ある悪人の前半生   作:土鳩

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変質的であまりにも人間的な

大雪山を越えて東に向かう一行は釧路の湿原で丹頂鶴の鍋を食べていた。久しぶりの大型の獲物だったのだが・・・不味い。泥臭い。

アシリパの調理の腕を以てしても美味しくならないのだから、もう食材自体に問題があるとしか思えない。

 

「田中さん、平気な顔だね。」

 

不味そうに眉を寄せている杉元に指摘されるが、年に一回は餓死しかかっていた赤毛の少女にはこの程度の我慢は簡単に出来る。

アシリパも杉元も白石も鶴鍋に対して何とも言えない表情をしていた。ふと、隣の尾形を見ると無表情で肉を食んでいる。美味いのか不味いのかも分からない顔である。

 

ーーコイツそう言えば、“頂きます”も“ご馳走様”もましてや“ヒンナ”も言わないな。

 

アシリパに何度も指摘されていたが、尾形は飽くまで強情だった。

 

ーー食事に対して良い思い出がないのか?

 

それなら食べ物に感謝出来ない気持ちも分かる。この男にとって食べると言う行為は腹を満たすだけ、栄養を取るだけなのだろう。自分みたいに餓死しかける事が有れば“ヒンナ”と言うだろうか。全く寂しい男だ。

 

「杉元は・・・どうして金塊が欲しいんだ?」

 

アシリパが杉元に尋ねた。どうやらアシリパも彼がどうして金塊を欲しがっているのか分かっていなかったらしく、アンは意外に思った。

 

「戦争で死んだ親友の嫁さんをアメリカに連れてって、目の治療を受けさせてやりたいんだ。」

 

「“惚れた女のため”ってのは、その未亡人の事か?」

 

杉元の返答に対し、尾形が余計な一言を言ったようで、アシリパと杉元の間に何とも言えない空気が流れる。

その空気に耐えられなくなったのか、アシリパが突然『サロリンリムセ』、和名で鶴の舞と言う釧路伝統の舞を踊り出した。着物の裾を両手で掴んで持ち上げる事により、羆が逃げて行くらしい。

 

「こっちに誰かくるぞ。」

 

尾形が何かに気付いて指をさした先を見る。

10歳くらいのアイヌの少年と、20代半ばくらいの切れ長の目で唇に刺青をしているアイヌの美女がいた。

 

ーートカプ小僧!!?

 

少年は、以前から赤毛の少女が小樽のコタンを訪れる度に彼女の胸を見ながら、“いつアン姉ちゃんのトカプは大きくなるの?”と失礼極まりない質問を悲しげな表情でしてきた少年、チカパシだった。しかもその後ろには遠目にもはっきりと『大きい』と分かるトカプ所有者のアイヌ美女がいる。

 

ーーなんちゅうマセガキだ!!

 

親がいないと大人びる物なのだろうか、しかしそっちばかり大人になってどうするのだろう。チカパシと巨トカプ女は湿原を走りながらこちらに向かってやって来た。

 

「チロンヌプとチカパシだ、何でこんな所に!?」

 

「チロンヌプ?」

 

女を『狐』と呼ぶアシリパにアンは驚いた。この美少女は巨トカプ女を嫌っているのだろうか。

 

「アン姉ちゃん、ようやくトカプが少し大きくなったね。おめでとう!!」

 

久しぶりに会ったトカプ鑑定士・チカパシに祝福されて“ありがとよ”と雑に返事する赤毛の少女を見ながら、トカプの意味を察した尾形は笑いを堪えていた。

 

 

チカパシと一緒にいた女はインカラマッと名乗った。

どうやら彼女は占いが得意らしく、白石がアンに占って貰うように勧めて来たのだが、アンは別に頼んでもいないのに、今はそれどころじゃ無いので後にして欲しいと言われてしまった。

 

そして赤毛の少女だけに衝撃の事実が判明した。

 

「谷垣!?って谷垣さん?マタギの?」

 

玉井達と山で別れて別行動になったまま、兵舎に戻らなかった谷垣一等卒が生きていた。

 

「田中さん、谷垣の知り合い?」

 

「あ、うん・・・。尾形の知り合いは大体知っているから。」

 

杉元の質問に対して慌てて取り繕った。

尾形をチラリと見ると、どうやらこの男も彼が生きていた事を知っていたようで驚く様子は無いが、機嫌が悪い。いつも以上に邪悪な表情をしている。

 

チカパシ達によると谷垣は『カムイを穢した』容疑で怒った地元のアイヌに追われているらしい。しかしそれは濡れ衣で、本当は姉畑支遁と言う学者が谷垣から奪った銃を使って動物を穢しているようだ。

 

ーーさっきの雄の鹿!

