誠は、最後の頁を閉じた。
指先に残る紙の感触が、やけに生々しい。
もう読むものはなかった。
逃げ場も、言い訳も。
ただ、事実だけが残った。
地下工房の空気は冷たいはずなのに、全身が妙に熱い。
耳の奥で、心臓の音が暴れている。
どくん。
どくん。
どくん。
誠は一歩、後ろへ下がった。
足がもつれる。
石の床がぐらりと揺れたように感じる。
「意味が、分からない」
掠れた声が漏れる。
さらに一歩。
さらに一歩。
背中が本棚にぶつかる。
書物がわずかに揺れ、乾いた音が地下に響いた。
誠は両手で頭を押さえた。
こめかみの奥が焼けるように痛む。
記憶が、思考が、現実が、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
「……夢だ」
小さく呟く。
「こんなの……夢だ……」
膝が折れた。
そのまま床へ崩れ落ちる。
石の冷たさが伝わる。
だが、それすら現実味がなかった。
「夢だ……夢だ……」
ぶつぶつと、繰り返す。
自分に言い聞かせるように。
そうでもしなければ、頭が壊れそうだった。
視線が彷徨う。
机の上。
書物の山。
吊るされた鎖。
そして。
壁に掛かった、古びたカレンダー。
誠は、はっと息を呑んだ。
「……違う」
日付が。
資料の日付と。
合っていない。
廊下にかけてあったカレンダーには、16年前の日付が、そして資料には16年前から十数年分の夥しい記録が。
矛盾している。
「……夢だ」
もう一度呟く。
声が震える。
「全部、夢だ……そうだ……」
現実ではない。
現実であってはいけない。
自分が五十八号で。
死んでいて。
聖杯で。
家族が死んでいて。
そんなもの、現実であっていいはずがない。
誠は頭を抱えたまま、石床に蹲った。
呼吸が浅い。
視界の端が暗くなる。
その時だった。
──こつ。
小さな音がした。
地下工房のどこかで。
誠の身体が、びくりと跳ねる。
顔を上げる。
炎の光が揺れ、影が伸びる。
──こつ。
もう一度。
足音。
誰かの。
ゆっくりと近づいてくる。
誠は息を止めた。
研究室の奥。
棚と装置が作る濃い影の中から。
何かが、動いた。
やがて。
ひとりの女性が、静かに歩み出てきた。
炎の橙の光が、その姿をわずかに照らす。
髪は銀色だった。
だが純粋な銀ではない。
微かに青みを帯びた、不思議な色合い。
光を受けるたび、水面のように冷たく揺れる。
顔は見えない。
薄いベールが、頭から胸元までを覆っている。
布は透けるように薄いのに、表情だけは決して読み取れなかった。
白い衣。
細い指先。
足音はほとんどしない。
まるで最初からそこにいた存在が、影から形を持ったみたいだった。
女性は、蹲る誠の前で足を止めた。
しばらく、何も言わない。
ただ、静かに見下ろしている。
やがて。
薄いベールの奥から、囁くような声が落ちた。
「ええ……これは夢です」
静かだった。
驚くほど穏やかで。
だが、どこか冷たい。
誠の背筋に、ぞくりとしたものが走る。
女性は、ほんのわずか首を傾けた。
「記憶を元に構成された、悪夢」
その言葉は、空気へ溶けるように広がった。
誠の瞳が揺れる。
「……なに、言って」
声が震えた。
理解したくない。
だが耳は確かに聞いている。
夢。
悪夢。
記憶。
女性は答えない。
ただ一歩、こちらへ近づいた。
石の床を踏む音が、やけに鮮明に響く。
誠の心臓が跳ねた。
「来るな……!」
反射的に右手を持ち上げる。
掌に宿る炎が、一気に膨れ上がった。
橙の光が激しく揺れる。
熱気が広がる。
地下工房の空気が歪む。
炎は誠の心の乱れをそのまま映すように、荒々しく燃え上がった。
「それ以上近づくな……!」
声は怒鳴りに近かった。
威嚇。
恐怖。
混乱。
全部が混ざっている。
炎の光が女性の白い衣を照らす。
だが。
女性は、止まらなかった。
炎を見ても。
誠の叫びを聞いても。
まるで最初からそれが意味を持たないかのように。
静かに。
確実に。
歩み寄ってくる。
ベールがわずかに揺れる。
青みがかった銀髪が、光を反射する。
距離が、縮まる。
誠の呼吸が荒くなる。
「来るなって言ってるだろ……!」
炎がさらに大きくなる。
