Fate/You Died.   作:助兵衛

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第80話 犠牲者たち

 アーチャーと別れたあと、誠たちはしばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 すぐに次の行動を決めなければならない、という切迫感が、ひとまず遠のいている。

 

 それが妙に不思議だった。

 

 昨夜からずっと、焼け跡を離れてからも、停電した街を歩いている間も、腐敗に追われた時も、避難所へ辿り着いてからでさえ、どこか張り詰めたままだった。

 

 けれど今は違う。

 

 戦わなくていい。

 

 何かを決断し続けなくていい。

 

 その事実が、ようやく少しずつ実感として身体に染み込んでくる。

 

「……朝ごはん、まだ配ってるかな」

 

 紗月がそう言って周囲を見回した。

 

 誠もつられるように顔を上げる。

 

 体育館の一角では、まだ簡単な朝食の配給が続いていた。

 

 大きなケースに入ったパンと、紙コップに注がれた温かい飲み物。

 

 湯気の立つ匂いが、暖房の効いた空気の中に薄く混じっている。

 

「あるみたいだね」

 

 紗月が軽く手を振る。

 

「せっかくだし、貰ってこよう。灰原君、倒れられても困るし」

 

「倒れませんよ」

 

「そう言う人ほど倒れるんだよ」

 

 半ば反射で返しながらも、誠は強く言い返す気にはなれなかった。

 

 実際、腹は空いていた。

 

 昨夜からまともに落ち着いて食べた記憶がほとんどない。

 

 誠たちは配給の列へ向かい、それぞれに朝食を受け取った。

 

 配られていたのは、少し硬くなりかけたロールパンだったが、今の誠には十分すぎるご馳走に思えた。

 

 ミリセントも無言で受け取り、マレニアは当然のように誠のすぐ隣に立ったまま、手渡されたパンを静かに見下ろしている。

 

 紗月が苦笑する。

 

「はいはい、こっちで食べよう」

 

 戻ったのは、昨夜割り当てられた衝立の内側だった。

 

 人の気配は近いが、薄い布一枚で区切られているだけで、いくらか落ち着ける。

 

 床に敷かれた毛布の上へ腰を下ろす。

 

 誠もようやく息を吐いて座り込み、手にしたパンを見た。

 

 柔らかくはない。

 

 少し乾いている。

 

 けれど、それを両手で持った瞬間、妙に現実感が湧いた。

 

 食べられる。

 

 今はまだ、生きていていい。

 

 そんな感覚だった。

 

 誠はひとくち齧る。

 

 ぱさりとした食感が口に広がる。

 

 けれど思っていたよりずっと美味かった。

 

 空腹だったせいもある。

 

 暖かい場所で、座って、敵に追われずに食べられるという状況そのものが、味を変えていた。

 

 向かいでは紗月もパンをちぎって口に運んでいる。

 

 ミリセントは動かない右腕を庇いながら、左手だけで静かに食べていた。

 

 そして。

 

 マレニアは、自分の分のパンを手にしたまま、誠の方を見ていた。

 

 じっと。

 

 だが不躾というより、どこか穏やかに。

 

 微笑ましいものを見るような、柔らかな目だった。

 

 誠は二口目を飲み込んだところで気づき、少し顔をしかめる。

 

「なんだよ」

 

「いえ」

 

 マレニアはごく静かに答えた。

 

「にいさまが食事をしているのを見ていると、安心します」

 

 誠は返答に詰まる。

 

 意味が分からない。

 

 分からないが、からかわれている感じでもなかった。

 

 紗月がその様子を見て、少しだけ面白そうに眉を上げた。

 

「そんなに灰原君がお兄さんと似てるの?」

 

 軽い調子での問いだった。

 

 今の空気なら、それくらいの雑談は許される気がしたのだろう。

 

 誠も内心では、似ているから勘違いしているのだと思いたかった。

 

 そうであれば、まだ話は分かる。

 

 けれど。

 

 マレニアは紗月の問いに、少しも迷わず答えた。

 

「似ているのではありません」

 

 一拍。

 

 その赤い瞳が、まっすぐ誠を見た。

 

「本人です」

 

 衝立の中が、一瞬だけ静まり返る。

 

 誠はパンを持ったまま固まった。

 

 紗月も、口元まで持ち上げていたパンを止める。

 

