誠は、しばらくその場から動けなかった。
焼け崩れた男の残骸から、まだかすかな熱が立ちのぼっている。
半ば溶けた刀が畳の上に転がり、黒く焦げた床板に鈍い光を返していた。
居間には焦げ臭さが満ちている。
さっきまで人の形をしていたものが、今はもう炭の塊にしか見えない。
「……っ」
喉がひりついた。
呼吸を整えようとしても、肺が熱を持ったままで、うまく深く吸えない。
誠は一歩、二歩と後ずさる。
足元がふらつく。
膝から力が抜け、そのまま座り込んだ。
どさ、と鈍い音がする。
焼けた畳の熱が、じわりと衣服越しに伝わった。
右手が、まだ熱い。
はじまりの火を叩き込んだ掌が、脈打つように疼いている。
誠は荒い息の合間に、それを見下ろした。
少しだけ指が震えていた。
「正当防衛……仕方なかった」
自分で口にして、ひどく嫌な気分になった。
あの男が何者だったのかも分からない。
正気ではなかった。
明らかにおかしかった。
それでも、あれは確かに人間の形をしていた。
それを、自分は零距離で焼き潰した。
必要だった。
そうしなければ死んでいた。
頭では分かる。
だが、それで胸の中のざらつきが消えるわけではなかった。
誠は無意識に左手を握り、視線を落とす。
その拍子に、手の甲が見えた。
令呪。
赤い紋様が、皮膚の上に確かに刻まれている。
異様なまでに鮮明だった。
この霧の家も、狂った男も、訳の分からない時間の歪みも、全部現実感が薄いのに、それだけははっきり現実だった。
誠はじっと見つめる。
「……呼べる」
小さく呟く。
マリアを。
この場所がどれだけ異常でも、令呪が生きているなら、完全に切り離されたわけではない。
呼ぶことはできるはずだ。
マリアなら、今の状況を多少なりとも理解できるかもしれない。
少なくとも、自分一人でこの家の中を彷徨うよりはましだ。
だが、同時に思う。
まだ、使うべきではない。
令呪は切り札だ。
この先に何があるか分からない以上、ここで安易に切るべきではない。
だが——
差し迫った時は別だ。
誠は手の甲をもう一度見た。
赤い紋様は、黙ったままそこにある。
それが妙に心強くもあり、同時に薄気味悪くもあった。
「……よし」
膝に手をつく。
足に力を込める。
一度ふらついたが、今度は倒れなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
居間の焦げ跡と、焼け崩れた男の残骸が視界の端に入る。
見ないようにはできなかった。
だが、もう立ち止まってもいられない。
誠は唇を引き結び、廊下の奥へ視線を向けた。
まだ家の中は静かだった。
静かすぎるほどに。
その沈黙が、かえって次の何かを待っているようで、ひどく気味が悪い。
誠は慎重に廊下へ足を踏み出した。
焼けた居間の熱気が背後に残る。
だが一歩進むごとに、空気はまた冷えていく。
霧の森にいた時と同じ、湿った冷たさだった。
床板は相変わらず軋まない。
静かすぎる。
自分の呼吸音だけが妙に大きく響いている。
左手を軽く握る。
令呪の感触を確かめるように。
視線は自然と廊下の奥へ向いていた。
何かがいる。
そういう予感だけが、はっきりあった。
その時だった。
奥の曲がり角の向こうから、音がした。
最初は小さい。
だがすぐにそれが足音だと分かる。
複数。
しかも——走っている。
「……?」
誠は足を止めた。
次の瞬間。
白い影が飛び出してきた。
「うわぁぁぁっ!」
「来るな! 来るなぁ!」
白衣だった。
男たちだ。
三人。
いや、四人。
年齢はばらばらだが、全員が研究者のような風体をしている。
白衣は泥と何かの染みで汚れ、眼鏡はずれかけ、髪は乱れていた。
全員が、怯えきった顔をしていた。
理性など残っていない。
ただ逃げている顔だ。
死から逃げている顔。
誠は一瞬、言葉を失った。
「……ちょ、待て!」
思わず声をかける。
だが——
男たちは誠を見た瞬間、さらに顔色を変えた。
「い、いるッ!」
「こっちにもいるぞ!」
「終わりだ……終わりだぁ!」
