ミリセントは、しばらく無垢金の針を見つめていた。
折れた黄金は、畳の上でか細く光っている。
それは小さい。
だが、この場にあるどの武器よりも重く見えた。
やがて彼女は静かに息を吐き、左手だけで再び布を手繰り寄せる。
一枚。
また一枚。
最後に紐を結び終えると、ミリセントはそれを大事そうに懐へ戻した。
針が隠れた瞬間だった。
「……ふぅ」
小さく、だが妙にはっきりした吐息が室内に落ちる。
マリアだった。
先ほどまでわずかに張っていた肩の力が、ようやく抜けている。
銀の髪が揺れ、彼女はほんの少しだけ目を細めた。
「それが私の世界にもあれば、狩りが捗ったでしょうね」
何の前触れもなく、その手が誠の頭へ伸びた。
「……なにしてんだ?」
誠が間の抜けた声を漏らすより先に、マリアの手が髪を軽く撫でる。
子供を宥めるような、あまりにも自然な仕草だった。
柔らかな手つきで一度、二度。
誠は反射的に身を引きかけたが、疲れているせいか、きっぱり振り払うほどの勢いも出なかった。
マリアは気にした様子もなく、そのまま穏やかに言う。
「では」
一拍。
「早速、出発しますか?」
その言葉に、誠はすぐ答えかけた。
「そうだな、すぐに──」
そこまでだった。
喉の奥で言葉が止まる。
自分でも分かるくらい、声が鈍った。
立ったままの足に、重さがあった。
数時間、歩き続けた。
停電した街を。
朱い腐敗に塞がれた道を。
得体の知れない蟲の群れまで焼き払って、ようやくここへ辿り着いた。
火を放った後から、ずっと体の芯が熱を持っている。
掌にはまだ鈍い痺れが残っていた。
脚も、じわじわと怠い。
今すぐ動けと言われれば動けるだろう。
だが、それは「動ける」というだけで、万全とは程遠かった。
誠は小さく息を吐く。
「……」
沈黙が落ちる。
紗月が、そんな誠の横顔を見た。
さっきまでなら、意地で即答していたはずだった。
それが出来ない程度には、消耗しているのだと分かる。
「灰原君?」
低く呼ばれても、誠はすぐには返事をしなかった。
黒野家へ向かう。
それ自体に迷いはない。
迷いはないのに、体が一瞬だけ、それを拒んだ。
「……すぐに行く、って言いたいんですけど」
誠はそこで言葉を濁した。
喉の奥が乾いている。
肺の奥がわずかに熱い。
足裏に残る重さが、誤魔化しようもなく現実だった。
紗月はそれ以上問い詰めなかった。
ただ静かに室内を見渡す。
崩れかけた障子。
傾いた柱。
風が通るたびに鳴る、乾いた軋み。
人の気配はない。
だが同時に──守られている気配もなかった。
「……ここじゃ駄目だね」
ぽつりと言う。
「安全に休める場所じゃない」
誠は顔を上げた。
紗月は既に鞄へ手を伸ばしている。
中から取り出したのは、折り畳まれた紙だった。
慎重に広げる。
古びた紙地図。
停電で電子機器が使えなくなってから、ずっと頼りにしているものだ。
畳の上へ置き、懐中電灯の光を寄せる。
影が揺れ、地図の線が不安定に浮かび上がる。
紗月は指先でいくつかの道をなぞった。
迷いはなかった。
すでに頭の中で何度も辿っている経路なのだろう。
やがて。
「うん、ちょうどいいね……」
小さく言い、地図の一角を指で押さえる。
その場所だけが、丸く囲まれていた。
誠は身を乗り出す。
「ここは?」
紗月は一瞬だけ視線を上げ、誠を見る。
「灰原が異界化した時に作られた避難所の一つ」
淡々と説明した。
「比較的防備がしっかりしてるはず」
誠の眉がわずかに寄る。
避難所。
その言葉に、別の光景が頭に浮かんだ。
かつて通っていた高校。
煤けたランプの光。
そして──
褪せ人。
黒野理央。
胸の奥に、苦い感覚が広がる。
無意識に顔が歪んだ。
紗月はそれに気付いたらしい。
「……ああ」
小さく息を吐く。
「たぶん想像してる場所とは違うよ」
「一回、ここに寄って休んでから向かおう」
紗月はそう言って、地図の丸を指先で軽く叩いた。
「ここなら、まともに休めると思う」
一拍。
「私も物資の補給のために、どのみち一度寄るつもりだったし」
誠は地図と紗月の顔を見比べる。
「……拠点にしてたのか」
「うん」
短く頷く。
「寝泊まりしてたわけじゃないけど、状況が悪い時の退避場所として使ってた」
室内の荒れ具合と比べれば、そこはずっと“人が生きる前提で整えられた場所”なのだろう。
