Fate/You Died.   作:助兵衛

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第68話 暗き月、永遠の王

 倉庫を出ると、廊下の冷えた空気が肌に触れた。

 

 夜は、まだ深い。

 

 避難所になった校舎の中も完全には眠っておらず、毛布にくるまった人影のあいだから、低い話し声や寝返りの気配が細く流れている。非常灯の白さが床を鈍く照らし、そこを誠とランサーの影が長く伸びた。

 

 誠は、歩きながら一度だけ振り返った。

 

 備品倉庫の扉は、もう閉じている。

 

 中には理央と九郎がいる。理央は眠ったまま。九郎はおそらく、こちらが見えなくなってもまだ起きているのだろう。

 

 誠は小さく息を吐き、前を向いた。

 

「駐車場って、校庭の裏だっけ」

 

「ああ」

 

 ランサーは片手を頭の後ろにやりながら答える。

 

「マスターには、そこまで車を回してもらってる。歩ける程度には戻ってたが、まだ顔色は最悪だったな」

 

「無理させんなよ」

 

「分かってるって」

 

 軽い調子で返すが、その声は前よりいくらか抑えられていた。

 

 廊下を曲がる。

 

 窓の外には、校庭に並ぶ天幕の白がぼんやり浮かんでいた。ランタンの灯り。見張りの人影。毛布の盛り上がり。人が多すぎるせいで、どこを見ても誰かの生活の痕跡がある。

 

 その時だった。

 

 先を歩いていたランサーが、ふと足を緩めた。

 

「……あ」

 

 誠が眉を寄せる。

 

「何だよ」

 

 ランサーは、何かを思い出したように目だけ横へ動かした。

 

「そういや」

 

 一拍。

 

「到着してすぐ別れたから、あんたまだボスに会ってねえよな」

 

 誠は足を止めかけた。

 

「……ボス?」

 

「ああ、この避難所のまとめ役」

 

 ランサーは肩を竦める。

 

「話が早い人だ。ていうか、一応顔通ししといた方がいい。俺が勝手に戦力引っ張り出したみたいになっても面倒だしな」

 

 誠は少しだけ顔をしかめた。

 

 食糧調達に行く前に、さらに知らない相手と会う。正直、今はあまり気が進まない。

 

 だが、避難所の中で動く以上、ここを仕切っている人間に話を通しておく必要があるのも分かる。

 

「……寄り道かよ」

 

「寄り道だな」

 

 ランサーは悪びれもせず頷いた。

 

「すぐ済む。多分」

 

「多分かよ」

 

「この街じゃ“絶対”なんて言葉、もう死語だろ」

 

 それは、まあ、そうだった。

 

 誠は諦めたように息を吐く。

 

「……どこにいる」

 

「校長室」

 

 その答えに、誠は目を瞬かせた。

 

「校長室?」

 

「おう。分かりやすいだろ」

 

 ランサーは顎で前を示す。

 

「避難所の中枢にするには一番それっぽい場所だしな」

 

 確かに、それっぽい。

 

 だが、今の学校で「校長室」と聞くと、妙なちぐはぐさもあった。普段なら教師や来客のための部屋でしかない場所が、今は街の生き残りをまとめる司令室のようになっているらしい。

 

 誠は黙って頷き、ランサーの後を追った。

 

 二人は進路を変え、駐車場とは反対方向へ向かう。

 

 夜の校舎を歩く。

 

 渡り廊下の窓には、外の天幕が映っていた。階段を上がる途中、踊り場には段ボールが積まれ、その脇で眠っている家族連れがいた。幼い子どもが母親の腕の中で眠っている。父親らしき男は起きていたが、二人が通ると視線だけ寄越し、すぐに逸らした。

 

 ランサーは、そうした視線に慣れきっているように足を止めない。

 

 校長室は、二階の端だった。

 

 見慣れた廊下の突き当たり。来客用の鉢植えはすでに脇へ寄せられ、代わりに水のケースや段ボール箱が壁際に積まれている。扉の前には簡易机が置かれ、メモや地図らしき紙が何枚も重ねられていた。

 

 中から、灯りが漏れている。

 

 誰かいる。

 

 ランサーは扉の前で立ち止まり、軽く肩を回した。

 

