アーチャーと別れたあと、誠たちはしばらくその場に立ち尽くしていた。
すぐに次の行動を決めなければならない、という切迫感が、ひとまず遠のいている。
それが妙に不思議だった。
昨夜からずっと、焼け跡を離れてからも、停電した街を歩いている間も、腐敗に追われた時も、避難所へ辿り着いてからでさえ、どこか張り詰めたままだった。
けれど今は違う。
戦わなくていい。
何かを決断し続けなくていい。
その事実が、ようやく少しずつ実感として身体に染み込んでくる。
「……朝ごはん、まだ配ってるかな」
紗月がそう言って周囲を見回した。
誠もつられるように顔を上げる。
体育館の一角では、まだ簡単な朝食の配給が続いていた。
大きなケースに入ったパンと、紙コップに注がれた温かい飲み物。
湯気の立つ匂いが、暖房の効いた空気の中に薄く混じっている。
「あるみたいだね」
紗月が軽く手を振る。
「せっかくだし、貰ってこよう。灰原君、倒れられても困るし」
「倒れませんよ」
「そう言う人ほど倒れるんだよ」
半ば反射で返しながらも、誠は強く言い返す気にはなれなかった。
実際、腹は空いていた。
昨夜からまともに落ち着いて食べた記憶がほとんどない。
誠たちは配給の列へ向かい、それぞれに朝食を受け取った。
配られていたのは、少し硬くなりかけたロールパンだったが、今の誠には十分すぎるご馳走に思えた。
ミリセントも無言で受け取り、マレニアは当然のように誠のすぐ隣に立ったまま、手渡されたパンを静かに見下ろしている。
紗月が苦笑する。
「はいはい、こっちで食べよう」
戻ったのは、昨夜割り当てられた衝立の内側だった。
人の気配は近いが、薄い布一枚で区切られているだけで、いくらか落ち着ける。
床に敷かれた毛布の上へ腰を下ろす。
誠もようやく息を吐いて座り込み、手にしたパンを見た。
柔らかくはない。
少し乾いている。
けれど、それを両手で持った瞬間、妙に現実感が湧いた。
食べられる。
今はまだ、生きていていい。
そんな感覚だった。
誠はひとくち齧る。
ぱさりとした食感が口に広がる。
けれど思っていたよりずっと美味かった。
空腹だったせいもある。
暖かい場所で、座って、敵に追われずに食べられるという状況そのものが、味を変えていた。
向かいでは紗月もパンをちぎって口に運んでいる。
ミリセントは動かない右腕を庇いながら、左手だけで静かに食べていた。
そして。
マレニアは、自分の分のパンを手にしたまま、誠の方を見ていた。
じっと。
だが不躾というより、どこか穏やかに。
微笑ましいものを見るような、柔らかな目だった。
誠は二口目を飲み込んだところで気づき、少し顔をしかめる。
「なんだよ」
「いえ」
マレニアはごく静かに答えた。
「にいさまが食事をしているのを見ていると、安心します」
誠は返答に詰まる。
意味が分からない。
分からないが、からかわれている感じでもなかった。
紗月がその様子を見て、少しだけ面白そうに眉を上げた。
「そんなに灰原君がお兄さんと似てるの?」
軽い調子での問いだった。
今の空気なら、それくらいの雑談は許される気がしたのだろう。
誠も内心では、似ているから勘違いしているのだと思いたかった。
そうであれば、まだ話は分かる。
けれど。
マレニアは紗月の問いに、少しも迷わず答えた。
「似ているのではありません」
一拍。
その赤い瞳が、まっすぐ誠を見た。
「本人です」
衝立の中が、一瞬だけ静まり返る。
誠はパンを持ったまま固まった。
紗月も、口元まで持ち上げていたパンを止める。
ミリセントだけが、目を伏せたまま小さく息を吐いた。
まるで、その答えを予想していたかのように。
「……いや」
最初に口を開いたのは誠だった。
「だから、それが分からないんたって」
困惑がそのまま声に出る。
「俺には妹なんていないし、そもそもあんたの兄っていうのも知らないし」
「ですが」
マレニアの声は静かだった。
反論というより、ただ当然のことを言う響きだった。
「にいさまは、にいさまです」