恐慌。
完全な恐慌だった。
まるで誠そのものが、何かの怪物に見えているかのような反応だった。
白衣の男たちは悲鳴を上げながら急停止し、今来た方向へ反転する。
ぶつかり合いながら、転びそうになりながら、必死に廊下の奥へ戻ろうとした。
「おい、待てって!」
誠が一歩踏み出す。
その瞬間だった。
——伸びた。
曲がり角の暗がりから、何かが。
青白い。
ぬめる。
太い。
まるで巨大な触手のようなものが、音もなく廊下へ滑り出てきた。
「……っ!?」
誠の背筋が凍る。
次の瞬間。
触手は一気に広がった。
四方へ。
床を這い、壁を舐め、天井へ絡みつくようにして。
そして。
白衣の男たちへ巻き付いた。
「ぎゃぁぁぁぁッ!」
「助けてくれぇ!」
「やめろ、やめろぉ!」
足。
胴。
首。
腕。
一人残らず絡め取られる。
まるで最初から逃げ場など存在しなかったかのように。
誠は動けなかった。
あまりに一瞬だった。
あまりに現実離れしていた。
触手は生き物のように脈動している。
表面が微かに波打ち、何かが内部を流れているように見える。
巻き付かれた男たちの身体が、軋む。
「折れる……ッ、骨が……!」
「嫌だ! 嫌だぁぁ!」
次の瞬間。
触手は一斉に収縮した。
ぎし、と嫌な音がする。
そしてそのまま——
ずるり、と。
白衣の男たちをまとめて奥の暗がりへ引き摺り込んだ。
畳を擦る音。
爪が床板に引っかかる音。
悲鳴。
絶叫。
助けを求める声。
それらが廊下の奥へ吸い込まれていく。
「ま、て……!」
誠はようやく声を出した。
だが足が出ない。
動けない。
ただ見ているしかなかった。
やがて。
奥の方から。
何かが裂けるような音がした。
骨の砕ける音。
肉を潰す音。
ぐちゃ、と湿った破裂音。
そして最後に。
短い。
短すぎる悲鳴がひとつ。
——静寂。
廊下には、もう何の音も残っていなかった。
触手も消えている。
最初から存在しなかったかのように。
ただ。
床には。
白衣の切れ端と、引き摺られた跡だけが残っていた。
誠は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の奥で鼓動が暴れている。
だが足はもう震えていなかった。
恐怖が限界を越え、別の何かへ変わり始めている。
誠はゆっくりと右手を持ち上げた。
意識を集中する。
熱が集まる。
次の瞬間、小さな炎が掌に灯った。
揺れる橙の光。
弱いが、確かな光だった。
廊下の暗がりがわずかに後退する。
煤けた床。
白衣の切れ端。
引き摺られた跡。
それらが赤く浮かび上がる。
「……」
誠は唾を飲み込み、ゆっくりと曲がり角へ近づいた。
一歩。
また一歩。
靴底が床に吸い付くような感触がある。
空気が冷たい。
さっきまで家の中だったはずなのに、まるで洞窟の奥へ進んでいるみたいだった。
炎の光を前へかざす。
壁に影が揺れる。
自分の影が異様に長く伸びる。
やがて。
角の手前で、誠は足を止めた。
息を潜める。
耳を澄ます。
もう音はしない。
何もいない。
だが。
何かがいる気配だけは、濃く残っている。
誠は恐る恐る顔を出した。
炎を先に差し入れるようにして、ゆっくりと廊下の先を覗き込む。
そして——
「……は?」
思わず声が漏れた。
そこには。
壁がなかった。
誠の記憶では、ここは行き止まりだった。
ただの板壁。
古い柱。
掃除道具が立てかけてあるだけの、何でもない突き当たり。
子供の頃から何度も見てきた場所だ。
だが今。
そこには巨大な鉄の扉があった。
分厚い。
黒ずんだ鉄板。
表面は錆と何かの染みでまだらに汚れている。
蝶番は異様なほど大きく、普通の家屋には明らかに不釣り合いな造りだった。
まるで地下施設の隔壁のような。
あるいは——何かを閉じ込めるための門のような。
「……なんで、こんなのが」
誠は炎を掲げたまま近づく。
鉄の扉は半分ほど開いていた。
隙間から、冷気が流れ出している。
土と鉄と、湿った腐臭が混ざった空気だった。
誠は無意識に眉をしかめる。