「ま、そんな身構えんな」

 

 ランサーは、短く扉を叩く。

 

 コン、コン。

 

「入るぜ」

 

 返事を待たずに、扉を開けた。

 

 校長室の灯りが、廊下へ流れ出す。

 

 誠は一歩遅れて中へ足を踏み入れ——そして、足を止めた。

 

 思っていた光景とは、違った。

 

 まず目に入ったのは、ソファだった。

 

 来客用のものだろう。革張りのそれに、ひとりの老人が沈み込むように座っている。

 

 身体は細く、背は曲がり、膝の上に置かれた手は枯れ枝のようだった。

 

 目は閉じているのか、開いているのか分からない。

 

 首はわずかに前へ落ち、呼吸しているのかさえ曖昧なほど静かだ。

 

 眠っているようにも見える。

 

 だが、完全に意識を手放しているようにも見えない。

 

 起きているのか、眠っているのか。

 

 境目が曖昧なまま、そこに「在る」だけの存在だった。

 

 そして——もう一人。

 

 部屋の奥。

 

 窓際の机のそばに、奇妙な女が立っていた。

 

 誠の背筋に、ぞくりとしたものが走る。

 

 肌は真っ青だった。

 

 血の気のない青白さではない。

 

 染めたように、冷たい青。

 

 人間の色ではない。

 

 腕が四本あった。

 

 二本は普通の位置から生えている。

 

 もう二本は、その下から、やや斜めに伸びていた。

 

 どの腕も細く長く、人形のような球体関節が見える。

 

 そして顔。

 

 右目のあたりから重なるように——もう一つの顔があった。

 

 霊体のように薄く、女の頬へ寄り添うように張り付いている。

 

 二つの顔。

 

 一つは青い肌の本体。

 

 もう一つは、半透明の別の女。

 

 その配置と、被っている帽子の縁についたファーの影が重なって、遠目には——

 

 瞼を閉じかけた巨大な瞳のようにも見えた。

 

 見られている。

 

 そう錯覚する配置だった。

 

 誠は思わず息を詰めた。

 

 女は動かない。

 

 こちらを見ているのかどうかも分からない。

 

 四本の腕のうち一本だけが、ゆっくりと机の縁をなぞっていた。

 

 音はしない。

 

 だが、その動きは妙に粘ついて見えた。

 

 誠は、視線を逸らしそうになるのを堪える。

 

 ここは校長室だ。

 

 避難所の中枢のはずだ。

 

 それなのに。

 

 いるのは——

 

 眠っているのか死んでいるのか分からない老人と、

 

 異形の女だけ。

 

 ランサーも、さすがに少しだけ眉を動かした。

 

 だが、すぐにいつもの調子に戻る。

 

 軽く手を挙げるようにして言った。

 

「ラニ嬢、ボスは不在かい?」

 

 異形の女──ラニは、机の縁をなぞっていた手を止めた。

 

 四本の腕が、わずかに重なり合うように静止する。

 

 その動きは不気味なはずなのに、不思議と慌ただしさはない。

 

 むしろ、水面が静まるみたいに自然だった。

 

 そして、ゆっくりと顔をこちらへ向ける。

 

 その上に寄り添う半透明のもう一つの顔。

 

 二つの視線が重なったような錯覚が、誠の胸をわずかにざわつかせた。

 

 だが──

 

 次に聞こえた声は、驚くほど柔らかかった。

 

「……我が王なら、外出している」

 

 静かな声色。

 

 澄んでいて、どこか子守歌のような響きを持っている。

 

 異形の姿との落差が、余計に現実感を狂わせる。

 

 ランサーは「ああ、やっぱりか」と小さく鼻を鳴らした。

 

「忙しい人だな」

 

 軽口のように言うが、その声音には少しだけ気遣いも混じっていた。

 

 ラニはそれには答えない。

 

 代わりに、ゆっくりと誠の方へ視線を移す。

 

 優しげだった。

 

 青い肌も、歪んだ顔も、四本の腕も。

 

 その全部を無視するみたいに、表情だけが穏やかだった。

 

 半透明のもう一つの顔も、同じように誠を見ている気がする。

 

 見透かされているような、不思議な感覚。

 

「……君は?」

 

 問いは、ひどく自然だった。

 

