Fate/You Died.   作:助兵衛

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第89話 持ち込まれた概念

 弦一郎は、間合いを詰める。

 

 一歩。

 

 音はほとんどしない。だが、その一歩で空気が変わる。

 

 掌の炎が、揺れる。

 

 さきほどよりも、明らかに強い。熱が皮膚の内側から湧き上がるように広がり、指の隙間から赤い光が漏れる。

 

 弦一郎の視線が、そこへ一瞬だけ落ちる。

 

 だが、それだけだ。

 

 興味を示すでもなく、警戒を深めるでもなく、ただ“確認した”だけの動き。

 

「……抵抗するか」

 

 低く、平坦な声。

 

 問いではない。確認ですらない。ただ、事実の整理。

 

 誠は笑う。

 

 喉の奥で、無理やり引き絞るように。

 

「当たり前だろ」

 

 炎が、さらに強まる。

 

 掌だけでは足りない。指先から手首、肘へと熱が走り、両腕が赤く染まっていく。

 

「今更俺を捕まえてどうするつもりなんだよ、あの金色のやつはアーチャーを殺して満足したんだろ」

 

 誠の問いに、弦一郎は即答しなかった。

 

 ただ、もう一歩。

 

 間合いが、さらに削れる。

 

 刃はまだ動かない。だが、その沈黙自体が圧となって押し寄せる。

 

 やがて。

 

「……聖杯を満たす為だ」

 

 短く、断言する。

 

 感情はない。ただ、目的を述べただけの声音。

 

 誠の眉がわずかに動く。

 

 弦一郎は続ける。

 

「混沌としたこの灰原においては、放置していても争いは尽きぬ」

 

 一拍。

 

 視線は逸らさない。

 

「人は勝手に殺し合い、勝手に死ぬ。いずれ器は満ちるだろう」

 

 淡々とした事実の列挙。

 

 だが。

 

 その次の言葉に、僅かな苛立ちが滲んだ。

 

「……だが、俺はそれを悠長に待つつもりはない」

 

 刀が、わずかに沈む。

 

 構え。

 

 先ほどまでの静止とは違う、“来る”という明確な兆し。

 

「必要な分は、こちらから取りに行く」

 

 言い切ると同時に──消えた。

 

 いや、違う。

 

 踏み込んでいる。

 

 速い、という認識すら遅れる。

 

 空気が裂ける音と同時に、弦一郎の姿が誠の視界いっぱいに迫る。

 

「──ッ!」

 

 誠の身体が反応するより先に、炎が爆ぜた。

 

 咄嗟に両腕を振るう。

 

 迎撃。

 

 だが、遅い。

 

 刃が走る。

 

 斜めに。

 

 肩口を狙う軌道。

 

 誠は無理やり身体を引く。完全には避けきれない。

 

 炎をぶつける。

 

 衝突。

 

 焼ける音と、鋼が滑る音。

 

 だが、今度は弦一郎が止まらない。

 

 一撃で終わらせるつもりがない。

 

 次。

 

 返しの刃。

 

 低い軌道。

 

 脚を狙う。

 

 誠は踏み込んで避ける。

 

 後ろではない。前へ。

 

 距離を詰める。

 

「──来いよ!!」

 

 叫びと共に、拳を叩き込む。

 

 炎が圧縮され、爆ぜる寸前の塊となって振り抜かれる。

 

 だが。

 

 弦一郎は、半身をずらすだけでそれを躱す。

 

 拳は空を裂き、熱が背後へ流れる。

 

 その瞬間。

 

 刃が、誠の腕に絡むように滑った。

 

「──ッ、ぐ……!」

 

 浅い。

 

 だが、確実に切られる。

 

 血が飛ぶ。

 

 握力が揺らぐ。

 

 弦一郎は、そのまま踏み込む。

 

 完全に内側。

 

 逃げ場を潰す位置。

 

「まずはその腕からだ」

 

 刃が、振り下ろされる。

 

 ためらいはない。狙いも正確。肘から先を断ち落とす、最短の軌道。

 

 誠の視界が、赤く染まる。

 

 炎か、血か、それとも恐怖か──判別する前に。

 

 空気が、歪んだ。

 

 次の瞬間。

 

 轟音。

 

 爆ぜるような衝撃と共に、横合いから叩き込まれた“何か”が、弦一郎の身体をまとめて弾き飛ばした。

 

「──ッ!?」

 

 斬撃は空を切る。

 

 弦一郎の身体が、数メートル先の瓦礫へと叩きつけられ、砕けた石片が跳ねる。

 

 間を置かず。

 

