Fate/You Died.   作:助兵衛

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第91話 地下牢

 意識は、底の方からゆっくりと浮かび上がってきた。

 

 最初に感じたのは痛みだった。鋭く刺すものではない。もっと鈍く、広く、全身の節々に沈殿したような痛みだ。肩、背中、腰、脚。どこが特別に傷んでいるというより、身体そのものが一度まとめて乱暴に扱われたあと、その事実だけを遅れて思い出しているような感覚だった。

 

 誠は、浅く息を吸う。

 

 肺は動く。視界もある。指先も、どうにか動く。

 

 だが、重い。

 

 自分の身体ではないみたいに、ひどく鈍い。

 

 床に片手をつき、ゆっくりと上体を起こす。途端に背中へ鈍痛が走り、思わず顔をしかめた。頭もまだ少し霞んでいる。薬剤の残滓か、あるいは単純に意識を失っていた反動かは分からない。

 

「……っ、くそ」

 

 掠れた声が漏れる。

 

 そこでようやく、周囲を見る余裕が生まれた。

 

 薄暗い。

 

 光源は、壁の高い位置に穿たれた小さな明かり取りだけらしい。差し込む光は弱く、時間帯も判然としない。空気は冷え、湿っていて、石と土の匂いが鼻につく。壁は荒く積まれた石組みで、ところどころに古い染みが浮いていた。床も同じく石だが、長く使われていない倉庫というより、もっと意図的に“閉じ込めるため”に作られた空間に見える。

 

 地下牢。

 

 その言葉が、自然に浮かんだ。

 

 誠は首を巡らせる。

 

 鉄格子はない。鎖もない。手足を拘束されてもいない。

 

 部屋の隅に粗末な寝台めいたものがあり、自分はそのすぐ脇の床に寝かされていたらしい。扉は一つ。分厚い木か鉄か、遠目には判別しづらいが、少なくとも簡単に壊せる類ではなさそうだった。

 

 それでも──施錠の音はしない。

 

 誠は眉を寄せる。

 

 試しに立ち上がろうとし、膝が揺れる。壁に手をついてどうにか体勢を保ち、そのままゆっくりと扉の方へ歩く。一歩ごとに身体のあちこちが軋むように痛んだ。

 

 扉の前に立ち、取っ手へ手をかける。

 

 少し力を入れる。

 

 開いた。

 

「……は?」

 

 思わず、声が漏れる。

 

 鍵が掛かっていない。

 

 拍子抜けするほどあっさりと、扉は内側へ開いた。外には短い通路が続いており、壁際に灯された燭台の火が揺れている。人気はない。見張りもいない。

 

 誠は、そこで扉を半ば開けたまま止まった。

 

 自由に動ける。

 

 少なくとも、表面的には。

 

 だが、その事実がかえって不気味だった。逃げられないと分かっているからこそ、あえて閉じ込める必要すらないのか。それとも、別の理由があるのか。

 

 考えながら、ふと胸の奥に妙な空白を覚える。

 

 そこで、誠の動きが止まった。

 

「……あ」

 

 小さく、漏れる。

 

 何かが、ない。

 

 さっきまで無意識にそこにあるものとして感じていたはずの気配。言葉にしづらいが、確かに自分の内側へ接続されていた、異質で、それでいて頼れる熱のようなもの。

 

 マリア。

 

 誠は反射的に目を閉じ、意識を内側へ沈める。

 

 呼びかけるように。

 

 探るように。

 

 だが──何もない。

 

 返ってこない。

 

 あの独特の、冷たさと熱を同時に孕んだような感触も、気配も、霊的な接続も、跡形もなく消えていた。

 

 完全に。

 

「……マリア」

 

 口に出してみても、沈黙しか返らない。

 

 そこでようやく、事実が遅れて実感となって押し寄せる。

 

 切れた、のではない。

 

 失われた。

 

 あの場で起きた異常は、ただ契約を絶っただけでは済まなかったのだと、今さらのように理解する。

 

 誠の喉が、ひどく乾く。

 

 壁に手をついたまま、しばらく動けなかった。

 