そして。
扉の向こうを覗いた。
暗い。
深い。
光が吸い込まれるような闇。
だが炎の明かりが届いた瞬間、そこに何があるのか分かった。
階段だった。
地下へ続いている。
石造りの階段。
古い。
踏み面がすり減り、中央だけが白くなっている。
長年、何度も誰かが上り下りしてきた証拠だった。
下は見えない。
闇が飲み込んでいる。
どこまで続いているのか分からない。
ただ。
確実に。
家の下へ。
もっと深いどこかへ。
繋がっている。
誠の背中を冷たい汗が伝った。
「……こんなの、あったのか」
小さく呟く。
子供の頃、家の中は全部知っていると思っていた。
隠し場所も、軋む床も、雨漏りする場所も。
だが。
こんなものは一度も見たことがない。
存在すら知らなかった。
炎が揺れる。
階段の奥で、影が波打つ。
まるで闇そのものが呼吸しているみたいだった。
誠はしばらく扉の前に立ち尽くした。
誠は、長く息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた何かを押し出すように。
逃げたいという感情は、確かにあった。
だがそれ以上に、ここまで見てしまった以上、もう引き返せないという確信があった。
「……来るならこい」
誰にともなく呟く。
炎を灯した右手をわずかに前へ突き出す。
揺れる光が、地下へ続く階段の縁を赤く照らした。
誠は意を決し、足を踏み出す。
一段。
石が冷たい。
二段。
靴底に砂が擦れる音がする。
三段。
背後の廊下が、もう遠く感じる。
階段は長かった。
思っていたよりも、ずっと。
下り続けても終わりが見えない。
炎の光は狭い範囲しか照らさず、その先はすぐ闇に呑まれる。
壁は石造りだった。
粗く削られた跡が残り、湿り気を帯びている。
ところどころに黒ずんだ染みがある。
水なのか。
別の何かなのか。
誠は考えないようにした。
足音だけが響く。
こつ、こつ、と。
まるで地下の奥から自分の音が返ってくるみたいだった。
どれだけ降りただろうか。
時間の感覚が曖昧になる。
呼吸が落ち着いてきた頃。
ふいに。
階段が終わった。
炎の光が、広い空間へ広がる。
「……な、んだよ……これ」
思わず声が漏れる。
そこは。
研究施設のようだった。
だが、どこか決定的に違う。
天井は高い。
梁のようなものが走り、鉄製の鎖や奇妙な装置が吊られている。
床は石。
中央には巨大な机があり、その上には見たこともない器具が並んでいた。
ガラスのフラスコ。
金属製の枠組み。
刻印の入った円盤。
黒い粉末が詰められた瓶。
乾燥した何かの骨。
蝋で封じられた試験管。
それらすべてが、秩序だった配置で置かれている。
まるで長年使われ続けてきた作業場のように。
壁際には、本棚が並んでいた。
天井近くまで届く高さの棚。
そこにぎっしりと、本や記録が詰め込まれている。
革装丁の分厚い書物。
紐で綴じられた古文書。
見たことのない文字で書かれた紙束。
赤黒いインクのようなもので描かれた図式。
魔法陣。
人体図。
星の配置。
何かの召喚式のようなもの。
炎の光がそれらを照らすたび、不気味な影が揺れた。
空気が重い。
地下なのに、埃の匂いだけではない。
薬品のような臭い。
血のような臭い。
焼けた何かの残り香。
そして——
言葉にできない異質な気配。
誠はその場で立ち尽くす。
「……こんな場所、知らない」
本当に。
一度も。
この家の地下にこんな空間があるなど、考えたこともなかった。
自分の家のはずなのに。
ここはもう、自分の知っている灰原家ではない。
誠はゆっくり歩き出した。
炎を掲げたまま。
本棚の前へ近づく。
手を伸ばす。
一冊の書物に触れる。
革がひび割れている。
だが保存状態は異様にいい。
長い年月を経ているはずなのに、朽ちていない。
まるで誰かが定期的に手入れしているみたいだった。
誠は、親指でそっと表紙を押し上げた。
革の擦れる、乾いた音。
それだけで、妙に嫌な予感が強くなる。