 

アシリパも杉元も気付いた様だ、しかも網走の刺青囚人の可能性があるとの事だった。

谷垣を助けつつ刺青人皮を手に入れる・・・チカパシ達と利害が一致した事もあり、協力する事になった。

 

 

アシリパと杉元は真犯人である姉畑支遁を探し、アンと尾形と白石はインカラマッとチカパシと共に釧路の町で待機となった筈だったが・・・。

 

尾形がいつの間にかいなくなっており、アンは嫌な予感がして慌てて彼を探しに森に入った。

途中小柄な中年男に話しかけられて尾形の特徴を伝えるも彼は知らないようだった。かなり離れた木々の間に外套がちらっと見えた為、男に礼を言ってそちらに走って行く。

 

「お前は谷垣とは話をした事があるんだよな。アイツについて、どう思う?」

 

漸く見つけたと思い駆け寄ると、唐突に質問された。

 

「優しい人だと思う。アンタの聯隊の人間は癖が強い人が多かったけど、比較的マトモと言うか・・・。玉井さんが一生懸命に造反に誘ってたみたいだけど、あの人の性格じゃそれは無理だね。」

 

「・・・最初、アイツが玉井伍長達を殺してお前の事を鶴見に密告したのかと疑っていた。だからお前が鶴見に監禁されてそのまま火事で死んだと思って、4人の復讐と口封じをするつもりで二階堂と一緒にアイツを殺そうとした。」

 

尾形の言葉に少女は驚愕した。自分が日高で足止めされている間に、哀れな谷垣は尾形と二階堂と言う邪悪な男達に追い回されていた様だ。

 

尾形は更に続けた。

 

「アイツを殺さねェとな。鶴見と繋がっているかも知れん。」

 

それはどうだろうか、アンはそう言いたくなったのだが目の前を歩く上等兵殿の全身から殺意が滲み出ていて怖くなり、白石達の所に戻ろうとは言い辛い。

 

ーーこの男、単に造反に加担しなかった事を恨んでいるのでは?

 

玉井達3人が生きて網走にいるのを知っているのはアンと尾形だけだ。

羆の巣穴に潜んでいた杉元も、“やかましかったけど、外に出たら誰もいなくなってた”と不思議そうに言っていた。杉元達が谷垣と最初に出会ったのはそのすぐ後らしい。

 

ーーアシリパ!杉元!!頼むから先に谷垣さんを見つけてくれ!

 

因みに赤毛の少女の願いは誰にも届かなかった。

 

 

沼の淵を逃げ惑う谷垣、追いかけるアイヌの男達、気付いて慌てて止めに入るべくアイヌ語で叫ぶアン。

 

 

全員の動きは一発の銃声でピタリと止まった。

 

「久しぶりだな、谷垣一等卒。」

 

アイヌの男達に押さえ込まれた谷垣は尾形を見て驚いている。

 

「尾形上等兵!!」

 

「おっ・・・尾形!落ち着け、まず銃を下に下ろすんだ。」

 

少女は尾形と谷垣やアイヌの間に立ち塞がって庇おうとしたのだが・・・

 

「アン、死にたく無ければこっちに来い。」

 

「はい。」

 

呆気なく諦めた。

 

「田中殿、生きていたのか・・・。」

 

後ろから安堵した様に呟く優しい谷垣の声が、死を擬装して逃亡した赤毛の少女の心に深く刺さる。

アンは今にも暴走しそうな上等兵に恐る恐る進言した。

 

「尾形・・・谷垣さんが鶴見中尉に繋がっているとは考えられ無いよ。」

 

「谷垣、貴様は小樽にいた筈だ。鶴見中尉の命令で俺を追って来たのか?」

 

ーー無視かよ!!