 胸の奥に空いた穴は、痛みとも違う。血が流れるわけでも、傷が開くわけでもない。ただ、そこにあったはずのものが失われたという事実だけが、鈍く重く沈んでいる。

 

「……っ、くそ」

 

 もう一度、同じ悪態が漏れる。

 

 今度は先ほどよりも、少しだけ弱かった。

 

 誠はゆっくりと目を開ける。

 

 通路の先は暗い。どこまで続いているのか分からない。

 

 自由に動けるというのなら、確かめるしかない。ここがどこで、何のつもりで自分が生かされているのか。弦一郎は何を考えているのか。黒野本家のどの辺りなのか。そして──自分に、まだ何ができるのか。

 

 誠は壁から手を離し、痛む身体を無理やり起こす。

 

 節々は重い。呼吸も万全ではない。だが、立てる。

 

 立てるなら、進むしかない。

 

 そう思ったところで、不意に脳裏をかすめるものがあった。

 

 金色の針。

 

 地面に落ちた、あれ。

 

 最後の最後に、なぜ自分があそこまで必死に秀則へ託そうとしたのか、今となっては言葉にし切れない。ただ、あれを失わせてはいけないと、ほとんど本能的に思った。

 

 もし秀則が拾ってくれているなら。

 

 もし、あれがまだ向こうにあるなら。

 

 この状況は、まだ完全には詰んでいない。

 

 誠は、痛みで鈍る身体を引きずるように一歩踏み出した。

 

 一歩。

 

 石床に足を乗せた、その瞬間だった。

 

 風も、音もない。

 

 ただ──横から、何かが“ぶつかった”。

 

 視界が弾ける。

 

 理解が追いつくより先に、身体が床へ叩きつけられる。肺の空気が一気に押し出され、呼吸が途切れた。

 

「──ッ!」

 

 遅れて、重さが乗る。

 

 上から。

 

 覆い被さるように。

 

 獣。

 

 近い。あまりにも近い。腐臭と血の匂いが混じった息が、顔面にかかる。毛並みは荒れ、ところどころ剥げ落ち、露出した皮膚は黒ずんでひび割れていた。目は濁り、焦点が合っていない。それでも──噛みつくための意志だけが、異様なほど明確だった。

 

 誠は腕を上げる。

 

 防ぐ。

 

 間に合わない。

 

 顎が開く。

 

 そのまま、首元へ──

 

「──ッ、ぐぁッ!!」

 

 噛みつかれる。

 

 深く。

 

 躊躇なく。

 

 牙が皮膚を裂き、肉を貫き、そのまま引き千切る。

 

 感覚が一瞬遅れる。

 

 次の瞬間、熱が爆ぜた。

 

「────ッ!!」

 

 声にならない。

 

 視界が白くなる。

 

 喉元から、何かが溢れ出す。

 

 血。

 

 音を立てて。

 

 噴き出す。

 

 温かい。いや、熱い。自分の体温よりも強く、勢いを持って外へ流れ出ていく。脈打つように、拍動と同期して噴き上がる。

 

 呼吸が、崩れる。

 

 空気が入らない。

 

 喉が、塞がる。

 

 誠の手が、獣の顔を掴む。

 

 押し返す。

 

 力が入らない。

 

 滑る。

 

 血で。

 

 それでも──

 

「……ッ、離せ……!」

 

 掠れた音。

 

 喉が潰れ、まともに言葉にならない。

 

 獣は食い下がる。

 

 さらに深く。

 

 喰らう。

 

 誠の視界が揺れる。

 

 端が暗くなる。

 

 だが。

 

「──ああああああッ!!」

 

 掌が、熱を帯びる。

 

 意志より先に。

 

 反射のように。

 

 炎が、噴き出す。

 

 近距離。

 

 ほとんど密着したまま。

 

 獣の頭部へ、直接。

 

 爆ぜる。

 

 焼ける音。

 

 毛が焦げ、皮膚が裂け、肉が炭化する匂いが一気に広がる。獣が痙攣する。牙が離れる。

 

