Fate/You Died.   作:助兵衛

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第73話 決別

 黒野理央は、夢の底から引き上げられるみたいに目を開けた。

 

 最初に見えたのは、薄暗い倉庫の天井だった。

 

 ひび割れた白い塗装。

 

 扉の下の隙間から差し込む、細い廊下の灯り。

 

 眠気の膜がまだ目の奥に残っている。

 

 だが次の瞬間、胸の奥で何かが冷たく跳ねた。

 

「……っ」

 

 すぐ隣を見る。

 

 毛布。

 

 乱れた布。

 

 人がいたはずの窪み。

 

 そこに──誠がいない。

 

 理央の意識が一気に覚醒した。

 

「……え」

 

 上半身を跳ね起こす。

 

 もう一度、見る。

 

 見間違いじゃない。 

 

「灰原君……?」

 

 返事はなかった。

 

 毛布の皺だけが、ついさっきまでそこに誰かがいたことを示している。

 

 理央の喉が、ひくりと震えた。

 

「……嘘」

 

 眠気は一瞬で吹き飛んでいた。

 

 頭の奥が冷える。

 

 嫌な想像ばかりが、反射みたいに浮かぶ。

 

 理央は毛布を蹴るようにして立ち上がった。

 

 足元がもつれる。

 

 だが構わない。

 

 倉庫の扉へ向かう。

 

「灰原君……!」

 

 声を潜める余裕すらなかった。

 

 そのまま飛び出そうとした瞬間。

 

「待たれよ、理央殿」

 

 静かな声が、背後から飛んだ。

 

 理央はびくりと肩を震わせる。

 

 振り返る。

 

 倉庫の隅、壁にもたれるように座っていた九郎が、薄暗がりの中でこちらを見ていた。

 

 眠っていたように見えたのに、いつの間にか目を開けている。

 

 その姿勢は相変わらず妙に整っていて、年若い外見に似合わぬ落ち着きがあった。

 

「そう慌てるでない」

 

 九郎は、ゆっくりと立ち上がった。

 

 古めかしい着物の裾を軽く払う。

 

 動きに無駄がない。

 

「誠殿ならば、らんさあ殿に呼ばれて外へ出た」

 

 理央の瞳が見開かれる。

 

「外……?」

 

「うむ」

 

 九郎は小さく頷いた。

 

「避難民が増え、校内の備蓄だけでは心許ないそうでな。食糧調達のため、市役所へ向かった」

 

 理央は、しばらく言葉を失っていた。

 

 胸の奥で早鐘のように鳴っていた鼓動が、少しずつ現実に追いついてくる。

 

「……ほんとに?」

 

 疑うような声だった。

 

 九郎は静かに頷く。

 

「うむ。まりあ殿も共に行っておる。戦力を伴っての外出だ、無闇な危険はあるまい」

 

 理央は扉の方を見たまま、ゆっくり息を吐いた。

 

 それでも不安は消えない。

 

 むしろ、時間が経つほどにじわじわ膨らんでくる。

 

 九郎はそんな理央の様子を見て、ほんのわずか目を細めた。

 

「……それに」

 

 低く続ける。

 

「誠殿が外出してから、すでにそれなりの時が過ぎておる」

 

 理央が顔を上げる。

 

「え?」

 

「食糧を積み込み、戻るだけなら、そろそろ帰還しても不思議ではない頃合いでは無いか」

 

 理央は反射的に時計を探した。

 

 だがこの倉庫に、まともな時間の指標などない。

 

 体感だけが頼りだ。

 

 確かに。

 

 眠ってから、もうかなりの時間が流れている気がする。

 

 理央が何か言いかけた、その時だった。

 

 ──ぶるるるる……

 

 低い振動音が、校舎の外から伝わってきた。

 

 理央と九郎が同時に扉の方を見る。

 

 エンジン音だ。

 

 夜の静けさを破る、現実的な機械の音。

 

 やがてそれは近づき、校舎の正面あたりで止まった。

 

 ぶつり、と音が途切れる。

 

 一瞬の静寂。

 

 次の瞬間、外から人のざわめきが広がった。

 

「……!」

 

 理央はもう我慢できなかった。

 

 倉庫の扉を開け放ち、廊下へ飛び出す。

 

 九郎も慌てずその後に続く。

 

 廊下の灯りがいつもより明るく感じた。

 

 眠っていた避難民の何人かも起き出している。

 

 ざわざわとした気配が校舎全体に広がっていた。

 

 理央は階段を駆け下り、正面玄関へ向かう。

 

 扉の向こうから、外気とともに声が流れ込んでくる。

 

「気をつけろ!」

 

「重いぞそれ!」

 

「こっち運べ!」

 

 理央は玄関を抜けた。

 

