Fate/You Died.   作:助兵衛

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第77話 無垢金の針

 懐中電灯の白い光は、蹲るその女の輪郭だけを冷たく切り取っていた。

 

 腰まで伸びた赤髪が、俯いたまま垂れている。

 

 古風なワンピース風の衣装。

 

 その上から羽織られた赤いマント。

 

 鳥の翼を象った装飾のついた金の兜が、灯りを受けて鈍く光っていた。

 

 異様だった。

 

 だが今夜見てきたものを思えば、もはや異様であること自体に驚く気力も薄い。

 

 誠は数秒、その姿を見ていた。

 

 けれど胸の奥に浮かんだのは警戒よりも、ひどく冷めた諦めに近い感情だった。

 

「……どうせ」

 

 掠れた声で言う。

 

「また他世界から紛れ込んだ奴の一人だろ」

 

 紗月がわずかに眉を寄せる。

 

「灰原君」

 

 だが誠は、もうそれ以上その女を見ていなかった。

 

 朱い腐敗。

 

 白い異形。

 

 焼け跡。

 

 地下室。

 

 黒野家。

 

 頭の中には、優先しなければならないものが多すぎた。

 

 今さら道端に一人増えたところで、いちいち立ち止まっていられない。

 

 誠はそのまま、女の横を通り抜けるつもりで一歩踏み出した。

 

 無遠慮なほど真っ直ぐに。

 

 わざわざ回り込むことすらせず、最短距離で進もうとする。

 

 その肩を、不意に強い力が掴んだ。

 

 ぐい、と。

 

 誠の体が半歩ぶれる。

 

 振り向くと、マリアだった。

 

 銀の髪の奥で、その目が珍しくはっきりと険しくなっている。

 

「……何ですか」

 

 誠が低く問う。

 

 マリアは女から視線を外さないまま言った。

 

「詳細は不明ですが」

 

 一拍。

 

「彼女には、関わらない方がいい」

 

 声音は静かだった。

 

 だが、そこにははっきりとした警戒があった。

 

 誠は小さく息を吐き、進路を変えた。

 

 真正面からではなく、少し距離を取って迂回するように歩き出す。

 

 紗月も無言でそれに続く。

 

 マリアはなお警戒を解かず、アサシンは後方を見張りながら位置を調整した。

 

 その時だった。

 

「……すまない、少年」

 

 不意に声がした。

 

 低く、かすれている。

 

 だがはっきりと誠へ向けられた声だった。

 

 全員の足が止まる。

 

 懐中電灯の光が揺れ、周囲の闇がわずかに動いたように見えた。

 

 声のした方向へ視線を向ける。

 

 そこに、もう一人いた。

 

 いつからそこにいたのか分からない。

 

 ぼろ布のローブで全身を覆った女性だった。

 

 顔の大半は影に沈み、輪郭すら曖昧だ。

 

 だがフードの隙間から、鮮やかな赤い髪が覗いている。

 

 夜の中でも、異様なほどはっきりした色だった。

 

 彼女は壁にもたれるように立っていた。

 

 いや、立っているというより、かろうじて体を支えているように見える。

 

 左手で布を押さえ、右腕はだらりと垂れていた。

 

 まったく力が入っていない。

 

 肩のあたりから不自然な角度で動かない。

 

 怪我をしているのは明らかだった。

 

「どうか……手を貸してはくれないか」

 

 女は息を整えるように一度言葉を切る。

 

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

 目元は見えない。

 

 だが声には必死さが滲んでいた。

 

「あそこにいる友を……安全な場所へ運んでやりたいのだ」

 

 そう言って、左手で指し示す。

 

 蹲る鎧の女の方だった。

 

 赤いマント。

 

 金の兜。

 

 動かない長身の影。

 

 誠は眉をひそめる。

 

「……友?」

 

 ローブの女は小さく頷く。

 

 その動作だけでも、相当に消耗しているのが分かった。

 

「私一人では……もう、どうにもならない」

 

 右腕が、かすかに揺れた。

 

 だが持ち上がらない。

 

 痛みに耐えるように息が漏れる。

 

 誠は言葉を失う。

 

 助けを求められている。

 

 しかも明確に、自分に。

 

 だが同時に。

 

 マリアの言葉が、頭の奥で重く残っていた。

 

