ある悪人の前半生   作:土鳩

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ほぼ淀川中佐視点の回


おぼっちゃま

北海道旭川には大日本帝国陸軍第七師団の兵営があり、軍都と呼ばれている。

その日、旭川にいる第七師団27聯隊の隊長である中佐の淀川輝前の元に、部下の鶴見篤四郎中尉から奇妙な連絡が入った。

 

『小樽の27聯隊の兵舎を放火して上等兵1人を殺害した犯人と見られる少女を送致するので、私がそちらに向かうまで丁重かつ失礼の無いように保護して欲しい。』

 

 

意味が分からない、それが淀川の率直な感想だった。

 

部下の鶴見が好き勝手に動き回っているのも、自身が鶴見に頭が上がらずいいように扱われているのもいつもの事だが、今回の事は納得出来ない。

淀川は日露戦争の時に鶴見の進言を無視して兵を悪戯に消耗させてしまってからは鶴見に頭が上がらなくなっている。同じ中佐の階級だった者達は日露以降、皆昇進したにも関わらず自分は中佐のままだ。

 

「少女と言っても17だろうが!とっとと拷問でもなんでもして吐かせて処刑してしまえば良かろう!」

 

淀川は面倒臭かった。

 

「それはできません。彼女の実父は元イギリス首相の友人だった男で、彼女の形式上の夫もイギリスの元貴族院議員です。下手に扱えば国際問題になるでしょう。」

 

「・・・それは貴様の意見か?」

 

「鶴見中尉殿がそう仰っておりました。」

 

彼に意見した青年は27聯隊所属の少尉で名前を鯉登音之進と言う。鶴見を信奉しており、彼の言う事なら何でも聞く男だ。鶴見からの連絡は大体この男を通して行われる。

この男なら両耳と鼻を削ぎ切腹しろ、と鶴見に命令されれば躊躇なくそうするだろう、以前に造反の疑いで鶴見が独断で処刑した一等卒のように。

 

ーーここ最近碌な事がない。

 

淀川は溜め息を吐いた。

 

津山睦男の逮捕の際に数名の死者を出し、雪山を捜索していた伍長以下数名の一等卒は行方不明。兵舎に拘束されていた者により1名の一等卒が死亡、その直後小樽の聯隊兵舎は火事になり上等兵1名が死んだ。部下の堅物で有名だった和田大尉は行方不明。脱獄囚辺見和雄の突然の襲撃により、これまた数名の死者が出ている。挙げ句の果てには聯隊内から脱走兵を1名出し、その際に一等卒1名が狙撃されて死亡、造反疑いで1名が処刑。

脱走兵の尾形上等兵に狙撃された三島一等卒を密かに気に入っていた淀川は、酷く落胆した。

 

しかしこのままでは来年の今頃には『そして誰もいなくなった』なんて事になりかねない。27聯隊は呪われている、との噂が師団内で広がっている。

放火殺人犯の小娘は北鎮部隊の名前を失墜させぬよう見せしめに処刑すべきだ、淀川はそう考えた。

 

「鶴見に電話する!」

 

淀川は叫び、鯉登の制止を振り切って鶴見に電話をしたが“忙しい”を早口かつ慇懃に伝えられて電話を切られた。その間僅か7秒、電話交換手の女性との遣り取りより遥かに短かかった。

 

 

下から上がってきた報告によると、放火殺人をしでかした小娘は茨戸の町で抗争の事後処理に来ていた27聯隊の者が捕らえたらしい。

最初は“I’m American!I’m American!!”などとのたまい立ち去ろうとしていたようだが、偶然にも居合わせた一等卒が一方的に顔を覚えていた為逮捕となった。藍色の奇妙なツナギを着て角巻の上から赤ゲットを被っている珍妙な出立ちだった為目立ってはいたが、アメリカ人と言われたらそうかもしれないと勘違いするような見た目ではあったようだ。