 誠はそのまま、さらに炎を押し付ける。

 

 焼く。

 

 押し付ける。

 

 逃がさない。

 

 やがて、獣の力が抜ける。

 

 重さだけを残して、上から崩れ落ちた。

 

 動かない。

 

 完全に。

 

 焼け焦げた肉塊と化していた。

 

「……っ、は……」

 

 呼吸を試みる。

 

 空気が入らない。

 

 いや、入っているはずなのに、うまく機能しない。

 

 喉元に手を当てる。

 

 ぬるい。

 

 濡れている。

 

 指の隙間から、まだ血が溢れている。

 

 止まらない。

 

 脈打つたびに、外へ。

 

 止めようとする。

 

 押さえる。

 

 意味がない。

 

 力が、入らない。

 

 誠の身体が、横へ崩れる。

 

 床に倒れる。

 

 もう一度、起き上がろうとする。

 

 腕に力を込める。

 

 持ち上がらない。

 

 視界が、傾いたまま戻らない。

 

「……は、ぁ……」

 

 息が、浅い。

 

 音にならない。

 

 喉が潰れている。

 

 肺だけが必死に動いているのに、うまく繋がらない。

 

 視界の端で、自分の血が広がっていくのが見える。

 

 赤い。

 

 濃い。

 

 床の上に、ゆっくりと、しかし確実に広がっていく。

 

 止まらない。

 

 どこまででも。

 

 誠は、それを見つめる。

 

 ぼんやりと。

 

 手を伸ばそうとする。

 

 指先が、少し動くだけで止まる。

 

 力が抜ける。

 

 感覚が遠くなる。

 

 音が、消えていく。

 

 遠く。

 

 何かが軋む音。

 

 あるいは、自分の鼓動か。

 

 もう判別できない。

 

 視界が暗くなる。

 

 端から、ゆっくりと。

 

 中心だけが、まだ残っている。

 

 血。

 

 広がっていく。

 

 視界が、完全に沈む。

 

 最後に残っていた光が、細い線のように収縮して──消えた。

 

 音も、痛みも、何もかもが途切れる。

 

 誠の身体は、動かない。

 

 血は流れ続け、やがてその勢いすら弱まり、広がった赤だけが床に残る。

 

 呼吸は、止まる。

 

 鼓動も、止まる。

 

 完全な静止。

 

 ──そこで、途切れた。

 

 次に意識が浮かび上がった時、それはあまりにも唐突だった。

 

「──ッ」

 

 息を吸う。

 

 肺が、一気に空気を取り込む。

 

 喉は──繋がっている。

 

 痛みは、ある。

 

 だが、さっきのような致命的な損壊はない。

 

 誠は反射的に喉元へ手を当てた。

 

 皮膚は裂けていない。

 

 血も出ていない。

 

 ただ、内部に鈍い痛みだけが残っている。

 

「……は?」

 

 声が出る。

 

 掠れてはいるが、明確に。

 

 誠は、ゆっくりと周囲を見る。

 

 同じだ。

 

 薄暗い石の壁。

 

 湿った空気。

 

 粗末な寝台。

 

 自分がいた場所、そのまま。

 

 地下牢。

 

 先ほどと、何一つ変わっていない。

 

 ただ一つ違うのは──

 

 自分が、ここに“戻っている”という事実だけだった。

 

 誠はゆっくりと上体を起こす。

 

 身体は重い。

 

 だが、動く。

 

 立てる。

 

 喉も繋がっている。

 

 出血も、ない。

 

 さっき確かに、動脈を食いちぎられたはずなのに。

 

「……死んだ?」

 

 低く、呟く。

 

 理解が追いつかない。

 

 だが、確認するしかない。

 

 誠は立ち上がり、ゆっくりと扉へ向かう。

 

 同じ動き。

 

 同じ距離。

 

 同じ感覚。

 

 取っ手に手をかける。

 

 開く。

 

 音もなく。

 

 誠は、そのまま廊下へと一歩踏み出した。

 

 視線を落とす。

 

 ──あった。

 

 そこに。

 

