校長室を辞したあと、誠とランサーは再び夜の廊下を歩いていた。
扉が閉まる。
中の灯りと、ラニの青い肌と、褪せ人の穏やかな目が、ひとまず向こう側へ隔てられる。
けれど、見たものまで消えるわけではない。
誠は前を向いたまま、長く息を吐いた。
「……なんなんだよ、もう」
思わず零れた声は、独り言にしては少し大きかった。
非常灯の白い明かりが、床に長く伸びる二人の影を淡く照らしている。
廊下の向こうでは、誰かが寝返りを打つ音がした。
毛布の擦れる気配。
低い咳。
避難所の夜は静かなのに、完全には眠っていない。
誠は、その中を歩きながら眉間を押さえた。
「敵だと思ってたやつが別側面でした、実は今は避難所のまとめ役です、しかも異形の女と夫婦みたいなもんです、灰原の人間の味方です……って」
一つ一つ口にするたび、馬鹿みたいに聞こえる。
いや、実際かなり馬鹿みたいだった。
馬鹿みたいなのに、全部現実だ。
「勢力図が、もうめちゃくちゃだろ」
誠は天井を仰ぎかけて、やめた。
仰いだところで蛍光灯の消えた天井があるだけだ。
自分で言って、ひどく疲れた。
胃の奥がまた少しだけ重くなる。
誠は、もう一度ため息をついた。
「聖杯戦争って黒野の話だと、分かりやすく殺し合うものだったんだけどな」
ランサーが隣で鼻を鳴らした。
「ま、死なねえしな」
「それはそうだけどさ」
複雑になりすぎた現状も、ぐちゃぐちゃの勢力図も、今すぐ整理なんてできない。
できないが、とりあえず腹は減るし、食い物は要る。
今は、それで十分だった。
階段を下りると、外気がはっきりと変わった。
校舎の中のぬるい空気とは違う。
夜の冷えた風が、頬に触れる。
誠は思わず肩をすくめた。
ランサーは慣れた様子で先を歩く。
裏口を抜けると、校庭の端へ出た。
天幕の白が闇の中に浮かび、ランタンの灯りが点々と揺れている。
遠くで誰かが話している。
見張りの人影がゆっくり動く。
避難所として息づく夜の風景だった。
そこからさらに裏手へ回る。
校舎の影に入ると、急に人の気配が減った。
砂利を踏む音だけがやけに大きく聞こえる。
やがて、駐車場が見えてきた。
街灯は半分ほどしか点いていない。
薄暗い空間に、ぽつんと一台だけ異様に存在感のある車が停まっていた。
無骨なピックアップトラックだった。
荷台にはロープや毛布や空のコンテナが雑に積まれている。
戦場の即席輸送車のような雰囲気だ。
その運転席に——
赤城美桜が座っていた。
誠は足を止めかける。
美桜の顔は、車内の灯りに照らされてはっきり見えた。
ひどく不安そうだった。
ハンドルに手を置いたまま、視線が落ち着かない。
窓の外を何度も確認し、指先がわずかに震えている。
顔色もまだ悪い。
戻ってきたとはいえ、完全に回復しているわけではないのだろう。
それでも待っている。
逃げずに、ここにいる。
誠は、その姿を見て少しだけ胸の奥がざわついた。
「……先生」
小さく呟く。
その時だった。
車の横の影が、ゆっくりと動く。
誠は視線をそちらへ向けた。
マリアがいた。
いつの間に霊体化を解いたのか、実体を伴った姿でピックアップトラックに寄りかかっている。
腕を組み、片足を軽く曲げ、背中を車体に預けていた。
そして——
ぼーっとしていた。
視線はどこか遠く。
夜空なのか、校舎の屋根なのか、あるいはもっと別の何かを見ているのか分からない。
戦闘中の鋭さも、緊張もない。
ただ静かに、思考の奥へ沈んでいるような顔だった。
誠は思わず眉を寄せる。
「……大丈夫か、あの人形を見てからずっと様子が変だぞ」
誠の問いに、マリアは一瞬だけ視線を戻した。
夜気に濡れたような静かな瞳だった。
だが次の瞬間には、いつもの柔らかな微笑がそこに戻る。
「……何でもありませんよ」
軽く首を振る。
それ以上は何も言わない。
はぐらかすように言葉を切ると、そのままトラックの後ろへ回った。
荷台の縁に手を掛ける。
軽い動作だった。
長い髪が揺れる。
するり、と身体を持ち上げ、迷いなく荷台へ乗り込む。
