Fate/You Died.   作:助兵衛

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第90話 細い希望

 高校の校舎は避難所として機能していたが、その空気は安定とは程遠い。廊下には人の気配が絶えず流れ、遠くでは物資を運ぶ音や、抑えた声でのやり取りが続いている。

 

 崩壊寸前の秩序を、どうにか繋ぎ止めているだけの状態だった。

 

 その中心にいるのが、セイバー──褪せ人である。

 

 彼は多くを語らない。だが、必要な場所に必要な指示だけを落とし、無駄なく人を動かしている。体育館に集められた避難民の一部を校舎側へ分散させ、負傷者と軽傷者を分け、物資の流れを滞らせない。その判断は淡々としているが、確実に機能していた。

 

 もっとも、その秩序はあくまで“表”の話に過ぎない。

 

 校舎の裏手へ回り、使われていない階段の下にある倉庫に入れば、そこは完全に切り離された空間だった。光はほとんど差し込まず、空気は湿り、古い資材の匂いがこもっている。人の出入りもない。

 

 その隅に、黒野理央はいた。

 

 壁に背を預けるでもなく、床に座り込んだまま膝を抱え、身体を縮めている。視線は落ち、焦点も定まっていない。運ばれてきた食事には手をつけておらず、水もほとんど減っていなかった。

 

 思考が止まらない。

 

 同じ場面が、何度も繰り返される。

 

 灰原誠の顔。あの時の目。

 

「どうして黙ってた」

 

 低い声だった。責める調子でも、怒鳴るでもない。ただ事実を確認するような響きだったからこそ、逃げ場がなかった。

 

「最初から、全部知ってたのかよ」

 

 答えられなかった。

 

 言葉はあったはずだった。すべてではないと説明する余地も、順を追って話すこともできたはずだ。それでも、何一つ口にできなかった。喉が塞がり、思考が途切れ、ただ時間だけが過ぎていく。

 

 その間に、誠の目が変わる。

 

 ほんの僅かな変化だったが、それは決定的だった。そこにあった信頼が、静かに崩れ落ちたあとの目。

 

「……そうか」

 

 短い一言。

 

 それで終わった。

 

 拒絶という言葉を使う必要もない。それ以上に明確な断絶だった。

 

 理央の指がわずかに強く膝を掴む。爪が食い込むが、痛みはほとんど意識に上がってこない。

 

 分かっていたはずだった。

 

 いつかこうなると。真実を隠し続ければ、必ず。

 

 それでも言えなかった。言えば壊れると分かっていたから、壊れる前に守ろうとした。

 

 結果として、すべて壊れた。

 

 守ろうとしたものも、その前提も、全部。

 

 どれだけ時間が経ったのか分からないまま、理央は同じ姿勢で動かずにいた。

 

 やがて、外の音が変わる。

 

 最初は違和感としてしか認識されなかった。普段の避難所のざわめきとは質が違う。声の数が増え、重なり、どこか切迫した調子が混じっている。

 

 誰かが大きな声で指示を出している。応じる声が重なり、複数の足音が一斉に動く。

 

「こっち空けろ! 通すぞ!」「担架、急げ!」「水はどこだ!」

 

 言葉が断片的に倉庫の奥まで届いてくる。どうやら別の避難所から人が流れ込んできたらしく、その対応に追われているらしい。

 

 理央は反応しなかった。

 

 耳には入っている。それでも意味として受け取るところまで至らない。ただ音として通り過ぎていく。

 

 関係がない、というより、関わる余地がない。

 

 意識の大半は、いまだあの場面に引きずられている。

 

 誠の目。

 

 あの一言。

 

 それだけが、繰り返される。

 

 その中に、別の音が混ざる。

 

 近い。

 

 階段を駆け降りてくる足音。先ほどまでの雑多なものとは違い、一直線にこちらへ向かってくる。迷いのない速さだった。

 

 倉庫の前で、止まる。

 

 間を置かない。

 

 次の瞬間、扉が内側へ叩き開けられた。

 