紗月はさらに続けた。
「それに──」
ほんの少しだけ声の調子が変わる。
「そこには、他世界から流れ着いた人たちが何人か居着いてる。完全な共同体ってほどじゃないけどね」
紗月は地図の別の地点をなぞりながら言う。
「異界化してから、そういう場所がいくつか出来てる」
一拍。
「だから……もしかしたら」
視線が、ミリセントの胸元へ向く。
そこにしまわれた無垢金の針を思い浮かべているのは明らかだった。
「修繕できる人がいるかもしれない」
静かに言う。
「鍛冶屋とか、魔術師とか、技術者とか……何が混ざってるか分からないけど」
誠は小さく息を吐いた。
疲労の重さは変わらない。
だが、ただ休むだけではなく“進展の可能性がある休息”なら話は違う。
引き戸を押し開けると、夜気が静かに流れ込んできた。
冷たい。
だが腐敗の臭いは、先ほどまでよりも幾分か薄い。
一行は無言のまま外へ出る。
最後に出た紗月が戸口を軽く押さえ、風で閉まらないよう崩れた板を挟んだ。
それ以上、この家に用はなかった。
マリアは既にマレニアの体を背負っている。
鎧の重量など存在しないかのように、自然な姿勢だった。
赤いマントが夜風にわずかに揺れる。
金の兜が、懐中電灯の白い光を受けて冷たく光った。
誠はそれを一度だけ振り返って見たが、すぐ前を向く。
「いこっか、灰原君は無理しないこと」
紗月は先頭に立ち、地図で確認した方向へ歩き出した。
街は沈黙している。
停電したままの住宅街。
信号機も、街灯も、窓の明かりもない。
靴音だけがやけに大きく響く。
ときおり遠くで何かが崩れる音がする。
風に煽られた看板か。
あるいは腐敗に侵された建物か。
誰も確かめようとはしなかった。
ただ歩く。
疲労を抱えた足取りで。
夜の空気は冷えている。
だが体の芯はまだ熱を帯びていた。
腐敗の蟲を焼いた時の感覚が、消えきらず残っている。
それでも歩き続ける。
しばらくして。
紗月が足を止めた。
「……見えてきた」
その言葉に、誠は顔を上げる。
暗闇の向こう。
建物の輪郭が浮かんでいた。
巨大な箱のような構造。
広い駐車場。
高いフェンス。
見覚えのある形。
「……体育館か」
思わず呟く。
市民体育館だった。
だが異様だった。
周囲は完全な闇だ。
発電所が止まっている以上、本来ここも暗黒に沈んでいなければおかしい。
それなのに。
体育館だけが、煌々と明るかった。
窓という窓から白い光が漏れている。
外壁の投光器まで点灯している。
まるで別の世界に属している建物みたいに、そこだけ現実の法則から外れていた。
さらに。
冷たい夜気の中に、はっきりと感じる。
暖かい空気の流れ。
入口付近から、かすかに熱が漏れている。
「暖房まで……」
誠が低く言う。
紗月は小さく頷いた。
紗月は、体育館の明かりをしばらく見上げていた。
その横顔には、どこか安心したような色が混じっている。
「……心強い協力者がいるからね」
ぽつりと、含みのある言い方をした。
誠は眉をひそめる。
「協力者? 誰かいるんですか?」
問い返す。
だが紗月は、わざとらしく肩をすくめただけだった。
「さあね」
一拍。
「入れば分かるよ」
それ以上は何も言わない。
もったいぶるような沈黙が続く。
誠は納得がいかないまま、体育館の入口へ視線を戻した。
自動ドアは既に開け放たれている。
中から人の声が漏れてきた。
ざわめき。
食器の触れ合う音。
何かを煮る匂い。
温かい生活の気配だった。
一行が中へ足を踏み入れると、空気が変わる。
暖かい。
そして明るい。
ロビーには簡易の寝床が並び、毛布に包まれた人々が静かに休んでいた。
体育館の奥からは列が伸びている。
炊き出しをしているらしい。
大鍋の湯気が白く立ち上っていた。
紗月は周囲を見渡し、小さく頷く。
「……よしよし」
それから誠の方を振り向く。
「私、割り当ててもらってる場所の掃除とかしたいからさ」
一拍。
「君、ご飯もらってきてくれる? 私たち先に行ってるからさ」
言い方が妙に気を回している。
頼みというより、意図的に役割を振っているようだった。
誠は首を傾げる。
「……ああ、はい」
よく分からないまま頷き、列の最後尾に並ぶ。
前には十数人ほど。
湯気と味噌の匂いが、胃の奥を刺激する。
空腹を自覚したのは、ここに来てからだった。