 ──関わらない方がいい。

 

 誠はしばらく黙っていた。

 

 懐中電灯の白い光が、ぼろ布のローブの裾をかすめる。

 

 夜は静かだった。

 

 あまりにも静かで、逆にこの場だけが切り取られたような感覚になる。

 

 ローブの女は、怪訝そうに首を傾げた。

 

 誠の沈黙を拒絶と受け取ったのだろう。

 

「……礼は必ずする」

 

 かすれた声だったが、その言葉には妙な重みがあった。

 

「今は持ち合わせがないが……必ず、なんでもする。だからどうか……力を貸してほしい」

 

 息が続かないのか、言葉の合間に小さく肩が上下する。

 

 誠は目を伏せる。

 

 面倒だと思った。

 

 危険かもしれないとも思った。

 

 だが。

 

 見捨てて進むことを選ぶほど、完全に割り切れているわけでもなかった。

 

「……分かりましたよ」

 

 渋々といった口調だった。

 

「とりあえず、様子だけ見ます」

 

 紗月が小さく息を吐く。

 

 マリアは何も言わなかったが、明らかに警戒を強めた。

 

 アサシンは位置をずらし、いつでも動けるように半歩前へ出る。

 

 誠はゆっくりと鎧の女へ近付いた。

 

 足音がやけに大きく響く。

 

 白い光の円の中で、赤髪の女はやはり動かなかった。

 

 呼吸すら感じられない。

 

 生きているのかどうか、見ただけでは分からないほど静止している。

 

「……おい」

 

 誠は声をかける。

 

 反応はない。

 

 さらに一歩近付く。

 

 膝をつく。

 

 肩へ手をかけようとして──初めて気付いた。

 

「……重っ」

 

 思わず声が漏れた。

 

 鎧の質感が異様に硬い。

 

 見た目以上に分厚く、密度がある。

 

 それだけではない。

 

 片腕。

 

 そして片脚。

 

 それらが金色の義手義足だった。

 

 装飾ではない。

 

 関節部には複雑な機構のようなものが刻まれており、金属そのものが骨格になっている。

 

 鎧と一体化しているようにも見えた。

 

 誠は歯を食いしばり、体を引き起こそうとする。

 

 だがびくともしない。

 

 重さが桁違いだった。

 

 人一人を持ち上げる感覚ではない。

 

 まるで鋼の塊を動かそうとしているようだった。

 

「……無理だろこれ」

 

 低く呟く。

 

 腕に力を込めるが、肩がわずかに揺れるだけだ。

 

 体勢を変えてもう一度試す。

 

 それでも持ち上がらない。

 

 その時だった。

 

「貸してください」

 

 すぐ横から声がした。

 

 次の瞬間。

 

 誠の視界がぐらりと動く。

 

 マリアだった。

 

 彼女は何の気負いもなく鎧の女の脇へ手を差し入れると──

 

 ひょい、と。

 

 本当にそれだけの動作で持ち上げた。

 

 まるで重さが存在しないかのように。

 

 赤いマントがゆらりと揺れる。

 

 金の兜が白い光を受けて冷たく光った。

 

 誠は一瞬、言葉を失う。

 

 マリアは鎧の女を抱えたまま、表情一つ変えずローブの女を見る。

 

「……どこへ運べばよろしいのですか?」

 

 ローブの女は、一瞬だけ目を見開いた。

 

 それが驚きなのか、安堵なのかは分からない。

 

 だが次の瞬間、深く頭を下げた。

 

「……感謝する」

 

 声はまだ弱かったが、先ほどよりもはっきりしていた。

 

「すぐ近くに、使われていない家屋がある。そこへ運んでくれればいい」

 

 そう言うと、彼女は壁から体を離した。

 

 よろめきながらも歩き出す。

 

 足取りは明らかに不安定だったが、倒れる気配はない。

 

 誠たちは顔を見合わせる。

 

 紗月が懐中電灯を持ち直し、無言で先頭に出た。

 

 ローブの女の足元を照らす。

 

 マリアは鎧の女を軽々と抱えたまま、その後に続く。

 

 アサシンは最後尾で周囲の闇へ視線を巡らせていた。

 

 数分も歩かなかった。

 

 住宅街の奥まった一角。

 

 塀の崩れかけた古い家屋の前で、ローブの女は立ち止まる。

 

