意識は、底の方からゆっくりと浮かび上がってきた。
最初に感じたのは痛みだった。鋭く刺すものではない。もっと鈍く、広く、全身の節々に沈殿したような痛みだ。肩、背中、腰、脚。どこが特別に傷んでいるというより、身体そのものが一度まとめて乱暴に扱われたあと、その事実だけを遅れて思い出しているような感覚だった。
誠は、浅く息を吸う。
肺は動く。視界もある。指先も、どうにか動く。
だが、重い。
自分の身体ではないみたいに、ひどく鈍い。
床に片手をつき、ゆっくりと上体を起こす。途端に背中へ鈍痛が走り、思わず顔をしかめた。頭もまだ少し霞んでいる。薬剤の残滓か、あるいは単純に意識を失っていた反動かは分からない。
「……っ、くそ」
掠れた声が漏れる。
そこでようやく、周囲を見る余裕が生まれた。
薄暗い。
光源は、壁の高い位置に穿たれた小さな明かり取りだけらしい。差し込む光は弱く、時間帯も判然としない。空気は冷え、湿っていて、石と土の匂いが鼻につく。壁は荒く積まれた石組みで、ところどころに古い染みが浮いていた。床も同じく石だが、長く使われていない倉庫というより、もっと意図的に“閉じ込めるため”に作られた空間に見える。
地下牢。
その言葉が、自然に浮かんだ。
誠は首を巡らせる。
鉄格子はない。鎖もない。手足を拘束されてもいない。
部屋の隅に粗末な寝台めいたものがあり、自分はそのすぐ脇の床に寝かされていたらしい。扉は一つ。分厚い木か鉄か、遠目には判別しづらいが、少なくとも簡単に壊せる類ではなさそうだった。
それでも──施錠の音はしない。
誠は眉を寄せる。
試しに立ち上がろうとし、膝が揺れる。壁に手をついてどうにか体勢を保ち、そのままゆっくりと扉の方へ歩く。一歩ごとに身体のあちこちが軋むように痛んだ。
扉の前に立ち、取っ手へ手をかける。
少し力を入れる。
開いた。
「……は?」
思わず、声が漏れる。
鍵が掛かっていない。
拍子抜けするほどあっさりと、扉は内側へ開いた。外には短い通路が続いており、壁際に灯された燭台の火が揺れている。人気はない。見張りもいない。
誠は、そこで扉を半ば開けたまま止まった。
自由に動ける。
少なくとも、表面的には。
だが、その事実がかえって不気味だった。逃げられないと分かっているからこそ、あえて閉じ込める必要すらないのか。それとも、別の理由があるのか。
考えながら、ふと胸の奥に妙な空白を覚える。
そこで、誠の動きが止まった。
「……あ」
小さく、漏れる。
何かが、ない。
さっきまで無意識にそこにあるものとして感じていたはずの気配。言葉にしづらいが、確かに自分の内側へ接続されていた、異質で、それでいて頼れる熱のようなもの。
マリア。
誠は反射的に目を閉じ、意識を内側へ沈める。
呼びかけるように。
探るように。
だが──何もない。
返ってこない。
あの独特の、冷たさと熱を同時に孕んだような感触も、気配も、霊的な接続も、跡形もなく消えていた。
完全に。
「……マリア」
口に出してみても、沈黙しか返らない。
そこでようやく、事実が遅れて実感となって押し寄せる。
切れた、のではない。
失われた。
あの場で起きた異常は、ただ契約を絶っただけでは済まなかったのだと、今さらのように理解する。
誠の喉が、ひどく乾く。
壁に手をついたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥に空いた穴は、痛みとも違う。血が流れるわけでも、傷が開くわけでもない。ただ、そこにあったはずのものが失われたという事実だけが、鈍く重く沈んでいる。
「……っ、くそ」
もう一度、同じ悪態が漏れる。
今度は先ほどよりも、少しだけ弱かった。
誠はゆっくりと目を開ける。
通路の先は暗い。どこまで続いているのか分からない。