 鈍い音と共に蝶番が軋み、閉ざされていた空間に外の光が一気に流れ込む。舞い上がった埃が光を受けて揺れ、暗がりが押し広げられる。

 

「うお! 埃っぽ……黒野女史!」

 

 秀則だった。

 

 息を切らしながらも、そのまま倉庫の中へ踏み込んでくる。背後の喧騒を引きずったまま、しかし一歩中に入った瞬間、その空気の違いにわずかに動きを止めた。

 

 暗い。静かすぎる。

 

 外の混乱が嘘のように切り離された空間の中で、理央だけが取り残されている。

 

「……」

 

 秀則は一瞬だけ言葉を失った。

 

 視界の先。

 

 床に座り込んだまま、微動だにしない理央の姿。

 

 やつれている。

 

 顔色は悪く、目の焦点は合っていない。肩は落ち、膝を抱えたままの姿勢は、ただ縮こまっているだけのように見えた。

 

 普段の彼女からは想像もつかない状態だった。

 

「あーお久しぶりです……黒野女史?」

 

 声を落とす。

 

 さきほどまでの慌ただしさとは明らかに違う、慎重な呼びかけ。

 

 反応はない。

 

 秀則は数歩、近づく。

 

 靴音がやけに大きく響く。

 

 その音でようやく、理央の指がわずかに動いた。だが、それだけだ。顔は上がらない。視線も変わらない。

 

「……参りましたな」

 

 小さく息を吐き、秀則は頭を掻く。

 

 どう声をかけるべきか、まだ決めきれていない。だが、悠長に考えていられる状況でもなかった。

 

 一拍。

 

 それから、回りくどい言い方を捨てる。

 

「灰原氏が、攫われました」

 

 言葉は、静かに落ちた。

 

 理央の身体が、ぴくりと反応する。

 

 だが、それだけでは終わらせない。

 

「状況から見て、おそらく……黒野の本家ですな」

 

 続けて告げる。

 

 その瞬間だった。

 

 理央の顔が、跳ね上がる。

 

「──っ」

 

 焦点の合っていなかった目が、一気に現実へ引き戻される。

 

 呼吸が乱れる。

 

 膝を抱えていた腕がほどける。

 

 そのまま、勢いよく立ち上がる。

 

「どこ──」

 

 言いかけて、言葉が崩れる。

 

 身体が前に出る。

 

 倉庫の出口へ向かおうとする、その一歩。

 

 だが。

 

 止まる。

 

 唐突に。

 

 足が止まり、膝が崩れるように折れる。

 

 そのまま、再び床へ。

 

 力なく座り込む。

 

「……っ」

 

 声にならない音が漏れる。

 

 指先が、床を掴む。

 

 視線が落ちる。

 

 さきほど浮かび上がった意思が、あっけなく沈んでいく。

 

「……私は」

 

 掠れた声。

 

 ほとんど聞き取れないほどの小ささで、それでも無理やり絞り出す。

 

「……彼に」

 

 一拍。

 

 喉が詰まる。

 

 それでも、続ける。

 

「嘘ばっかり、ついてたから……」

 

 言葉が、重く落ちる。

 

「助けにいく資格なんて、ない」

 

 最後は、ほとんど囁きだった。

 

 言い切ったあと、力が抜ける。

 

 肩が落ち、背中が丸まる。

 

 顔は上がらない。

 

 もう一度立ち上がる気配もない。

 

 秀則が、静かに口を開く。

 

 先ほどまでの柔らかさとは違う。少しだけ、踏み込んだ声音。

 

「勝手ながら、事情は一通り聞かせていただきました」

 

 理央の指が、ぴくりと動く。

 

「灰原氏の出生のアレコレ、それから今回の聖杯戦争の目的……黒野家の事情も含めて、ですな」

 

 淡々とした口調。

 

 だが、その内容は軽くない。

 

 理央の呼吸が、一瞬止まる。

 

 ゆっくりと、顔が上がる。

 