中に置かれたコンテナの上に腰を下ろし、背もたれ代わりに毛布の束へ身体を預けた。
まるで遠足にでも行く前のような気楽な姿勢だった。
だが視線だけは、まだどこか遠い。
「どうした、喧嘩でもしたか? やめとけよ痴話喧嘩なんてしょうもない」
そう言いながら、自分も荷台の後ろへ回る。
勢いよく縁に足を掛け、一息でよじ登った。
がしゃん、と金属が小さく鳴る。
荷台に立つと軽く周囲を見渡し、適当な場所に腰を落ち着けた。
「ま、いいだろ」
短く言う。
「移動中は俺が見張っとく」
誠はそれを横目で確認し、美桜の方へ視線を戻した。
運転席の中で、彼女はまだ少し強張っている。
誠は助手席側へ回った。
ドアノブに手を掛ける。
一瞬だけ、冷たい金属の感触が現実を引き戻した。
ガチャ、と音を立てて扉を開ける。
そのまま身体を滑り込ませるように乗り込んだ。
シートは硬く、無骨だ。
エンジンの匂いと、夜気と、どこか油のような匂いが混ざっている。
ドアを閉めると、外の音が少しだけ遠くなった。
誠はシートベルトを引き出しながら言う。
「えっと、すいません先生。お願いします」
美桜は小さく頷いた。
震えていた指先が、意識して力を込めたようにハンドルを握り直す。
「ええ……市役所よね」
キーが回る。
エンジンが低く唸り、車体がわずかに震えた。
ヘッドライトが夜の駐車場を白く切り裂く。
次の瞬間、ピックアップトラックはゆっくりと動き出した。
砂利を噛むタイヤの音が、静かな校舎裏に響く。
最初は慎重だった。
だが敷地を出て道路に乗る頃には、動きは驚くほど滑らかになっていた。
「意外ですね。先生はなんて言うか、可愛い車に乗ってるイメージでした」
誠は思わず横目で美桜を見る。
彼女の視線はまっすぐ前を向いている。
さっきまでの不安げな表情は残っているが、運転そのものには迷いがない。
「おっきい車の方が可愛いでしょう?」
「え? あ、はあ」
ハンドル操作も、アクセルの踏み込みも的確だった。
車体は大きい。
だが取り回しは実に安定している。
夜の街を、トラックは快適な速度で進んでいく。
信号はほとんど意味を失っていた。
交差点も無人だ。
倒れた看板。
放置された車。
どこかで割れたガラスが風に鳴る。
それでも美桜は落ち着いてハンドルを操り、迷いなく進路を選んでいく。
後方では、荷台の鉄板が時折きしむ音がした。
ランサーが動いているのだろう。
マリアは何も言わない。
風が吹き抜ける音だけが続く。
やがて、前方に暗い巨大な影が見えてきた。
市役所だった。
無機質なコンクリートの建物が、夜の中に沈んでいる。
駐車場は広く、がらんとしていた。
トラックはそのまま敷地に入り、建物の裏手へ回る。
目当ての場所はすぐに見つかった。
備蓄倉庫。
頑丈そうなシャッター付きの建物が並んでいる。
美桜は車をその一つの正面に停めた。
エンジン音が止まり、夜が戻る。
「……ここ、だよね」
「はい、多分」
誠はドアを開けながら答えた。
冷たい空気が流れ込む。
外へ出ると、荷台から先にランサーが飛び降りていた。
着地音が重い。
槍を肩に担いだまま、倉庫の前へ歩いていく。
「鍵なんざ気にする必要ねえな」
軽く言う。
次の瞬間。
槍が閃いた。
金属を突き破る鈍い音が響く。
鍵の部分が、あっさりと破壊された。
ランサーはそのままシャッターの縁に手を掛ける。
「せーの」
力任せに持ち上げる。
ガラガラと重たい音が夜に広がった。
中は暗かった。
だが奥行きがある。
棚の影が並んでいるのが分かる。
トラックのヘッドライトがそのまま倉庫の奥を照らし出した。
白い光の帯が、整然と並ぶ棚を浮かび上がらせる。
誠は思わず息を吐く。
「……あるな」
棚には、想像以上に多くの物資が残っていた。
段ボール箱に詰められた備蓄米。
透明なビニール越しに白く積まれた袋。
その横にはペットボトルの飲料水がケースごと積み上がっている。
乾パンやレトルト食品、缶詰。
見慣れた災害用の備蓄品が、几帳面なラベル付きで並んでいた。