「ここだ」

 

 木製の引き戸は半ば外れかけており、風が吹くたびにわずかに軋んだ。

 

 人が住んでいる気配はない。

 

 庭も荒れ、雑草が伸び放題になっている。

 

 紗月が先に中を照らす。

 

 埃の匂い。

 

 散乱した家具。

 

 崩れかけた障子。

 

 だが雨風はしのげそうだった。

 

「……入れるね」

 

 短く言う。

 

 マリアは頷き、靴音を立てずに室内へ入った。

 

 畳はところどころ沈み込んでいるが、歩くことはできる。

 

 奥の比較的ましな部屋へ進み、ゆっくりと鎧の女を寝かせた。

 

 ごとり、と鈍い音が畳へ伝わる。

 

 赤いマントが広がる。

 

 金の兜はわずかに傾いたが──

 

 それでも彼女は身じろぎ一つしなかった。

 

 呼吸も。

 

 声も。

 

 反応もない。

 

 ただ、静かに横たわっている。

 

 誠は無意識に眉をひそめた。

 

 本当に生きているのか、まだ確信が持てない。

 

 ローブの女が、ゆっくりと部屋へ入ってくる。

 

 そのまま畳へ膝をつき、深く頭を下げた。

 

「助かった……本当に」

 

 一度だけ息を整える。

 

 それから顔を上げると、フードをわずかに後ろへずらした。

 

 鮮やかな赤い髪が、はっきりと露わになる。

 

「私はミリセントという」

 

 静かに名乗った。

 

 そして横たわる鎧の女へ視線を向ける。

 

「彼女は……マレニアだ」

 

 その名を口にした時だけ、声の調子がわずかに変わった。

 

 敬意とも、痛みともつかない響きが混じっていた。

 

 誠はしばらく何も言わず、横たわる女──マレニアと、膝をついたままのミリセントを交互に見ていた。

 

 荒れた室内は静まり返っている。

 

 外の闇も、朱い腐敗も、今はここまで入り込んではいない。

 

 だが空気は重かった。

 

 誠はやがて小さく息を吐く。

 

「……君たちも」

 

 掠れた声だった。

 

「他世界から来た存在なのか?」

 

 ミリセントはすぐには答えなかった。

 

 視線を落とし、畳の上に散った埃を見つめる。

 

 その沈黙は迷いではなく、言葉を探しているような間だった。

 

「……経緯は分からない」

 

 やがてそう言う。

 

 声は静かだったが、はっきりしている。

 

「だが、そうだと思う」

 

「気が付いた時には、この土地にいた。見知らぬ空と、見知らぬ大地の中でな」

 

 誠は眉をひそめる。

 

 否定する気配はなかった。

 

 むしろ、既にそういうものだと受け入れている響きだった。

 

「……なるほど」

 

 マリアが低く呟く。

 

 彼女はマレニアのすぐ傍に立ったまま、視線を落としていた。

 

 銀の瞳が、静かに細められている。

 

「少しよろしいですか」

 

 誰に向けた言葉とも取れない声音だった。

 

 だが次の瞬間、はっきりとミリセントを見た。

 

「彼女からはこの近辺を覆っている“朱い腐敗”と……同じ気配を感じます」

 

 紗月が顔を上げる。

 

 誠も無意識に視線をマレニアへ向けた。

 

 横たわるその姿は、相変わらずぴくりとも動かない。

 

 マリアは続ける。

 

「断定はできませんが」

 

 一拍置く。

 

「彼女は……あの腐敗と関連のある存在なのですか?」

 

 問いは穏やかだった。

 

 だがそこには、はっきりとした警戒が含まれていた。

 

 ミリセントはしばらく何も言わなかった。

 

 畳に横たわるマレニアを、じっと見つめている。

 

 その視線は迷いではなく、覚悟を固めるような重さを帯びていた。

 

 やがて小さく息を吐く。

 

「……貴女の指摘の通りだ」

 

 静かに言った。

 

「この腐敗は……マレニアにより発せられたものだ」

 

 室内の空気が、さらに一段沈む。

 

 紗月が言葉を失い、誠は腕を組んだまま視線を細めた。

 

 マリアは表情を変えない。

 

 ただ、その目だけがより鋭くなっていた。

 

 ミリセントは続ける。

 

