Fate/You Died.   作:助兵衛

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第79話 避難所の仏師

 体育館の朝は、すでに動き出していた。

 

 薄い朝の光が高い窓から差し込み、床に長い影を落としている。

 それでも内部は夜と変わらず明るかった。

 

 紅い粒子をまとった発電機が、低く唸り続けている。

 

 炊き出しの湯気。

 食器の触れ合う音。

 眠りきれないまま起き出した人々の、押し殺したようなざわめき。

 

 誠は歩きながら、まだ現実感の薄い頭をどうにか整理しようとしていた。

 

 ついさっきの出来事。

 

 目を開けた瞬間、至近距離にあった整いすぎた顔。

 彫刻のような赤髪の女。

 

 そして。

 

 ──にいさま。

 

 胸の奥に妙な重さが残っている。

 

「……妹なんていないって」

 

 ぼそりと呟く。

 

 すぐ後ろで、鎧の足音が静かに止まった。

 

「そうでしょうか」

 

 マレニアの声だった。

 

 振り向くと、彼女はすぐ近くに立っている。

 

 立っているだけで視線を引く存在だった。

 

 長身。

 

 細身だが、弱さを一切感じさせない体躯。

 赤いマントが肩から落ち、金の義手義足が朝の光を反射している。

 

 マリアをも明確に上回る背丈。

 

 威圧感がある。

 

 だがその表情は穏やかだった。

 

 むしろ誠を見る目だけが妙に柔らかい。

 

「にいさま」

 

 当然のように呼ぶ。

 

 誠は思わず顔をしかめた。

 

「だから違うって……多分」

 

 隣を歩く紗月が苦笑する。

 

「まあまあ。今はそれどころじゃないし」

 

 一拍。

 

「とりあえずアーチャーに会いに行こう」

 

「……はい」

 

 誠は短く頷いた。

 

 紗月、マレニア、ミリセントと共に歩き出す。

 

 体育館の内部は想像以上に広い。

 

 床には毛布が整然と並べられ、簡易的な区画がいくつも作られている。

 奥では朝食の配給が始まっていた。

 

 大きな鍋。

 紙皿。

 列を作る避難者たち。

 

 暖房が効いているため、空気は外よりもはるかに柔らかい。

 

 だが。

 

 それでも緊張は消えていない。

 

 どこか全員が、ここが“仮の安息”でしかないと分かっているような顔をしていた。

 

 誠は一度だけ振り返った。

 

 やはりマレニアはぴたりと後ろについている。

 

 距離も歩幅も、まるで最初から決まっているかのように乱れない。

 

「……もういい」

 

 小さく息を吐く。

 

「何言っても無駄そうだし」

 

 半ば諦めた声音だった。

 

 マレニアはわずかに首を傾げたが、否定も肯定もしない。

 ただ静かに誠を見ている。

 

 その視線の柔らかさが逆にやりづらい。

 

 紗月が肩をすくめる。

 

「うん、諦めが早くてよろしい」

 

「よくないですよ……」

 

「灰原君ってば、女難の星の元に生まれたみたいだね」

 

 人の流れを抜け、さらに体育館の奥へ進む。

 

 しばらく歩くと、空気の密度が変わった。

 

 ざわめきが少し遠のく。

 代わりに、短くはっきりした声が飛び交っている。

 

「東側通路、修繕完了です」

 

「よくやった、交代要員を回しておきなさい」

 

「医療区画の物資が不足しています」

 

「対応しよう。しかし、物資調達の必要がありそうだな」

 

 誠は足を止めかけた。

 

 すぐに分かる。

 

 ここだ。

 

 体育館の一角に、簡易の天幕が張られていた。

 その下に折り畳み机と無線機、紙の資料が山のように並んでいる。

 

 中心に立つ男は、背筋を伸ばしたまま矢継ぎ早に指示を出していた。

 

 外套を纏った大柄な西洋人のサーヴァント。

 

 サーヴァント、アーチャー。

 真名、マイケル・ウィルソン。

 