埃は薄く積もっているが、荒らされた形跡はほとんどない。
誰もここまで手を回せなかったのだろう。
「当面の心配は無さそうだな」
誠が呟く。
ランサーは満足そうに鼻を鳴らした。
「大当たりだ」
すぐに荷台のコンテナを降ろし始める。
「先生、悪いが手伝ってくれ」
「……ええ」
美桜はまだ少し顔色が悪いままだが、頷いて車を降りた。
ランサーは慣れた手つきで効率よく積み込み始めた。
米。
水。
保存食。
必要なものから迷いなく選んでいく。
やがて、誠とマリアの方へ振り向いた。
「お前らは軽く見回ってくれ」
槍の柄で棚を軽く叩きながら言う。
「電池とか毛布とか、他にも使えそうなもんがねえか確認だ」
「分かった」
誠は頷いた。
マリアは何も言わない。
ただ静かに歩き出す。
倉庫の奥へ進む。
ヘッドライトの届かない場所は暗い。
誠は壁際に掛けられていた非常用の懐中電灯を手に取り、スイッチを入れた。
弱い光が灯る。
それでも十分だった。
棚を一つずつ確認していく。
電池。
毛布。
簡易ランタン。
棚に整然と積まれた物資を確認しながら、誠は少しだけ気を緩めかけていた。
その時、倉庫のさらに奥——光の届かない暗がりの向こうで、ごそりと何かが動いた。
誠の足が止まる。
「……今、聞こえたか」
小さく呟く。
次の瞬間だった。
マリアの気配が変わる。
空気が、張り詰めた。
さっきまでのぼんやりした様子は消え、瞳が鋭く細まる。
無言のまま一歩踏み出し、誠の前に立つ。
腕を横へ伸ばし、静かに制した。
——下がって。
言葉にしない命令だった。
誠は反射的に半歩後ろへ退く。
心臓の鼓動が急に速くなる。
マリアは音のした方向を見据えたまま、ゆっくり歩き出した。
足音はほとんどしない。
倉庫の奥はさらに暗い。
誠は懐中電灯を握り直す。
喉が乾く。
「……照らすぞ」
小声で言う。
マリアがほんの僅かに頷いた。
二人は慎重に近づく。
棚の陰。
崩れた段ボール。
積まれた毛布の山。
そのさらに奥。
また——音がした。
低い。
湿ったような。
喉の奥で擦れるような唸り声。
誠の背筋に冷たいものが走る。
懐中電灯のスイッチを強く押し込んだ。
光が闇を切り裂く。
その瞬間だった。
「……っ」
誠の息が止まる。
そこにいたのは——人だった。
複数。
互いに身体を寄せ合い、壁際に身を縮めている。
隠れるように。
だが同時に、逃げ場を失った獣のようにも見えた。
唸っている。
低く。
喉を震わせながら。
目が血走っていた。
焦点が定まっていない。
口元には涎が滲み、呼吸は荒く、身体は小刻みに震えている。
指先が床を掻いていた。
痛みに耐えているのか、衝動を抑えているのか分からない動きだった。
誠の脳裏に、ある光景が重なる。
紫村秀則の母。
あの、苦しげに身を捩っていた姿。
灰原で蔓延している、あの病。
マリアは何も言わない。
ただ静かに前へ出る。
守るように誠の前に立ったまま、目だけで状況を測っている。
感染者たちは光を向けられたことで一斉に反応した。
顔がこちらへ向く。
ぎょろりとした目。
だが完全に理性を失っているわけではないのか、すぐには飛びかかってこない。
怯えている。
苦しんでいる。
それでも唸り続けている。
人間と獣の境界で揺れているような姿だった。
次の瞬間だった。
マリアの右手が、静かに持ち上がる。
躊躇は——一切なかった。
ためらいも、迷いも、確認も。
何一つない。
ただ、そうするのが当然であるみたいに、掌が闇へ向けられる。
「……マリア?」
誠が声をかける。
だが、返事はない。
掌の上に、光が集まり始めた。
淡い。
青白い。
極地の夜空を裂く極光みたいな、冷たい光だった。
空気が、ひゅう、と細く鳴る。
倉庫の暗がりがその輝きで押しのけられ、感染者たちの血走った眼と、痙攣するように揺れる身体が、はっきり浮かび上がる。
唸り声が、強くなる。
獣のように。
苦鳴のように。
誠の喉が、ひきつった。
「お、おい——」
言い終わるより早く。
マリアの掌が、わずかに傾いた。
