気球はそのまま飛び続けた。
このまま別行動となってしまった土方やキロランケ達を網走で待とう、と杉元は言っていたがアンにはそこまで気球が保つとは思えなかった。
陸を走る蒸気機関車は勿論の事、水に浮かぶ蒸気船だって燃料となる石炭が必要なのだ。気球だって空気より軽い気体が入って浮いてはいるが、制御するには何かしらの動力源が必要だろう。
と思っていたら案の定、足場に置かれた機械の様子がおかしくなってきた。
アシリパ達は奇声を上げて機械を叩いているし、尾形は“あれだけ本を読んでいれば何とか出来るだろ?”と少女に稲妻強盗並の無茶を言って来る。
アンはやむ無く機械を見るもサッパリ分からず、取り敢えず適当に回したり引っ張ったりしていたら・・・
取れた。部品の一部が。
「!」
「・・・・・」
「隠せ、いや、捨てろ!!」
小声で尾形に命じられるまま、慌てて他の3人に隠れて金属の棒を下に放る。
「後は風の吹くままだぜ。」
素知らぬ顔で尾形は言った。
気球は空気が抜けて来たのか、ゆっくりと地上に近付いていく。途中、大きな絶壁の岩山にぶつかりそうになり危うく回避する。
アシリパ曰く、この一帯はアイヌではパウチチャシと呼ばれていて、淫魔のパウチカムイが住むと言う伝説があるらしい。
結局、気球は山中に不時着してしまい、後ろから第七師団が追いかけて来ている為そのまま山中の森の中を逃げる事となった。
途中杉元の出血が止まらない為、アシリパがニリンソウを使っての治療をする為に小休止を取る。彼女はかなり杉元の心配をしており、アシリパにとってかなり大事な人間なのは一目瞭然だった。
ーーと、言うより・・・まさか・・・。いや、年齢差がありすぎる。
アンは双眼鏡で第七師団との距離を確かめている尾形に話しかける。
「アシリパは、その、常に杉元に対して・・・あんな感じなのか?慕っているというか・・・。」
「さぁな。」
尾形の返事は素っ気無いものだった。アンは“そうか”と呟きアシリパ達を再び観察していると、尾形が後ろから声をかけて来た。
「お前は?玉井、野間、岡田の中で誰が1番親しみ易いんだ?」
「え?あぁ・・・玉井さんかな。」
「じゃあ、杉元、白石、キロランケは?」
「・・・キロランケさん。」
「ははぁ!やっぱりな。」
尾形の質問の意図が分からずポカンとしていると、彼は髪を撫で付けながら質問の答えを出して来た。
「お前もアシリパも父親の愛に飢えているんだろ。だから年の離れた男を好きになるし、向こうからも好かれ易くなる。」
「!!」
尾形の発言は赤毛の少女にとって衝撃的な物だった。呆然としている少女に対し、彼はニヤニヤしながら話を続ける。
「自分自身の事はなかなか分からんモンだよなぁ。因みに淀川と鯉登はどっちが親しみ易かったんだ?え?同じ部屋で3人いたんだろ?」
双眼鏡で遠くを見ながら、揶揄う様に言って来る尾形に少し苛立ちながらもアンは答えた。
「う・・・ん、鯉登かな?淀川さんは良くしてくれたけど、やっぱり年上過ぎる将校ってのは苦手かも。鯉登は偉そうな所はあったけど、結構良い奴だし話しやすかった。残念ながら落ちて死んじゃったけどさ。」
「・・・」
気付くと尾形は双眼鏡から目を離し、眉間に皺を寄せて不機嫌極まりないと言う表情でアンを見ている。
ーーなんなんだ、コイツは!?アンタが質問してきたんだろうが!!