「……誰から」

 

 短い問い。

 

 かすれているが、はっきりとした意思が戻っている。

 

 秀則は答えなかった。

 

 代わりに、背後へとわずかに視線を向ける。

 

 その動きとほぼ同時に。

 

 倉庫の入り口から、もう一つの足音が入ってきた。

 

 遅れて。

 

 軽く、しかし迷いのない足取り。

 

「私だよ」

 

 声が落ちる。

 

 藍沢紗月だった。

 

 扉の縁にもたれるようにして立ち、倉庫の中を一瞥する。その視線はすぐに理央へと向けられた。

 

 一拍。

 

 そのまま、歩み寄る。

 

「……黒野さん」

 

 言葉を区切る。

 

 感情を抑えたまま。

 

「酷い有様だね」

 

 淡々とした指摘。

 

 責めるでも、慰めるでもない。

 

 ただ、現状をそのまま言葉にしただけの声音。

 

 理央の視線が、わずかに揺れる。

 

 だが、逸らさない。

 

 紗月は足を止めると、理央を見下ろす形で立った。

 

 沈黙が、重く落ちる。

 

 理央は何も言わない。言えないまま、ただ視線だけが揺れている。

 

 その横で、秀則が軽く咳払いをした。

 

「……さて」

 

 わざとらしいほどに区切る。

 

 場の重さを、無理やり切り替えるように。

 

「黒野女史」

 

 声はいつもの調子に戻っていた。

 

「一緒に灰原氏を助けにいきましょう」

 

 短く、はっきりと。

 

 提案というより、ほとんど決定事項のような言い方。

 

 理央の眉が、わずかに寄る。

 

「……でも」

 

 掠れた声。

 

 それでも、拒絶の意志ははっきりしている。

 

「聖杯戦争が終わらないかぎり……助け出したとしても、意味は無いわ」

 

 一拍。

 

「どうせまた、同じことになる。それに、私は……彼に合わせる顔なんて、ない」

 

 視線が落ちる。

 

 先ほどと同じ位置へ。

 

 浮かびかけた意思を、自分で押し潰すように。

 

 秀則は、それを見て──

 

「ふむ」

 

 少しだけ考える素振りを見せたあと。

 

 唐突に。

 

「ジャーン」

 

 間の抜けた声と共に、懐から何かを取り出した。

 

 布に包まれた、小さな塊。

 

 それを大げさに掲げて見せる。

 

 倉庫の薄暗がりの中でも、布越しにわずかな輝きが滲んでいた。

 

 理央の視線が、わずかに動く。

 

「……それは?」

 

 理解はしていない。

 

 ただ、異質さだけは感じ取っている。

 

 秀則はにやりと笑う。

 

「無垢金の針、だそうで。おっと、専門的な事を聞くのは無しですぞ」

 

 軽い調子。

 

 だが、その言葉の奥には確信があった。

 

「詳しい理屈はさっぱりですが……これがあれば、状況が変わるかもしれません」

 

 軽く振ってみせる。

 

 冗談めいた仕草。

 

 それでも、言っている内容は軽くない。

 

 理央の視線が、その布包みに吸い寄せられる。

 

 さきほどまで沈み切っていた目が、ほんの僅かに色を取り戻す。感情というほど明確なものではない。ただ、反射のように意識がそこへ向いた。

 

「……見せて」

 

 

「ええ、もちろん」

 

 彼は布包みを大げさに掲げるのをやめ、慎重な手つきで理央の前へ差し出す。

 

 理央はすぐには触れない。

 

 まず目で追う。

 

 布の重なり方、滲む金の色、そこから漏れ出している気配。それは単なる物体の存在感ではなかった。静かなのに、妙に強い。小さく収まっているくせに、周囲の意味そのものをわずかに歪めているような、不自然な手触りがある。

 

 やがて、理央はゆっくりと手を伸ばす。

 

 指先が布の端を持ち上げる。

 

 無垢金の針。

 

 薄暗い倉庫の中で、それは異様なほど静かに輝いていた。

 

