Fate/You Died.   作:助兵衛

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第70話 灰原の悪夢

 息が、止まった。

 

「——っ!?」

 

 何が起きたのか理解するより先に、誠の身体は地面から引き剥がされていた。

 

 足が浮く。

 

 景色が、ぐらりと傾く。

 

 助手席のドア。

 

 トラックの無骨な車体。

 

 市役所の裏手に広がる暗い駐車場。

 

 その全部が、一瞬で遠ざかった。

 

 脇腹から胸元にかけて、何かが絡みついている。

 

 見えない。

 

 なのに、確かにある。

 

 空気そのものが形を持って、誠の身体を乱暴に掴み上げているみたいだった。

 

「が、ぁ……っ!」

 

 苦しい。

 

 締まる。

 

 喉ではない。胴だ。肋骨ごと圧し潰されるような圧迫感が走る。

 

 誠は反射的に両手を伸ばした。

 

 見えない何かを掴もうとする。

 

 だが、指先に触れるのは、冷たい空気だけだった。

 

「な、んだよ……これ!」

 

 もがく。

 

 脚を振る。

 

 身体を捻る。

 

 だが意味がない。

 

 見えない何かは、誠を捕まえたまま微動だにしなかった。

 

 まるで巨大な手だ。

 

 そうとしか言いようがなかった。

 

 五指のように分かれた圧力が、脇から背へ、腹から肩へと食い込んでいる。

 

 人間の手よりはるかに大きい。

 

 それも一つではない。

 

 二つ、三つ、いや——もっと。

 

 複数の透明な手が、誠の身体をそれぞれ別の方向から掴み、完全に拘束していた。

 

「くっ……!」

 

 腕に力を込める。

 

 腹筋に力を入れる。

 

 掴まれている場所を引き剥がそうと、見えない圧迫の一点へ両手をねじ込む。

 

 だが、びくともしない。

 

 本当に、少しもだ。

 

 岩にしがみついた蔦を剥がすどころではない。

 

 最初から誠ひとりの力ではどうにもならないと分かっている質量と力だった。

 

 指先が空を切るたび、余計に恐怖が増す。

 

 そこにある。

 

 確かにあるのに、見えない。

 

 なのに掴まれている感触だけは、生々しいほど鮮明だった。

 

 肋骨が軋む。

 

 肺がうまく膨らまない。

 

 誠は息を吸おうとして、浅く喘ぐしかできなかった。

 

「マスター!」

 

 マリアの声が、すぐ近くで響く。

 

 鋭い。

 

 さっきまでの静けさが嘘みたいな声だった。

 

 誠は首だけでそちらを向けようとした。

 

 だが、見えない手の一本が肩口をさらに締め上げ、身体が半ば横向きに吊られる。

 

「ぐ、ぁ……!」

 

 視界の端で、マリアが地を蹴るのが見えた。

 

 銀の髪が翻る。

 

 その向こうでは、ランサーが荷台から飛び降りようとしていた。美桜も蒼白になって何かを叫んでいる。だが、耳に入る音はどれも遠い。

 

 誠自身の鼓動だけが、頭の中でやけに大きく鳴っていた。

 

 どこからだ。

 

 何に掴まれている。

 

 上か。横か。背後か。

 

 目を凝らしても何も見えない。

 次の瞬間だった。

 

 荷台の鉄板が、爆ぜるように鳴った。

 

 ランサーが踏み切ったのだ。

 

 ただの跳躍ではなかった。

 

 地面を蹴った瞬間、彼の身体は夜気を切り裂く弾丸のように上空へ撃ち出される。

 

 重力を無視したかのような高さだった。

 

 砂利が遅れて弾け飛ぶ。

 

 風圧がトラックの側面を叩く。

 

「マスター!」

 

 宙へ舞い上がりながら、ランサーは一瞬だけ下を見た。

 

 その目は戦場のそれだった。

 

「悪いが、魔力を幾らか使うぞ」

 

 確認ではない。

 

 宣言だった。

 

 美桜は蒼白な顔のまま、強く頷く。

 

「は、はい!」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 ランサーの口元が、戦士の笑みに歪んだ。

 

「よし」

 

 右手に握られた槍が、低く唸る。

 