——閃光。
極光が、そのまま一本の光線となって放たれる。
音は、遅れて来た。
轟音ではない。
空気ごと灼き裂くような、低く鋭い唸りだった。
青白い光が、倉庫の奥を一瞬で塗り潰す。
誠は反射で目を細める。
目の前の闇が、消える。
感染者たちの影が、光の中に黒く焼き付く。
次の瞬間。
——消えた。
いや。
焼けた。
人だったものが、ひと塊の火と光に呑まれ、そのまま崩れ落ちる。
肉の焼ける匂い。
焦げた布の臭い。
壁際の段ボールが一瞬だけ赤く照らされ、すぐに暗闇へ戻る。
光が消えた時には、そこにいたはずの複数の感染者たちは——
もう、人の形をしていなかった。
黒く縮れた炭の塊。
崩れた骨格。
床にへばりつくような灰。
かすかに火種が赤く残っているだけだ。
「……は」
誠の口から、間の抜けた息が漏れた。
理解が、遅れる。
あまりにも早かった。
あまりにも、容赦がなかった。
マリアは、掌を下ろした。
ただそれだけの動作だった。
荒い呼吸もない。
罪悪感を見せるでもない。
淡々とした後ろ姿。
誠は数秒、その場で固まっていた。
それから、ようやく我に返る。
「……お、おい!」
声が裏返る。
思わず前へ出る。
「何やって——」
マリアが振り向く。
誠はそのまま詰め寄った。
「他にやりよう、あっただろ!」
怒鳴りに近かった。
自分でも分かるほど、動揺していた。
「まだ襲ってきてもなかった! 縛るとか、逃がすとか、せめて——」
言葉が続かない。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。
ただ、目の前で人間だったものが消し炭にされた、その事実だけが喉に引っかかっていた。
あの時と同じだ。
紫村秀則の母を灼き殺した時と同様の、躊躇なき殺害。
マリアは、何も言わない。
反論もしない。
誠はさらに一歩踏み出しかけて——
止まった。
マリアの目が、伏せられていた。
静かに。
ひどく静かに。
まるで、祈るみたいに。
あるいは——懺悔するみたいに。
長い睫毛が影を落とし、その横顔には、いつもの飄々とした笑みがなかった。
冷たくもない。
怒ってもいない。
ただ、深いところで何かを受け止めているような顔だった。
掌はまだ微かに熱を残しているのか、青白い残光が指先に薄く滲んでいる。
その手を、マリアは胸の前で静かに閉じた。
「……」
誠の喉が詰まる。
責める言葉が、急に行き場を失った。
言えるはずだった。
もっと何か。
残酷だとか、早すぎるとか、他にも手はあっただろうとか。
なのに。
その伏せられた目を見た瞬間、全部が空中で砕けた。
マリアは、小さく息を吐いた。
それは言い訳でも説明でもない。
ただ、ほんの少しだけ重たい息だった。
誠は、拳を握ったまま立ち尽くしていた。
焦げ臭さが鼻にこびりついて離れない。
床に残った黒い塊。
まだ赤く燻る火種。
ついさっきまで、そこには確かに人がいた。
苦しんでいた。
怯えていた。
少なくとも、そう見えた。
なのに。
マリアは、また何も言わない。
紫村の母の時もそうだった。
今回もそうだ。
やるだけやって、何一つ言い訳しようとしない。
そのことが、かえって誠の中の何かを逆撫でした。
「……何で黙ってんだよ」
低い声だった。
さっきみたいに怒鳴る勢いはない。
その代わり、もっと芯のところが冷えていた。
マリアは、伏せていた目をゆっくり上げる。
青白い残光は、もうほとんど消えていた。
それでも指先には、まだ微かな熱の気配が残っている。
誠は一歩、詰め寄った。
「紫村の母親の時も、今もそうだ」
唇が、乾く。
「殺したなら、せめて何か言えよ」
視線が揺れる。
怒りだけじゃない。
理解したいという焦りが混じっていた。
「助からなかったとか、危険だったとか、そういうのでもいい。なのに、お前……」
一拍。
「何で、いつも何も言い訳しないんだよ」
倉庫の奥は静かだった。
ランサーたちのいる入口付近から、遠く金属の擦れる音がかすかに聞こえる。
だが、ここだけは切り離されたみたいに重い。
