焼け崩れた職員室を背に、灰原誠は校舎の廊下を歩いていた。
足音が、妙に大きく響く。
天井の蛍光灯はところどころ消えていて、白い光と闇がまだらに床へ落ちている。
その境目を踏み越えるたび、現実と悪夢のどちら側にいるのか分からなくなる。
正面玄関の扉は半分開いたままだった。
夜気が、ゆっくりと流れ込んでくる
誰にも声をかけられないまま、校庭を横切り、そのまま校門を抜けた。
振り返らない。
振り返る理由も、もう残っていなかった。
外は、静かだった。
街灯のほとんどは消えている。
遠くで犬が吠える声が一度だけ聞こえ、すぐに途切れた。
アスファルトの路面に、夜露が薄く光っている。
歩き続ける。
どこへ向かうでもなく。
ただ足が前へ出るから、そのまま進む。
胸の奥が空洞みたいだった。
怒りもある。
憎しみもある。
けれどそれ以上に、何かが抜け落ちた感覚が強かった。
自分が誰なのか。
どこへ行くべきなのか。
何をしたいのか。
全部が、ぼやけている。
やがて住宅街の角を曲がったところで、誠は足を止めた。
理由はない。
ただ、歩く意味が急に分からなくなっただけだった。
「……ずいぶん、あてもなく歩かれますね」
背後から、柔らかい声がした。
誠は振り返らなかった。
少しだけ目を細め、夜の奥を見たまま言う。
「……とりあえず」
一拍。
「ここから離れたい」
それだけだった。
言葉は短いのに、妙に重かった。
次の瞬間、誠は再び歩き出す。
さっきまでとは違う。
明確に。
速く。
逃げるように。
あるいは、何かに追われているように。
アスファルトを踏む足音が鋭くなる。
夜露を弾きながら、一定のリズムで前へ進む。
背後で、ため息がひとつ落ちた。
「……まったく」
呆れたような、しかしどこか諦めたような声音だった。
マリアは歩幅を広げる。
誠の速度に合わせ、無音のまま隣へ並んだ。
街灯の壊れた交差点を抜ける。
信号機は黒く沈み、道路標識だけが白く浮いている。
風が吹くたび、どこかで金属が鳴った。
しばらく歩いてから、マリアが口を開いた。
「……アメンドーズに、何をされたのですか?」
その名を聞いた瞬間、誠の足がわずかに乱れた。
だが止まらない。
止まらないまま、低く言う。
「……アメンドーズ?」
数歩進んでから、ようやく視線だけ横へ動かす。
「あの、見えなかった奴は」
一拍。
「そういう名前なのか?」
マリアは、少しだけ歩調を緩めた。
誠の横顔を見ながら、静かに頷く。
「ええ」
夜風に銀の髪が揺れる。
「アメンドーズ。私の世界に存在していた“上位者”の一柱です」
黙って前を向いたまま歩く。
だが耳は確かにその言葉を拾っていた。
「……上位者ね」
吐き捨てるように言う。
「要するに、別世界から侵入してきたマリアの同類って事か」
「概ね正しい理解です」
マリアは即答した。
遠くで電線が風に鳴る。
「この町に現れ始めたのも、少し前からです」
誠の眉がわずかに寄る。
「……知ってたのかよ」
「ええ」
マリアは迷いなく答えた。
「ですが、彼はこれまで一度も干渉してこなかった」
夜の住宅街を歩きながら、言葉が続く。
「あなたや私を、遠巻きに観察しているだけでした」
呼吸が、ほんの少し荒くなる。
「……それなのに」
低く呟く。
「突然、俺を掴み上げたってわけか」
マリアはそこで、初めて視線を伏せた。
「ええ」
短い答え。
だが、その声にはわずかな硬さが混じっていた。
「正直に申し上げますと」
一拍。
「私も、大変驚きました」
誠は横目でマリアを見る。