 それはただの武器ではない。

 

 長く、苛烈で、血に塗れた旅路そのもの。

 

 数多の魔を屠り続けた記憶。

 

 炎の匂い。

 

 地獄の瘴気。

 

 祈りと絶望の境界を踏み越えてきた足跡。

 

 それらすべてが、槍の中で目を覚ます。

 

 ランサーは空中で身体を捻った。

 

 槍を構える。

 

 その動作は、あまりにも自然だった。

 

 何千回と繰り返してきた戦いの型。

 

「宝具、起動」

 

 低く言う。

 

 誰にともなく。

 

 だが槍は応えた。

 

 刃の縁から、黒に近い赤い光が滲み出す。

 

 それは火ではない。

 

 血でもない。

 

 悪魔狩りの旅路で蓄積された、魔を拒絶する概念そのものの輝きだった。

 

 空気が歪む。

 

 夜の闇が、一瞬だけ後退する。

 

 ランサーの周囲に、見えない足跡のような光が連なった。

 

 荒野。

 

 廃都。

 

 焼けた聖堂。

 

 悪魔の死骸。

 

 それらが幻のように重なり、槍の軌跡へ集束していく。

 

「我が槍は旅路」

 

 笑う。

 

 牙を剥くような笑みだった。

 

「幾多の悪魔を討ち滅ぼした、血濡れの旅路」

 

 腕に力が込められる。

 

「ボーレタリアの一番槍を、ご覧に入れよう」

 

 槍が、完全に目覚める。

 

 刃が夜を切り裂くように輝いた。

 

 その光は、誠を掴む見えない何かにも触れていた。

 

 空間が、わずかに軋む。

 

 歪みが、輪郭を持ち始める。

 

「魔に連なる者よ、多少の拡大解釈はご愛嬌」

 

 ランサーは、さらに高く跳ね上がる。

 

 まるで空を蹴ったかのように。

 

 槍の穂先が、誠を拘束する“それ”を真っ直ぐ捉える。

 

 不可視の掌。

 

 歪んだ存在。

 

 この世界のものではない気配。

 

 それらを見据え、ランサーは言い放った。

 

屠魔遍歴・巡礼魔槍(デモンズ・ピルグリム)

 

 次の瞬間。

 

 槍が振り抜かれた。

 

 ただの一撃ではない。

 

 無数の戦闘の積み重ね。

 

 魔を討ち続けた軌跡の具現。

 

 概念としての「悪魔殺し」が、夜空を一直線に貫いた。

 閃光が、夜を割った。

 

 音は遅れて届いた。

 

 それは爆音ではない。

 

 世界の一部が削り取られたような、鈍く深い破砕音だった。

 

 次の瞬間。

 

 誠の身体を締め上げていた圧力が——消えた。

 

「……っ!?」

 

 支えを失った身体が、宙でぐらりと傾く。

 

 束縛が解けた反動で、誠はそのまま空中に投げ出された。

 

 肺に一気に空気が流れ込む。

 

 だが、それは安堵ではない。

 

 落ちる。

 

 そう理解した瞬間だった。

 

 ——掴まれた。

 

「な……!」

 

 再び、圧力。

 

 今度は下からではない。

 

 真上からだった。

 

 見えない何かが、誠の両腕と胴をまとめて捕らえた。

 

 まるで巨大な手のひらにすくい上げられたような感覚。

 

 勢いのまま、さらに上空へ引きずり上げられる。

 

 視界の中で、市役所の建物が急速に小さくなる。

 

 トラックのヘッドライトが、遠い白い点へ変わっていく。

 

「ぐっ……!」

 

 肋骨が軋む。

 

 さっきより強い。

 

 明らかに強い。

 

 誠は必死に腕へ力を込めた。

 

 見えない拘束の感触を探り、引き剥がそうとする。

 

 だが今度は、感触そのものが違った。

 

 重い。

 

 硬い。

 

 まるで鉄の塊が空気の中に埋まっているかのような圧迫。

 

 指を差し込もうとしても、まるで余地がない。

 

 完全に固定されている。

 

「は、な……せ……!」

 

 声にならない。

 

 肺がうまく動かない。

 

