Fate/You Died.   作:助兵衛

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第76話 朱き腐敗

 地下への口から立ちのぼる熱は、しばらく四人の背をじりじりと炙っていた。

 

 鉄扉の隙間から漏れる赤い明滅が、焼け跡の土を不気味に照らしている。

 

 ぱち、ぱち、と。

 

 地下で何かが爆ぜるたびに、もう読まれることのない紙束や、名も知れぬ標本や、灰原の罪の断片が、まとめて焼かれていくのだと分かった。

 

 誠は、しばらくその火を見ていた。

 

 見届けなければならない気がした。

 

 あの地下に残っていたものは、もう証拠でも希望でもなかったが、それでも、自分が知らされずに積み重ねられてきたものの残骸だった。

 

 それが燃える。

 

 崩れる。

 

 灰になる。

 

 その光景を前にしても、胸の奥は少しも軽くならなかった。

 

「……行こうか」

 

 先に口を開いたのは紗月だった。

 

 炎を振り返りもせず、低く言う。

 

「ここにいても、もう出てくるものはない」

 

 誠は答えなかった。

 

 ただ、一度だけ小さく頷いた。

 

 マリアは無言のまま、燃え上がる地下への口を見つめていたが、やがて静かに踵を返す。

 

 アサシンは最後に一度だけ焼け跡全体へ視線を巡らせ、それから影のように主の後ろへ下がった。

 

 四人は庭を横切る。

 

 焦げた木々の間を抜け、崩れた石灯籠の脇を通り、錆びた門の前へ出る。

 

 背後では、まだ火が鳴っていた。

 

 誠は振り返らなかった。

 

 もうあそこに、自分の帰る場所はない。

 

 最初からなかったのかもしれないし、今この瞬間に完全に失われたのかもしれない。

 

 どちらでも、大差はなかった。

 

 門を抜ける。

 

 夜の山道は、来た時よりもいっそう暗く感じられた。

 

 落ち葉を踏む音。

 

 枝葉の擦れる音。

 

 冷えた空気。

 

 四人分の足音だけが、湿った地面へ小さく刻まれていく。

 

 先頭を歩くのは紗月だった。

 

 迷いのない足取りだった。

 

 この先に向かう場所を、ただ一人正確に知っている人間の歩き方だった。

 

 誠はその少し後ろを歩く。

 

 マリアが隣に並び、アサシンは後方を警戒するように間合いを保っている。

 

 しばらくは、誰も喋らなかった。

 

 焼け跡を離れたばかりの沈黙が、そのまま山道にまでついてきているみたいだった。

 

 やがて舗装の切れた坂を下りきり、雑草の生えた細道を抜けると、遠くに街の輪郭が見え始める。

 

 灯りは少ない。

 

 ところどころ生き残った街灯が、弱々しく道路の縁を照らしているだけだ。

 

 誠は前を向いたまま、掠れた声で言った。

 

「……黒野本家って、結構遠いですよね」

 

「かなりね」

 

 即答だった。

 

 それだけで十分だった。

 

 誠は小さく息を吐く。

 

 街まで下り、そこからさらに外れまで向かうとなれば、相当な距離になるだろう。

 

 しかも。

 

 こんな状況だ。

 

 電車も、バスも、まともに動いているとは思えない。

 

 紗月も同じことを考えていたらしい。

 

「公共交通機関は期待しない方がいいね」

 

 誠は黙る。

 

 自分の体力で辿り着けるのか、と一瞬だけ思った。

 

 だがすぐに、その考えを押し流す。

 

 行くと決めたのは自分だ。

 

 今さら弱音を吐く場所でもなかった。

 

 山道を抜け、ようやく少し大きな道路へ出る。

 

 片側二車線の幹線道路だった。

 

 昼間なら車の流れが絶えないはずの道も、今は不自然なほど静かだ。

 

 信号機はところどころ死んでいる。

 

 遠くに放置車両らしき黒い影がいくつか見える。

 