誠はしばらくマレニアを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
何を言っても同じだ。
理屈ではなく、確信で話している。
しかもその確信は、揺らぐ気配がない。
「……分かった」
諦めたように呟く。
「もういい。そこはもういい」
そう言って、パンを持ったまま視線を横へ滑らせた。
自然と向いた先には、ミリセントがいる。
彼女は静かに食事を続けていたが、誠の視線に気づくと動きを止めた。
「……なんだ」
低く問う。
誠は少し言いづらそうに口を開いた。
「マレニアの兄って……どういう人なんだ」
ミリセントはわずかに目を伏せた。
すぐには答えなかった。
マレニアの方を一瞬だけ見てから、言葉を選ぶように続ける。
「神人ミケラ」
静かな声だった。
「狭間の地の神である女王マリカと、その夫である英雄ラダゴンの間に生まれた天賦の双子の片割れだ」
紗月が目を瞬かせる。
「……神人?」
「そう呼ばれていた」
ミリセントは頷いた。
「常に幼き姿のまま在り続ける神の一柱」
一拍。
「万人に愛された存在でもある」
衝立の中の空気が、ほんのわずかに変わる。
誠は黙って聞いていた。
神。
しかも幼いままの神。
現実感が薄い話だ。
だが、昨夜からの出来事を思えば、今さら驚くことでもない。
ミリセントは続ける。
「黄金樹の如く輝く髪を持つ、美しい幼子だった」
その言葉には、どこか遠いものを語るような響きがあった。
「穏やかで、優しく……誰もが自然と心を寄せるような存在だった」
紗月が小さく息を吐く。
「……なんか、絵本に出てきそうな話だね」
「ふ……そうかもしれないな。まさしく、神話の世界だ」
ミリセントはそこで言葉を切り、改めて誠を見た。
視線は冷静だった。
観察するような目だった。
「……だが」
一拍。
「正直に言えば、誠とミケラ様は似ても似つかない」
はっきりと言い切る。
遠慮はあったが、曖昧にはしなかった。
「まず外見が、似ても似つかない」
誠は苦笑する。
「まあ、そりゃそうだろうな……」
自分でも分かる。
自分が神話に出てくるような幼き神と似ているとは、とても思えない。
むしろ真逆だ。
ミリセントはさらに静かに言葉を重ねた。
「恐らく」
一拍。
「マレニアは、まだ曖昧な状態にあるのだろう」
紗月が首を傾げる。
「曖昧?」
ミリセントは慎重に言葉を選んでいた。
「この世界へ流れ着いた影響か、腐敗の影響かは分からないが」
ちらりとマレニアを見る。
本人は特に気にした様子もなく、静かにパンを食べている。
「過去と現在、あるいは別の像が重なっている可能性がある」
誠は小さく息を吐いた。
「……要するに、勘違いしてるってことか」
「まあ、そうなる」
紗月はそのやり取りを聞きながら、ふっと肩を揺らして笑った。
「でもさ」
わざと軽い声で言う。
「女たらしな所とか、そっくりなんじゃない?」
誠がむせた。
「なっ……!」
口の中のパンを危うく吹き出しそうになる。
「どこがですか!」
「だって」
紗月は指折り数える仕草をする。
「バーサーカー、黒野さん、マレニアさんに……」
「モテモテだね、灰原君」
「違いますって!」
思わず声が大きくなる。
衝立の外から、誰かの視線がちらりと向いた気がした。
誠は慌てて声を落とす。
「勘弁してくださいよ……」
紗月はくすくす笑っている。
「あと私もね」
誠はきょとんとした。
「……え?」
聞き返しかける。
だが紗月は、まるでそれが何でもない雑談の続きでしかないみたいに、ひらりと立ち上がってしまった。
「じゃ、私はちょっと行ってくる」
「は?」
誠が今度こそ素で間の抜けた声を漏らす。
紗月はパンの残りを口に放り込み、水で流し込むと、鞄を肩に掛け直した。
「アサシンと一緒に、周りを少し見てくる」
言いながら衝立の外へ視線を向ける。
「避難所の外周もそうだし、周辺の道路の様子も確認したいしね」
「いや、ちょっと待って」
誠は思わず立ち上がりかけた。
「今の、どういう意味──」