炎を掲げた右手の光が、開かれた頁を赤く照らした。
最初に目に入ったのは、図だった。
人間の胎児のようなもの。
だが、ただの胎児ではない。
子宮の代わりに、ガラスの培養槽のような容器の中へ沈められている。そこへ幾筋もの管が繋がれ、赤黒い液体が循環していた。
横には細かな注釈が並び、誠には読める文字と読めない文字が混ざっている。
ホムンクルス培養基盤。
霊脈との接続。
魂魄定着率。
「……は?」
思わず、声が漏れた。
頁を繰る。
次には、別の図があった。
今度は虫だった。
いや、虫に似た何か。
節くれだった胴体に、異様に多い脚。口器の代わりに針のような突起がいくつも並び、人の神経図と重ねるように描かれている。しかも、それは単体ではない。群れとして機能し、ひとつの命令系統に従うよう設計されているらしい。
使い魔創造。
寄生型。
群体制御。
人造霊核への接続。
誠の喉が、ひくりと鳴った。
気味が悪い。
紙の上の記録でしかないのに、読んでいるだけで皮膚の内側を何かが這うような不快感がある。
さらに頁を捲る。
今度は文章だった。
整った筆跡。
冷静で、感情のない記録。
それがなおさら悍ましかった。
『アインツベルン家の保持する人造生命生成技術は、器の製造において比類なき完成度を誇る』
『間桐家の使役する使い魔創造および制御技術は、拡張性が極めて有用』
『両家の技術体系を連動させることで、聖杯戦争の模造、ないし劣化再現は理論上可能である』
『原典たる御三家の秘儀の全容を得ることは難しい』
『しかし一部資料の奪取には成功』
『特に器の基礎設計、擬似霊核の安定化手法、使い魔への命令権の項は再現可能性が高い』
頁をめくる。
めくらずにはいられなかった。
そこには、さらに具体的な記録が並んでいた。
必要な触媒。
血統の選定。
霊的素養を持つ胎児への適合性。
家系内での継承候補。
失敗例。
廃棄例。
定着不良。
肉体崩壊。
精神汚染。
そして。
『器は幼少期より内部にて育成するのが望ましい』
『自我形成以前から異物を馴染ませれば拒絶反応は最小化される』
『灰原の血を継ぐ者を、器とする』
『灰原家はこれを元に、独自聖杯の製造を試みる』
『本家に劣るとしても、局地的願望機としての成立は不可能ではない』
誠の指が、そこで止まった。
頁の端をつまんだまま、力が入らない。
灰原家が御三家の技術を盗み、独自の聖杯を作ろうとしていた。
それだけでは無い。
まだ、続きがある。
誠は、乾いた喉をひとつ鳴らし、次の頁を開いた。
そこには、項目ごとに整理された実験記録が並んでいた。
年月日。
担当。
観察者。
適合候補。
結果。
あまりにも事務的で、あまりにも冷静だった。
それが余計に、救いがなかった。
視線が、下へ滑る。
候補番号。
血統。
霊的素養。
そして。
『最終器選定』
誠の心臓が、どくん、と大きく鳴った。
次の行を読む。
『灰原家当主・灰原一之進の孫』
そこまで読んだ時点で、もう嫌な汗が背中を伝っていた。
けれど、目を逸らせない。
逸らしたところで、そこに書かれていることが消えるわけではない。
誠は、文字を追う。
『灰原誠を器として選出』
「……っ」
息が、止まった。
その下の文章は、さらに簡潔だった。
『同対象は血統・年齢・霊的感受性の面から最適と判断』
『当主直轄案件として実験を開始』
『聖杯核の初期定着を実施』
誠の手から、熱が引いていく。
いや。
全身から、血の気そのものが引いていくようだった。
自分が聖杯の器である。
それはもう、ここまでの状況から、嫌になるほど考えてきた。
推論だった。
ほとんど確信に近くても、まだどこかで、違う可能性を探していた。
だが今。
ここに、はっきり書いてある。
灰原誠を器として選出。
実験を開始。
誠はしばらく、文字の意味を理解できなかった。
読めている。
なのに、頭に入ってこない。
何か遠い場所の記録を見ているみたいだった。
だが、その名前だけが、どうしようもなく現実だった。
「……俺、を」
声が、掠れた。
「最初から……」