旭川に送還中も何度か脱走を図り、一度は完全に逃げられるも結局は捕らえられた。その際は“シライシがやった、シライシが燃やした!”と叫んでいたようだ。シライシとは『脱獄王・白石由竹』の事だろうか?何故脱獄王が兵舎を燃やす必要があるのかさっぱり分からない。

小娘が旭川に到着する少し前、鶴見から再び電話にて連絡があった。今度は淀川本人に、だ。

 

「小樽の放火殺人はあの娘が犯人では無い可能性の方が高いのです。彼女は事件前にボヤ騒ぎを起こして火事の際には擬装して失踪しています。取り敢えず人相書きをばら撒く事で民間人の協力も得られて拘束に至りましたが、彼女は亡くなったとはいえ同盟国の要人の娘、私がそちらに行くまでは丁重に扱って下さい。処刑など、なりませんぞ。」

 

一方的に告げられてすぐに電話を切られた。

 

「貴様はこの田中とか言う小娘を見た事はあるか?」

 

淀川は電話機の掛けられた壁に顔を向けたまま、隣に立つ鯉登に声を掛ける。

 

「いえ。」

 

鯉登は淀川を見ながら簡潔に答えた。

 

若く、浅黒い肌に端正かつ男らしい顔立ちの鯉登はいちいち淀川の癪に触った。しかもこの男、父親は海軍少将の鯉登平二である。生まれも育ちも器量の良さも軍人としての能力も高く、欠点といえば生意気で子供っぽい所と鶴見を信奉し過ぎている事、感情が昂ると早口の薩摩弁になり何を言っているのか理解出来ない所くらいだった。

 

ーー何で陸軍に来た!海軍に入っておかんか!

 

日清戦争の黄海海戦で兄を失ってから船が苦手になったようだが、淀川からしたら知った事ではなかった。

まぁ、率直に言ってしまえば淀川は鯉登が妬ましかったのだが、そんな感情を表に出すのも如何なものかと考えてはいた。

 

「田中安は明日の昼頃にこちらに到着します。出迎えてやって欲しい、と鶴見中尉殿から指示がありました。」

 

「勝手にしろ!私は関与しない。」

 

淀川は吐き捨てるように鯉登に言った。

 

 

赤毛の少女が旭川の第七師団兵営に送致されて来たのは翌日の夕方だった。

予めの報告通り奇妙な藍色のツナギに赤ゲットと角巻を被っている。顔は右頬に殴られた様な跡がついており、昼前にも性懲りも無く脱走しようとした為に殴られたとの事だった。

 

鯉登はいなかった。昼に出迎えをする為に仕事を夕方に回していた為、来られなかった。

旭川の師団本部の門に来ている将校は淀川一人、鶴見からのいつもの高速切り電話で渋々出て来たのだが・・・

 

目を奪われた。

 

顔を確認するため頭に被っていた物を外させた少女の姿・・・

夕日に照らされて赤い髪は光り輝いている。

殴られた跡があるものの白い肌は美しく、ソバカスも愛嬌があった。茶色の瞳は淀川をジィッと見ており、心の底まで見透かされそうだが、どこか寂しげだ。

異人程とっつき難い顔ではなく日本人程慣れ親しんだ顔でもない、大人でもなく子どもでもない、そんな絶妙さ・・・と淀川だけは感じたようだ。

 

ーーこんな娘が殺人などするワケが無い!!

 

「私は中佐の淀川輝前、27聯隊の聯隊長をしている。・・・田中安、とは君の事だね?君が小樽の兵舎を燃やして上等兵を殺したと聞いたのだが本当かね?」

 

「私じゃ無い!火を点けたのはシライシだ。」

 

「うむ・・・白石由竹は網走の脱獄囚の1人だ。ヤツを逮捕したらその件でも尋問するとしよう。それまで君は大人しくしてくれたまえ、分かったね?」

 

少女は驚き黙っていたが、淀川が兵卒に命令して医務室に連れて行かせた。“同盟国の要人の娘だ!傷一つ残してはならん!“と兵卒共に伝える。

 

ーーあの娘を殴ったのは誰かも調べねばな。着ている服装もボロボロだ、新しいものを用意せねば。それと・・・

 