「どういう意味も何も、そのままだよ」
紗月は振り向きもせずに言う。
妙にしれっとした声だった。
「それに、ここでじっとしてても落ち着かないしね」
そのまま手をひらひら振る。
「じゃ、行ってきます」
誠がさらに何か言うより早く、薄い影がするりと衝立の外へ滑った。
アサシンだ。
最初からそこにいたみたいに、気配だけが紗月の後ろへ寄る。
次の瞬間には、二人の姿はもう人の流れの向こうへ消えかけていた。
「ちょっ──」
呼び止める暇もなかった。
衝立の中に、妙な静けさだけが残る。
誠はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
今のは何だったのか。
からかわれたのか。
それとも本気だったのか。
「……なんなんだよ、あいつ」
思わず小さく呟く。
だが返事をする者はいない。
ミリセントは静かに壁へ背を預けて目を閉じている。
疲労が濃いのだろう。会話に加わる気配はない。
マレニアは相変わらず誠を見ていた。
穏やかな顔で。
何も疑問に思っていない目で。
その視線が、今は妙に居心地悪かった。
誠は毛布の端を足先で弄る。
やることがない。
休めと言われても、さっきの一言のせいで変に落ち着かない。
かといって、ミリセントにこれ以上兄の話を聞く気にもなれなかったし、マレニアと二人きりで何か話せるほど肝も据わっていなかった。
「……ちょっと歩いてくる」
誰にともなく言う。
ミリセントは薄く目を開け、何も言わずに小さく頷いた。
マレニアはすぐ立ち上がろうとした。
誠は慌てて手を振る。
「いや、あんたは来なくていいから」
「ですが」
「いいから」
少し強めに言うと、マレニアはほんのわずかに首を傾げたあと、静かに座り直した。
完全に納得している顔ではなかったが、とりあえず従う気にはなったらしい。
誠はそれを確認して、衝立の外へ出る。
体育館の空気が、改めて身体に触れた。
暖かい。
人がいる。
食べ物の匂いと、人いきれと、乾いた床の匂いが混ざっている。
避難所は朝のざわめきの只中にあった。
配給を受ける列。
毛布を畳む者。
子どもをあやす者。
静かに壁にもたれて眠り続ける者。
それぞれの時間が、それぞれの速度で流れている。
誠はその中を、あてもなく歩き出した。
手持ち無沙汰だった。
何かを探しているわけでもない。
ただ、じっとしていると余計なことばかり考えてしまいそうで、足を動かしていたかった。
体育館の端へ寄るにつれ、人の密度が少しずつ薄くなる。
暖房の熱はまだ届いているが、中央よりは空気がひんやりしていた。
毛布の山。
積まれた保存食。
それらの隙間を縫うように歩いていく。
その途中で、低い機械音が耳についた。
ぶうん、と。
規則的で、しかしどこか生き物の呼吸にも似た振動音だった。
誠は足を止める。
音のする方へ視線を向ける。
体育館の壁際、仮設の配線が集中している一角だった。
そこに、見覚えのある背中があった。
紫村のサーヴァント──621。
無骨な装備を纏ったまま、発電機の前にしゃがみ込んでいる。
避難所の明かりを支えている例の機械だ。
昨夜見た時と同じように、表面には微かな紅い粒子がまとわりついていた。
光とも煙ともつかないそれが、うっすらと滲むように機体の周囲を漂っている。
621は誠の接近にはまだ気付いていないらしかった。
黙々と作業を続けている。
ごつい手袋を嵌めた手で、機体側面の留め具を外す。
金属の蓋が、がこん、と鈍い音を立てて開いた。
そこはまるで、巨大な機械の給油口みたいだった。
奥には円筒状の差し込み口がいくつも並んでいる。
621はそのうちの一つへ手を差し入れ、空になったらしいカプセルを引き抜いた。
透明な外殻の内側は、既にほとんど何も残っていない。
乾いた器だ。
代わりに、腰のポーチから新しいカプセルを取り出す。
それを見た瞬間、誠は無意識に目を細めた。
中身は深紅だった。
液体。
いや、液体に見える何か。
血のように濃く、しかし血よりもずっと鮮やかで、光を含んでいるような赤。