 その姿は忙しげでありながら、不思議と慌ただしさを感じさせない。

 

 全体を見渡し、必要な言葉だけを短く放つ。

 その一つ一つに迷いがない。

 

 周囲の人間が自然と従っている。

 

 まるでそれが当然であるかのように。

 

 ──大統領。

 

 そう自称していた言葉が、今は冗談に聞こえなかった。

 

 堂々としている。

 

 混乱の中心に立ちながら、場そのものを支配しているような存在感だった。

 

 そのすぐ隣には女性が立っている。

 

 紺藤洋子だった。

 

 彼女は次々と運ばれてくる報告書を受け取り、必要なものだけを整理してアーチャーへ渡している。

 時には先に状況を把握し、短く耳打ちする。

 

 無駄がない。

 

 まるで長年仕えてきた秘書のような動きだった。

 

 誠は思わず小さく呟く。

 

「……すごいな」

 

 紗月が頷く。

 

「でしょ」

 

 一拍。

 

「ここが機能してるの、ほぼあの人たちのおかげだよ」

 

 天幕の下で報告書に目を落としていたアーチャーが、ふと顔を上げる。

 

 鋭い視線が、まっすぐこちらを捉えた。

 

 次の瞬間。

 

「──おや」

 

 低くよく通る声が、場の空気を軽く切り替える。

 

 アーチャーは手にしていた資料を机の上へ置いた。

 

「諸君、少し失礼する」

 

 それだけ言うと、まるで舞台の中央へ向かう俳優のような大仰な足取りでこちらへ歩み寄ってくる。

 

 周囲の者たちは自然と道を開けた。

 

 彼が通ると、その場の重圧がほんのわずかに和らぐ。

 

 それほどまでに存在感が大きい。

 

 誠は思わず姿勢を正した。

 

 距離が詰まる。

 

 アーチャーはにやりと笑った。

 

「久しぶりだね、灰原誠くん!」

 

 次の瞬間。

 

 がしり、と。

 

 両手で誠の右手を包み込むように握りしめた。

 

 握手だった。

 

 だが普通の握手ではない。

 

 まるでハリウッド映画の大統領が英雄を迎える時のような、やたらと芝居がかった所作だった。

 

 誠は一瞬、完全に反応が遅れる。

 

「え、あ……はい」

 

 握力は強い。

 

 だが威圧的ではなく、妙に温かい。

 

 アーチャーは満足げに頷く。

 

「事情は概ねミス紗月から聞いている」

 

 一拍。

 

 誠の目をまっすぐ見据える。

 

「君がここに来てくれて、私は本当に嬉しく思う」

 

 その言葉は誇張めいているのに、不思議と嘘には聞こえなかった。

 

 むしろ本気で歓迎している響きがある。

 

 誠は一度だけ息を整えた。

 

 歓迎の空気に流されそうになりながらも、ここに来た本来の理由を思い出す。

 

「……あの」

 

 握手の余韻が残る手を軽く引き、言った。

 

「一つ、聞いてもいいかな」

 

 アーチャーは即座に頷く。

 

「もちろんだとも。困っている者の相談に乗るのが、大統領の務めだとも」

 

 相変わらず芝居がかった言い方だったが、真面目に聞く姿勢は崩さない。

 

 誠は続けた。

 

「金の針を……直せる人って、ここにいないかな」

 

 アーチャーは腕を組み、少し考えるような素振りを見せる。

 

「針?」

 

 そしてすぐに肩をすくめた。

 

「それなら私でも直せるが」

 

 さらりと言う。

 

 誠は苦笑した。

 

「いや……普通の針じゃなくて」

 

「別の世界から来た、“外なる神”の干渉を遠ざける物らしくて」

 

 言葉を選びながら続ける。

 

「多分、通常の手段では直せないと思う」

 

 アーチャーの表情が、ほんのわずかに引き締まった。

 

 軽口を叩く時の顔ではない。

 

 現実的な問題として受け止めた時の顔だった。

 