「かつて彼女と私は、“狭間の地”と呼ばれる世界にいた」

 

「そこで……“外なる神”の干渉を受けた」

 

 その言葉だけで、説明としては十分だった。

 

 人の意思や理から外れた存在。

 

 世界そのものに介入する異質な何か。

 

 そういうものを指しているのだと、誰もが直感した。

 

「その時、彼女の身には腐敗が埋め込まれた」

 

 ミリセントの声は淡々としている。

 

 だがそこには、怒りとも悲しみともつかない感情が沈んでいた。

 

「留めようとも、放とうとも……この腐敗は世界を汚染する」

 

「悍ましき現象だ」

 

 畳の上に、かすかな沈黙が落ちる。

 

 遠くで風が家屋を鳴らした。

 

「そして、時を同じくして彼女は世界の後継者を巡る戦いに臨んだ」

 

 ミリセントはマレニアを見下ろしたまま言う。

 

「激しい戦闘だった」

 

 当時の情勢、彼女らの立場、行末、その詳細は複雑故に語るつもりはないらしい。

 あるいは、既に全てが“終わった”事であるからか。

 

 だが言葉の端々から、常識の尺度では測れない戦いだったことだけは伝わる。

 

「その末に──腐敗を解き放った」

 

 紗月の肩がわずかに震える。

 

 誠は何も言わない。

 

 ミリセントは続けた。

 

「相手と相打ちになり……広範囲に腐敗をばら撒いた」

 

 一拍。

 

「そして彼女自身も、重傷を負い撤退を余儀なくされた」

 

 その言葉が終わると同時に、室内は深い静けさに包まれた。

 

 横たわるマレニアは、依然として動かない。

 

 横たわるその姿は、やはり静かなままだ。

 

 呼吸も、呻きも、苦悶もない。

 

 まるで眠っているのではなく、ただ時間そのものから切り離されているみたいに見えた。

 

 やがて。

 

 ミリセントは静かに両手を畳へついた。

 

 そのまま、深々と頭を下げる。

 

 赤い髪が、ばさりと肩から零れ落ちた。

 

「……すまない」

 

 低い声だった。

 

 掠れてはいる。

 

 だが先ほどまでよりも、ずっと重かった。

 

「経緯や思惑がどうであれ、関係ない」

 

 一拍。

 

「マレニアが行ったことは、世界の汚染だ」

 

 室内の空気が、わずかに張る。

 

 誠は腕を組んだまま黙っている。

 

 紗月も何も言わない。

 

 マリアだけが、静かな目でミリセントを見ていた。

 

「それは大罪だ」

 

 ミリセントは顔を上げずに続ける。

 

「狭間の地を蝕み」

 

「多くを巻き込み」

 

「そして今……異なる世界にまでも、その腐敗を持ち込んでしまった」

 

 声が、ほんの僅かに震えた。

 

「謝罪して済むことではないと分かっている」

 

「だが、それでも──謝らせてほしい」

 

 畳に額がつきそうなほど深く頭を垂れたまま、言う。

 

「この地を汚したことを、詫びる」

 

 沈黙が落ちた。

 

 家の古い柱が、風に軋む。

 

 それだけが妙にはっきり聞こえた。

 

 誠は、頭を下げたままのミリセントを見ていた。

 

 彼女はマレニアのしたことを庇わない。

 

 正当化もしない。

 

 ただ、自分の身にも届いている罪として受け止めている。

 

 その在り方が少しだけ、誠の胸に引っかかった。

 

「……あんたが謝ることじゃないだろ」

 

 ぽつりと、誠が言う。

 

 ミリセントの肩が、わずかに動いた。

 

「いや」

 

 ゆっくりと顔を上げる。

 

 その表情は疲弊しきっていたが、目だけはまっすぐだった。

 

「私にも無関係ではない」

 

 一拍。

 

「私は彼女から生まれ出でたものだ」

 

 紗月の眉がぴくりと動く。

 

「……生まれ出でた?」

 

 ミリセントは小さく頷いた。

 

「複製と言うべきか」

 

「あるいは、娘か、姉妹か……」

 

 言葉を選ぶように、少しだけ視線が揺れる。

 

「私自身にも、正確には分からない」

 

 畳の上に置かれた自分の左手を、ミリセントは見下ろした。

 