 

丸っと綺麗に無視された。

 

谷垣の言い分は、アシリパを世話になったフチの許に連れて帰る為に小樽を出たと言うが、人の心が無い上等兵殿には刺さらなかった様だ。

おまけに突然現れた軍人に警戒する武装アイヌ集団(4人)と異常に好戦的になっている北鎮部隊上等兵(1人)が一触即発の雰囲気になっていく。

丸腰のアンと谷垣の声は誰も聞かない。

温厚そうなアイヌの村長が止めに入るまで、少女は18の誕生日を迎えられ無いであろう事を覚悟した。

 

村長命令でアイヌの男達に縛り上げられて無理矢理コタンに連行される谷垣、その後を尾形はニヤニヤと笑いながら着いて行く。

 

「尾形、白石達の所に戻ろう?」

 

「いや。」

 

非情な男は谷垣の最期まで見届けたいようであった。

 

 

小熊の檻に縛り付けられた谷垣、周りのアイヌの男達は谷垣の処遇をどうするかで揉めており殺気立っていた。

高床式の食糧庫に腰掛けた尾形は黙って様子を見ており谷垣を庇う様子は無い。アンはアイヌの男達に割って入って谷垣の無罪を主張するも、小生意気な態度が彼らの癪に触った様で大男に摘み出されそうになっている。

 

「俺達のやり方でこいつを裁く!鼻と耳と足の腱を切る!!」

 

 

大男の一言で赤毛の少女は逆上した。

無実の罪で似たような目に会った男と谷垣の顔が頭の中で混ざり合った。

 

気が付いたらアンは袂に入れていた鞭を振り回して大男の首に巻き付けていた。

そのまま力を込めて男の太い首をギリギリと締め上げる。首を絞められた男は鞭を首から外そうとしてもがき、呻きながら首を掻きむしっていた。

 

「田中さん!?」

 

後からやって来た杉元に慌てて腕を掴み、羽交い締めにされて止められた。

 

「!?」

 

更に杉元は、鞭から解放されて食ってかかるアイヌの大男を拳一発で殴り飛ばし気絶させ、他のアイヌをも黙らせた。

 

「ごめん、杉元・・。つい、カッとなって・・・。」

 

我を忘れて人間を殺しかけた・・・しかも油断されてたとは言え大男を相手にだ。少女はその事実に呆然としている。

杉元は、気にするなと言いながらも苦笑いしており、アシリパに至ってはアンを心配している。

尾形は・・・食糧庫の床に腰掛けて拍手をしてご満悦な様子だった。

 

ーーこの野郎!!何を笑ってんだ!?

 

小さく背中を丸めつつも恨めしげに睨みながら尾形の所に行くと“意外とやるじゃねぇか、お前”とご機嫌な様子で言われたが、何も嬉しく無かった。

 

「犯人の名前は姉畑支遁、上半身に刺青がある男だ。」

 

杉元はそう言いながら谷垣のシャツのボタンを弾き飛ばし、胸を露出させて豊かな胸毛を毟る。谷垣には刺青が無いと言う証明をしていたのだろうが、風に飛ばされた谷垣の胸毛はタンポポの綿毛の様に飛び、アシリパの顔にくっついて根を生やそうとしているかの様だった。そしてアシリパはくしゃみをして全力でそれを拒否していた。

 

アイヌの男達は3日だけ谷垣の処刑に猶予をくれた。

ただし、谷垣は小熊の檻に入れられて逃げない様にされてしまい、暴れていたアンは鞭を没収されてしまう。

谷垣曰く姉畑の次の目標は羆らしい。

杉元は刺青ごと食べられてしまうと焦り、尾形とアンを谷垣を守る為にコタンに残し、アシリパと2人で姉畑捜しに行った。

 

「言っておくが、俺の守る方法は手段が少ないぞ。」

 

アイヌの男達をチラリと見ながら出立前の杉元を脅す尾形の隣で、赤毛の少女は殺人衝動から覚めたばかりでボンヤリと突っ立っている。頭の中の激情を鎮める為に下らない事を思い浮かべるように努めていた。

 

ーー谷垣さんは乳首が綺麗だったな。

 

