蛇は元々天上に住んでいて凶悪な性質だった
やがて地上が造られ、火の神アペフチカムイが天上から下りる時、蛇は一緒に降りたくて懇願した
火の神は自分と一緒に行けば焼け爛れてしまうからと断ったが、蛇は聞かなかった
『どんなに苦しくても死んでもいいから連れて行ってください』
蛇は稲妻に乗って地上へ飛び降りたーー
アイヌ民話より抜粋
玉井逹3人と別れて1人小樽を目指す少女は、最初の晩は屈斜路湖に逗留する事にした。
この辺りには温泉があり、温泉宿の温泉だけでなくタダで使用できる川湯もある。おまけに養父の生前から偶にこっそりと使用していた廃旅館もある。
玉井達と一緒にいた時は急ぎの旅という事もあり遠慮していたが、やはり身体を拭くだけでは物足りない。アンは夜遅く誰もいない時間を狙って、川岸に赤兎馬を繋ぎ温泉に浸かった。
川の流れる音のみの暗く静寂な空間、人工の明かりは持参した小さなランタン1つ分のみで、夜空には満点の星。
控え目に言っても最高である。
玉井達が頑張ってくれた事もあり小樽に向かう予定に余裕ができたので、3人に感謝して夜空の星に即席の星座を作ってみた。
既存のギリシャ神話発祥の星座や中国の星宿はまるっと無視して星を繋げ、夜空に大きな玉井の顔を描いた。玉井座の近くで瞬いている2つの小さな星は野間と岡田である。
ふと思い立ち、尾形の顔も作ってやろうと温泉で濡れた指先で星を繋げてみたが、納得できる星座が出来ない。玉井座を大きくし過ぎたのだろうか。
「なんだい、先客がいるじゃないか。」
星座の創造に耽っている最中、突然背後から声がして少女は驚いて振り向いた。
ランタンの灯に照らされた背後の人物。
20代後半位の女、年齢的に不相応な派手な柄の袴姿でブーツを履いている。顔立ちは美しいが化粧が濃く、眉は剃っているのか小さくて眉尻側の毛は無い。
『毒婦』を体現した様な見た目だが、服や容姿より体型に目がいった。
ーー妊婦か。もうじき産月かな?
女の腹は大きく膨らんでおり、今にも赤子が生まれそうである。
「あたしも一緒させて貰って構わないかい?」
女はそう言うとアンの返事を待たずにブーツを脱ぎ、袴の紐に手を掛けた。赤毛の少女は女の脱衣をマジマジと見るのも何なので女から視線を外して再び夜空を見上げる。背後からは妊婦の衣摺れの音がする。
ーー尾形の顔、忘れたわけじゃないんだけどなぁ。
やはり尾形座は上手く作れなかった。
「星なんか一人で見て何が楽しいんだい?」
後ろから不思議そうに女が尋ねてきたので、赤毛の少女は女の方に振り向きながら答えた。
「まぁまぁ楽しいし、時間も分かる。大体今は夜の10時くらい・・・」
アンの呼吸は一瞬止まった。
夜の暗闇の中、ランタンの明かりに照らされた妊娠している女の上半身には大蛇がいた。
妊婦の右の乳房から下腹部にかけて恐ろしい蛇の刺青が入っており、下腹部に描かれた頭は大きく口を開いて赤毛の少女を威嚇しているかの様だった。
「隣、失礼するよ。」
女は遠慮なく少女の隣に座り、胸まで湯に浸かる。
「刺青妊婦・・・」
アンはつい呟いてしまった。少女の一言を聞き漏らさなかった刺青の女は僅かに眉を顰めて彼女を見た。
迂闊な一言だが、本当にいるとは思わなかった。玉井達にアイヌの金塊の話をした時はあまりにも必死な反応だったので、彼らが嘘を吐いている可能性を考えた。冷静に考えてみればいつ出産するか分からない刺青の女を『刺青妊婦』として捜すのは無理がある様に感じたのだ。
しかし今、目の前に刺青妊婦がいる。
