小屋を離れて体育館へ戻るまでの道のりを、誠はほとんど覚えていなかった。
621と別れてからも、足は勝手に前へ出ていた。
冬の空気。
朝の光。
体育館から漏れる暖かな気配。
それらを確かに感じてはいるのに、どこか一枚膜を挟んだ向こう側の出来事みたいだった。
頭の奥にこびりついているのは、倉庫の光景だ。
乾いた咳。
拘束具の軋み。
黒い袋の、重さ。
そして、621の声。
──世界は、自暴自棄の自己犠牲で救えるほど、甘くはない。
その一言が、何度も胸の内側で反響していた。
誠は体育館の入口をくぐる。
途端に、暖かい空気が全身へまとわりついた。
外よりずっと柔らかい。
人の匂いがする。
食べ物の匂いがする。
話し声がする。
避難所の中は、相変わらず生きていた。
毛布を運ぶ者。
炊き出しの鍋を洗う者。
子どもを叱る声。
疲れ切ったまま眠る者。
どれもさっきまで見ていた倉庫とは、あまりにも遠い光景だった。
だが、だからこそ。
ここにいる人々もまた、あの倉庫と地続きなのだと思い知らされる。
誠は無意識に目を伏せた。
少し、眠りたかった。
何かを考える前に。
整理する前に。
とにかく頭の中を一度、止めたかった。
割り当てられた衝立の区画へ向かう足取りは、重かった。
昨夜からの疲労に加え、さっき見たものがそのまま体の芯へ沈んでいる。
歩いているだけなのに、膝から下が鉛みたいだった。
薄い布で仕切られた見慣れた一角が見えてくる。
誠はほとんど安堵に近い気持ちで、その中へ足を踏み入れた。
中には、マレニアとミリセントがいた。
ミリセントは壁際に寄り、静かに目を閉じている。
眠ってはいないのだろうが、消耗を押し隠すように動かなかった。
マレニアは床に座したまま、誠が戻ってきた気配にすぐ顔を上げる。
赤い瞳が、まっすぐこちらを見る。
「にいさま」
ごく自然に呼ばれて、誠はもう訂正する気力も出なかった。
「……ただいま、じゃないけど」
掠れた声でそう返す。
マレニアはわずかに首を傾げたが、それ以上は何も言わない。
その、いつも通りの穏やかさに少しだけ救われかけて──
次の瞬間、誠は足を止めた。
もう一つ、いた。
衝立の奥。
毛布の脇。
薄い光の差し込むその場所に。
女が、立っていた。
いや。
人形だった。
高校の避難所で見た、あの人形。
マリアに酷似した顔立ちの、無機質で、それでいて妙に整いすぎた造形の人形が、そこにいた。
なぜここにあの人形が存在する。
誰かが持ってきたのか。
同じデザインの人形が複数存在しているのか、だとしても、なぜここに。
誠の喉が引きつる。
以前見た時は、ただ座っていたはずだった。
人形らしく。
物らしく。
静かに置かれているだけだったはずだ。
けれど今、その人形は立っていた。
自分の足で。
何の支えもなく。
まるで最初からそうしているのが当然であるかのように。
しかも。
誠と目が合った、その瞬間だった。
人形は、すっと両手を前で揃えた。
それから腰を折る。
丁寧に。
実に行儀よく。
避難所の誰よりも礼儀正しい仕草で。
誠へ向かって、一礼した。
「──お帰りなさいませ」
声がした。
柔らかい。
だが、はっきりと人の言葉だった。
誠は凍りついた。
数秒、呼吸すら忘れる。
「…………は?」
ようやく漏れたのは、そんな間の抜けた一音だった。
人形は顔を上げる。
硝子めいた瞳が、正確に誠を捉えていた。
口元が、ほんのわずかに上がっている。
笑っているのか。
そういう形に作られているだけなのか、判別がつかない。
「お疲れのご様子です。お休みになりますか?」
誠の背筋を、ぞわりと悪寒が走った。
「な──」
半歩、後ずさる。
「しゃ、喋っ……」
言葉が最後まで出ない。
当たり前だ。
人形が。
しかも見覚えのある顔をしたそれが。
当然みたいに立って、頭を下げて、喋っている。
驚くなという方が無理だった。
マレニアは不思議そうに誠を見る。
誠は弾かれたように振り向いた。
「マレニア!」
声が思ったより大きく出た。
周囲のざわめきの中にかき消えはしたが、自分でも驚くほど切羽詰まった調子だった。
「この人形、なんだよ!」
指差す。
「いつの間にここにいた? なんで立ってる? なんで喋ってる?」
矢継ぎ早だった。