掌から溢れ出し、腕の周囲まで燃え広がる。
熱が皮膚を焼く。
だが誠は気づいていない。
それほど、心の均衡は崩れかけていた。
「消えろ……!」
叫ぶ。
「夢なら……消えろよ……!」
女性は、その言葉を聞いても足を止めなかった。
やがて。
誠のすぐ目の前まで来る。
炎の熱風がベールを揺らす。
それでも。
一歩も退かない。
まるで炎など存在しないかのように。
女性は、誠の炎の中へさらに踏み込んだ。
揺れる橙の光が、その白い衣を飲み込む。
だが。
やはり何も起きない。
燃えない。
焦げない。
ただ炎が、その周囲だけ静かに退いていく。
誠の瞳が、恐怖に見開かれる。
女性は、ほんのわずか顔を近づけた。
ベール越しに視線が合ったような錯覚がする。
そして。
囁いた。
「貴方をここに呼んだのは──私達です」
その言葉は、静かだった。
あまりにも静かで。
それなのに、誠の胸の奥へ直接落ちてくるような重さがあった。
「……は?」
誠の喉から、乾いた声が漏れる。
「……私達?」
理解が追いつかない。
恐怖よりも先に、違和感が走る。
誠は炎を構えたまま、女性を睨みつけた。
「誰だよ……」
声が荒れる。
「“私達”って……何だ……お前一人だろ……!」
問い詰める。
怒鳴るように。
だが女性は、答えなかった。
沈黙。
ほんの一瞬。
その時だった。
──こつ。
背後で音がした。
誠の肩が跳ねる。
振り向く。
誰もいない。
吊られた鎖が、わずかに揺れているだけだ。
炎の光が影を歪める。
誠は歯を食いしばる。
再び女性へ視線を戻す。
「ふざけるな……!」
言いかけた瞬間。
──ずる。
今度は横。
棚の隙間の奥で、何かが擦れるような音。
誠は反射的に炎を向けた。
光が走る。
だが。
やはり、何もいない。
ただ。
そこに“何かがいたはずの空間”だけが残っている。
冷たい空気。
重たい沈黙。
そして。
次の瞬間。
──ざり。
──ずる。
──こつ。
──ぬる。
研究室のあちこちから、一斉に物音が鳴り始めた。
机の下。
本棚の影。
吊り下げられた装置の裏。
石壁の亀裂の奥。
見えない場所すべてから。
何かが這いずる気配。
湿った。
重たい。
呼吸をしているような存在感。
誠の背中に冷たい汗が伝う。
「……誰だ」
声が震える。
「誰がいる……!」
振り返る。
炎を振り回すように周囲を照らす。
だが。
何もいない。
誰も。
何も。
影だけが揺れる。
それなのに。
確かに“囲まれている”感覚だけが強まっていく。
気配が、近づく。
床を這うように。
壁を伝うように。
天井の奥から見下ろすように。
視線。
無数の視線。
誠は息を呑んだ。
首筋に、何かの気配を感じる。
反射的に振り向く。
やはり誰もいない。
だが。
耳元で、微かな音がした気がした。
まるで。
何人もの誰かが、同時に囁こうとしているみたいに。
誠はゆっくりと女性へ視線を戻す。
女性は、最初と同じ場所に立っている。
「いずれ貴方の瞳でも彼らを見る事が出来るようになります。しかし、今はまだ……故に、私が使者として人の姿を取りました」
誠の喉が、ひくりと震えた。
炎はまだ掌で荒々しく揺れている。
だが、その熱はもはや威嚇のためのものではなかった。
恐怖を押し留めるための、ただの拠り所だった。
「……お前は、誰だ」
低く、押し殺した声。
それでも抑えきれない怒気が滲む。
「彼らって何だ……今の気配は何だ……!」
一歩、踏み込む。
炎が揺れる。
光が女性のベールを透かし、青みがかった銀髪の輪郭だけを浮かび上がらせた。
「答えろよ……!」
誠の声が地下に反響する。
「ここは何なんだ。お前らは何なんだ。俺を呼んだって……どういう意味だ!」
沈黙。
女性はすぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと顔を上げる。
ベールの奥。
確かに視線が合った。
そう感じた瞬間、誠の背中を冷たいものが走る。
そして。
女性は静かに口を開いた。
「……私は、エーブリエタース」
聞き慣れない名だった。
異様な響き。
言葉というより、概念そのものが落ちてくるような感覚。
誠の眉が寄る。
「……何だそれ」
吐き捨てるように言う。
「ふざけてるのか……」