マリアはしばらく黙っていた。
それから、ようやく口を開く。
「……言い訳が必要ですか?」
静かな声だった。
誠の眉が寄る。
「必要だろ」
「そうですか」
マリアは、責めるでもなく返す。
感情を抑えた声だった。
だが冷たいわけではない。
むしろ、必要なものだけを選んで話そうとしている声だった。
「彼らは、獣の病の罹患者です」
その一言で、誠の喉が詰まる。
マリアは続けた。
「一度、発症してしまえば、もう回復することはありません」
誠は、すぐには言葉を返せなかった。
「……絶対に、か」
「はい」
即答だった。
「少なくとも、私の知る限りにおいては」
マリアは、床に残る炭の方へ一瞬だけ目を向ける。
「放っておけば、やがて更なる変貌を遂げます」
静かに。
事実を読み上げるみたいに。
「より強く、より飢え、より人から遠ざかった怪物へ」
誠の脳裏に、灰原のあちこちで見てきた異形がよぎる。
人だったもの。
理性を削られ、歪み、別の何かへ成り果てたもの。
「そうなれば、さらに多くの犠牲が出る」
マリアの声に、わずかな揺らぎもない。
「だから、処置しなければならないのです」
誠は、唇を噛んだ。
「処置って……」
口にした瞬間、その言葉の冷たさにぞっとする。
だが、マリアはそれを言い換えない。
「ええ」
ただ、頷く。
「これは治療ではありません。救済でもありません」
一拍。
「処置です」
その言葉が、倉庫の冷気よりも冷たく落ちた。
誠は視線を逸らしそうになって、逸らせなかった。
マリアは、そのまま誠を見る。
「貴方が怒るのは当然です」
「……だったら」
「ですが」
誠の言葉を、静かに遮る。
「それでも、私はやらなければならない」
今度の声には、ほんの少しだけ重みがあった。
ただの説明ではない。
そこに、意志が混じる。
「この病は、私のいた世界を由来とするものです」
誠が、はっと顔を上げる。
「……お前の、世界」
「ええ」
マリアは頷いた。
「太陽を覆うリング、色の無い霧と同様。本来、この世界には存在しない災厄の一つです」
その言い方で、誠はようやく理解する。
これは、ただ灰原で偶然広がった奇病ではない。
別の世界から、灰原誠を通じて流れ込んだもの。
持ち込まれたもの。
血と獣、神々の執着に満ちた世界から。
人の生活の中に入り込み、名前も知らない誰かの家族を壊し、避難所の片隅に怯えたまま隠れていた人間まで、ああして怪物の手前まで追い詰めている。
誠は、焦げた床を見る。
そして、ゆっくりと自分の胸元へ手をやった。
その内側にあるもの。
ずっと、自分の中に埋め込まれたままの、あの異物。
聖杯。
結局、全部そこへ戻っていく。
自分が生き残ったから。
先輩に殺され損ねたから。
聖杯が、まだ自分の中にあるから。
それが、全部の中心にある。
誠の口元が、ひどく乾いた。
「……結局さ」
声が、やけに薄かった。
マリアが静かに視線を向ける。
誠は、彼女を見ないまま言った。
「俺が、俺の中の聖杯が……全部の諸悪の根源なんだろ」
口にしてしまうと、あまりにも単純で、あまりにも救いがなかった。
聖杯戦争なんてものが始まったのも。
灰原が歪み始めたのも。
紫村秀則の母親が死んだのも。
人が壊れ、怪物になり、誰かが誰かを殺さなければならなくなったのも。
全部、そこへ繋がっていく。
誠は、笑おうとして失敗した。
「……だったらさ」
喉が、引きつる。
「俺、あの時」
一拍。
「先輩に殺されるべきだったのかな」
言ってしまった瞬間、自分でその言葉の重さに少しだけ息が止まった。
ひどく静かな声だった。
悲鳴でもなく、泣き言でもなく。
ただ、疲れきった果てに零れた本音みたいな声だった。
倉庫の奥で、何かが小さく崩れる。
マリアはすぐには答えなかった。
ただ一歩、誠へ近づく。
その足音は、とても小さい。
次の瞬間。
柔らかな手が、誠の頭に触れた。
「……っ」
誠が目を見開く。
マリアの手だった。
熱を焼き尽くしたばかりの手のはずなのに、不思議と今は静かで、優しかった。