 夜の空気が頬に当たる。

 

 校庭の照明が、薄暗く広い影を作っている。

 

 そして──

 

 正面玄関前に、一台のピックアップトラックが止められていた。

 

 荷台には段ボールが山のように積まれている。

 

 食料備蓄用の箱だ。

 

 缶詰。

 

 水。

 

 乾パン。

 

 レトルト。

 

 毛布まで混ざっている。

 

 避難していた人々が何人も集まり、協力して荷下ろしをしていた。

 

 普段は弱々しく見えた人たちの顔が、今は必死に働いている。

 

 誰かが笑い、誰かが声を張り上げる。

 

 さっきまでの沈んだ空気とは明らかに違う。

 

 理央はその光景を一瞬だけ呆然と見た。

 

 そして。

 

 トラックの運転席側のドアが開いた。

 

 見覚えのある影が降りてくる。

 

 理央の胸が強く跳ねた。

 

「……灰原君」

 

 誠は、ドアを閉める音と同時にその場へ足を下ろした。

 

 だが着地の瞬間、わずかに膝が沈む。

 

 踏みしめたはずの地面が、一瞬だけ遠く感じられたような、そんな危うい揺れ方だった。

 

 それでも何事もなかったかのように顔を上げる。

 

 周囲ではすでに人々が段ボールを抱え、列を作り始めている。

 

 誠はそれを見て、無言のまま歩き出した。

 

 列の最後尾へ加わろうとする。

 

 その背中に、低い声が飛んだ。

 

「おい、坊主」

 

 ランサーだった。

 

 荷台の縁に手をかけたまま、誠を見ている。

 

「無理すんな」

 

 誠は足を止めない。

 

「平気だ」

 

 短く言う。

 

 声が少しだけ掠れていた。

 

「人手は多い方がいい」

 

 そのまま段ボールへ手を伸ばす。

 

 だが持ち上げた瞬間、腕がほんのわずか震えた。

 

 箱はそれほど重くない。

 

 それなのに、誠の指先は力がうまく入らないように見えた。

 

 ランサーが眉をひそめる。

 

「……坊主」

 

 今度は少し強めの声だった。

 

「聞いてんのか。あの変な奴に何を見せられたのか知らねえけど、顔色がやべぇぞ」

 

 誠は答えない。

 

 そのまま一歩踏み出す。

 

 だが足取りが明らかに不安定だった。

 

 地面を踏み外しかける。

 

 ぐらり、と身体が傾く。

 

 ランサーが舌打ちして、荷台から飛び降りた。

 

 肩を掴む。

 

「だから言ってんだろ。無事に帰って来れたのは幸運だって事、しっかり自覚しろ」

 

 喧騒に紛れて、よく聞き取れない。

 

 だがその言葉の端々から、何かトラブルがあったことだけは分かる。

 

 無事に戻ってきた。

 

 だが、それだけだ。

 

 誠の顔には、濃い疲労の影が落ちていた。

 

 目の下が暗い。

 

 唇の色も悪い。

 

 そして何より、焦点がどこか遠い。

 

 理央はそれを見た瞬間、胸が締めつけられた。

 

「灰原君!」

 

 人の間を押し分けるようにして駆け寄る。

 

 足がもつれそうになるのも構わなかった。

 

 誠の前に立つ。

 

 息が荒い。

 

「大丈夫!? 怪我は──」

 

 そこまで言いかけて、言葉が止まった。

 

 誠が顔を上げた。

 

 ゆっくりと。

 

 そして。

 

 理央を、睨んだ。

 

 それは今まで見たことのない目だった。

 

 怒りとも違う。

 

 恐怖とも違う。

 

 もっと深く、鋭く、底のない何か。

 

 獣が牙を剥く直前みたいな、凄みのある視線。

 

 理央の呼吸が止まる。

 

「……っ」

 

 思わず一歩引きそうになる。

 

 誠の瞳は揺れていなかった。

 

 まるで何かを決めてしまった人間の目だった。

 

 夜の照明が、その眼の奥を黒く沈めている。

 

 周囲のざわめきが、急に遠くなった気がした。

 

 誠はしばらく何も言わない。

 

 ただ、理央を見据えている。

 

 やがて。

 

 誠の喉が、わずかに動いた。

 

「……後で」

 

 低い声だった。

 

 掠れているのに、不思議なほどはっきりと響く。

 

「聞きたい事がある」

 

 それだけだった。

 

 誠は理央の横をすり抜ける。

 

 肩がかすかに触れた。

 

 だがその体温は妙に冷たく感じられた。

 

 そのまま誰にも視線を向けず、校舎の方へ歩いていく。

 

 段ボールを運ぶ人々の列を外れ。

 

 喧騒の中心から静かに離れ。

 