 警戒も威圧もない。

 

 ただ、初対面の相手へ向ける単純な興味のように。

 

「どうも……灰原誠だ」

 

 その名を聞いた瞬間だった。

 

 ラニの表情が、ほんのわずかに変わる。

 

 驚きでも、警戒でもない。

 

 理解に近い、静かな変化だった。

 

「……そうか」

 

 四本の腕のうち一本が、そっと胸元へ寄せられる。

 

 祈るような仕草。

 

 もう一つの半透明の顔も、同じように目を伏せたように見えた。

 

 ラニは、誠へ視線を戻す。

 

 今度ははっきりと──労わるような色がそこにあった。

 

「灰原家か」

 

 柔らかい声。

 

「事情は概ね理解している、大変だったな」

 

 短い言葉だった。

 

 だが、その言い方は決して同情を押しつけるものではなく、ただ事実を受け止めるような響きだった。

 

 誠は、一瞬だけ言葉を失う。

 

 ここに来てから、自分の事情を「分かっている」顔で語られたことはほとんどない。

 

 敵意か、警戒か、利用価値の話ばかりだった。

 

 だから余計に、居心地が悪い。

 

「……別に」

 

 視線を逸らす。

 

 誤魔化すように肩を竦めた。

 

「もう慣れた」

 

 嘘だと自分でも分かっていた。

 

 ラニはそれを指摘しない。

 

 ただ、静かに頷くだけだった。

 

 その沈黙に耐えきれず、誠は話題を変えるように口を開く。

 

「……それより」

 

 一歩だけ踏み出す。

 

「さっき言ってた“王”ってのが、この避難所のボスなんだよな」

 

 問いかけようとした、その時だった。

 

 ふっと、灯りが遮られる。

 

 校長室の空気が、わずかに重くなる。

 

 誠とランサーの背後に──

 

 大きな影が落ちた。

 

 二人はほぼ同時に振り返る。

 

 そこに立っていたのは、一人の男だった。

 

 戦士のような風体。

 

 がっしりとした体格。

 

 長い外套を肩から掛け、無骨な装備を身につけている。

 

 だが──

 

 顔立ちは驚くほど柔和だった。

 

 厳つい体格とは不釣り合いなほど穏やかな目。

 

 人懐こさすら感じさせる、静かな微笑を浮かべている。

 

 男は、ゆっくりと二人を見下ろす。

 

 その姿を認めた瞬間。

 

 ラニの空気が、変わった。

 

 静かだったはずの四本の腕が、わずかに震える。

 

 青い肌の顔だけではない。

 

 重なる半透明のもう一つの顔までもが、はっきりと喜びを帯びたように見えた。

 

「——我が王」

 

 柔らかな声が、さらに柔らかくなる。

 

 次の瞬間、ラニは机の傍から離れていた。

 

 四本の腕を揺らしながら、足早に——だが不思議と優雅さを失わない動きで、男のもとへ駆け寄る。

 

 異形のはずなのに、その仕草はどこまでも人間らしかった。

 

 いや、それ以上に。

 

 愛しいものを迎える者の動きだった。

 

 男は、そんなラニを見て、少しだけ目を細めた。

 

 責めるでもなく、驚くでもなく。

 

 帰りを待っていた者に向ける、ごく自然な眼差し。

 

 ラニは男のすぐ傍まで来ると、ほんの僅かに身を寄せる。

 

 四本の腕のうち上の二本は胸の前で重ねられ、下の二本の片方が、ためらいがちに男の外套の端へ触れた。

 

「我が王、変わりないか?」

 

 その問いかけは、親しげで。

 

 敬意に満ちているのに、同時にひどく私的だった。

 

 誠は、息を呑む。

 

 今までのラニの静けさとは違う。

 

 そこにあるのは、明らかな安堵だった。

 

 帰ってきたことを確かめるような。

 

 無事を見て、ようやく張っていたものを解くような。

 

 男は、小さく笑った。

 

「ああ」

 

 低く、穏やかな声。

 

「少し外を見てきただけだ。君こそ、変わりはないか」

 

 ラニの口元が、ほんの少し綻ぶ。

 

 青い肌に浮かぶその微笑は、異形であることを一瞬忘れさせるほど穏やかだった。

 