 理央の目が、細くなる。

 

「……これは」

 

 その一言のあと、しばらく言葉が続かない。

 

 ただ見ているのではない。読み取っている。形ではなく、その内側に定着した“何か”を。

 

「強い概念が、実体化したものね」

 

 独り言のように、しかしはっきりとした声音で言う。

 

 秀則が、わずかに身を乗り出す。

 

「概念、ですか?」

 

「ええ。ただの礼装でも、ただの呪物でもない。もっと根本的なもの……意味そのものが、形を取って固定されている。性質としては宝具に近いわ」

 

 紗月が眉をひそめる。

 

「宝具、に?」

 

「完全に同質ではないけれど、近い。少なくとも人間の工房で作った魔術礼装の類とは思えない」

 

 理央の声には、さきほどまでの沈みきった色とは別の緊張が混じっていた。落ち込んでいることそれ自体は変わっていない。だが、思考は戻りつつある。

 

 その時だった。

 

「……それは」

 

 別の声が、倉庫の外から落ちる。

 

 三人が同時に振り向く。

 

 扉の外。階段の陰、そのさらに向こうに控えていた気配が、ようやく前へ出てくる。

 

 ミリセントだった。

 

 ずっと外で待機していたのだろう。壁に寄りかかるでもなく、ただ静かに立っていたその姿が、倉庫の光の境界へ歩み込んでくる。

 

「それは、私がこの世界に持ち込んだものだ」

 

 淡々とした口調。

 

 嘘や誇張の余地をまるで感じさせない、事実だけを置く声音だった。

 

「この針は、外なる者の干渉を遠ざけるためのものだった」

 

 一拍。

 

 その視線が、僅かに険しくなる。

 

「……はずだが」

 

 理央の指先が、ぴくりと動く。

 

 ミリセントは続ける。

 

「貴女の言う通り、何か別のものに変質しているのかもしれない」

 

 倉庫の空気が、そこでわずかに張り詰めた。

 

 理央は、針を見つめたまま動かない。

 

 外なる者の干渉を遠ざける。

 

 その本来の性質と、先ほど誠の身に起きた異常。その二つが頭の中で結びつかず、けれど無関係とも思えない。

 

 沈黙の中で、理央の呼吸が少しだけ深くなる。

 

 考えている。

 

 理央は、針から目を離さなかった。

 

 無垢金の細い輪郭は、倉庫の薄暗がりの中でも妙に鮮明だった。光を強く反射しているわけではない。むしろ静かだ。静かであるはずなのに、視界の中でそこだけが浮き上がって見える。形の小ささに反して、そこに封じられている“意味”だけが異様に重い。

 

「……そう」

 

 掠れていたはずの声に、少しずつ芯が戻る。

 

「やっぱり、ただの異物じゃない」

 

 理央は膝の上で組んでいた指を解き、針を見つめたまま続けた。

 

「貴女が異なる世界から現れた者であることはすぐわかったわ……見た目もあるけれどね」

 

 理央の視線は動かない。針を見つめたまま、頭の中で散らばっていた断片を一つずつ繋ぎ始めている。

 

「でも、別世界の存在がそのまま物理的に移動してきたわけじゃない。そんなことが成立するなら、もっと露骨な破綻が起きているはずよ。存在が世界に馴染まない。因果も、霊的位相も、現実との接続も維持できない」

 

 一拍。

 

「貴女がこの世界に現れるにあたっては、恐らく聖杯……灰原君と“座”を経由している」

 

 紗月が眉をひそめる。

 

「座、って……英霊の?」

 

「ええ」

 

 理央は頷く。

 

「英霊召喚と同じ。あるいは、それに極めて近い工程。別世界の存在そのものを引っ張ってきているんじゃない。逸話、概念、象徴、記録、神秘……そういう“その存在を成立させるための情報”が、一度座のような中継点を通され、この世界の側で形を与えられて現れている」

 

 秀則が、難しそうな顔で針とミリセントを交互に見る。

 