アンは姫の乳首を思い出していた。

 

 

食糧庫に夜の食事を運んで来てくれるアイヌの男はキラウシと名乗った。話を聞くと、幼い頃に頭に鹿の角を着けて遊んでいたのが名前の由来らしい。

男の渋い見た目から想像出来ない可愛らしい思い出話に思わず話が弾んだが、頃合いを見計らって頼んでも鞭は返してくれなかった。仕方なく食糧庫に上ってムスッとした顔でキラウシの持って来てくれた食事を食べる。

真っ暗な夜の闇の中、ランタン1つ挟んで横に座る尾形は黙って何かを言いたげな顔でアンの食べる様子を見ていたが、“平気なら俺の分も食べろ”と譲ってくれた。

やけに優しい尾形の様子に思わず理由を聞いたが、“食欲がわかない”と答えている。

 

ーーコイツ、鹿の肉苦手だったのか?

 

2日前に獲られたと言う鹿は余った肉を保存できるように燻製にしたらしい。少しギリギリな感はあるもののなかなか味わい深い。今朝見つけた姉畑に穢された牡鹿なら絶対に食べはしないが、これなら大丈夫だ。

 

「おかわりしたいな。」

 

「まだ食う気かよ・・・。」

 

尾形は呆れていたがそれを無視してキラウシのチセ(家)に向かおうとすると、後ろから尾形に声をかけられた。

 

「鹿の角があったら貰って来い、小さい破片みたいなヤツが良い。姉畑の穢した鹿以外だ。」

 

「?分かった。」

 

キラウシに声をかけて鹿の角をもらう事が出来たので持って尾形の元に戻ろうとしたが、谷垣の様子が気になり小熊の檻に向かった。

 

「谷垣さん?」

 

檻の中をランタンで照らす。

谷垣は食事に手を付けず胡座をかいて座って項垂れていた。元気無くしょげている毛深く逞しい男の様子に赤毛の少女の心は痛んだ。

 

「田中殿・・・、巻き込んでしまってすまない。」

 

「気にしない!それよりちゃんと食べないと3日の期限前に倒れるよ?」

 

「あぁ、そうだな・・・。ところで、田中殿は尾形とはまだ良い仲なんだな。あまり言いたく無いが・・同じ男から見ても、尾形は・・・。」

 

谷垣の言いたい事は良く分かる、そりゃそう思うだろう。アンは返答をはぐらかす為、前から気になっていた事を谷垣に伝えた。

 

「『田中殿』っての止めてくれ。『田中』で良いよ。」

 

「む・・・じゃあ俺も『谷垣』で良い。田中・・が尾形の事を呼び捨てにしているのに、俺は“さん”付けなのは気が引けるからな。」

 

「フハッ!!分かった。じゃあ谷垣、で。」

 

軍隊の上下関係はそこを離れた人間にも影響があるようで思わず吹き出してしまった。しかし少し笑顔を見せた谷垣に少女は安心し、『山芋』より呼び捨ての方が遥かにマシだと言ってやりたくなった。

 

「ほら、ちゃんとご飯食べて元気を出すんだ谷垣!残念ながらおかわりはもう無かったけどなッ!」

 

笑いながら谷垣を励ますが、谷垣は汁椀に手をつけるのを躊躇っている。

 

「・・・田中は平気なんだな、心が強いな。」

 

「へ?」

 

「姉畑の鹿。」

 

ーー!?

 

「知らなかったのか?この鹿肉は2日前に姉畑が穢した牝鹿だぞ?今朝の鹿とは別だ。」

 

 

「尾形百之助ェェェーーー!!!」

 

アンは思わず自分に鹿汁を押し付けた男の姓名を絶叫した。突然自分の名前を叫ばれて驚く男にアンは詰め寄ったが、”お前ならそれくらい平気かと思った”とか“知らなかった事を知らなかった”とか悪びれる様子も無く言われる。

少女は胃から食道へ駆け上ってくる鹿を全身で感じ、口に手をあてて嘔吐くも、“吐くなよ”と尾形に冷たく突き放されて死に物狂いで耐えた。

 

 

