Fate/You Died.   作:助兵衛

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第69話 不可視の腕

 校長室を辞したあと、誠とランサーは再び夜の廊下を歩いていた。

 

 扉が閉まる。

 

 中の灯りと、ラニの青い肌と、褪せ人の穏やかな目が、ひとまず向こう側へ隔てられる。

 

 けれど、見たものまで消えるわけではない。

 

 誠は前を向いたまま、長く息を吐いた。

 

「……なんなんだよ、もう」

 

 思わず零れた声は、独り言にしては少し大きかった。

 

 非常灯の白い明かりが、床に長く伸びる二人の影を淡く照らしている。

 

 廊下の向こうでは、誰かが寝返りを打つ音がした。

 

 毛布の擦れる気配。

 

 低い咳。

 

 避難所の夜は静かなのに、完全には眠っていない。

 

 誠は、その中を歩きながら眉間を押さえた。

 

「敵だと思ってたやつが別側面でした、実は今は避難所のまとめ役です、しかも異形の女と夫婦みたいなもんです、灰原の人間の味方です……って」

 

 一つ一つ口にするたび、馬鹿みたいに聞こえる。

 

 いや、実際かなり馬鹿みたいだった。

 

 馬鹿みたいなのに、全部現実だ。

 

「勢力図が、もうめちゃくちゃだろ」

 

 誠は天井を仰ぎかけて、やめた。

 

 仰いだところで蛍光灯の消えた天井があるだけだ。

 

 自分で言って、ひどく疲れた。

 

 胃の奥がまた少しだけ重くなる。

 

 誠は、もう一度ため息をついた。

 

「聖杯戦争って黒野の話だと、分かりやすく殺し合うものだったんだけどな」

 

 ランサーが隣で鼻を鳴らした。

 

「ま、死なねえしな」

 

「それはそうだけどさ」

 

 複雑になりすぎた現状も、ぐちゃぐちゃの勢力図も、今すぐ整理なんてできない。

 

 できないが、とりあえず腹は減るし、食い物は要る。

 

 今は、それで十分だった。

 

 階段を下りると、外気がはっきりと変わった。

 

 校舎の中のぬるい空気とは違う。

 

 夜の冷えた風が、頬に触れる。

 

 誠は思わず肩をすくめた。

 

 ランサーは慣れた様子で先を歩く。

 

 裏口を抜けると、校庭の端へ出た。

 

 天幕の白が闇の中に浮かび、ランタンの灯りが点々と揺れている。

 

 遠くで誰かが話している。

 

 見張りの人影がゆっくり動く。

 

 避難所として息づく夜の風景だった。

 

 そこからさらに裏手へ回る。

 

 校舎の影に入ると、急に人の気配が減った。

 

 砂利を踏む音だけがやけに大きく聞こえる。

 

 やがて、駐車場が見えてきた。

 

 街灯は半分ほどしか点いていない。

 

 薄暗い空間に、ぽつんと一台だけ異様に存在感のある車が停まっていた。

 

 無骨なピックアップトラックだった。

 

 荷台にはロープや毛布や空のコンテナが雑に積まれている。

 

 戦場の即席輸送車のような雰囲気だ。

 

 その運転席に——

 

 赤城美桜が座っていた。

 

 誠は足を止めかける。

 

 美桜の顔は、車内の灯りに照らされてはっきり見えた。

 

 ひどく不安そうだった。

 

 ハンドルに手を置いたまま、視線が落ち着かない。

 

 窓の外を何度も確認し、指先がわずかに震えている。

 

 顔色もまだ悪い。

 

 戻ってきたとはいえ、完全に回復しているわけではないのだろう。

 

 それでも待っている。

 

 逃げずに、ここにいる。

 

 誠は、その姿を見て少しだけ胸の奥がざわついた。

 

「……先生」

 

 小さく呟く。

 

 その時だった。

 