 重い着地音。

 

 鈍く、しかし圧倒的な質量を伴ったそれが、誠と弦一郎の間に割り込むように降り立った。

 

 誠は思わず息を呑む。

 

「紫村!」

 

 人型ではあるが、人ではない。

 

 鋼。

 

 関節部から低い駆動音が漏れ、装甲の隙間からは淡く光るラインが走っている。全高は十メートルを超える。無骨で、機能のみを突き詰めたような造形。

 

 人形兵器──AC。

 

 その頭部が、ぎこちなくこちらを向く。

 

『灰原氏! 御無事ですか!」

 

 ノイズ混じりの声。

 

 聞き覚えのある声。

 

「助かった! いいなそれ……紫村が操縦してるのかよ」

 

『ええ、621ちゃんが操縦出来なくなってしまったので──うおっとと」

 

 機体がぐらりと揺れる。

 

 一歩踏み出そうとして、床を踏み砕きかけて止まる。バランスを取り直す動きもどこかぎこちない。

 

 だが。

 

 その右腕が持ち上がる。

 

 大型のライフル。

 

 人間が持つには明らかに過剰なサイズのそれが、駆動音と共に弦一郎へと向けられる。

 

『えーとえーと、ロックオンがこれで、発射が……あ、こっち? 』

 

 照準が、自動で弦一郎を捉える。

 

 次の瞬間。

 

 発砲。

 

 轟音。

 

 衝撃。

 

 通常の銃撃とは比較にならない速度と質量を持った弾丸が、一直線に弦一郎へと叩き込まれる。

 

 弦一郎は、跳ぶ。

 

 反応自体は速い。

 

 だが。

 

 完全には避けきれない。

 

 弾丸が肩口を掠め、装束を裂き、背後の瓦礫を粉砕する。

 

 爆ぜる。

 

 石と鉄が飛び散る。

 

 間を置かず、二発目。

 

 三発目。

 

『お、おおおこれ止まりませんぞ!? 』

 

 秀則の悲鳴混じりの声とは裏腹に、ライフルは正確に弦一郎を追い続ける。

 

 回避。

 

 着地。

 

 即座に次弾が飛来。

 

 刀で弾くには、質量が違いすぎる。

 

 受ければ砕かれる。

 

 弦一郎は一歩、二歩と後退を強いられる。

 

 距離が、開く。

 

 やがて。

 

 弾幕が一瞬途切れたところで、弦一郎は大きく跳び、さらに距離を取った。

 

 着地。

 

 静止。

 

 刀は下げない。

 

 だが、踏み込んでこない。

 

 その視線が、ゆっくりとACへ向けられる。

 

「……なるほど」

 

 低く、呟く。

 

 先ほどまでの“処理対象”を見る目ではない。

 

 明確に、“未知”を測る視線。

 

 瓦礫の煙が晴れる中で、弦一郎はわずかに目を細める。

 

「個の技量ではどうしようもない、別世界かつ遥か未来の技術か」

 

 足は動かない。

 

 距離を保ったまま、思考している。

 

 斬れるか。

 

 届くか。

 

 間合いは。

 

 速度は。

 

 耐久は。

 

 だが、結論はすぐには出ない。

 

 沈黙は、長く続かなかった。

 

 弦一郎の視線が、ゆっくりと横へ流れる。

 

 誠でも、ACでもない。

 

 そのさらに奥──瓦礫の山、その中心へ。

 

 かつて、マリアとマレニアによって打ち倒されたはずの“大男”。

 

 半ば埋もれた巨体は、依然として動かない。

 

 呼吸だけが、微かに上下している。

 

 弦一郎は一瞬だけ思案し──次の瞬間、迷いを断ち切るように地を蹴った。

 

 一直線。

 

 誠でも、ACでもない。

 

 別の“戦力”へと。

 

「──っ、逃げる気か!?」

 

 誠が叫ぶ。

 

 だが、弦一郎は振り返らない。

 

 瓦礫を蹴り砕き、そのまま大男のもとへと滑り込む。

 

 そして。

 

 躊躇なく、その巨体の側へ膝を落とし──

 

 叩きつけるように、掌を打ち込んだ。

 

「──異界の神よ」

 

 低く、しかし鋭く。

 

 命令に近い呼びかけ。

 

「いつまで寝ている!」

 

 衝撃。

 

 鈍い音が、巨体の内部へと響く。

 

 一拍。

 

 何も起きない。

 

 だが。

 

 次の瞬間。

 

 瓦礫が、軋んだ。

 

 ゆっくりと。

 

 本当にゆっくりと。

 