 ミリセントだけが、目を伏せたまま小さく息を吐いた。

 

 まるで、その答えを予想していたかのように。

 

「……いや」

 

 最初に口を開いたのは誠だった。

 

「だから、それが分からないんたって」

 

 困惑がそのまま声に出る。

 

「俺には妹なんていないし、そもそもあんたの兄っていうのも知らないし」

 

「ですが」

 

 マレニアの声は静かだった。

 

 反論というより、ただ当然のことを言う響きだった。

 

「にいさまは、にいさまです」

 

 誠はしばらくマレニアを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

 何を言っても同じだ。

 

 理屈ではなく、確信で話している。

 

 しかもその確信は、揺らぐ気配がない。

 

「……分かった」

 

 諦めたように呟く。

 

「もういい。そこはもういい」

 

 そう言って、パンを持ったまま視線を横へ滑らせた。

 

 自然と向いた先には、ミリセントがいる。

 

 彼女は静かに食事を続けていたが、誠の視線に気づくと動きを止めた。

 

「……なんだ」

 

 低く問う。

 

 誠は少し言いづらそうに口を開いた。

 

「マレニアの兄って……どういう人なんだ」

 

 ミリセントはわずかに目を伏せた。

 

 すぐには答えなかった。

 

 マレニアの方を一瞬だけ見てから、言葉を選ぶように続ける。

 

「神人ミケラ」

 

 静かな声だった。

 

「狭間の地の神である女王マリカと、その夫である英雄ラダゴンの間に生まれた天賦の双子の片割れだ」

 

 紗月が目を瞬かせる。

 

「……神人?」

 

「そう呼ばれていた」

 

 ミリセントは頷いた。

 

「常に幼き姿のまま在り続ける神の一柱」

 

 一拍。

 

「万人に愛された存在でもある」

 

 衝立の中の空気が、ほんのわずかに変わる。

 

 誠は黙って聞いていた。

 

 神。

 

 しかも幼いままの神。

 

 現実感が薄い話だ。

 

 だが、昨夜からの出来事を思えば、今さら驚くことでもない。

 

 ミリセントは続ける。

 

「黄金樹の如く輝く髪を持つ、美しい幼子だった」

 

 その言葉には、どこか遠いものを語るような響きがあった。

 

「穏やかで、優しく……誰もが自然と心を寄せるような存在だった」

 

 紗月が小さく息を吐く。

 

「……なんか、絵本に出てきそうな話だね」

 

「ふ……そうかもしれないな。まさしく、神話の世界だ」

 

 ミリセントはそこで言葉を切り、改めて誠を見た。

 

 視線は冷静だった。

 

 観察するような目だった。

 

「……だが」

 

 一拍。

 

「正直に言えば、誠とミケラ様は似ても似つかない」

 

 はっきりと言い切る。

 

 遠慮はあったが、曖昧にはしなかった。

 

「まず外見が、似ても似つかない」

 

 誠は苦笑する。

 

「まあ、そりゃそうだろうな……」

 

 自分でも分かる。

 

 自分が神話に出てくるような幼き神と似ているとは、とても思えない。

 

 むしろ真逆だ。

 

 ミリセントはさらに静かに言葉を重ねた。

 

「恐らく」

 

 一拍。

 

「マレニアは、まだ曖昧な状態にあるのだろう」

 

 紗月が首を傾げる。

 

「曖昧?」

 

 ミリセントは慎重に言葉を選んでいた。

 

「この世界へ流れ着いた影響か、腐敗の影響かは分からないが」

 

 ちらりとマレニアを見る。

 

 本人は特に気にした様子もなく、静かにパンを食べている。

 

「過去と現在、あるいは別の像が重なっている可能性がある」

 

 誠は小さく息を吐いた。

 

「……要するに、勘違いしてるってことか」

 

「まあ、そうなる」

 

 紗月はそのやり取りを聞きながら、ふっと肩を揺らして笑った。

 

「でもさ」

 

 わざと軽い声で言う。

 

「女たらしな所とか、そっくりなんじゃない?」

 

 誠がむせた。

 

「なっ……!」

 

 口の中のパンを危うく吹き出しそうになる。

 

「どこがですか!」

 

「だって」

 

 紗月は指折り数える仕草をする。

 