 車の横の影が、ゆっくりと動く。

 

 誠は視線をそちらへ向けた。

 

 マリアがいた。

 

 いつの間に霊体化を解いたのか、実体を伴った姿でピックアップトラックに寄りかかっている。

 

 腕を組み、片足を軽く曲げ、背中を車体に預けていた。

 

 そして——

 

 ぼーっとしていた。

 

 視線はどこか遠く。

 

 夜空なのか、校舎の屋根なのか、あるいはもっと別の何かを見ているのか分からない。

 

 戦闘中の鋭さも、緊張もない。

 

 ただ静かに、思考の奥へ沈んでいるような顔だった。

 

 誠は思わず眉を寄せる。

 

「……大丈夫か、あの人形を見てからずっと様子が変だぞ」

 

 誠の問いに、マリアは一瞬だけ視線を戻した。

 

 夜気に濡れたような静かな瞳だった。

 

 だが次の瞬間には、いつもの柔らかな微笑がそこに戻る。

 

「……何でもありませんよ」

 

 軽く首を振る。

 

 それ以上は何も言わない。

 

 はぐらかすように言葉を切ると、そのままトラックの後ろへ回った。

 

 荷台の縁に手を掛ける。

 

 軽い動作だった。

 

 長い髪が揺れる。

 

 するり、と身体を持ち上げ、迷いなく荷台へ乗り込む。

 

 中に置かれたコンテナの上に腰を下ろし、背もたれ代わりに毛布の束へ身体を預けた。

 

 まるで遠足にでも行く前のような気楽な姿勢だった。

 

 だが視線だけは、まだどこか遠い。

 

「どうした、喧嘩でもしたか? やめとけよ痴話喧嘩なんてしょうもない」

 

 そう言いながら、自分も荷台の後ろへ回る。

 

 勢いよく縁に足を掛け、一息でよじ登った。

 

 がしゃん、と金属が小さく鳴る。

 

 荷台に立つと軽く周囲を見渡し、適当な場所に腰を落ち着けた。

 

「ま、いいだろ」

 

 短く言う。

 

「移動中は俺が見張っとく」

 

 誠はそれを横目で確認し、美桜の方へ視線を戻した。

 

 運転席の中で、彼女はまだ少し強張っている。

 

 誠は助手席側へ回った。

 

 ドアノブに手を掛ける。

 

 一瞬だけ、冷たい金属の感触が現実を引き戻した。

 

 ガチャ、と音を立てて扉を開ける。

 

 そのまま身体を滑り込ませるように乗り込んだ。

 

 シートは硬く、無骨だ。

 

 エンジンの匂いと、夜気と、どこか油のような匂いが混ざっている。

 

 ドアを閉めると、外の音が少しだけ遠くなった。

 

 誠はシートベルトを引き出しながら言う。

 

「えっと、すいません先生。お願いします」

 

 美桜は小さく頷いた。

 

 震えていた指先が、意識して力を込めたようにハンドルを握り直す。

 

「ええ……市役所よね」

 

 キーが回る。

 

 エンジンが低く唸り、車体がわずかに震えた。

 

 ヘッドライトが夜の駐車場を白く切り裂く。

 

 次の瞬間、ピックアップトラックはゆっくりと動き出した。

 

 砂利を噛むタイヤの音が、静かな校舎裏に響く。

 

 最初は慎重だった。

 

 だが敷地を出て道路に乗る頃には、動きは驚くほど滑らかになっていた。

 

「意外ですね。先生はなんて言うか、可愛い車に乗ってるイメージでした」

 

 誠は思わず横目で美桜を見る。

 

 彼女の視線はまっすぐ前を向いている。

 

 さっきまでの不安げな表情は残っているが、運転そのものには迷いがない。

 

「おっきい車の方が可愛いでしょう?」

 

「え? あ、はあ」

 

 ハンドル操作も、アクセルの踏み込みも的確だった。

 