しばらく待つ。
暖房の熱で、ようやく体の震えが収まってきた。
疲労は消えない。
だが、少しだけ現実に戻った気がする。
やがて列が進み、自分の番が近付く。
炊き出しの担当者の顔は、まだはっきり見えない。
湯気の向こうで、にこやかに器を差し出している。
「はい! お待たせしました! あたたか豚汁ですぞ!」
聞き覚えのある声だった。
誠は一瞬、足を止める。
そして前に出る。
大鍋の前。
そこに立っていた男が、顔を上げた。
瞬間。
時間が止まる。
「……」
紫村秀則だった。
見慣れた顔。
だが以前よりやつれている。
それでも口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
何も知らなければ、ただの優しいボランティアのように見える。
「今夜も冷えますな! 温まってくだされ!」
にこやかに言いながら、たっぷりと具を盛る。
湯気が立つ。
温かい匂いが広がる。
そして。
器を差し出そうとして──
手が止まった。
秀則の目が、誠の顔を捉える。
ほんの一瞬だった。
だがその一瞬で、表情が完全に変わった。
笑顔が消える。
光が消える。
何かが凍りついたような顔になる。
無言のまま。
秀則は器をテーブルの上へ置いた。
誠の手には渡さない。
そしてそのまま背を向ける。
次の人へ声もかけない。
ただ黙って、別の鍋の方へ歩いていく。
「……紫村」
誠は思わず呼ぶ。
喉が詰まる。
「ごめん、俺……お前だとは──」
秀則は振り返らなかった。
誠の声が届いているはずなのに、まるで最初からそこにいなかった人間のように無視する。
鍋の向こうで別の避難民に淡々と声をかけ始める。
その声音は先ほどと同じように穏やかで、にこやかだった。
──ただし、誠に向けられることはもうない。
誠はしばらくその背中を見ていた。
言葉を続けることも出来ず、ただ胸の奥が重く沈んでいくのを感じる。
「……無事でよかった」
ようやくそれだけ言った。
聞こえているかどうかも分からない声だった。
テーブルの上に置かれたままの豚汁の器を手に取る。
湯気が立ち上る。
味噌と根菜の匂いが、妙に現実的だった。
秀則は振り向かない。
それ以上、何も言わなかった。
誠も何も言えなかった。
そのまま列を離れる。
体育館の中を歩き出した。
明るい。
暖かい。
人の気配が満ちている。
毛布に包まれて眠る老人。
段ボールを積み上げて遊ぶ子供。
ストーブの前でぼんやり座る若者。
どこを見ても「生き延びようとしている場所」だった。
誠は人の間を縫うように歩く。
豚汁の器を両手で持ったまま。
しばらく探すと、体育館の奥の方。
少し照明が落ちた区域に衝立が並んでいるのが見えた。
簡易的に区切られた空間。
避難民の中でも、ある程度まとまった人数が滞在する場所なのだろう。
その一角に、見慣れた銀髪があった。
「……あ」
紗月が気付く。
誠が近付いてくるのを見て、小さく手を振った。
「おかえり。もらえた?」
気軽な調子だった。
そして次の瞬間。
「紫村君には無事会えた?」
何気なく、そう尋ねる。
誠は足を止めた。
ほんのわずか。
それだけで空気が変わる。
言葉が出ない。
豚汁の湯気だけが静かに揺れていた。
マリアが横からそれを見ていた。
一瞬で理解する。
「あー……」
気まずそうに小さく声を漏らした。
何も知らない紗月は、首を傾げる。
「……え、何?」
誠は少しだけ目を伏せる。
それから無理にでも平静な声を作って言った。
「……会えました」
一拍。
「元気そうで、よかったです」
それ以上は続かなかった。
紗月は、誠の返答にどこか引っかかるものを感じたのか、わずかに眉を寄せた。
だが問い直すより先に、誠の視線がふいに別の方向へ流れる。
体育館の奥。
人の流れが途切れた先。
衝立のさらに向こう側。
そこに──妙な光があった。
白でも黄でもない。
かすかに紅を帯びた粒子が、空気の中に浮遊している。
煙のようで。
しかし煙ほど拡散せず。
光の粉のように、ゆっくりと揺れていた。
「……?」
誠は無意識に一歩、そちらへ近付く。
豚汁の器の湯気が頬をかすめた。
暖房の風とは違う。
もっと直接的な、機械の発する熱がそこにある。
衝立の隙間から覗き込む。
発電機だった。
大型の据え置き式。