 その時、誠の目が、ふとラニの手元を捉えた。

 

 左手。

 

 薬指。

 

 そこに、指輪がはまっていた。

 

 見事な意匠だった。

 

 細工の細かな銀の台座に、深い蒼の宝石が嵌め込まれている。

 

 夜の校長室の灯りを受けて、その石は海の底みたいな色を返していた。

 

 ただの飾りではない。

 

 大切にされているものだと、ひと目で分かる。

 

 ラニが男へ寄る仕草と、その指輪。

 

 それだけで十分だった。

 

 夫婦。

 

 あるいは、それ以上に深く結びついた間柄。

 

 少なくとも、単なる主従や協力者ではない。

 

 誠は、無意識にランサーの方を見た。

 

 ランサーは、ちらりと誠へ視線を寄越し、肩を竦める。

 

 ──まあ、そういうことだ。

 

 言葉にはしないが、そんな顔だった。

 

 ラニは、なおも男を見上げている。

 

 もう一つの霊体の顔もまた、寄り添うように静かだった。

 

 その二重の貌が不気味に見えるはずなのに、今はむしろ、ひどく親密な何かに見える。

 

 誠は、そんな二人のやり取りを前に、妙な気分になっていた。

 

 異界と化した街。

 

 避難所の中枢。

 

 得体の知れない異形。

 

 そのはずなのに。

 

 目の前で交わされているのは、ひどく普通の、帰りを待っていた者同士の会話だった。

 

 男はそこでようやく、改めて誠とランサーへ目を向けた。

 

 穏やかな目だった。

 

 だが、その奥には確かな強さがある。

 

 ただ柔和なだけではない。

 

 立っているだけで空気を静めるような、重みがあった。

 

 誠は、無意識に背筋を伸ばす。

 

 男はそんな誠の反応に気づいたのか、ほんの少しだけ苦笑した。

 

「そう身構えないでくれ」

 

 低く落ち着いた声だった。

 

「名乗るほどの名は持っていない」

 

 一拍。

 

 男は、自分の胸へ静かに手を当てる。

 

「……名もなき褪せ人だ」

 

 誠は瞬きをした。

 

「……あせびと?」

 

 聞き慣れない単語だった。

 

 色褪せる、の褪せか。

 

 だが、人をそう呼ぶ意味が分からない。

 

 誠の困惑がそのまま顔に出ていたのだろう。男──褪せ人は、困らせてしまったとでも言いたげに目を伏せた。

 

「狭間の地という場所があって……いや、説明は少し難しい」

 

 その言い方が、はぐらかしではなく本当に難しいのだと伝えてくる。

 

 褪せ人は小さく肩を竦めた。

 

「ただ、そう呼ばれていた。あるいは——」

 

 そこで、ほんの僅かに視線を上げる。

 

「セイバー、と呼んでくれて構わない」

 

 その言葉で、部屋の構図が一気に意味を持った。

 

 避難所のまとめ役。

 

 我が王、と呼ばれる男。

 

 セイバーのクラス。

 

 そして、あのソファに沈み込む老人。

 

 誠は視線をそちらへ向ける。

 

 相変わらず、眠っているのか起きているのか曖昧なままだ。

 

 だが、ただの老人ではないのだと、今ははっきり分かる。

 

 褪せ人が、静かな声で続ける。

 

「我がマスターは、あの老人だ」

 

 誠は息を呑んだ。

 

 ソファに沈んだままの、細い身体。

 

 あれが、サーヴァントを従えるマスター。

 

 今まで見てきた誰よりも弱々しく見えるのに、だ。

 

 ランサーが肩を竦める。

 

「見た目で侮ると痛い目見るぜ」

 

 軽く言うが、その言い方には妙に実感があった。

 

 誠は返事をしない。

 

 ただ、褪せ人──セイバーを見つめた。

 

 長い外套。

 

 戦士のような装い。

 

 柔和な顔。

 

 穏やかな目。

 

 その全部を眺めているうちに、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。

 

「……あれ」

 

 誠は、無意識に呟いていた。

 

 見覚えが、ある。

 

 だが、どこで。

 

 今夜か。

 

 いや、違う。

 

 もっと前。

 