 車体は大きい。

 

 だが取り回しは実に安定している。

 

 夜の街を、トラックは快適な速度で進んでいく。

 

 信号はほとんど意味を失っていた。

 

 交差点も無人だ。

 

 倒れた看板。

 

 放置された車。

 

 どこかで割れたガラスが風に鳴る。

 

 それでも美桜は落ち着いてハンドルを操り、迷いなく進路を選んでいく。

 

 後方では、荷台の鉄板が時折きしむ音がした。

 

 ランサーが動いているのだろう。

 

 マリアは何も言わない。

 

 風が吹き抜ける音だけが続く。

 

 やがて、前方に暗い巨大な影が見えてきた。

 

 市役所だった。

 

 無機質なコンクリートの建物が、夜の中に沈んでいる。

 

 駐車場は広く、がらんとしていた。

 

 トラックはそのまま敷地に入り、建物の裏手へ回る。

 

 目当ての場所はすぐに見つかった。

 

 備蓄倉庫。

 

 頑丈そうなシャッター付きの建物が並んでいる。

 

 美桜は車をその一つの正面に停めた。

 

 エンジン音が止まり、夜が戻る。

 

「……ここ、だよね」

 

「はい、多分」

 

 誠はドアを開けながら答えた。

 

 冷たい空気が流れ込む。

 

 外へ出ると、荷台から先にランサーが飛び降りていた。

 

 着地音が重い。

 

 槍を肩に担いだまま、倉庫の前へ歩いていく。

 

「鍵なんざ気にする必要ねえな」

 

 軽く言う。

 

 次の瞬間。

 

 槍が閃いた。

 

 金属を突き破る鈍い音が響く。

 

 鍵の部分が、あっさりと破壊された。

 

 ランサーはそのままシャッターの縁に手を掛ける。

 

「せーの」

 

 力任せに持ち上げる。

 

 ガラガラと重たい音が夜に広がった。

 

 中は暗かった。

 

 だが奥行きがある。

 

 棚の影が並んでいるのが分かる。

 

 トラックのヘッドライトがそのまま倉庫の奥を照らし出した。

 

 白い光の帯が、整然と並ぶ棚を浮かび上がらせる。

 

 誠は思わず息を吐く。

 

「……あるな」

 

 棚には、想像以上に多くの物資が残っていた。

 

 段ボール箱に詰められた備蓄米。

 

 透明なビニール越しに白く積まれた袋。

 

 その横にはペットボトルの飲料水がケースごと積み上がっている。

 

 乾パンやレトルト食品、缶詰。

 

 見慣れた災害用の備蓄品が、几帳面なラベル付きで並んでいた。

 

 埃は薄く積もっているが、荒らされた形跡はほとんどない。

 

 誰もここまで手を回せなかったのだろう。

 

「当面の心配は無さそうだな」

 

 誠が呟く。

 

 ランサーは満足そうに鼻を鳴らした。

 

「大当たりだ」

 

 すぐに荷台のコンテナを降ろし始める。

 

「先生、悪いが手伝ってくれ」

 

「……ええ」

 

 美桜はまだ少し顔色が悪いままだが、頷いて車を降りた。

 

 

 ランサーは慣れた手つきで効率よく積み込み始めた。

 

 米。

 

 水。

 

 保存食。

 

 必要なものから迷いなく選んでいく。

 

 やがて、誠とマリアの方へ振り向いた。

 

「お前らは軽く見回ってくれ」

 

 槍の柄で棚を軽く叩きながら言う。

 

「電池とか毛布とか、他にも使えそうなもんがねえか確認だ」

 

「分かった」

 

 誠は頷いた。

 

 マリアは何も言わない。

 

 ただ静かに歩き出す。

 

 倉庫の奥へ進む。

 

 ヘッドライトの届かない場所は暗い。

 

 誠は壁際に掛けられていた非常用の懐中電灯を手に取り、スイッチを入れた。

 