「白石を捕らえて尋問せねばな・・・」

 

淀川は一人呟いた。

 

後日、第七師団が白石を偶然捕まえ旭川に送られて来る事となり淀川は直ぐに処刑を考えたのだが・・・

 

“白石を殺してはならない”と鶴見から鯉登に電話が来たのは白石が旭川に到着する僅か1日前の事だった。

 

「鶴見に電話する!!」

 

淀川は叫び、鯉登の制止を振り切って鶴見に電話をしたが“忙しい”を早口かつ慇懃に伝えられて電話を切られた。その間僅か7秒、電話交換手の女性との遣り取りより遥かに短かかった。

 

 

少女が旭川に来た翌日、兵営の来賓用応接間を鯉登が兵卒数人と掃除しているのに気付き、淀川は声を掛けた。隣には“暇なら少し散歩でもしよう”と誘われて医務室から連れて来た赤毛の少女がいる。

鯉登のは明らかにただの掃除では無い。元々置かれていた椅子や卓が廊下に出され、空いた場所に寝台が2つ、10畳程の応接間に運び込まれているのだ。

 

「何をしているのだ、貴様らは。」

 

淀川の姿を見た兵卒達は慌てて掃除を中断して敬礼し、10冊程の本を抱えた鯉登も作業を止めて説明をしだした。

 

「昨夜鶴見中尉殿から連絡がありまして、中尉殿がこちらに来られるまでの監視の為、そこの田中と同じ部屋で過ごせとのご指示がありました。本日より私は田中と共にこの応接間で寝泊まりするつもりであります。彼女には昨夜伝えた上で了承済みです。」

 

「はい。まぁ仕方ないですよね。」

 

「何だと!!?」

 

淀川は鯉登の発言と少女の返事に、何処から指摘したら良いのか分からず困惑した。

まず鶴見からの連絡の内容が初耳である事、鯉登と少女が昨夜のうちに面識がある事、監視とは言え若い男女が2人きり同じ部屋で夜も過ごす事、そして2人ともそれを了承していると言う事。

 

ーーこの糞ボンボンが!!

 

堅物の童貞と思っていた鯉登の、少女に対する行動の迅速さに淀川は脅威を覚えた。

 

「鶴見に電話する!!!」

 

淀川は叫び、鯉登の制止を振り切り電話をするが、出たのは軍曹の月島だった。“鶴見中尉殿は不在です”と素っ気無く返され電話を切られた。その間僅か5秒、電話交換手の女性との遣り取りより遥かに短かった。

 

 

「貴様は一体何を考えているのだ!監視が必要なら扉の前に誰か立たせておけば良いだろう!?」

 

「小樽の兵舎にいた時はその様にしていたそうですが、内側から扉を燃やされました。悪い事が出来ぬ様に私物を全て取り上げましたら今度は兵舎が全焼しました。どの様に火をつけたのかは不明で、そもそも犯人かどうかもハッキリしませんがつきっきりで監視するしか無いと・・・」

 

「鶴見が言っておったのだな!?」

 

淀川は本気で怒っているが鯉登は至って冷静だった。

それもまた淀川の癪に触った。

この青二才は器量が良い癖に大変な朴念仁のようだが、一緒に長く過ごす事で間違いが起こらないとは限らないのだ。

今のところ赤毛の少女を異性として見てはいない様だが、それはそれで淀川は気に食わなかった。

暫く黙って2人の様子を見ていた少女だったが、険悪な雰囲気が耐えられなかったのか喋り出した。

 

「あの、鯉登さん。」

 

「何だ?」

 

「鯉登さんは大変良い家柄の方だと聞いたんですが、独身ですよね。」

 

「それが何なのだ。」

 

「で、鶴見中尉にぞっこん、と。」

 

「下世話な言い方はよせ、私はあの方を心酔しておるのだ!」

 

「あぁ、ごめんなさい。でもやっぱりアレかな?鶴見さんはウコチャヌプコロさせる気かな・・・?」

 

少女が何やら恥ずかしそうに呟いた初めて聞く単語に、淀川も鯉登も思わず互いに目を合わせた。

 