「バーサーカー、黒野さん、マレニアさんに……」

 

「モテモテだね、灰原君」

 

「違いますって!」

 

 思わず声が大きくなる。

 

 衝立の外から、誰かの視線がちらりと向いた気がした。

 

 誠は慌てて声を落とす。

 

「勘弁してくださいよ……」

 

 紗月はくすくす笑っている。

 

「あと私もね」

 

 誠はきょとんとした。

 

「……え?」

 

 聞き返しかける。

 

 だが紗月は、まるでそれが何でもない雑談の続きでしかないみたいに、ひらりと立ち上がってしまった。

 

「じゃ、私はちょっと行ってくる」

 

「は?」

 

 誠が今度こそ素で間の抜けた声を漏らす。

 

 紗月はパンの残りを口に放り込み、水で流し込むと、鞄を肩に掛け直した。

 

「アサシンと一緒に、周りを少し見てくる」

 

 言いながら衝立の外へ視線を向ける。

 

「避難所の外周もそうだし、周辺の道路の様子も確認したいしね」

 

「いや、ちょっと待って」

 

 誠は思わず立ち上がりかけた。

 

「今の、どういう意味──」

 

「どういう意味も何も、そのままだよ」

 

 紗月は振り向きもせずに言う。

 

 妙にしれっとした声だった。

 

「それに、ここでじっとしてても落ち着かないしね」

 

 そのまま手をひらひら振る。

 

「じゃ、行ってきます」

 

 誠がさらに何か言うより早く、薄い影がするりと衝立の外へ滑った。

 

 アサシンだ。

 

 最初からそこにいたみたいに、気配だけが紗月の後ろへ寄る。

 

 次の瞬間には、二人の姿はもう人の流れの向こうへ消えかけていた。

 

「ちょっ──」

 

 呼び止める暇もなかった。

 

 衝立の中に、妙な静けさだけが残る。

 

 誠はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 

 今のは何だったのか。

 

 からかわれたのか。

 

 それとも本気だったのか。

 

「……なんなんだよ、あいつ」

 

 思わず小さく呟く。

 

 だが返事をする者はいない。

 

 ミリセントは静かに壁へ背を預けて目を閉じている。

 

 疲労が濃いのだろう。会話に加わる気配はない。

 

 マレニアは相変わらず誠を見ていた。

 

 穏やかな顔で。

 

 何も疑問に思っていない目で。

 

 その視線が、今は妙に居心地悪かった。

 

 誠は毛布の端を足先で弄る。

 

 やることがない。

 

 休めと言われても、さっきの一言のせいで変に落ち着かない。

 

 かといって、ミリセントにこれ以上兄の話を聞く気にもなれなかったし、マレニアと二人きりで何か話せるほど肝も据わっていなかった。

 

「……ちょっと歩いてくる」

 

 誰にともなく言う。

 

 ミリセントは薄く目を開け、何も言わずに小さく頷いた。

 

 マレニアはすぐ立ち上がろうとした。

 

 誠は慌てて手を振る。

 

「いや、あんたは来なくていいから」

 

「ですが」

 

「いいから」

 

 少し強めに言うと、マレニアはほんのわずかに首を傾げたあと、静かに座り直した。

 

 完全に納得している顔ではなかったが、とりあえず従う気にはなったらしい。

 

 誠はそれを確認して、衝立の外へ出る。

 

 体育館の空気が、改めて身体に触れた。

 

 暖かい。

 

 人がいる。

 

 食べ物の匂いと、人いきれと、乾いた床の匂いが混ざっている。

 

 避難所は朝のざわめきの只中にあった。

 

 配給を受ける列。

 

 毛布を畳む者。

 

 子どもをあやす者。

 

 静かに壁にもたれて眠り続ける者。

 

 それぞれの時間が、それぞれの速度で流れている。

 

 誠はその中を、あてもなく歩き出した。

 

 手持ち無沙汰だった。

 

 何かを探しているわけでもない。

 

 ただ、じっとしていると余計なことばかり考えてしまいそうで、足を動かしていたかった。

 

 体育館の端へ寄るにつれ、人の密度が少しずつ薄くなる。

 

 暖房の熱はまだ届いているが、中央よりは空気がひんやりしていた。

 

 毛布の山。

 

 積まれた保存食。

 

 それらの隙間を縫うように歩いていく。

 