 弱い光が灯る。

 

 それでも十分だった。

 

 棚を一つずつ確認していく。

 

 電池。

 

 毛布。

 

 簡易ランタン。

 

 棚に整然と積まれた物資を確認しながら、誠は少しだけ気を緩めかけていた。

 

 その時、倉庫のさらに奥——光の届かない暗がりの向こうで、ごそりと何かが動いた。

 

 誠の足が止まる。

 

「……今、聞こえたか」

 

 小さく呟く。

 

 次の瞬間だった。

 

 マリアの気配が変わる。

 

 空気が、張り詰めた。

 

 さっきまでのぼんやりした様子は消え、瞳が鋭く細まる。

 

 無言のまま一歩踏み出し、誠の前に立つ。

 

 腕を横へ伸ばし、静かに制した。

 

 ——下がって。

 

 言葉にしない命令だった。

 

 誠は反射的に半歩後ろへ退く。

 

 心臓の鼓動が急に速くなる。

 

 マリアは音のした方向を見据えたまま、ゆっくり歩き出した。

 

 足音はほとんどしない。

 

 倉庫の奥はさらに暗い。

 

 誠は懐中電灯を握り直す。

 

 喉が乾く。

 

「……照らすぞ」

 

 小声で言う。

 

 マリアがほんの僅かに頷いた。

 

 二人は慎重に近づく。

 

 棚の陰。

 

 崩れた段ボール。

 

 積まれた毛布の山。

 

 そのさらに奥。

 

 また——音がした。

 

 低い。

 

 湿ったような。

 

 喉の奥で擦れるような唸り声。

 

 誠の背筋に冷たいものが走る。

 

 懐中電灯のスイッチを強く押し込んだ。

 

 光が闇を切り裂く。

 

 その瞬間だった。

 

「……っ」

 

 誠の息が止まる。

 

 そこにいたのは——人だった。

 

 複数。

 

 互いに身体を寄せ合い、壁際に身を縮めている。

 

 隠れるように。

 

 だが同時に、逃げ場を失った獣のようにも見えた。

 

 唸っている。

 

 低く。

 

 喉を震わせながら。

 

 目が血走っていた。

 

 焦点が定まっていない。

 

 口元には涎が滲み、呼吸は荒く、身体は小刻みに震えている。

 

 指先が床を掻いていた。

 

 痛みに耐えているのか、衝動を抑えているのか分からない動きだった。

 

 誠の脳裏に、ある光景が重なる。

 

 紫村秀則の母。

 

 あの、苦しげに身を捩っていた姿。

 

 灰原で蔓延している、あの病。

 

 マリアは何も言わない。

 

 ただ静かに前へ出る。

 

 守るように誠の前に立ったまま、目だけで状況を測っている。

 

 感染者たちは光を向けられたことで一斉に反応した。

 

 顔がこちらへ向く。

 

 ぎょろりとした目。

 

 だが完全に理性を失っているわけではないのか、すぐには飛びかかってこない。

 

 怯えている。

 

 苦しんでいる。

 

 それでも唸り続けている。

 

 人間と獣の境界で揺れているような姿だった。

 

 次の瞬間だった。

 

 マリアの右手が、静かに持ち上がる。

 

 躊躇は——一切なかった。

 

 ためらいも、迷いも、確認も。

 

 何一つない。

 

 ただ、そうするのが当然であるみたいに、掌が闇へ向けられる。

 

「……マリア?」

 

 誠が声をかける。

 

 だが、返事はない。

 

 掌の上に、光が集まり始めた。

 

 淡い。

 

 青白い。

 

 極地の夜空を裂く極光みたいな、冷たい光だった。

 

 空気が、ひゅう、と細く鳴る。

 

 倉庫の暗がりがその輝きで押しのけられ、感染者たちの血走った眼と、痙攣するように揺れる身体が、はっきり浮かび上がる。

 