 焼け焦げた肉塊。

 

 先ほど、自分が焼き払った獣の死体。

 

 毛は炭化し、肉は崩れ、原形を保っていない。それでも、確かに同一の存在であると分かる。あの腐臭も、まだ残っている。

 

 誠の視線が、ゆっくりとその周囲へ移る。

 

 床。

 

 壁。

 

 石の継ぎ目。

 

 どこにも──

 

 血が、ない。

 

 一滴も。

 

 あれだけ噴き出していたはずの、自分の血が。

 

 広がっていたはずの赤が。

 

 完全に消えている。

 

 拭き取られた痕跡すらない。

 

 最初から、存在しなかったかのように。

 

 誠は、焼け焦げた死体を見下ろしたまましばらく動かなかった。

 

 首元へ、ゆっくりと手をやる。

 

 指先が皮膚を撫でる。裂けた感触はない。傷口も、縫い痕も、盛り上がった瘢痕もない。だが、そこに何も起きていなかったわけではないことだけは、身体の奥がはっきりと知っていた。

 

 鈍い痛み。

 

 違和感。

 

 皮膚の表面ではなく、その下──肉と血管と神経の記憶だけが、確かに残っている。

 

「……なんだかんだ、死んでなかったなそう言えば」

 

 低く呟く。

 

 喉を摩る。

 

 もう一度。

 

 確かめるように、親指で頸動脈の上をなぞる。鼓動はある。規則正しく、何事もなかったかのように刻まれている。さっき確かに喰い千切られ、止まったはずの命が、今は平然とそこに戻っている。

 

「一ヶ月ぶり2度目……か」

 

 何だかんだで、これまで重要な戦闘はほとんどマリアが担ってくれていたからだ。前に立ち、敵を圧し、致命的な一線を引き受けるのは常にあちらだった。自分はその後ろで火を投げ、走り、判断するだけで済んでいた。

 

 死ぬほどの局面は何度もあった。

 

 だが、“実際に死ぬ”ところまでは、ほとんど行っていない。

 

 だから、どこかで他人事だったのだ。

 

 自分は不死だ。

 

 そう聞かされ、そう振る舞ってきたつもりでも、首を食いちぎられて血を撒き散らし、呼吸も鼓動も止まって、それでもこうして戻ってくる──そんな生々しい現実として味わったことはなかった。

 

「……最悪だな」

 

 首をさすりながら、誠は吐き捨てる。

 

 痛みはある。

 

 恐怖も、遅れてじわじわと浮いてくる。

 

 死ぬ瞬間の白く飛ぶ視界も、喉の奥に熱い血が逆流する感覚も、獣の牙が肉を裂く感触も、全部きっちり残っている。死ねば帳消しになるわけではない。ただ帳面の別ページへ移されるだけで、経験そのものは消えない。

 

「気が楽とは、言えないよな。痛いし、怖い」

 

 今度は、少しだけ落ち着いた声で言う。

 

 死ぬ。

 

 戻る。

 

 少なくとも、今のところは。

 

 ならばこの地下は、ただの牢ではない。試行錯誤できる場所になる。代償は重いが、無いよりは遥かにましだ。

 

 誠は、ゆっくりと周囲を見回した。

 

 薄暗い廊下は先へ行くほど闇が濃くなっている。牢の近くにはまだ燭台の火があったが、数歩進めばその灯りも途切れ、先は石と影が塊になったような暗さだ。

 

 あの獣は、暗がりの中で息を潜めていた。

 

 一体だけとは思えない。

 

 誠は焼け焦げた死体を跨がず、慎重に横を回る。靴底で乾いた毛を踏み潰さないよう、音を抑えて歩く。意味があるかは分からない。だが、何もしないよりはいい。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 呼吸を浅くする。

 

 耳を澄ます。

 

 湿った石の匂いに混じって、まだ焦げた臭気が鼻に残っていた。自分が焼き殺したばかりの獣の残り香だ。その奥に、別の臭いがあるかどうかを探る。

 

 分からない。

 

 暗い。

 

 見えない。

 