 その途中で、低い機械音が耳についた。

 

 ぶうん、と。

 

 規則的で、しかしどこか生き物の呼吸にも似た振動音だった。

 

 誠は足を止める。

 

 音のする方へ視線を向ける。

 

 体育館の壁際、仮設の配線が集中している一角だった。

 

 そこに、見覚えのある背中があった。

 

 紫村のサーヴァント──621。

 

 無骨な装備を纏ったまま、発電機の前にしゃがみ込んでいる。

 

 避難所の明かりを支えている例の機械だ。

 

 昨夜見た時と同じように、表面には微かな紅い粒子がまとわりついていた。

 

 光とも煙ともつかないそれが、うっすらと滲むように機体の周囲を漂っている。

 

 621は誠の接近にはまだ気付いていないらしかった。

 

 黙々と作業を続けている。

 

 ごつい手袋を嵌めた手で、機体側面の留め具を外す。

 

 金属の蓋が、がこん、と鈍い音を立てて開いた。

 

 そこはまるで、巨大な機械の給油口みたいだった。

 

 奥には円筒状の差し込み口がいくつも並んでいる。

 

 621はそのうちの一つへ手を差し入れ、空になったらしいカプセルを引き抜いた。

 

 透明な外殻の内側は、既にほとんど何も残っていない。

 

 乾いた器だ。

 

 代わりに、腰のポーチから新しいカプセルを取り出す。

 

 それを見た瞬間、誠は無意識に目を細めた。

 

 中身は深紅だった。

 

 液体。

 

 いや、液体に見える何か。

 

 血のように濃く、しかし血よりもずっと鮮やかで、光を含んでいるような赤。

 

 カプセルの中でゆっくり揺れている。

 

 見ているだけで、妙な熱を感じる色だった。

 

 621は慣れた手つきでそれを差し込み、奥まで押し込む。

 

 かちり、と内部で固定される音。

 

 続けて蓋を閉め、側面のレバーを下ろした。

 

 次の瞬間。

 

 発電機が、ひときわ低く唸った。

 

 ぶおん、と重い音が床を伝う。

 

 機体表面を漂っていた紅い粒子が、いっそう濃くなる。

 

 配線の先で照明がわずかに明滅し、それから安定した。

 

 再起動したのだと分かる。

 

 誠は数歩、そちらへ近付いた。

 

「……それ」

 

 621が振り向く。

 

 相変わらず感情の読みづらい顔だった。

 

 誠は発電機と、今入れたばかりのカプセルを見比べながら尋ねる。

 

「コーラルってやつだよな」

 

 621はゆっくり立ち上がった。

 

 舞い散る粒子と同じ深紅の瞳を瞬かせ、それから短く答える。

 

「そう」

 

 短い返答だった。

 

 肯定以上の意味は含まれていない。

 

 それでも、会話がそこで終わるわけでもなかった。

 

 621は発電機の脇に置いてあった空のカプセルを拾い上げると、無言のまま数歩離れたところに置かれている台車へ向かった。

 

 鉄製の簡素な台車だった。

 

 二段構造で、上段には段ボール箱がいくつも積まれている。

 

 中身は同じ形状のカプセルらしく、箱の隙間から透明な外殻がいくつも覗いていた。

 

 621は手に持っていた空容器を、その一つへ放り込む。

 

 からん、と軽い音がした。

 

 それから何も言わず、台車の持ち手に手を掛ける。

 

 そのまま押して、その場を後にしようとした。

 

 だが。

 

 台車は見た目以上に重いらしかった。

 

 床に敷かれた保護マットの摩擦もあるのだろう。

 

 ぎし、と車輪が鳴る。

 

 621の腕が、わずかに力む。

 

 細い。

 

 無駄のない筋肉はあるが、いかにも重量物の運搬を前提とした体格ではない。

 

 女性的、と言ってしまえばそれまでだった。

 

 押せないわけではない。

 

 だが、楽でもなさそうだった。

 

 誠はそれを数秒見てから、自然に口を開いた。

 

「……手伝おうか」

 

 621が足を止める。

 

 振り向く。

 

 深紅の瞳が、まっすぐこちらを見る。

 

 何かを測るような視線だった。

 

 誠は肩をすくめた。

 

「暇なんだよ。正直」

 