「なるほど」

 

 短く言う。

 

 そして背後の机へ戻ると、山積みの紙束の中から一冊の分厚いファイルを取り出した。

 

 避難所の名簿だった。

 

 ぱらぱらと迷いなく頁を繰る。

 

 この場所に集まった者たちの情報が、ぎっしりと書き込まれている。

 

「異界から流れ着いた者は多い」

 

 低く呟く。

 

「鍛冶屋もいれば、魔術師もいる。医者も、兵士も、技術者も」

 

 さらに頁をめくる。

 

 やがて。

 

 その手が止まった。

 

「……特殊な物体の修繕、か」

 

 顎に手を当てる。

 

 少しだけ考え、そして小さく頷いた。

 

「専門では無いかもしれないが……うむ」

 

 誠が思わず身を乗り出す。

 

「心当たりが?」

 

 アーチャーは視線だけで体育館の奥を示した。

 

「避難所の片隅に、いつも座っている老人がいてね。ひたすら仏を彫っている」

 

 紗月が目を瞬かせる。

 

「……仏?」

 

「そうだ」

 

 アーチャーは静かに続ける。

 

「木片でも石でも金属でも構わない。手に入る素材で、黙々と仏像を彫り続けている」

 

 アーチャーは名簿を閉じず、そのまま指先で軽く頁を叩いた。

 

「彼は仏師でありながら、工学や金細工にも妙に明るくてね」

 

 一拍。

 

「避難所の設備が壊れた時も、時折ひょいひょいと直してくれる」

 

 紺藤洋子が横から静かに補足する。

 

「暖房用の配管の継ぎ目や、発電機周りの小部品なんかも一度見てもらったわ」

 

「専門家というより、何でも屋に近いようね」

 

 アーチャーは肩をすくめ、大げさに片手を広げた。

 

「だが、往々にして世界を救うのは、肩書きより“手”の方だ」

 

 誠は小さく息を呑む。

 

 仏師。

 

 工学。

 

 金細工。

 

 折れた無垢金の針。

 

 少なくとも、可能性はある。

 

「……その人を紹介してもらえますか」

 

 アーチャーはすぐに頷いた。

 

「もちろんだとも」

 

 快い返答だった。

 

 だが次の瞬間、彼はふと笑みを薄める。

 

「ただ、その前に一つだけ聞いておきたい」

 

 誠の表情がわずかに強張る。

 

 アーチャーは穏やかな声音のまま言った。

 

「その針で、何をするつもりなのかな?」

 

 問いは柔らかい。

 

 だが、逃げ道はなかった。

 

 誠は一瞬、言葉に詰まる。

 

「それは……」

 

 喉の奥で声が止まった。

 

 自然と、背後を振り返る。

 

 そこに立っていたのはマレニアだった。

 

 長身の体を静かに立たせたまま、何事もない顔でこちらを見ている。

 

 その金の義手義足は朝の光を受け、冷たく輝いていた。

 

 誠が答えに窮した、その沈黙を。

 

 マレニアはあまりにも自然に引き取った。

 

「その金の針は」

 

 静かな声だった。

 

「私の中の災厄を封じ込め、私を破壊するためのものだろう」

 

 その場の空気が、わずかに張る。

 

 紗月が目を見開く。

 

 洋子も無言のまま視線を細めた。

 

 誠は思わず言葉を失う。

 

 だがマレニアは動じない。

 

 まるで、最初からそうであると知っていた者の口調だった。

 

「腐敗は留めても害をなす」

 

 一拍。

 

「放てばなおさら、この地を侵す」

 

 その声に悲壮さはない。

 

 諦念とも違う。

 

 ただ、事実として受け入れている響きだった。

 

「ならば封じるべきだ」

 

「あるいは、私ごと絶つべきだろう」

 

 その横顔は穏やかですらあった。

 

 まるで自分の命の話をしているのではなく、戦場の配置を確認しているような静けさだった。

 

「かつて私は腐敗を解き放ち、用いた。許されない事だ」

 