「どうしたんだい?」
女は笑顔で声を掛けてきた。
◇
「その刺青の蛇を彫った彫師は他にも・・・その、兎とか猪とかも彫っていたのか?」
「は?いや、知らないよそんな事。」
「因みにその蛇は雄か雌か・・・。」
「知らないよ。変な事を聞く娘だね。」
妊婦に知らないと断言され、アンは黙った。蛇の刺青なら十二支になぞらえて他の動物があるのかと考えたのだ。更に全ての動物に雌雄の描き分けがあれば合計で24となる計算だった。
やはり『刺青妊婦』は聞き間違えだったのだろうか。
「・・・刺青を持つ人間を探しているのかい?」
妊婦は妖しい笑みを浮かべながら尋ね、アンは警戒して嘘を吐いた。
「芸術の研究をしてるんだ。日本の刺青は海外では人気があるらしくて、参考となる物が20人分くらい見たいんだよ。」
「へぇ・・・。ねぇアンタ、ウチの旦那がそういうのに詳しいんだけどちょっと話を聞いていかないかい?今出稼ぎに行ってていないけど明日の朝には帰って来るからさ。」
「え?」
果たして良いのだろうか、この妊婦は気さくだが見た目がかなり怪しいし、危険な臭いがする。取り敢えず話を逸らす事にした。
「旦那さん、出稼ぎしてるのか。今の時期ならニシン漁かな?」
「フフ、そういうのじゃ無いんだよ。」
妊婦は湯に浸した手拭いで顔の化粧を落とし、汚れた手拭いを再び湯に浸す。手拭いからジワリと女の化粧が湯の中に溶け出した。
私もその湯に浸かっているんだが、と喉元まで出かかった言葉をアンは我慢して飲み込んだ。最高だった気分は一気に最悪になっている。
「今までは一緒に働いていたんだけど、ほら、この腹だろ?慶さんが無理するな、お前の身体は俺の物でもあるんだからってね。1人で頑張ってくれているんだよ。」
「へー、いいですね。」
『ケイさん』とはどうやら妊婦の夫のようだ。
『出稼ぎ』から始まった、江戸時代の春画も真っ青な惚気話はこの後口を挟む隙もなく30分程続き、アンは心底ウンザリした。
ただーー化粧を落とした妊婦はあどけない少女のような表情で夫の話をしており、何とも言い難い愛くるしさと色気があった。
悔しいが少し羨ましい・・・少女はそう思ったのだが、何に対して羨ましいと感じたのかは漠然としていて自分でも分からなかった。
◇
「もう先に上がるよ、楽しいお話をどうも。」
嫌味混じりで妊婦に別れを告げ、アンは湯から出た。長湯な上に猥談塗れの惚気話を延々と聞かされて気分が悪くなっており、喉も渇いて水が飲みたかった。
「なんだい、まだまだ話し足りないのに。」
妊婦には嫌味が通じなかった様でムスッとして別れを惜しんでいる様に見える・・・と思っていたら妊婦も湯から出て来た。
“貧弱な身体だねぇ”とか、“そんな身体じゃ好きな男を繋ぎ止められないよ”とか散々言われながら二人して着物を着る。
一刻も早くこの阿婆擦れから逃げたい、そう思いながら川岸に繋いだ愛馬の赤兎馬に積んであった竹の水筒から水を飲む。最早刺青の件などどうでも良くなっていた。
手綱を引いて馬と一緒に山道を上って行けばそこには今夜泊まる予定の廃旅館がある。旅館の本来の所有者からしたら完全に不法侵入だが、養父の生前から何度使用していても持ち主が現れる気配はない。恐らくだが、相続か何かで揉めて土地、建物共に誰の物にも出来ない状況と思われる。
ひたすら黙って山道を歩いていたが、後ろからあの妊婦が追いかけて来て何度も話しかけてくる。彼女は足元を照らす物を持っておらずヨタヨタとふらつきながら歩いている。
ーー何で付いて来るんだよ!?