彼女は普段と変わらぬ穏やかな顔をしている。
だが、その奥にほんの僅かな緊張が残っているのが分かった。
誠はしばらく何も言わなかった。
足音だけが、夜の住宅街に規則正しく刻まれていく。
やがて。
「……さっきの質問だけど」
低く、乾いた声だった。
「そのアメンドーズとか言うやつに、見せられたんだよ」
一拍。
「過去を」
夜風が吹く。
どこかの家の雨戸が微かに軋んだ。
誠の足取りは変わらない。
だがその声は、さっきよりもさらに深く沈んでいた。
「正確には」
喉がわずかに動く。
「夢に引き摺り込まれた」
その言葉を吐いた瞬間。
誠の脳裏に、あの感触が蘇る。
足場が消える感覚。
空が裏返る感覚。
自分という存在が、薄い膜みたいに剥がれていく感覚。
誠は舌打ちした。
「現実じゃなかった」
淡々と言う。
「けど、夢でもなかった」
足元のアスファルトが、妙に遠く感じる。
「そこで全てを見せつけられた」
一歩。
また一歩。
「灰原の過去を」
声が低くなる。
「罪を」
夜の空気が一瞬だけ重くなる。
マリアは何も言わない。
ただ黙って、隣を歩いている。
「……灰原誠は」
誠はそこで初めて、歩みを止めた。
夜の交差点の真ん中だった。
信号は死んだまま、黒くぶら下がっている。
「とっくの昔に死んでる」
静かに言い切る。
視線は地面に落ちていた。
「今の俺は違う」
一拍。
「聖杯戦争のために造られた、ホムンクルスの一体……らしい」
その言葉は、夜気の中で妙に重く響いた。
肩がわずかに震えている。
「代用品だよ」
自嘲気味に笑う。
「……黒野は」
そこで顔を上げる。
目が赤くなっていた。
「全部知ってた」
かすれた声。
「最初から」
「俺が本物じゃないことも」
「作り物だってことも」
唇が震える。
「それでも」
一拍。
「何も言わなかった」
夜の静けさの中で、その言葉だけがやけに大きく聞こえた。
誠は必死に表情を押し殺そうとしていた。
だが。
もう隠しきれなかった。
泣き出しそうな顔のまま、最後まで言い切る。
「……俺に、何も言わなかったんだよ。なんだよ、ごめんって……くそ」
誠はそれ以上、何も言わなかった。
言葉の代わりに、歩き出す。
少しだけ速く。
怒りを振り切るみたいに。
あるいは、今にも崩れそうな感情を置き去りにするみたいに。
夜の住宅街は、どこまでも同じ顔をしていた。
閉ざされた門。
消えた街灯。
静まり返った家々。
人の気配はほとんどない。
ただ風だけが、ときおり通り抜ける。
曲がり角を曲がる。
細い路地に入る。
また大きな通りへ出る。
自分で行き先を考えているわけではなかった。
足が勝手に動く。
体が覚えている。
帰る場所として刻み込まれた経路を。
やがて。
誠はふと気付く。
見慣れた電柱。
見慣れた塀。
何度も通った交差点。
胸の奥で、何かが軋んだ。
「……ああ」
小さく息を吐く。
「そうか」
気付けば。
自宅へ向かう道を歩いていた。
聖杯戦争が始まってすぐに、焼け落ちた家。
もう住める場所ではないと分かっている。
壁は崩れ、屋根は落ち、生活の痕跡はほとんど灰になっている。
寝泊まりなど到底できない。
それでも。
他に行く宛はなかった。
学校には戻れない。
理央の顔を思い出すだけで、胸の奥がざらつく。
どこか安全な場所を知っているわけでもない。
頼れる人間もいない。
だから。
体は自然と、そこへ向かっていた。
もう存在しないはずの「帰る場所」へ。
マリアも何も言わず、隣を歩いている。
住宅街の灯りは、やがて完全に途切れた。