 半分本音だった。

 

「それに、これ重そうだし」

 

 体育館のざわめきが、遠くで揺れている。

 

 621は少しだけ考えるように視線を落とし、それから小さく頷いた。

 

「……ありがとう」

 

 短く言う。

 

 それが了承だった。

 

 誠は持ち手の反対側へ回り込み、台車に手を掛ける。

 

 押す。

 

 確かに重かった。

 

 だが二人なら、十分動く。

 

 車輪がぎしぎしと鳴りながら、ゆっくり進み出した。

 

 それからしばらくの間。

 

 誠は621と一緒に、避難所の中を回ることになった。

 

 切れかけた電灯を交換する。

 

 仮設配線の接続を確認する。

 

 段ボールや空き容器を回収して、まとめて所定の場所へ運ぶ。

 

 誰かに頼まれたわけではない。

 

 ただ必要そうな場所へ行き、必要そうなことをする。

 

 621は無言で動く。

 

 指示もほとんど出さない。

 

 だが動きには迷いがなかった。

 

 どこに何があり、何をすべきか最初から分かっているかのようだった。

 

 誠は言われるまま脚立を押さえたり、ゴミ袋を縛ったり、交換した電球を箱へ入れたりした。

 

 単純な作業だった。

 

 けれど。

 

 不思議と心が落ち着いた。

 

 戦いでもなく。

 

 逃走でもなく。

 

 命を賭けた決断でもない。

 

 ただの雑務。

 

 ただの手伝い。

 

 それが、昨夜からずっと張り詰めていた神経を少しずつ緩めていく。

 

 遠くで子どもの笑い声が聞こえた。

 

 誰かが鍋の蓋を開ける音がする。

 

 暖房の風が、体育館の空気をゆっくりと回している。

 

 最後の電灯を替え終えた頃には、誠の身体もほどよく温まっていた。

 

 高い天井の蛍光灯が、ぱち、と一度だけ瞬いてから安定する。

 

 白い光が床の上へ広がった。

 

 脚立の下で支えていた手を離し、誠は小さく息を吐く。

 

「……これで終わりか」

 

 621は交換したばかりの灯りを一度見上げ、それから無言で頷いた。

 

 台車の上には、空になったゴミ袋と回収した電球の箱、予備のカプセルがいくつか残っている。

 

 やるべきことは一通り片付いたらしい。

 

 621は脚立を畳み、片手で器用に台車へ立て掛けると、そのまま持ち手を押した。

 

 誠も自然に横へつく。

 

 今さら断る理由もなかった。

 

 体育館の出入口へ向かう。

 

 人のざわめきが少しずつ背後へ遠のき、代わりに外気の気配が近づいてくる。

 

 冬の空気が頬に触れた。

 

 冷たい。

 

 だが昨夜のような、骨の芯まで刺す冷え方ではない。

 

 日が昇っているからか、あるいは体育館の熱が敷地の近くまで漏れているからか。

 

 誠は首を竦めながら周囲を見回した。

 

 体育館の敷地は広い。

 

 駐車場には避難民の車両や、資材運搬用らしい軽トラックがまばらに停まっている。

 

 端の方にはブルーシートで覆われた物資の山。

 

 さらにその奥。

 

 敷地の隅に、少し大きめの掘立小屋が建っていた。

 

 急ごしらえの建築に見えるが、柱は太く、外板も二重に張られている。

 

 風除け以上の用途がありそうだった。

 

 621は迷いなく、そちらへ台車を押していく。

 

 誠も後を追う。

 

 ここにも誰か住んでいるのだろうか、とぼんやり考えた。

 

 避難所の一部というには、少し隔離されすぎている。

 

 物置か、作業場か、それとも──

 

 小屋の前まで来たところで、621が不意に足を止めた。

 

 扉の前ではない。

 

 その脇に並んだ、金属製の細長いロッカーの前だった。

 

 錆びはあるが、手入れはされているらしい。

 

 621はポケットから鍵を取り出し、迷いなく一つを開ける。

 

 中から取り出したのは、防護服だった。

 

 重厚だった。

 

 ただの作業着ではない。

 

 厚い灰色の生地に、金属製の留め具と硬い樹脂パーツが幾重にも付いている。

 

 首元は高く、手首も足首も完全に密閉できる構造になっていた。

 

