赤毛の少女が日高の牧場主エディー・ダンの家に泊まるようになって、10日程が経過した。強欲な恩人の家でタダ飯喰らいになるのも気が引け、アンは牧場の馬の世話や家事手伝い等しながら過ごしている。
「アメリカで人気のある作業着なんだが、着てみるかね?」
ある日ダンからそう言って渡されたツナギの作業着を、少女は気に入った。
「リーヴァイ・ストラウス社製の作業着だ。19世紀のゴールドラッシュの時に鉱山労働者の間で人気が出たんたよ。北海道には夕張炭鉱もあるし、この辺りでもゴールドラッシュがあったと聞いたから売れると思ったんだが・・・」
そう言って見せてくれた小さな納戸には数十着もの売れ残りのツナギがあった。どうやら日本人には受け入れられなかったようだ。
幌馬車のテント生地から作られたと言う藍色の厚手のつなぎは、胸と腰の左右に衣嚢がつけられており、金属の鋲で留められていた。ダン曰く『オーバーオール』と言う物らしい。防寒機能は無いし濡れたら乾きにくく北海道の長い冬に着るには向いてなさそうだが、春なら大丈夫そうだった。
ーーゴールドラッシュか・・・。
アンは水桶を運びながら、稲妻から聞いたアイヌの金塊の事を思い出した。
昔は北海道のあちこちで砂金が取れていた。北海道各地のアイヌも砂金を取り、いずれ和人と戦う為に集めたと言う金塊。しかし途中で仲間割れとなり、のっぺらぼうが他の仲間を殺して金塊を隠し、網走に収監後は囚人の上半身に暗号を彫った。
稲妻に金塊の量を聞いたが、“すごくいっぱいある”としか教えて貰えなかった。あの男、数字を覚えていない可能性がある。
ーー軍事政権が造れる量があるのは間違い無いだろうな。でもそもそも金塊はアイヌの物じゃないのか?彼らだって金塊を探しているかも知れない。
尾形はどうしているんだろうか。退院してしれっと軍に戻ったのだろうか。自分は今後どうすれば良いのだろう、玉井達には電報で緊急事態にて尾形と合流できていない事を伝えたが、尾形にはどう伝えるべきだろうか。
いずれ亡命するとしても尾形に網走で3人が待っている事だけは何としても伝えたかった。
献身的に面倒を見た為か赤兎馬も元気になり、牧場で草を食んでいる。いつでもここを出られるのだが、『死刑』の2文字が頭から離れず動けなかった。
考え事をしながら歩いていると小石に躓き水桶をひっくり返してしまい、ツナギの膝から下が水で酷く濡れてしまう。
ーーしまった、これ乾きにくいんだよなぁ。一回戻って新しいツナギをもらおう。余っているし大丈夫だろ。
アンは慌ててダンの屋敷に戻る。
ダン家の応接間からは聞き慣れない人間の声がしていた。扉の向こうからはダン以外に複数人がいるようで、アンは中に入るのを躊躇う。
客人が来ているようだ。
暫く扉の外で話が終わるのを待っていたが、何やら揉めているようで落ち着かない。終いには『戦争』の2文字が聞こえ、少女は扉を叩き、向こうからの反応がある前に開けた。ダンに加勢する為だ。
「失礼します。ダンさん、何かありましたか?」
中には家主のダンの他に4人の人間がいた。
紫色の半纏を着た30手前くらいの垂れ目で坊主頭の男、40前後のアイヌで濃い顔の髭面の男、20代前半の顔が傷だらけで中途半端に軍服の男、そしてもう1人はーー
「アシリパ!?」
「アン!?何でこんな所に?」
小樽のコタンにいる筈のアイヌの美少女アシリパが何故かいた。見た事もない3人の怪しい男と共に。
半纏の男は何かクネクネして自分に喋りかけてくるし、アイヌの格好で見た事もない髪型の男はこちらをジィッと観察している。そして顔が傷だらけの男は被っている軍帽を上げて自分を警戒心丸出しで見てくるのだ。
これは、やはりアレだ。間違い無い。
「・・・誘拐?」
男3人はアンの一言に狼狽えて何か言っているが、信じられる筈も無い。彼らの隙を見て美少女の手を引き自分の後ろに隠す。