杉元とアシリパが『姉畑狩り』に出てから丸1日が経った。この日は朝から雨が降っていて、アンは食糧庫の中に入り、尾形は濡れない様に外套を頭から被り、小銃にも布を被せていた。周囲を警戒しながらも昨日アンから渡されたキラウシの鹿の角を銃剣で削っている。鹿の角は削られて20センチくらいの長さになっており、何を作っているのか尋ねても“五月蝿い”の一言のみで答えてくれない。

 

「銃剣じゃやり辛いな。アン、小刀持ってねぇか?」

 

「無い。」

 

「ハァ、お前それでも猟師かよ。」

 

前までは持っていたが、鶴見中尉に監禁されたり旭川に連行されたりする度に刃物は取り上げられてしまっていた。旭川からは空と登山の旅が続き、小刀を買う機会もなかった。

 

「キラウシさんにマキリを借りて来てやるよ。」

 

辛気臭く溜め息を吐く男から離れてキラウシの元に行くが、“お前、刃物持たせたら何するか分からないから”と断られてしまう。

尾形は小さく舌打ちをして鹿の角のカケラを衣嚢にしまった。

 

昼になりキラウシが昼飯を持って来てくれたが、昨夜の事がありアンはなかなか手をつけられなかった。朝飯も肉には手をつけておらず、キラウシに“好き嫌いするな”と叱られている。側に座っている尾形を見るとニヤニヤ笑いながら少女の様子を見ていた。

 

「アンタ、少しは私に対して“悪かったな”とか思わないのか!?」

 

「キラウシが夕飯の話をしてた時、お前は谷垣のはだけた胸見てボンヤリしてただろうが、助平が。自業自得だ。」

 

ーーあの時か!?

 

少女が姫の乳首を思い出してた時に鹿肉の話はされていたようだった。

尾形が黙って昼飯を食べ出したので安全だと判断し、アンも恐る恐る食べ出すがどうにも不安が残り味わう事が出来ない。

 

ーー早く姉畑を見つけて帰って来てくれ、アシリパ達!

 

姉畑の縄張りにいるウチは食事を楽しめない、そう思ったのだが・・・夜には雨が上がったがアシリパ達は戻って来なかった。

隣に座る意地悪な男は相変わらずニヤニヤ笑いながら赤毛の少女が食事するのを眺めている。床に置いたランタンに下から照らされた上等兵のニヤついた顔は、いつも以上に邪悪に見えた。

 

「・・・アンタ本当に罪悪感が無いんだな。私が気の毒だとは思わないのか。」

 

「ハハァ、喜べ。面白いヤツだとは思っている。」

 

残念な事に何も嬉しくなかった。

アンが黙って食事をチョビチョビと少しずつ食べ出すと、尾形はニヤケ顔を止めて真面目な顔で話をし出した。

 

「・・・お前にはあるのか?罪悪感というヤツが。」

 

「へ?」

 

「俺には無い。」

 

アンがただの嫌味で言った罪悪感の一語に、尾形は必要以上に反応していた様だ。面倒臭い男だな、と思いながらも真面目に答えてやる事にした。

 

「自分には無い、と思い込んでいるだけだろう?アンタ、『オズの魔法使い』の話を知っているか?」

 

「・・・いや。」

 

「竜巻に巻き込まれて魔法の国に行った女の子が旅をする話だよ。カカシとブリキの木こりと臆病なライオンが、自分に無い物を手に入れる為に主人公と一緒に悪い魔女と戦う為の旅をするんだ。」

 

「・・・桃太郎かよ、子供の話じゃねぇか。」

 

「まぁ、最後まで聞きなよ。カカシもブリキもライオンも自分に足りない物を求めて旅していたんだが『無い』と思い込んでいただけで、実は彼らは最初から持っていたんだよ。・・・アンタもそうじゃないのか、人より薄いだけでさ。」

 

「いや・・・多分無い。」

 

「そうか?」

 

アンはふと姉畑の性癖を思い出した。

 

「姉畑支遁にも罪悪感はあるんだ。穢した動物を殺めるのなんて、自分の過ちを無かった事にしたい現れだろう?姉畑にあるんだから、アンタだってあるよ。」

 

「俺と姉畑を同列にして語るな。」

 

