Fate/You Died.   作:助兵衛

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第75話 自暴自棄

 鉄扉の下から吹き上がってくる空気は、夜の山気よりさらに冷たかった。

 

 湿っている。

 

 土と、錆と、長いあいだ閉ざされていた場所特有の、淀んだ匂いが混じっていた。

 

 誠はしばらく、その闇を見下ろしていた。

 

 夢の中で見た光景が、脳裏にちらつく。

 

 無機質な灯り。

 

 整然と並んだ棚。

 

 夥しい記録。

 

 自分の知らなかった、灰原の罪の痕跡。

 

 だが今、目の前に口を開けている穴から漂ってくるのは、そんな冷たい整然さではなかった。

 

 もっと古く、もっと壊れた気配だった。

 

「……行くんだ」

 

 紗月が低く言う。

 

 誠は振り返らない。

 

「ええ、一応……」

 

 声は掠れていたが、迷いはなかった。

 

 紗月は数秒、誠の横顔を見ていた。

 

 それから、小さく息を吐く。

 

「アサシン」

 

「御意」

 

 影のように控えていたアサシンが一歩前へ出る。

 

 義手が微かに鳴る。

 

 黒い刃はすでに鞘へ収められていたが、その気配だけで周囲の空気が張りつくようだった。

 

 マリアも無言のまま、誠の少し後ろへ並ぶ。

 

 誠は鉄扉をさらに持ち上げ、開いた隙間を広げた。

 

 地下へ続く階段が、闇の底へ沈んでいる。

 

 コンクリートの段。

 

 壁に這う黒ずみ。

 

 夢で見たものと形は似ている。

 

 だが、まるで違った。

 

 荒れている。

 

 放置された時間が、そのまま積もっている。

 

 誠は足をかけた。

 

 一段。

 

 また一段。

 

 靴底が、うっすら積もった埃を踏みしめるたび、かすかな音がする。

 

 後ろから紗月も続いた。

 

 マリアは音もなく降りてくる。

 

 アサシンは最後尾で周囲を警戒したまま、ゆっくりと闇の中へ溶けるように下りてきた。

 

 下へ行くほど、空気が重くなる。

 

 息を吸うたび、鼻の奥に乾いた土埃が刺さる。

 

 やがて階段が終わる。

 

 地下室だった。

 

 誠は、足を止めた。

 

「……違う」

 

 思わず、そう漏れた。

 

 夢の中の地下室は、もっと“使われていた”。

 

 狂気じみていながらも、管理され、機能していた。

 

 だがここは違う。

 

 荒れ果てていた。

 

 壁はひび割れ、白かったはずの塗装は黄ばんで剥がれ落ちている。

 

 天井の配線は垂れ下がり、ところどころ錆びた金具が剥き出しになっていた。

 

 棚は傾き、机は朽ち、床には崩れた石膏やガラス片や、何の残骸かも分からない破片が散らばっている。

 

 何より。

 

 埃が、ひどかった。

 

 長年、人が入った形跡のない厚さで、床も棚も機材の上も灰色に覆われている。

 

 誠はゆっくり周囲を見回す。

 

 夢の中で見た棚がある。

 

 記録が積まれていた机がある。

 

 薬品棚だったらしいガラス戸の残骸もある。

 

 だが。

 

 もう何も残っていない。

 

 紙束だったものは湿気と時間で癒着し、黒ずみ、端から崩れていた。

 

 ファイルは背表紙すら読めず、持ち上げるだけでぼろぼろと砕けそうだった。

 

 ノートらしきものも、表紙と紙が一体化してしまっている。

 

 インクは滲み、文字は潰れ、仮に開けたとしても読める状態には見えなかった。

 

 誠は、一番近くの机へ歩み寄る。

 

 その上に積もった厚い埃へ手を伸ばし、無造作に払った。

 

 灰色の粉が舞い上がる。

 