 道路脇の自販機は半分消灯し、コンビニの看板も暗かった。

 

 生きている都市ではなく、動きを止めた器官の中を歩いているみたいだった。

 

 紗月はそのまま迷いなく歩き出した。

 

 幹線道路の中央寄りを、ただ真っ直ぐ。

 

 信号の消えた交差点も、放置車両の間も、躊躇なく抜けていく。

 

 後ろの三人も無言で続く。

 

 誠は自分の足音だけを聞いていた。

 

 乾いたアスファルトを踏む規則的な音。

 

 それがやけに現実的で、逆に思考を遠ざける。

 

 しばらく歩くと、街の気配はさらに薄くなる。

 

 建物の密度がまばらになり、閉じたシャッターばかりが並ぶ。

 

 窓の暗い家々。

 

 灯りのない店舗。

 

 風に揺れる看板の金具が、かすかに軋む。

 

 それでも紗月は速度を落とさなかった。

 

 まるで距離という概念そのものを無視しているような歩き方だった。

 

 誠は途中で何度か空を見上げた。

 

 雲が低く流れている。

 

 星はほとんど見えない。

 

 時間の感覚が曖昧になっていく。

 

 どれくらい歩いたのか分からない。

 

 十分か。

 

 一時間か。

 

 それとももっとか。

 

 足の感覚だけが、じわじわと重くなっていく。

 

 だが誰も休もうとは言わなかった。

 

 言い出せる空気でもなかった。

 

 ただ進む。

 

 ただ進み続ける。

 

 数時間が過ぎた頃だった。

 

 不意に、前方の街灯がひとつ消えた。

 

 ぱつ、と乾いた断線音のような気配と共に、光が消える。

 

 誠は思わず足を止めそうになった。

 

 だが次の瞬間。

 

 さらにもう一つ。

 

 その先の一本。

 

 交差点の四本。

 

 順番に。

 

 まるで波のように。

 

 街灯が、消えていく。

 

 光の帯が途切れる。

 

 道路の奥が闇に呑まれていく。

 

「……」

 

 誠は息を呑んだ。

 

 振り返る。

 

 後方の灯りも、同じように消え始めていた。

 

 街全体がゆっくりと沈んでいくみたいだった。

 

 やがて最後の一本が、弱々しく瞬いてから沈黙する。

 

 完全な暗闇だった。

 

 月明かりすら雲に隠れ、道路の輪郭すら分からなくなる。

 

 音だけが残る。

 

 風。

 

 遠くで何かが軋む音。

 

 自分たちの呼吸。

 

 誠の喉が小さく鳴った。

 

「……停電?」

 

 答えたのは紗月だった。

 

 立ち止まり、周囲を見渡す。

 

「どうやら発電所が止まったみたいだね」

 

 驚きも焦りもない声だった。

 

 ただ状況を確認するだけの口調。

 

 彼女は肩に掛けていたカバンへ手を入れる。

 

 がさ、と布の擦れる音。

 

 取り出したのは細長い懐中電灯だった。

 

 慣れた手つきでスイッチを押す。

 

 かちり。

 

 白い光が、闇を切り裂いた。

 

 強くはないが、確かな光だった。

 

 アスファルトの質感が浮かび上がる。

 

 白線。

 

 割れ目。

 

 落ち葉。

 

 転がった空き缶。

 

 紗月は光を前方へ向ける。

 

「足元、気をつけて」

 

「このまま進むよ」

 

 再び歩き出してから、どれほど進んだのか分からなかった。

 

 懐中電灯の白い光だけが、四人の進む道を細く切り取っている。

 

 闇はその外側に厚く溜まり、街そのものが深い水の底に沈んでいるようだった。

 

 足音だけが続く。

 

 乾いたアスファルト。

 

 靴底に伝わる微かな振動。

 

 呼吸の音。

 

 それらが妙に鮮明だった。

 

 やがて。

 

 風が吹いた。

 

 最初は弱かった。

 