頭の中で整理する余裕もないまま、言葉だけが先に飛び出していた。
マレニアは瞬きをする。
ほんのわずか、怪訝そうな表情になる。
「……人形?」
ゆっくりと視線を動かす。
誠が指差している方を見る。
そこには確かに人形が立っている。
マリアに酷似した顔。
整いすぎた造形。
不気味なほど均整の取れた姿。
だがマレニアの反応は、誠が期待したものとは違った。
「それが、どうしましたか」
落ち着いた声だった。
「先ほどからそこにおりますが」
誠の思考が止まる。
「……は?」
「動いてはおりません」
マレニアは続けた。
「にいさま、どうされましたか」
誠の背中に冷たいものが走る。
ゆっくりと人形を見る。
人形は──
こちらを見ていた。
しかも。
明らかに表情がある。
無機質なはずの顔に、ほんの僅かな申し訳なさの色が浮かんでいる。
「……え」
誠は掠れた声を漏らす。
もう一度マレニアを見る。
「いや、今喋っただろ」
「いいえ」
きっぱりと返される。
「声など聞こえておりません」
その言葉には嘘がない。
困惑すらほとんどない。
本当に、何も起きていないと思っている顔だった。
ミリセントも、壁にもたれたまま薄く目を開けている。
だが彼女もまた、特に異常を感じている様子はない。
「……おい」
誠は小さく呟く。
喉が乾く。
「じゃあ、なんだよこれ……」
人形は静かに一歩だけ近づいた。
音はしない。
布の擦れる気配すらない。
だが確かに距離が縮まる。
誠は息を止めた。
マレニアはそれに気付かない。
視線の焦点すら変わっていない。
人形は小さく頭を下げた。
「申し訳ございません」
柔らかな声だった。
誠にしか届かない、という確信がなぜかあった。
「誤解を招く形になってしまいました」
誠は思わず後退る。
「お、お前……」
「私はただの人形です」
穏やかに言う。
その声音は、どこまでも落ち着いていた。
「本来であれば、狩人様方の身の回りのお世話を申し付けられているのですが」
一拍。
「現実においては、私はただの人形。自由に行動することができません」
わずかに目を伏せる。
「このように、認識される形でしか存在を保てないこと、お詫びします」
人形は、ほんのわずかに顔を上げた。
硝子のような瞳が、誠だけを正確に捉えている。
それから、ためらうように問いかけた。
「ところで狩人様は、どちらにいらっしゃいますか?」
誠は一瞬、言葉の意味が分からなかった。
狩人。
少し考えて、自分のサーヴァントが思い至る。
「……マリアのことか?」
恐る恐る尋ねる。
人形は、はっきりと反応した。
ほんの少し。
本当に少しだけ。
声が明るくなる。
「まあ……」
柔らかな吐息のような調子だった。
「今は、そのように名乗っていらっしゃるのですね」
口元が、形だけではない笑みを作る。
どこか安心したような。
懐かしむような響きがあった。
誠はますます混乱する。
「あー、呼ぼうか」
恐らく霊体化し、側に控えているはずのマリアに向かって声を上げた。
「マリア!」
ざわめきの中に声が溶ける。
返事はない。
誠は眉を寄せる。
「……マリア、いるんだろ?」
もう一度呼ぶ。
少し強めに。
だがやはり、何も起きない。
人形は静かに待っている。
マレニアとミリセントは、誠が誰に話しかけているのか分からないまま、ただ様子を見ていた。
誠は舌打ちしたくなる衝動をこらえる。
「おい、出てこいって」
三度目。
今度は苛立ちが混じった声だった。
しばらくの沈黙。
そのあと。
空気が、ほんのわずかに歪んだ。
衝立の外側。
人の流れの影の中から、ゆっくりと女性が姿を現す。
マリアだった。
いつものように音もなく。
だが今回は、どこか動きが鈍い。
歩幅が小さい。
視線が落ちている。
「……お呼びですかね」
ぼそりとした声。
誠は思わず安堵しかけるが、その表情に違和感を覚える。
「なんだよ、いたならすぐ出てこいよ」
マリアは答えない。
代わりに、ちらりと視線を上げる。
その先にいるのは、人形だ。
瞬間。
ほんのわずかに顔が強張る。
すぐ逸らす。
まるで見たくないものを見るように。
人形は、マリアの姿を認めた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