「アン、違うんだ!」
「アシリパ、フチやマカナックルさんはここにアンタがいる事を知っているのか!?」
「だから彼らは誘拐犯じゃない。この男達は私の仲間だ、ちゃんと紹介するから信じて欲しい!!」
「・・・」
「それよりアンこそ、何でこのアメリカ人の所にいるんだ。この男は私の大叔母のアザラシの衣装を買った男だぞ。」
アザラシの一言で昨年の牧場主の、全裸にアザラシの服を着ていた痴態を思い出したアンは何とも言えない気持ちになった。あぁ、アレはこの少女の親族の物だったのか、と。
すると、顔に傷のある男がアシリパに代わって喋り出した。彼の話によるとアザラシの服は大事な物だから買い戻したいが、ダンが彼らの足元を見て値を釣り上げているらしい。
アンは正直この牧場主ならやりかねないかもとは思ったものの恩人である彼を裏切れず、アシリパには衣装を諦めて貰うべく助言をしようとした。
「私なら金を積まれてもあのアザラシの服はいらないかなぁ。だってアレはダンさんが裸で・・・」
「よーし、分かった!!君達にあの服を30円で売ろう。」
ダンは何故か赤毛の少女の発言を遮り、正しい金額での買い戻しに了承してくれた。やはり彼は多少ガメツイ所はあるが紳士である。
「良いんですか、ダンさん。あんなに気に入って踊って・・・」
「勿論だ!!」
流石は成功者は懐が深い。アンはニヤリと笑い、アシリパに“良かったな”と伝える。やはり美少女の喜ぶ顔はなかなか眩しいものだ。
しかし何がダンの気に食わなかったのか、条件をつけられてしまった。
「モンスターを殺してくれたら、の話だ。そうしたら30円であの衣装を返そう。アン、君が牧場を案内しなさい。」
モンスターとは何だろう、初めて聞く言葉に赤毛の少女は色々と後悔をした。
◇
モンスターとは昨年から牧場を荒らしている赤毛の羆の事らしい。もう何頭もの馬が被害に遭っており、退治すべく牧場側も羆の目や指を撃ったが、襲撃の度に失われた筈の目や指が回復しているとの事だった。
ダンは赤毛の少女が怖がるのを危惧して黙っていたらしいが来訪者の友人と言う事が分かり、彼女と、つい先程不死身の羆が出たと報告に来たもうひとりの従業員の男にも手伝うように指図してきた。
しかし不死身の生き物など有り得るのだろうか。
ダンに牧場と周辺の地図を貰い、ツナギを着替えてからダンとアン、従業員の男、アシリパ達4人で目撃現場に向かう。
「アン、この男は杉元だ。あっちは役立たずの白石、そこの人は父の友人のキロランケニシパだ。彼らは私と一緒に網走に行って、アチャの確認をするのを手伝ってくれる事になったんだ。」
「へ?」
不死身の羆の目撃現場に向かう最中、アシリパに連れの男達を紹介された。
『網走』と『アチャ』そして『杉元』の単語に赤毛の少女は思考停止しかけた。
「アシリパの父・・・生きてた?」
「分からない。だから確認したい。」
「へぇ・・・」
死んだと聞いていた美少女の父親は生きている可能性がある、との事だった。
「スギモト・・・」
ーー不死身の?いや、まさか。よくある名前だ。
「アンちゃん、杉元は“不死身の杉元”とも呼ばれている日露戦争の英雄なんだぜ?誘拐なんてとんでもない!なぁ、杉元!」
白石と呼ばれた男が杉元の紹介を詳しくしてくれた。杉元は戸惑いながらも頷く。
しかし戸惑っているのはアンも同じだった。
尾形を半殺しにして玉井達を羆に襲わせるように仕向け、兵舎に捕えられて火事で死んだかと思っていた男が今、目の前にいる。
そして白石、このあつかましそうな男の声は何処かで聞いたような気がした。
「俺はアシリパの父親の古い友人だったんだ。突然こんな事言われて、信じろと言うのが無理かもしれないが信じて欲しい。」
キロランケと言う男に優しげな声で語りかけられ、アンは取り敢えずは男達を信じてやる事にした。