「・・・玉井伍長殿もキロランケも既婚者だ。変な事は考えるなよ。」
尾形はそう言うと双眼鏡を顔から離し、スタスタとアシリパ達の元へ歩いて行った。情け容赦無く怪我人の杉元達に出立を促す尾形。慌てて尾形の後ろを追いかけるアンはふと鯉登の言っていた言葉を思い出し、尾形と杉元に質問した。
「なぁ、『ばるちょーなく』って知っているか?ロシア語らしいんだけど、ロシアで聞いた事は無い?」
「・・・さぁな。」
「田中さん、確かに戦争でロシアと戦ったけどさぁ、流石にロシア語なんてわからないよ?」
尾形も杉元も知らない様だった。
◇
尾形の双眼鏡で確認した所、第七師団はまだ追いかけて来ており、仕方無く大雪山を越える羽目になった。
アンは大雪山を越えた事は無い。亡き養父が生前のまだ若い頃に大雪山に上り死に掛けたと聞かされており、少女が今迄避けてきた山である。
寒い。
夏とは思えぬ程に寒い。
雪も碌に無いのに風が強く、異常に寒い。
しつこかった第七師団が追跡を諦める位に寒かった。
他の連中は何かしらの上着を着ているが、アンは袴に赤ゲットを羽織り、足はブーツ、頭に角巻を被っているのみである。尾形の外套の裾を引っ張り中に入れて貰うべく試みるが、オホーツク海の流氷より冷たい上等兵は気付かない振りをしている。
憐れんだアシリパが声を掛けてくれ、試行錯誤した結果アンがアシリパを負ぶり、二人羽織の要領でアシリパの毛皮の外套に二人の少女の身体はギリギリ収まった。
・・・が、寒さに対処するのが少し遅かったようだ。
「フハハハハッ!見ろ、尾形!羨ましいだろう!?私の背中に美少女がいるぞッ!!」
突然アンはワケの分からない事を叫び出した。そしてアシリパは自分の身体の下に錯乱した人間がいる事に強い恐怖を覚えたようだ。
「駄目だ、アンが寒さでおかしくなった!杉元、ユクを撃て!雄が4頭いる!」
アシリパが叫んで指をさす方を見ると目の前に鹿の群れがいた。杉元が撃つより早く尾形が鹿を撃つ、それも2頭同時に、そして更に2頭。
急いで4頭の鹿を解体して鹿の腹の中に入る様に指示するアシリパ。
錯乱して大笑いしながら拍手をするアン。
大急ぎで鹿を解体する尾形と杉元。
全裸で明日に向かって走る白石。
「!!」
慌てたアシリパと杉元は淫魔に取り憑かれた白石を追いかけて行くが、いつの間にか白石は戻って来たので尾形は彼を鹿の中に押し込み、そのついでにアンも別の鹿の中に押し込まれる。
鹿の腹の中は真っ暗で血生臭く温かかった。かじかんだ手足の血の巡りが少しずつ良くなり、身体も温まって来てアンは正気に戻った。
アシリパや杉元は大丈夫だろうか、狭い中で身体を芋虫の様に動かして鹿の腹の切れ目から外を伺う。少し離れた所の一頭の鹿の腹から、アシリパと杉元の足が少しはみ出しているのが見えてアンは思わずニヤリと笑ってしまった。
ーー夫婦だな、まるで。
安心した瞬間、温かい鹿の腹の中で少女の意識は少しずつ薄れていこうとしていた、しかし・・・眠たい筈なのに中々眠れなかった。
ーー『夫婦』か・・・
尾形は白石とアンを鹿の中に押し込んだ後、自分も一頭の鹿の中に潜り込んだ。血生臭い匂いは戦地を思い出させたが、温かいのは有り難い。
温かさからかウトウトとしかけた時、自分の潜り込んでいる鹿のすぐ外から風の音とは明らかに違う人間の足音が聞こえた。自分の足元、鹿の腹の割れ目から見えたのは黒い革靴の爪先のみ。
ーー勇作殿!?