カプセルの中でゆっくり揺れている。
見ているだけで、妙な熱を感じる色だった。
621は慣れた手つきでそれを差し込み、奥まで押し込む。
かちり、と内部で固定される音。
続けて蓋を閉め、側面のレバーを下ろした。
次の瞬間。
発電機が、ひときわ低く唸った。
ぶおん、と重い音が床を伝う。
機体表面を漂っていた紅い粒子が、いっそう濃くなる。
配線の先で照明がわずかに明滅し、それから安定した。
再起動したのだと分かる。
誠は数歩、そちらへ近付いた。
「……それ」
621が振り向く。
相変わらず感情の読みづらい顔だった。
誠は発電機と、今入れたばかりのカプセルを見比べながら尋ねる。
「コーラルってやつだよな」
621はゆっくり立ち上がった。
舞い散る粒子と同じ深紅の瞳を瞬かせ、それから短く答える。
「そう」
短い返答だった。
肯定以上の意味は含まれていない。
それでも、会話がそこで終わるわけでもなかった。
621は発電機の脇に置いてあった空のカプセルを拾い上げると、無言のまま数歩離れたところに置かれている台車へ向かった。
鉄製の簡素な台車だった。
二段構造で、上段には段ボール箱がいくつも積まれている。
中身は同じ形状のカプセルらしく、箱の隙間から透明な外殻がいくつも覗いていた。
621は手に持っていた空容器を、その一つへ放り込む。
からん、と軽い音がした。
それから何も言わず、台車の持ち手に手を掛ける。
そのまま押して、その場を後にしようとした。
だが。
台車は見た目以上に重いらしかった。
床に敷かれた保護マットの摩擦もあるのだろう。
ぎし、と車輪が鳴る。
621の腕が、わずかに力む。
細い。
無駄のない筋肉はあるが、いかにも重量物の運搬を前提とした体格ではない。
女性的、と言ってしまえばそれまでだった。
押せないわけではない。
だが、楽でもなさそうだった。
誠はそれを数秒見てから、自然に口を開いた。
「……手伝おうか」
621が足を止める。
振り向く。
深紅の瞳が、まっすぐこちらを見る。
何かを測るような視線だった。
誠は肩をすくめた。
「暇なんだよ。正直」
半分本音だった。
「それに、これ重そうだし」
体育館のざわめきが、遠くで揺れている。
621は少しだけ考えるように視線を落とし、それから小さく頷いた。
「……ありがとう」
短く言う。
それが了承だった。
誠は持ち手の反対側へ回り込み、台車に手を掛ける。
押す。
確かに重かった。
だが二人なら、十分動く。
車輪がぎしぎしと鳴りながら、ゆっくり進み出した。
それからしばらくの間。
誠は621と一緒に、避難所の中を回ることになった。
切れかけた電灯を交換する。
仮設配線の接続を確認する。
段ボールや空き容器を回収して、まとめて所定の場所へ運ぶ。
誰かに頼まれたわけではない。
ただ必要そうな場所へ行き、必要そうなことをする。
621は無言で動く。
指示もほとんど出さない。
だが動きには迷いがなかった。
どこに何があり、何をすべきか最初から分かっているかのようだった。
誠は言われるまま脚立を押さえたり、ゴミ袋を縛ったり、交換した電球を箱へ入れたりした。
単純な作業だった。
けれど。
不思議と心が落ち着いた。
戦いでもなく。
逃走でもなく。
命を賭けた決断でもない。
ただの雑務。
ただの手伝い。
それが、昨夜からずっと張り詰めていた神経を少しずつ緩めていく。
遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
誰かが鍋の蓋を開ける音がする。
暖房の風が、体育館の空気をゆっくりと回している。
最後の電灯を替え終えた頃には、誠の身体もほどよく温まっていた。
高い天井の蛍光灯が、ぱち、と一度だけ瞬いてから安定する。
白い光が床の上へ広がった。
脚立の下で支えていた手を離し、誠は小さく息を吐く。
「……これで終わりか」
621は交換したばかりの灯りを一度見上げ、それから無言で頷いた。