 この男そのものではなく——この雰囲気、この立ち方、この顔立ち。

 

 記憶の底で、何かが擦れる。

 

 褪せ人は誠の反応に気づいたのか、穏やかに首を傾げた。

 

「どうかしたか」

 

 誠はすぐには答えられなかった。

 

 男の顔を見ている。

 

 柔らかな目元。

 

 頬の線。

 

 戦いの只中には決して浮かばない、静かな表情。

 

 それでも。

 

 その奥に、確かに“あれ”がある。

 

 胸の奥で、記憶が引っかかる。

 

 焼けるような熱。

 

 理性を焼き尽くす狂気。

 

 目を合わせるだけで、世界ごと捩じ切られそうだった圧。

 

 なのに、今目の前にいる男はあまりにも穏やかで——結びつかない。

 

 だが、結びついてしまうものがある。

 

 魔力だ。

 

 ごく微かに感じる、その質。

 

 普段なら見過ごしてしまいそうなほど落ち着いているのに、芯のところだけが変わらない。

 

 燃え滓みたいに。

 

 燻り続ける火種みたいに。

 

 誠の喉が、ひくりと鳴った。

 

「……いや」

 

 声が、乾く。

 

「お前……」

 

 もう一度、男の顔を見る。

 

 今度は顔立ちだけではない。

 

 立ち方。

 

 気配の沈め方。

 

 そして、あの魔力の残り香。

 

 断片だったものが、急につながった。

 

「あっ」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 誠の目が、見開かれる。

 

「……お前、まさか」

 

 褪せ人は何も言わない。

 

 ただ、静かに誠を見返している。

 

 誠の背中を、ぞわりと冷たいものが走った。

 

 雰囲気は違う。

 

 背格好も、纏う空気もかなり変わっている。

 

 あの時のような、世界ごと焼き払うような剥き出しの狂気はない。

 

 だが——それでも。

 

 顔立ちと、魔力の質が同じだ。

 

 見間違えるはずがない。

 

 自分が死闘の末に、確かに討ち倒した相手。

 

 キャスター。

 

 狂い火の王。

 

「……キャスター、か」

 

 誠の口から、ほとんど無意識に名前が落ちた。

 

 部屋の空気が、わずかに止まる。

 

 ランサーが横目で誠を見る。

 

 ラニは何も言わない。

 

 ソファの老人は相変わらず、眠っているのか起きているのか分からないまま沈んでいる。

 

 褪せ人だけが、静かに目を伏せた。

 

「なるほど、私と会ったことがあるようだ」

 

 

 否定しない。

 

 その返答が、答えだった。

 

 誠は息を呑む。

 

「……やっぱり」

 

 声が掠れる。

 

 信じられない。

 

 いや、信じたくない、の方が近い。

 

 あれだけの怪物じみた存在が、今目の前でこんな穏やかな顔をして立っている。

 

 同一人物だと頭では分かっても、感覚が追いつかない。

 

 誠は、無意識に一歩だけ後ずさった。

 

 褪せ人はその動きにも何も言わなかった。

 

 ただ、少しだけ苦いものを含んだように微笑む。

 

「私の別側面が、迷惑をかけたようだ」

 

「迷惑どころか……!」

 

 誠は即座に返していた。

 

 自分でも驚くくらい、声が強く出た。

 

「あの時のお前、もっと……もっとヤバかっただろ」

 

 言葉が雑になる。

 

 整理が追いつかない。

 

 あの焼けた王座。

 

 狂い火。

 

 世界を塗り潰すような黄金の狂気。

 

 その中心にいた男。

 

 それと、今目の前にいるこの褪せ人。

 

 同じ顔で、同じ魔力を持ちながら、まるで別人だった。

 

 マリアや621の時と、似ている。

 

 同じ誰かでありながら、別の側面として現れている感覚。

 

 変質。

 

 分岐。

 

 あるいは、在り方の変容。

 

 誠は唇を引き結ぶ。

 

「……そうか」

 

 ようやく、言葉になる。

 

「お前も、なのか」

 

 褪せ人が静かに目を向ける。

 

「“も”?」

 

 誠は、そこで自分が何を考えたのかをはっきり自覚した。

 

 マリア。

 

 621。

 

 そして、この男。

 

 どれも、元の姿そのままではない。

 