それまで誠へ向けていた穏やかな視線が、静かにその銀髪の少女へ移る。
次の瞬間。
人形は、先ほど誠へ向けたものよりもさらに深く、丁寧に腰を折った。
「──大変、お久しぶりでございます。狩人様」
その声音には、作られた礼儀以上のものがあった。
長い歳月を隔ててなお失われなかった敬意のような。
あるいは、ようやく再会できた相手へ向ける安堵のような響き。
誠は無意識にマリアを見る。
いつもの彼女なら。
薄く唇を歪めて。
相手の懐へするりと入り込むような、慇懃で、それでいて刺を隠した仕草で応じたはずだった。
だが今のマリアは違った。
目を逸らし気味に。
肩をわずかに強張らせたまま。
本当に、気まずそうに。
「……ええ」
それだけ、だった。
短い返事。
妙な含みもない。
妖艶さも、皮肉も、芝居がかった響きもない。
ただ、どう返せばいいのか分からない相手に、最低限の応答だけを返したような声音だった。
誠は目を瞬かせる。
このマリアは珍しい、というより、初めて見る類の反応だった。
「……いや」
掠れた声で言う。
「ちょっと待て」
人形とマリアを交互に見る。
どう見ても、知り合いだ。
何より、外見があまりに酷似している。
だが、その間に流れている空気は親しさというより、もっと複雑な何かだった。
誠は人形を指差した。
「この人形、何者なんだ」
次いで、マリアを見る。
「お前のいた世界の住人……なんだよな?」
マリアはすぐには答えなかった。
視線を人形へ向けることすら避けるみたいに、ほんのわずかに顔を背けている。
人形はそんな彼女の代わりに答えるでもなく、ただ静かに姿勢を戻した。
薄い光の中に立つその姿は、やはり人ではない。
肌も。
指先も。
瞬きひとつの間合いも。
どこか精巧に作られすぎていて、生身の人間よりもかえって現実感が薄かった。
マリアは、しばらく答えなかった。
人形の方を見ない。
けれど、見ていないふりをしているだけで、意識の全てがそちらへ向いているのが分かる。
誠がじっと待っていると、ようやく彼女は小さく息を吐いた。
「……ええ」
ぶっきらぼうだった。
それだけ。
それ以上でも以下でもない、投げるような肯定だった。
誠は眉を寄せる。
「なんだよ……お前達仲悪いのか?」
思わず人形の方へ向き直る。
改めて見ると、本当に似ている。
髪の色も。
顔立ちも。
どこか現実離れした整い方も。
誠はためらいながら口を開いた。
「……君はマリアを模して作られたのか?」
人形は、わずかに首を振った。
「いいえ」
即答だった。
その否定に迷いはなかった。
「私は、造物主様の追う、とある面影を模して作られた存在です」
静かな声。
どこか懐かしい祈りを口にするような調子だった。
誠は一瞬、意味を掴みそこねる。
「造物主様?」
「はい」
人形は穏やかに頷いた。
「私を作られたお方です」
一拍。
「私は、ある喪われた面影の代替として形を与えられました」
誠は無意識にマリアを見た。
マリアは、ますます視線を逸らしている。
肩の線が、ほんの少しだけ硬い。
人形はそんな彼女へ向き直ると、ほんのわずかに微笑んだ。
「けれど」
一拍。
「狩人様が、人の姿を取るにあたり、私の似姿を選んでくださったこと──」
その声が、少しだけ柔らかくなる。
「とても光栄に思います」
沈黙が落ちた。
誠は、数秒遅れてその意味を理解する。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
人形がマリアに似ているのではない。
逆だ。
マリアが。
今のこの姿を取る時に。
この人形に似た姿を選んだ、ということになる。
誠はゆっくりとマリアを見る。
マリアは、完全に項垂れていた。
いつもの彼女なら絶対に見せない反応だった。
皮肉もない。
余裕もない。
ただ、ひたすら気まずそうに、黙って俯いている。
どうやら本当に、隠しておきたかったらしい。
「……おい」
誠の声に、マリアの肩がぴくりと揺れた。
「お前」
「詮索はお勧めしませんよ」
即座に返ってきた。
だがその声音には、いつもの艶やかな余裕がない。
釘を刺すというより、これ以上触れられたくなくて咄嗟に言ったような、妙な硬さがあった。
誠は半ば呆れ、半ば感心する。
「いや、今の流れで気にするなって方が無理だろ……」