 当然のように誠の方へ視線を向ける。

 

「にいさまは正しい事を為そうとしている」

 

 誠の胸の奥が、妙にざわついた。

 

 妹と呼ばれる違和感。

 

 その根拠のなさ。

 

 それでも、目の前の女が自分の危険性を理解し、何一つ取り乱さず受け入れていることへの、説明しづらい重さ。

 

 アーチャーはしばらくマレニアを見ていたが、やがて静かに頷く。

 

「なるほど」

 

 低く言う。

 

「覚悟は共有されている、というわけだ」

 

 そして誠へ向き直る。

 

「話が早くて助かるよ、ミスター灰原」

 

 その声音には、先ほどまでの芝居がかった軽さが少し戻っていた。

 

「では、その仏師殿のもとへ案内しよう」

 

 名簿を閉じ、脇へ抱える。

 

「気難しい老人だが、腕は確かだ」

 

 一拍。

 

「そして、こういう“ただの修理”では済まない品には、案外ああいう手合いの方が強い」

 

 アーチャーが踵を返す。

 

 アーチャーの背を追って、一行は体育館のさらに奥へと進んだ。

 

 人の流れは、そこへ行くほど薄くなっていく。

 

 炊き出しの湯気も。

 子どもの泣き声も。

 配給を待つ列のざわめきも。

 

 少しずつ遠ざかり、代わりに空気そのものが静まり返っていく。

 

 避難所の片隅だった。

 

 折り畳み式の衝立や簡易ベッドが並ぶ区画からも外れ、まるで意図して空けられたみたいにぽっかりとした一角がある。

 

 そこだけ、人々が無意識に距離を取っているようだった。

 

 誠は歩きながら、わずかに眉をひそめる。

 

 木の匂いがした。

 

 体育館の乾いた空気や消毒液の匂いとは違う。

 

 削られた木屑の、青く鋭い匂いだ。

 

 やがて。

 

 その姿が見えた。

 

 老人だった。

 

 避難者たちへ背を向けるようにして、床に敷いた古い布の上へ座り込んでいる。

 

 細い鑿を握り、木片へ迷いなく刃を入れている。

 

 かつ、かつ、と。

 

 小さな音が規則正しく響く。

 

 老人は周囲をまるで見ていなかった。

 

 人の気配にも。

 足音にも。

 アーチャーの接近にも。

 

 何一つ頓着せず、ただ無心に仏を彫っていた。

 

 その周囲には、無数の仏像が立ち並んでいた。

 

 大きさは様々だった。

 

 掌に乗るほど小さなもの。

 前腕ほどのもの。

 膝丈ほどにまで達するもの。

 

 素材も揃っていない。

 

 木。

 石。

 鉄屑を削り出したようなものまである。

 

 腕は見事だった。

 

 一目で分かる。

 

 素人目にも、技量が異様に高い。

 

 衣の皺の流れ。

 指先の表情。

 全体の均衡。

 

 どれも尋常ではない完成度を持っていた。

 

 だが。

 

 誠は、そこに並ぶ顔を見て、思わず息を止めた。

 

 全部、怒っていた。

 

 慈悲深いはずの仏たちが。

 静謐であるべきはずの仏たちが。

 

 どれもこれも、憤怒の形相をしていた。

 

 眉は吊り上がり。

 眼窩は深く彫り込まれ。

 口元はわずかに開き、今にも叱責を吐きそうに歪んでいる。

 

 怒りだった。

 

 祈りのための像ではなく。

 怒りを封じるための像に見えた。

 

 紗月が小さく呟く。

 

「……すご」

 

 その声にも、老人は顔を上げない。

 

 ただ鑿を動かす。

 

 乾いた音だけが、静かに続いていた。

 

 アーチャーが立ち止まる。

 

 この一角へ入ってから、彼の足取りもどこか少しだけ慎重になっていた。

 

「ミスター、少々よろしいかね?」

 

 一拍。

 