「……クソ」

 

 小さく悪態をつくと、誠は立ち止まった。

 

 このまま闇へ突っ込むのは、さすがに馬鹿げている。さっきの一匹目は、奇襲でほぼ詰みかけた。二度同じ手を食らえば、今度こそ何度死ぬことになるか分からない。

 

 誠は片手を持ち上げる。

 

 掌を上に向ける。

 

 意識を集める。

 

 じわりと熱が集まり、次の瞬間、小さな炎がぽっと灯った。

 

 頼りないようでいて、闇の中では十分すぎる明るさだった。揺れる橙の光が周囲の石壁を照らし、濡れたように黒ずんだ床を浮かび上がらせる。影が大きく揺れ、通路の奥行きがようやく形を持つ。

 

「……よし」

 

 その瞬間だった。

 

 暗がりの奥──いや、もっと近い。

 

 灯りに押し出されるように、壁際の影が突然ほどけた。

 

「──ッ!」

 

 獣。

 

 今度は見えた。

 

 低い姿勢から、一気に飛び出してくる。さっきの個体より細いが、その分だけ速い。骨ばった脚が床を蹴り、濁った眼が炎の光を反射する。

 

 誠は反射で腕を振った。

 

 炎が、ほとんど鞭のように走る。

 

 近距離。

 

 一直線。

 

 獣の顔面に直撃する。

 

「──ギャッ!!」

 

 悲鳴とも断末魔ともつかない音が上がる。頭部から肩口までが一気に燃え上がり、勢いのまま床へ転がる。誠は間を置かず、もう一度掌を押し出した。炎が追い打ちをかけ、獣の体毛と皮膚を丸ごと焼き尽くす。

 

 数秒も経たないうちに、そいつは痙攣を止めた。

 

「……っ、今度は」

 

 言いかけて、背筋に冷たいものが走る。

 

 後ろ。

 

 気配。

 

 遅い。

 

 振り向くより先に、重い衝撃が背中へ叩きつけられた。

 

「がッ──!」

 

 前へつんのめる。

 

 掌の炎が乱れ、光が揺らぐ。

 

 背後から、別の獣が食らいついていた。さっきの一匹に意識を向けたその瞬間を、待っていたかのように。

 

 誠は肘を引く。

 

 打ち込む。

 

 当たらない。

 

 体勢が崩れきっている。

 

 獣の重みが背に乗り、そのまま横へ引き倒される。石床へ肩から叩きつけられ、視界が跳ねた。

 

「……ッ、くそ……!」

 

 炎を出そうとする。

 

 遅い。

 

 牙が、もう首元にある。

 

 さっきと同じ場所。

 

 同じ角度。

 

 躊躇なく、深く。

 

 噛みちぎる。

 

「────ッ!!」

 

 熱。

 

 激痛。

 

 喉元から血が爆ぜる。

 

 今度は理解が速い。速い分だけ、絶望も速い。温かい液体が一気に胸元を濡らし、床へ撒かれていく。呼吸が壊れ、音にならない空気だけが漏れる。

 

 誠は獣の顔を掴む。

 

 押し返す。

 

 力が、もう入らない。

 

 目の前が白くなる。

 

 赤くなる。

 

 暗くなる。

 

「……は、ッ……」

 

 掌から炎が漏れる。

 

 だが、角度が悪い。

 

 自分の腕と石床を舐めるばかりで、獣の頭部まで届かない。

 

 さっきのようにはいかない。

 

 獣はさらに喰い込む。

 

 肉が裂ける。

 

 血が脈打つたびに、外へ、外へと流れ出る。

 

 床が赤く染まっていく。

 

 視界の端で、自分の手から炎が消えかけているのが見えた。

 

「……あー、クソ」

 

 声にならない。

 

 ただ、そう言ったつもりだった。

 

 首元から流れ落ちる血が、石の継ぎ目を伝って広がっていく。

 

 さっきと同じだ。

 

 またこれか、と思う。

 

 同時に、また戻るのだろうという、妙に冷めた確信もある。

 

 それが、かえって腹立たしかった。

 