 どこか粘つくような、嫌な風が頬を撫でる。

 

 誠は無意識に顔をしかめた。

 

「……何だ、この匂い」

 

 鼻の奥にまとわりつく。

 

 湿ったような。

 

 腐ったような。

 

 それでいてどこか薬品にも似た、説明のつかない臭気だった。

 

 マリアもわずかに眉を寄せる。

 

 アサシンの足が、静かに止まる。

 

 先頭の紗月が立ち止まった。

 

 風向きを確かめるように顔を上げる。

 

 そしてゆっくりと懐中電灯を持ち上げた。

 

「……ほんとだ。なんだろうね、この臭い……」

 

 低く呟く。

 

 光が道路脇の建物群へ向けられる。

 

 白い円が暗闇を舐めるように滑っていく。

 

 割れた窓。

 

 閉じたシャッター。

 

 崩れかけた看板。

 

 その奥へ。

 

 さらに奥へ。

 

 そして。

 

 光が止まった。

 

 誠は思わず息を止めた。

 

「……なんだ、あれ」

 

 そこには。

 

 街の一角を侵食するように。

 

 “何か”が広がっていた。

 

 カビのようだった。

 

 だが、普通のカビではない。

 

 色が。

 

 朱かった。

 

 どろりと濁った赤。

 

 腐った血のような色。

 

 それが壁面に張り付き、道路に這い出し、建物の輪郭を覆い隠している。

 

 表面は不気味に湿っていた。

 

 ぬらぬらと光を反射している。

 

 ところどころが脈打つように膨らみ、またしぼむ。

 

 まるで呼吸しているみたいだった。

 

 誠の喉が小さく鳴る。

 

 懐中電灯の光の中で。

 

 その朱い腐敗は、ゆっくりと動いていた。

 

 壁のひび割れを埋め。

 

 アスファルトの割れ目へ入り込み。

 

 白線を覆い。

 

 道路を飲み込んでいく。

 

 じわじわと。

 

 確実に。

 

 拡がっている。

 

 崩れた電柱の根元はすでに半分が侵食されていた。

 

 看板の支柱は赤い塊に包まれ、文字は判別できない。

 

 店舗の入口は完全に塞がれている。

 

 内部から何かが押し出されるように、腐敗が外へ溢れていた。

 

 風がまた吹く。

 

 今度は強く。

 

 かび臭い臭気が一気に四人へ流れ込んだ。

 

 誠は思わず袖で口元を覆う。

 

「カビ、か? 生きてるみたいだ」

 

 自分でも分からない問いだった。

 

 紗月は答えない。

 

 ただ光を少しだけ横へ動かす。

 

 すると。

 

 腐敗の縁が、ほんのわずかに盛り上がった。

 

 ずるり、と。

 

 音はない。

 

 だが確かに。

 

 街を食べるように、前へ進んでいる。

 

 紗月はしばらくその朱い腐敗を見つめていた。

 

 懐中電灯の白い円の中で、赤黒いそれはぬめりながら建物の壁を這い、道路の継ぎ目を埋め、じわじわと輪郭を広げている。

 

 生き物じみている。

 

 だが、まともな生物の動きではなかった。

 

「……まあ」

 

 紗月が、ひどく冷めた声で言った。

 

「どうせ、また他の世界から流れ込んできた災厄の一つでしょ」

 

 吐き捨てるような言い方だった。

 

 驚きも、恐怖も、今さら表に出す気はないらしい。

 

 むしろ、うんざりしているようにさえ聞こえた。

 

 懐中電灯の光が、腐敗の縁をなぞる。

 

「まともに関わる意味はないね」

 

「迂回しよう」

 

 誠は無言で頷いた。

 

 マリアも異論を挟まない。

 

 アサシンは朱い腐敗をじっと見据えたまま、静かに一歩下がる。

 

 誰も反対しなかった。

 

 この得体の知れないものへ突っ込む理由など、どこにもなかった。

 

 紗月が光を横へ振る。

 