台車の上には、空になったゴミ袋と回収した電球の箱、予備のカプセルがいくつか残っている。
やるべきことは一通り片付いたらしい。
621は脚立を畳み、片手で器用に台車へ立て掛けると、そのまま持ち手を押した。
誠も自然に横へつく。
今さら断る理由もなかった。
体育館の出入口へ向かう。
人のざわめきが少しずつ背後へ遠のき、代わりに外気の気配が近づいてくる。
冬の空気が頬に触れた。
冷たい。
だが昨夜のような、骨の芯まで刺す冷え方ではない。
日が昇っているからか、あるいは体育館の熱が敷地の近くまで漏れているからか。
誠は首を竦めながら周囲を見回した。
体育館の敷地は広い。
駐車場には避難民の車両や、資材運搬用らしい軽トラックがまばらに停まっている。
端の方にはブルーシートで覆われた物資の山。
さらにその奥。
敷地の隅に、少し大きめの掘立小屋が建っていた。
急ごしらえの建築に見えるが、柱は太く、外板も二重に張られている。
風除け以上の用途がありそうだった。
621は迷いなく、そちらへ台車を押していく。
誠も後を追う。
ここにも誰か住んでいるのだろうか、とぼんやり考えた。
避難所の一部というには、少し隔離されすぎている。
物置か、作業場か、それとも──
小屋の前まで来たところで、621が不意に足を止めた。
扉の前ではない。
その脇に並んだ、金属製の細長いロッカーの前だった。
錆びはあるが、手入れはされているらしい。
621はポケットから鍵を取り出し、迷いなく一つを開ける。
中から取り出したのは、防護服だった。
重厚だった。
ただの作業着ではない。
厚い灰色の生地に、金属製の留め具と硬い樹脂パーツが幾重にも付いている。
首元は高く、手首も足首も完全に密閉できる構造になっていた。
面体付きの頭巾まである。
災害現場か、汚染区域へ入る人間が着るような代物だった。
誠は思わず眉をひそめる。
「……何これ」
621は答えず、まず自分の分を手際よく身につけ始めた。
装備に慣れている動きだった。
腕を通し、胸元を締め、背の留め具を一つずつ固定していく。
迷いがない。
数十秒も経たないうちに、もう半分以上が装着されていた。
その様子を見て、誠の胸の中で小さな警戒が膨らむ。
ただの倉庫ではない。
少なくとも、無防備に入っていい場所ではないのだろう。
621はもう一つの防護服を取り出し、誠へ差し出した。
「着て」
「……俺も?」
「そう」
短い返答だった。
誠は防護服を受け取る。
ずし、と腕に重みが来た。
思っていた以上にしっかりしている。
「……本当に着るのか」
ぼやくように言いながら袖を通す。
621はもう自分の装備をほとんど整え終えていた。
面体の留め具を確認し、首元の継ぎ目を指先でなぞる。
その動作がいちいち手慣れている。
誠は少しだけ嫌な気分になった。
こういう装備に慣れているということは、こういう場所に入ることにも慣れているということだ。
621は誠の正面に回ると、無言で胸元の留め具を締め直した。
次いで肩の固定具を押し込み、背中のベルトを一つ引いた。
「息、苦しくない?」
「……まあ」
「なら大丈夫」
最後に透明な面体を被せられる。
視界が一段、遠くなる。
吐いた息が、内側でかすかに白く曇った。
外の音もくぐもる。
自分の呼吸だけが妙に近い。
621は誠を一度頭から足先まで眺め、問題ないと判断したらしい。
それ以上は何も言わず、小屋の扉へ向き直った。
台車は外へ置かれたままだった。
ここから先へは持って入らないらしい。
621が扉の横のレバーを引く。
内部の気圧を調整しているのか、低い排気音が短く鳴った。
それから、重い扉を押し開ける。
「入る」
短い一言だった。
誠はごくりと喉を鳴らした。
その音すら面体の中で近く響く。
621の後に続いて、倉庫の中へ足を踏み入れた。
中は、思っていたより広かった。
外から見た掘立小屋の印象より、ずっと奥行きがある。
仮設の壁でいくつかの区画に分けられており、通路には簡易のビニールカーテンまで吊られていた。
ただの物置ではない。