 獣を焼き払った一匹目の死体が、揺れる視界の向こうでまだ燻っている。

 

 二匹いた。

 

 もっといるかもしれない。

 

 そう考えたところで、意識が落ちる方が早かった。

 

 視界が縮む。

 

 痛みが遠のく。

 

 血の音だけが、やけに大きい。

 

 そして──

 

 暗転した。

 

「──ッ、あ、ああッ!!」

 

 誠は叫びながら飛び起きた。

 

 肺が一気に空気を吸い込み、胸が大きく上下する。呼吸は乱れ、喉の奥が焼けつくように熱い。反射的に首元を押さえると、皮膚は繋がっていた。裂けてもいないし、血も出ていない。それでも指先の奥には、ついさっきまでそこが喰い千切られていたという、どうしようもなく生々しい記憶だけが残っている。

 

「……っ、は……はッ……」

 

 汗が額から頬へと伝う。

 

 背中も、首筋も、服の内側まで嫌な汗で湿っていた。死の直前に感じた熱と寒気が、身体の奥にまだ居座っているようだった。

 

 誠は片手で首を押さえたまま、もう片方の手で顔を乱暴に拭う。指先には汗しかつかない。その事実がかえって不気味だった。確かに死んだ。確かに喉を食い破られた。だが、こうしてまた戻されている。

 

「冗談じゃない、こんなの……精神の方がもたない」

 

 掠れた声で吐き捨てる。

 

 寝台の脇の石床に片手をつき、無理やり立ち上がろうとする。膝は重く、節々は鈍く軋むが、それでも今度は慣れがあった。痛みがあること、戻ってきたばかりで身体が鈍いこと、その全部がもう“初めて”ではない。

 

 だが。

 

 立ち上がりかけた、その時だった。

 

 誠の動きが止まる。

 

 扉の外。

 

 さっきまで開いたままになっていた牢の入口、その暗がりに、何かがいる。

 

 音は、ほとんどしない。

 

 ただ、石床を擦るような、湿った呼吸だけがこちらへ近づいてくる。

 

「……おいおい」

 

 思わず、声が漏れる。

 

 影が、ゆっくりと形を持つ。

 

 獣だ。

 

 さっき自分を待ち構えていたものと同じ系統の、人の理から外れた獣。毛は荒れ、骨ばった体躯を低く沈めたまま、獲物を確かめるように首を揺らしている。目は濁っているのに、飢えだけは異様に鮮明だった。

 

 そいつは急がない。

 

 飛びかかってもこない。

 

 ただ、ゆっくりと。

 

 まるで誠が“ここに戻る”ことを知っていたかのように、復活地点であるこの牢へと、当然のような顔で入ってくる。

 

 誠の背筋を、冷たいものが這った。

 

「……ずるいだろっ!」

 

 首を押さえたまま、半歩下がる。

 

 獣は止まらない。

 

 暗がりから抜け出し、燭台の弱い火にその輪郭を晒す。牙の間には、乾いた黒い血のようなものがこびりついていた。どこかで別の何かを喰ってきたのか、それとも──さっきまで自分を喰いちぎっていた奴と同じ類なのか。

 

 誠は奥歯を噛み締める。

 

 理解したくない仮説が、脳裏に浮かぶ。

 

 こいつらは、偶然そこにいたわけじゃない。

 

 自分がここで戻ることを、知っている。

 

 あるいは、知っている何者かが、ここに置いている。

 

「リス狩りか、上等だ……このやろ」

 

 悪態を吐きながら、誠はようやく両足に力を入れた。

 

 さっきまでのように、ただ通路へ出て奇襲される段階ではもうない。今度は、復活した瞬間を狩るつもりでここまで入り込んできている。

 

 牢は狭い。

 

 距離もない。

 

 逃げ場も乏しい。

 

 獣は唸り声一つ上げず、ぬるりと前脚を踏み出した。

 

 誠は首元から手を離し、代わりに掌をわずかに開く。

 

 指先に、じわりと熱が集まり始めた。

 

 

 

 

 

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