 夜の影へ溶けるように。

 

 理央は、動けなかった。

 

 追いかけなければ。

 

 そう思うのに、足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。

 

 胸の奥で何かが重く沈む。

 

「……灰原君」

 

 自分でも気付かないうちに、呟いていた。

 

 隣でランサーが小さく息を吐く。

 

 理央ははっとして振り向いた。

 

「……何があったの」

 

 掠れた声だった。

 

「外で、何があったの」

 

 ランサーはすぐには答えなかった。

 

 周囲を一度見回す。

 

 段ボールを運ぶ列。

 

 ざわめく避難民。

 

 誰もこちらに注意を向けていないのを確認してから、低く言う。

 

「……物資は、予定通り集まった」

 

 淡々とした口調だった。

 

「市役所の備蓄は思ったより残ってた。車に積んで、さあ戻るかってところでな」

 

 一拍。

 

「妙な事が起きた」

 

 理央の喉が鳴る。

 

「……妙って」

 

「姿の見えねえ何かに」

 

 ランサーは言葉を選ぶように眉を寄せる。

 

「坊主が、いきなり掴み上げられた」

 

 理央の背筋が凍る。

 

「は……?」

 

「文字通りだ」

 

 低く続ける。

 

「宙に浮いた。足が地面から離れて、何かに絞め上げられてるみてえだった」

 

「坊主を掴んでいる何かを何本か破壊したんだが、キリがなくてな。そうこうしているうちに手が出せないほどの高さまで上げられて」

 

「しばらくしたら」

 

 ランサーは続ける。

 

「急に解放された」

 

 理央の指先が震える。

 

「……怪我は」

 

「ねえ」

 

 短い返答。

 

「だが」

 

 ランサーの目が細くなる。

 

「そこからだ」

 

 低く言う。

 

「様子がおかしくなったのは」

 

 解放された誠は、しばらく地面に膝をついていたという。

 

 呼吸が荒く。

 

 顔色が真っ白で。

 

 何かを必死に見ないようにしているみたいな顔だったと。

 

 理央は、そこでようやく我に返った。

 

「……っ」

 

 身体が勝手に動く。

 

 もう一度、校舎の方を見る。

 

 誠の背中は、とっくに見えなくなっていた。

 

 胸の奥が締めつけられる。

 

 嫌な予感が、はっきりと形を持ち始めていた。

 

「……探さなきゃ」

 

 呟く。

 

 今度は、足が動いた。

 

 理央は校舎へ駆け出す。

 

 正面玄関を抜け、廊下へ飛び込む。

 

 蛍光灯の白い光が、目に刺さる。

 

 避難民が何人も起き出している。

 

 毛布を抱えたまま立っている者。

 

 ざわめきの理由を探している者。

 

 だが理央には、それらすべてが背景のようにしか見えなかった。

 

 倉庫。

 

 

 教室。

 

 保健室。

 

 階段の踊り場。

 

 体育館の入口。

 

 どこにもいない。

 

 胸の奥がどんどん冷えていく。

 

 まるで校舎全体が空洞になってしまったみたいだった。

 

 誠の気配が、どこにもない。

 

「……灰原君……!」

 

 声が掠れる。

 

 それでも止まれない。

 

 理央は二階へ駆け上がる。

 

 廊下の端。

 

 職員室の前で、足が止まった。

 

 扉が、わずかに開いている。

 

 中から光が漏れていた。

 

 そして。

 

 何かを壊すような、鈍い音。

 

「……!」

 

 理央は息を呑む。

 

 恐る恐る扉を押し開ける。

 

 ぎぃ、と軋む音。

 

 中の光が、廊下へ流れ出す。

 

 職員室は荒れていた。

 

 机がずれている。

 

 椅子が倒れている。

 

 書類が床に散らばっている。

 

 そして奥。

 

 鍵付きの書類棚が──破壊されていた。

 

 ガラスは割れ。

 

 金属の扉は力任せにこじ開けられている。

 

 鍵の部分は、無残に歪んでいた。

 

 その前に。

 

 誠が座り込んでいた。

 

 床に散らばる紙の山の中で。

 

 無言で。

 

 書類をめくっている。

 

 個人票。

 

 生徒名簿。

 

 家庭調査票。

 

 住所。

 

 電話番号。

 

 保護者名。

 

 びっしりと書き込まれた個人情報。

 

 誠はそれを、ひたすら読んでいた。

 

 指先が紙をめくるたび、かさり、と乾いた音がする。

 

 理央はしばらく言葉を失った。

 

「……何、してるの」

 

 やっと声が出る。

 

 誠は顔を上げない。

 

 また一枚、めくる。

 

「灰原君」

 

 理央は一歩近づいた。

 

「やめて」

 