 面体付きの頭巾まである。

 

 災害現場か、汚染区域へ入る人間が着るような代物だった。

 

 誠は思わず眉をひそめる。

 

「……何これ」

 

 621は答えず、まず自分の分を手際よく身につけ始めた。

 

 装備に慣れている動きだった。

 

 腕を通し、胸元を締め、背の留め具を一つずつ固定していく。

 

 迷いがない。

 

 数十秒も経たないうちに、もう半分以上が装着されていた。

 

 その様子を見て、誠の胸の中で小さな警戒が膨らむ。

 

 ただの倉庫ではない。

 

 少なくとも、無防備に入っていい場所ではないのだろう。

 

 621はもう一つの防護服を取り出し、誠へ差し出した。

 

「着て」

 

「……俺も?」

 

「そう」

 

 短い返答だった。

 

 誠は防護服を受け取る。

 

 ずし、と腕に重みが来た。

 

 思っていた以上にしっかりしている。

 

「……本当に着るのか」

 

 ぼやくように言いながら袖を通す。

 

 621はもう自分の装備をほとんど整え終えていた。

 

 面体の留め具を確認し、首元の継ぎ目を指先でなぞる。

 

 その動作がいちいち手慣れている。

 

 誠は少しだけ嫌な気分になった。

 

 こういう装備に慣れているということは、こういう場所に入ることにも慣れているということだ。

 

 621は誠の正面に回ると、無言で胸元の留め具を締め直した。

 

 次いで肩の固定具を押し込み、背中のベルトを一つ引いた。

 

「息、苦しくない?」

 

「……まあ」

 

「なら大丈夫」

 

 最後に透明な面体を被せられる。

 

 視界が一段、遠くなる。

 

 吐いた息が、内側でかすかに白く曇った。

 

 外の音もくぐもる。

 

 自分の呼吸だけが妙に近い。

 

 621は誠を一度頭から足先まで眺め、問題ないと判断したらしい。

 

 それ以上は何も言わず、小屋の扉へ向き直った。

 

 台車は外へ置かれたままだった。

 

 ここから先へは持って入らないらしい。

 

 621が扉の横のレバーを引く。

 

 内部の気圧を調整しているのか、低い排気音が短く鳴った。

 

 それから、重い扉を押し開ける。

 

「入る」

 

 短い一言だった。

 

 誠はごくりと喉を鳴らした。

 

 その音すら面体の中で近く響く。

 

 621の後に続いて、倉庫の中へ足を踏み入れた。

 

 中は、思っていたより広かった。

 

 外から見た掘立小屋の印象より、ずっと奥行きがある。

 

 仮設の壁でいくつかの区画に分けられており、通路には簡易のビニールカーテンまで吊られていた。

 

 ただの物置ではない。

 

 即席ながら、明確に用途ごとに分けられた施設だった。

 

 だが、入った瞬間から空気が違った。

 

 暖房は効いているはずなのに、寒いわけでもないのに、肌の内側がひやりとする。

 

 陰鬱だった。

 

 湿気とも、薬品臭とも、血の匂いともつかないものが混ざり合っている。

 

 そこに、押し殺された呻き声や咳が重なっていた。

 

 誠は一歩進んだところで、無意識に足を止める。

 

 視界の先に並んでいたのは、簡易ベッドだった。

 

 折り畳み式の、簡素な寝台。

 

 それが何列も並んでいる。

 

 そして、そのほとんどすべてが埋まっていた。

 

「……っ」

 

 息が詰まる。

 

 患者だった。

 

 無数の。

 

 ただ具合の悪い人間が横たわっている、という光景ではない。

 

 誠は知っていた。

 

 ここにあるものを。

 

 ここに寝かされている者たちの、その壊れ方を。

 

 灰原の災厄の被害者たちだった。

 

 ベッドの端で背を丸め、胸を掻き毟るようにしながら、ひたすら乾いた咳を繰り返す者がいる。

 

 咳のたびに全身が痙攣し、骨だけになったみたいな肩が跳ねていた。

 

 別の寝台では、拘束具を付けられた男が、低く獣じみた唸り声を漏らしている。

 

 四肢を縛られてなお、布団の上で身を捩っている。

 

 目は焦点を結ばず、口元からは泡が滲んでいた。

 

 さらにその奥。

 