 圧力はさらに強まる。

 

 そして——

 

 増えた。

 

 別の方向から、もう一本。

 

 さらにもう一本。

 

 透明な掌が、誠の身体へ重なっていく。

 

 肩。

 

 背中。

 

 腹。

 

 脚。

 

 次々と掴まれる。

 

 絡め取られる。

 

 圧し潰される。

 

「が……ぁぁ……っ!」

 

 骨が鳴る。

 

 筋肉が悲鳴を上げる。

 

 血流が止まりかける。

 

 まるで巨大な存在に握り締められているようだった。

 

 いや。

 

 握り締められているのだ。

 

 見えない何かに。

 

 しかも、それは一体ではない。

 

 幾つも。

 

 幾つも。

 

 幾つもの巨大な掌が、誠の身体を取り囲み、重なり、締め付けていた。

 

 圧力は加速する。

 

 空気が押し出される。

 

 肺が潰れる。

 

 頭が痺れる。

 

 視界の端が黒く染まり始める。

 

 下を見ようとしても、もう地面はよく見えない。

 

 代わりに、何かが見えた。

 

 歪み。

 

 闇。

 

 輪郭を持たない巨大な影。

 

 それが誠を中心に収束している。

 

「や、め……」

 

 声が出ない。

 

 身体が動かない。

 

 ただ締まる。

 

 締まる。

 

 締まる。

 

 骨が砕ける寸前の圧力。

 

 そして。

 

 最後に。

 

 頭部ごと包み込むように、巨大な掌が重なった。

 

 光が消える。

 

 音が遠ざかる。

 

 世界が閉じる。

 

 誠の視界は——

 

 完全に、真っ暗に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——冷たい。

 

 最初に感じたのは、それだった。

 

 肌に触れる空気が、ひどく冷えている。

 

 湿っている。

 

 どこか土の匂いがする。

 

 誠はゆっくりと意識を浮かび上がらせた。

 

 まぶたの裏に残っていた圧迫の感覚が、まだ身体の奥で鈍く疼いている。

 

 息を吸う。

 

 今度は吸えた。

 

 肺が広がる。

 

 痛みはある。

 

 だが、生きている。

 

「……」

 

 声を出そうとして、やめた。

 

 代わりにゆっくり目を開ける。

 

 白かった。

 

 世界が。

 

 いや——霧だ。

 

 濃い夜霧が、あたり一面を覆っている。

 

 数メートル先すらはっきり見えない。

 

 街灯もない。

 

 人工の光もない。

 

 ただ、ぼんやりとした暗さの中に、淡い白が漂っている。

 

 誠は身体を起こした。

 

 地面は柔らかい。

 

 土だった。

 

 落ち葉が湿って、背中に張り付いている。

 

 草の感触もある。

 

「……ここ」

 

 かすれた声が出る。

 

 自分でも驚くほど小さかった。

 

 周囲を見回す。

 

 霧の向こうに、黒い影が連なっている。

 

 木だ。

 

 高い。

 

 まっすぐ伸びた幹。

 

 枝葉が重なり、空を覆っている。

 

 山奥の森。

 

 そうとしか思えない風景だった。

 

 風が吹く。

 

 葉が擦れる。

 

 遠くで何かが鳴いた気がした。

 

 だが音もすぐ霧に吸い込まれて消える。

 

 静かすぎる。

 

 誠はゆっくり立ち上がった。

 

 足は震えていたが、動く。

 

 空を見ようとして、やめる。

 

 霧が濃すぎて、上も分からない。

 

 代わりに前を見る。

 

 そこに——

 

 門があった。

 

 木造の門だった。

 

 背の低い、古い造りの門。

 

 見覚えがある。

 

 あるどころではない。

 

 誠は一歩、踏み出した。

 

 足音がやけに大きく響く。

 

 湿った土が靴底に絡みつく。

 

 もう一歩。

 

 霧が、少しだけ流れた。

 

 門の全体が見える。

 

 柱の傷。

 

 屋根の反り。

 

 塗装の剥げ。

 

 全部、覚えている。

 

 何度も何度も見てきたものだった。

 

「……嘘だろ」

 

 喉の奥から、掠れた笑いのような音が漏れる。

 