即席ながら、明確に用途ごとに分けられた施設だった。
だが、入った瞬間から空気が違った。
暖房は効いているはずなのに、寒いわけでもないのに、肌の内側がひやりとする。
陰鬱だった。
湿気とも、薬品臭とも、血の匂いともつかないものが混ざり合っている。
そこに、押し殺された呻き声や咳が重なっていた。
誠は一歩進んだところで、無意識に足を止める。
視界の先に並んでいたのは、簡易ベッドだった。
折り畳み式の、簡素な寝台。
それが何列も並んでいる。
そして、そのほとんどすべてが埋まっていた。
「……っ」
息が詰まる。
患者だった。
無数の。
ただ具合の悪い人間が横たわっている、という光景ではない。
誠は知っていた。
ここにあるものを。
ここに寝かされている者たちの、その壊れ方を。
灰原の災厄の被害者たちだった。
ベッドの端で背を丸め、胸を掻き毟るようにしながら、ひたすら乾いた咳を繰り返す者がいる。
咳のたびに全身が痙攣し、骨だけになったみたいな肩が跳ねていた。
別の寝台では、拘束具を付けられた男が、低く獣じみた唸り声を漏らしている。
四肢を縛られてなお、布団の上で身を捩っている。
目は焦点を結ばず、口元からは泡が滲んでいた。
さらにその奥。
全身が干からびたように痩せ細り、皮膚が骨へ貼りついた者がいる。
もはや人の形を辛うじて留めているだけだった。
ミイラのように乾いた身体が、わずかに上下している。
かすかな呻きが、喉の奥から漏れるだけだった。
誠は動けなかった。
被害が、集められている。
灰原の災厄が、人の身体をどう壊すのか、その見本市みたいに。
しかも、終わったものではない。
まだ呼吸している。
まだ苦しんでいる。
まだ死にきれていない。
誠の胃の奥が、重く縮む。
面体の内側で呼吸が浅くなる。
「……これ、全部」
声が掠れた。
621は少しだけ振り向く。
深紅のレンズ越しの目は、やはり感情が読みにくい。
「そう」
短く言う。
「避難所に来た、被害者」
それだけで十分だった。
誠は視線を巡らせる。
まだほかにもいる。
布を被せられて、顔だけを出したまま動かない者。
点滴じみた即席の管を腕へ繋がれ、虚ろな目で天井を見ている者。
全身に黒ずんだ斑を浮かべ、寝台の上で小刻みに震える者。
どれも、見覚えがあった。
種類は違う。
壊れ方も違う。
だが根は同じだった。
自分の名を冠した災厄の。
灰原聖杯戦争の。
その爪痕だった。
誠は拳を握る。
防護手袋の中で、爪が掌に食い込む感覚だけが妙に遠い。
621は何も慰めなかった。
何も誤魔化さなかった。
ただ先へ進む。
誠もどうにか足を動かし、その背を追った。
簡易ベッドの列の間を抜ける。
呻き声が近くなり、咳が耳の奥へ刺さる。
面体越しでも、空気の重さは消えなかった。
薬品の匂い。
汗の匂い。
壊れた肉体が発する、言葉にしづらい匂い。
621はその一角で、ふと立ち止まった。
ベッドの一つだった。
そこに横たわる男は、異様なほど静かだった。
他の患者のような咳も、呻きもない。
乾いた顔は天井を向いたまま、まぶたは半ば閉じている。
胸も、もう動いていないように見えた。
621は無駄のない動きでベッド脇へ寄る。
まず手袋をした指先で首元へ触れた。
脈を探る。
数秒。
次に片手でまぶたを持ち上げ、瞳孔の反応を確認する。
手元の小さなペンライトが一瞬だけ光り、すぐ消えた。
それで十分だったらしい。
621は静かにその男のまぶたを閉じた。
それから、ベッドの脇にまっすぐ立つ。
背筋を伸ばし、両手を前で合わせる。
黙祷だった。
倉庫の中には相変わらず咳と呻きがある。
だがその数秒だけ、誠にはその場だけが切り取られたように感じられた。
621は動かなかった。
機械のように無駄のない動きばかり見せていたその背中が、その時だけは妙に人間らしく見えた。
やがて黙祷を終えると、621はベッドの足元に畳んで置かれていた黒い袋を手に取った。
厚手の遺体袋だった。
男の身体を丁寧に、だが滞りなくその中へ収めていく。