だが女性は構わない。
続ける。
「人ならざるもの」
静かだった。
「貴方の使い魔──サーヴァントと出自を同じくする存在」
その一言で。
誠の表情が凍りついた。
「……マリアと?」
炎が、わずかに弱まる。
集中が揺らいだ。
女性は、ほんのわずかに頷いた。
ベールが静かに揺れる。
「ええ」
囁くような声。
「私達は、とある世界において、通常生命体を超越した存在として在りました」
一拍。
「貴方たちの言葉で言うなら──上位者」
その単語が落ちた瞬間、地下工房の空気がまたひとつ重くなった気がした。
誠の喉が鳴る。
「……上位、者」
聞き覚えのあるような、ないような、けれど確かに不吉な響きだった。
女性は続ける。
「獣でもなく、人でもなく、神でもない」
「ただ、より深く、より遠くへ至ろうとした果てに、人の理から外れたもの。あるいは、そのように願い生み出されたもの」
その声音には誇りも自嘲もなかった。
ただ、遠い事実を告げるだけの響きだった。
誠は炎を構えたまま、唇を引き結ぶ。
「……それが、マリアと何の関係がある」
女性の銀髪が、炎の明滅に合わせて冷たく光る。
「彼女は元は人間です」
その言葉に、誠の目が揺れた。
「ですが今は違う」
「彼女は我らの末席に連なるもの」
「最も新しき上位者」
「私達の、愛しき赤ん坊」
誠の指先が、ぴくりと震える。
マリア。
人を灼き、獣の病を処置と呼び、それでも時折ひどく人間らしい顔を見せる存在。
女性は、誠の言葉を遮らずに聞いていた。
炎の揺らめきがベールを透かし、輪郭だけを淡く浮かび上がらせる。
やがて、静かに口を開く。
「貴方は、彼女のマスター」
低く、確かめるような声音だった。
「遠い縁ではありますが──確かに繋がっています」
誠の眉が寄る。
「……縁?」
「ええ」
女性はわずかに頷いた。
「その縁を辿り、私達は貴方をこの悪夢へ呼び込みました」
誠の炎が、ぴたりと揺れを止めた。
「……呼び込んだ?」
声が掠れる。
「なんのために……」
女性は、周囲の闇を一度見渡した。
見えない何かが、同調するようにざわめく。
「私達の一部は、すでに貴方たちの世界へ流入しています」
「ですが──完全には顕現できていない」
「世界の理が、我らの在り方を拒んでいるため」
地下の空気が、ひときわ冷たくなる。
「ゆえに、夢を媒介とするしかなかったのです」
「記憶と精神が最も脆く、同時に最も深く繋がる領域」
「そこならば、わずかに触れることができる」
誠は息を呑んだ。
つまり。
ここはただの幻覚ではない。
夢という形で成立した“接触”の場。
人の理の外にあるものと、無理やり接続された空間。
「……俺を、呼んだ理由は」
女性は、ほんのわずかに首を傾ける。
ベールの奥で、何かが微笑んだ気がした。
「確認するためです」
「確認……?」
「ええ」
その声は相変わらず穏やかだった。
だが、意味だけが底知れなく冷たい。
「我ら上位者には、ひとつの目的があります」
「存在し続けること」
「変質しながら、継承されること」
「つまり──子孫を残すこと」
誠の思考が、一瞬止まった。
理解が遅れてやってくる。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
女性は、わずかに首を傾けたまま続けた。
「しかし」
一拍。
「それは、もはや容易なことではありません」
地下工房の闇が、静かに脈打つ。
「上位者とは、生物としての段階を越えてしまった存在」
「肉体という殻を超え、精神と概念へ近づいたもの」
「その代償として──生殖能力を失いました」
誠の炎が、微かに揺れる。
女性の声は、変わらず穏やかだった。
「我らは子をなすことができない」
「種としての継承が断たれている」
「それは、上へ至った者の宿命です」
誠の喉が鳴る。
背後で、何かが這う気配が強まった。
「……じゃあ」
絞り出すような声。
「お前らは……どうやって増えるんだよ」
女性はすぐには答えなかった。
代わりに、静かに誠を見つめている。
やがて。
「稀に」
と、言った。
「人が上位者へ成り代わることがあります」
「狂気、儀式、祝福、事故──理由は様々ですが」
「それは“誕生”ではない」