 唸り声が、強くなる。

 

 獣のように。

 

 苦鳴のように。

 

 誠の喉が、ひきつった。

 

「お、おい——」

 

 言い終わるより早く。

 

 マリアの掌が、わずかに傾いた。

 

 ——閃光。

 

 極光が、そのまま一本の光線となって放たれる。

 

 音は、遅れて来た。

 

 轟音ではない。

 

 空気ごと灼き裂くような、低く鋭い唸りだった。

 

 青白い光が、倉庫の奥を一瞬で塗り潰す。

 

 誠は反射で目を細める。

 

 目の前の闇が、消える。

 

 感染者たちの影が、光の中に黒く焼き付く。

 

 次の瞬間。

 

 ——消えた。

 

 いや。

 

 焼けた。

 

 人だったものが、ひと塊の火と光に呑まれ、そのまま崩れ落ちる。

 

 肉の焼ける匂い。

 

 焦げた布の臭い。

 

 壁際の段ボールが一瞬だけ赤く照らされ、すぐに暗闇へ戻る。

 

 光が消えた時には、そこにいたはずの複数の感染者たちは——

 

 もう、人の形をしていなかった。

 

 黒く縮れた炭の塊。

 

 崩れた骨格。

 

 床にへばりつくような灰。

 

 かすかに火種が赤く残っているだけだ。

 

「……は」

 

 誠の口から、間の抜けた息が漏れた。

 

 理解が、遅れる。

 

 あまりにも早かった。

 

 あまりにも、容赦がなかった。

 

 マリアは、掌を下ろした。

 

 ただそれだけの動作だった。

 

 荒い呼吸もない。

 

 罪悪感を見せるでもない。

 

 淡々とした後ろ姿。

 

 誠は数秒、その場で固まっていた。

 

 それから、ようやく我に返る。

 

「……お、おい!」

 

 声が裏返る。

 

 思わず前へ出る。

 

「何やって——」

 

 マリアが振り向く。

 

 誠はそのまま詰め寄った。

 

「他にやりよう、あっただろ!」

 

 怒鳴りに近かった。

 

 自分でも分かるほど、動揺していた。

 

「まだ襲ってきてもなかった! 縛るとか、逃がすとか、せめて——」

 

 言葉が続かない。

 

 怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。

 

 ただ、目の前で人間だったものが消し炭にされた、その事実だけが喉に引っかかっていた。

 

 あの時と同じだ。

 紫村秀則の母を灼き殺した時と同様の、躊躇なき殺害。

 

 マリアは、何も言わない。

 

 反論もしない。

 

 誠はさらに一歩踏み出しかけて——

 

 止まった。

 

 マリアの目が、伏せられていた。

 

 静かに。

 

 ひどく静かに。

 

 まるで、祈るみたいに。

 

 あるいは——懺悔するみたいに。

 

 長い睫毛が影を落とし、その横顔には、いつもの飄々とした笑みがなかった。

 

 冷たくもない。

 

 怒ってもいない。

 

 ただ、深いところで何かを受け止めているような顔だった。

 

 掌はまだ微かに熱を残しているのか、青白い残光が指先に薄く滲んでいる。

 

 その手を、マリアは胸の前で静かに閉じた。

 

「……」

 

 誠の喉が詰まる。

 

 責める言葉が、急に行き場を失った。

 

 言えるはずだった。

 

 もっと何か。

 

 残酷だとか、早すぎるとか、他にも手はあっただろうとか。

 

 なのに。

 

 その伏せられた目を見た瞬間、全部が空中で砕けた。

 

 マリアは、小さく息を吐いた。

 

 それは言い訳でも説明でもない。

 

 ただ、ほんの少しだけ重たい息だった。

 

 誠は、拳を握ったまま立ち尽くしていた。

 

 焦げ臭さが鼻にこびりついて離れない。

 