舗装された道路は細くなり、やがて土の道へ変わる。
雑草が足元に触れる。
虫の鳴き声が、どこからともなく響く。
山道だった。
人里から少し離れた、緩やかな坂道。
昔からほとんど変わらない、暗く静かな帰路。
誠は歩き続ける。
夜露に濡れた落ち葉が靴底に張りつく。
踏みしめるたび、湿った音がする。
風が吹くと、木々がざわめいた。
枝と枝が擦れ合い、低く唸るような音を立てる。
街の匂いは、もうしない。
あるのは土と、苔と、冷たい夜の気配だけだった。
何も考えないように歩く。
頭の中はまだ重く濁っている。
過去の光景が、断片のまま沈殿している。
それでも足は止まらない。
やがて。
視界の奥に、古い鉄門が見えた。
錆びついた格子。
傾いた表札。
伸び放題の庭木。
自宅だった。
正確には──かつて自宅だった場所。
誠は立ち止まる。
胸の奥が、ゆっくりと締めつけられる。
せめて。
何か一つでも。
使える物が残っていればいい。
食料でも。
毛布でも。
壊れていない道具でも。
理由は分からない。
だが、それを確認しなければ前へ進めない気がした。
門へ手をかける。
ぎ、と鈍い音がした。
長く閉ざされていた金属が、抵抗するように軋む。
押す。
ゆっくりと。
門が開く。
夜の庭が、視界へ広がる。
焦げた土。
崩れた石灯籠。
倒れた木。
そして奥に──
焼け落ちた家の跡地。
骨組みだけが、月明かりに黒く浮かび上がっている。
誠は一歩踏み出した。
その瞬間。
足が止まる。
視線の先。
焼け跡の中心に──
人影が立っていた。
月光に照らされて、その輪郭がゆっくりと浮かび上がる。
細身の体躯。
光の加減により、藍色に輝く髪。
焼け跡の瓦礫の中に立ちながら、何かを探すように足元へ視線を落としている。
誠は目を細めた。
見間違えるはずがない。
「……先輩」
低く呼ぶ。
その瞬間。
人影がぴたりと動きを止めた。
次の瞬間には、鋭い反応だった。
砂を踏み砕くような音と共に振り向く。
月光を受けて、藍沢紗月の瞳が白く光った。
驚きではない。
反射だった。
右足を半歩引く。
重心が落ちる。
指先がわずかに開き、すぐにでも魔術を行使できる姿勢に入る。
戦闘態勢。
誠の魔力を感知したのだろう。
あるいは、この場所に現れた存在そのものが異常だと判断したのかもしれない。
夜の焼け跡に、緊張が張り詰める。
だが。
誠は動かなかった。
逃げない。
構えない。
魔力も高めない。
ただ門の内側に立ったまま、静かに紗月を見ている。
まるで。
もう何もする気力が残っていないかのように。
紗月の眉が、わずかに寄った。
攻撃の間合い。
仕掛ければ一瞬で決着がつく距離。
それなのに、踏み込まない。
違和感。
その空気を、彼女は確かに感じ取っていた。
「不用心だね、灰原君。黒野さんに怒られちゃうよ」
誠は、その軽口にも反応しなかった。
ただ、紗月の横を通り過ぎるみたいに、ゆっくりと焼け跡の方へ歩いていく。
足元の土は黒く焦げ、踏むたびに細かな灰が舞った。
崩れた柱。
焼け落ちた梁。
半ば砕けた瓦。
それらを前にしても、誠の顔にはもうほとんど表情がない。
紗月は怪訝そうに目を細めた。
警戒は解いていない。
だが、あまりにも無防備なその背中に、逆に意図が読めない。
罠か。
挑発か。
それとも、本当に何も考えていないのか。
「……何のつもり?」
低く問う。
誠は答えない。
焼け跡の脇でしゃがみ込み、焼け残った箱の破片をどける。
手が灰で汚れるのも構わず、瓦礫の隙間へ腕を差し込んだ。
何か使える物はないか。