人形は、そんな二人のやり取りを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
嬉しそうにも見えるし、困ったようにも見える。
表情の機微があること自体がまだ不気味なのに、今はそれを不気味だと思う余裕も薄れていた。
人形は、なおも穏やかな表情を崩さなかった。
誠とマリアの間に落ちた気まずい沈黙ごと、そっと包み込むみたいに、静かな声で続ける。
「狩人様の、生来のお姿は──」
一拍。
「大変、可愛らしゅうございました」
誠は目を瞬かせた。
その言葉がまず意外だったし、何より当のマリアがぴたりと固まったのが分かった。
人形はどこか遠くを見るように、少しだけ目を細める。
「もう二度と拝見できないのだと思うと、残念でなりません」
柔らかな言い方だった。
からかいではない。
懐かしむような。
失われたものを惜しむような。
そんな響きだった。
だが、マリアには十分すぎるほど効いたらしい。
「……やめなさい」
低い声だった。
いつもの艶も、余裕もない。
ただ本気で触れられたくない場所を突かれた者の声だった。
人形は素直に口を閉ざすかと思われたが、ほんの僅かに首を傾げる。
「ですが事実です」
「やめなさいと言っているでしょう」
今度は少し強かった。
けれど、それでもやはり普段のマリアとは違う。
刺々しさではない。
動揺を押し隠しきれていないだけだ。
誠は二人を見比べる。
可愛らしかった。
生来の姿。
その単語が、頭の中でゆっくり繋がっていく。
人形はさらに、静かに続けた。
「今の振る舞いも、それはそれで大変お美しいのですが」
一拍。
「現役で狩人をなさっていた頃とは、ずいぶん変わられました」
マリアの肩がまた小さく強張る。
誠はそこで、ようやく気づいた。
仲が悪いわけじゃない。
恨みがあるわけでもない。
この気まずさの正体は、もっとずっと単純で、ずっと人間らしいものだ。
目の前の人形は、マリアのかつてを知っている。
今のように妖しく、慇懃無礼で、余裕たっぷりに振る舞う以前の彼女を。
そしてマリアは、その“以前の自分”を知る存在に再会してしまったのだ。
しかも。
自分がその姿を、わざわざ真似るほど意識していた相手に。
「……あ」
誠の口から、小さく声が漏れる。
マリアがぎろりと睨んできた。
「何か?」
「いや」
誠は思わず半歩引く。
「なんか……分かった」
「何がですかね」
「お前が出てくるの渋った理由だよ」
マリアは完全に黙った。
その沈黙が、何より雄弁だった。
誠は頭を掻く。
なるほど、と変に納得してしまう。
憧れていたのだろう。
少なくとも、意識はしていた。
でなければ、今の器としてこの人形の似姿を選んだりはしない。
その相手が突然目の前に現れて、しかも昔のことまで知っていて、平然と「可愛らしかった」とか言い出す。
そりゃ気まずい。
逃げたくもなる。
誠はじっとマリアを見る。
いつもの彼女なら、こんな時こそ妖しく笑って、相手を煙に巻くはずだった。
けれど今は違う。
俯き加減のまま、どうにか平静を装おうとしているだけだ。
その様子があまりに珍しくて、誠は呆れ半分、妙な親しみ半分で息を吐いた。
「……なんだ」
小さく言う。
「そういうことかよ」
「何一つ、そういうことではありません」
即答だった。
だが声が微妙に上ずっている。
誠はもう反論しなかった。
その代わり、人形の方を見る。
「じゃあ」
慎重に問う。
「君は、昔のマリアを知ってるんだな」
「ええ」
人形は静かに頷いた。
「狩人様が、まだ今ほど捻くれておいででなかった頃から」
「……あなた、本当に黙りなさい」
今度のマリアの声には、わずかに羞恥が滲んでいた。
誠は思わず吹き出しかけて、ぎりぎりで堪える。
人形はそんな二人を見つめ、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「ですが、変わられたのだとしても」
一拍。
「こうしてまた、お会いできたことを嬉しく思います」
その言葉だけは、からかいも含みもなかった。
真っ直ぐだった。
マリアは答えない。
答えないまま、ほんの少しだけ顔を背ける。
だが、先ほどまでの露骨な拒絶とは違う。
誠には、それが分かった。