 全身が干からびたように痩せ細り、皮膚が骨へ貼りついた者がいる。

 

 もはや人の形を辛うじて留めているだけだった。

 

 ミイラのように乾いた身体が、わずかに上下している。

 

 かすかな呻きが、喉の奥から漏れるだけだった。

 

 誠は動けなかった。

 

 被害が、集められている。

 

 灰原の災厄が、人の身体をどう壊すのか、その見本市みたいに。

 

 しかも、終わったものではない。

 

 まだ呼吸している。

 

 まだ苦しんでいる。

 

 まだ死にきれていない。

 

 誠の胃の奥が、重く縮む。

 

 面体の内側で呼吸が浅くなる。

 

「……これ、全部」

 

 声が掠れた。

 

 621は少しだけ振り向く。

 

 深紅のレンズ越しの目は、やはり感情が読みにくい。

 

「そう」

 

 短く言う。

 

「避難所に来た、被害者」

 

 それだけで十分だった。

 

 誠は視線を巡らせる。

 

 まだほかにもいる。

 

 布を被せられて、顔だけを出したまま動かない者。

 

 点滴じみた即席の管を腕へ繋がれ、虚ろな目で天井を見ている者。

 

 全身に黒ずんだ斑を浮かべ、寝台の上で小刻みに震える者。

 

 どれも、見覚えがあった。

 

 種類は違う。

 

 壊れ方も違う。

 

 だが根は同じだった。

 

 自分の名を冠した災厄の。

 

 灰原聖杯戦争の。

 

 その爪痕だった。

 

 誠は拳を握る。

 

 防護手袋の中で、爪が掌に食い込む感覚だけが妙に遠い。

 

 621は何も慰めなかった。

 

 何も誤魔化さなかった。

 

 ただ先へ進む。

 

 誠もどうにか足を動かし、その背を追った。

 

 簡易ベッドの列の間を抜ける。

 

 呻き声が近くなり、咳が耳の奥へ刺さる。

 

 面体越しでも、空気の重さは消えなかった。

 

 薬品の匂い。

 

 汗の匂い。

 

 壊れた肉体が発する、言葉にしづらい匂い。

 

 621はその一角で、ふと立ち止まった。

 

 ベッドの一つだった。

 

 そこに横たわる男は、異様なほど静かだった。

 

 他の患者のような咳も、呻きもない。

 

 乾いた顔は天井を向いたまま、まぶたは半ば閉じている。

 

 胸も、もう動いていないように見えた。

 

 621は無駄のない動きでベッド脇へ寄る。

 

 まず手袋をした指先で首元へ触れた。

 

 脈を探る。

 

 数秒。

 

 次に片手でまぶたを持ち上げ、瞳孔の反応を確認する。

 

 手元の小さなペンライトが一瞬だけ光り、すぐ消えた。

 

 それで十分だったらしい。

 

 621は静かにその男のまぶたを閉じた。

 

 それから、ベッドの脇にまっすぐ立つ。

 

 背筋を伸ばし、両手を前で合わせる。

 

 黙祷だった。

 

 倉庫の中には相変わらず咳と呻きがある。

 

 だがその数秒だけ、誠にはその場だけが切り取られたように感じられた。

 

 621は動かなかった。

 

 機械のように無駄のない動きばかり見せていたその背中が、その時だけは妙に人間らしく見えた。

 

 やがて黙祷を終えると、621はベッドの足元に畳んで置かれていた黒い袋を手に取った。

 

 厚手の遺体袋だった。

 

 男の身体を丁寧に、だが滞りなくその中へ収めていく。

 

 雑ではない。

 

 だが情に引きずられてもいない。

 

 幾度も繰り返してきた作業なのだと分かる手つきだった。

 

 最後に顔の高さまでファスナーを引き上げる。

 

 じ、と重い音がして、黒い袋は完全に閉じられた。

 

 そこに、さっきまで人がいた痕跡が消える。

 

 誠は息を呑んだ。

 

 621は袋の端を持ち上げた。

 

 無言のまま顎で誠へ合図する。

 

 手伝え、ということだろう。

 

 誠は一瞬ためらったが、すぐにもう一方の端へ手を掛けた。

 

 重かった。

 

 人一人分の重さ。

 

 生きている人間を支えるのとは違う、どうしようもない重さだった。

 