その一点だけを探しているみたいだった。
紗月の眉間に皺が寄る。
無視されたことが、少しばかり気に障ったらしい。
「……随分、余裕だね」
わざとらしく肩を竦める。
「敵がここにいるのに、背中向けたまま瓦礫漁り?」
誠は、焦げた板切れを横へ投げ捨てた。
返事はない。
その沈黙が、かえって妙だった。
紗月はしばらく誠の背を見ていたが、やがて視線を周囲へ巡らせる。
門。
庭。
崩れた石灯籠。
気配を探るように。
だが、他の誰かが潜んでいる様子はない。
紗月はそこで、ほんの少しだけ目を見開く。
「……あれ」
一拍。
「もしかして」
誠はなおも瓦礫をどけている。
焼けた金属片を持ち上げ、すぐに捨てる。
崩れた床下を覗き込み、手を伸ばす。
まるで本当に、戦うことより今夜をしのぐ何かを探しているだけみたいに。
紗月は半歩だけ姿勢を緩めた。
「サーヴァントと二人だけで来たの?」
夜風が吹いた。
灰がふわりと舞い、月明かりの中を流れていく。
誠は、瓦礫の下から半ば焼けた缶を引っ張り出し、振ってみてから無言で脇へ置いた。
「……そうですよ」
ぶっきらぼうだった。
それだけ言って、また視線を落とす。
紗月はしばらく黙った。
風が、焼け跡の灰をさらっていく。
虫の声だけが、やけに遠かった。
誠の返答は短い。
だが、その短さが逆に異様だった。
警戒も。
苛立ちも。
敵意すら、表面に出てこない。
まるで、今さら何かを失うことに意味がないみたいな顔で、ただ焼け跡を漁っている。
紗月の眉がわずかに寄る。
「……本気で言ってる?」
誠は答えない。
崩れた柱の陰へ手を差し込み、何かを探る。
焼けた木片をどけるたび、灰が舞い上がって袖に付いた。
その無視が、今度はさっきよりも露骨だった。
紗月は小さく舌打ちした。
そして。
「アサシン!」
鋭く叫ぶ。
次の瞬間。
紗月の背後の影が、音もなく濃くなった。
月光の下、闇そのものが立ち上がるみたいにして、一人のサーヴァントが姿を現す。
忍び装束。
布と革で組まれた古びた装い。
数々の機構を秘めた、特製の忍び義手。
藍沢紗月のサーヴァント──アサシン。
ぎ、と微かな機械音を立てて、その義手がわずかに動く。
アサシンは一歩も歩かなかった。
気づいた時には、もう誠のすぐ後ろにいた。
ぬらり、と。
どす黒い瘴気をまとった刀が抜き放たれる。
月明かりを吸い込むような刃。
刃文すら見えないほど濁った黒が、嫌な湿り気を帯びて揺れていた。
その切っ先が、誠の首元へぴたりと突きつけられる。
あと少しでも前へ押し込めば、皮膚が裂ける距離だった。
だが。
誠は、手を止めなかった。
瓦礫の隙間へ伸ばしていた腕を引き抜き、焼け残った布切れを見て、役に立たないと判断して捨てる。
それだけだった。
首元に刀を突きつけられている人間の反応ではない。
紗月の目が細くなる。
「……灰原君、私が脅しでこういう事する奴じゃないって、わかってるよね」
誠はようやく、少しだけ顔を上げた。
だが振り向かない。
刀の気配も、瘴気も、まるで気にしていない。
「好きにすればいい」
乾いた声だった。
その時。
少し離れた場所で様子を見ていたマリアが、一歩前へ出る。
銀の髪が夜気に揺れる。
気配が変わる。
空気が微かに冷え、彼女が止めに入ろうとしているのが分かった。
だが。
「来なくていい」
誠が、低く言った。
マリアの足が止まる。
誠はなおも前を向いたまま、淡々と続けた。
「止めなくていい」
一拍。
「どうせ死なないから」
紗月の表情が、わずかに揺れた。
アサシンの刀は、依然として誠の喉元にある。