「田中、なんだそのウコ何とやらは?」

 

「もしや鶴見が何か考えていると言う事かね?怒らないからおじさんに話してご覧なさい。」

 

淀川は少女が慌てて口籠る様子を見て愛らしさを感じながらも嫌な予感がした。しかし鯉登は全く気付く様子もなく苛々としている。

 

「いや、確かに鶴見さんに、私がお相手を探しているとは言ったけどまさかなぁ・・・気にしないで下さい!」

 

「だから何なのだ、そのウコ何とやらは!」

 

「えぇぇ・・・アイヌ語です。」

 

「日本語で喋れ!」

 

「交尾」

「キェェェェェェェェェェェェェッ!!!!」

 

「黙れ鯉登少尉!!やかましいッ!」

 

恐らくは初めて聞くであろう、自顕流の使い手である鯉登の猿叫に赤毛の少女は驚いて固まってしまっている。淀川にはその姿すら可愛らしく思えたのだが、鯉登は逆上して薩摩弁で少女を激しく罵っている。恐らく少女にも鯉登が何を言っているのかは分かっていないが、“喋れって言った!喋れっていったのはそっちだろ!?”と怒り出している。

 

埒があかない・・・そもそも若い男女を同じ部屋に2人きりにさせるなど出来ない。ここは陸軍最強と謳われた第七師団の兵営なのだ、娼館では無い。ウコ何とやらをさせるワケにはいかない。

淀川は意を決して口を開いた。

 

「私もここに寝泊まりする。」

 

「「へ?」」

 

少女は唖然としているし、生意気な鯉登に到ってはかなり不満気だ。やはりこの男は下心があったに違いない、淀川はそう考えた。

 

「何か問題でもあるかね?」

 

「・・・狭いし落ち着かない。」

 

「・・・いえ、ありません。」

 

鯉登は渋々と言った様子で掃除をしている兵卒達に寝台をもう1つ持って来るよう指示を出す。

 

こうして陸軍将校2人と放火殺人の容疑者の奇妙な生活は暫く続いた。

 

 

3人は元応接間で寝台を川の字に並べて寝ている。窓側が少女で入り口側が鯉登、真ん中は淀川だった。

寝台の間には2人の将校の事務机が無理矢理置かれていて、決して狭くなかった元応接間はギチギチに詰まっていて息苦しい。

赤毛の少女は読書が好きなようで暇さえあれば本を読んでいた。基本、寝泊まりしている元応接間を1人で出る事を禁止されている為、寝台に座って1日の殆どを過ごしているが、本を渡せば大人しくしている。

やはりこの少女が放火殺人などするはずがない、淀川は確信した。

淀川が買い揃えた袴を履き、本を読む姿はまるで女学生のようだった。しかも英語が堪能らしく洋書も読んでおり、淀川は感心しながら話しかけた。

 

「それは何と言う話かね?」

 

「『オズの魔法使い』です。以前に読んだ事はあるけど久しぶりだと結構面白いですよ。」

 

「フン、小さな子供向けの話だろう?下らない。」

 

2人の遣り取りを鯉登は羨ましくなったのか、書類に目を通しながらもチャチャを入れてくる。淀川は心の底からこの青年が邪魔で仕方がなかった。

 

「いや鯉登、買って来たのはアンタだろう?何で『高慢と偏見』を頼んだのに『オズの魔法使い』と間違えるんだ。」

 

「ハッ、貴様には恋愛小説など10年早いわ。」

 

「あの話はイギリスの階級社会が描かれているんだ。恋愛描写はどうでも良いから読み飛ばすつもりなんだよ。」

 

「それでは小説の意味が無いだろうが!!」

 

歳が比較的近いせいか、鯉登と少女はかなり打ち解けたようで互いに呼び捨てになって罵り合う事が多々あり、これもまた淀川の癪に触った。

 