まるで新種の妖怪である。
ランタンの灯りで目当ての廃旅館が漸く見えた。後ろを振り返るとあの妊婦とは距離が離れており、安心したアンは建物横の木に愛馬を繋いでもう一度振り返る。
妊婦が石に足を取られて躓きそうになっていた。
ーーあぁ、もう!!
慌ててランタンだけ持って妊婦に駆け寄る。転倒して腹を打てば、良くてそのままここで産気付き、悪ければ母子共に命を失う可能性があるだろう。目覚めが悪いにも程がある結果が予想できた。
「すまないねぇ。」
助け起こした妊婦に申し訳無さそうに謝られるも少女は腹の虫が収まらず説教をした。
「暗い道を歩く時は灯を持って歩きなよ、何かあったらどうするんだ。」
「歩き慣れた道だったからねぇ。ところでアンタ、あたしの家がどうして分かったんだい?」
ーーん?
「アンタが馬を繋いでいたところ、あたしの家だけど?」
まさかの廃旅館の正統な所有者が現れた、アンは焦った。この妊婦に頼んで一泊させて貰うべきだろうか?
廃旅館の中には残してきた私物がある。人によっては何の価値も無いかも知れないが、趣味で集めた小説が山ほどあり少女には大事な物だった。中には日本では手に入れにくい貰い物の洋書もある。
「ごめんなさい、持ち主がいない建物だと思って偶にここを使っていたんだ。私、自分の家が無いから・・・。」
なるべく同情させる言い方で素直に謝るが、悲しいかな一片の嘘も無い。北海道の各地にある養父から継いだ古屋全てに所有権は無いのだ。
「なんだい、あたしと一緒じゃないか!私と慶さんも宿無しでここを今の拠点にしているだけだよ。」
ケラケラと笑い出す妊婦を唖然とした顔で見るアン、廃旅館に火を点けてしまいたい、そう思ったが我慢した。
◇
「アンタ気に入ったよ!慶さんが帰って来たら紹介しなきゃね。」
「・・・はぁ、どうも。」
気に入って欲しく無いが、気に入られてしまった。
アンは以前に湧別の辺りで罠にかかった鹿を解体中、リュウだかリョウだか忘れたが見知らぬ猟犬に気に入られ、足に飛び付かれ腰を激しく振られた事がある。
飼い主らしい猟師が“コイツが見知らぬ人間にここまで心を許すのは珍しい”とか言っていたが、“許しているのは心では無く体だろう”と一言言ってやったら、飼い主の猟師は大笑いしながら“勃起、勃起!”と叫んで馬鹿犬を引き摺って立ち去って行った。確かに勃起(犬)していたようだが、未婚の少女の前で言って良い言葉ではない。
変な奴に気に入られてしまう。
この妊婦も惚気話を大人しく聞いていた為だろうか、それとも後を付けて来られた時に仏心を出して助けたのがいけなかったのだろうか、好かれてしまった。
廃旅館の中は酷く荒れており、最後にここを使った時と比べて散らかっている。空き家が荒れるのは仕方無いところがあるものの、明らかに人の手による荒れ方であった。部屋の角に積んで置いた本は崩されているし、妊婦とその夫の私物らしき物が散乱していた。しかし自分の所有の家でない以上は文句を言ってはいけない気がして、黙々と掃除と片付けに勤しむ。
愛読書の上に男の洗濯されていない褌が乗せられていた時は発狂しかけたが、妊婦は手伝ってくれないので一人で何とかするしかなく、気丈な少女も涙が出そうになった。
何とか片付けを終えて部屋の中央にランタンを置いたまま隅で妊婦に背を向け、丸くなって横になる。一応布団もあったが、間違いなく妊婦とその夫が使っているのが想像出来たので使う気にはなれない。
「なんだい、アンタ。もう寝るのかい?」
妊婦は布団に入りながら少女に話しかけた。
「はい。」
「素っ気ない娘だね。名前くらい教えておくれよ。」
お前から名乗れ、と言いそうになったが我慢した。本日何度目の我慢だろうか。
「田中安」
「アン?へぇ、アンタ異人の娘かい。それか日本人の男と結婚した異人か。道理で変わった色の髪と目をしてるワケだね。」
「父はイギリス人だ。」
必要最低限の言葉を選び話す。早く汚れた現実から夢の世界に行きたかったのだ。
「あたしはお銀だ。坂本銀。」
妊婦の自己紹介を聞き少女の意識は完全に覚醒してしまった。
恐らく今夜はもう眠れないだろう。
ーー坂本姓、ケイさん否、慶さん、妻の名はお銀、身体の前面に彫られた蛇の刺青・・・稲妻強盗夫婦!!