自由に動けるというのなら、確かめるしかない。ここがどこで、何のつもりで自分が生かされているのか。弦一郎は何を考えているのか。黒野本家のどの辺りなのか。そして──自分に、まだ何ができるのか。
誠は壁から手を離し、痛む身体を無理やり起こす。
節々は重い。呼吸も万全ではない。だが、立てる。
立てるなら、進むしかない。
そう思ったところで、不意に脳裏をかすめるものがあった。
金色の針。
地面に落ちた、あれ。
最後の最後に、なぜ自分があそこまで必死に秀則へ託そうとしたのか、今となっては言葉にし切れない。ただ、あれを失わせてはいけないと、ほとんど本能的に思った。
もし秀則が拾ってくれているなら。
もし、あれがまだ向こうにあるなら。
この状況は、まだ完全には詰んでいない。
誠は、痛みで鈍る身体を引きずるように一歩踏み出した。
一歩。
石床に足を乗せた、その瞬間だった。
風も、音もない。
ただ──横から、何かが“ぶつかった”。
視界が弾ける。
理解が追いつくより先に、身体が床へ叩きつけられる。肺の空気が一気に押し出され、呼吸が途切れた。
「──ッ!」
遅れて、重さが乗る。
上から。
覆い被さるように。
獣。
近い。あまりにも近い。腐臭と血の匂いが混じった息が、顔面にかかる。毛並みは荒れ、ところどころ剥げ落ち、露出した皮膚は黒ずんでひび割れていた。目は濁り、焦点が合っていない。それでも──噛みつくための意志だけが、異様なほど明確だった。
誠は腕を上げる。
防ぐ。
間に合わない。
顎が開く。
そのまま、首元へ──
「──ッ、ぐぁッ!!」
噛みつかれる。
深く。
躊躇なく。
牙が皮膚を裂き、肉を貫き、そのまま引き千切る。
感覚が一瞬遅れる。
次の瞬間、熱が爆ぜた。
「────ッ!!」
声にならない。
視界が白くなる。
喉元から、何かが溢れ出す。
血。
音を立てて。
噴き出す。
温かい。いや、熱い。自分の体温よりも強く、勢いを持って外へ流れ出ていく。脈打つように、拍動と同期して噴き上がる。
呼吸が、崩れる。
空気が入らない。
喉が、塞がる。
誠の手が、獣の顔を掴む。
押し返す。
力が入らない。
滑る。
血で。
それでも──
「……ッ、離せ……!」
掠れた音。
喉が潰れ、まともに言葉にならない。
獣は食い下がる。
さらに深く。
喰らう。
誠の視界が揺れる。
端が暗くなる。
だが。
「──ああああああッ!!」
掌が、熱を帯びる。
意志より先に。
反射のように。
炎が、噴き出す。
近距離。
ほとんど密着したまま。
獣の頭部へ、直接。
爆ぜる。
焼ける音。
毛が焦げ、皮膚が裂け、肉が炭化する匂いが一気に広がる。獣が痙攣する。牙が離れる。
誠はそのまま、さらに炎を押し付ける。
焼く。
押し付ける。
逃がさない。
やがて、獣の力が抜ける。
重さだけを残して、上から崩れ落ちた。
動かない。
完全に。
焼け焦げた肉塊と化していた。
「……っ、は……」
呼吸を試みる。
空気が入らない。
いや、入っているはずなのに、うまく機能しない。
喉元に手を当てる。
ぬるい。
濡れている。
指の隙間から、まだ血が溢れている。
止まらない。
脈打つたびに、外へ。
止めようとする。
押さえる。
意味がない。
力が、入らない。
誠の身体が、横へ崩れる。
床に倒れる。
もう一度、起き上がろうとする。
腕に力を込める。
持ち上がらない。
視界が、傾いたまま戻らない。
「……は、ぁ……」
息が、浅い。
音にならない。
喉が潰れている。
肺だけが必死に動いているのに、うまく繋がらない。
視界の端で、自分の血が広がっていくのが見える。
赤い。
濃い。
床の上に、ゆっくりと、しかし確実に広がっていく。
止まらない。
どこまででも。
誠は、それを見つめる。
ぼんやりと。
手を伸ばそうとする。
指先が、少し動くだけで止まる。
力が抜ける。