「こっち」

 

 四人は道路を外れ、脇道へ入った。

 

 細い生活道路だった。

 

 両側に低い住宅が並び、塀と塀の隙間を縫うように道が続いている。

 

 懐中電灯の光が、濡れたアスファルトと雑草と閉ざされた門扉を白く照らした。

 

 足音が狭い道に反響する。

 

 誠は何度か背後を振り返りかけたが、やめた。

 

 朱い腐敗はもう見えない。

 

 だが、さっき嗅いだかび臭さだけは、まだ鼻の奥にこびりついていた。

 

 右へ。

 

 左へ。

 

 また右へ。

 

 紗月は迷いなく曲がっていく。

 

 住宅街の細道を抜け、裏通りを横切り、駐車場の脇を通る。

 

 途中、何度か行き止まりに見える暗がりへも入りかけたが、彼女はすぐ別の道へ切り替えた。

 

 その背中にはためらいがなかった。

 

 しばらく進み。

 

 ようやく、少し開けた場所へ出る。

 

 誠は小さく息を吐いた。

 

 だが次の瞬間、その息が止まる。

 

「……またか」

 

 前方。

 

 道路の先が、懐中電灯の光の中で朱く濡れていた。

 

 大通りへ戻ったはずのその道もまた、あの腐敗に侵されていた。

 

 建物の基礎を這い。

 

 歩道を覆い。

 

 車道へ滲み出し。

 

 白線を喰い潰している。

 

 さっき見たものと同じだった。

 

 いや。

 

 同じどころではない。

 

 こっちの方が、さらに広く進んでいる。

 

 紗月が顔をしかめる。

 

「……冗談でしょ」

 

 懐中電灯の光を左右へ振る。

 

 朱い腐敗は道路の片側だけでなく、向かいの建物群にまで広がっていた。

 

 壁面を登り、窓枠を埋め、シャッターの継ぎ目から中へ入り込んでいる。

 

 じわじわと。

 

 絶え間なく。

 

 街そのものを取り込むみたいに。

 

 誠の背筋が冷たくなる。

 

 紗月は即座に判断した。

 

「戻るよ。別の道を──」

 

 言いかけて、振り返る。

 

 その瞬間。

 

 誰も、すぐには声を出せなかった。

 

 先ほどまで自分たちが歩いてきた道。

 

 細い裏路地の入口。

 

 その暗がりが。

 

 いつの間にか、朱く染まっていた。

 

 塀の下を這い。

 

 アスファルトの割れ目を埋め。

 

 電柱の根元を包み込み。

 

 腐敗が、来た道にまで広がっている。

 

 しかも、さっきより近い。

 

 明らかに。

 

 こちらへ向かって、侵食してきていた。

 

 誠は思わず一歩下がる。

 

「……いつの間に」

 

 マリアの目が細まる。

 

 アサシンはすでに半身を開き、主を庇う位置へ移っていた。

 

 紗月は懐中電灯を握る手に力を込める。

 

 前も。

 

 後ろも。

 

 朱い腐敗だった。

 

 静かなはずの街の中で、それだけが確かに増殖し、道を塞ぎ、四人を包囲するように広がっている。

 

 風が吹いた。

 

 かび臭い腐臭が、今度は前後の両方から押し寄せる。

 

 四方を囲まれてしまえば、もう迂回のしようがなかった。

 

 前方の道路は朱く塞がれ、背後の路地も同じ色に飲まれている。

 

 左右の建物沿いにも腐敗は張り付き、塀を越え、壁を這い、逃げ道そのものを潰すように広がっていた。

 

 紗月が舌打ちする。

 

「……最悪」

 

 懐中電灯の白い光が、朱い腐敗の表面を舐める。

 

 ぬらりと光るその質感が、余計に不快だった。

 

 誠は黙ったまま周囲を見回したが、どう見ても道はなかった。

 

 飛び越えられる幅ではない。

 

 建物の中へ逃げ込める様子もない。

 