時折自分の夢に現れる亡き弟。
今自分が見ているこれは夢なのだろうか、そう思った時、黒い靴の持ち主から話しかけられた。
「尾形、話がある。」
「・・・アン」
尾形の入った鹿のすぐ外に赤毛の少女が立っていた。
◇
身体を屈めて鹿の中にいる男を真っ直ぐ見つめるアン。寒風のせいで色白の顔は青ざめ、睡眠不足から目の下に薄らと隈があるが、目は見開かれて爛々としている。
「寒い。中に入るよ。」
「は?」
赤毛の少女は無理矢理、尾形の鹿の腹に入って来た。
「話なら明日にしろよ、狭いだろうが。」
「駄目だ、アシリパ達には絶対に聞かれたく無い。アンタは玉井さん達について岡田からある程度聞いているんだな?」
二人は鹿の腹の中、ほぼ密着して向かい合っているが、暗いために互いの表情は全く見えない。尾形は煩わしそうに溜め息を吐いた。
「必要な事は岡田から聞いた。今わざわざお前から報告する必要は無いぜ?」
「そうか・・・」
「分かったらさっさと自分の鹿に戻れ。」
尾形はアンを追い出したくて適当にあしらうが、アンは角巻の上から頭を抑えて出て行こうとしない。そして温かい筈の鹿の体内で震えていた。
「おい?」
「・・・尾形、私はもう金塊争奪戦から抜けられないんだろう?だったら最後の最後までアンタに付いて行く。」
「!?」
「それが終わったら・・・アンタに頼みがあるんだ。」
明らかに普段の様子と違う少女に尾形は僅かながら動揺した。
「何だよ頼みって、取り敢えず言ってみろ。」
「聞いてくれるか?」
「あぁ、いいぜ?」
彼は好奇心から、特に守るつもりも無い約束をしようとしていたのだが、少女は少しは安心したらしく安堵の息を吐いたのが音で分かった。しかし彼女の手は頭の角巻を握り締めたままだし、身体もまだ震えたままだった。
しかしアンは思い切って喋り出した。
「私の・・・夫とその父親を殺して欲しい。」
「!!?」
「2人とも凄腕の狙撃手らしい・・・。無理かな?」
誰に対して無理と言っているんだ、と尾形は思ったが、それ以前に目の前の少女が既婚者だった事に驚いてしまった。そして今一緒にいる人間が本当に自分の知っている『田中安』なのか分からなくなった。
鹿の体内は暗くて互いの表情は見えない。
少女は話を続けた。
「実父が私を認知してくれたのは、後継者候補が婚姻によって問題無く後を継げる様にする為だったんだ・・・、私の為なんかじゃ無い!!期待してたつもりは無かったのに・・・こんなに悔しいなんて・・・」
アンの手はいつの間にか尾形の外套を握り締めており、肩は震えている。
尾形は自分の口角が上がっているのに気付いたがそれを無視した、どうせ互いの顔は見えないのだ。
彼は少女の頭を被り物の上から優しく撫でる。先程アンが掴んでいた角巻の辺りに何やら硬い手応えを感じたが、パチンコ用の石でも入れているのかと思い気にしなかった。
「分かった。ただしこの金塊争奪戦が終わってからの話だ。もう最後まで抜けるんじゃねぇぞ?」
「!?本当に?」
「あぁ、約束するぜ?因みに何処のどいつなんだ、その父子とやらは。」
「イギリスの死刑囚と元議員の男だ。」
「・・・イギリスかよ。」
先に言え、尾形は思った。
◇
アンは鶴見中尉から聞いた父に関する事は大体尾形に伝えた。ただ『秘密結社』の話は濁している、というのも玉井達に全く信じて貰えなかったので、話すのが躊躇われたのだ。
「・・・尾形は?」
「?」
「尾形の・・・その、父親は・・・旭川の兵営にいた時にアンタの父親と弟の写真を見た。」
鯉登に見せて貰った写真だが、どうも尾形は彼が嫌いなようなのでアンはその事は黙っておく事にした。