器にするつもりだったのか。
自分の家族が。
灰原家が。
当主が。
祖父が。
誠の指先が震える。
書物の頁が、かさりと鳴った。
炎を灯した右手まで、わずかに揺れている。
だが、そこで終わりではなかった。
次の行が、目に入る。
『経過観察・第三段階』
『拒絶反応、想定値を大幅に超過』
『器の霊的構造が崩壊を開始』
『被験体・灰原誠、死亡』
誠の視界が、揺らいだ。
「……は?」
声が出たのかどうか、自分でも分からない。
死亡。
今、何と書いてあった。
誠は頁に顔を近づける。
見間違いではない。
書いてある。
灰原誠、死亡。
「……何、言って」
指先が、頁に触れる。
そこだけがやけに冷たかった。
死亡。
なら自分は何だ。
ここに立って、読んでいる自分は何なんだ。
意味が分からない。
だが記録は、そんな誠の混乱を一切顧みず、さらに先へ進んでいた。
『拒絶反応に伴い、聖杯核が暴走』
『余波、地下霊脈へ流入』
『汚染発生』
『霊脈接続者、複数名に致死的汚染を確認』
誠は、喉を押さえた。
呼吸がうまくできない。
文字が、凶器みたいに目へ飛び込んでくる。
『灰原家当主嫡男夫妻、死亡』
『藍沢家当主夫妻、死亡』
『同家配下術者、複数死亡』
誠の手から、書物が滑り落ちかけた。
だが、落ちなかった。
指先だけが意地みたいに表紙へ引っかかっている。
藍沢家当主夫妻、死亡。
その一文が、頭の中で何度も反響していた。
自分のせいだ。
そう思った瞬間、胸の奥に、冷たい針を何本も打ち込まれたみたいな痛みが走る。
父も母も。
藍沢紗月の両親も。
灰原家の実験の余波で死んだ。
自分を器にするために。
自分が、聖杯になれなかったから。
「……っ」
吐き気が込み上げる。
誠はもう一度頁を見ようとして——耐えきれず、書物を床へ叩きつけた。
ばさり、と重い音が地下に響く。
埃が舞った。
「ふざけるなよ……!」
叫んだ声は、広い地下工房の中で空しく反響した。
だが怒鳴ったところで、何も戻らない。
死んだ者は戻らない。
書かれていたことも、消えない。
誠は肩で息をしながら、足元の書物を睨みつけた。
革表紙が床で半ば開き、さっきの記録がまだそこに残っている。
まるで、目を逸らすことすら許さないみたいに。
「……まだ、あるんだろ」
低く呟く。
こんな記録だけで終わるはずがない。
灰原家が失敗して、それで全部終わったなら、今の自分は存在していない。
今ここにいる以上、どこかで何かが続いている。
続きを。
その先を。
知らなければならない。
誠は荒く息を整え、別の棚へ歩いた。
炎を掲げる右手が、わずかに震えている。
だが、もう止められなかった。
本棚には年代ごとに整理されたらしい記録束が並んでいる。
札が付いていた。
第一次計画。
霊核定着試験。
器選定記録。
暴走事故報告。
そして、その少し隣。
『第一次計画失敗後 代替案』
誠の指が、その紐綴じの資料へ伸びる。
嫌な確信があった。
開きたくない。
だが、開かなければならない。
誠は資料を引き抜き、その場で頁を繰った。
最初の数頁は、事故後の影響評価だった。
灰原家の人的損失。
霊脈汚染による土地の機能低下。
協力家系の崩壊。
外部からの監視強化。
そして、次の項目に目が止まる。
『器候補の再選定について』
誠は、唇を噛んだ。
読み進める。
『灰原家の直系および分家を含め、現時点で聖杯器に耐え得る候補は存在せず』
『第一次失敗の影響により家勢は著しく低下』
『外部より新たな適格者を秘匿裡に確保することも困難』
『よって、家系内候補の自然発生は断念』
誠の眉が寄る。
次の行を見た瞬間、背筋がさらに冷えた。
『代替として、アインツベルン家方式を模倣する』
『すなわち、人為的に器そのものを育成する』
「……ホムンクルス」
自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえた。
頁をめくる。
『見様見真似の生成では成果は不安定』
『単一育成では歩留まりが低すぎる』