 床に残った黒い塊。

 

 まだ赤く燻る火種。

 

 ついさっきまで、そこには確かに人がいた。

 

 苦しんでいた。

 

 怯えていた。

 

 少なくとも、そう見えた。

 

 なのに。

 

 マリアは、また何も言わない。

 

 紫村の母の時もそうだった。

 

 今回もそうだ。

 

 やるだけやって、何一つ言い訳しようとしない。

 

 そのことが、かえって誠の中の何かを逆撫でした。

 

「……何で黙ってんだよ」

 

 低い声だった。

 

 さっきみたいに怒鳴る勢いはない。

 

 その代わり、もっと芯のところが冷えていた。

 

 マリアは、伏せていた目をゆっくり上げる。

 

 青白い残光は、もうほとんど消えていた。

 

 それでも指先には、まだ微かな熱の気配が残っている。

 

 誠は一歩、詰め寄った。

 

「紫村の母親の時も、今もそうだ」

 

 唇が、乾く。

 

「殺したなら、せめて何か言えよ」

 

 視線が揺れる。

 

 怒りだけじゃない。

 

 理解したいという焦りが混じっていた。

 

「助からなかったとか、危険だったとか、そういうのでもいい。なのに、お前……」

 

 一拍。

 

「何で、いつも何も言い訳しないんだよ」

 

 倉庫の奥は静かだった。

 

 ランサーたちのいる入口付近から、遠く金属の擦れる音がかすかに聞こえる。

 

 だが、ここだけは切り離されたみたいに重い。

 

 マリアはしばらく黙っていた。

 

 それから、ようやく口を開く。

 

「……言い訳が必要ですか?」

 

 静かな声だった。

 

 誠の眉が寄る。

 

「必要だろ」

 

「そうですか」

 

 マリアは、責めるでもなく返す。

 

 感情を抑えた声だった。

 

 だが冷たいわけではない。

 

 むしろ、必要なものだけを選んで話そうとしている声だった。

 

「彼らは、獣の病の罹患者です」

 

 その一言で、誠の喉が詰まる。

 

 マリアは続けた。

 

「一度、発症してしまえば、もう回復することはありません」

 

 誠は、すぐには言葉を返せなかった。

 

「……絶対に、か」

 

「はい」

 

 即答だった。

 

「少なくとも、私の知る限りにおいては」

 

 マリアは、床に残る炭の方へ一瞬だけ目を向ける。

 

「放っておけば、やがて更なる変貌を遂げます」

 

 静かに。

 

 事実を読み上げるみたいに。

 

「より強く、より飢え、より人から遠ざかった怪物へ」

 

 誠の脳裏に、灰原のあちこちで見てきた異形がよぎる。

 

 人だったもの。

 

 理性を削られ、歪み、別の何かへ成り果てたもの。

 

「そうなれば、さらに多くの犠牲が出る」

 

 マリアの声に、わずかな揺らぎもない。

 

「だから、処置しなければならないのです」

 

 誠は、唇を噛んだ。

 

「処置って……」

 

 口にした瞬間、その言葉の冷たさにぞっとする。

 

 だが、マリアはそれを言い換えない。

 

「ええ」

 

 ただ、頷く。

 

「これは治療ではありません。救済でもありません」

 

 一拍。

 

「処置です」

 

 その言葉が、倉庫の冷気よりも冷たく落ちた。

 

 誠は視線を逸らしそうになって、逸らせなかった。

 

 マリアは、そのまま誠を見る。

 

「貴方が怒るのは当然です」

 

「……だったら」

 

「ですが」

 

 誠の言葉を、静かに遮る。

 

「それでも、私はやらなければならない」

 

 今度の声には、ほんの少しだけ重みがあった。

 

 ただの説明ではない。

 

 そこに、意志が混じる。

 

「この病は、私のいた世界を由来とするものです」

 

 誠が、はっと顔を上げる。

 