この再会は、マリアにとっても一方的に嫌なだけのものではないのだろう。
ただ、どう受け止めればいいか分からないだけで。
誠は、思わず口元を押さえた。
笑ってしまいそうだった。
もちろん、人形の言葉そのものは笑うようなものではない。むしろ静かで、真っ直ぐで、少し切ないくらいの響きすらあった。
だが、その内容と、それを真正面から受けてひたすら気まずそうにしているマリアの取り合わせが、どうしようもなく可笑しかった。
そして何より。
さっきまで倉庫の光景に押し潰されかけていた胸の内へ、今は別の温度が流れ込んでいた。
やわらかい。
ひどく意外で、拍子抜けするくらいに。
マリアにも、こういう一面があるのか。
そう思えたことが、少しだけ救いだった。
普段は何を考えているのか分からない。
余裕たっぷりで、底の読めない笑みばかり浮かべている。
そんな彼女が、憧れの相手との再会にただ気まずくなって項垂れている。
妙に人間くさい。
その事実が、誠の張り詰めていた心をほんの少しだけ解いた。
その、ほんの少しだけほどけた空気は、確かにそこにあった。
誠の口元にはまだ笑いを堪えた名残があり、マリアは相変わらず項垂れ気味で、人形は静かな満足をたたえたまま立っている。
狭い衝立の中だけ、妙にやわらかな温度が生まれていた。
だが、その温度にまるでついていけていない者たちが二人いた。
マレニアとミリセントである。
マレニアは、誠とマリアのやり取りをじっと見ていた。
いや、正確には“誠と、突然気まずくなったマリア”を見ていた、と言うべきかもしれない。
彼女にとって人形は、そこに置かれているだけの人形でしかない。
動いてもいないし、喋ってもいない。
それなのに誠とマリアだけがその前で妙に複雑な空気になり、時々会話まで成立している。
理解できないのも当然だった。
「……にいさま」
やがてマレニアが、実に真面目な顔で口を開く。
「やはり、お疲れが深いのではありませんか」
誠は吹き出しかけた笑いを咳払いで誤魔化した。
「いや、違うって。俺だけがおかしいみたいに言うなよ」
「ですが」
マレニアは本気で心配しているらしい。
「先ほどから、そこにある人形を挟んで会話が成立しているご様子です」
「実際成立して……いや、気にしないでくれよ」
「ですが……」
誠はもう何をどう説明するのも面倒になって、ただ苦笑するしかなかった。
薄い衝立の中に、しばし奇妙な和やかさが満ちる。
その穏やかさは、長くは続かなかった。
ふいに。
衝立の外から、ざわめきの質が変わる。
さっきまでの避難所の音は、炊き出しの鍋が鳴る音だとか、子どもをあやす声だとか、そういう生活の延長にあるものだった。
けれど今、外で立っているざわめきは違う。
短い叫び。
慌てて走る足音。
何人もの声が、一度に重なる気配。
誠は顔を上げた。
「……なんだ?」
マレニアも、ミリセントも同時に反応する。
マリアは一瞬で表情を引き締めた。
人形だけが相変わらず静かに立っていたが、その視線もまた、衝立の外へ向いているように見えた。
誠は反射的に立ち上がる。
薄い布を払うようにして外へ出た。
すでに周囲は慌ただしくなっていた。
毛布を抱えた女が走っていく。
誰かが通路を空けろと叫ぶ。
体育館の入口近くに、人の輪が急速にできつつあった。
誠は胸騒ぎを覚え、そのまま人波の方へ向かう。
肩と肩の隙間を縫うようにして進み、ようやく前が見えた瞬間。
「……っ」
息が詰まった。
新たな一団が、避難所へ運び込まれてきていた。
だがそれは、自力で歩いて入ってきた集団ではない。
皆、病人だった。
毛布に包まれ、あるいは担架代わりの板へ載せられ、何人もの手でようやくここまで運ばれてきたらしい。
誰一人として、まともに立てていない。
呻いている。
身を捩っている。
起き上がろうとしても起き上がれず、ただ喉の奥から苦しげな音だけを漏らしている。
ある者は腹を抱えたまま、背を折るように丸まっている。
ある者は手足を震わせながら、白目を剥いて浅く息をしていた。
ある者は全身から汗を噴き出し、毛布の上で魚のように口を開閉させている。
顔色はどれも悪かった。
まるで亡者のように干からび、ヒビ割れ、苦しみに喘いでいる。
近くにいた何人かがすぐに膝をついた。