 咳き込みそうになるのを堪えながら、その下にあった紙束を掴む。

 

 だが、端を持っただけで、紙は乾いた音と共に崩れた。

 

 指先に残るのは、文字ではなく、茶色く変色した繊維だけだ。

 

「……くそ」

 

 小さく吐き捨てる。

 

 紗月も、少し離れた棚に手をかけていた。

 

 慎重に引き出しを開ける。

 

 だが中にあるのは、変色した紙と、錆びた鍵と、正体の分からない黒い塊だけだった。

 

「……ひどいね」

 

 珍しく、紗月が独り言のように呟く。

 

「ここまで残ってないなんて」

 

 誠は答えない。

 

 別の棚へ向かう。

 

 夢で見た配置を頼りに、資料室だったはずの一角を探る。

 

 壁際の戸棚。

 

 その奥の引き出し。

 

 さらに、その脇のラック。

 

 夢では確かに、そこに記録があった。

 

 番号。

 

 経過報告。

 

 死亡記録。

 

 自分へ至るまでの、夥しい“灰原誠”たちの記録。

 

 だが現実のそこにあるのは、湿気と時間に食われた紙屑だけだった。

 

 紗月が別の方向から戻ってくる。

 

「私、この地下に入ったことはなかったけど」

 

 一拍置いて、周囲を見渡す。

 

「……さすがにこれは、もう駄目だね」

 

 その声にも、いつもの余裕は薄い。

 

 ただの探索ではないと、彼女も分かっているのだろう。

 

 ここは灰原の核だ。

 

 聖杯戦争のために積み重ねられてきた、忌まわしい基盤のはずだった。

 

 なのに、肝心のものはもう風化している。

 

 罪だけが残って、証拠は崩れている。

 

 その時だった。

 

 部屋の奥、実験資料らしき棚の前に立っていたアサシンの動きが、不意に止まる。

 

 義手が、ぎ、と微かな音を立てた。

 

 誠と紗月が同時に視線を向ける。

 

 アサシンは埃に覆われた棚の一段へ手を伸ばしていた。

 

 そこには、倒れた標本箱がいくつか積み重なっている。

 

 どれもガラスは曇り、木枠は腐りかけ、内部は黒ずんだ影の塊にしか見えない。

 

 だが。

 

 アサシンは、その中のひとつだけをゆっくりと持ち上げた。

 

 表面に厚く積もった埃が、はらはらと落ちる。

 

 ガラスの奥に、何かが見えた。

 

 乾いたもの。

 

 黒く変色したもの。

 

 細長く、節の連なったもの。

 

 誠は、無意識に息を止める。

 

 百足に似ていた。

 

 だが、百足ではない。

 

 体節は異様に不揃いで、ところどころ膨れ、あるいは痩せ細っている。

 

 脚は左右で本数が違い、関節の向きも不自然だった。

 

 外殻らしきものはひび割れ、乾き切り、白いカビのようなものがまだらに広がっている。

 

 頭部と思しき部分は、既存のどの昆虫とも似ていない形をしていた。

 

 顎は三方向に裂け、内部にはさらに細かい棘状の構造が覗いている。

 

 触角は途中で分岐し、先端がまるで腐った根のように崩れていた。

 

 標本液はとうに蒸発し、内部は干からびている。

 

 保存状態としては、完全に失敗している。

 

 研究資料としては、もう使い物にならない。

 

 だが。

 

 その“形”だけは、はっきり残っていた。

 

 見る者の本能に直接触れるような、悍ましい造形だった。

 

 アサシンの目が細くなる。

 

 その視線は、憎悪に近かった。

 

「……これは……」

 

 低く、押し殺した声だった。

 

 紗月が一歩近づく。

 

「何?」

 

 アサシンはすぐには答えない。

 

 標本箱を持つ手に、わずかに力が入る。

 

 義手の内部機構が、きし、と鳴った。

 