 アサシンが刀の柄へ手をかける気配を見せる。

 

 だが斬ってどうにかなるものか、誰にも分からなかった。

 

 その時だった。

 

「……仕方ありませんね」

 

 マリアが、ひどく嫌そうに言った。

 

 声に、はっきりとした不快が滲んでいた。

 

 誠が振り向く。

 

 マリアは朱い腐敗を見下ろし、眉間に深い皺を寄せている。

 

 普段の彼女からは珍しいほど露骨な表情だった。

 

「本当に嫌なのですが」

 

 一拍。

 

「止まっていても埒が明きません」

 

 そう言うと、マリアは革靴の先をゆっくり持ち上げた。

 

 そして。

 

 朱い腐敗の縁へ、そっと片足を乗せる。

 

 誠は思わず息を詰めた。

 

 紗月も懐中電灯を少し上げる。

 

 アサシンの目が細くなる。

 

 マリアの靴底が、ぬめる朱へ沈み込む。

 

 ず、と。

 

 柔らかいものを踏んだような、嫌な感触の音がした。

 

 腐敗の表面がわずかに波打つ。

 

 だが、それだけだった。

 

 マリアは数秒そのまま動かず、感触を確かめるように目を伏せる。

 

「……どう?」

 

 紗月が低く問う。

 

 マリアは露骨に顔をしかめたまま答えた。

 

「生理的な不快感はあります」

 

 一拍。

 

「ですが、少なくとも──直接的な害は無いようです」

 

 誠が小さく息を吐く。

 

 緊張が解けたわけではない。

 

 ただ、進む以外の選択肢が残っただけだった。

 

 マリアはなおも嫌そうな顔を崩さない。

 

「こういうの慣れませんねぇ……」

 

 靴底に絡みつく朱い腐敗を見下ろし、心底うんざりしたように言う。

 

「触れたくありませんし、踏みたくもありませんし、できれば視界にも入れたくありませんが」

 

 そこで、さらにもう一歩を踏み出した。

 

 今度は両足が、完全に腐敗の上へ乗る。

 

 ぬめり。

 

 湿り気。

 

 かび臭い悪臭。

 

 それらすべてが、彼女の表情をさらに険しくする。

 

「進めはします」

 

 淡々とした口調だったが、その奥には明らかな嫌悪があった。

 

 マリアはそのまま、朱い腐敗の上を歩き始めた。

 

 まるで泥濘を渡るみたいに慎重に。

 

 けれど躊躇なく。

 

 腐敗は彼女の足の下でわずかに脈打ち、潰れ、また形を戻していく。

 

 だが確かに、道としては機能していた。

 

 紗月が短く息を吐く。

 

「……なら、行くしかないね」

 

 短く言って、彼女も腐敗の縁へ足をかけようとした、その瞬間だった。

 

 ──キチ、キチ、キチ……

 

 小さな音がした。

 

 誠は足を止める。

 

「……今の、何だ」

 

 風の音ではない。

 

 建物の軋みでもない。

 

 もっと細かく、もっと生理的に嫌な音だった。

 

 乾いた殻を擦り合わせるような。

 

 虫の鳴き声に似ているのに、どこか湿っているような、不快な響き。

 

 しかも一つではない。

 

 キチ、キチ、キチ、キチ──と、いくつもの音が重なるように、暗闇の向こうから響いてくる。

 

 紗月の顔が強張る。

 

 懐中電灯の光が、ゆっくりと音のした方へ向けられた。

 

 腐敗に侵された道路脇。

 

 建物の壁際。

 

 朱いぬめりの上を、何かが這っていた。

 

「っ……」

 

 最初に息を呑んだのは誠だった。

 

 生白い体色。

 

 半透明に近い、血の気のない白。

 

 海老に似ていた。

 

 あるいは、シャコ。

 

 だが、どちらとも違う。

 

 節くれ立った甲殻のような胴体が、異様に長い。

 