本来ならディーゼルかガソリンで動くはずの型だ。
だが今は、配線の周囲や吸気口の辺りに、紅い粒子がまとわりついている。
まるで生きているみたいに。
吸い込まれ。
吐き出され。
装置全体を覆うように循環していた。
低い振動音が床を通じて伝わる。
「これ……なんだっけ、コーラル……」
誠は小さく呟いた。
合点がいく。
「紫村のサーヴァント……621が扱う“コーラル”ってやつ」
一拍。
「発電に使ってるんですね」
紅い粒子がわずかに揺れた。
まるで反応したかのように。
誠は視線を戻す。
紗月はまだ少し混乱した顔をしていたが、頷く。
「そうみたいだね」
「ここ、電気も暖房も切れてないでしょ」
「全部あれのおかげってわけ。すごいよね、なんでもありだよ」
誠は体育館全体を見渡す。
確かに、この規模の施設を単独で動かすには相当な出力が必要だ。
しかも長時間。
普通の燃料ならとっくに尽きている。
「……じゃあ」
誠は紗月へ向き直る。
「この避難所って、紫村がリーダーなんですか?」
避難民からの信頼も厚そうだった。
だが。
紗月は一瞬きょとんとしたあと、くすっと小さく笑う。
「紫村君が?」
一拍。
「彼、そんな柄じゃないでしょ」
誠は少しだけ言葉に詰まる。
確かにそうだ。
世話焼きではあるが、前に立って集団をまとめるタイプではない。
紗月は続けた。
「ここのリーダーは別にいるよ」
一瞬、視線がマリアへ流れる。
そして誠へ戻る。
「灰原君も会ったことあるらしいね」
一拍。
「アーチャーと、そのマスターの紺藤洋子って人」
紗月は小さく伸びをすると、体育館の天井を一度見上げた。
明かりは安定している。
暖房の風も一定だ。
「……とりあえず、休もうか」
静かに言う。
「休んだら挨拶しに行こう。彼なら力になってくれるかもしれないし、針の修繕にも力を貸してくれると思う」
「歩き通しで、もう足パンパンだよ」
そう言って、近くに積まれていた毛布の山から人数分を抱え上げた。
避難所らしく、薄いが清潔なものだ。
一枚ずつ配っていく。
誠にも差し出された。
「はい」
誠はそれを受け取る。
指先に布の感触が伝わる。
そこでようやく、気付いた。
周囲を見渡す。
紗月。
マリア。
ミリセント。
そして眠り続けるマレニア。
──自分以外、全員女性だった。
「今更だ、今更……」
とはいえ、思春期。
急に落ち着かなくなる。
誠は何も言わず、衝立の端ぎりぎりまで移動した。
できるだけ距離を取る。
体育館の床は硬い。
だが暖房のおかげで冷たくはない。
毛布を広げ、その端に体を沈める。
まるで逃げ場を確保するような姿勢だった。
マリアは軽く肩をすくめる。
「私は霊体化しますので、あとはごゆっくり」
そう言うと、ふっと輪郭が薄れる。
空気の中に溶けるように消えた。
その分、多少はスペースができた。
だがそれでも余裕はない。
ミリセントは壁側へ体を寄せ、静かに横になる。
疲労が濃いのか、すぐに目を閉じた。
問題は──マレニアだった。
彼女は動かない。
起こすこともできない。
結果として、自然と誠のすぐ前に横たわる形になる。
「……」
誠は固まった。
距離が近すぎる。
兜は外されていた。
彫刻のように整った顔立ちが、間近にある。
白く滑らかな肌。
閉じられた瞼。
微かに揺れる赤い髪。
生きているのかどうか分からないほど静かなのに、存在感だけが強い。
呼吸が浅くなる。
視線の置き場がない。
「……寝ろ、俺」
小さく呟く。
だが眠気はあるのに、神経が妙に冴えてしまう。
毛布を首まで引き上げ、さらに衝立側へ身を寄せる。
暖房の風が一定のリズムで天井付近を巡っている。
遠くで誰かの咳が聞こえた。
ストーブの燃焼音。
鍋の蓋が触れ合う微かな金属音。
生きている場所の音だった。
それが、かえって落ち着かなかった。
胸の奥に、さっきの秀則の背中が残っている。
言葉をかけた瞬間に閉ざされた、あの距離。
謝罪も弁解も、今さら意味があるのか分からない。
それでも。
「ごめん……」
小さく呟く。
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
視線を閉じたまま、深く息を吸う。
隣にある気配。
彫刻のような静かな顔。
マレニアはやはり動かない。
だが、ほんのかすかに──呼吸のような揺らぎがある気がした。