「少し特殊な物品の修理を頼みたい。彼は依頼者、灰原誠くんだ」

 

 老人はそこでようやく、刃を止めた。

 

 だが、やはり振り返りはしない。

 

 無骨な背中のまま。

 避難所の人々に背を向けたまま。

 

 ただ、ぶっきらぼうに一言だけ返す。

 

「……そうか」

 

 それだけだった。

 

 歓迎もない。

 驚きもない。

 興味があるのかどうかすら、分からない。

 

 誠は思わずアーチャーを見る。

 

 だがアーチャーは、こういう応対に慣れているらしかった。

 肩を竦めるだけで、特に気を悪くした様子もない。

 

「彼がそう言う時は、概ね悪くない反応だ」

 

 小声でそう補足してから、誠へ目配せする。

 

 誠は小さく息を吐き、前へ出た。

 

「……あの」

 

 声をかける。

 

 老人は返事をしない。

 

 だが完全に無視しているわけでもないらしい。

 耳は向いている気配がある。

 

 誠は続けた。

 

「折れた針があるんです。普通の針じゃなくて……かなり特殊なもので」

 

 そこで一度、ミリセントを見る。

 

 ミリセントは静かに頷き、懐から幾重にも布で包まれた無垢金の針を取り出した。

 

 老人の前の布の上へ、そっと置く。

 

 老人はその動きを横目で見たのか見ていないのか、わずかに顎を引いた。

 

 誠が説明しようと口を開くより先に、老人は短く言った。

 

「置いておけ」

 

 誠は一瞬、言葉を失う。

 

「え」

 

「暫くしたら取りに来い」

 

 それだけだった。

 

 鑿がまた動き始める。

 

 かつ。

 かつ。

 

 まるで会話はもう終わったとでも言うように、老人は再び仏へ刃を入れていた。

 

 誠は呆然と立ち尽くす。

 

「……えっと、説明とかは」

 

「いらん」

 

 即答だった。

 

 しかも相変わらず、視線ひとつ寄越さない。

 

「見れば分かる」

 

 短い。

 あまりにも短い。

 

 それきり、もう老人は何も言わなかった。

 

 ただ黙々と、怒りの仏を彫り続けている。

 

 誠は困ったように紗月を見た。

 

 紗月は苦笑して、肩を竦める。

 

「……やってくれるみたいだし、行こう」

 

 一拍。

 

「邪魔しちゃ悪いよ」

 

 その言葉が落ちた瞬間だった。

 

 老人の手が、不意に止まった。

 

 かつ、という音が途切れる。

 

 今度こそ、はっきりとした沈黙が生まれる。

 

 誠が目を瞬かせる。

 

 そして。

 

 老人は、初めて振り返った。

 

 ゆっくりと。

 軋むような動きで。

 

 深い皺に刻まれた顔が、こちらを向く。

 

 目は鋭かった。

 老いて濁った目ではない。

 

 澄んでいた。

 

 老いてなお曇らぬ目だった。

 

 怒り仏ばかりを彫り続けてきた者の目。

 その鋭さに、誠は思わず息を止めた。

 

 そして、その時になって初めて気付く。

 

 老人の左袖が、空だった。

 

 肩の先で、布がぺたりと落ちている。

 

 先ほどまで、鑿を振るう動きの奇妙さに意識が向いていなかった。

 いや、あまりにも自然に彫っていたせいで、片腕であることそのものが目に入っていなかったのだ。

 

 右腕だけだった。

 

 たった一本の腕で。

 あれだけの仏を。

 あれだけの精度で。

 しかも、あの憤怒を。

 

 誠の喉が、小さく鳴る。

 

 老人はそんなこちらの驚きなど意に介した様子もなく、目を細めたまま紗月を見ていた。

 

 いや。

 

 正確には、紗月を“通して”何かを見ている。

 

「……娘よ」

 

 老人が、低く言う。

 

 声は枯れている。

 だが鑿の刃先のように硬かった。

 

 紗月がわずかに眉を上げる。

 

「私?」

 