「……お前の、世界」

 

「ええ」

 

 マリアは頷いた。

 

「太陽を覆うリング、色の無い霧と同様。本来、この世界には存在しない災厄の一つです」

 

 その言い方で、誠はようやく理解する。

 

 これは、ただ灰原で偶然広がった奇病ではない。

 

 別の世界から、灰原誠を通じて流れ込んだもの。

 

 持ち込まれたもの。

 

 血と獣、神々の執着に満ちた世界から。

 

 人の生活の中に入り込み、名前も知らない誰かの家族を壊し、避難所の片隅に怯えたまま隠れていた人間まで、ああして怪物の手前まで追い詰めている。

 

 誠は、焦げた床を見る。

 

 そして、ゆっくりと自分の胸元へ手をやった。

 

 その内側にあるもの。

 

 ずっと、自分の中に埋め込まれたままの、あの異物。

 

 聖杯。

 

 結局、全部そこへ戻っていく。

 

 自分が生き残ったから。

 

 先輩に殺され損ねたから。

 

 聖杯が、まだ自分の中にあるから。

 

 それが、全部の中心にある。

 

 誠の口元が、ひどく乾いた。

 

「……結局さ」

 

 声が、やけに薄かった。

 

 マリアが静かに視線を向ける。

 

 誠は、彼女を見ないまま言った。

 

「俺が、俺の中の聖杯が……全部の諸悪の根源なんだろ」

 

 口にしてしまうと、あまりにも単純で、あまりにも救いがなかった。

 

 聖杯戦争なんてものが始まったのも。

 

 灰原が歪み始めたのも。

 

 紫村秀則の母親が死んだのも。

 

 人が壊れ、怪物になり、誰かが誰かを殺さなければならなくなったのも。

 

 全部、そこへ繋がっていく。

 

 誠は、笑おうとして失敗した。

 

「……だったらさ」

 

 喉が、引きつる。

 

「俺、あの時」

 

 一拍。

 

「先輩に殺されるべきだったのかな」

 

 言ってしまった瞬間、自分でその言葉の重さに少しだけ息が止まった。

 

 ひどく静かな声だった。

 

 悲鳴でもなく、泣き言でもなく。

 

 ただ、疲れきった果てに零れた本音みたいな声だった。

 

 倉庫の奥で、何かが小さく崩れる。

 

 マリアはすぐには答えなかった。

 

 ただ一歩、誠へ近づく。

 

 その足音は、とても小さい。

 

 次の瞬間。

 

 柔らかな手が、誠の頭に触れた。

 

「……っ」

 

 誠が目を見開く。

 

 マリアの手だった。

 

 熱を焼き尽くしたばかりの手のはずなのに、不思議と今は静かで、優しかった。

 

 指先が、そっと髪を撫でる。

 

 子どもをあやすように。

 

 壊れものに触れるみたいに。

 

 誠は思わず動けなくなる。

 

 マリアは、慈しむような顔でこちらを見ていた。

 

 いつもの薄い笑みではない。

 

 もっと柔らかくて、もっと深い、どうしようもなく優しい表情だった。

 

「子どもが」

 

 静かな声。

 

「そんなことを言うものではありませんよ」

 

 責める響きはなかった。

 

 ただ、その言葉だけは言わせないと決めているような声だった。

 

 誠は、反論できなかった。

 

 聖杯があるのは事実だ。

 

 自分が原因の一部なのも、多分そうだ。

 

 それでも、その言葉だけは違うのだと、マリアは何の理屈もなく否定した。

 

 頭を撫でる手が、もう一度だけゆっくり動く。

 

「貴方が死ぬべきだった、などと」

 

 マリアは小さく首を振る。

 

「少なくとも、私は認めません」

 

 それだけ言うと、彼女はそっと手を離した。

 

 まるで一瞬だけ見せたものを、また奥へ仕舞い込むみたいに。

 