しかし少女が旭川に来てから二週間以上経つが、どうも健康状態が良くないようだ。夜は眠れないようで一晩中星空を眺めているらしいし、昼間は寝台に腰掛けたままうたた寝している事もある。偶にボンヤリと外を眺めて泣きそうな顔をしている事もある。

 

一方の鯉登はと言えば最近はかなり機嫌が悪く常に苛々としており、僅かながら業務に支障をきたしているようだ。目の下に薄らと隈があり、寝不足と見られるが、おそらく狭い部屋で複数人で寝るのに慣れていないのだろう。

これだから甘やかされて育ったボンボンは良くない、淀川は軽蔑した。

 

洋書を難なく読んでいる少女を見て、鯉登が唐突に奇妙な事を言い出した。

 

「田中、貴様はロシア語を少しは出来るか?」

 

「・・・少しなら。“安くして下さい”とか“厠を貸して下さい”とか・・・」

 

「それは出来るとは言わないが、まぁ良い。・・・“ばるちょーなく”は聞いた事はあるか?実は昔、そう言われた事があってな・・・」

 

鯉登の顔は深刻だった。

 

「あー、“苦労知らずのおぼっちゃま”とか?知らないけど。」

 

「何だそれは、適当に言ったのか?」

 

「私がそのロシア人ならアンタにそう言うかなぁ。」

 

「適当ではないか!!」

 

「ロシア語の辞書でも買って調べなよ。お金持ちなんだから。」

 

鯉登は少女の発言に苛々しながら、確認を終えた書類を持って元応接間を出て行った。どうせまた鶴見の所に連絡の電話をしに行ったのだろう。

淀川も鯉登も少女の監視の為、事務作業は見られても問題の無い物だけなら元応接間で行っている。

 

今は淀川と赤毛の少女の2人きりであった。

 

彼は以前から少女に聞きたくても躊躇していた事を聞く事にした。

 

「・・・イギリスでは、女性は親の同意があれば13から婚姻が出来ると聞いたが、君も随分と若い内に結婚したのだな。イギリスのご主人に会った事は無いそうだが、やはり夫に対して情と言う物はあるのかな?」

 

「へ?」

 

赤毛の少女はポカンとした顔で淀川を見ている。少女の唖然とした表情に淀川は少し焦った。

 

ーーもしかして知らなかったのか!?

 

「あっ、あぁ、結婚、結婚ね。やだなぁ淀川さん、なんの話かと思いましたよ。」

 

少女は笑いながら話し出す。

 

「ほら、見た目こんなだけど実際には中身はほぼ日本人ですから、イギリスの?夫?忘れていました。アハハ・・・」

 

「あ、あぁそうだな。知らないワケが無いな。」

 

淀川の心配は杞憂だったようだ。やはり彼女は書類上だけのイギリス人の夫の存在を知っていた。

 

「いや、でもね、うろ覚えなんです。日本での生活は苦労が絶えなかったもので夫の事は忘れてしまいました。虐めや差別もありましたし・・・。夫を思い出すかも知れないので、淀川さんが知っている事だけでも教えて頂けませんか?」

 

少女が悲しげに呟いた『虐めや差別』の一言に淀川の心は痛む。

 

「分かった、私が知っている範囲内でなら教えよう。」

 

 

赤毛の少女のイギリスの夫は、彼女の父親の知人であるモラン氏の息子である。

モラン氏は元軍人で欧州で有数の狙撃の名人だったが、今は死刑を待つ罪人である。

少女の夫であるモラン氏の息子の方は貴族院の元議員で、彼もまた父同様に狙撃の名人だ。この人物は生きており逮捕もされていない。

書類上の婚姻は四年前に行われている。

 

 

「あー・・・あの父と一緒に日本に来てた退役軍人さんの息子かぁ。思い出しましたぁ。」

 

少女はヘラヘラと力が抜けたような笑い方をしており、淀川の目には彼女が安心したかのように映った。

 

「その夫は大分年上のようだが、君は気にならないのかね?今、イギリスに行けば間違いなく君は『モラン夫人』になってしまうわけだが、日本にいる限りは独身の『田中安』のままだ。」

 