感覚が遠くなる。
音が、消えていく。
遠く。
何かが軋む音。
あるいは、自分の鼓動か。
もう判別できない。
視界が暗くなる。
端から、ゆっくりと。
中心だけが、まだ残っている。
血。
広がっていく。
視界が、完全に沈む。
最後に残っていた光が、細い線のように収縮して──消えた。
音も、痛みも、何もかもが途切れる。
誠の身体は、動かない。
血は流れ続け、やがてその勢いすら弱まり、広がった赤だけが床に残る。
呼吸は、止まる。
鼓動も、止まる。
完全な静止。
──そこで、途切れた。
次に意識が浮かび上がった時、それはあまりにも唐突だった。
「──ッ」
息を吸う。
肺が、一気に空気を取り込む。
喉は──繋がっている。
痛みは、ある。
だが、さっきのような致命的な損壊はない。
誠は反射的に喉元へ手を当てた。
皮膚は裂けていない。
血も出ていない。
ただ、内部に鈍い痛みだけが残っている。
「……は?」
声が出る。
掠れてはいるが、明確に。
誠は、ゆっくりと周囲を見る。
同じだ。
薄暗い石の壁。
湿った空気。
粗末な寝台。
自分がいた場所、そのまま。
地下牢。
先ほどと、何一つ変わっていない。
ただ一つ違うのは──
自分が、ここに“戻っている”という事実だけだった。
誠はゆっくりと上体を起こす。
身体は重い。
だが、動く。
立てる。
喉も繋がっている。
出血も、ない。
さっき確かに、動脈を食いちぎられたはずなのに。
「……死んだ?」
低く、呟く。
理解が追いつかない。
だが、確認するしかない。
誠は立ち上がり、ゆっくりと扉へ向かう。
同じ動き。
同じ距離。
同じ感覚。
取っ手に手をかける。
開く。
音もなく。
誠は、そのまま廊下へと一歩踏み出した。
視線を落とす。
──あった。
そこに。
焼け焦げた肉塊。
先ほど、自分が焼き払った獣の死体。
毛は炭化し、肉は崩れ、原形を保っていない。それでも、確かに同一の存在であると分かる。あの腐臭も、まだ残っている。
誠の視線が、ゆっくりとその周囲へ移る。
床。
壁。
石の継ぎ目。
どこにも──
血が、ない。
一滴も。
あれだけ噴き出していたはずの、自分の血が。
広がっていたはずの赤が。
完全に消えている。
拭き取られた痕跡すらない。
最初から、存在しなかったかのように。
誠は、焼け焦げた死体を見下ろしたまましばらく動かなかった。
首元へ、ゆっくりと手をやる。
指先が皮膚を撫でる。裂けた感触はない。傷口も、縫い痕も、盛り上がった瘢痕もない。だが、そこに何も起きていなかったわけではないことだけは、身体の奥がはっきりと知っていた。
鈍い痛み。
違和感。
皮膚の表面ではなく、その下──肉と血管と神経の記憶だけが、確かに残っている。
「……なんだかんだ、死んでなかったなそう言えば」
低く呟く。
喉を摩る。
もう一度。
確かめるように、親指で頸動脈の上をなぞる。鼓動はある。規則正しく、何事もなかったかのように刻まれている。さっき確かに喰い千切られ、止まったはずの命が、今は平然とそこに戻っている。
「一ヶ月ぶり2度目……か」
何だかんだで、これまで重要な戦闘はほとんどマリアが担ってくれていたからだ。前に立ち、敵を圧し、致命的な一線を引き受けるのは常にあちらだった。自分はその後ろで火を投げ、走り、判断するだけで済んでいた。
死ぬほどの局面は何度もあった。
だが、“実際に死ぬ”ところまでは、ほとんど行っていない。
だから、どこかで他人事だったのだ。
自分は不死だ。
そう聞かされ、そう振る舞ってきたつもりでも、首を食いちぎられて血を撒き散らし、呼吸も鼓動も止まって、それでもこうして戻ってくる──そんな生々しい現実として味わったことはなかった。
「……最悪だな」
首をさすりながら、誠は吐き捨てる。
痛みはある。
恐怖も、遅れてじわじわと浮いてくる。