「疑ってごめんなさい、私は田中安。旅をしながら猟をして生活しているんだ。アシリパのコタンには小樽に行く度に世話になっている。」
「アンは凄く賢いんだぞ。それに以前会った時と比べて綺麗になった。」
アシリパの一言に驚き何も言えないアンの反応を見て、美少女は説明をしだす。
「以前は痩せすぎだったけど、健康的になった。」
それは太ったという意味だろ、とは思ったが素直に礼を伝える。やはりこの少女の真っ直ぐな視線にはアンは勝てない。
◇
地図を広げて今までの目撃情報のあった場所に印を付ける。稲妻と目撃した羆のいた場所も記入しておいた。
「あれ?こんな所に家なんてありましたっけ。」
牧場近くの森の中に家の印があり、ダン家の従業員に尋ねた所、現在空き家となっている農家の木造住宅があるそうだ。
「ここに3頭を誘き寄せて閉じ込め、火をつけられませんかね?目撃情報はこの辺りで固まってますし丁度良いじゃないですか。」
「ちょっと待って、3頭ってどういう事?」
アンの提案に杉元が質問してきた。アシリパは既に気付いているようだが、男達は気付いていない。仕方なく『3頭』の説明を始める。
「私は以前シェイプシフターに襲われたと思った事があるんだ。」
「え?何それぇ。」
「しぇいぷ・・・何て?」
「しかしそれは勘違いだった。彼らはただの双子だったんだ。」
白石と杉元の疑問を放置して結論を出すアン、2人は混乱していたが、キロランケには意味が分かったようで彼らに説明してくれた。この男は『シェイプシフター』を知っているようだ。
「つまり片目の羆、指の欠けた羆、何も欠けてない羆がいて、3頭とも赤毛だから人間が同じ羆だと誤解したって事だな。」
「その通りです、キロランケさん。なかなかの知能犯ですね、この羆どもは。」
「やはり赤毛は性格が悪いな・・・。」
アシリパが漏らした“赤毛は性格が悪い”の一言に何とも言えない気持ちになり渋い表情になってしまった赤毛の少女は、“熊の話だから、アンの事じゃないから!!”とアイヌの美少女とその連れの3人の男達に必死に慰められ、逆に惨めな気持ちになった。
しかし羆3頭を相手にするなどとんでも無い話だ。
誘き寄せ作戦はかなり危険だと言う事で、一頭ずつ探して駆除した方が良いだろうと言われる。
“杉元さん、不死身なら熊に食べられても平気では?”と冗談めかして誘き寄せの囮役を頼んだのだが、必死になったアシリパに止められた。
尾形の仇討ちは出来なかった。
「アンは罠を張るのは得意だが銃も弓も使えないから牧場までの案内で良いぞ。」
天使のような美少女の神のお告げのような素敵な提案に感謝しながら、アンは牧場を案内する。今回は取り敢えず案内だけだが、もしモンスター退治を引き受けてくれたとしてもアシリパにはトリカブトの毒矢という恐ろしい武器と羆狩の経験があるので、任せても大丈夫だろう。
「ところでアンちゃんは恋人とかいるのォ?」
案内をしている間、白石とかいう男が常に自分の周りをウロウロしているのが非常に落ち着かなかった。恐らく自身の事を口説きに来ているのだろうが、正直男に口説かれるのは生まれて初めてであり面倒臭いし、どうあしらえば良いのか分からない。アシリパが言っていた『綺麗になった』はお世辞か何かかと思ったが、本当にそうなったのだろうか。しかし口説いて来た男の第一号がこの男なのは解せない。
「婚約者がいるので・・・。」
白石を撃退する為にアンは嘘をついたが、一番大きな反応を見せたのは白石ではなくアシリパと杉元だった。そして余計に面倒になった。
「いつの間に婚約者が出来たんだ!何故報告しない!!」
「え?恋のお話し?聞かせてよ、田中さん。」
2人に勢いよく問い詰められるままに架空の婚約者の情報を話していくが、焦るあまりその特徴をほぼ尾形にしてしまった。それも駆け落ちする設定だ。杉元と尾形は一度だけとはいえ面識があるので、念の為に個人情報は伏せる。