 震える声だった。

 

「そんなの……見てどうするの」

 

 誠の手が、止まった。

 

 数秒の沈黙。

 

 それから、ゆっくりと顔を上げる。

 

 瞳は暗かった。

 

 さっき校庭で見たものと同じ。

 

 だが今は、それ以上に冷たい。

 

「……確認してるだけだ」

 

 低く言う。

 

「何を」

 

 理央は問い返す。

 

 誠は答えない。

 

 ただ、また書類へ視線を落とす。

 

「……誰が」

 

 一枚。

 

「どこにいたか」

 

 もう一枚。

 

「いつ、何が起きたか」

 

 理央の背筋が寒くなる。

 

 誠は、まるで。

 

 人を探しているようだった。

 

 それも。

 

 ただの所在ではなく。

 

 もっと別の何かを。

 

 誠の指が、ぴたりと止まった。

 

 次の瞬間。

 

 手にしていた紙束の中から一枚を抜き取り、乱暴に理央の足元へ投げ捨てる。

 

 ぱさり、と乾いた音。

 

 理央は反射的に視線を落とした。

 

 生徒の出欠記録だった。

 

 欄外には、欠席理由や行事参加の有無が細かく書き込まれている。

 

 そして、ある名前の欄にだけ、不自然なほど印が並んでいた。

 

 灰原誠。

 

 定期的な欠席。

 

 体調不良。

 

 家庭の事情。

 

 公的行事不参加。

 

 式典欠席。

 

 健康診断一部免除。

 

 写真撮影不参加。

 

 理央の喉が、ひくりと鳴る。

 

「……っ」

 

 誠が、低い声で言った。

 

「これ」

 

 感情を削ぎ落とした声だった。

 

「どう言う事なんだ」

 

 理央は答えられない。

 

 紙の上の文字が、急に重みを持って迫ってくる。

 

 誠はゆっくり立ち上がった。

 

 床に散った書類を踏む。

 

 職員室の蛍光灯が、その顔を青白く照らしていた。

 

「学校の記録にも、ちゃんと残ってる」

 

 低く。

 

 はっきりと。

 

「灰原誠が、定期的に休んでるって」

 

 一歩。

 

 誠が近づく。

 

「行事にもほとんど出てない」

 

 もう一歩。

 

「写真もろくに残ってない」

 

 理央の肩が、びくりと震えた。

 

 誠の目は、理央から逸れない。

 

「お前は」

 

 その声だけで、理央の胸が締まる。

 

「知ってたのか」

 

 理央は息を呑む。

 

 誠は、さらに言う。

 

「俺が」

 

 一拍。

 

「五十八番目だって」

 

 職員室の空気が、凍りついたみたいに静まり返った。

 

 理央の唇が、わずかに動く。

 

 だが声にならない。

 

 言い訳が、何一つ浮かばなかった。

 

 理央の喉が震える。

 

「……わたし、は」

 

 そこで止まる。

 

 誠は黙って見ている。

 

 責めるように。

 

 裁くように。

 

 あるいは、ただ真実だけを求めるように。

 

 理央は俯いた。

 

 指先が、ぎゅっと震える。

 

 何か言わなければ。

 

 けれど、何を言っても軽すぎる。

 

 何を言っても遅すぎる。

 

 胸の奥に溜まっていたものが、急に全部重さを増した。

 

「……ごめんなさい」

 

 やっと出たのは、それだけだった。

 

 小さかった。

 

 ひどく、情けない声だった。

 

「ごめん、なさい……」

 

 誠の表情は、動かない。

 

 理央は顔を上げられない。

 

 謝ったところで何になるのか、自分でも分かっていた。

 

 違う。

 

 そんな言葉一つで済むはずがない。

 

 それでも。

 

 今の理央には、それしか言えなかった。

 

 誠はしばらく、何も言わなかった。

 

 沈黙だけが、職員室に重く落ちる。

 

 足元の書類が、冷たい蛍光灯の下で白く散らばっていた。

 

 やがて。

 

 誠の喉が、わずかに動いた。

 

「……そうか」

 

 それだけだった。

 

 怒鳴りもしない。

 

 責め立てもしない。

 

 だが、その静けさの方が、理央にはずっときつかった。

 

 理央は唇を噛む。

 

 目の奥が熱い。

 

 けれど泣く資格もない気がした。

 

 誠は、足元の書類からゆっくりと視線を上げた。

 

 その目には、もう迷いがなかった。

 

 怒りとも、悲しみとも違う。

 

 もっと冷たい、決壊した後の濁流みたいな色だった。

 

 理央は、その目を正面から受けてしまい、息を呑む。

 

「……灰原君」

 

 呼びかける声は、自分でも驚くほど弱かった。

 

 誠は答えない。

 