 埋もれていた巨体が、動く。

 

 まず、指先。

 

 次に、肩。

 

 押し上げる。

 

 瓦礫が、音を立てて崩れ落ちる。

 

 粉塵が舞い上がる中で、大男は自らを覆っていた破片を払いのけるように腕を動かし──そのまま、上体を起こした。

 

「……ッ」

 

 誠の喉が鳴る。

 

 ありえない。

 

 そう思うより早く、現実が目の前で進行する。

 

 あれだけの損壊を受けて。

 

 なお。

 

 何事もなかったかのように。

 

 大男は、首を回した。

 

 ごきり、と鈍い音。

 

 続いて、肩。

 

 腕。

 

 関節を確かめるように、一つずつ動かしていく。

 

 まるで、眠りから覚めた直後のような動作。

 

 傷は、残っている。

 

 だが、それが機能に影響している様子はない。

 

 弦一郎は、その様子を一瞥すると、すぐに立ち上がる。

 

「戦え」

 

 それだけ告げる。

 

 命令。

 

 説明も、補足もない。

 

 だが。

 

 大男は応じる。

 

 ゆっくりと視線を上げ──

 

 その目が、戦場を捉える。

 

 そして。

 

 側に転がっていた“それ”へと手を伸ばした。

 

 特大双剣。

 

 人間が扱うことを前提としていない質量と長さを持つそれを、片手で持ち上げる。

 

 もう一振りも。

 

 両手に収まる。

 

 構え。

 

 重さを感じさせない。

 

 むしろ、それが“本来の状態”であるかのように自然だった。

 

 次の瞬間。

 

 踏み込む。

 

 地面が砕ける。

 

 巨体が、信じがたい速度で加速する。

 

「──来るぞ!」

 

 誠の叫び。

 

 だが、すでに遅い。

 

 大男の進行方向は──

 

 AC。

 

『えっ、ちょ、ちょっと待ってください今リロード中で──』

 

 秀則の声が裏返る。

 

 ライフルの駆動音が一度止まり、再装填の動作に入っている。

 

 動きが、鈍る。

 

 その隙を──

 

 見逃さない。

 

 大男は一気に距離を詰める。

 

 直線。

 

 遮蔽物を無視する軌道。

 

 瓦礫を踏み砕き、粉塵を巻き上げながら、一直線に迫る。

 

「──ッ、紫村!!」

 

 誠が叫ぶ。

 

 炎が、爆ぜる。

 

 だが、間に合わない。

 

 間合いが違う。

 

 速度が違う。

 

 そして。

 

 質量が、違う。

 

 大男は、両手の双剣を同時に振り上げた。

 

 斬撃ではない。

 

 叩き潰す軌道。

 

 機体ごと粉砕するための一撃。

 

 振り下ろされた双剣は、もはや“斬る”ためのものではなかった。

 

 質量そのものを叩きつけるような一撃が、リロードのためにわずかに動きの止まったライフルへと直撃する。次の瞬間、耳をつんざくような金属破砕音が避難所全体に響き渡り、巨大な銃身が根元からひしゃげ、砕け、無数の破片となって四散した。

 

『うわああああっ!?』

 

 秀則の悲鳴が、ノイズ混じりに響く。

 

 ACの右腕が大きく弾かれ、装甲表面に火花が走る。機体は辛うじて転倒を免れたものの、踏みとどまるだけで精一杯だった。

 

 操縦桿を握る秀則は明らかにまだ機体を扱いきれていない。動かすたびに一瞬遅れ、重心移動はぎこちなく、反撃の機を掴んでもそれを十全には活かせない。

 

 それでも、ACの兵器としての性能そのものは圧倒的だった。

 

 肩部のサブユニットが大男を牽制するように火線を走らせる。近接信管付きの小型弾が連続で炸裂し、大男の進路を僅かに乱す。人間相手ならそれだけで勝負は決していただろう。だが、今対峙しているのは、マレニアすら単独では決着に至れなかった怪物である。

 

 大男は爆発の中を強引に踏み抜いてくる。

 

 片方の双剣を振り抜き、ACの左脚をかすめる。装甲板が抉れ、火花と共に鉄片が飛び散った。秀則は慌てて後退を試みるが、脚部スラスターの出力調整に手間取り、動きが半拍遅れる。その隙を見逃さず、大男はさらに踏み込んでくる。

 

『ちょ、ちょっと待ってください待ってください待ってください無理ですぞこれ!!』

 

 半ば泣き声のような叫び。

 