 肢は何対あるのか一目では分からず、腐敗の上を忙しなく掻き回しながら動いている。

 

 頭部には複数の細い触角が絡まり合うように生え、先端が痙攣するように震えていた。

 

 目らしき器官は、左右にぎょろりと飛び出しているのに、焦点が合っていない。

 

 それでも、見られている気配だけははっきりあった。

 

 腹側には無数の細脚があり、それが朱い腐敗を掻くたび、キチキチとあの音を立てている。

 

 しかも一匹ではない。

 

 懐中電灯の光が滑るたびに、次々とその生白い体が浮かび上がる。

 

 腐敗の上を這い回り。

 

 壁際を登り。

 

 時折、互いの体を擦り合わせながら。

 

 無数に。

 

 うごめいていた。

 

「うそ、うそうそうそ……き、きもすぎ……る」

 

 紗月の声が、はっきりと震えた。

 

 そして次の瞬間。

 

 その一匹が、ぴたりと動きを止めた。

 

 懐中電灯の光を浴びたまま。

 

 す、と。

 

 静かに。

 

 前脚だったものを持ち上げる。

 

 次いで胴体が起き上がる。

 

 節だらけの腹が折れ曲がり、甲殻が軋み、這い回っていたそれが二足歩行へ切り替わるように持ち上がっていく。

 

 誠の背筋が総毛立つ。

 

 ありえない。

 

 海老やシャコじみた形をしていたはずのものが、そのまま立ち上がっていく。

 

 下半身は節足のまま。

 

 上体は無理やり引き延ばされたように縦へ伸びる。

 

 腕に当たる器官は左右にぶら下がり、先端の鉤爪がだらりと揺れた。

 

 頭部はそのまま人間の胸ほどの高さまで持ち上がり──さらに伸びる。

 

 伸びて。

 

 伸びて。

 

 やがて、人間と変わらないほどの背丈になった。

 

「う……っ、ごめん灰原君、ごめん! 私、無理かも」

 

 紗月が、悲鳴みたいな声を漏らす。

 

 とんでもなく気持ち悪かった。

 

 それはもう、単純な異形とか怪物とか、そういう言葉で済ませたくない類のものだった。

 

 人の形に似ていないくせに、立っているという一点だけで人間を連想させる。

 

 そのせいで嫌悪が何倍にも膨らむ。

 

 生白い甲殻はところどころ薄く、内側で黒い管のようなものが蠢いているのが透けて見えた。

 

 胸部が脈打つたび、左右の殻がわずかに開き、その隙間から細かな脚とも触手ともつかないものが覗く。

 

 頭部の眼球は相変わらず飛び出したままなのに、今やはっきりとこちらを向いていた。

 

 口に当たる部分が、しゃり、と裂ける。

 

 中には細かな顎が幾重にも重なっていた。

 

 キチ、キチ、と。

 

 今度はそいつ一匹だけが鳴いた。

 

 それに応じるように、周囲で這っていた他の個体たちも一斉に動きを止める。

 

 朱い腐敗の上に、無数の生白い影が揺れた。

 

 紗月の声は、半分悲鳴だった。

 

「焼いて焼いて焼いて! 灰原君早く!」

 

 その直後。

 

 ぽかぽか、と。

 

 背中を、いや肩口を、紗月の手が必死に叩いた。

 

 冷静さも何もなかった。

 

 怖すぎて、とにかく何かしろと急かしているだけの力加減だ。

 

「早くって! ほら! 来る、来るから! 無理無理無理!」

 

 懐中電灯の光がぶれる。

 

 白い円の中で、立ち上がった生物の口元がしゃり、とさらに開いた。

 

 その背後でも、腐敗の上を這っていた生白い影が次々と身を起こし始めている。

 

 キチ、キチ、キチ──

 

 不快な鳴き声が重なり、街路の暗闇に満ちていく。

 

 誠は一瞬だけ目を細めた。

 

 次の瞬間には、もう迷わなかった。

 

 右手を持ち上げる。

 