 門柱の横に、小さな表札が掛かっていた。

 

 木製の、手作りのような札。

 

 黒い文字。

 

 そこにははっきりと書かれていた。

 

 ——灰原。

 

 誠の足が止まる。

 

 心臓が一拍遅れて強く鳴る。

 

 目の前の門の向こう。

 

 霧のさらに奥に、屋根の影が見えた。

 

 瓦の形。

 

 軒の傾き。

 

 低い平屋の輪郭。

 

 誠の喉が震える。

 

「俺の……家、だ」

 

 分かってしまった。

 

 ここは。

 

 ここは——

 

 数日前に、全焼したはずの自分の家だった。

 

 何もかもが失われたはずの場所。

 

 なのに今。

 

 門は立っている。

 

 家も、霧の向こうに確かに存在している。

 

 静かに。

 

 何事もなかったみたいに。

 

 誠は門の前まで歩いた。

 

 手を伸ばす。

 

 指先が木に触れる。

 

 冷たい。

 

 現実の感触だった。

 

 夢ではない。

 

 少なくとも、触れられる。

 

「……なんで」

 

 答えはない。

 

 霧が、ゆっくり流れるだけだ。

 

 森は深い。

 

 夜は終わっていない。

 

 誠はしばらく門を見つめていた。

 

 それから、恐る恐るその向こうへ視線を向ける。

 

 まるで何かに呼ばれているみたいだった。

 

 入ってこい、と。

 

 そう囁かれているような、不気味な感覚が胸の奥に広がっていく。

 

 誠は、ゆっくりと門に手を掛けた。

 

 木は冷えていた。

 

 湿り気を帯び、夜霧の粒が細かく付着している。

 

 だが朽ちてはいない。

 

 指先に伝わる感触は、記憶の中のそれよりもずっとしっかりしていた。

 

 まるで、手入れされ続けてきた木のように。

 

「……」

 

 軽く力を込める。

 

 ぎ、と小さく軋んだ。

 

 だが抵抗はほとんどない。

 

 門はゆっくりと開いた。

 

 霧が、内側へ流れ込む。

 

 あるいは——誠が霧の中へ足を踏み入れたのか。

 

 境界は曖昧だった。

 

 一歩。

 

 敷地の中へ入る。

 

 足元の感触が変わる。

 

 砂利だった。

 

 踏みしめると、乾いた音がする。

 

 それがやけに懐かしかった。

 

 誠は立ち止まり、周囲を見渡す。

 

 庭だった。

 

 間違いない。

 

 配置は、完全に記憶通りだった。

 

 門から玄関へ続く細い砂利道。

 

 左手にある小さな畑。

 

 右手の井戸。

 

 奥に見える納屋。

 

 木々の位置も、石の並びも、全部覚えている。

 

 幼い頃から見続けてきた風景だ。

 

 だが——

 

 違う。

 

「……こんな、綺麗だったか」

 

 思わず呟く。

 

 庭木は整えられていた。

 

 枝はきちんと払われ、形が整っている。

 

 雑草もほとんど生えていない。

 

 踏み石の隙間に苔はあるが、それも荒れた感じではなく、むしろ丁寧に残されているような状態だった。

 

 畑の土は柔らかそうに耕されている。

 

 乾いていない。

 

 最近まで手が入っていたように見える。

 

 誠はゆっくり歩き出した。

 

 砂利が鳴る。

 

 その音が、霧の中に吸い込まれていく。

 

 玄関が見えてくる。

 

 木造の平屋。

 

 瓦屋根。

 

 壁の色。

 

 柱の太さ。

 

 全部、同じだ。

 

 同じなのに——

 

 新しい。

 

 いや。

 

 新しいのではない。

 

 もっと古い。

 

 そんな感覚だった。

 

 時間が逆行しているような。

 

 自分が知っている「最後の灰原家」ではない。

 

 もっと前。

 

 まだ何も壊れていなかった頃。

 

 その時代の家が、目の前にあるような気がした。

 

 誠は縁側の方へ視線を向ける。

 

 板は傷んでいない。

 

 雨染みも少ない。

 

 戸袋も歪んでいない。

 