「それはつまり……複製、というか再現、みたいなもので?」

 

「単なる複製よりずっと厄介ね。再現であり、召喚であり、現界でもある。しかも恐ろしく不安定」

 

 理央の声はもう、先ほどの沈んだものではなかった。疲弊は残っている。だが、思考が回り始めたことで、その言葉には明らかな速度が宿っている。

 

「普通の世界なら、こんなものは成立しない。世界の側が拒絶するからよ。修正力が働いて、異物は排除される。現界なんて、まず不可能」

 

 その目が、わずかに上がる。

 

 倉庫の暗い空間、そのさらに向こうを見通すように。

 

「でも、ここは違う」

 

 静かに、断言する。

 

「ここは異界。あらゆる災厄が折り重なって、本来の世界から半ば切り離された特異点になっている。秩序も法則も、正常な世界ほど強く働いていない。だから、本来なら座を経由したところで即座に弾き出されるような存在たちが、無理やり現界を許されている」

 

 ミリセントの瞳が、わずかに細まる。

 

 理央は続ける。

 

「貴女も、他の者たちも、いわば“無節操な英霊召喚”に近い状態でここに在るのよ。正規の儀式も、整えられた器も、正常な世界の保護もない。あるのは、聖杯の機能だけを歪に拡張したような召喚の残骸……その場しのぎの現界」

 

 倉庫の空気が、さらに張り詰める。

 

 紗月は口を挟まず、秀則も黙ったままだ。理央の言葉を遮れば、そのまま思考の流れごと止まってしまうと感じ取ったのだろう。

 

 理央は針を見つめる。

 

「その過程で、無垢金の針には何か別の意味が上書きされたのかもしれない」

 

 ゆっくりと。

 

 一語ずつ、確かめるように。

 

「元々は外なる者の干渉を遠ざけるためのものだった。つまり、“異界からの侵食を拒絶する”ための道具」

 

 ミリセントが、僅かに頷く。

 

「だが、この特異点では境界が曖昧すぎる。外なる者と、そうでないものの区別すら不安定になる。座を経由して現れた別世界の存在もまた、“世界の側から見れば異物”として処理されかねない」

 

 紗月がそこで、低く問う。

 

「それって……この針が、“外なる者”だけじゃなくて、“世界に仇なすもの”そのものを拒絶するように変質したってこと?」

 

「たぶん、そう」

 

 理央はすぐに答えた。

 

「拒絶の対象が広がったのよ。あるいは、曖昧になった。外から来たものだけじゃない。この世界の秩序を壊すもの、この特異点を維持するために歪んだ形で現界しているもの、その全部に対して働くようになっている可能性がある」

 

 そこで、理央の声がわずかに沈む。

 

「それで──この、針がどうかしたのかしら。武器として扱うには……正直使い勝手が悪いと思うわ」

 

 理央の言葉が落ちる。

 

 針は、ただそこにあるだけだ。小さく、静かに。だが、その内側に詰め込まれているものは、明らかに“戦闘用の道具”という枠から逸脱している。

 

 その沈黙を、秀則が破った。

 

「いえいえ、そこなのです」

 

 やけに自信ありげな声だった。

 

 理央が視線だけを向ける。

 

 秀則は一度大きく頷き、わざとらしく人差し指を立てる。

 

「実はですな。この針に灰原氏が触れた瞬間──」

 

 一拍。

 

「サーヴァントであるマリア殿が、消失してしまったのです」

 

 空気が、止まる。

 

 紗月の目が細まり、ミリセントの視線もわずかに動く。

 

 理央だけは、すぐには反応しなかった。

 

 だが次の瞬間、ゆっくりと目が見開かれる。

 

「……消失?」

 

 確認するような、低い声。

 

 秀則は頷く。

 

「ええ。単なる契約解除ではありません。霊基そのものが崩壊した、と言うべき状態でしたな」

 

 理央の視線が、再び針へ落ちる。

 