 細い指。

 

 傷と汚れにまみれた皮膚。

 

 その下に、何かを抱えているような目だった。

 

「だが私は、彼女から分かたれた存在だ」

 

「だから、彼女の罪は私の外には置けない」

 

 その言葉は妙に静かで、妙に重かった。

 

 そして。

 

「……私の中にも、ある」

 

 ミリセントが、かすかに右肩を震わせる。

 

 動かないはずの右腕を、左手でそっと押さえた。

 

「腐敗の種が」

 

 紗月が息を呑む。

 

 誠は無意識に目を細めた。

 

 マリアの視線が、より鋭くなる。

 

 ミリセントは続けた。

 

「まだ小さい」

 

「だが、確かに蠢いている」

 

 その声には恐怖があった。

 

 自分の内側にあるものへの、はっきりとした嫌悪が。

 

「いずれ私も、同じように壊れるのかもしれない」

 

「同じように、この世を汚すのかもしれない」

 

 ミリセントは、しばらく言葉を切っていた。

 

 自分の右腕を押さえる左手に、わずかに力が入っている。

 

 その指先は白くなるほど強く、けれど震えていた。

 

 やがて。

 

 彼女は静かに、マレニアの方へ視線を向けた。

 

 横たわるその姿は、相変わらず動かない。

 

 赤いマントも。

 

 金の兜も。

 

 今はただ、死者の飾りみたいに静まり返っている。

 

「……だからこそ」

 

 ミリセントが、低く言った。

 

 その声音は弱っているはずなのに、不思議と芯があった。

 

「私は彼女を、この手で殺さねばならない」

 

 室内の空気が、ぴたりと止まる。

 

 紗月が目を見開いた。

 

 誠もまた、無言のままミリセントを見る。

 

 ミリセントは続けた。

 

「それが、私に残された使命だ」

 

 一拍。

 

「マレニアの罪を、少しでも償うために」

 

「そして」

 

 その視線が、わずかに伏せられる。

 

「彼女に、ほんの少しでも誇りを取り戻させるために」

 

 言葉は静かだった。

 

 だが静かである分だけ、決意の重さが際立っていた。

 

「腐敗に呑まれ、腐敗を撒き散らし、ただ眠ったまま朽ちていくのではない」

 

「この地をこれ以上汚す前に」

 

「彼女を終わらせる」

 

 ミリセントの喉が、小さく動く。

 

「そして、腐敗をこの世界から消え失せさせる」

 

 それは願いではなかった。

 

 誓いだった。

 

 自分が壊れるかもしれないと知ってなお、背負い続けると決めた者の声だった。

 

 誠は何も言わなかった。

 

 だが、その沈黙の奥で、胸の深いところがゆっくりと軋む。

 

 聖杯。

 

 災厄。

 

 終わらない殺し合い。

 

 自分の中に埋め込まれた、忌まわしいもの。

 

 自分が生きている限り、被害が広がるかもしれないという現実。

 

 そして──

 

 それを止めるためには、自分が死ななければならないという話。

 

 視線が、自然とマレニアからミリセントへ移る。

 

 彼女もまた、自分と似たものを背負っている。

 

 自分の外にある災厄ではない。

 

 自分の血と、自分の存在そのものに結びついた災厄を。

 

 紗月もまた、黙っていた。

 

 けれどその横顔は、さっきまでとは少し違っていた。

 

 警戒や嫌悪だけではない。

 

 もっと苦い共感のようなものが、そこに混じっている。

 

「そうか」

 

 誠はミリセントの震える腕を見て、ゆっくりと目を伏せた。

 

 自分のことを殺してください。

 

 さっき、確かにそう言った。

 

 半ば投げやりに。

 

 けれど本当は、投げやりで済ませていい話ではなかったのかもしれない。

 

 目の前の赤髪の女は、自分で終わらせると決めている。

 

 逃げずに。

 

 見ないふりもせずに。

 

 その在り方が、誠の胸に痛いほど刺さった。

 

「なら」

 

 顔を上げる。

 

「俺たちも協力します」

 

 ミリセントの目が、わずかに見開かれる。

 

 誠は続けた。

 

「他人事じゃない」

 

「こっちも似たようなもんですから」

 

 一拍。

 

「俺の中にも、聖杯っていう災厄がある」

 