 代わりに、低く、喉の奥から絞り出すみたいに言った。

 

「マリア!」

 

 その瞬間。

 

 職員室の空気が、ひやりと冷えた。

 

 理央の肩が跳ねる。

 

 散らばった書類が、ふっと微かに揺れた。

 

 蛍光灯の白い光が一瞬だけ不安定に明滅し、机の影が長く歪む。

 

 そして。

 

 誠の背後。

 

 壊された書類棚の横に、いつの間にか女が立っていた。

 

 銀の髪。

 

 静かな微笑。

 

 霊体化を解いたマリアだった。

 

「お呼びでしょうか、マスター」

 

 柔らかい声音だった。

 

 だが、その場違いなほど穏やかな響きが、理央の背筋を余計に冷やす。

 

 誠は、理央から目を逸らさない。

 

 そのまま、低い声で言った。

 

「……そんなに聖杯戦争がしたいなら」

 

 一拍。

 

「してやるよ」

 

 理央の顔色が変わる。

 

「え……」

 

 誠は振り返りもしない。

 

 ただ、命じた。

 

「マリア」

 

 その声には、躊躇がなかった。

 

「黒野理央を殺せ」

 

 理央の思考が、一瞬で真っ白になる。

 

 耳鳴りがした。

 

 今、何を言われたのか。

 

 理解が追いつかない。

 

 だがマリアは、少しだけ目を細めただけだった。

 

 驚きもしない。

 

 ただ確認するように、静かに問い返す。

 

「……本当に、よろしいのですか?」

 

 囁くような声音。

 

「今ならまだ、取り消せます」

 

 誠は即答した。

 

「ごちゃごちゃ言うな、ぶっ殺せ」

 

 迷いのない声だった。

 

 冷たく。

 

 鋭く。

 

 それが冗談でも、勢いでもないのだと、理央にも分かった。

 

「……ええ、マスターがそうおっしゃるならば」

 

 マリアが、一歩踏み出す。

 

 床の上の書類を踏む音すらしない。

 

 ただ、白い指先だけが静かに持ち上がる。

 

 理央は呼吸を忘れた。

 

 逃げなきゃ。

 

 セイバーを呼ばなきゃ。

 

 頭ではそう分かっているのに、身体が動かない。

 

 誠の視線に縫い止められたみたいに、足が床へ貼りついていた。

 

 マリアの気配が変わる。

 

 冷たい。

 

 けれどその底に、獣よりもなお始末の悪い、処刑人の静かな殺意が沈んでいる。

 

 次の瞬間。

 

 マリアの姿が、消えた。

 

「──っ」

 

 理央の視界から白が消える。

 

 遅れて、右側から死の気配が突き刺さる。

 

 喉元。

 

 そこへ一直線に伸びる白い腕。

 

 避けられない。

 

 理央は反射的に目を閉じかけた。

 

 その瞬間。

 

 轟、と。

 

 職員室の空気そのものが叩き割られたみたいな音がした。

 

 銀と黒の塊が、横合いから割り込む。

 

 金属が軋む。

 

 床板が悲鳴を上げる。

 

 マリアの腕を、重い剣ごと受け止めた影があった。

 

「──ァァァァァァッ!」

 

 獣じみた咆哮。

 

 理央が目を見開く。

 

 そこにいたのは、セイバーだった。

 

 指示など受けていない。

 

 令呪も使っていない。

 

 それなのに。

 

 狂化した騎士は、理央の前へ割り込み、マリアの一撃を真正面から受け止めていた。

 

 甲冑が軋む。

 

 兜の奥から漏れる息は荒い。

 

 理性など、もうほとんど残っていないはずなのに。

 

 それでも、その背中だけは、はっきりと理央を庇っていた。

 

「……セイ、バー……?」

 

 理央の掠れた声に応えるものはない。

 

 あるのは、唸るような咆哮だけだ。

 

 マリアはほんの少しだけ目を細めた。

 

「まあ」

 

 興味深そうに呟く。

 

「命じられもせずに庇いますか」

 

 誠の目は、もう揺れていなかった。

 

 理央を庇うように立つセイバー。

 

 その前でわずかに身を引いたマリア。

 

 職員室に散らばる書類。

 

 割れたガラス。

 

 蛍光灯の白い光。

 

 その全部を、誠はひどく冷めた目で見渡した。

 

 そして、低く吐き捨てる。

 

「マリア!」

 

 その声に、マリアがわずかに首だけを巡らせる。

 

 誠は、一切の躊躇なく言い放った。

 

「宝具でも何でも使って、そいつを殺せ!」

 

 理央の全身が硬直する。

 

「……っ!」

 

 セイバーが獣じみた咆哮を漏らし、重い剣をさらに押し込む。

 