 アサシンは標本の中の蟲を、まるで敵を見るような目で睨み続けている。

 

「……似ている」

 

 声がさらに低くなる。

 

「死なずに巣食うものに」

 

 埃の匂いに混じって、かすかな腐臭が漂っている気がした。

 

 誠は黙ったまま標本を見つめる。

 

 紗月も、言葉を失ったようにその異形を見下ろしていた。

 

 やがて。

 

 アサシンが、ゆっくりと口を開く。

 

「……標本の残骸から推察するに」

 

 一拍。

 

 視線はなおも蟲へ固定されたままだ。

 

「この地下の主は……聖杯実験にあたり、様々な“世界”の不死、あるいはそれに類する存在の資料を収集していたのでしょう」

 

 低く、確信めいた声音だった。

 

 誠の眉がわずかに動く。

 

 アサシンは続ける。

 

「如何なる手段によるものかは分かりませぬ」

 

「しかし、この形態」

 

 義手の指先が、ガラス越しに蟲の節をなぞる。

 

「葦名のものとも異なり、此の世の理から外れているようです」

 

 一拍。

 

「……再現を試みたのでしょうな」

 

 紗月が小さく息を呑む。

 

「不死の、再現……」

 

 アサシンは無言で標本箱を床へ落とす。

 

 乾いた破砕音が地下室に響く。

 

 曇ったガラスが砕け、木枠が崩れ、干からびた蟲の残骸が埃の中へ転がり出る。

 

 誠も紗月も、一瞬動けなかった。

 

 アサシンは一歩踏み出す。

 

 そして。

 

 ためらいなく、それを踏み砕いた。

 

 ぎし、と乾いた感触が靴底から伝わるような音がする。

 

 黒く変色した外殻が粉になり、白いカビの塊が潰れ、節が砕けて散った。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 念入りに踏み躙る。

 

 まるで。

 

 過去そのものを消し去ろうとするみたいに。

 

 やがて動きを止めると、静かに言った。

 

「……ですが」

 

 一拍。

 

 足元の粉塵を見下ろしながら。

 

「所詮は紛い物に過ぎませぬ」

 

 声は冷たく、断じるようだった。

 

「不死の再現は叶わなかったのかと」

 

 誠はまだ動かない。

 

 粉塵に変わった標本の残骸を、ただ見つめている。

 

 やがて。

 

 背後で、ガラスがかすかに触れ合う音がした。

 

 誠と紗月が振り向く。

 

 マリアだった。

 

 いつの間にか別の棚へ歩み寄り、倒れた標本瓶の一つを拾い上げている。

 

 透明だったはずのガラスは白く曇り、内部の液体はすでに蒸発して久しい。

 

 瓶の底には、乾ききった何かが貼り付いていた。

 

 軟体生物だったらしい。

 

 原形を留めているのは外形の輪郭だけで、内部は空洞のように萎み、表面はひび割れ、ところどころ黒ずんでいる。

 

 触手のような突起は途中で折れ、白い粉のようなものがこびりついていた。

 

 マリアはそれを軽く振る。

 

 から、から、と乾いた音がした。

 

「……確かに」

 

 静かな声だった。

 

「徒労に終わった様ですね」

 

 一拍。

 

 標本瓶を光に透かすように持ち上げる。

 

「ですが」

 

 淡々と続ける。

 

「不死に対する情熱は、確かなものだったようです」

 

 次の瞬間。

 

 彼女は瓶を床へ放った。

 

 ガラスが砕け、干からびた残骸が埃の中へ転がる。

 

 そして。

 

 アサシンと同じように、それを踏み砕いた。

 

 無慈悲なまでに、迷いなく。

 

「結局」

 

 靴底の下で砕ける感触を確かめるように言う。

 

「不死の再現そのものには、成功しなかったのでしょう」

 

 誠の視線が、わずかに揺れる。

 

 マリアは続けた。

 

「だからこそ、別の手段を取った」

 