紗月は、しばらく誠を見つめていた。
喉元へ突きつけられた黒い刃。
そこから滲む、見ているだけで内臓が冷えるような瘴気。
それでも誠は動じない。
首筋に刃が触れる寸前の距離で、ただ焼け跡の奥を見ている。
その無関心さに、紗月は小さく息を吐いた。
「……灰原君」
声音が、さっきより少しだけ低くなる。
「アサシンの宝具は、不死殺しの魔剣だよ」
一拍。
「君が不死でも、関係ないんだ」
夜風が吹く。
刀身に纏わりつくどす黒い瘴気が、ぬらりと揺れた。
紗月はなおも誠から目を逸らさない。
「キャスターを殺したのが、何だったのか」
唇がわずかに引き結ばれる。
「忘れたわけじゃ、ないよね」
その言い方は妙だった。
脅し文句のはずなのに、どこか確認するようで。
まるで、本当に斬りたくはないのに、あえて口にしているような響きがあった。
誠は数秒、何も言わなかった。
それから。
喉の奥で、かすかに笑った。
乾いた。
どうしようもなく、自嘲の混じった笑いだった。
「……忘れてませんよ」
低く言う。
首元の刃はそのままだ。
それでも、誠はゆっくりと視線を少しだけ横へ流した。
一拍。
「キャスターは生きてましたよ」
紗月の眉が、ぴくりと動く。
「……は?」
誠は、そこでようやくアサシンの方を見た。
黒い面布の奥の視線と、真っ直ぐぶつかる。
「反転、っていうのかな」
言葉を探すように、少しだけ間が空く。
「性格とか、性質とか、かなり変わってたけど」
そこで、また笑う。
さっきよりも、もっと力のない笑いだった。
「不死殺しでも、完全には殺せないみたいです。仮死状態には出来るみたいですけど」
紗月の呼吸が、止まった。
ほんの一瞬。
けれど確かに。
その顔から余裕が消えた。
「……仮死、状態?」
自分でも信じていない声だった。
誠は答えない。
また瓦礫をどけ始める。
その無関心が、逆に紗月の胸の奥をざわつかせた。
不死殺しが効かない。
そんな前提は、これまで一度も想定していなかった。
紗月はゆっくりとアサシンへ視線を向ける。
「……本当なの?」
小さく問う。
夜の静けさの中、その言葉だけが妙に浮いた。
アサシンは、しばらく沈黙していた。
黒い刀は依然として誠の首元にある。
だがその姿勢は、わずかに迷っているようにも見えた。
「……分かりませぬ」
「しかし」
一拍。
「我が宝具は本来、“不死殺し”というよりは」
言葉を選ぶように間が空く。
「蟲憑きと呼ばれる……葦名の“死なず”を」
そこで。
アサシンは言葉を切った。
説明を続ける意味がないと判断したのか。
あるいは、うまく伝えられないと悟ったのか。
静かに首を振る。
「宝具として昇華されるにあたり、概念として“不死殺し”となりましたが」
夜気が揺れる。
「万能の魔剣ではございませぬ」
「かつての我が主君も不死でありましたが、不死断ちには複雑な手順が必要であり、切った者を悉く即死させるような代物ではありませぬ」
紗月の顔が、はっきりと曇った。
それは怒りでも、苛立ちでもなかった。
動揺だった。
今まで確かに握っていたはずの切り札が、指の隙間から零れ落ちていくみたいな顔。
「……そんな」
小さく漏れた声は、ひどく頼りなかった。
誠は瓦礫の中から焦げた金具を拾い上げ、すぐに役に立たないと判断して脇へ放る。
乾いた音がした。
その無関心さが、かえって場を冷やす。
紗月は唇を噛んだ。
首元へ刀を突きつけられている相手が、こんなにも落ち着いているのはおかしい。
それだけではない。