 むしろ丁寧に磨かれているようにすら見える。

 

 夜霧の中で、家は静かに佇んでいた。

 

 まるで長い間、誰かがここを守ってきたかのように。

 

 誠は玄関前で足を止めた。

 

 胸の奥がざわつく。

 

 懐かしさと、不安と、説明のつかない感覚が混ざり合う。

 

 ここは、自分の家だ。

 

 だが同時に——

 

 自分の知らない灰原家でもある。

 

 誠はゆっくりと手を伸ばし、玄関の引き戸へ触れた。

 指先に、木の冷たさが返ってくる。

 

 誠は、息を詰めたまま引き戸を横へ滑らせた。

 

 からり、と。

 

 乾いた音がした。

 

 その響きまで、妙に鮮明だった。

 

 焼け跡になったはずの家では、もう二度と聞けないと思っていた音だ。

 

「……」

 

 玄関の中は、暗かった。

 

 だが闇ではない。

 

 外の霧明かりが戸口から差し込み、土間と上がり框の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。

 

 靴を脱ぐ場所。

 

 壁際の傘立て。

 

 上がってすぐの廊下。

 

 全部、知っている。

 

 誠は一歩、土間へ足を入れた。

 

 ひやりとした空気が足首を撫でる。

 

 家の中の匂いがした。

 

 木と畳と、少し古い紙の匂い。

 

 懐かしくて、胸が詰まる。

 

 それが逆に、ひどく不気味だった。

 

 あり得ないものほど、細部が本物じみている。

 

 誠は靴を脱ぎ、ゆっくりと上がった。

 

 床板は軋まない。

 

 手入れがいい。

 

 歩くたび、家そのものが静かに息をしているような感覚があった。

 

 廊下を進む。

 

 左手に居間。

 

 右手に仏間。

 

 奥に台所。

 

 その並びも、何も変わらない。

 

 だが、やはり違う。

 

 柱の艶が違った。

 

 壁紙の日焼けの薄さが違う。

 

 建具の傷も少ない。

 

 自分が知っている灰原家より、明らかに若い家だった。

 

 誠は居間の前で足を止めた。

 

 襖は半分だけ開いている。

 

 中を覗く。

 

 座卓。

 

 古いテレビ台。

 

 壁際の箪笥。

 

 全部、覚えている。

 

 だが配置はそのままでも、物の色合いが少しずつ新しい。

 

 あるいは、古びる前の色だ。

 

「……なんなんだよ」

 

 小さく呟く。

 

 返事はない。

 

 当然だ。

 

 家の中は、静まり返っている。

 

 誰かの気配はまだ感じられない。

 

 それでも、無人の家という感じではなかった。

 

 生活のぬくもりだけが、なぜか残っている。

 

 誠は居間へ入る。

 

 畳はきれいだった。

 

 縁も擦り切れていない。

 

 座卓の上には何もないが、埃も積もっていない。

 

 まるで、さっきまで誰かが使っていて、今だけ席を外しているみたいだった。

 

 その時、壁の一角に目が止まる。

 

 カレンダーだった。

 

 紙の、古い月めくりのもの。

 

 何気なく視線を向けて——

 

 誠は、動きを止めた。

 

「……は?」

 

 近づく。

 

 目を凝らす。

 

 見間違いではなかった。

 

 印字された年号。

 

 月日。

 

 それは——

 

 誠が生まれた年だった。

 

 喉が、ひくりと鳴る。

 

「……なんで」

 

 あり得ない。

 

 そんなはずがない。

 

 誠はカレンダーの前に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

 

 自分が生まれた年。

 

 つまり、この家は——

 

 今の灰原家ではない。

 

 自分が知る前の、ずっと前の灰原家。

 

 まだ自分が赤ん坊で、何も知らなかった頃の。

 

「……嘘だろ」

 

 掠れた声が、誰もいない居間に落ちる。

 

 頭が追いつかない。

 

 市役所の裏で見えない手に攫われて。

 

 気づけば霧の森にいて。

 

 全焼したはずの家に戻ってきたと思ったら——今度は、自分の生まれた年の灰原家がそこにある。

 

 意味が分からない。

 

 夢だとしても出来が悪すぎる。

 