 老人は頷かない。

 ただ、細めた目のまま問う。

 

「狼、という名の忍びに、心当たりは無いか」

 

 ミリセントも、マレニアも無言のまま視線を寄せる。

 

 紗月は少しだけ考え込んだ。

 

「……狼」

 

 小さく繰り返す。

 

 すぐには結びつかなかったらしい。

 だが数秒後、はっとしたように目を瞬く。

 

「……ああ」

 

 肩を竦める。

 

「そういえば、アサシンの真名がそんな名前だった気がする」

 

 老人の目が、さらにわずかに細まる。

 

 紗月は首を傾げた。

 

「呼びましょうか?」

 

 一拍。

 

「近くにいると思うけど」

 

 だが老人は、すぐに首を振った。

 

「いや、いい」

 

 ぶっきらぼうだった。

 

 それきり興味を失ったように前を向く。

 鑿を持ち直しながら、吐き捨てるように続けた。

 

「どうせ今のやつは、顔を出しやしないだろう」

 

 その声音には、呆れとも諦めともつかない響きがあった。

 

 怒っているようにも聞こえる。

 だがそれだけではない。

 

 長く会っていない相手を知り尽くした者の、苦い確信だった。

 

 紗月は目を瞬かせる。

 

「……知り合い、なんだ」

 

 老人は答えない。

 

 ただ再び木片を取り上げ、鑿を当てる。

 

 かつ。

 

 乾いた音が戻る。

 

「帰れ」

 

 短く言う。

 

「針は直す」

 

 老人──仏師は、もう完全にこちらへの関心を閉ざしたように、また無心に仏を彫り始める。

 

 かつ、かつ、と。

 

 片腕とは思えぬ迷いのなさで。

 

 その横顔を見ながら、誠は小さく息を吐いた。

 

 この老人もまた、ただの避難民ではない。

 

 紗月も同じことを思ったらしい。

 しばらく仏師の背を見ていたが、やがて小さく肩を竦めた。

 

「……とりあえず、待つしかないみたいだね」

 

 アーチャーが苦笑する。

 

「気難しいだろう?」

 

「十分すぎるくらいに」

 

 紗月が即答した。

 

 その横で、マレニアが静かに仏師を見つめている。

 その目には、警戒ではなく奇妙な敬意のようなものがあった。

 

 誠はもう一度、片腕の老人と、その周囲を埋める憤怒の仏たちを見渡す。

 

 今の灰原には、本当にいろいろなものが流れ着いている。

 

 そう実感せずにはいられなかった。

 

 誠は最後にもう一度だけ、布の上に置かれた無垢金の針を見た。

 

 折れた黄金は、怒りの仏たちの足元でひどく小さく見える。

 だが、それでも目を逸らせない重さがあった。

 

「……お願いします」

 

 小さくそう言っても、仏師は答えなかった。

 

 かつ。

 かつ。

 

 片腕で木を削る音だけが返ってくる。

 

 その音に背を押されるようにして、誠たちは一歩、また一歩とその一角から離れていく。

 

 アーチャーが先に立ち、紗月がその横を歩く。

 少し後ろに誠、さらにマレニアとミリセントが続いた。

 

 人の気配が戻ってくる。

 

 炊き出しの湯気。

 紙皿の擦れる音。

 遠くで誰かが笑う声。

 

 静まり返っていた仏師の一角を抜けるだけで、避難所の空気は急に人間のものへ戻った。

 

 誠は歩きながら、一度だけ振り返りかけた。

 

 だがもう仏師の姿は、衝立と積まれた物資の陰に半分隠れている。

 

 背後から、掠れた声がほんの微かに落ちた。

 

「……馬鹿者め」

 

 悔いるような。

 怒っているような。

 それでいて、どこか祈るみたいでもある声音だった。

 

 けれど、その声が届くには距離がありすぎた。

 

 誠も。

 紗月も。

 アーチャーも。

 

 誰一人として気付かないまま、歩みは前へ進んでいく。

 