北海道の銀行や郵便局を襲う夫婦二人組の強盗殺人犯の呼び名である。反権力の象徴みたいに言われているが、ただの自活できない社会不適合夫婦に過ぎないとアンは考えていた。
慌てて振り返り妊婦のいた場所を見る。
布団はもぬけの殻だ。
ランタンの灯で真ん中だけ明るくなっている室内、薄暗い部屋の隅にも人影は無い。
ーー何処に行った!?
その瞬間、アンの身体にお銀の左腕が後ろから巻きついたと思ったら首と後頭部の付け根にチクリとした痛みが走った。
「逃げようとか思うんじゃ無いよ?アンタの事、気に入ってるんだから殺したくはないんだ。分かるかい?」
「蝮のお銀・・・」
「あたし達はアイヌの金塊を狙っているのさ。アンタもだろう?助け合おうじゃないか。」
「そんなデカい腹抱えて針みたいな武器で何が・・・。」
「コイツをこのまま差し込めば碌な力もかけずにアンタの脳にすんなり入る。そのまま柄をグルッと回して頭の中を掻き回してやれば、可愛らしい赤毛の西洋人形の出来上がりさ。」
背後から聞こえてくる女の言い回しにアンは背筋が凍りついた。
「明日、慶さんに紹介するよ。慶さんもきっとアンタを気にいる筈さ。」
赤毛の少女はなす術もなく、黙って小さく頷いた。
◇
「すまねぇお銀、今回は失敗だった。」
明け方“慶さん”こと稲妻強盗の坂本慶一郎が戻って来た。
歳は40前後くらい、少し長めの髪を後に流しているが一部が逆立っている。背が高く目つきの鋭い伊達男だ。逞しく手足の長い身体で彼の洋装は様になっていたが、足は何故か裸足、そして手には散弾銃を持っていた。
走って来たのか彼の息はあがっており、肩で息をしている。
アンはお銀に首に凶器を突きつけられながら同じ布団で横になっていた。眠たい、とお銀が言い出した為嫌々ながらも一緒に布団に入ったのだが、少しでも動くとお銀は目を覚まして恫喝してくる。
少女は一睡も出来なかったが、腹の立つ事にお銀はつい先程から熟睡している。稲妻が帰って来た事を教えてやろうとお銀に声をかけようとした時・・・
「誰だ、テメェは。」
凶暴な男に猛獣が唸る様な声で話しかけられ、少女はビクリと固まった。
自分を何と説明すべきか、ここで間違えたら恐らく命は無い、慎重に答えを探していると稲妻が妻のお銀の横になっている姿を見ながら再び少女に話しかけてきた。
「・・・お銀とやったのか?」
「へ?」
『やった』とは何の事だろう、『殺った』と言う事だろうか。お銀が寝ているのを死んでいると勘違いしているのだろうか。
「殺ってない!何もしてない!」
「何でやらねぇんだ!こんな良い女と!!」
この男、言っている事が滅茶苦茶である。
あぁ、『やった』とはそっちの意味か、と思いつつも同衾しているとはいえ女同士、しかも片方が片方に命を握られている状況だ。男の目は節穴だろうか。
「・・・ん。あぁ・・・慶さんじゃないか!」
お銀が起き上がり稲妻に駆け寄り抱きついた。稲妻も愛しそうにお銀に顔を寄せて抱きしめる。
「すまねぇお銀、失敗した。やっぱり俺にはお前がいないと駄目だ。」
「良いんだよ慶さん、無事にまたこうして会えたんだから充分じゃないか。」
「あぁ、やっぱりお前は最高の女房だ。」
2人は互いに褒め合い慰め合いながら口づけを交わし始めた。極めて長く極めて濃厚である。