 先ほど自分が導いた仮説と、今提示された事実が、強制的に接続される。

 

 拒絶。

 

 外なる者の排除。

 

 そして、存在そのものの否定。

 

「……なるほど」

 

 小さく呟く。

 

 理解は、繋がった。

 

 だが同時に、それが意味するものの異常性もまた、はっきりと浮かび上がる。

 

「……それは」

 

 理央は言いかけて、止まる。

 

 秀則が、そこでにやりと笑った。

 

「はい、そこでです」

 

 軽く胸を叩く。

 

「この針の“拡大された解釈”──それを上手く使えば」

 

 わざと間を置く。

 

「この聖杯戦争そのものを、無効にしてしまえるのではないかと」

 

 紗月が、眉を寄せる。

 

「……は?」

 

 短い否定。

 

 理央も同じ顔をしていた。

 

 怪訝。

 

 明確な疑念。

 

「……どういう理屈?」

 

 理央の声は冷静だったが、内心では明らかに警戒している。

 

 秀則は構わず続ける。

 

「先ほどの黒野女史の説明、非常に参考になりました。要するにこの場は、座を介した“不完全な現界”の集合体ですな?」

 

 指を折りながら整理する。

 

「英霊、異界の存在、その他諸々。いずれも“本来この世界にあるべきではない形で存在している”」

 

 理央は何も言わない。

 

 だが、否定もしない。

 

「そしてこの針は、それらを“世界に仇なすもの”としてまとめて拒絶する可能性がある」

 

 一歩、踏み込む。

 

「ならば──」

 

 秀則は胸を張る。

 

「この針を、聖杯戦争そのものに対して適用すればよいのでは?」

 

 沈黙。

 

 完全な、間。

 

 紗月が目を瞬かせる。

 

 ミリセントは何も言わない。

 

 理央は──

 

 じっと、秀則を見ていた。

 

 数秒。

 

 そのまま。

 

「……」

 

 そして、はっきりと怪訝な顔をする。

 

「……それ、本気で言ってる?」

 

 声音は低い。

 

 冷静だが、明確に疑っている。

 

「理屈としては分かる。でもそれ、かなり無理やりよ。拡大解釈にも程があるわ」

 

 一拍。

 

「そもそも“聖杯戦争”は概念であって対象じゃない。針が作用する“個体”とはスケールが違いすぎる」

 

 正論だった。

 

 極めて真っ当な否定。

 

 だが。

 

 秀則は、まったく動じなかった。

 

「ふふふ」

 

 なぜか余裕の笑み。

 

 そして、再び自分の胸を──

 

 ドン、と叩く。

 

「──それが、ですな」

 

 胸を叩いたまま、秀則は一歩踏み込む。

 

 先ほどまでの軽口めいた調子はそのままに、しかし言葉の芯だけが妙に重い。

 

「実はあの時──」

 

 視線が、わずかに遠くを見る。

 

 倉庫の暗がりではなく、別の場所を思い出すように。

 

「マリア殿が消失し、あの妙な侍が灰原氏を担ぎ上げた、まさにその瞬間」

 

 一拍。

 

「灰原氏、こう言ったのです」

 

 理央の指が、ぴくりと動く。

 

 秀則は、そこでわざとらしく間を置き──

 

「“それ拾え! ”と」

 

 軽く笑う。

 

 だが、その笑いの奥にあるものは軽くない。

 

「針のことですな。落ちたそれを、必死に指で示して」

 

 紗月が、わずかに目を細める。

 

「……そんな余裕、あったの?」

 

「余裕などありませんでしたとも」

 

 即答だった。

 

「むしろ逆です。完全に詰んでいる状況でしたな」

 

 肩をすくめる。

 

「あのまま連れて行かれて、無事に済むとは到底思えません」

 

 一拍。

 

 秀則の口元が、少しだけ歪む。

 

「それでも、彼は」

 

 声が、わずかに柔らかくなる。

 

「“これだけは拾え”と、そう言ったのです。出自故の、灰原氏のみが分かるなにかがあったのやもしれません」

 