 二人で倉庫の外へ運び出す。

 

 小屋の外の冷気が、面体越しに触れた。

 

 外に置いていた台車へ黒い袋を載せる。

 

 621は袋がずれないよう一度だけ位置を直し、それから倉庫脇の消毒設備へ向かった。

 

 簡易シャワーのような枠の中へ入る。

 

 誠も促されるまま続いた。

 

 上から細かな霧が降る。

 

 薬剤の匂いが強くなる。

 

 防護服の表面を消毒しているのだろう。

 

 冷たくはないが、肌の奥がざらつくような感覚がした。

 

 終わると、621が自分の留め具を外し始める。

 

 誠も真似をした。

 

 重い面体を外す。

 

 途端に、外の空気がむき出しで肺へ入った。

 

 冷たい。

 

 だが、倉庫の中よりずっと軽い。

 

 首元の固定具を外し、腕を抜き、ようやく防護服を脱ぎ終える。

 

 誠はしばらく何も言えなかった。

 

 黒い袋を載せた台車が、すぐ横にある。

 

 冬の朝の光が、その表面だけを鈍く照らしていた。

 

 621は防護服をロッカーへ戻し、扉を閉める。

 

 相変わらず表情は薄い。

 

 だが先ほどの黙祷の余韻が、まだどこか残っている気がした。

 

 誠は乾いた唇を舐める。

 

「……なんで」

 

 声が少し掠れた。

 

「なんで、俺をここに連れてきた」

 

 621はすぐには答えなかった。

 

 深紅の瞳が一度だけ、黒い袋の載った台車へ向く。

 

 それから誠を見た。

 

「貴方が」

 

 短く区切る。

 

「これから行う選択は」

 

 一拍。

 

「全てを知った上で、行われなければならない」

 

 621は台車の取っ手に掛けていた手を離した。

 

 代わりに、腰のポーチから小さな手帳のようなものを取り出す。

 

 表紙は擦り切れている。

 

 水に濡れた跡のような歪みもあった。

 

 そこへ細いペンを走らせる。

 

 日付。

 

 時刻。

 

 短い記号のような記録。

 

 それは極めて事務的な作業だった。

 

 621は書き終えると、ページを閉じる。

 

「貴方の事情は」

 

 顔を上げる。

 

「概ね、ハンドラーやアーチャーから聞いている」

 

 誠は小さく肩を揺らした。

 

 どこまで知られているのか分からない。

 

 だが今は、そんなことを気にする余裕もなかった。

 

 621は続ける。

 

「どのような選択をするかは、自由」

 

 冬の光がその横顔をかすめる。

 

「けれど」

 

 一拍。

 

「貴方は全てを知り、己の背景を確立する必要がある」

 

 誠は黙っていた。

 

 言葉の意味は分かる。

 

 だが、理解したくない部分もあった。

 

 621の声は変わらない。

 

「世界は」

 

 短く区切る。

 

「自暴自棄の自己犠牲で救えるほど、甘くはない」

 

 誠の胸の奥が、鈍く痛む。

 

 さっき見た光景がまた蘇る。

 

 咳。

 

 呻き。

 

 黒い袋。

 

 消えない現実。

 

 拳が自然に震えた。

 

「……じゃあ」

 

 誠は絞り出すように言った。

 

「ならアンタは世界を救えたのかよ」

 

 視線を上げる。

 

 真正面から問う。

 

「英霊なんだろ」

 

「どうやったんだよ」

 

 風が一度だけ強く吹いた。

 

 小屋の壁がぎし、と鳴る。

 

 621はすぐには答えなかった。

 

 ほんの少しだけ、遠くを見る。

 

 時間が止まったような沈黙だった。

 

 やがて視線を戻す。

 

「……少なくとも」

 

 静かな声だった。

 

「私は、悔いなき選択を行った」

 

 それ以上でも、それ以下でもない調子で言う。

 

「世界が良くなればいい」

 

「そう思って、行動した」

 

 誠は言葉を失う。

 

 それは勝利の話ではなかった。

 

 救済の確証でもなかった。

 

 ただ、自分の選択を引き受けた者の言葉だった。

 

 冬の空気が、肺の奥へゆっくりと入ってくる。

 

 誠は、その時になってようやく、自分が震えていることに気づいた。

 

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