「放っておけば、もっと酷いことになるかもしれない」

 

 室内は静かだった。

 

 誠の声だけが、荒れた畳の部屋に落ちていく。

 

「だから、俺も止めたい」

 

「終わらせたいんです」

 

 その言葉に、紗月が隣で目を伏せた。

 

 そして、ゆっくりと口を開く。

 

「私も」

 

 短かった。

 

 けれど迷いはない。

 

「灰原君を殺すっていうのは、結局」

 

「この聖杯戦争の災厄を止めるためだった」

 

 ミリセントの方へ視線を向ける。

 

「あなたが背負ってるものは、たぶん私たちが背負ってるものと、そんなに遠くない」

 

 一拍。

 

「だったら、見過ごせない」

 

 紗月は、少しだけ困ったように笑った。

 

「正直、状況は最悪だし、あなたたちも十分すぎるくらい怪しいけど」

 

「でも」

 

 その目が、まっすぐミリセントを射抜く。

 

「使命感だけは、本物に見える」

 

 ミリセントは何も言わなかった。

 

 言えなかったのかもしれない。

 

 その瞳が、わずかに揺れていた。

 

 マリアは壁際に立ったまま、静かに一同を見ていた。

 

 アサシンもまた、主の決定に口を挟むことなく沈黙している。

 

 やがて。

 

 ミリセントは、深く息を吐いた。

 

「……恩に着る」

 

 マリアは、しばらく黙っていた。

 

 壁際に寄り、横たわるマレニアを見下ろしている。

 

 その銀の瞳には、警戒が薄れていなかった。

 

 むしろ、誠と紗月が協力を申し出たことで、なおさら慎重になったようにも見える。

 

 やがて。

 

「……一つ、確認したいのですが」

 

 静かな声で、マリアが言った。

 

 ミリセントが視線を向ける。

 

 マリアはそのまま続けた。

 

「その“腐敗”とやらは」

 

 一拍。

 

「彼女や貴女を殺せば、それで解決するような単純なものなのですか?」

 

 室内の空気が、わずかに張った。

 

 誠は無意識に眉を寄せる。

 

 紗月もまた、口を挟まずにマリアの横顔を見た。

 

 マリアは感情を大きく動かさない。

 

 だが、問いの刃は鋭かった。

 

 彼女は横たわるマレニアを、顎で示すようにわずかに視線を落とす。

 

「そもそも」

 

 低く。

 

「彼女は、殺害できるような存在には見えません」

 

 畳の上のマレニアは動かない。

 

 だがその静けさは、弱さや無防備さとは違っていた。

 

 ただ眠っているだけの人間ではない。

 

 何か、もっと深い層へ沈み込んでいるような。

 

 触れてはいけない神像じみた静止だった。

 

 マリアはその気配を見逃していないらしい。

 

「彼女は……神に連なる者なのでしょう」

 

 一拍。

 

「腐敗は、その存在に根差した癌のようなものだ」

 

 その言葉は冷静だった。

 

 感情ではなく、構造を見極めようとする声だった。

 

「であれば」

 

 ミリセントを真っ直ぐ見る。

 

「単に肉体を滅ぼせば終わる話ではない可能性が高い」

 

「どのように解決するつもりなのですか?」

 

 問いが、静かに落ちる。

 

 誠は腕を組んだまま、息を止めるようにその答えを待った。

 

 紗月もまた、マリアの指摘に反論しない。

 

 それは当然だった。

 

 今まで出会ってきた“異物”の多くは、斬れば終わる、燃やせば終わるという単純な代物ではなかった。

 

 聖杯も。

 

 不死も。

 

 朱い腐敗も。

 

 どれも本体と現象が綺麗に分かれているとは思えない。

 

 ミリセントは、すぐには答えなかった。

 

 横たわるマレニアを見る。

 

 その視線には、痛みと、迷いと、それでも捨てきれない確信が同時に宿っていた。

 

 やがて彼女は、小さく息を吐いた。

 

「……その通りだ」

 

 掠れた声だった。

 

「貴女の言う通り、そう単純な話ではない」

 

 ミリセントは、しばらく目を伏せていた。

 

 壊れかけた家の中は静かだった。

 

 風がどこかで障子を鳴らし、古い柱が小さく軋む。

 