 現実だとしても、なおさら質が悪い。

 

 誠は、乾いた唇を舐めた。

 

 その時だった。

 

 廊下の奥から、音がした。

 

 足音だ。

 

 廊下の奥。

 

 家のさらに奥まった、霧のような暗がりの向こうから、ゆっくりと近づいてくる。

 

 とん。

 

 ……とん。

 

 床板を踏むたび、家全体がかすかに応えるようだった。

 

 誠は、動けなかった。

 

 カレンダーの前に立ち尽くしたまま、喉だけがひくりと震える。

 

 息を潜める。

 

 鼓動が大きい。

 

 耳の奥で、自分の血の音ばかりが鳴っている。

 

 とん。

 

 足音は、止まらない。

 

 ゆっくり。

 

 確実に。

 

 こちらへ向かってくる。

 

 人の足音だ。

 

 だが妙だった。

 

 規則的ではあるのに、どこか重すぎる。

 

 片足ごとに、何かを引き摺っているような、鈍い余韻が混じっている。

 

 ぞり。

 

 何かが床を擦る音。

 

 金属だ。

 

 誠の背筋を、冷たいものが這った。

 

「……っ」

 

 声が出ない。

 

 逃げるべきだと頭では分かる。

 

 だが足が床に縫い付けられたみたいに動かなかった。

 

 廊下の角。

 

 薄暗がりの向こう。

 

 そこに、影が差した。

 

 最初に見えたのは、着物の裾だった。

 

 黒っぽい——いや、元は濃紺か何かだったのかもしれない。

 

 だが今は染みでまだらになり、色がよく分からない。

 

 次に、足。

 

 裸足だった。

 

 土とも血ともつかない汚れがこびりついている。

 

 そして、ゆっくりと。

 

 角の向こうから男が姿を現した。

 

 誠の喉が、引き攣った。

 

 男は着物を着ていた。

 

 年齢は、すぐには分からない。

 

 若くも見えるし、老けても見える。

 

 痩せているのに肩幅はあり、骨ばった身体つきだけが妙に目立つ。

 

 髪は乱れて額に垂れ、顔の半分に影を落としていた。

 

 その顔を見た瞬間、誠は息を呑む。

 

 目が——

 

 正気の色をしていなかった。

 

 焦点が合っていない。

 

 何かを見ているようで、何も見ていない。

 

 瞳は濁り、ひどく虚ろだった。

 

 夢遊病者のようでもあり、死体が立って歩いているようでもあった。

 

 男の口元が、わずかに動いている。

 

 ぶつぶつと。

 

 何かを呟いていた。

 

 だが声が小さすぎて、最初は聞き取れない。

 

 同じ言葉を繰り返しているようでもあるし、意味のない音を漏らしているだけのようにも聞こえる。

 

 そして。

 

 男の右手には、刀が握られていた。

 

「……」

 

 刀身は、赤黒かった。

 

 血だ。

 

 乾ききっていないものと、すでに黒ずんだものがまだらにこびりついている。

 

 切っ先は床を引き摺っていた。

 

 ぞり。

 

 ぞり、と。

 

 そのたびに木の床板へ細い傷が刻まれる。

 

 誠は、その音から目を逸らせなかった。

 

 男は、なおも呟いていた。

 

「……ちがう……ちがう」

 

 やっと、言葉が聞こえる。

 

 ひび割れた声だった。

 

 喉の奥で腐ったような、乾いた声。

 

「……あれは……ちがう……」

 

 

 とん。

 

 また一歩、近づく。

 

 ぞり。

 

 血塗れの刀が床を擦る。

 

 誠の全身から、嫌な汗が噴き出した。

 

 誰だ。

 

 そう思う。

 

 だが、同時に思ってしまう。

 

 知っている。

 

 見覚えがある。

 

 顔立ちではない。

 

 もっと曖昧な、血の匂いのようなものだ。

 

 この家の中に立つ、その姿が——ひどく灰原家に似合いすぎていた。

 

 男は居間の前まで来ると、ふいに足を止めた。

 

 虚ろな目が、ゆっくりと上がる。

 

 そして。

 

 誠を、見た。

 

 いや。

 

 見た、というより。

 