 だが、ACはそれでも戦場に立っていた。自動補正に助けられ、最低限の回避と牽制を繰り返し、なんとか粉砕だけは免れている。操縦者の未熟さを機体性能が無理やり埋めている状態だったが、それでもなお劣勢であることは誰の目にも明らかだった。

 

 その混乱の只中。

 

 弦一郎が、再び動く。

 

 鬼と大男、そしてACの激突が生み出す轟音と粉塵に紛れ、彼は音もなく間合いを詰めていた。誠が気づいた時には、すでに数歩先にその姿がある。

 

「──ッ!」

 

 炎を宿した両手を構え直す。

 

 だが、先ほどまでと違い、弦一郎は真正面から来ない。視線を逸らさせ、意識を戦場全体へ広げさせたうえで、その隙間を縫うように滑り込んでくる。

 

 刀が、持ち上がる。

 

 今度こそ。

 

 そう誠が悟った瞬間だった。

 

 風が鳴る。

 

 いや、それは風ではない。何かが空気そのものを裂いて通過した音だ。

 

 弦一郎の表情が、初めて変わる。

 

 ごく僅かに。

 

 しかし確かに。

 

 驚愕が、その目に走った。

 

 次の瞬間。

 

 左腕が、宙を舞った。

 

「──なに」

 

 鈍い音を立てて、切り落とされた腕が地へ転がる。血が遅れて噴き出し、弦一郎の身体がわずかによろめく。斬った軌道はあまりにも鋭く、あまりにも正確で、誠には刃そのものすら見えなかった。

 

 そこにいた。

 

 いつの間にか。

 

 弦一郎の死角、そのさらに裏側に。

 

 忍装束。

 

 気配は薄く、しかし完全には消えていない。存在を感じさせないのではなく、感じた時にはもう遅い──そういう類の“在り方”だった。

 

 アサシン。

 

 藍沢紗月のサーヴァント。

 

 弦一郎から距離を取るように一歩退いたその影は、血のついた刃を無言で払い、次の一撃に備えるように低く構える。

 

「……なるほど、意趣返しのつもりか狼よ」

 

 弦一郎が、後退する。

 

 左腕を失ったまま、しかし崩れない。痛みに顔を歪めることもなく、ただ静かに傷口を一瞥し、相手の位置を確かめるように視線を動かす。その動作にはなお余裕があったが、先ほどまでの一方的な圧は明らかに削がれていた。

 

 その直後。

 

 別の足音が駆け寄ってくる。

 

「灰原くん!」

 

 藍沢紗月だった。

 

 乱れた息のまま、しかし迷うことなく誠の側まで駆け寄る。周囲の惨状を一瞥し、誠の腕の傷、血、炎、そして目の前に立つ弦一郎を一瞬で確認したあと、彼女は誠の顔をまっすぐ見た。

 

「無事!? 怪我は!?」

 

「ありがとうございます! なんとか!」

 

 弦一郎は、そのわずかな静止のあいだに周囲を見た。

 

 右では、鬼と化した仏師をマリアとマレニアが抑えている。正面から叩き潰そうとする鬼に対し、マレニアが鋭く踏み込み、その剣で軌道を逸らし、そこへマリアが横合いから叩き込む。だが、怪物の質量と狂奔はそれだけで止まるものではなく、二騎がかりでなお押し返し切れていない。

 

 左では、大男とACが激突している。

 

 秀則の操縦はまだ危うい。機体性能に助けられて辛うじて戦線を維持しているだけで、まともな白兵戦に移られれば押し切られるのは時間の問題だった。621も機内から援護に回っているのだろうが、あの怪物に対しては決定打になっていない。

 

 そして中央。

 

 誠。

 

 藍沢紗月。

 

 アサシン。

 

 ここが、いま最も読みづらい。

 

 弦一郎は流れ落ちる血を気にも留めず、ゆっくりと息を吐いた。左腕を失ってなお、その眼差しは鈍らない。むしろ状況が悪化したことで、思考だけがより鋭く研がれていくようだった。

 

「……混迷か」

 

 誰に聞かせるでもなく、低く呟く。

 

 その声音には焦りよりも計算があった。聖杯を満たすための争乱は確かに生じている。だが、自らの手で主導するはずだった混沌が、いまや制御しきれぬ濁流となって場を呑み込もうとしている。目的そのものは遠のいていない。むしろ近づいているはずなのに、掌の内からは確実に零れ始めていた。

 

 その思案を断ち切るように、アサシンが動いた。

 

 音もなく。

 

 影が剥がれるように。

 