アンは“ウヘェ”と思いながら黙って眺めていたが、2人は気にせずに互いに身体を弄り合って睦みだしたのを見て慌てて口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと待て!私がいるだろう!!」
んなモン見せつけるな、を遠回しに2人に伝えたが稲妻夫婦はチラリと少女を一瞥しただけで気にせずにまた激しく絡み合う。夫は着衣していたが妻の着物は乱れ、刺青蛇の鱗がアンの視界に入った。
どうやらこの夫婦、『自分達かそれ以外か』で世の中を見ているようだ。
しかし今は互いに夢中になって貪り合っており逃げる機会であった。この『行為』自体がどれくらいの時間をかけて行われる物かは全く検討がつかないが、5分以上かかるのは間違いないだろう。
そっと音を立てずに、夫婦からなるべく目を離さぬようにゆっくりと後退しながら部屋を出る。忍び足で旅館の出口に差し掛かった時には、奥の部屋からお銀の甘ったるい叫び声が聞こえ、ゲンナリしつつも安心した。
アイツらは確実に自分の存在を忘れている、と確信した少女は、廃旅館を飛び出して馬に跨り細い山の下り坂を駆け降りる。
騎馬武者でも無い彼女にとって極めて危険な行為だが、そこは諦めた。稲妻の持っていた散弾銃の射程から外れなくてはならない、一刻も早く。
狼から逃げる為に斜面を駆ける鹿のように・・・アンの気分はもう源平合戦の源義経だった。
網走への道中で毎日のように乗馬訓練を猛特訓してくれた玉井に感謝する。休憩中に刺青の話をしようとすると直ぐに乗馬訓練させられたのは解せぬが。
そのまま川原を駆け抜けて街道に出たので、赤兎馬の速度を落とした。馬を走らせ続けるとバテてしまう為、走らせるのは長距離移動には向かないのだ。
まぁ、ここまで来れば大丈夫だろうと後ろを振り返った。
慶さんが走って来ていた。
「はあッ!?」
距離からして100メートル程後ろに稲妻強盗の走る姿が見えてアンは驚愕した。脚が早い為稲妻に例えられているのは新聞で知っていたが、あっちの行為の速度も稲妻なのだろうか、追いつくのが早すぎる。
慌てて赤兎馬に走るように促すが、バテてしまったのか言う事を聞かない。
2人の距離は次第に詰まっていく。
再び稲妻を見ると彼は散弾銃を肩に掛けて手に真っ赤な何かを持っている。そして表情は先程とは全く違う凄く良い笑顔をしており、アンは余計に恐ろしくなった。
そして遂に稲妻に追いつかれて馬の手綱を握られてしまう。
「悪かったな、お銀の友達とは知らなくてビビらせちまってよ。」
自分を殺すつもりで来たとばかり思っていた凶悪犯の口から出た言葉に、少女は目を丸くした。
「と・・・?」
「お銀に聞いたぜ?色々手伝ってくれるんだってな。」
「・・・?」
「早速で悪いんだが、実は俺達夫婦は今金がねぇんだ。当てにしていた銀行強盗も失敗しちまった。そんで今から郵便局を襲うから手伝ってくれよ。」
2人きりだった稲妻夫婦の世界に1人の人間が加わった瞬間であった。
◇
気が付いたらアンは稲妻強盗こと坂本慶一郎と共に釧路の小さな郵便局前にいた。頭には赤毛が目立たぬように稲妻が持ってきた赤ゲットを巻いており、目を除いて顔まで隠している。稲妻は犯罪に関してのみ気が利く男のようだ。
しかしここに来るまでに様々な工夫を凝らした嘘で何とか逃れようとしたが、この男は妻と同じく人の話を全く聞かなかった。
大丈夫だの、何とかなるだの、死んだらそれまでだの、人はいつか死ぬだの言われ、嘘も説得も何の役に立たずここまで連れて来られたのだ。