「射撃が上手くて頭が良い男か!猟師には理想的だな!」
「田中さん、“彼は嫌味っぽい所がある”なんて言いながら、顔が恥ずかしそうにしてるんだから。こっちが照れちゃうよ。」
そりゃ恥ずかしい、いい歳してこんな嘘を吐く自分が。アンは酷く虚しくなった。
それにしてもこの不死身の杉元とやら、アンが想像していた者とは大分違った。日露戦争を大暴れして生き残り、小樽では北鎮部隊の上等兵に重傷を負わせて、捕らえられた兵舎の中でも暴れていたようだったのに、いざこうして実物を見てみたら顔が傷だらけで疑り深そうではあるものの、器量は良いし恋の話好きだし、純粋な日本人とは言い難い自分やアイヌの少女を“さん”付けで呼んでくる。
ーー尾形を襲った、というよりは尾形に襲われて抵抗した可能性もあるよな。
あの尾形ならそれも有り得る話だな、と考えていた時、不貞腐れていた白石が突然叫んだ。
「あそこに何かいるぞッ!」
慌てて全員で白石が指差した方角を確認する。
全身が赤みを帯びた大きな塊が森の中で蠢いていた。
「モンスターだ・・・」
ダンの呟きを即座にアシリパは否定した。
全員でよくよく目を凝らしてモンスターを確認する。
後ろ脚で二足歩行する赤毛の羆
その背中に背負われているのは、前脚を羆に掴まれて首に怪我をしている赤毛の馬
哀れな赤毛の馬は羆に後ろ脚で無理矢理歩かされている。羆に食べられに行く為に・・・
驚愕しながらも杉元が呟いた。
「赤毛の羆が赤毛の馬を背負ってる・・・」
「赤兎馬ァーーー!!」
赤毛の少女は愛馬の名前を絶叫した。
目の前で獰猛な羆に負ぶわれて森の奥に連れ去られて行く愛馬。
飼い主の赤毛の少女は茫然自失としながら、死地に強制連行される愛馬を見送る事しか出来ない。
「あれはアンの馬なのか!?杉元撃て、弓じゃ届かない!馬に当てるな!」
アシリパが杉元に指示を出し、無茶ぶりなアシリパの要望に応えて小銃を撃つも狙いを外してしまう杉元。
驚いてアシリパの上に倒れる白石。
悲鳴をあげるアシリパ。
森の奥に逃げる羆。
錯乱しながらヨロヨロと森の中に入って行く赤兎馬。
アシリパ一行はアザラシの服を取り戻す為に羆退治を請け負ってくれた。恐らくは赤毛の少女の為というのもあるのかもしれない、感謝してもしきれない。
ダンは屋敷に戻り、アシリパ一行は二手に分かれて羆退治に出る事になった。
主力となるアシリパと杉元の方には銃を持ったダン家の従業員の男が付き、白石とキロランケの2人はアンと一緒に赤兎馬を探してくれる事になった。白石は羆に目をつけられた馬を連れて戻るのは危険だと言ったが、“じゃあ俺と一緒に羆退治するか?”と杉元が言った為に渋々ながらアンの方に来る。
「馬はただの動物じゃない。家族だもんな。」
そう微笑んでくるキロランケの笑顔が眩しくも苦しい。アンにとって情があるとはいえ、赤兎馬は家族と言うより大事な財産であった。
森の中を暫く3人で歩くと、逃げて来た赤兎馬に再会できた。
駆け寄るアン、甘える様に頭を少女に摺り寄せる赤兎馬、遠巻きに微笑むキロランケ、溜め息を吐く白石。
赤兎馬は首に深い傷を負わされているものの、脚は大丈夫そうだ。牧場に戻るべく3人と1頭は踵を返した。
目の前に赤毛の羆がいた。
「ウヒィィィッ!!」
感動の再会と共に訪れた死の恐怖を前に、我を忘れた白石がキロランケの忠告を無視して走り出す。彼が目指すは地図にもあった木の家だ。
羆は目標を白石に定めて後を追おうとするが、アンが慌てて振るった鞭を蛇と見間違えて怖気付き立ち止まる。
「早く中に入れ!」
先に赤兎馬を連れて家の中に入ったキロランケ達を追い、アンも中に入り扉を閉めた。羆が扉を引っ掻いて自己主張する為、施錠して4人で農機具を扉の前まで動かす。4人?