 マリアはその圧力を受け止めたまま、ほんの数秒だけ黙っていた。

 

 それから。

 

 深く。

 

 ひどく深く、ため息をついた。

 

「……まったく」

 

 静かな声だった。

 

 だが、その響きには、これまでの穏やかな仮面とは違うものが混じっていた。

 

「命令とあれば仕方ありませんね」

 

 セイバーが吼える。

 

 押し返そうと、全身の筋肉と魔力を剣に乗せる。

 

 だがマリアは、もうそれに構っていなかった。

 

 視線だけを、誠へ向ける。

 

「承知しました、マスター」

 

 一歩。

 

 下がる。

 

 ただそれだけで、空気が変わった。

 

 職員室の温度が、急激に下がる。

 

 理央の息が白くなるほどに。

 

 蛍光灯が、ばち、と小さく悲鳴を上げた。

 

 マリアが、両手をゆっくりと広げる。

 

 その指先が、まず崩れた。

 

「──宝具」

 

 囁くような声。

 

 けれど、その一言だけで、職員室の壁や床が微かに震えた。

 

 白い指がほどける。

 

 骨も、肉も、皮膚も、人の形そのものが融け落ちるように。

 

 細い腕が裂ける。

 

 肩が膨らみ、脈打ち、波打ちながら、異様な柔らかさを持った肉塊へ変わっていく。

 

 髪が広がる。

 

 銀糸のようだったそれは、もはや髪ではない。

 

 ぬめる触腕の束となって宙へほどけ、うごめき始める。

 

「……っ、あ……」

 

 理央の喉から、声にならない息が漏れた。

 

 人の姿が、失われていく。

 

 マリアだったものは、もはや女の輪郭を保てない。

 

 胴が裂ける。

 

 白い衣が破れるのではない。

 

 衣の内側から、夥しい数の触手が溢れ出し、布ごと飲み込み、押し広げ、破り、職員室いっぱいへ広がっていくのだ。

 

 机を這う。

 

 天井へ張りつく。

 

 棚へ巻きつく。

 

 床に散らばる書類の上を、ぬらりと滑る。

 

 一本ではない。

 

 二本でもない。

 

 数え切れない。

 

 掌ほどの太さのものから、人の腕ほどあるものまで、夥しい数の触手が、脈打ちながら絡み合い、ひとつの巨大な軟体の塊を形作っていく。

 

 中央に、もはや顔とは呼べないものが残っていた。

 

 裂けた肉の奥に、深い穴のような口。

 

 その周囲に、いくつもの光る裂け目。

 

 目なのか、器官なのかも分からない。

 

 だが、その全てが理央とセイバーを見ていた。

 

「これが……」

 

 マリアの声がした。

 

 どこからともなく。

 

 無数の触手の擦れ合う音に混じって。

 

「私の宝具、【星喰う黎明、あるいは海の底より来たるもの】ビーストイーター

 

「私の肉体、私という上位者、そのもの」

 

 セイバーが一歩踏み込む。

 

 狂った咆哮とともに剣を振り上げる。

 

 だが、遅い。

 

 もう、遅かった。

 

 触手の先端が、一斉に開いた。

 

 花が咲くように。

 

 あるいは、口が裂けるように。

 

 そのどれもの奥に、白い光が灯る。

 

「……っ!」

 

 理央の本能が叫ぶ。

 

 逃げろ、と。

 

 だが足は動かない。

 

 目の前の光景が、あまりにも現実離れしすぎていて、思考が追いつかない。

 

 セイバーが理央を背に庇うように踏み込む。

 

 剣を盾のように構える。

 

 その瞬間。

 

 マリアの全身から、極光が放たれた。

 

 轟音。

 

 いや。

 

 音より先に、世界が白く塗り潰された。

 

 各触手の先端から迸る、万物を焼き尽くす極光。

 

 掌から。口から。灼滅の光が、数十、数百の触手から一斉に放射される。

 

 職員室の机が、消し飛ぶ。

 

 書類が、影すら残さず蒸発する。

 

 壁が焼け、窓ガラスが一瞬で白熱し、そのまま弾け飛ぶ。

 

 蛍光灯が破裂し、天井板が吹き飛んだ。

 

 白が、世界を呑んだ。

 

 理央は、何も見えなかった。

 

 見えたのはただ、目の前に割り込んだ黒い背だけだった。

 

 セイバー。

 

 狂化した騎士の甲冑が、極光の奔流を真正面から受け止めている。

 

「──ァァァァァァァァァッ!!」

 

 咆哮が、焼ける音に掻き消される。

 

 鎧が融けた。

 

 黒鉄の兜が白熱し、輪郭ごと崩れていく。肩当てが爆ぜ、胸甲が裂け、その隙間から赤熱した肉と、さらにその奥の骨めいたものが覗いた。剣を握る腕が、光に晒された側から削がれるように失われていく。