ある意味鶴見中尉より手強い相手である。
「女房と約束しているのさ。“走り続けよう、誰かが俺達の息の根を止めるまで”ってな。」
郵便局突入前、稲妻が照れ臭そうにアンに言った言葉だが彼女はこの男の女房では無いので“へぇ・・・”と呟いて絶望するしかなかった。
せめて犠牲が出ぬ様に“隣の空き家から穴を掘って夜中に地下から侵入しよう”と提案したが、“詰まらない”と言う理由で速攻で却下されている。
郵便局にはまず稲妻が突入した。
扉を蹴破り侵入した稲妻に対し、なす術なく立ち尽くす郵便局員達。
その中の1人に向けて稲妻が散弾銃を発砲、後ろに吹っ飛ぶ局員。
“ごめんなさい私は悪くない”と何度もブツブツと唱えながら稲妻が用意した袋にお金を詰めるように郵便局員に要求するアン。
お金を袋に詰め終えた後、稲妻とアンは混乱している郵便局を飛び出し、稲妻は走りアンは赤兎馬に乗って走る。
途中屯田兵が稲妻に銃口を向けたのが見え、少女は慌ててパチンコで屯田兵に石を当てた。
この男が逮捕されて自分の名前が出されたら危ない、と判断したからだが稲妻は大喜びである。
誠に悲しい限りである。
「やるじゃねぇかアン。」
いつの間にか馬の後ろに乗ってきた稲妻に褒められて赤ゲットを被った少女は心で泣いた。
◇
「実は私には小樽に恋人がいて、私が来るのを待っているんだ。だからもう行かなきゃならない。寂しいし名残り惜しいけど2人とはもうお別れだ。お銀、元気な赤ちゃんを産んでくれ!」
生まれて初めて強盗をした翌日、意を決して稲妻夫婦に別れを告げた。ひと息で一気に別れを告げたのは余計な口を挟ませない為である。
もう刺青の件など糞食らえ、この愉快な夫婦から離れないと自分が色々とおかしくなるーーそういう心境だった。
強盗の手伝いは勿論のこと、隣室で寝る事にしたとは言え、一晩中盛っていた2人にお熱い声を聞かされた赤毛の少女は、衝撃のあまり鼻血を出しており我慢の限界だった。
「小樽に行くのかい?」
「そう!小樽に行くの。もう会えないかも知れないけど元気でね。」
お銀の質問に対し、手早く念入りに永遠の別れの挨拶を込めた返事をする。
「実はあたし達も小樽方面に向かっているんだよ!嬉しいねぇ!」
「え?」
「アン、ここの旅館に置いてある本は全部お前のなんだろ?」
唐突な、男の脈絡の無い質問に意味が分かからないまま頷く。既に顔面蒼白となっていたが、この夫婦は気付いていない。
「これだけの本が読めるのなら、お銀の出産の手伝いだって出来るはずだ。」
ーー!!?
生まれて初めて聞くような意味不明な理屈だった。
「いやいや、あり得ない!!ちゃんとした産婆さんを呼びなよ!」
「俺達夫婦が産婆なんて呼べるわけないだろ?小樽に行く前に日高に寄ろうぜ。」
「何で日高!?」
「日高は馬の名産地だ。馬小屋で生まれた子供は出世するって樺戸にいた時に熊岸って知り合いから聞いたんだよ。どうせなら名馬を出している馬小屋が良いだろ?」
イエス・キリストか聖徳太子の事を言っているのだろうか、傍迷惑な話だ。まさかこの馬鹿どもは馬小屋で産むつもりだろうか。それに日高など回っていたら尾形との約束に間に合わない可能性もある。
「止めときなよ、日高に向かう道中で生まれたらどうするんだ!ここに留まって産んだ方が良い。そもそも馬小屋なんて不衛生すぎる!!」
アンの叫びはいつも通り、2人に届く事は無かった。