 地下室の空気がさらに冷える。

 

「聖杯戦争の“サーヴァント召喚”に便乗し」

 

 一拍。

 

「サーヴァントという媒介を通して、それぞれの世界の“不死”をマスターへ適用させる」

 

 紗月の表情が硬くなる。

 

 アサシンは無言のまま耳を傾けている。

 

「そうすれば」

 

 マリアは静かに言い切った。

 

「殺し合いは終わらない」

 

 埃がゆっくりと舞う。

 

「不死である限り、戦いは継続する」

 

「敗北も、死も、決着にならない」

 

 一拍。

 

「──無限の殺し合いが成立する」

 

 誠の胸の奥で、何かが軋む。

 

 マリアは標本の粉塵を見下ろしたまま続けた。

 

「そうしなければ」

 

 低く。

 

「その、不完全な聖杯は満ちないと考えたのでしょう」

 

 粉塵が、ゆっくりと床に落ちていく。

 

 地下室は静まり返っていた。

 

 誰もすぐには口を開かない。

 

 壊れた標本の残骸が、足元に散らばっている。

 

 砕かれたガラス。

 潰れた外殻。

 乾ききった軟体の欠片。

 

 それらはもう、ただの埃と変わらない。

 

 だが。

 

 ここで行われていたものの気配だけは、消えていなかった。

 

 紗月が、ゆっくりと歩き出す。

 

 地下室の奥へ。

 

 棚と棚の間を抜け、壁際の機材跡を見て回る。

 

 誠はその背を、黙って見ていた。

 

 マリアは動かない。

 アサシンも、影のように佇んだままだ。

 

 紗月は一つひとつ確認するように、視線を巡らせていく。

 

 崩れた机。

 錆びた器具。

 配線の切れた端末らしきもの。

 

 だが、どれも小さい。

 

 老朽化以前に──そもそも規模が違う。

 

 紗月の歩みが止まる。

 

「……おかしい」

 

 低く呟く。

 

 誠が、顔を上げた。

 

 紗月は振り向かない。

 

 壁際の空間を指先でなぞるように見ながら続ける。

 

「ここには、大した設備がない」

 

 誠の眉がわずかに寄る。

 

 紗月は棚を一つ蹴飛ばす。

 

 傾いた木枠が、鈍い音を立てて倒れた。

 

「見れば分かるでしょ」

 

 淡々と言う。

 

「せいぜい、小規模な実験室だよ」

 

 床に転がる破片を踏み越えながら歩く。

 

「薬品棚も、培養装置も、生成槽も──」

 

 言葉を切る。

 

 地下室全体を見渡した。

 

「並列稼働できるような配置じゃない」

 

 誠の胸の奥で、何かが引っかかる。

 

 紗月は続けた。

 

「少なくとも」

 

 一拍。

 

「十数体のホムンクルスを同時に生成できるような施設には見えないね」

 

 その言葉が落ちた瞬間。

 

 地下室の空気が、さらに重くなった。

 

 誠は無意識に拳を握る。

 

 自分と同じ存在が、何体も。

 

 同時に。

 

 作られていた。

 

 夢で見た光景が、断片的に蘇る。

 

 番号。

 記録。

 死亡報告。

 

 紗月はゆっくり振り返った。

 

 その目は、もう地下室ではなく誠を見ている。

 

「つまり」

 

 静かに言う。

 

「ここは本命じゃないんじゃ、ないかな」

 

 一拍。

 

「前段階の施設」

 

 マリアがわずかに目を細める。

 

 アサシンも沈黙したまま耳を傾けている。

 

 紗月は続けた。

 

「灰原家単独で実験していた頃の、限定的な拠点」

 

 埃が舞う。

 

「そして」

 

 言葉が、ゆっくりと落ちる。

 

「途中で研究は“引き継がれた”」

 

 誠の喉が鳴る。

 

「どこに」

 

 掠れた声だった。

 