 

 だが。

 

 それでもセイバーは、退かなかった。

 

 理央の前に立ち続ける。

 

 まるで己の全てを盾へ変えるように。

 

「セイバー……!」

 

 理央の悲鳴じみた声は、轟く極光の中で掻き消えた。

 

 熱が凄まじい。

 

 肌が焼ける。

 

 呼吸をするたび肺の奥まで灼けるようだった。

 

 だが、セイバーの巨体があるおかげで、理央の身体そのものはまだ残っている。

 

 理央を庇ったその背中が、職員室ごと吹き飛ばしかねない灼滅の奔流を、ほとんど一身に受けていた。

 

 黒い甲冑の大半は、もう原形を留めていなかった。

 

 片腕は肘から先が消し飛び、肩口から脇腹にかけては肉も鎧もまとめて焼失している。兜の半分は崩れ落ち、そこから覗く素顔も、もはや人のものとは呼び難いほど焼け爛れていた。

 

 それでも。

 

 それでも騎士は立っていた。

 

 両脚を床へ突き立て、理央を背にかばい、咆哮しながら、なお前へ出ようとしていた。

 

 理央の頬を、熱いものが伝う。

 

 涙なのか、熱で滲んだものなのか、自分でも分からなかった。

 

「やめて……もう、やめて……!」

 

 

 叫んでも、止まらない。

 

 マリアの宝具は、まるで世界そのものがこちらを拒絶しているみたいに容赦なく降り注ぐ。

 

 机も。

 

 床も。

 

 壁も。

 

 職員室そのものが、白い終末に洗われていた。

 

 やがて。

 

 セイバーの膝が、がくりと落ちる。

 

「──ッ!」

 

 理央の喉が詰まる。

 

 だが、崩れない。

 

 片膝をつきながらも、セイバーはなお剣を支えにして立ち続けた。残った身体の大半を焼きながら、理央へ届く光を最後の最後まで逸らし続ける。

 

 そしてようやく。

 

 極光が、細る。

 

 無数の触手の先端から噴き上がっていた白い灼滅が、一本、また一本と閉じていく。

 

 遅れて、熱風と破砕音だけが残った。

 

 理央は、咳き込んだ。

 

 喉が痛い。息を吸うたび血の味がする。

 

 視界の向こうで、職員室は半壊していた。

 

 壁は焼け落ち、窓は消え、机も棚もほとんど原形を留めていない。床一面には煤と融解した金属と、灰になった紙片が降り積もっていた。

 

 その中心で。

 

 セイバーが、なお理央の前にいた。

 

 立っている、というよりは、辛うじてそこに残っていると言うべきだった。

 

 身体の大半は焼失していた。

 

 片腕はない。

 

 胴の半分も失われている。

 

 甲冑の下にあったはずの肉も骨も、ところどころ黒く炭化し、あるいは赤熱したまま露出していた。

 

 それでも騎士は倒れない。

 

 理央を庇うように、最後までその前へ立ち塞がっていた。

 

「……なん、で」

 

 理央の声は、震えていた。

 

「どうして……」

 

 返事はない。

 

 あるのは、兜の奥──いや、もはや兜とも呼べぬ焼け残りの奥から漏れる、荒く低い息だけだ。

 

 その時。

 

 誠が、一歩前へ出た。

 

 焼け落ちた職員室の向こうから、白い熱に照らされた顔が浮かぶ。

 

 その目は、まだ冷たいままだった。

 

「マリア」

 

 低い声。

 

「もう一度だ」

 

 理央の心臓が凍る。

 

 セイバーが、焼け残った喉の奥から獣じみた唸りを漏らした。

 

 まだ戦うつもりなのだ。

 

 あの有様で。

 

 それでもなお、理央の前からどこうとしない。

 

 マリア──もはや人の形を失った巨大な軟体の塊は、夥しい触手を脈動させながら、誠へと視線のようなものを向けた。

 

 そして。

 

 無数の器官のどこからともなく、深いため息が漏れた。

 

「……マスター」

 

 その声音だけは、まだあの女のままだった。

 

「どうせ互いに不死です」

 

 一拍。

 

「これ以上焼いても、不毛なだけですよ」

 

 誠の眉が、わずかに動く。

 

 理央は息を止めたまま、その横顔を見る。

 

 誠はしばらく黙っていた。

 

 まだ殺意は消えていない。

 

 それが分かる。

 

 職員室の焼け跡よりも冷たいものが、彼の目の奥に沈んでいた。

 

 だが。

 

 やがて誠は、低く息を吐いた。

 

「……そうかよ」

 

 吐き捨てるように言う。

 