「ただの変質」
「連なりではなく、断絶」
誠の胸の奥がざわつく。
「それは子孫とは呼べません」
女性の声が、ほんのわずか低くなった。
「我らは“次”を残していない」
「ゆえに、種としてはすでに終わりかけている存在」
その事実は、あまりにも静かに告げられた。
だが重みだけは、異様だった。
誠の炎が小さくなる。
恐怖ではない。
理解し始めてしまったことによる、嫌な冷え。
「……貴方の使い魔は」
無意識に呟く。
女性は頷いた。
「彼女は特別です」
「複雑かつ途方もない過程を経て」
「一度“新たな赤子”として成立した」
その言葉が落ちた瞬間。
闇のざわめきが、明らかに強くなる。
見えない何かが歓喜している。
「それは奇跡に近い現象でした」
「偶然と必然が絡み合い」
「人でありながら上位者となり」
「さらに“再び始まる存在”として成立した」
誠の瞳が揺れる。
理解したくないのに。
意味が繋がってしまう。
「ですが」
女性は静かに続ける。
「それは一度きりでは意味がない」
「継続されなければならない」
「連なりとして成立しなければならない」
「でなければ」
ほんの一瞬、声が空虚になった。
「我らは本懐を遂げることができない」
種として。
存在として。
世界に刻まれることなく、ただ消えていく。
女性は、そっと手を伸ばした。
炎が触れる寸前で、やはり静かに退く。
「ゆえに」
囁く。
「最も新しき上位者の番」
「その可能性」
「その結果」
「それを確かめる必要があったのです」
誠は、しばらく瞬きすらできなかった。
「……番」
その一語だけが、嫌に生々しく耳の奥へ残る。
女性は静かに佇んだまま、次の言葉を待っているようにも、すでに全部を言い終えたようにも見えた。
地下工房の闇はざわめいている。
見えない何かが、息を潜めて聞いている。
誠の喉が、ひくりと鳴る。
「……ふざけるな」
低い声だった。
怒りとも、困惑ともつかない。
だがそのどちらも確かに混ざっていた。
「何を勝手に——」
言いかけた、その時だった。
女性が、ほんの少しだけ肩を揺らした。
次の瞬間。
「なーんちゃって」
あまりにも軽い調子で、そう言った。
「…………は?」
誠の思考が、完全に止まる。
今までの静謐で底知れない雰囲気を、まるで自分で蹴り飛ばすみたいな口調だった。
闇のざわめきすら、一瞬だけ間を失ったように静まる。
女性——エーブリエタースは、くすりと笑った気配を滲ませた。
ベールの奥の表情は見えない。
だが、確かに今、笑った。
「そこまで露骨に固まられると、さすがに少し可哀想になってしまって」
囁くような声はそのままだったが、響きだけがわずかに柔らかい。
誠は呆然としたまま、炎を構え続けていた。
「……お前」
「安心なさい」
女性はさらりと言う。
「私は人ではありませんが、人の機微というものをまるで理解できないわけではありません」
一拍。
「少なくとも貴方と、貴方がマリアと呼ぶ彼女が男女の関係にないことくらいは分かります」
誠の顔が、一瞬で引きつった。
「な……っ」
耳まで熱くなる。
さっきまで別種の恐怖で凍っていた身体が、今度は別方向から殴られたみたいに硬直する。
「加えて」
少しだけ首を傾ける。
「聖杯戦争における使い魔の成立形態を考えるなら、どのみち現状の彼女が子を成すことは難しいでしょう」
その一言で、誠の怒鳴りかけた声が止まる。
「……どういう意味だよ」
「サーヴァントとして現界している彼女は、あくまで召喚の枠組みに規定された存在です」
「世界に仮留めされた、戦うための形」
「そこに通常の生殖機構や継承過程を期待するのは、たぶん無理があります」
“たぶん”という妙に人間臭い言い回しが、かえって不気味だった。
エーブリエタースは炎の縁へ細い指先を差し入れる。
やはり燃えない。
熱も通じていないように見える。
「ですから、先ほどの話は半分ほど概念的なものでした」
「上位者の目的としては事実」
「けれど、少なくとも貴方と彼女について今すぐどうこう、という話ではありません。何回か中に出してもらって、どうなるか確かめて欲しいという興味はありますが」
安堵していいのか。
腹を立てるべきなのか。
判断がつかない。