『安定個体の出現率を補うため、常に数十の並列育成を行う』
誠の指が、そこで止まった。
嫌な予感が、形になる。
その下に並んでいたのは、番号の一覧だった。
個体識別符号。
育成槽番号。
成長段階。
調整値。
廃棄理由。
そして、全ての欄の上に、共通して書かれている名称。
『灰原誠』
誠は、呼吸を忘れた。
目を見開いたまま、頁を凝視する。
見間違いではない。
一つではない。
二つでもない。
ずらりと並んだ一覧の、どれもが。
全部。
全部、『灰原誠』だった。
「……なんだよ、これ」
声が、震えた。
理解したくなかった。
だが記録は明確だった。
『基礎人格形成前に名称統一』
『器としての自己同一性安定化のため、全個体に同名を付与』
『灰原誠一号』
『灰原誠二号』
『灰原誠三号』
『灰原誠四号』
その先も、まだ続いている。
十。
二十。
三十。
頁をめくるたびに増えていく。
成長不良。
定着失敗。
精神崩壊。
霊的過負荷。
廃棄。
凍結。
再調整。
そのどれもが、ただの記録として処理されていた。
まるで人間ではなく、部品の管理表でも見るように。
誠は、思わず一歩後ずさった。
足が、本棚へぶつかる。
鈍い音がした。
だがそんなことはどうでもよかった。
「……数十の、『俺』……?」
喉の奥で、言葉が引っかかる。
自分が器として一度死んだ。
それでも終わらなかった。
だから灰原家は、今度は人工的に、聖杯の器を量産しようとした。
しかも。
全部、自分の名前で。
全部、『灰原誠』として。
吐き気が込み上げる。
自分というものの輪郭が、足元から崩れていくみたいだった。
自分は誰だ。
唯一の灰原誠なのか。
ただ、何十と作られたうちの一つなのか。
今まで生きてきた記憶は、本当に自分だけのものなのか。
頁が、震える指先の中でかさかさと鳴った。
さらに先へ目を走らせる。
そこには、計画の継承に関する記述があった。
『当主・灰原一之進の高齢化に伴い、計画の継続は家単独では困難』
『一之進死亡後、管理権の一部を黒野家へ委譲』
『以後、育成管理・調整・外部擬装は黒野家主導で継続』
黒野家。
誠の目が揺れる。
黒野理央の顔が、脳裏を掠めた。
あいつは、どこまで知っている。
黒野の家は、何を引き継いだ。
自分の育成。
調整。
擬装。
その一語一語が、誠の内側を冷たく切り裂いていく。
知らなかったでは済まないほど、具体的だった。
偶然ではない。
誤解でもない。
灰原誠という名前の個体を、器として複数並列育成し、その事業を黒野家が引き継いだ。
そう、はっきり書いてある。
「……っ、うそだ」
また同じ言葉が漏れる。
だが、もう否定の響きはなかった。
ただ、現実を受け止めきれない人間の、空虚な声だった。
誠は資料を持ったまま、しばらく動けなかった。
地下工房の空気は冷たいのに、背中だけがじっとり汗ばんでいる。
炎の明かりが揺れるたび、棚の影が幾重にも重なった。
それがまるで、番号を付けられた無数の『灰原誠』たちが、沈黙したままこちらを見ているように思えた。
誠は、乾いた唇を舐めた。
震える指で、さらに頁をめくる。
もう見たくない。
なのに、ここで目を逸らせば、自分が何者なのか永遠に分からなくなる気がした。
記録は、次の段階へ進んでいた。
『並列育成計画・補遺』
『盗得資料のみを基礎としたホムンクルス生成は、やはり極めて不安定』
『アインツベルンの完成された器に比し、肉体強度・霊的容量・自己維持能のいずれも未熟』
『特に寿命の短命化が顕著』
誠の喉が、ひくりと動く。
短命化。
書いてある言葉自体は冷静なのに、その中身はあまりにも残酷だった。
『やむなく、個体死亡のたびに聖杯核を再移植』
『霊核の残滓を回収し、次個体へ段階的に継承』
『回数を重ねるごとに、器としての完成度は漸進的に向上』
『一回の完成を目指すのではなく、累積的な調整工程として運用する』
誠は、頁を持つ手に力を込めすぎて、紙を少しだけ折りそうになった。
死亡のたびに。
再移植。
次個体へ。
つまり。