 それだけで、マリアの触手群がゆっくりと動きを緩めた。

 

 

 誠は、理央を見た。

 

 その視線に、理央は動けない。

 

 責めるでもなく。

 

 怒鳴るでもなく。

 

 ただ、決して許さないとでも言うような目だった。

 

 次いで、その前に立つセイバーへも目を向ける。

 

 焼け落ち、なお立つ騎士。

 

 ほとんど残骸のようなその姿を、誠は数秒見つめた。

 

 そして。

 

「……行くぞ、マリア」

 

 そう言って、踵を返した。

 

 理央ははっとした。

 

「待って……!」

 

 声は出た。

 

 だが、誠は止まらない。

 

 焼け崩れた職員室を踏み越え、廊下へ向かって歩いていく。

 

 その背中はひどく静かで。

 

 それなのに、今までよりずっと遠く感じられた。

 

 

 




真名:マリア(仮称)
クラス:フォーリナー
性別:女性
身長・体重:178cm・??kg
属性:混沌・中庸

筋力:C 耐久:A
敏捷:B 魔力:EX
幸運:D 宝具:EX

かつては獣を狩る狩人であったが、悪夢の果てに人ではなく上位者に反転した存在。
人の理に属しながら、その身はすでに星の外、あるいは海の底に連なる。
彼女はもはや狩人ではなく、上位者の末席に座す新しき異邦。

一見すると理知的で穏やか。
だがその本質は、人の感情や倫理を理解しつつも、決してそこへ帰着しない“外なるもの”である。
 
将来の夢は素敵なお嫁さん。

クラススキル

領域外の生命:EX
この存在が本来属する生態系・宇宙観・生命法則が、人理の外側にあることを示すスキル。
精神汚染・空間歪曲・異界干渉への高い耐性を持ち、同時に自身も周囲へ異常認識を伝播させる。
マリアの場合、完全な外宇宙由来というよりは人から上位者へ至った“変成存在”であるため、純粋な異星生命とは少し性質が異なる。

狂気:B
フォーリナーに特有の、理解の及ばぬ真理へ接続したことによる精神位相の変調。
通常の発狂ではなく、「理解したがゆえに人の基準から外れた」状態。
意思疎通は可能だが、価値観の根底に深い断絶がある。

単独顕現:C
本来なら不可能な現界を、上位者としての性質によって部分的に成立させる。
ただし彼女はサーヴァント召喚の枠組みに強く依存しているため、完全な単独顕現には至らない。
“夢”を媒介とした限定的顕現。

保有スキル

狩人の直感:A
バーサーカー時から継承された戦闘感覚。
もはや単なる勘ではなく、複数の位相から事象を観測することによる異常知覚に近い。
死角、不意打ち、敵意の発生点を直感的に捉える。

啓蒙:EX
人間が見てはならない真理を見てしまった者の認識。
世界の裏側、悪夢の構造、霊的因果、上位存在の痕跡を“理解ではなく視認”する。
ランク上昇に伴い、単なる知覚強化ではなく、対象の在り方そのものを見抜く権能へ近づいている。
対精神干渉・対幻術・対隠蔽性能に優れるが、周囲には恐怖・錯乱・啓示をもたらす。

上位者の嬰化:A
人でありながら上位者の末席へ至り、なお“新たな赤子”として成立した特異性。
肉体を固定的な人体として扱わず、必要に応じて流動・再編・再生を行う。
致命傷を受けても即座の崩壊に至りにくく、身体の一部を器官・触肢・擬似臓腑として再構築できる。
マリアの不死性・異形化の根幹をなすスキル。

獣狩り:C
本来は“獣を狩る者”としての特性。
フォーリナー化によってやや性質が変質しており、純粋な対獣特効というより、
理性を失ったもの、変質したもの、境界を踏み越えたものを見抜き、処断する性質として残存している。
もはや狩人ではなくなった為、微かな残滓のみが存在している。

宝具

『星喰う黎明・あるいは海の底より来たるもの』
ランク:EX
種別:対軍・対界宝具
レンジ:1~80
最大捕捉:不明

マリアが人の器を捨て、上位者としての肉体そのものを解放する宝具。
通常時は人型へ圧縮・擬態されている異形の本体を顕現させ、夥しい触手と発光器官、流動する軟体組織から成る巨大生命体へ変ずる。

この状態の彼女は肉体そのものが宝具であり、各触肢の先端、裂けた口腔、露出した発光器官の全てが攻撃端末と化す。
放たれる極光は熱・光・霊的侵食を同時に伴い、対象を焼却するだけでなく、存在そのものを削る。

単純火力だけでなく、周辺空間を“人が存在できる世界”から逸脱させる効果を持つため、対界宝具としての性質も有する。
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