至極真っ当な批判をして尾形はそっぽを向いてしまった。どうやら気難しい上等兵殿の機嫌を損ねてしまったようだ。

 

ーー本当に面倒臭いヤツだなァ。

 

少女は高床式の食糧庫から下りて、キラウシの所に空の食器を返しに行った。ついでに彼からある物を借りてくる。

 

「ほらほら、尾形上等兵殿、煙草だ。キラウシさんから借りて来たぞ!」

 

食糧庫の下から、上に座る尾形に声を掛けた少女の手には2本の煙管と煙草入れ、それにマッチがあった。

チラリとそれを見る尾形は、煙草に少しは関心があるようだ。アンはキラウシの見様見真似で、煙管に煙草の葉を詰めてマッチで点火、煙を吸う。

 

「ヴォエッ!!」

 

初めての煙草は吐きそうな位に臭く、またしても尾形に“吐くなよ”と言われてしまう。吐き気をこらえつつ、頭の中に上空から見た北海道の自然を思い浮かべて気を紛らわしていると、尾形に煙管を取り上げられた。

 

「まぁ、悪くねぇな。」

 

吸い口を軽く拭って煙を吸った尾形は少し機嫌が良くなった様だ。

 

その様子を檻の中から谷垣は黙って見ている。すると、何故か苦手な煙草をふかしながら、赤毛の少女が自分の方にフラフラとやって来たので慌てて目線を外した。

 

 

杉元とアシリパが『姉畑狩り』に出てから2日と半日が経った。今日の昼迄に姉畑が捕まらないと谷垣は耳と鼻と両脚の腱を失ってしまう。

アンと尾形は食糧庫に腰掛けたまま2人の帰りを待っていたのだが、もう限界だった。

 

「尾形、私がキラウシさん達を引きつけるから谷垣を連れて逃げてくれ。昨夜のウチに小熊の檻の修復箇所を見つけて、ソコの縄の結び目を焦がしておいたから解けやすくなってるはずだ。」

 

「は?」

 

初耳であった。

お転婆娘はどうやら尾形と見張りを交代した隙に吸えもしない煙草を吸うふりをしながら谷垣の檻に近づき、火種を檻の縄の結び目に押し付けて焦がしていたらしい、それも何ヶ所も。

 

ーー煙草はその為か。

 

尾形は感心したが、複雑な気持ちだ。

 

「お前かなり顔色が悪いぞ、慣れん事をするからだ。俺だって何も考えて無かったワケじゃねぇんだ、後ろの食糧庫から穀物の袋を持って来い。」

 

彼はニヤリと笑い、頭まで被っていた外套を脱いだ。

 

見張りの男達が寝ている隙にアンと尾形は谷垣を檻から出し、穀物の袋を重ねて外套やアットゥシを被せて

逃げていないかの様に擬装した。

 

必死にコタンを離れて湿原を逃げる3人、谷垣は逃げる事に引け目があるらしく“杉元達を待とう”等と言い出すが、尾形に脅されてやむ無く走る。

 

「大丈夫か、田中?」

 

煙草の影響なのか目眩がしながらも走らざるを得ないアンに、谷垣は優しく声をかけてくれた。チラチラと視線を送るだけの邪悪殿とは大違いで、フラフラと転びそうになったら腕を持って支えてくれる。

 

突然、湿原に銃声が響いた。

 

ーー杉元か!?

 

銃声のした方に3人は走る。アシリパ達が姉畑支遁を捕まえたのかもしれない、これでやっと姉畑に穢された土地から離れられて安心して食事が出来る、少女は期待に胸が膨らんだ。

 

後ろから3人の脱走に気付いたキラウシ達が追って来て尾形と谷垣は焦っていたが、アンは希望に満ちた顔で銃声が聞こえた場所に到着した・・・。

 

 

突然の不快感に呻く羆。

恍惚と羆の尻にしがみ付く半裸の中年男。

目の前の超常現象に固まる軍人とアイヌの男達。

 

「なんてこった・・・」

 

「信じられん、みんな見てるか?」

 

「やりやがったッ、マジかよあの野郎ッ、やりやがった!!姉畑支遁スゲェッ!!」

 

 