 その濁った視線が、誠のいる場所に落ちた。

 

 焦点はまだ合っていない。

 

 その瞬間だった。

 

 男の顔が、変わった。

 

 虚ろだった瞳に、急に色が流れ込む。

 

 濁った水へ毒でも垂らしたみたいに、どす黒い感情が一気に広がった。

 

 目が見開かれる。

 

 頬が引き攣る。

 

 口元が歪む。

 

 それは驚きではない。

 

 認識でもない。

 

 狂気じみた怒りだった。

 

「——アイツのせいだぁッ!」

 

 絶叫が、家の中を震わせた。

 

 びり、と空気が裂ける。

 

 男は刀を振り上げた。

 

 さっきまでの重たく鈍い足取りが嘘みたいに、次の瞬間には床を蹴っている。

 

 畳も、廊下も、関係ない。

 

 血塗れの刃を滅茶苦茶に振り回しながら、一直線に誠へ襲いかかってきた。

 

「っ!」

 

 誠の身体が、反射で動く。

 

 考えるより先だった。

 

 逃げる。

 

 避ける。

 

 いや、間に合わない。

 

 狭い居間だ。

 

 座卓。柱。襖。逃げ場がない。

 

 刀の切っ先が、暗がりの中で赤黒く光る。

 

 男の顔はもう人間のものではなかった。

 

 怒りでぐちゃぐちゃに歪み、理性のない目が誠だけを見ている。

 

「死ねぇ! 死ね、死ね、死ねぇッ!」

 

 ぶつぶつと呟いていた声とは別人みたいな、裂けた絶叫だった。

 

 誠は右手を上げた。

 

 無意識だった。

 

 呼ぶ。

 

 あの火を。

 

 焼き尽くし、継がれ、なお残り続ける火を。

 

「近付くな!」

 

 

 瞬間。

 

 右手に、熱が宿った。

 

 小さな火種ではない。

 

 心臓を握り潰されるみたいな熱量が、一気に掌へ流れ込む。

 

 暗かった居間が、赤く染まる。

 

 ごう、と。

 

 誠の前方で炎が立ち上がった。

 

 壁だった。

 

 ただ燃えるだけの炎ではない。

 

 意志を持つみたいに、誠と男の間へ真っ直ぐ広がる。

 炎の壁が、男の進路を塞ぐ。

 

 ごうごうと音を立て、居間と廊下の境界を赤く灼いた。

 

 熱風が吹き抜ける。

 

 畳の縁が焦げ、座卓の影が大きく揺れる。

 

 だが——

 

 男は、止まらなかった。

 

「ァァァァッ!」

 

 獣じみた咆哮と同時に、床を蹴る。

 

 いや、床だけではない。

 

 次の瞬間には、柱を踏み、壁を蹴り、ほとんど四肢の獣のような勢いで横へ跳んでいた。

 

「なっ——」

 

 誠の目が見開かれる。

 

 あり得ない軌道だった。

 

 男は炎の壁を正面から越えなかった。

 

 燃え上がる火の端を、壁際ぎりぎりで避けるように走り、そのまま柱を足場にして身を翻す。

 

 さらに、天井へ。

 

 重力が壊れたみたいな動きだった。

 

 梁へ片足を掛け、その反動でもう一度跳ねる。

 

 血塗れの刀が、赤い軌跡を引いた。

 

 速い。

 

 人間の動きではない。

 

 獲物の死角へ潜り込むためだけに研ぎ澄まされた、捕食者の軌道。

 

「っ……!」

 

 誠が振り向く。

 

 その瞬間、背筋を冷たいものが走った。

 

 見覚えが、あった。

 

 壁を蹴る角度。

 

 重心の移し方。

 

 一直線ではなく、獲物の認識を外して背後へ回り込む癖。

 

 藍沢紗月。

 

 頭のどこかで、その名前が閃く。

 

 先輩の獣めいた身のこなし。

 

 あの、無駄を削ぎ落とした襲撃の感覚。

 

 目の前の男はまるで別人のはずなのに、何故か一瞬だけその面影が重なった。

 

 ぞわり、と悪寒が這う。

 

 男はもう、誠の背後にいた。

 

 着地の音すら小さい。

 