「え?誰この人。」
木造の家の中には一行の誰もが知らない人間がいた。
毛皮の外套を纏った60位の小太りの男。見るからに金持ちで、牧場の従業員や農家の人間とも思えない。キロランケ曰く彼はこの家の人間と言っており、銃の類いは所持していないらしい。しかしここは空き家と聞いた筈だ。
赤兎馬を外に出して囮にしようとする白石をアンとキロランケは反対し、4人全員で羆が出入りしそうな場所を家財道具を使って塞いでいると、また見知らぬ人間が現れた。50位の痩せ型で胡散臭い雰囲気のある顎髭の濃い男。彼もまたこの家の住人と言っている。
ーーもう嫌だ!!
アンは混乱し、2階に逃げようと階段に向かう。
そこには男の物と思しき生首が2つあった。額には『六』と傷がつけられている。
「ぎゃあああッ!!」
少女の絶叫に慌てて走って来る4人の男達。彼らも生首を見て驚き絶句している。
「キロランケさん、この家に最初からいた彼らのどちらか若しくは両方が悪魔の羆が化けています!!」
「落ち着けアンちゃん。悪魔もモンスターもいないから!」
「キリスト教では『666』は悪魔の数字なんです!不死身の羆は悪魔だったんだ!あと1人殺される!いや、みんな死んじゃう!!」
「羆は不死身じゃなくて3頭いるって言ったのは君だろ!?」
錯乱するアンを必死に宥めながら生首を見るキロランケ、生首の男達に見覚えがあるのか深刻な顔で話し出した。
「安心しろ、この生首は悪魔の仕業じゃ無い、このオッサン供のどちらかの仕業だ。どちらかが苫小牧から俺を殺しに追って来た男だ。」
ここを自分の家と主張する2人の男は、黙ってキロランケを見ている。
「いや、それはそれで安心出来ないよねぇ。」
白石の一言で少女は再び気が遠くなった。
◇
その後主戦力だった杉元とアシリパと従業員の男が赤毛の羆の残り2頭に追われてこの家に逃げ込んで来た。
しかしその際従業員の男が羆に家から引き摺り出されて襲われ、何とか助けるべく羆から引き離すも手遅れだった。惨たらしい遺体になった知人の姿に赤毛の少女は嘔吐した。
ーー今、杉元が何か言ってなかったか?
人間と言う物は、出す物だしたら我に返る事があるらしい。嘔吐によって正気になったアンは冷静になって状況を整理した。
其の一、この木造の家に7人が閉じこもっており、外には3頭の羆がいる。
其の二、オジサン2人はそれぞれ若山と中沢と名乗っていた。片方はキロランケを狙っているヤクザだ。
其の三、杉元の小銃は弾切れ、予備の弾は外。アシリパの弓は壊れて毒矢も手元に無い。
ーー最悪じゃないか!