死ぬ瞬間の白く飛ぶ視界も、喉の奥に熱い血が逆流する感覚も、獣の牙が肉を裂く感触も、全部きっちり残っている。死ねば帳消しになるわけではない。ただ帳面の別ページへ移されるだけで、経験そのものは消えない。
「気が楽とは、言えないよな。痛いし、怖い」
今度は、少しだけ落ち着いた声で言う。
死ぬ。
戻る。
少なくとも、今のところは。
ならばこの地下は、ただの牢ではない。試行錯誤できる場所になる。代償は重いが、無いよりは遥かにましだ。
誠は、ゆっくりと周囲を見回した。
薄暗い廊下は先へ行くほど闇が濃くなっている。牢の近くにはまだ燭台の火があったが、数歩進めばその灯りも途切れ、先は石と影が塊になったような暗さだ。
あの獣は、暗がりの中で息を潜めていた。
一体だけとは思えない。
誠は焼け焦げた死体を跨がず、慎重に横を回る。靴底で乾いた毛を踏み潰さないよう、音を抑えて歩く。意味があるかは分からない。だが、何もしないよりはいい。
一歩。
また一歩。
呼吸を浅くする。
耳を澄ます。
湿った石の匂いに混じって、まだ焦げた臭気が鼻に残っていた。自分が焼き殺したばかりの獣の残り香だ。その奥に、別の臭いがあるかどうかを探る。
分からない。
暗い。
見えない。
「……クソ」
小さく悪態をつくと、誠は立ち止まった。
このまま闇へ突っ込むのは、さすがに馬鹿げている。さっきの一匹目は、奇襲でほぼ詰みかけた。二度同じ手を食らえば、今度こそ何度死ぬことになるか分からない。
誠は片手を持ち上げる。
掌を上に向ける。
意識を集める。
じわりと熱が集まり、次の瞬間、小さな炎がぽっと灯った。
頼りないようでいて、闇の中では十分すぎる明るさだった。揺れる橙の光が周囲の石壁を照らし、濡れたように黒ずんだ床を浮かび上がらせる。影が大きく揺れ、通路の奥行きがようやく形を持つ。
「……よし」
その瞬間だった。
暗がりの奥──いや、もっと近い。
灯りに押し出されるように、壁際の影が突然ほどけた。
「──ッ!」
獣。
今度は見えた。
低い姿勢から、一気に飛び出してくる。さっきの個体より細いが、その分だけ速い。骨ばった脚が床を蹴り、濁った眼が炎の光を反射する。
誠は反射で腕を振った。
炎が、ほとんど鞭のように走る。
近距離。
一直線。
獣の顔面に直撃する。
「──ギャッ!!」
悲鳴とも断末魔ともつかない音が上がる。頭部から肩口までが一気に燃え上がり、勢いのまま床へ転がる。誠は間を置かず、もう一度掌を押し出した。炎が追い打ちをかけ、獣の体毛と皮膚を丸ごと焼き尽くす。
数秒も経たないうちに、そいつは痙攣を止めた。
「……っ、今度は」
言いかけて、背筋に冷たいものが走る。
後ろ。
気配。
遅い。
振り向くより先に、重い衝撃が背中へ叩きつけられた。
「がッ──!」
前へつんのめる。
掌の炎が乱れ、光が揺らぐ。
背後から、別の獣が食らいついていた。さっきの一匹に意識を向けたその瞬間を、待っていたかのように。
誠は肘を引く。
打ち込む。
当たらない。
体勢が崩れきっている。
獣の重みが背に乗り、そのまま横へ引き倒される。石床へ肩から叩きつけられ、視界が跳ねた。
「……ッ、くそ……!」
炎を出そうとする。
遅い。
牙が、もう首元にある。
さっきと同じ場所。
同じ角度。
躊躇なく、深く。
噛みちぎる。
「────ッ!!」
熱。
激痛。
喉元から血が爆ぜる。
今度は理解が速い。速い分だけ、絶望も速い。温かい液体が一気に胸元を濡らし、床へ撒かれていく。呼吸が壊れ、音にならない空気だけが漏れる。
誠は獣の顔を掴む。
押し返す。
力が、もう入らない。
目の前が白くなる。
赤くなる。
暗くなる。
「……は、ッ……」
掌から炎が漏れる。
だが、角度が悪い。
自分の腕と石床を舐めるばかりで、獣の頭部まで届かない。