 ただ、殺意だけが濃い。

 

 振り返るより早く、刀が振りかざされる。

 

 赤黒い刃が、誠の首筋へ落ちる。

 

「死ねぇぇぇッ! 灰原ァ!」

 

 その絶叫に、誠の中で何かが切れた。

 

 恐怖ではない。

 

 反射だ。

 

 もっと深い、獣じみた生存本能。

 

 背骨の奥、火とは別の何かが一気に噴き上がる。

 

 筋肉が軋む。

 

 血が熱を持つ。

 

 右手だけではない。

 

 全身へ、別種の力が巡る。

 

「来るなって言ってんだろ!」

 

 叫びながら、誠は振り向きざまに踏み込んだ。

 

 刀が落ちる。

 

 その軌道へ、自分から飛び込むみたいに。

 

 男の腕を——掴んだ。

 

「な……ッ」

 

 男の目が見開かれる。

 

 刀を振り下ろす男の手首、その骨ばった腕を、獣の膂力でねじ伏せるように握り込んでいる。

 

 びくともしない。

 

 逆だった。

 

 男の方が、引けない。

 

 誠の指が食い込む。

 

 骨の感触が、皮膚越しに伝わる。

 

「ぐ、ぉ……!?」

 

 男が呻く。

 

 誠の肩が、熱で震える。

 

 視界の端が赤い。

 

 呼吸が、ひどく熱い。

 

 握っている腕ごと、男を目の前へ引き寄せる。

 

 距離はもう、ない。

 

 吐息がかかるほど近い。

 

 狂気に濁った目と、誠の目が真正面でぶつかる。

 

 そして。

 

 誠は、右手を男の胸元へ叩きつけた。

 

「今度こそ——焼けろ!」

 

 はじまりの火が、零距離で爆ぜた。

 

 轟音。

 

 炎の壁とは比べものにならない、圧縮された灼熱が一瞬で解き放たれる。

 

 逃げ場はない。

 

 男の身体は、誠に腕を掴まれたまま、その熱を真正面から受けた。

 

 白熱。

 

 赤熱。

 

 次いで、青白い芯を含んだ火が、男の胸から全身へ一気に走る。

 

「ァ——ッ!?」

 

 絶叫は最後まで続かなかった。

 

 着物が燃える。

 

 皮膚が炭化する。

 

 血に濡れていた刀身が、一瞬で蒸気を上げる。

 

 誠は、離さない。

 

 逃がさないように、腕をさらに強く握る。

 

 男の身体が暴れる。

 

 だが、もう遅い。

 

 火は誠の掌から男の中へ流れ込み、内側から焼き尽くしていく。

 

 肉の焼ける臭い。

 

 焦げた髪の臭い。

 

 それすら、一瞬で炎に呑まれていく。

 

「ァ、ァァァアア——ッ!」

 

 男の顔が崩れる。

 

 怒りも、狂気も、表情の形を保てなくなる。

 

 目が焼け、口が歪み、全身が火の中で輪郭を失っていく。

 

 それでも誠は、掌を押し込んだままだった。

 

 近すぎる熱で、自分の前髪まで焼けそうになる。

 

 頬が灼ける。

 

 けれど止められない。

 

 止めれば、また殺される。

 

 また背後に回られる。

 

 またあの刃が落ちる。

 

 そんな確信だけが、誠の腕にさらに力を込めさせた。

 

「……ッ!」

 

 最後に、男の身体が大きく痙攣した。

 

 次の瞬間。

 

 膝から崩れ落ちるように、全身が黒い炭へ変わっていく。

 

 誠が手を離した時には、そこに立っていたのはもう人間ではなかった。

 

 焼け崩れた塊。

 

 刀だけが、半ば溶けたような形で床に落ちる。

 

 からん、と鈍い音がした。

 

 火は、そこでようやく収まった。

 

 居間に静寂が戻る。

 

 だが、さっきまでの静かな家ではない。

 

 畳は焼け、壁は焦げ、柱には黒い煤が走っていた。

 

 誠は、その場で肩を上下させる。

 

 息が荒い。

 

 心臓が痛いほど速い。

 

「なんなんだよ、ここ……」

 

 

 

 

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