 掌を、異形の群れへ向ける。

 

 息を吸う。

 

 胸の奥に沈んでいた熱が、意志に応じて一気に浮かび上がる。

 

 皮膚の下を、灼けるような魔力が走った。

 

 そして。

 

 掌の上に、火が生まれた。

 

 最初は小さかった。

 

 揺れる蝋燭の火のように、赤橙の舌が指先の間で揺らめく。

 

 だが次の瞬間、それは一気に膨れ上がる。

 

 ぼっ、と。

 

 空気が爆ぜた。

 

 誠の手のひらを中心に、炎が渦を巻く。

 

 朱い腐敗のぬめりを反射して、赤い光が周囲の壁を染めた。

 

 紗月が誠の服を掴んだまま、ひ、と息を呑む。

 

 誠は振り返らない。

 

 様子を見る気など、欠片もなかった。

 

 ただ。

 

 目の前の気持ち悪いものを、一気に焼き払う。

 

 それだけを決めていた。

 

「下がってください」

 

 低く言う。

 

 紗月が反射的に一歩退く。

 

 その瞬間。

 

 誠は掌を前へ突き出した。

 

 轟、と。

 

 炎が奔った。

 

 細い火ではない。

 

 濁流みたいな火の奔流だった。

 

 掌から噴き出した炎が、一瞬で道路の前方を呑み込む。

 

 立ち上がっていた生白い生物へ、真正面から叩きつけられる。

 

 ぎゃり、と。

 

 虫とも獣ともつかない音が上がった。

 

 甲殻が一瞬で黒く焦げる。

 

 半透明だった殻の内側で蠢いていた黒い管が、熱に煮え、破裂する。

 

 裂けた口から火が吹き込み、内側から焼き尽くしていく。

 

 立ち上がっていた個体が後ろへ仰け反る。

 

 だがその後ろにいた群れごと、炎は容赦なく飲み込んだ。

 

 腐敗の上を這っていた生物たちが、いっせいにキチキチと鳴きわめく。

 

 その音も、すぐに焼ける音へ変わった。

 

 足が縮れ。

 

 触角が炭になり。

 

 白い体色はみるみるうちに黒へ変わっていく。

 

 腐敗の表面を炎が舐め、ぬめる朱が一瞬だけ泡立った。

 

 だが誠は止めない。

 

 さらに火力を押し込む。

 

 掌の炎がごうごうと唸りを上げ、前方一帯を焼き尽くす。

 

 道路脇の壁まで赤く照らされ、建物の影が大きく跳ねた。

 

 前方にいた群れの大半は、その場で崩れた。

 

 焦げた殻の塊となって腐敗の上へ転がり落ちる。

 

 節足は縮れ、脚は炭化し、もう動かない。

 

 それでも何匹か、まだ生き残ったものがいた。

 

 だがそいつらも、さっきまでの異様な威圧感は失っていた。

 

 炎を見た瞬間、動きが変わる。

 

 キチキチと甲高く鳴きながら、腐敗の上を這いずり、建物の影へと一斉に逃げ始めた。

 

 壁際へ。

 

 シャッターの隙間へ。

 

 崩れた看板の裏へ。

 

 まるで火そのものを本能的に恐れているみたいに。

 

 生白い体が、次々と暗がりへ隠れていく。

 

 最後の一匹が影へ消えたところで、誠はようやく掌を下ろした。

 

 炎が、すっと萎む。

 

 残るのは焦げ臭さと、焼けた殻の匂いと、まだ熱を残した空気だけだった。

 

 道路の前方には、黒焦げの死骸がいくつも散らばっている。

 

 腐敗の上に焼け跡がまだらに広がり、白煙が細く上がっていた。

 

 誠は荒く息を吐いた。

 

 掌がまだ熱い。

 

 だが、その熱よりも先に。

 

「う、うぅ……きも……」

 

 半分泣き声みたいな声が、すぐ横からした。

 

 紗月だった。

 

 懐中電灯を握る手がぶれている。

 