自分が知っていた理屈が、足元から崩れ始めている。
「……どうしたら」
アサシンは、しばし黙った。
やがて。
ぐ、と口元が歪める。
それは笑みだった。
静かな忍のそれではない。
もっと獰猛で。
もっと血に飢えた。
戦場の奥底でしか見せぬ、修羅の笑み。
「……ならば」
低い声が、夜気を裂く。
「試しに、切り刻んでみるのは如何でしょう」
紗月の肩が跳ねた。
「アサシン……!」
だがアサシンは止まらない。
黒い刃をほんのわずか引き、逆の手──義手の側を鳴らすように動かした。
ぎ、ぎ、と古い機構が軋む。
「一振りでは足りぬなら」
修羅じみた笑みが、さらに深くなる。
「二振りの不死断ちで細切れにすれば、結果は分かりませぬ」
その言葉は、冗談ではなかった。
本気で試すつもりだ。
首を落とすだけではなく。
腕を断ち、脚を断ち、胴を裂き、再生の余地ごと削ぐつもりでいる。
誠は、それを聞いても動じなかった。
ただ、瓦礫の奥へ手を差し込んだまま、わずかに目を伏せるだけだ。
まるで、自分の命が話題に上がっていることすらどうでもいいみたいに。
だが。
「しなくていい!」
紗月が、ほとんど悲鳴みたいな声で遮った。
アサシンの動きが止まる。
紗月は一歩踏み出していた。
自分でも無意識のまま。
誠とアサシンの間へ割って入るみたいに。
アサシンが訝しげに目を向ける。
紗月は、息が少し上がっていた。
「だめ」
強く言う。
「そんな事、しなくていい」
「しかし」
「もし」
紗月は言葉を切る。
喉が、ひどく乾いていた。
「もし、それでも死ねなかったら」
一拍。
「ただ、苦しめてしまうだけだから」
夜の山気が、しんと冷えた。
誠の手が、一瞬だけ止まる。
アサシンは沈黙したまま、紗月を見る。
その修羅の笑みは、まだ消えていない。
だが、主の言葉を聞き流す気もない。
「……下がって」
紗月は、今度は少し低い声で言った。
「アサシン」
短い沈黙。
やがてアサシンは、小さく息を吐く。
「……御意」
黒い刃が、誠の首元から静かに離れた。
ぬらりとした瘴気が引いていく。
気づけば、首筋に触れていた冷気まで消えていた。
アサシンは二歩、三歩と後ろへ退く。
それでも完全には影へ溶けない。
いつでも踏み込める距離で、じっと誠を見ていた。
焼け跡に膝をつき、灰にまみれた手で僅かな残骸を探るその姿は、さっきまで首元に魔剣を突きつけられていた人間のものとは思えない。
あまりにも、壊れ方が静かだった。
「……灰原君」
今度の声は、さっきまでよりもずっと低かった。
軽口でもなく。
挑発でもなく。
ただ、探るような声音。
誠は返事をしない。
紗月は唇を引き結んだまま、続けた。
「何があったの?」
一拍。
「黒野さんは?」
夜風が吹く。
焦げた柱の影が、月明かりの中でゆっくり揺れた。
誠の手が、また止まる。
焼けた木片を握ったまま、数秒、動かない。
それから。
「……全部」
掠れた声だった。
誠は俯いたまま、ぽつりと言う。
「知ってしまったんです」
紗月の眉が寄る。
「全部?」
誠は答えない。
代わりに、手の中の焦げた木片を捨てた。
ぱさりと灰が舞う。
「俺が何なのかも」
低く続ける。
「何のために作られたのかも」
その声には怒鳴るような激しさはなかった。
むしろ静かで。
静かすぎて、聞く方の胸の奥を冷やす種類の声音だった。
紗月はしばらく何も言えなかった。
マリアもまた、黙っている。
誠はゆっくり立ち上がった。
もう瓦礫漁りを続ける気はないらしい。
灰のついた手を、服の裾で乱暴に拭う。