 一歩目を認識した時には、もう二歩目は終わっている。低く滑り込み、弦一郎の懐へ潜る。その刃は派手ではない。むしろ忍びらしく、最短で、最小の動きで急所だけを奪いに来る。

 

 弦一郎は後退せず、ただ刀をわずかに立てた。

 

 甲高い金属音。

 

 火花が散る。

 

 刃と刃が噛み合った、その一瞬に、アサシンはすでに次の一手へ移っている。肩口、膝、喉、脇腹。急所を繋ぐような連撃は、正面から力で押すものではなく、相手の対応そのものを破綻させるためのものだった。

 

 弦一郎は片腕を失った不利を抱えながらも、なお捌く。

 

 足運びだけで半身をずらし、刀一本で最小限に受け流す。その技量は、負傷してなお常軌を逸していた。だが、それでもさきほどまでの一方的な圧ではない。確かに、手数が減っている。選べる選択肢が狭まっている。

 

 アサシンの刃が頬を掠めた瞬間、弦一郎はかすかに目を細めた。

 

「……やはり縁というのは存在するようだな、狼よ」

 

 吐き捨てるような言葉だった。

 

 皮肉か、因縁への嘲笑か、あるいはこの再会そのものへの苛立ちか。だが、その声の底にあるものは明白だった。こいつは厄介だ──そう認めた者だけが滲ませる、冷たい警戒。

 

 アサシンは答えない。

 

 答える必要がないのだろう。呼吸も、構えも、視線すら乱さず、次の一撃のためだけにそこに在る。

 

 弦一郎は、刃を合わせながら考えている。

 

 鬼はまだ暴れている。大男も止まっていない。ACは劣勢だが、すぐには潰れない。誠は傷を負ってなお炎を維持している。紗月が加わったことで、奪取対象に寄るだけでも一手足りない。しかもその前には、この“狼”がいる。

 

 アサシンの刃と弦一郎の刀が噛み合い、火花を散らしながら均衡を保っていた、まさにその時だった。戦場の別の場所で生じていた歪みが、ついにこちらへ雪崩れ込んでくる。

 

 まず響いたのは、重い駆動音だった。

 

 ただの足音ではない。鋼鉄の巨体が無理やり姿勢を立て直しながら後退し、そのたびに床と瓦礫を踏み砕いていく鈍い震動。続いて、それを追うように大男の咆哮じみた息遣いと、双剣を引きずるような金属音が重なった。

 

 誠が顔を上げるより早く、秀則の悲鳴混じりの通信が飛び込んでくる。

 

『ちょ、ちょ、来る来る来る! 全然止まってくれませんぞ──!』

 

 ACが後退している。

 

 いや、後退しようとしている、と言った方が正しい。秀則は必死に距離を取ろうとしているが、操縦はまだ荒く、逃げの軌道すら安定しない。そこへ、大男が容赦なく詰めてくる。特大双剣を振りかざした巨躯は、炸裂するサブユニットの火線をものともせず、ひたすら前へ出ることだけに特化した災害だった。

 

 そして、その進路の延長線上に──

 

 弦一郎とアサシンが、いた。

 

「……ッ」

 

 さすがに弦一郎も、迫ってくる質量の奔流を無視はできない。刀を押し込み、アサシンを弾くように間合いを切ろうとする。アサシンもまた即座に離脱しようとしたが、戦場の混線は、その一瞬の判断すら許さなかった。

 

 ACの巨体が滑り込む。

 

 その背後から大男が突っ込む。

 

 逃げる鋼鉄と、追う怪物。二つの暴力が、鍔迫り合っていた二人の位置へ丸ごと雪崩れ込んだ。

 

 轟音。

 

 弦一郎とアサシンの身体が、ほとんど同時に吹き飛ばされる。

 

 アサシンは辛うじて身を捻り、衝撃を流すように着地を試みる。だが弦一郎は片腕を失っているぶんだけ体勢制御が遅れ、瓦礫の上を大きく滑った。

 

 その余波が、誠たちへも襲いかかる。

 

「灰原くん、下がって!」

 

 紗月が咄嗟に前へ出る。

 

 誠を庇うように両腕を広げ、そのまま立ちはだかる。だが、押し寄せる風圧と破片と衝撃は、人ひとりの身体で受け止められる類のものではなかった。

 

「──先輩!」

 

 誠が手を伸ばす。

 

 だが、届かない。

 

 勢いそのものに引き裂かれるように、二人の身体は別方向へ弾かれた。誠は肩から床へ叩きつけられ、紗月はさらに奥へと押し流される。視界が揺れ、肺から空気が抜ける。

 

 一瞬。

 