「・・・ここに来た日の夜に鯉登から言われました。大人しく鶴見中尉に従えば、いずれ彼が問題を何とかしてイギリスに連れて行ってくれるって・・・あぁ、問題って成る程、結婚してた事か・・・。」

 

何か得心したようで赤毛の少女は頭を抱えてブツブツと独り言を言い出した。やはり彼女はいつの間にかイギリスで勝手に結婚させられていた事は嫌だったらしい。

 

「やはり、日本人の恋人がいたのかね?ウチの聯隊の脱走兵の男と噂になっていたようだが・・・。」

 

「あの人は違います。違うんです。」

 

淀川が、山猫と陰口を叩かれている脱走兵の男の話を出すと少女は頑なに否定した。

 

「私の身内に君と歳の近い男がいる、勿論独身だ。落ち着いたら君に会わせたいのだが構わないかね?日本に残って穏やかに暮らすのも悪く無いだろう?」

 

「・・・そうでしょうか?」

 

「そうだ、櫛や簪もその男に買って貰えば良い!正直、箸を頭に挿しておくのもどうかと思うぞ?」

 

淀川は善意から少女に提案したのだが、彼女は考え事をしながら“そうですよね”と虚ろな表情で答えた。

 

 

旭川の第七師団本部に放火殺人の容疑者の少女が送致された日から一ヶ月半が経った頃・・・

駅から第七師団の兵営に繋がる大通りを奥に入った鉄砲店に、1人の若い男が入った。

男は茶色のツギハギのある着物に股引きを履き、肩から小銃を引っ掛けている。頭はざん切り頭、顔には鼻の下まで手拭いを巻いている。

男は店主に自分は猟師であると告げて弾薬を出して貰い、金を払って店から出ようとした・・・その時。

 

男は店に入ろうとしていた、軍服に外套を羽織った客をすれ違いざまに呼び止めた。

 

「尾形上等兵殿!?」

 

「!?」

 

尾形と呼ばれた軍服の男は立ち止まり、自称猟師を睨みつける。

 

「俺ですよ、岡田です!どうしたんですか、こんな所で!」

 

猟師こと岡田は手拭いを外して顔を見せた。

 

尾形は驚いた。久しぶりに会った一等卒が猟師に変装して脱走した陸軍第七師団の、本部のある街にいるのだ。

取り敢えず店から離れて人気の無い路地に入り、岡田に説明を求めると彼は答え辛そうに喋り出した。

 

「や・・・田中が放火殺人の容疑でここに連行されたと言う情報を得たので、玉井伍長殿が俺に確認だけでもするようにと仰いまして・・・。外から双眼鏡で確認して田中は無事なのを確認できたので今から網走の玉井伍長殿に電報を出しに行く所です。」

 

「・・・まさか、助けに行こうとか考えて無いだろうな。」

 

「アイツが逮捕された殺人の容疑に関しては、俺と野間に責任がありまして、流石に看過は出来ません。」

 

岡田から兵舎の火事の一件とその後の事を詳しく聞き、尾形は気が遠くなる。

 

ーー何だってこんな時に・・・

 

「分かった、お前らはまだ動くな。明日兵営に侵入する手筈だからそれまで余計な事はするな!」

 

「?・・・はい。」

 

『兵営に侵入』とはどういう事だろうか。岡田は思ったが、目の前の上等兵の機嫌が次第に悪くなるのを見てしまうと質問も出来ない。黙って自分の煙草を差し出すと彼は一言礼を言って口に咥えて火を点ける。

 

「あ、田中ですが・・・。」

 

「何だ?」

 

「遠目で見ただけですが、だいぶ、その、雰囲気が変わっています。格好も女学生みたいな格好をしていますので気を付けて下さい。」

 

「・・・」

 

尾形が煙草を吸い終わると二人は別れた。

現在尾形には別の同行者がいるが一枚岩ではなく、彼らに不信感を与えない様にする為に合流はまだ出来ないとの事だった。

 

 

「あの間抜けめが・・・」

 

尾形は呟いた。

 




淀川中佐ファンの方、申し訳ありません。
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