「中にっ……冗談にしては、質が悪すぎるだろ」
掠れた声で言う。
エーブリエタースはほんの少しだけ黙った。
それから、
「そうですね」
と、素直に認めた。
「悪夢の中で言うには、あまり趣味のいい話題ではなかったかもしれません」
「だったら最初から言うなよ……!」
誠は、しばらく言葉を失ったままだった。
今、何を聞かされたのか。
何を聞かされかけて、何を茶化されたのか。
頭の中が追いつかない。
誠は荒い息をひとつ吐き、額を押さえる。
「……もう、わけ分かんねえよ」
掠れた声だった。
それでも、どうにか視線を上げる。
エーブリエタースは相変わらず静かに立っている。
地下工房の闇は、遠くでまだざわついている。
見えない何かが、聞いている。
誠は歯を食いしばった。
「なら、せめてこれを説明しろ」
低く言う。
「悪夢だって言うなら……夢を見てる誰かがいるはずだろ」
炎が、わずかに揺れた。
「記憶を元に構成された悪夢なんだろ。だったら、これは誰の夢なんだよ」
問いは、地下に重く落ちた。
エーブリエタースは、一瞬だけ沈黙した。
それから、ほんの少しだけ首を傾ける。
「ああ」
思い出した、というような声音だった。
「そうでした」
静かな声。
だが今度は、どこか人間じみた困り方が混じっている。
「私のお節介は、あくまでついで」
誠の眉が寄る。
「……は?」
女性は続ける。
「真実を貴方に知ってほしいという欲求に、私達が相乗りさせてもらったのです」
誠の喉がひくりと鳴った。
「……誰だよ」
今度は、怒鳴るでもなく。
ただ、絞り出すような声だった。
「誰が……そんなこと望んでるって言うんだよ」
エーブリエタースは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと両腕を持ち上げる。
その動作はあまりにも自然で、誠は最初、何が起きたのか分からなかった。
さっきまで、何も抱いていなかったはずだ。
なのに。
次に気づいた時には、彼女の腕の中に小さなものが収まっていた。
「……っ」
誠の呼吸が止まる。
赤子だった。
小さい。
白い布に包まれた、赤ん坊。
泣き声はしない。
ただ静かに、そこにいる。
ひどく小さくて、脆くて、そして妙に現実感があった。
エーブリエタースは、その赤子をそっと抱き上げる。
まるで見せるように。
誠の前へ、静かに差し出した。
「ほうら」
囁くような声だった。
「貴方のお兄ちゃんですよ」
その言葉を聞いた瞬間。
誠の全身から、一気に血の気が引いた。
「……は?」
自分でも、ひどく間の抜けた声だった。
だが他に何も出なかった。
兄。
今、何と言った。
エーブリエタースの腕の中で、赤子は静かだった。
眠っているのか。
それとも。
誠は一歩、無意識に後ずさる。
炎が揺れる。
影が歪む。
「ふざけるな」
低く言う。
だが声が震えている。
「そんな、わけ……」
兄など、いない。
少なくとも、誠はそう思って生きてきた。
家族構成も。
生まれた順番も。
自分が知っているはずのことだ。
なのに。
今まで読まされてきた資料の後では、その“知っている”という感覚自体が、もう信用できない。
エーブリエタースは、赤子を抱いたまま誠を見つめている。
ベールの奥の表情は見えない。
だが、その声音だけはどこまでも穏やかだった。
「貴方より先に、器として試された存在」
「貴方より先に、名を与えられた存在」
「そして──」
一拍。
「貴方より先に、失われた存在」
誠の指先が震える。
炎が、ぱち、と小さく爆ぜた。
胸の奥で、何かが嫌な音を立てて軋む。
資料に並んでいた番号。
記録。
死亡。
再移植。
その全部が、急に別の質量を持って迫ってきた。
“灰原誠”は、自分だけではなかった。
それは、もう十分すぎるほど突きつけられていた。
だが今。
その最初のひとりを、こうして目の前に出されると。
理解は、恐怖に変わる。
エーブリエタースは、抱いた赤子をほんの少しだけ揺らした。
あやすように。
けれど、その腕の中のものはやはり泣きもしなければ、身じろぎひとつしなかった。
「お兄さんは」
囁くような声だった。
「貴方に会いたいと、ずっと望んでいました」
誠の喉が、ひくりと鳴る。