 本当に一瞬だけ。

 

 誠は完全に無防備になった。

 

 その隙を、弦一郎は見逃さない。

 

 瓦礫の上で体勢を崩しながらも、なお視線だけは戦場を捉えていたのだろう。転がりながら起き上がり、片腕を失った身でなお、獣じみた速度で誠へと踏み込んでくる。

 

「……捕えたぞ、小僧」

 

 低い声と共に、手が伸びる。

 

 刀ではない。

 

 残った右手。

 

 誠の腕を、掴む。

 

 指が食い込むほどの力だった。引き寄せられる。誠は反射的に炎を灯そうとするが、直前の衝撃で体勢が悪い。足が踏ん張れない。

 

 だが。

 

 その瞬間、弦一郎の動きが止まった。

 

「……失礼」

 

 声が、背後から落ちる。

 

 ぞっとするほど静かな、しかし明確な怒気を含んだ声。

 

「私のマスターに、なにか?」

 

 ぬっ、と。

 

 本当に、そんな言葉が似合うほど自然に。

 

 弦一郎の背後に、マリアが現れていた。

 

 誠は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。つい先ほどまで、鬼と化した仏師をマレニアと共に抑えていたはずの彼女が、なぜここにいるのか。その移動を、誰ひとり認識できていない。

 

 弦一郎が振り返るより早く、マリアの手がその肩へ置かれる。

 

 いや、“置かれた”ように見えただけで、実際には掴んでいた。

 

 がっしりと。

 

 逃がさぬように。

 

 次の瞬間。

 

 握る。

 

 ただ、それだけだった。

 

 だが、その力は人のものではない。

 

 鈍い破砕音が響く。

 

 弦一郎の鎧の肩口が、まるで乾いた木片のようにひしゃげ、砕けた。金属片が弾け飛び、下の肉と骨にまで凄まじい圧が食い込む。

 

「──ッこの……怪物めが」

 

 初めて、弦一郎の表情が大きく歪む。

 

 痛みか、驚愕か、その両方か。

 

 マリアは返り血と疲労に塗れたまま、しかしいつもの静かな目で彼を見ていた。その眼差しには、怒りすらなかった。ただ“自分のマスターへ手を出した者”を処理しようとする、単純で冷たい意志だけがある。

 

 弦一郎は歯を食いしばる。

 

 砕けた肩口から鈍い痛みが走り続けている。だが、その痛みに足を止めるような男ではない。

 

 むしろ。

 

 この状況でなお、最適解を選び取る。

 

「……役目は必ず遂行する」

 

 低く、誰にも聞かせぬ独白。

 

 次の瞬間。

 

 誠の腕を掴んだまま、強引に身体を捻る。

 

 マリアの拘束から逃れるためではない。あくまで“持ち帰る”ための動き。肩を握られたままでも構わない、腕一本と引き換えでも構わない──その覚悟で、誠を連れてその場から離脱しようとする。

 

「──っ、離せ!」

 

 誠が反射的に身を捩る。

 

 炎が揺れる。だが体勢は崩れたまま、力はうまく乗らない。

 

 その瞬間だった。

 

 ぽとり、と。

 

 何かが零れ落ちる。

 

 小さな音。

 

 戦場の轟音の中では、本来なら誰も気づかないほどの微細なそれ。

 

 だが、誠の視界にははっきりと映った。

 

「……あ」

 

 布に包まれた、小さな塊。

 

 ほどけた端から、鈍い金色が覗く。

 

 無垢金の針。

 

 それが、瓦礫の上に転がった。

 

「──あ!」

 

 反射的に。

 

 考えるより早く、誠は手を伸ばしていた。

 

 弦一郎の拘束も、その一瞬だけは緩む。完全に無防備な動きだった。

 

 指先が、触れる。

 

 ほんの、わずかに。

 

 布の隙間から露出した針先に。

 

 ちくり、と。

 

 軽い痛み。

 

 次の瞬間。

 

 血が、一滴。

 

 針の上へと落ちた。

 

 その瞬間だった。

 

 ──軋む。

 

 誠の内側で、何かが。

 

 骨でも、肉でもない。

 

 もっと深いところ。

 

 構造そのものが、歪むような感覚。

 

「……ッ、な……に、これ……」

 

 言葉にならない。

 

 思考が追いつかない。

 

 ただ、確実に。

 

 何かが“外れていく”。

 

 結びついていたものが、ほどけるのではない。

 

 根元から、断ち切られる。

 

 引き剥がされる。

 

 崩壊する。

 

 それと同時に。

 

 マリアが、動きを止めた。

 