医療の心得がある者たちなのだろう。
「呼吸が浅い、横向きに!」
「押さえて、暴れる!」
「熱が高すぎる……いや、違う、これは……」
手際よく診ていく。
脈を取る。
瞼を開く。
腹を触る。
胸の音を確かめる。
だが、その動きはすぐに焦りへ変わった。
「無理だ……」
その一言で、周囲の空気がさらに冷えた。
誰かが振り向く。
「ウィルソンさんを呼んできてくれ!」
その声は切迫していた。
「早く!」
「ウィルソンさん呼べ!」
避難所の奥へ向かって、何人かが一斉に走り出す。
次の瞬間だった。
一人の病人が、びくりと大きく跳ねた。
毛布の上で背を反らせる。
喉の奥から、もはや人のものとは思えない、濁った悲鳴が漏れた。
「──ぁ、が、ぁぁあああッ!」
診ていた医師が反射的にその肩を押さえる。
「しっかりしろ! 押さえてくれ!」
だが、押さえ込めるような痙攣ではなかった。
病人の全身が、内側から何かに引き裂かれるみたいに脈打ち始める。
腕が跳ねる。
脚が痙攣する。
胸郭そのものが、不自然なほど大きく上下する。
次の瞬間。
皮膚の裂け目でも、口でも、目でもない。
身体中のあらゆる隙間から、暗い何かが溢れ出した。
「──なッ」
誠は息を呑む。
黒かった。
いや、黒とも違う。
光を吸い込むみたいな、湿った闇。
煙のようでいて液体じみており、液体のようでいて無数の虫が絡み合っているみたいに蠢いている。
それが、病人の皮膚を破るでもなく、肉の上から滲み出すように湧き上がってくる。
じゅるり、と。
ぬめった音がした。
暗い何かは床へ零れ落ちることなく、そのまま空中でまとまり始める。
うねる。
巻き付く。
膨れ上がる。
そして。
巨大な腕の形を取った。
人の腕をそのまま肥大させたようなものではない。
節の数が狂っている。
指が長すぎる。
関節がありえない方向へ折れ曲がっている。
なのに、それは明確に「腕」だと分かる形をしていた。
暗く蠢く塊でできた、巨大な右腕。
それが、すぐ近くで診察していた医師へ向かって振り抜かれる。
「危な──」
誰かの叫びより早かった。
ごっ、と。
鈍く、重い音が体育館に響く。
医師の身体が横殴りに吹き飛んだ。
机を巻き込み、床の上を転がり、積まれていた毛布の山へ叩き込まれる。
周囲が一瞬、凍りつく。
だが、凍りついている暇はなかった。
巨大な腕は一撃で終わらない。
さらに膨張していく。
病人の身体を根のように食い破りながら、背後へ、上へ、横へと増殖していく。
暗い塊が筋肉のように盛り上がり、腕に続く肩らしきものが形成され、その下で元の人間の身体が急速に埋没していく。
「下がれッ!」
「離れろ!」
「全員離れろォ!」
叫びが飛び交う。
ようやく人々が我に返ったように、一斉に後退を始める。
子どもの泣き声。
誰かの悲鳴。
倒れた椅子が跳ねる音。
避難所の空気が、一瞬で安息から崩壊へ転じる。
そして。
それで終わりではなかった。
別の病人が、今度は毛布の上でのたうち回り始める。
「っ、あ、あああああ──!」
胸を掻き毟る。
喉を掻く。
だがもう遅い。
その指の隙間からも、同じ暗い何かが溢れ出す。
背を丸めていた者の背骨の辺りが、内側から膨れた。
白目を剥いていた者の口から、黒い塊が舌のように垂れた。
汗を噴き出していた者の全身から、無数の細い触手じみたものが一斉に伸びる。
「嘘だろ……」
誠の口から、かすれた声が漏れた。
倉庫で見た病人たち。
さっき運ばれてきた一団。
そのどれとも、どこか地続きでありながら。
今目の前で起きているこれは、明らかにさらに先だ。
壊れるだけではない。
変貌している。
暗い何かは、それぞれ違う形を取り始めていた。
ある者は四肢を異様に長く伸ばし、床を叩く脚を形成する。
ある者は背中から幾本もの腕を生やし、蜘蛛めいた影になる。
ある者は身体そのものを膨れ上がらせ、人の形を失った黒い肉塊へ変わっていく。
次々と。
怪物へと変貌していく。
床に落ちた点滴台が踏み潰される。
担架がへし折れる。
毛布が黒い腕に絡め取られ、引き裂かれる。
最初に腕を生やしたそれが、再び咆哮した。
もう患者の声ではない。
人の喉が出していい音ではなかった。
それを合図にしたみたいに、他の“それら”も一斉に蠢き出す。