「・・・どうせお前の事だから知っているんだろ?」
「亡くなったと新聞で読んだ。切腹に戦死・・・私が知っているのは世の中に出回っている情報だけだ。」
この男の口から喋らせたい、宇佐美や他の人間からではなくこの男から。今迄、信憑性さえ高ければ情報源は拘らなかったので何故そう思ってしまったのかアンは自分でも不思議に思ったが、この男がそんな事を素直に喋るとも思えなかった。
「・・・それであってる。変な事を聞く奴だな。」
やはり駄目だ。少女はすぐ目の前の男に腹が立って仕方が無いので、憎まれ口を叩く。
「写真見たけどアンタ、父親に顔がソックリだな。口髭は生やすなよ、多分似合わないから。」
自分の情報を喋ったら相手から情報を引き出し易くなる筈なのだが、この邪悪な男には通用しなかった。まぁ邪悪だから仕方無いよな、とアンは自分を無理矢理納得させる。尾形は黙ったまま手で鼻の下を摩っている様子で、少女の嫌がらせが少しは効いているらしい。取り敢えずはそれで満足する事にした。
「話したかった事はこれだけだ。自分の鹿の所に戻るよ、狭いし。」
「なぁ、最後に一つ聞かせろ。『バルチョーナク』の意味について、お前は鯉登に何て答えたんだ?」
突然の脈絡のない質問にアンは驚いた、何故この男はそれを聞いて来たのが鯉登だという事が分かったのだろうか。
「もしかして、アンタが鯉登にそう言ったのか!?」
「さぁな、過去は気にしない様に心がけているからな。」
“気にしない様に心がけている”と言う事は“気にしている”、“忘れられない”と言う事だろうが、と言いたくなったが、どうせはぐらかされるのは目に見えていた。
「適当に答えたよ。『苦労知らずのお坊ちゃま』って言った。」
「ふッ・・・クク・・・」
最初尾形は押し殺す様に笑っていたが、途中から我慢が出来なくなった様で爆ぜるように大笑いし出した。
“尾形!?五月蝿いッ!!狭いし五月蝿いッ!!”アンは余りの五月蠅さに耳を塞いだが男の笑いはどツボにハマったのか中々収まらない。狭い鹿の体内に逞しい男の笑い声が充満して溢れ出す。
ーーそういえばコイツの笑いの好みは他人と少しズレがあったな!
出会ったばかりの頃にしょうもない駄洒落を聞かされたのを思い出した。彼の上官の玉井も偶にしょうもない事を言い出す時があったので、もしかしたら尾形のソレは玉井の影響かも知れない。
笑いが収まった所で、尾形に改めて自分の鹿の所に戻る旨を伝える。
アンは芋虫の様に身体を動かして尾形から離れようとしたが、不意に男に左腕を掴まれた。そのまま引っ張られて腹の辺りに腕を回されて後ろからしがみ付かれる様な格好になる。
「おがた・・・?」
「ガキの体温は高くて暖かいからな、出て行かなくて良い。」
私は狭いんだが、と言いそうになったが止めた。邪悪な上等兵殿の機嫌が良さげなのだ、暗くても声色で伺える程に。
ーーそんなに面白かったのか?
不可解である。
「お前・・・暫く会わないウチに縦に少し、横はだいぶ大きくなったな。狭い。」
「・・・出て行こうか?」
「いや、我慢する。」
その我慢は誰の為の我慢なのか・・・尾形はアンにしがみついたままウツラウツラとし出したので、少女は自分の鹿に戻る事を諦めた。
「おかえり・・・」
尾形が呟いた。
そんな事を言って貰えるとは全く思っていなかったアンは驚いたが、身動きは出来ないし自分にしがみついている男の寝息が聞こえてきた為、大人しくしている。
「・・・ただいま、尾形。」
睡眠不足からアンも直ぐに眠ってしまった。
夢を見た。
亡き母に叱られる夢だった。