 やがて完全に仏師の一角を離れ、体育館の中央寄りまで戻ってきた頃。

 

 アーチャーが歩調を緩めた。

 

 彼は周囲の避難者たちへ軽く手を上げて応じながら、しかし視線だけは前を向いたまま、ふと問う。

 

「さて」

 

 一拍。

 

「君たちは、そこの赤毛の君の用事が片付いたら──」

 

 その視線が、静かにミリセントへ流れる。

 

「黒野本家へ乗り込むつもりなのかい?」

 

 誠は、少しも迷わなかった。

 

「……その通りです」

 

 掠れた声だったが、言葉自体ははっきりしていた。

 

 アーチャーが視線を向ける。

 紗月も黙って隣を歩いている。

 ミリセントはわずかに目を伏せ、マレニアは相変わらず静かな顔で誠の少し後ろにいた。

 

 誠は続ける。

 

「黒野本家に行けば、もっと詳しい資料があるはずなんです」

 

 一拍。

 

「灰原聖杯戦争のことも」

 

「俺が何なのかってことも」

 

「……俺をどうやって殺せるのかも」

 

 最後の一言だけ、空気が少し重くなった。

 

 体育館のざわめきは近い。

 炊き出しの匂いもする。

 暖房の効いた空気も、まだ確かにここにある。

 

 それでもその言葉だけは、この場を避難所ではない別の場所へ変えてしまうみたいだった。

 

 紗月は何も言わない。

 止めない。

 ただ、ほんのわずかに息を詰めたのが分かった。

 

 誠は視線を落としたまま、小さく息を吐く。

 

 その言葉は、投げやりではなかった。

 

 疲れてはいる。

 迷いも痛みもある。

 

 だが、それでも逃げずに口にした覚悟だった。

 

「だから行きます」

 

 一拍。

 

「俺が死ねば終わるなら、終わらせたい」

 

 誠自身、その言葉を口にするたび、胸の奥がひどく静かになるのを感じていた。

 

 怖くないわけではない。

 怖くないはずがない。

 

 だがそれ以上に、自分が生き残ることで何かが続いてしまうことの方が、今はずっと耐え難かった。

 

 アーチャーは、しばらく何も言わなかった。

 

 ただ誠を見ていた。

 

 その眼差しは、奇妙だった。

 

 痛ましいものを見るようでもある。

 あまりに若くして重すぎるものを背負わされた者を見るようでもある。

 

 それと同時に。

 

 何かひどく尊いものを見る目でもあった。

 

 自分の終わりを願う声ではない。

 自分の死を手段としてでも、他者を救おうとする覚悟。

 

 そういうものへ向ける眼差しだった。

 

 誠は少しだけ居心地の悪さを覚え、目を逸らしかける。

 だが、逸らさなかった。

 

 アーチャーはやがて深く息を吐いた。

 

「……そうか」

 

 静かな声だった。

 

 先ほどまでの大仰さはなかった。

 芝居がかった口調もない。

 

 ただ、一人の人間の決意を真正面から受け止めた声だった。

 

 その直後。

 

 アーチャーは歩みを止める。

 

 誠たちも自然と足を止めた。

 

 体育館の中央寄り。

 人の流れの脇。

 暖かい空気の中で、彼だけが少し違う温度を帯びて見えた。

 

 アーチャーは背筋を伸ばし、はっきりと言った。

 

「ならば」

 

 一拍。

 

「私も、君に全面的な協力を約束しよう」

 

 誠が目を見開く。

 

 アーチャーは続ける。

 

「人手が要るなら出す」

 

「物資が要るなら回す」

 

「情報が要るなら洗おう」

 

 その声音は力強い。

 避難所を支える指揮官としてのそれだった。

 

「黒野本家へ向かうにあたって必要なことは、可能な限りこちらで整える」

 

 わずかに笑う。

 

「覚悟を決めた若者を一人で戦場へ送り出したりはしない。何故なら私は、大統領だからだ」

 

 

 

 

 

 

 

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