 何かを経て、別の側面としてここにいる。

 

 ランサーが、やれやれと肩を回す。

 

「おいおい、知り合いだったのか」

 

「知り合いっていうか……」

 

 誠は、褪せ人から目を離せないまま言う。

 

「殺し合った相手だよ」

 

 校長室の空気が、ほんの少しだけ重くなる。

 

 ラニの視線が、静かに誠と褪せ人の間を往復する。

 

 だが、不思議と敵意はない。

 

 むしろ、事情を知った上で見守っているような目だった。

 

 褪せ人は、誠の言葉を受けても表情を変えなかった。

 

 誠は、しばらく言葉を探していた。

 

 喉の奥に、焦げた記憶の味が残っている。

 

 あの戦いの光景は、今でも夢に出る。

 

 焼け落ちる建物。

 

 歪む空間。

 

 狂ったように笑いながら世界を燃やそうとした王。

 

 そして最後に。

 

 首を落とした感触。

 

 確かな終わり。

 

 それを思い出した瞬間、誠ははっきりと問いを投げた。

 

「……なんで、生きてる」

 

 校長室の空気が静まる。

 

 ランサーも、口を挟まない。

 

 ラニも、ただ静かに褪せ人を見る。

 

 誠は続けた。

 

「お前、あの時……」

 

 一度唾を飲み込む。

 

「アサシンの持ってた、不死殺しの魔剣で首を落とされたはずだろ」

 

 あの剣は特別だった。

 

 ただ強い武器ではない。

 

 概念そのものを断ち切る類の代物。

 

 不死を殺すために存在する剣。

 

 だからこそ。

 

 狂い火の王ですら、あの一撃で終わったはずだった。

 

 誠は、褪せ人を真っ直ぐ見据える。

 

「なのに、なんで平然と立ってる」

 

 

 問いは責めるようでもあり、純粋な疑問でもあった。

 

 褪せ人は少しだけ目を伏せた。

 

 すぐには答えない。

 

 記憶を辿るような沈黙。

 

 やがて、静かに口を開く。

 

「確かに私は、殺された」

 

 否定しない。

 

 その一言で、誠の背筋がわずかに強張る。

 

「不死殺しの魔剣……なるほど、言い得て妙だ」

 

 褪せ人は、自分の首筋に手を当てる。

 

 そこには傷はない。

 

 だが、何かを思い出すような仕草だった。

 

「だが」

 

 一拍。

 

「その剣であろうと、私を完全に殺すことは不可能だった」

 

 誠の眉が寄る。

 

「……は?」

 

「私は“不死”という性質を持っていた」

 

 淡々とした説明。

 

 誇りでもなく、言い訳でもない。

 

「そしてあの剣は、“不死を殺す”という性質を持っていた」

 

 誠は黙って聞く。

 

 褪せ人は続けた。

 

「概念と概念がぶつかったのだ」

 

 静かな言葉。

 

「完全な死でも、完全な不死でもない状態が生じた」

 

 誠の脳裏に、曖昧な像が浮かぶ。

 

 消えきらない炎。

 

 砕けきらない魂。

 

「……仮死状態か」

 

 思わず口に出すと、褪せ人は頷いた。

 

「そう呼ぶのが近いだろう」

 

 校長室の灯りが、わずかに揺れる。

 

 遠くで誰かの足音がする。

 

 だが、この部屋だけ時間が止まっているようだった。

 

「私は長く、境界に留まっていた」

 

 生と死の間。

 

 誠は無意識にそう理解する。

 

「だが」

 

 褪せ人の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。

 

「今回の“性質反転”だ」

 

 誠が息を呑む。

 

 この街に起きている異変。

 

 概念や存在が歪み、裏返る現象。

 

「不死殺しという性質が、キャンセルされた」

 

 言葉は簡潔だった。

 

「その結果、仮死は解除され——私は再び動き出した」

 

 誠は、しばらく何も言えなかった。

 

 理解はできる。

 

 だが納得はできない。

 

 それでも。

 

 この街では、それくらいのことは起こり得る。

 

 実際、自分自身も常識の外側に放り込まれている。

 

「ややこしい……」

 

 褪せ人は、その感想に小さく苦笑した。

 