外には殺人羆、中にはヤクザの人殺し。最悪である。
尚、アンが助かる方法を模索して頭をガムシャラに回転させている間、杉元達は自称住人の男2人と揉めており若山とは斬り合いにまで発展、若山の上半身からはくりからもんもんの刺青、中沢の上半身からは汚い乳首が見えて状況は混迷の一途を辿っている。
取り敢えず、キロランケかヤクザの若山親分のどちらかが代表して杉元の弾薬を取りに外に出る事になったがそれを決める方法がまさかの丁半博打であった。
「キロランケさん、大丈夫ですか?このおじさん、博打には慣れっこでしょうし不利じゃないですか?」
「文句があるならお前がやりな、異人のお嬢ちゃん。赤毛同士、羆とも仲良く出来るだろ?」
「すみませんでした。」
キロランケを止めに入るが若山に参加を促され、速攻で謝る。
壺振りをする中沢と若山親分との間に視線でのやり取りがかいま見えて不安になったのだ。素人の中沢の動きも演技臭く見える。
茨戸で起きたヤクザの抗争で若山の子分達は皆出払っていると言っていたが、本当に皆が出払ったのだろうか。
小樽の情報収集の為に読んでいる新聞で、茨戸で起こった抗争では警察署長や日泥親分夫婦、馬吉一家が皆死んだと今朝知った。馬吉に加勢した雇われの凄腕狙撃手と日泥に加勢した同じく雇われの凄腕爺さん侍達は行方不明、日泥の息子と妾は茨戸を出奔したらしい。
若山の子分達が付いたのが皆殺し状態の馬吉一家なら、彼の組織は壊滅だろうから心配する必要も無いのだが。
博打の結果は意外にもキロランケの勝ちとなった。
そして突然ぶち切れた若山親分が中沢を蹴り飛ばし、彼の失態を責め出す。壺にも細工がされておりやはりコイツらは仲間だったようだ。生首は中沢が置いたものだったらしいが・・・
「親分が浮気するからだ!!」
蹴倒された中沢が乙女のように叫び出した。
「あれは金で買った男だと言っただろう。まだ根に持ってるのかッ!」
若山も中沢に負けずに言い返す。
2人の濃ゆい中高年男性の痴話喧嘩はまだまだ続き、白石の尻が親分に狙われていた事まで発覚、アンは“白石さん、良かったですね”と白石に言うと白石は真顔で自らの尻穴を手で押さえていた。
杉元が痴話喧嘩を止めて若山に外に出て弾を拾うように言うと、ヤケクソ気味に生首2つを外に放り出して羆の気を逸らし若山は土間の小窓から外に出た。
黙って様子を見守るアンとアシリパ達。
恋人に“ちんぽ食われてしまえ”と叫ぶ嫉妬深い中年男の中沢。
恋人の中年男に悪態を吐きながらなんとか弾の一部を拾う親分の若山。
若山は残りの弾薬を探すも見つからず、羆に家との間に立ちはだかれて、家には戻れない。
やむ無く若山はベルトを抜き取って羆に放り投げ威嚇する。
その瞬間・・・
「囚人だーーー!!」
アンと中沢以外の4人が絶叫した。
ベルトが外れてズボンがズリ落ちた若山の下半身には稲妻や執務室に飾ってあったのと同じような柄の刺青が入っていたのだ。
ーーあれは刺青人皮!?
アンも驚いて叫びそうになるが堪えた。
何故アシリパ達は刺青人皮を見て若山の事を囚人だと叫んだのだろうか、答えは明白だ。
アシリパ達と目が合う。
4人とも目を泳がせながら“あの親分さん、下にも刺青入れてるね”等と笑って誤魔化している。隠し事が下手な連中だ。
ーーこの連中もアイヌの金塊を探している!
尾形が心配になった。
師団から上手く抜け出せても金塊を探している限り、いつかまた杉元と対峙するだろう。前回は命は助かったが、次はどうだろうか。杉元にはアシリパ以外にもキロランケがおり、北海道の案内は完璧であろう。白石の立場は不明だが。
若山は羆に追われながら森の中へ逃げて行く。
「おやぶぅん・・・」
中沢が甘える様な切ない声で呟いた。
◇
その後も大変だった。
木の壁を突破した羆が中に入って来て杉元が交戦、羆を漸く一頭仕留めたものの、杉元の顔が焼き茄子のようになってしまったり、中沢の身体検査で乳首ほどではないが汚い尻を見るハメになったり、即席のトリカブト付きの槍を作ったり・・・。その間中沢は“おやぶぅん、おやぶぅん”と呟いている。中沢が嫉妬から裏切らなければ親分は今もここにいただろうに、自業自得にも程がある。
それにしても杉元は強い、強すぎる。
この獰猛な男と小樽一邪悪な男が自分の住んでいた山で対戦していたとは、居合わせなくて本当に良かった。
「アンちゃん、何かあれば俺が守ってあげるからね、ピュウ⭐︎」
白石が手製の毒槍を持って格好をつけているが、今ひとつサマにならない。適当に礼を述べるが自分も毒槍を持たされているので頼る事は無いだろう。
「何をふざけているんだ、白石。真面目にやれ。」
アシリパが白石を叱るが、一回り以上歳の離れた少女に叱られても彼は気にする様子が無い。
「いやぁ、小樽の兵舎に放火した時にさ、女を連れ込んでた2人組の兵士に会ったんだよね。兵舎内で女遊びするようなとんでもない奴らだけど、女を守ろうとしてたのがちょっとだけ格好良かったからさぁ。」
ーー!?