一人だけ狂喜と興奮が入り混じった感想を漏らす人間がいたが、アンはそれどころじゃ無かった。

幼いアシリパがこの狂気かつ卑猥な瞬間を見ている可能性があるかも知れないが、アンはそれどころじゃ無かった。

 

何処かで見た気がする男は必死に自らの腰を羆に押し付けている。下半身は裸だ。

・・・何が行われているか分からない程、彼女はウブでは無い。

 

 

「ヴォエッ!!」

 

「おい、吐くなよ?」

 

尾形に言われるまでもなく一生懸命に気を紛らわせるべく頭を回転させる。

 

ーー気球からみた景色、夏の北海道の緑、爽やかな風・・・

 

「田中、しっかりしろ!」

 

谷垣が少女に近付き声を掛けるが、熊の檻に入っていた男からは羆の匂いが仄かにするし、驚いてボタンが吹き飛んだ胸元からは谷垣の乳首が見える。

 

ーー姫の乳首!穢される羆!!

 

「阿呆が、我慢しろ!」

 

尾形が慌てて右手で少女の口を抑えた。

 

煙草の臭いがした。

 

 

限界を迎えた。

 

 

アンは出すモノを限界まで出して倒れた。

 

薄れる意識の中で誰かが自分を抱えて運んでくれているのが分かったのだが、相手を確認する気力は無い。煙草の臭いがしたので恐らくキラウシあたりだろうと思いながら気が遠くなっていった。

 

 

目が覚めると彼女は薄暗いチセの中に横たわっていた。

 

「起きた!!」

 

嬉しそうなキラウシの声がしたので、やはり自分を運んでくれたのはキラウシと思われる。彼に勧められて水を飲み、その後どうなったのか聞く事ができた。

 

姉畑は羆の尻にしがみついたまま亡くなったらしい。そして杉元が羆を倒して姉畑の刺青を剥がしたようだ。羆は解体され、尾形達は今別のチセで仲直りの宴会を開いている最中と言う事だった。

 

「起きたからもう大丈夫だな?俺も呑みに行って良いか?お前も後から来い!」

 

キラウシはそう言うとチセを飛び出して皆の所へ行ってしまった。

 

ーー姉畑は死んだのか。

 

興奮しすぎて腹上死したようだ。

国や時代が違えばもしかしたら彼のした事は罪にも倫理的にも問われなかったかも知れないし、罪悪感を感じて動植物を傷付ける事も無かったろうに・・・。

 

ーーいや、でもやっぱり不快には違いないな。

 

アンはチセから出て外の空気を吸った。

夏の夜空は春先のそれとは星の位置が変わっていて、以前作った玉井座は傾いてしまっているので、新しく玉井座を作り直した。尾形座も作ろうとしたがやはり上手く出来ないので何度もやり直していると、賑やかなチセから尾形が出て来た。

 

「・・・起きたか。アシリパがお前の事心配してたぞ。」

 

ーー!!

 

倒れる前に何があったのかを思い出し、アンは血の気が失せた。

 

「お・・おがた、ごめん。その・・手は・・・。」

 

「何度も洗ってやっと臭いが取れたぜ。嗅いでみろよ。」

 

アンが差し出された右手に顔を近付けて臭いを嗅ぐと、そのままペシリと真正面から顔面を軽く叩かれた。

 

「痛い!」

 

「ははぁ、これでおあいこだな。」

 

『おあいこ』という事はこれで許してくれたと言う事だろうか、顔を摩りながら“戻るぞ”と言う尾形の後を付いて歩く。やけに優しいのが気になったが、早く来るように急かされて考えるのを止めた。

 

宴会をしているチセに入ると泣きそうな顔のアシリパにしがみつかれた。吐いたのもそうだが、初日に我を失って暴れた事をずっと心配していたようだ。

 

恐る恐るアイヌの男達の方を見る。

"嬢ちゃんも呑め!和解しよう!”と言われたが、流石に吐いて倒れたばかりなので断った。あの首を締めてしまった大男には“あのムチってヤツは良いな!譲ってくれ!”とまさかの頼まれ事をされるがやはり丁重にお断りした。

 

ーー谷垣の誤解が解けたから完全に和解したのか。

 

宴会は遅くまで続いた。

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