「……あ」

 

 極めて小さな声。

 

 弦一郎の肩を掴んでいた手の力が、わずかに緩む。

 

 その理由を、本人すら理解していないような。

 

 そんな、不自然な空白。

 

 誠の中で、完全に何かが切れた。

 

 ──契約。

 

 マリアとのサーヴァント契約が。

 

 音もなく、消失する。

 

 本来であれば。

 

 それはただ魔力供給の経路が断たれるだけのはずだった。

 

 サーヴァントは即座に消えない。現界を維持する術はまだある。霊基は保たれる。

 

 だが。

 

 今回は、違った。

 

「……なん、で」

 

 マリアの身体が、揺れる。

 

 崩れる。

 

 粒子が零れる。

 

 肩口から。

 

 指先から。

 

 まるで、形を維持する意味そのものを失ったかのように。

 

 さらさらと。

 

 砂のように。

 

 霊基が、崩壊していく。

 

 弦一郎の目が、初めて見開かれる。

 

「……何だ、これは」

 

 理解不能。

 

 状況が逸脱している。

 

 契約の消失だけでは説明がつかない現象。

 

 マリアは、ゆっくりと誠を見る。

 

 その瞳は、いつもと変わらない。

 

 静かで。

 

 どこか遠くを見ているようで。

 

 だが。

 

 その奥に、ほんの僅かだけ。

 

 “理解できない”という色が混じっていた。

 

「……その、針は」

 

 声が、かすれる。

 

 言葉は、最後まで続かなかった。

 

 マリアの身体が、揺らぐ。

 

 崩れが、急に早まる。

 

 肩から、腕がほどける。指先は形を失い、光の粒となって零れ落ちていく。

 

 それでも。

 

 彼女は、誠を見ていた。

 

 何かを言おうとしている。

 

 唇が、わずかに動く。

 

 だが、音にはならない。

 

 喉が、もう機能していない。

 

 声を作るための器官そのものが、崩れ始めている。

 

 それでもなお。

 

 伝えようとする意志だけが、そこに残っている。

 

 視線が、揺れる。

 

 ほんの一瞬、針へ。

 

 すぐに、誠へ戻る。

 

 何かを理解したような──あるいは、何かに気づいたような。

 

 だが。

 

 それを言葉にする時間は、もうない。

 

 口が開く。

 

 しかし。

 

 そこから零れるのは、音ではなく、光だった。

 

 さらさらと。

 

 砂のように。

 

 粒子が、崩れていく。

 

 頬が消え、輪郭が失われ、片目がほどける。

 

 それでも。

 

 最後まで。

 

 その残った視線だけは、誠を捉えていた。

 

 呼びかけるように。

 

 あるいは、ただ見届けるように。

 

 そして。

 

 次の瞬間。

 

 完全に、消えた。

 

「は……?」

 

 振り下ろされた双剣が大地を叩き潰し、爆ぜた衝撃が戦場全体を揺らす。

 

 その直前まで、確かに“あった”ものが──マリア消えていた。

 

 空間を満たしていたはずの圧。息を詰まらせるような、あの異質な存在感。常に背後から見られているような、逃げ場のない圧迫。

 

 それが、唐突に消失している。

 

 まるで、そこに立っていた“何か”が最初から存在しなかったかのように。

 

 だが、その空白は軽くはなかった。

 

 むしろ逆に──何かが決定的に失われたことだけが、嫌でも理解できる沈黙を残していた。

 

 弦一郎は、その変化を一瞬で把握する。

 

 視線がわずかに揺れ、戦場全体を走査する。鬼、大男、AC、忍──そして。

 

「何が起こった……消えた?」

 

 短く、呟く。

 

 あの圧の正体──マリアの霊基が、完全に消滅したことを確認する。

 

 今この瞬間、わずかな“余白”が生まれている。

 

 その余白を、弦一郎は迷わず掴んだ。

 

 踏み込む。

 

 音はない。

 

 ただ一瞬で、誠の間合いへと滑り込む。

 

「──ッ!」

 

 誠が反応する。

 

 炎を振るおうとした、その動きごと。

 

 弦一郎の手が、腕を掴む。

 

 抵抗する暇すら与えないまま、そのまま肩へ担ぎ上げた。

 

「離せ……ッ!!」

 

 誠が暴れる。

 

 肘を打ち込み、脚を振り上げ、炎を巻き込んで叩きつける。

 

 だが、弦一郎の動きは揺るがない。

 

 担ぎ上げたまま、歩き出す。

 

 その足取りに迷いはない。

 

「……邪魔は消えた」

 