 白い光が道路の上を落ち着きなく揺れ、焼け焦げた殻の残骸や、まだぬらりと湿った朱い腐敗を照らしては外れた。

 

「あぁー、本当に……無理」

 

 掠れた声でそう言うなり、彼女は誠の手首をぐっと掴んだ。

 

 強い力だった。

 

 震えているくせに、離すつもりはないらしい。

 

「行くよ、灰原君。今すぐ」

 

 返事を待たない。

 

 そのままほとんど引きずるように、紗月は歩き出した。

 

 誠は一瞬だけ、焼けた前方を振り返る。

 

 建物の影の奥から、もうあの気味の悪い生物の姿は見えなかった。

 

 鳴き声もない。

 

 さっきまであれほど濃かった敵意めいた気配も、いまは引いている。

 

 だが、道そのものが安全になったわけではなかった。

 

 朱い腐敗は、なおも道路を埋めている。

 

 焼けた箇所はまだらに黒く焦げていたが、その周囲では相変わらず赤黒いぬめりが脈打ち、じわじわと建物の壁を這い続けていた。

 

 四人はその上を急ぐ。

 

 ぬめる感触。

 

 靴底にまとわりつく湿り気。

 

 かび臭さと焦げ臭さの混ざった最悪の臭気。

 

 それらを振り切るように、ただ前へ進んだ。

 

 紗月が先導する。

 

 誠の手を引いたまま、ろくに後ろも見ずに進み続ける。

 

 マリアも、嫌悪を隠しもしない顔のまま後に続いた。

 

 アサシンは最後尾で影を睨みつけながら、いつでも割って入れる位置を崩さない。

 

 さらに進む。

 

 もう少し。

 

 もう少しだけ距離を取る。

 

 そうして十分に離れたと判断したのだろう。

 

 最初に立ち止まったのは紗月だった。

 

 懐中電灯の光が、乾いたアスファルトを白く照らす。

 

 そこにはもう、さっきの朱い侵食も、生白い異形の影もなかった。

 

 ただ停電した街の道が、ひっそりと伸びているだけだ。

 

「……はぁ」

 

 紗月が、深く息を吐く。

 

 それはため息というより、ようやく肺の奥の空気を入れ替えた音だった。

 

 続いて、誠も息を吐く。

 

 マリアも、露骨に辟易したような顔で細く息を漏らした。

 

 アサシンでさえ、わずかに肩の力を抜いたように見えた。

 

 全員が、ほっと肩を撫で下ろす。

 

 張り詰めていたものが、一瞬だけ緩む。

 

 誠はその時になって、ようやく前方へ目を向けた。

 

 道の先。

 

 懐中電灯の届くぎりぎりのあたりに、何かがあった。

 

 最初は、放置された荷物かと思った。

 

 朱い腐敗と暗がりの中に沈む、細長い影。

 

 だが違う。

 

 人だった。

 

「……誰か、いる」

 

 誠の低い声に、紗月が顔を上げる。

 

「え?」

 

 懐中電灯の光が、その先へ向けられる。

 

 白い円が闇を切り裂き、道の中央寄りに蹲る人影を捉えた。

 

 動かない。

 

 膝を抱えるようにも見える姿勢で、じっと俯いている。

 

 女性だ。

 

 長身で、痩せている。

 

 腰まで届く赤髪が、暗闇の中でも鈍く光を返していた。

 

 その髪は乱れているのに、ただの避難民や通行人には見えない、妙な威圧感がある。

 

 服装も異質だった。

 

 古風なワンピース風の衣装。

 

 その上から、赤いマントを羽織っている。

 

 そして頭には、鳥の翼を象った装飾の付いた金の兜。

 

 懐中電灯の光を受けて、その縁が冷たく光った。

 

 まるで。

 

 北欧神話に出てくるワルキューレそのものみたいな姿だった。

 

 紗月の手が、無意識に誠の手首を掴み直す。

 

「……あれは、誰?」

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