「本当か、それ。とんでもねぇな。」
白石と杉元の遣り取りを聞いて赤毛の少女は目眩がした。
「・・・白石さん。」
「なぁにぃ?アンちゃん。」
「私を守ってくれるんですね。なら私の為に死ねる、死刑も厭わない、と言う事ですか?」
「えっ、えぇ?アンちゃん、何か目が怖いよぉ?」
「ほら、しつこくするから嫌われたみたいだぞ白石。」
アシリパが間に割って入ってくれたが、別に嫌いになったわけではない、寧ろ自分の事をもっと好きになって貰わねば困る、命をかける程に。
◇
羆は残り2頭。
死んだ従業員を囮にして1頭の羆を誘き出し小窓から毒槍を打ち込むが、なかなか毒は効かない。
更に2階からもう1頭が侵入して来る。杉元とキロランケが2階の羆に応戦するも厳しかった。
入口の扉の農機具を退かして扉を開け、全員と赤兎馬で外に飛び出す。外にも1頭の羆がいるのだが、気にしていられなかった。
中沢は若山親分のドスを涙ぐみながら形見のように大事そうに抱えている。若山を追っていた羆がこちらに戻って来たと言う事は若山は死んでしまったのだろう、羆は執着心が凄いので獲物と定めたら絶対に逃さない筈だ。
「姫〜ッ!!」
「おやぶぅん!!」
ーー姫だと!?
若山親分生きてた。何故かダンが運転する車に機関銃を積んで戻って来た。
アシリパ達も『姫』に動揺している。
きっと若山と中沢、2人きりの時にはそう呼んでいるに違いない、考えたくも無いが。
親分は機関銃をこれでもかと撃ちまくり、羆を1頭倒した。
弾切れの機関銃を放り出し、家から逃げ出した全員が車に乗り込む。少し遅れて最後の1頭が空き家から飛び出してこっちに向かって来た。
明らかに定員を越えていたが、フォード製の車は毒が回りつつある羆より速く、並走して逃げる赤兎馬よりも速い。
ーー良いなこれ。金持ちになったら買おう。
アンが感心しているとすぐ横にいた姫が車から落ち、姫を追って親分も車から飛び降りる。
追いついた羆は姫の首から肩の間に力いっぱいに噛みついた。
姫を守る為、ドスを拾った親分は羆に切り掛かる。
羆の猛攻にも躊躇わず、臓腑を垂らしながらも羆と闘う親分。
遂に羆を倒し・・・
親分は姫に寄り添いながら幸せそうに二人で逝ったのであった。
ーー何か・・・胸が熱いけど、それ以上に胸焼けが凄いな。
赤毛の少女の素直な感想である。
アンに対して誤魔化すのも面倒になったのか、杉元が真顔でナイフを持ち、若山の亡骸に向かって行った。
◇
「本当に小樽に行くのかね?」
『親分と姫』が亡くなった2日後、牧場主のダンは赤毛の少女を見送る事となった。アシリパ一行は既に網走に向かっている。
「どうしてもやり残した事がありまして、このままではアメリカなんて行けません。ダンさん、赤兎馬を宜しくお願いします。」
「・・・分かった、無茶はするんじゃ無いぞ。君はもっと利己的な人間かと思っていたが、会わなきゃいけない人は余程大事な人なんだな。」
「いや、そういうワケでは・・・」
赤兎馬は羆の一件から酷く臆病になってしまい牧場から出ようとしないので、やむ無くダンに買い取って貰った。これからはダン専用の馬として新しい馬生を送るらしい。
ーー小樽に行くのは怖い、でも尾形が待っているなら会わなければ・・・。せめて様子を伺うくらいはしたい。
アンは一人、日高の牧場を徒歩で出た。