雑ではない。
だが情に引きずられてもいない。
幾度も繰り返してきた作業なのだと分かる手つきだった。
最後に顔の高さまでファスナーを引き上げる。
じ、と重い音がして、黒い袋は完全に閉じられた。
そこに、さっきまで人がいた痕跡が消える。
誠は息を呑んだ。
621は袋の端を持ち上げた。
無言のまま顎で誠へ合図する。
手伝え、ということだろう。
誠は一瞬ためらったが、すぐにもう一方の端へ手を掛けた。
重かった。
人一人分の重さ。
生きている人間を支えるのとは違う、どうしようもない重さだった。
二人で倉庫の外へ運び出す。
小屋の外の冷気が、面体越しに触れた。
外に置いていた台車へ黒い袋を載せる。
621は袋がずれないよう一度だけ位置を直し、それから倉庫脇の消毒設備へ向かった。
簡易シャワーのような枠の中へ入る。
誠も促されるまま続いた。
上から細かな霧が降る。
薬剤の匂いが強くなる。
防護服の表面を消毒しているのだろう。
冷たくはないが、肌の奥がざらつくような感覚がした。
終わると、621が自分の留め具を外し始める。
誠も真似をした。
重い面体を外す。
途端に、外の空気がむき出しで肺へ入った。
冷たい。
だが、倉庫の中よりずっと軽い。
首元の固定具を外し、腕を抜き、ようやく防護服を脱ぎ終える。
誠はしばらく何も言えなかった。
黒い袋を載せた台車が、すぐ横にある。
冬の朝の光が、その表面だけを鈍く照らしていた。
621は防護服をロッカーへ戻し、扉を閉める。
相変わらず表情は薄い。
だが先ほどの黙祷の余韻が、まだどこか残っている気がした。
誠は乾いた唇を舐める。
「……なんで」
声が少し掠れた。
「なんで、俺をここに連れてきた」
621はすぐには答えなかった。
深紅の瞳が一度だけ、黒い袋の載った台車へ向く。
それから誠を見た。
「貴方が」
短く区切る。
「これから行う選択は」
一拍。
「全てを知った上で、行われなければならない」
621は台車の取っ手に掛けていた手を離した。
代わりに、腰のポーチから小さな手帳のようなものを取り出す。
表紙は擦り切れている。
水に濡れた跡のような歪みもあった。
そこへ細いペンを走らせる。
日付。
時刻。
短い記号のような記録。
それは極めて事務的な作業だった。
621は書き終えると、ページを閉じる。
「貴方の事情は」
顔を上げる。
「概ね、ハンドラーやアーチャーから聞いている」
誠は小さく肩を揺らした。
どこまで知られているのか分からない。
だが今は、そんなことを気にする余裕もなかった。
621は続ける。
「どのような選択をするかは、自由」
冬の光がその横顔をかすめる。
「けれど」
一拍。
「貴方は全てを知り、己の背景を確立する必要がある」
誠は黙っていた。
言葉の意味は分かる。
だが、理解したくない部分もあった。
621の声は変わらない。
「世界は」
短く区切る。
「自暴自棄の自己犠牲で救えるほど、甘くはない」
誠の胸の奥が、鈍く痛む。
さっき見た光景がまた蘇る。
咳。
呻き。
黒い袋。
消えない現実。
拳が自然に震えた。
「……じゃあ」
誠は絞り出すように言った。
「ならアンタは世界を救えたのかよ」
視線を上げる。
真正面から問う。
「英霊なんだろ」
「どうやったんだよ」
風が一度だけ強く吹いた。
小屋の壁がぎし、と鳴る。
621はすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ、遠くを見る。
時間が止まったような沈黙だった。
やがて視線を戻す。
「……少なくとも」
静かな声だった。
「私は、悔いなき選択を行った」
それ以上でも、それ以下でもない調子で言う。
「世界が良くなればいい」
「そう思って、行動した」
誠は言葉を失う。
それは勝利の話ではなかった。
救済の確証でもなかった。
ただ、自分の選択を引き受けた者の言葉だった。
冬の空気が、肺の奥へゆっくりと入ってくる。
誠は、その時になってようやく、自分が震えていることに気づいた。