さっきのようにはいかない。
獣はさらに喰い込む。
肉が裂ける。
血が脈打つたびに、外へ、外へと流れ出る。
床が赤く染まっていく。
視界の端で、自分の手から炎が消えかけているのが見えた。
「……あー、クソ」
声にならない。
ただ、そう言ったつもりだった。
首元から流れ落ちる血が、石の継ぎ目を伝って広がっていく。
さっきと同じだ。
またこれか、と思う。
同時に、また戻るのだろうという、妙に冷めた確信もある。
それが、かえって腹立たしかった。
獣を焼き払った一匹目の死体が、揺れる視界の向こうでまだ燻っている。
二匹いた。
もっといるかもしれない。
そう考えたところで、意識が落ちる方が早かった。
視界が縮む。
痛みが遠のく。
血の音だけが、やけに大きい。
そして──
暗転した。
「──ッ、あ、ああッ!!」
誠は叫びながら飛び起きた。
肺が一気に空気を吸い込み、胸が大きく上下する。呼吸は乱れ、喉の奥が焼けつくように熱い。反射的に首元を押さえると、皮膚は繋がっていた。裂けてもいないし、血も出ていない。それでも指先の奥には、ついさっきまでそこが喰い千切られていたという、どうしようもなく生々しい記憶だけが残っている。
「……っ、は……はッ……」
汗が額から頬へと伝う。
背中も、首筋も、服の内側まで嫌な汗で湿っていた。死の直前に感じた熱と寒気が、身体の奥にまだ居座っているようだった。
誠は片手で首を押さえたまま、もう片方の手で顔を乱暴に拭う。指先には汗しかつかない。その事実がかえって不気味だった。確かに死んだ。確かに喉を食い破られた。だが、こうしてまた戻されている。
「冗談じゃない、こんなの……精神の方がもたない」
掠れた声で吐き捨てる。
寝台の脇の石床に片手をつき、無理やり立ち上がろうとする。膝は重く、節々は鈍く軋むが、それでも今度は慣れがあった。痛みがあること、戻ってきたばかりで身体が鈍いこと、その全部がもう“初めて”ではない。
だが。
立ち上がりかけた、その時だった。
誠の動きが止まる。
扉の外。
さっきまで開いたままになっていた牢の入口、その暗がりに、何かがいる。
音は、ほとんどしない。
ただ、石床を擦るような、湿った呼吸だけがこちらへ近づいてくる。
「……おいおい」
思わず、声が漏れる。
影が、ゆっくりと形を持つ。
獣だ。
さっき自分を待ち構えていたものと同じ系統の、人の理から外れた獣。毛は荒れ、骨ばった体躯を低く沈めたまま、獲物を確かめるように首を揺らしている。目は濁っているのに、飢えだけは異様に鮮明だった。
そいつは急がない。
飛びかかってもこない。
ただ、ゆっくりと。
まるで誠が“ここに戻る”ことを知っていたかのように、復活地点であるこの牢へと、当然のような顔で入ってくる。
誠の背筋を、冷たいものが這った。
「……ずるいだろっ!」
首を押さえたまま、半歩下がる。
獣は止まらない。
暗がりから抜け出し、燭台の弱い火にその輪郭を晒す。牙の間には、乾いた黒い血のようなものがこびりついていた。どこかで別の何かを喰ってきたのか、それとも──さっきまで自分を喰いちぎっていた奴と同じ類なのか。
誠は奥歯を噛み締める。
理解したくない仮説が、脳裏に浮かぶ。
こいつらは、偶然そこにいたわけじゃない。
自分がここで戻ることを、知っている。
あるいは、知っている何者かが、ここに置いている。
「リス狩りか、上等だ……このやろ」
悪態を吐きながら、誠はようやく両足に力を入れた。
さっきまでのように、ただ通路へ出て奇襲される段階ではもうない。今度は、復活した瞬間を狩るつもりでここまで入り込んできている。
牢は狭い。
距離もない。
逃げ場も乏しい。
獣は唸り声一つ上げず、ぬるりと前脚を踏み出した。
誠は首元から手を離し、代わりに掌をわずかに開く。
指先に、じわりと熱が集まり始めた。