。
だが、その穏やかさだけで誠の警戒が完全に消えるわけではない。
そう簡単に飲み込める話ではなかった。
概念やらの話は、口できいても理解しきれない。
褪せ人は誠の顔を見てから、静かに続ける。
「キャスターであった私は、世界を灼き溶かすことを目的とした狂人だった」
その言葉に躊躇はない。
過去を飾りもしなければ、言い逃れもしない。
ラニが男の外套へ触れたまま僅かに目を伏せる。
咎めるでもなく、庇うでもない。
ただ、その過去が存在したことを受け入れているようだった。
褪せ人は一度だけラニへ目を向け、再び誠を見る。
「だが、今の私は違う」
一拍置く。
「他の側面に比べれば、かなり大人しめだと思う」
ランサーが鼻で笑った。
「自分で言うか、それ」
「主観は必要だろう」
褪せ人は真顔で返す。
そのやり取りの温度差に、誠は一瞬だけ言葉を失った。
かつて世界を燃やそうとした狂人が、今は自分のことを“比較的大人しい”と評している。
冗談なのか本気なのか判断に困る。
ただ少なくとも、目の前の男からは、あの時のような焼けつく狂気は感じられなかった。
「……じゃあ、何なんだよ。今のお前は」
誠が低く尋ねる。
褪せ人は少しだけ首を傾げた。
答えは最初から決まっているようだった。
「私は、我が主にして伴侶――女王ラニと旅立った世界線の存在だ」
マリアや621と同じ。
同一人物でありながら、異なる可能性を辿った存在。
ラニはその言葉を聞き、ほんの少しだけ微笑んだ。
青い肌に浮かぶ静かな笑み。
重なるもう一つの顔も、同じように穏やかに見える。
「私は彼女と共に、世界から離れた」
褪せ人は低く続ける。
「火を撒き散らし、すべてを焼き均す側ではなく――」
一度だけ言葉を選ぶ。
「終わった後の、静かな夜を歩く側にいる」
抽象的な表現だった。
それでも、不思議と意味は伝わった。
少なくとも今ここにいる男は、燃やす者ではない。
「だから」
褪せ人は穏やかな目のまま、誠を真っ直ぐ見た。
「この灰原で起きている惨劇にも、心を痛めている」
褪せ人はゆっくり窓の外へ視線を向ける。
校庭を埋める天幕、夜を照らす非常灯。
眠ることもm、満足にできず、明日を待っている避難民たち。
「焼けた街。居場所を失った人々。怯えた子供。明日を案じる者たち」
外を見てきた、と先ほど言っていた。
きっと、その一つ一つを実際に目にしたのだろう。
「私は、こういうものを見過ごしたくない」
そして再び誠へ向き直る。
ラニの左手が、そっと褪せ人の腕へ添えられた。
薬指の深い蒼色の宝石が、校長室の灯りを受けて静かに輝く。
褪せ人はその手の感触を確かめるように一瞬だけ目を細めた。
それから、誠へはっきりと告げた。
「私は、灰原の人々の味方だよ」