 理央の視線が、完全に秀則へ向く。

 

 逃げ場のない現実として、その言葉を受け取る。

 

 秀則は続ける。

 

「しかもですな」

 

 わざと声色を変える。

 

 少しだけ茶化すように。

 

「そのあとがまた、実に見苦しい」

 

 にやりと笑う。

 

「攫われながら──」

 

 間。

 

「“絶対に助けに来いよ! ”と」

 

 倉庫の空気が、わずかに揺れる。

 

「それはもう、実に必死に」

 

 軽く肩を震わせる。

 

「スカした態度はどこへやら。あれほど格好つけていた男が、あそこまで露骨に頼るとは」

 

 くく、と笑う。

 

「いやあ、あれはなかなか貴重なものを見ましたな」

 

 だが、その笑いはどこか温度が違う。

 

 嘲りではない。

 

 むしろ──

 

 その言葉を、確かに受け取っている者の笑いだった。

 

「……ですから」

 

 秀則は、針を軽く掲げる。

 

「これは、単なる拾い物ではないのです」

 

 一拍。

 

「灰原氏が、自分の代わりに託したものです」

 

 その言葉が落ちたあと、倉庫の中にわずかな静寂が生まれる。

 

 重いものではない。だが、確かに“何かが変わりかけている”気配を含んだ沈黙だった。

 

 理央は、針を見つめたまま動かない。

 

 視線は逸らさない。

 

 ただ、その奥で、先ほどまでとは違う形で思考が回っている。

 

「……でも」

 

 小さく、漏れる。

 

 先ほどよりははっきりしているが、それでもまだ迷いが残っている声だった。

 

「でも……私は──」

 

 続けようとして、言葉が詰まる。

 

 資格。

 

 嘘。

 

 拒絶。

 

 それらが、再び足を引く。

 

 ほんの一瞬、持ち上がりかけたものが、また沈みかける。

 

 その瞬間だった。

 

「──じれったいなあ!!」

 

 秀則が、突然声を張り上げた。

 

 倉庫の空気が、びくりと震える。

 

 理央が、反射的に顔を上げる。

 

「ごちゃごちゃ言わずに、助けに行きましょうよ!」

 

 一歩、踏み込む。

 

 いつもの軽さはある。だが、今はそれだけではない。

 

「細いですけどね? 確かに細いですとも。でも!」

 

 針を指で弾くように掲げる。

 

「解決するかもしれない糸口は、見つかりました!」

 

 間。

 

「この針と、灰原氏が居れば──何か起こるかもしれない」

 

 言い切る。

 

 理屈ではない。

 

 確証もない。

 

 だが、それでも前に進むための言葉だった。

 

 理央の視線が、揺れる。

 

 秀則はさらに踏み込む。

 

「それに──」

 

 一拍。

 

「好きなんでしょう?」

 

 空気が、止まる。

 

 理央の目が、わずかに見開かれる。

 

 逃げ場のない言葉だった。

 

 説明も、言い訳も、挟む余地がない。

 

 秀則は、そのまま──

 

「もう行きましょうよ!」

 

 足を踏み鳴らす。

 

 地団駄。

 

 子供のような、だが妙に真っ直ぐな動き。

 

「じれったいなあ!!」

 

 倉庫の静けさを、完全に踏み潰すような声。

 

「資格がどうとか、後でいくらでも考えればいいでしょう! 助けに行ってから悩めばいいんです!」

 

 さらに一歩。

 

 距離を詰める。

 

「今ここで座り込んでるのが一番意味ないんですよ!」

 

 言葉が、強くなる。

 

 だが、それは責めているのではない。

 

 引きずり出そうとしている。

 

「灰原氏は、“来い”って言ったんです!」

 

 指で、針を示す。

 

「これを託してまで!」

 

 一拍。

 

「だったら行きましょうよ!」

 

 静かになる。

 

 その最後だけ、少しだけ落とす。

 

「……迎えに」

 

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