 紗月は迷わなかった。

 

「黒野家」

 

 地下室の静寂が、わずかに軋む。

 

「設備規模から考えても、資金力から見ても」

 

「本格的な生成と運用は、そっちで行われていたはず」

 

 一拍。

 

「ここは」

 

 視線を床へ落とす。

 

「原型の研究所」

 

「試作段階の墓場だよ」

 

 誠の呼吸が浅くなる。

 

 黒野。

 

 理央。

 

 胸の奥に、重たいものが沈む。

 

 紗月は、誠から視線を逸らさなかった。

 

 地下室の空気は、重く冷えたままだ。

 

「もし」

 

 ゆっくりと言う。

 

「灰原のホムンクルス製造の詳細や、サーヴァントを媒介にした“不死付与”の完全な資料を手に入れられれば──」

 

 一拍。

 

「君を殺す方法も、見つかるかもしれない」

 

 誠の瞳が、わずかに揺れる。

 

 紗月は続けた。

 

「それだけじゃない」

 

 静かに。

 

「聖杯そのものの構造も、分かる可能性がある」

 

 粉塵が、ゆっくりと舞う。

 

「破壊できるかもしれない」

 

 地下室に、かすかな反響が残る。

 

「この戦争を、終わらせられるかもしれない」

 

 誠はしばらく何も言わなかった。

 

 砕けた標本の残骸を見下ろしたまま、動かない。

 

 胸の奥で、いくつもの記憶が交錯する。

 

 焼け落ちた家。

 

 死んでいった者たち。

 

 狂気じみた実験。

 

 無意味に繰り返される殺し合い。

 

 そして──

 

 自分という存在の空虚さ。

 

 やがて。

 

 誠は、小さく笑った。

 

 乾いた。

 

 どうしようもなく疲れ切った笑いだった。

 

「……もう」

 

 掠れた声。

 

「うんざりなんですよ」

 

 一拍。

 

「聖杯だの、戦争だの」

 

 視線を上げる。

 

 紗月を真っ直ぐ見る。

 

「悲劇も」

 

「災厄も」

 

「全部」

 

 喉が、わずかに震える。

 

「全部、もういい」

 

 静かな沈黙。

 

 誠は続けた。

 

「俺はどうせ、作り物だ」

 

 一拍。

 

「生きてる意味なんて、最初からなかった」

 

 その言葉は怒りではなく、ただの事実確認のように淡々としていた。

 

 だが。

 

 その奥に沈んでいる感情は、重かった。

 

「だから」

 

 誠は言う。

 

「今度こそ」

 

 一拍。

 

「俺のことを殺してくださいよ」

 

 地下室の空気が、凍りつく。

 

 紗月はすぐには答えなかった。

 

 誠はさらに続ける。

 

「資料があるなら、取りに行きましょう」

 

 視線はもう揺れていない。

 

「黒野本家に」

 

 その言葉は、覚悟だった。

 

 逃げではない。

 

 自暴自棄でありながら──

 

 どこか、決着を望んでいる声音だった。

 

 地下室を出た時、夜気はさっきまでより鋭く感じられた。

 

 土と埃にまみれた空気から抜けたはずなのに、胸の奥の重さは少しも軽くならない。

 

 誠は鉄扉を見下ろした。

 

 黒く焼け、歪み、半ば地面と同化した地下への口。

 

 この下に残っているものは、もう使える資料ではない。

 

 だが。

 

 だからといって、このまま残しておきたくもなかった。

 

「……灯油」

 

 ぽつりと、誠が呟く。

 

 紗月が眉を寄せる。

 

「え?」

 

 誠は答えない。

 

 そのまま踵を返し、焼け跡の庭を横切り始めた。

 

 焦げた土を踏むたび、灰がふわりと舞う。

 

 崩れた石灯籠の脇。

 

 半焼した物置の残骸。

 

 倒れた棚板の下。

 