「否定はしない」

 

 穏やかな声音だった。

 

 だが、その穏やかさがかえって、誠の警戒を削ぎきれない。

 

 ついさっきまで「死んだはずのキャスターがなぜ生きているのか」という話をしていたのだ。しかも、その答えが「不死と不死殺しの概念衝突で仮死になっていた」では、ややこしいで済ませたくもなる。

 

 褪せ人は、誠の顔を見てから静かに続けた。

 

「キャスターの私は、世界を灼き溶かすことを目的とした狂人だった」

 

 言葉に、躊躇がない。

 

 自分の過去を言い繕わない、冷静な言い方だった。

 

 ラニが、男の外套の端に触れたまま、わずかに目を伏せる。

 

 咎めるでもなく、庇うでもなく。

 

 ただ、その過去が確かに存在したのだと受け止めるように。

 

 褪せ人は、そんなラニへ一瞬だけ視線を落とし、それからまた誠を見る。

 

「だが、今の私は違う」

 

 一拍。

 

「他の側面に比べれば、かなり大人しめだと思う」

 

 ランサーが、そこで鼻で笑った。

 

「自分で言うか、それ」

 

「主観は必要だろう」

 

 褪せ人は真顔で返す。

 

 そのやり取りの、あまりの温度差に、誠は一瞬だけ言葉を失った。

 

 世界を灼く狂人だった男が、今や“自分は比較的大人しい”などと評している。

 

 冗談なのか本気なのか分からない。

 

 だが──少なくとも、目の前の男があの時のような焼けつく狂気を剥き出しにしていないのは事実だった。

 

「……じゃあ、何なんだよ、今のお前は」

 

 誠が低く問う。

 

 褪せ人は、ほんの少しだけ首を傾げた。

 

 答えはすでに持っている顔だった。

 

「私は」

 

 静かな声。

 

「我が主にして伴侶──女王ラニと旅立った世界線の存在だ」

 

 誠は、眉を寄せた。

 

 世界線。

 

 その単語が、また感覚をずらす。

 

 マリアや621の時にも似た、同一人物の別側面。

 

 褪せ人は、それを当然の前提のように口にする。

 

 ラニは、その言葉を聞いてほんの少しだけ微笑んだ。

 

 青い肌に浮かぶ静かな笑み。

 

 半透明のもう一つの顔もまた、同じように穏やかに見えた。

 

 褪せ人は続ける。

 

「私は彼女と共に、世界から離れた」

 

 低く、落ち着いた声。

 

「火を撒き散らし、全てを焼き均す側ではなく──」

 

 そこで、一度言葉を選ぶように間を置く。

 

「終わった後の静かな夜を歩く側にいる」

 

 校長室の空気が、少しだけ柔らぐ。

 

 その言い方は抽象的だったが、不思議と分かった。

 

 少なくとも、今目の前にいる男は“燃やす者”ではない。

 

 焼け跡のあとに立ち、残ったものを見ている者だ。

 

「だから」

 

 褪せ人の目が、静かに誠を捉える。

 

 穏やかなまま。

 

 だが、今度ははっきりと意思を持って。

 

「このような灰原の惨劇にも、心を痛めている」

 

 誠は、思わず息を止めた。

 

 惨劇。

 

 その言葉が、変に胸へ刺さる。

 

 軽く扱われない。

 

 利用価値でも、戦力でも、都合でもなく。

 

 ちゃんと、惨劇だと言った。

 

 褪せ人はゆっくりと視線を窓の外へ向ける。

 

 校庭の天幕。

 

 非常灯。

 

 眠れずにいる避難民たち。

 

「焼けた街」

 

 ぽつりと零す。

 

「居場所を失った人々。怯えた子ども。明日を案じる者たち」

 

 その一つ一つを、見てきたのだろう。

 

 外を見てきた、と先ほど自分で言った通りに。

 

「私は、こういうものを見過ごしたくない」

 

 そして、誠へ向き直る。

 

 ラニの左手が、そっと褪せ人の腕に添えられた。

 

 深い蒼の宝石が灯りを受けて、静かに光る。

 

 褪せ人は、その手の温度を確かめるように一瞬だけ目を細めたあと、はっきりと告げた。

 

「私は灰原の人々の味方だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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