 そのわずかな音のあいだに、ミリセントは何かを決めるように息を整えた。

 

「……故に」

 

 かすれた声で言う。

 

「私には、まだ一つだけ当てがある」

 

 そう言って、左手をローブの内側へ差し入れた。

 

 動かない右腕を庇うように、慎重に。

 

 まるで、傷口に触れるのを避けながら心臓を取り出すみたいな手つきだった。

 

 紗月がわずかに身構える。

 

 アサシンの気配も、後方で微かに変わった。

 

 だがミリセントが取り出したのは武器ではなかった。

 

 小さな包みだった。

 

 幾重にも布で巻かれ、さらに細い紐で丁寧に結ばれている。

 

 汚れた外套の中に隠されていたにもかかわらず、その包みだけは不自然なほど大切に扱われていた。

 

 ミリセントは畳の上へそっとそれを置く。

 

 そして左手だけで、時間をかけて紐を解いた。

 

 布が一枚。

 

 また一枚。

 

 静かに剥がれていく。

 

 最後の布が開かれた時。

 

 中から現れたものに、誠は思わず目を細めた。

 

 針だった。

 

 金色の。

 

 いや、ただの金ではない。

 

 鈍いのに濁らず、柔らかいのに決して鈍らないような、奇妙な光沢を持っている。

 

 無垢金の針。

 

 そう呼ぶのが最もしっくりくる質感だった。

 

 だがその針は、完全な形をしていなかった。

 

 真ん中から折れていた。

 

 断面は無惨に裂けているわけではない。

 

 むしろ、あまりにも精巧なものが、ある一点だけ耐えきれずに断たれたような折れ方だった。

 

 細い。

 

 今にも崩れそうなほど繊細で。

 

 触れれば、それだけで更に折れてしまいそうだった。

 

 その瞬間だった。

 

 マリアが、露骨に顔を顰めた。

 

 銀の眉が寄り、目が鋭く細められる。

 

 そして何も言わないまま、一歩、二歩と距離を取った。

 

 その反応は、嫌悪というより反射に近かった。

 

 誠がちらりと横目で見る。

 

「……それは」

 

 ミリセントは針を見下ろしたまま答えた。

 

「無垢金の針」

 

 一拍。

 

「狭間の地にて存在していた、“外なる神”を遠ざけるものだ。私の一部と解釈されたのか、この地にも持ち込むことが出来た」

 

 紗月が息を呑む。

 

 マリアは距離を取ったまま、なおもその針から目を離さない。

 

 まるで小さな針一本の中に、見過ごせない何かを感じ取っているようだった。

 

 ミリセントは左手の指先で、針には触れず、その輪郭だけをなぞるように空中へ指を走らせる。

 

「本来ならば」

 

 静かに続ける。

 

「これがあれば、腐敗を抑え込む助けとなった」

 

「少なくとも、神の干渉に抗う楔にはなったはずだ」

 

 だが、と。

 

 その一言に、疲れと苦味が滲んだ。

 

「見ての通り、破損している」

 

 誠は針を見た。

 

 折れている。

 

 それだけではない。

 

 折れたことで均衡そのものが崩れているように見えた。

 

 完品の時には一本の意志だったものが、今はただの壊れた残骸になりかけている。

 

「使い物にはならない」

 

 ミリセントはそう断じた。

 

「いまのこれは、ただの希望の亡骸に近い」

 

 畳の上に置かれた針は、小さい。

 

 だがその場の誰よりも重い沈黙を纏っていた。

 

 マリアが、低く言う。

 

「……不快ですね」

 

 その声音は珍しく率直だった。

 

「小さいにもかかわらず、妙に“拒む”」

 

 一拍。

 

「なるほど。外なる神を遠ざける、ですか」

 

 ミリセントは頷いた。

 

「そうだ」

 

 そして、ほんのわずかに視線を伏せる。

 

「これを修復できれば……」

 

 そこで言葉が切れた。

 

 だが続きを言わずとも、全員に伝わった。

 

 修復できれば。

 

 マレニアを止めるための足掛かりになるかもしれない。

 

 腐敗そのものに抗えるかもしれない。

 

 神に連なる呪いに、初めて具体的な楔を打ち込めるかもしれない。

 

 誠は針を見つめたまま、小さく息を吐く。

 

「……また、黒野家に行く理由が増えたな」

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