 誠は、ほとんど衝動みたいな動きで、片端から漁り始めた。

 

「……何してるの」

 

 紗月が低く問う。

 

 誠は、焼けたブロックをどけながら答える。

 

「この地下も」

 

 一拍。

 

「ちゃんと壊したい」

 

 声は乾いていた。

 

「残しておきたくないんです」

 

 物置の陰に回る。

 

 崩れた扉を押しのける。

 

 中には、煤けた工具箱、変形したポリタンク、骨組みだけになった棚が倒れ込んでいた。

 

 誠は無言でそれらを探る。

 

 マリアは少し離れた場所から静かに見ている。

 

 アサシンは周囲を警戒したまま動かない。

 

 やがて。

 

「……あった」

 

 誠の声が低く落ちた。

 

 物置の奥。

 

 潰れた段ボールの陰に、灯油缶が転がっていた。

 

 赤いはずの塗装は黒く煤け、側面は熱で歪んでいる。

 

 誠はそれを掴み、引きずり出した。

 

 重さは──ない。

 

 嫌な予感がした。

 

 持ち上げる。

 

 軽い。

 

 缶の底を見た瞬間、誠の肩が目に見えて落ちた。

 

 底部が焼け焦げ、裂けていた。

 

 中身はとっくに全部漏れ切っている。

 

 周囲の土が黒く染みていたのは、そのせいだったのだろう。

 

「……くそ」

 

 掠れた声が漏れる。

 

 誠は灯油缶をその場へ落とした。

 

 鈍い金属音。

 

 虚しいほど軽い音だった。

 

 しばらく、そのまま動かなかった。

 

 せっかく見つけたのに。

 

 結局、これも使えない。

 

 何もかもが遅すぎるみたいだった。

 

 誠は唇を噛み、もう一度庭を見回す。

 

 他に燃やせるものは。

 

 他に壊せる手段は。

 

 この忌まわしい地下室を、痕跡ごと消す方法はないか。

 

 焼け跡の暗がりを、視線がさまよう。

 

 その時だった。

 

 背後で、ぎ、ぎ、と硬い機構音が鳴った。

 

 誠が振り返る。

 

 アサシンだった。

 

 忍び装束の袖口の下、古めかしい義手の外装が静かに展開している。

 

 板金がずれ、留め具が外れ、内側の機構がせり出す。

 

 紗月が目を細めた。

 

「そんな回りくどいことしなくていいよ。アサシン」

 

 アサシンが義手を鉄扉の方へ向ける。

 

「御意」

 

 先端部が筒状に変形していた。

 

 まるで。

 

 火炎放射器のように。

 

 誠が目を見開くより早く。

 

 ごうっ、と低い唸りと共に、火が噴いた。

 

 赤橙の奔流。

 

 圧縮された炎が、一直線に地下室の入口へ叩き込まれる。

 

 鉄扉の縁が一瞬で赤熱し、吹き込んだ火はそのまま地下へ流れ落ちた。

 

 遅れて、地下の奥から何かが爆ぜる音が響く。

 

 積もっていた埃が、熱風に巻き上がる。

 

 乾き切った紙片。

 

 朽ちた木材。

 

 棚の残骸。

 

 それらが下で一気に燃え上がったのだろう。

 

 鉄扉の隙間から、赤い明滅が漏れた。

 

 地下の闇が、火に染まる。

 

 アサシンはなおも無言で噴射を続ける。

 

 義手の機構が低く唸り、炎は容赦なく地下の奥へ注ぎ込まれていく。

 

 誠はその光景を見ていた。

 

 呆然と。

 

 けれど、目を逸らさずに。

 

 焼け残った地下室が、今度こそ本当に灼かれていく。

 

 過去の残骸ごと。

 

 腐った標本ごと。

 

 自分の知らなかった罪の痕跡ごと。

 

 炎の向こうで、何かが崩れ落ちる音がした。

 

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