 低く、独り言のように呟く。

 

 誠はなおも抗う。

 

 歯を食いしばり、無理やり身体を捻る。肩から滑り落ちようとするが、掴まれた腕が逃がさない。

 

「──ふざけるな……ッ!」

 

 炎が再び強まる。

 

 だが。

 

 次の瞬間。

 

 視界の端で、弦一郎の手が動いた。

 

 布。

 

 何の変哲もない、小さな布切れ。

 

 それが、迷いなく誠の口と鼻を覆う。

 

「──っ!?」

 

 反射的に、空気を吸い込む。

 

 そして──違和感。

 

 甘い。

 

 かすかに、薬品の匂い。

 

「……ッ、てめ──」

 

 言葉が途切れる。

 

 肺がうまく動かない。

 

 力が抜ける。

 

 抗おうとする意志とは裏腹に、身体が従わなくなる。

 

 指先が震える。

 

 炎が揺らぐ。

 

 視界が、ぼやける。

 

「……ぐ、ぁ……」

 

 振り払おうとする。

 

 だが、腕は重く、動きが遅れる。

 

 心臓の鼓動だけがやけに強く響き、その一拍ごとに意識が沈んでいく。

 

 遠くで、何かが砕ける音。

 

 誰かの叫び。

 

 金属の衝突音。

 

 すべてが、水の底へ沈むように遠ざかる。

 

 遠ざかっていく音の中で、誠の意識はゆっくりと沈みかけていた。

 

 輪郭が曖昧になる。

 

 光も、影も、敵も味方も、すべてが混ざり合っていく。

 

 それでも──完全には落ちきらない。

 

 何かが、引っかかっている。

 

 視界の端。

 

 揺れる世界の中で、ひどく不自然に“そこだけ”がはっきりしていた。

 

 地面。

 

 瓦礫の隙間。

 

 そこに転がっている、小さな金の光。

 

「……」

 

 呼吸が浅い。

 

 肺がうまく動かない。

 

 それでも、誠の目だけはそこに向く。

 

 無垢金の針。

 

 さっきまで、自分のポケットにあったもの。

 

 それが今、無造作に地面へ落ちている。

 

 理解は遅れる。

 

 思考はまとまらない。

 

 だが──直感だけが、異様な強さで訴えていた。

 

 あれは希望だ。

 

 失えば、終わる。

 

 理由は分からない。

 

 理屈もない。

 

 だが確信だけが、焼き付くように残る。

 

「……っ」

 

 声を出そうとする。

 

 喉が、潰れる。

 

 空気が足りない。

 

 それでも、無理やり引き絞る。

 

 視界の中で、秀則の姿が揺れる。

 

 遠い。

 

 だが、まだ届く距離にいる。

 

「……紫村……!」

 

 かすれた声。

 

 ほとんど音になっていない。

 

 それでも、もう一度。

 

 今度は、力任せに。

 

「──拾え!!」

 

 喉が裂けるような声。

 

 肺が悲鳴を上げる。

 

 それでも止めない。

 

 視線は針から逸らさない。

 

「それ……ッ、針……!」

 

 言葉が途切れる。

 

 意識が滑る。

 

 それでも、繋ぎ止める。

 

「絶対に……無くすな!!」

 

 叫ぶ。

 

 ほとんど本能だった。

 

 託す、というより──押し付けるように。

 

 自分ではもう届かないものを、無理やり他人へ投げるように。

 

 秀則が動く。

 

 一瞬、誠へ駆け寄ろうとする。

 

 だが。

 

「来るな……ッ!」

 

 誠が、さらに叫ぶ。

 

 視界が揺れる。

 

 それでも、はっきりと。

 

「俺はいい……!」

 

 腕が力なく垂れる。

 

 それでも、指先だけがわずかに動く。

 

 針の方を、指し示す。

 

「いいから……拾え!!」

 

 命令に近い声音。

 

 もはや余裕も格好もない。

 

 ただ、必死に。

 

「それ……ッ……!」

 

 言葉が崩れる。

 

 だが、その目だけは死んでいない。

 

「落とすなよ」

 

 最後の一言は、ほとんど息だった。

 

 それでも確かに届く。

 

 その瞬間。

 

 誠の視界が、大きく歪む。

 

 音が消える。

 

 力が抜ける。

 

 意識が、底へ沈む。

 

 最後に見えたのは──

 

 瓦礫の隙間で、微かに光る金色と。

 

 それへと手を伸ばそうとする、巨大な鉄の腕だった。

 

「絶対、助けに来い! 絶対、だぞ!」

 

 

 

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