気のせいかもしれない。
誠は無理やり思考を止める。
眠らなければならない。
次はいつ、こんな場所で休めるか分からない。
毛布の中で拳を握り、体の力を抜く。
疲労は十分にある。
歩き続けた。
戦った。
燃やした。
限界は近い。
やがて──
意識が、ゆっくりと沈んでいった。
暗闇に落ちる。
夢は見なかった。
──
どれくらい眠っていたのか分からない。
だが久しぶりだった。
体の奥まで沈むような睡眠だった。
誰かが肩を揺する。
現実が浮かび上がる。
「……ん……」
誠は低く唸る。
まぶたが重い。
視界がぼやけている。
もう一度、揺すられる。
今度は少し強く。
「にいさま」
声がした。
澄んだ、柔らかな声。
誠はゆっくり目を開ける。
視界いっぱいに──
赤い髪があった。
整いすぎた顔。
白い肌。
透き通るような瞳。
マレニアだった。
至近距離。
心臓が跳ねる。
「──は?」
完全に目が覚める。
体を起こしかけて、毛布に足を取られそうになる。
マレニアは穏やかに微笑んでいた。
まるで昔から知っている相手を見るような表情で。
「ご無事ですか、にいさま」
自然な口調だった。
「こちらにいらしていたのですね。お体も、随分良くなったようで」
誠は言葉を失う。
頭が追いつかない。
目の前の現実が理解できない。
「……誰が?」
思わず漏れる。
マレニアは不思議そうに首を傾げた。
「にいさまです」
当然のように言う。
誠の背中に冷たい汗が流れる。
まったく覚えがない。
名前も。
顔も。
関係も。
どこにも繋がらない。
そこへ。
「──マレニア!?」
驚愕した声が飛んできた。
ミリセントだった。
寝起きのまま飛び起きたらしく、髪が乱れている。
だがその表情は完全に覚醒していた。
目を見開き、言葉を失う。
「目を覚ましたのか……?」
信じられないという顔。
そして次の瞬間。
マレニアの視線が、自然に誠へ戻る。
「にいさま、この者は?」
もう一度呼ぶ。
ミリセントの顔色が変わる。
「……にいさま?」
ミリセントの顔色が、見る間に変わった。
困惑でも驚きでもない。
もっと深い、明確な動揺だった。
「……にいさま……」
小さく繰り返す。
そして次の瞬間、ミリセントの瞳が大きく見開かれた。
「まさか……」
声が震える。
誠を見つめる。
信じられないものを見る目だった。
「そんな……いや、しかし……」
言葉が途切れる。
頭の中で何かを照合しているのがはっきり分かった。
マレニアは不思議そうに首を傾げる。
「マレニアの、兄」
もう一度、呟く。
そしてゆっくりと誠を見た。
その視線は、先ほどまでとはまったく違う。
警戒。
畏怖。
そして──恐れ。
「……あ、あ……」
喉が乾いたような声で言う。
「貴方が……し、知らずとは言え私は、なんてことを」
誠は眉をひそめた。
「いや、ちょっと待て!」
両手を上げる。
「妹なんかいない!」
即座に否定する。
「そもそも俺、普通の──」
そこまで言って、言葉が止まる。
普通の人間。
その言葉を、最後まで言えなかった。
胸の奥で、何かが引っかかる。
自分の過去。
灰原誠という人間。
そして自分はそれではないという事実。
自分は作られた存在だ。
聖杯戦争のためのホムンクルス。
記憶だって、どこまでが本物なのか分からない。
誠は歯噛みする。
「……いや、でも」
頭を振る。
「それでも妹なんて──」
言いかけて、止まる。
目の前にいるマレニアを見た。
彼女は、不安そうだった。
さっきまでの穏やかな表情が少し崩れている。
誠の言葉を理解できない子供のように。
小さく呼ぶ。
その声には、確かな動揺があった。
「私が分かりませんか……? 貴方の刃、マレニアが」
「……いや、だから」
誠は言い直そうとする。
「俺は──」
だが言葉が続かない。
自分の過去が、曖昧すぎる。
作られた記憶。
本物かどうか分からない人生。
本当に、妹がいないと言い切れるのか。
自分の人生が本物ではないのなら。
何が「本当」なのか、証明できない。
頭の中が混乱していく。
「……」
マレニアは黙って誠を見ている。
その瞳は、ひどく不安そうだった。
拒絶されるのを恐れているような。
「君の兄……なの、かも……?」
文章に重複があったため訂正しました、ご指摘ありがとうございますm(__)m