「……やめろ」
かすれた声で言う。
だがエーブリエタースは止まらない。
「真実を伝えたいと」
「自分たちが何であったのかを、貴方に知ってほしいと」
「大変な無念を、抱えていたのです」
その言葉が落ちた瞬間。
地下工房の空気が、ぞわりと蠢いた。
誠は反射的に周囲を見回す。
さっきまで何もなかったはずの床。
石の冷たい床の上に。
いつの間にか、小さな影が並んでいた。
「……っ」
息が止まる。
ひとつやふたつではなかった。
赤ん坊。
白い布にくるまれた、小さな赤子。
その隣には、もう少し大きい、這い始める前くらいの幼子。
さらにその向こうには、未就学児ほどの年頃の男の子たちが、無言で座っている。
本棚の下に。
棚と棚の隙間に。
机の上に。
吊られた器具の影に。
研究机の端に、行儀よく腰掛けるようにして。
気づけば、この地下工房のあちこちが、小さな“灰原誠”たちで埋まっていた。
誰ひとり、泣かない。
笑わない。
喋らない。
ただ。
皆が、誠を見ていた。
じっと。
じっと。
まばたきも忘れたような目で。
幼い顔で。
誠を。
見ていた。
「……やめろ」
今度は、もう少しはっきり言った。
だが声が裏返る。
右手の炎が大きく揺れ、壁や棚に無数の影を投げた。
その影のせいで、子供たちの数がさらに増えたように見える。
「やめろ……!」
誠は一歩、後ずさる。
踵が石床を擦る。
だが逃げ場はない。
どこを見ても、いる。
床にも。
棚にも。
机にも。
小さな手。
白い顔。
黒い目。
皆が、誠だけを見ている。
エーブリエタースは、腕の中の動かない赤子を抱き直した。
その仕草だけがひどく丁寧で、余計にぞっとした。
そして。
まるで天気の話でもするみたいに、静かに続ける。
「お兄さん方は」
一拍。
「貴方に復讐を望んでいます」
誠の身体が、びくりと硬直した。
「……は?」
言葉の意味が、一瞬理解できない。
「な、んで……」
かろうじて出た声は、ひどくか細かった。
「俺が……何をしたって言うんだよ」
エーブリエタースは、答えを急がなかった。
地下工房のあちこちにいる子供たちは、やはり動かない。
ただ、誠を見ている。
それだけで、責められているようだった。
見知らぬはずなのに。
関係ないはずなのに。
その視線が、どうしようもなく“自分のもの”に似ているから。
誠は、唇を噛んだ。
「俺は……知らなかった」
絞り出すように言う。
「俺は、何も……」
そこで言葉が止まる。
本当にそうか。
何も知らなかったのは事実だ。
けれど、結果として今ここに立っているのは自分だ。
五十八号。
完成した器。
最後に残された“灰原誠”。
その事実だけで、前にいた何十もの“誠”たちを踏み台にしてここへ来たみたいな錯覚が、胸を締め上げる。
エーブリエタースは、そんな誠の揺らぎを見透かしたように囁いた。
「知っていたかどうかは、あまり重要ではありません」
「残された側から見れば」
「最後に生きている貴方が」
「すべてを持っていった者に見えるのです」
誠の瞳が揺れる。
床にいる幼子のひとりが、ほんのわずかに首を傾げたように見えた。
錯覚かもしれない。
だが、その小さな動きだけで背筋が総毛立つ。
「違う……」
誠は首を振る。
自分に言い聞かせるように。
「違う……俺は……」
何だ。
何なのだ。
被害者か。
生き残りか。
完成品か。
盗まれた人生の果てに残った殻か。
それとも、本当に、彼らの上に積み重なった最後のひとりなのか。
言葉が見つからない。
見つからないまま、視線だけがあちこちの子供たちの顔を追ってしまう。
赤ん坊。
幼子。
少し成長した少年。
皆、どこかしら自分に似ていた。
目元。
口元。
顔の輪郭。
そのどれかが、誠自身の面影と重なる。
それが何より、耐え難かった。
「……復讐って、何だよ」
誠はようやくそう言った。
声はかすれ、ほとんど消え入りそうだった。
「俺に、どうしろって言うんだ」
エーブリエタースは、すぐには答えなかった。
ただ腕の中の赤子を静かに見下ろす。
ベールの奥で、どんな顔をしているのかは分からない。
だが、その沈黙だけで、余計に不吉なものが広がっていく。
やがて。
彼女は、再び誠を見た。
「こんな世界、ぶっ壊しちゃえ」