一人一人の『灰原誠』は、完成品ではなかった。
ただの途中だった。
次へ、次へと繋ぐための、部品だった。
自分の名前を付けられた何十もの存在が、短い寿命の中で死に、そのたびに中身だけが剥がされ、次の誰かへ詰め直されていった。
誠は、思わず吐きそうになって、口元を押さえた。
「……なんだよ、それ」
声が、掠れる。
記録は止まらない。
そこには番号ごとの、簡潔すぎる観察結果が並んでいた。
『第十一号 移植後三十七日で崩壊』
『第十九号 定着率向上、ただし精神不安定』
『第二十七号 肉体維持に成功するも霊核出力不足』
『第三十四号 成長促進に伴う器容量拡張、部分的成功』
『第四十二号 拒絶反応軽微、寿命短縮』
『第五十一号 核保持安定、人格形成に乱れあり』
その一つ一つの数字が、人間の名前の代わりみたいに並んでいる。
生まれて。
育てられて。
死んで。
また次へ。
その果てに。
頁の末尾に、太い線で区切られた項目があった。
『第五十八号』
誠の呼吸が、止まる。
視線が、その一文へ吸い寄せられる。
『急速成長処置を実施』
『外見年齢、おおよそ人間の十六歳相当まで到達』
『肉体容量、聖杯核の最終定着に耐え得る基準値へ到達』
『同個体へ聖杯核を移植』
指先が、痺れる。
自分の年齢。
今の、自分と同じくらいの。
その先を、誠は読んだ。
『聖杯核、ここに完成』
『以後は充填工程へ移行』
『器は成立済み』
『後は聖杯を満たすのみ』
誠の瞳が揺れる。
そして最後に。
『第五十八号を現行個体として確定』
『対外的識別名は引き続き「灰原誠」を使用』
『これをもって、聖杯戦争を開始する』
地下工房の空気が、一瞬で凍りついたみたいに感じた。
「……第五十八号」
呟いた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
五十八。
そこへ辿り着くまでに、五十七の『灰原誠』がいた。
失敗して、死んで、核だけ剥がされて、次へ渡された。
その積み重ねの上に、今の自分がいる。
自分は生まれたのではなく、完成したのか。
そう思った瞬間、足元がふらついた。
誠は慌てて近くの机へ手をつく。
炎が大きく揺れ、赤い光が資料の上を走った。
「……じゃあ俺は」
その先を、言葉にできなかった。
人間なのか。
ホムンクルスなのか。
灰原誠なのか。
第五十八号なのか。
頭の中で、問いだけがぐるぐる回る。
その時。
頁の合間に、何かが挟まっているのが見えた。
紙ではない。
少し厚みがある。
誠は、震える指でそれを引き抜いた。
写真だった。
古びているが、保存状態は悪くない。
炎の光にかざす。
そこに映っていたのは、何人かの人影だった。
少し若い男。
眼鏡を掛けた、学者風の者たち。
白衣を着た人間もいる。
そして、その中央付近に。
「……黒野、恒一郎」
少し若い、黒野恒一郎が立っていた。
今の面影を残しつつ、まだ皺が少なく、表情も硬い。
その隣には、見たことのない学者風の人物たちが並んでいる。
だが、誠の目を引いたのはそこではなかった。
前列。
大人たちの前に、二人の子供が立っている。
一人は、すぐに分かった。
幼い黒野理央だった。
まだ今よりずっと幼く、小柄で、けれど目元には確かにあの面影がある。
そして、その隣。
同年代に見える少年が、立っていた。
笑っていた。
無邪気な、作り物みたいに整った笑顔で。
黒野理央の隣で、当たり前みたいに。
まるで幼馴染か、兄妹みたいな距離で。
その顔を見た瞬間。
誠の全身から、血の気が引いた。
「……俺、だ」
いや。
自分に、そっくりだった。
髪も。
顔立ちも。
まだ幼かった頃の自分自身が、そのまま写真の中へ入り込んだみたいに。
けれど、違う。
その笑顔には、誠の知らない時間がある。
誠の知らない記憶がある。
自分のはずなのに、自分ではない。
写真の中の『灰原誠』は、確かにそこにいた。
照れ臭そうに笑う黒野理央の隣で。
周囲の大人たちに囲まれながら。
まるで何も知らない子供の顔で、笑っていた。