指先が、そっと髪を撫でる。
子どもをあやすように。
壊れものに触れるみたいに。
誠は思わず動けなくなる。
マリアは、慈しむような顔でこちらを見ていた。
いつもの薄い笑みではない。
もっと柔らかくて、もっと深い、どうしようもなく優しい表情だった。
「子どもが」
静かな声。
「そんなことを言うものではありませんよ」
責める響きはなかった。
ただ、その言葉だけは言わせないと決めているような声だった。
誠は、反論できなかった。
聖杯があるのは事実だ。
自分が原因の一部なのも、多分そうだ。
それでも、その言葉だけは違うのだと、マリアは何の理屈もなく否定した。
頭を撫でる手が、もう一度だけゆっくり動く。
「貴方が死ぬべきだった、などと」
マリアは小さく首を振る。
「少なくとも、私は認めません」
それだけ言うと、彼女はそっと手を離した。
まるで一瞬だけ見せたものを、また奥へ仕舞い込むみたいに。
次の瞬間には、いつもの調子へ戻っている。
「……さて」
床に目を落とす。
焦げ跡の向こう、棚に積まれた物資へ視線を向けた。
「あまり長居してもよくありませんね」
そう言って、近くにあった箱を軽々と抱え上げる。
電池の入ったケースと、毛布の入った段ボールを躊躇なく纏め持つ。
誠も、半拍遅れて動いた。
まだ胸の奥に重さは残っている。
焦げ臭さも、マリアの言葉も、頭のどこかに引っかかったままだ。
それでも今は手を動かすしかない。
誠は近くの棚から保存用の乾電池が詰まった箱と、簡易ランタンの入ったケースを抱え上げた。見た目以上に重い。腕にずしりと負荷がかかる。
「……そっちは持てるか」
「ええ」
マリアは淡々と答えた。
両腕に抱えた物資の量は、誠の倍はある。なのに足取りは少しもぶれない。
二人は、倉庫の奥を後にした。
入口へ戻るにつれ、外から差し込むヘッドライトの白さが強くなる。ランサーの声と、美桜が箱をずらす物音も聞こえてきた。現実へ引き戻されるような、慌ただしい生活の音だった。
棚の間を抜け、入口の広い空間へ出た瞬間。
「お、戻ったか」
ランサーが振り向いた。
荷台は、もうかなり埋まっていた。
米袋が下に敷かれ、その上に飲料水のケースが並び、隙間へ缶詰や乾パンの箱が押し込まれている。毛布やロープで固定まで始まっていて、素人目に見てもかなり手際がいい。
誠の抱えている箱と、マリアの腕の中の大量の備蓄品を見て、ランサーは目を丸くした。
「そっちも大量だな」
「電池と毛布、簡易ランタンです」
マリアが答える。
「当面は役に立つでしょう」
「上出来だ」
ランサーは顎で荷台を示した。
「その辺、空いてるとこに詰めてくれ。毛布は上、電池は奥だ」
誠は言われた通り、荷台の横へ回った。
腕が少し痺れている。
箱を持ち上げ、ランサーと一緒に空いた隙間へ押し込む。美桜も無言で手を貸した。まだ顔色は悪いが、動きそのものはしっかりしている。
段ボールが擦れる音。
ロープが引かれる音。
金属の荷台が、重みで小さく軋む。
マリアは毛布の箱を軽々と持ち上げると、荷台の後方へ丁寧に収めた。ランサーがそれをすぐにロープで固定する。
「よし」
最後にランサーが荷台を軽く叩く。
「これなら十分持ち帰れ——」
そこで言葉を切り、周囲を一瞥した。
静かだった。
市役所の裏手。
風が、シャッターの縁を撫でる。
遠くで何かが軋んだような音がしたが、それ以上は何もない。
誠はようやく息を吐いた。
「帰れる、か」
「さっさと帰ろうぜ」
ランサーは荷台へ片足を掛ける。
「長居したい場所じゃねえ」
その通りだった。
誠は助手席側へ回る。
さっき来た時と同じように、無骨なドアの前で足を止めた。ドアノブに手を掛ける。冷えた金属が手のひらに触れる。
乗り込もうとした、その瞬間。
「何故——マスター、避けて!」
マリアの声が、鋭く響いた。
驚いたような顔で叫んでいる。
いつもの柔らかな調子ではない。
次の瞬間、誠の身体が地面から引き剥がされた。
見えない何かが、腰のあたりを乱暴に攫った。