「……使える物、そんなに残ってませんね」
誰にともなく言う。
自嘲でも諦めでもない、ただの事実確認みたいな口調だった。
だが次の瞬間。
誠の視線が、焼け跡の一角へ向いた。
崩れた梁の下。
崩れた柱を跨ぎ、焼けた瓦を踏み越え、一直線にその場所へ向かう。
そして膝をつくと、両手で灰と土を払い始めた。
乱暴なようでいて、場所は正確だった。
そこに何かがあると、最初から知っているみたいに。
マリアが、静かに目を細める。
誠は何も言わない。
ただ、ひたすら手を動かす。
焦げた板をどける。
歪んだ金具を引き剥がす。
土に埋もれた石板の縁を掘り起こす。
やがて。
ごり、と鈍い音がした。
土の下から、黒く焼け焦げた鉄の輪が覗く。
紗月の目が見開かれる。
「……それ」
誠は、鉄輪に手をかけた。
強く引く。
最初は動かない。
だがもう一度、今度は全身の力を込めて引き上げると──
ぎぎぎ、と。
地の底から呻くような音が響いた。
焼け焦げ、歪み、半ば地面と一体化していた鉄扉が、ゆっくり持ち上がる。
その下から、黒い穴が口を開けた。
冷たい空気が、ふっと吹き上がってくる。
土と。
鉄と。
古い湿気の匂い。
地下へ続く通路だった。
誠は、その闇を見下ろした。
顔色は悪いままなのに、その目だけが妙に冴えている。
「……本当にあった」
地下へ続く穴は、月明かりの届かないところから冷気を吐いていた。
焼けた地表とは別の、もっと古く、もっと湿った匂いが立ち上ってくる。
誠は、その闇をしばらく見下ろしていた。
鉄扉を持ち上げたままの腕に、わずかに力が入っている。
「……先輩も」
ぽつりと、誠が言った。
視線は地下の階段に落ちたまま。
紗月の方は見ない。
「全部知ってたんですよね」
夜気が止まる。
紗月は、すぐには答えなかった。
焼け跡の灰が、風に撫でられてかすかに流れる。
アサシンは沈黙したまま、主の斜め後ろに控えている。
マリアもまた何も言わず、誠の少し後ろに立っていた。
やがて。
「……一応ね」
紗月は、そう答えた。
軽く聞こえるようでいて、軽くはなかった。
誠の肩が、ほんのわずかに動く。
それだけで、返事としては十分だったらしい。
紗月は視線を伏せる。
崩れた梁の影が、藍色の髪へまだらに落ちていた。
「でも」
一拍。
「全部が全部、嘘ってわけじゃないよ」
誠は無言のまま、鉄扉の縁を見つめている。
紗月は続けた。
「君が高校に入ってからの一年半くらいの記憶は、本物だよ」
その言葉に、誠の指先がぴくりと反応する。
「文芸部で」
紗月は、少しだけ苦く笑う。
「放課後を一緒に過ごしてたのも、本当」
一拍。
「……あれは、ちゃんと本物の思い出だよ」
誠は何も言わない。
だが、地下を見下ろしていた視線がほんのわずか揺れた。
紗月は、その変化を見逃さなかった。
だからこそ、次の言葉を吐く時、唇がほんの少しだけ強張る。
「情が湧いた。聖杯なんてどうでも良いから、全て終わらせるべきだと思った」
短かった。
言い訳みたいで。
けれど、たぶんそれが彼女なりの本音だった。
誠の喉が、小さく動く。
紗月は目を逸らさない。
「だから」
静かに。
けれど逃げずに言い切る。
「君には何も知らせずに、殺したかった」
その言葉は、焼け跡の中心へまっすぐ落ちた。
虫の声が、急に遠くなる。
誠はしばらく動かなかった。
鉄扉を掴んだまま、ただ地下の闇を見つめている。
その横顔には怒りも、涙も、すぐには浮かばない。
むしろ。
何かが、さらに深く沈んでいくような静けさだけがあった。
「殺せなくって、ごめんね灰原君」