 次の瞬間には、いつもの調子へ戻っている。

 

「……さて」

 

 床に目を落とす。

 

 焦げ跡の向こう、棚に積まれた物資へ視線を向けた。

 

「あまり長居してもよくありませんね」

 

 そう言って、近くにあった箱を軽々と抱え上げる。

 

 電池の入ったケースと、毛布の入った段ボールを躊躇なく纏め持つ。

 

 誠も、半拍遅れて動いた。

 

 まだ胸の奥に重さは残っている。

 

 焦げ臭さも、マリアの言葉も、頭のどこかに引っかかったままだ。

 

 それでも今は手を動かすしかない。

 

 誠は近くの棚から保存用の乾電池が詰まった箱と、簡易ランタンの入ったケースを抱え上げた。見た目以上に重い。腕にずしりと負荷がかかる。

 

「……そっちは持てるか」

 

「ええ」

 

 マリアは淡々と答えた。

 

 両腕に抱えた物資の量は、誠の倍はある。なのに足取りは少しもぶれない。

 

 二人は、倉庫の奥を後にした。

 

 入口へ戻るにつれ、外から差し込むヘッドライトの白さが強くなる。ランサーの声と、美桜が箱をずらす物音も聞こえてきた。現実へ引き戻されるような、慌ただしい生活の音だった。

 

 棚の間を抜け、入口の広い空間へ出た瞬間。

 

「お、戻ったか」

 

 ランサーが振り向いた。

 

 荷台は、もうかなり埋まっていた。

 

 米袋が下に敷かれ、その上に飲料水のケースが並び、隙間へ缶詰や乾パンの箱が押し込まれている。毛布やロープで固定まで始まっていて、素人目に見てもかなり手際がいい。

 

 誠の抱えている箱と、マリアの腕の中の大量の備蓄品を見て、ランサーは目を丸くした。

 

「そっちも大量だな」

 

「電池と毛布、簡易ランタンです」

 

 マリアが答える。

 

「当面は役に立つでしょう」

 

「上出来だ」

 

 ランサーは顎で荷台を示した。

 

「その辺、空いてるとこに詰めてくれ。毛布は上、電池は奥だ」

 

 誠は言われた通り、荷台の横へ回った。

 

 腕が少し痺れている。

 

 箱を持ち上げ、ランサーと一緒に空いた隙間へ押し込む。美桜も無言で手を貸した。まだ顔色は悪いが、動きそのものはしっかりしている。

 

 段ボールが擦れる音。

 

 ロープが引かれる音。

 

 金属の荷台が、重みで小さく軋む。

 

 マリアは毛布の箱を軽々と持ち上げると、荷台の後方へ丁寧に収めた。ランサーがそれをすぐにロープで固定する。

 

「よし」

 

 最後にランサーが荷台を軽く叩く。

 

「これなら十分持ち帰れ——」

 

 そこで言葉を切り、周囲を一瞥した。

 

 静かだった。

 

 市役所の裏手。

 

 風が、シャッターの縁を撫でる。

 

 遠くで何かが軋んだような音がしたが、それ以上は何もない。

 

 誠はようやく息を吐いた。

 

「帰れる、か」

 

「さっさと帰ろうぜ」

 

 ランサーは荷台へ片足を掛ける。

 

「長居したい場所じゃねえ」

 

 その通りだった。

 

 誠は助手席側へ回る。

 

 さっき来た時と同じように、無骨なドアの前で足を止めた。ドアノブに手を掛ける。冷えた金属が手のひらに触れる。

 

 乗り込もうとした、その瞬間。

 

「何故——マスター、避けて!」

 

 マリアの声が、鋭く響いた。

 

 驚いたような顔で叫んでいる。

 

 いつもの柔らかな調子ではない。

 

 次の瞬間、誠の身体が地面から引き剥がされた。

 

 見えない何かが、腰のあたりを乱暴に攫った。

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