「え?アシリパはもう起きたのか?」
アンが朝起きた時にはアシリパは既に親族のチセを出ていた。杉元曰くどうやらマンボウを獲りに行ったらしい。
皆でアシリパの親族のコタンを出て海岸に向かう。杉元達はハマナスを採集しに行くが、相変わらず尾形は一人で別行動を取り出したのでアンは慌てて彼の後を追った。
「何だ、こっちに来たのか。」
波打ち際を歩く尾形は自分の近くに走り寄る赤毛の少女を見つけると、素っ気ない態度を見せた。
「ハマナス食わなくても良いのか?生食出来るんだろ?」
「・・・良い。」
「そうかよ。」
黙ったまま2人で波打ち際を歩く。アンは昨夜考えていた事を尾形から聞きたかったのだが、どう聞き出したら良いのか迷っていると、尾形から話し出した。
「お前、アシリパとは大分前からの知り合いだったんだな。」
「・・・うん。」
「アイツの父親に会った事あるのか?」
「無い。初めてあの子に会った時は既に亡くなってた。いや、亡くなった事になってた、かな?」
「そうか。」
また会話が止まってしまった。少女には目の前の男が何を考えているのかが分からなくなって来た。
「・・・釧路で玉井伍長殿に電報を送った。網走に到着したらあの3人に一度合流する。」
どうやら尾形は三八式の弾を買いに行ったのではなく、密かに電報を送っていたらしい。そしてアンは尾形の言い方に違和感を感じた。『一度』とはどう言う事だろう。
「そうか、皆に会わせるのか?」
「・・・いや。」
やはりこの男は今の集団とはいずれ袂を分かつつもりのようだ。飽くまでも中央の人間として動くのだろう。
「尾形、アシリパは金塊に興味が無いんだ。父親に会いたいだけなんだよ。杉元だって幼馴染の未亡人の手術代が欲しいだけだ。蝦夷共和国は無理でもそれくらいは何とかなるだろう?白石は知らん。」
「・・・お前は最後まで俺に着いていく、と言っていたよな?」
「うん。」
「分かっているだろうが口を滑らすなよ。話は以上だ。」
尾形はそう言うと一人で歩いて行ってしまった。少女は後を追おうか迷ったが、これ以上話をしても男は何も教えてくれないだろうと考えて皆の所に戻る事にした。
ーー蝦夷共和国、夢があって面白そうではあるけどなァ。
しかし、中央とやらは信用して良いのだろうか。『狡兎死して良狗煮られる』・・・尾形達が死に物狂いで目的を果たしても、用済みかつ口封じで消されてしまうのでは無いだろうか。目的を果たせなければ尚更だ。
尾形の『中将になる』夢も父親に見捨てられた非嫡出子をその気にさせる丁度いい餌な訳だ。あの男には中央の話に食いつく以外に恐らく手段は無いだろうから、実に嫌らしい話だ。
ーー私のイギリス渡航費用は出して貰えるのか?
アンは不安になって来た。飢えても絶対に手を付けなかった貯金はもう無いのだ。
ーー金塊を見つけたら中央なんぞに直ぐに教えず、渡さず、全員の要求が通るまでチビチビ渡すように尾形に言おう。どうせ馬鹿みたいな量があるんだから。
固く決意をして浜辺を歩いていると遠くにインカラマッとチカパシの姿が見えた。アシリパの大叔母のコタンに向かっているようだ。
ーーハマナス以外の物を食べたいな。私もコタンに戻るか。
アンは2人の後を追ったのだが、途中で彼らを見失ってしまった。
◇
浜辺をウロウロしていると遠くに見知った顔を見つけてアンは思わず走った。
「キロランケさん!?」
「ん?アンちゃん?何でここに!?」
「いやぁ、まぁ色々ありまして・・・。」
浜辺の流木に腰掛け、互いのここまでの話で盛り上がる。
優しい中年男は、少女の日高から今までの旅の経緯を伝えると笑って聞いてくれたが、赤兎馬を手放した事は“あの馬は良い馬だったのにな”と残念がっていた。
しかしそこからキロランケ先生による名馬の見分け方講座が30分程続き、小腹を空かせたアンがどうやって話しを終わらせようか考えていた時、遥か彼方の海上に立ち込める暗雲の様なモノに2人は気が付いた。
「何だあれは・・・」
「雲・・にしては動きがおかしいような。フハッ、飛蝗だったりして!」
飛蝗でした。
空を飛ぶ何万匹と言うバッタの群れが海を越えて、釧路の沿岸から北海道に上陸して来た。古代から人類を悩ませてきたバッタの大群は凶暴化して、浜辺で特別講義中だったアイヌ男性講師と赤毛の女性徒に群がり、服や皮膚に噛み付いて来た。
「ヒィィィ!!」
「アンちゃん、こっちだ、こっちに番屋があった!」
キロランケに手を引っ張られてアンは無我夢中で走る。目を開けても視界の半分はバッタで占められており、バッタの濃霧の中をワケも分からぬままキロランケ先生の指示に従うしかなかった。
「キロ・・・ヴォエッ!!」
「大丈夫か!走れ!!」
口を開けた瞬間バッタが口に飛び込んできて慌てて吐き出す。キロランケは自分に構わず少女の身体についた虫を叩いて払ってくれた。目の前の馬好きの男がいなかったら、彼女は明日にはバッタの糞になっていたかも知れない。
やっとキロランケの言っていた番屋に到着し、扉を開けて2人で中に入る。互いに身体に着いた虫を払い、キロランケはアットゥシを脱いで服の中に入った虫を払う。
「・・・」
「・・・・・」
少女は色香漂うアイヌの中年男の、鍛えられた胸にみっしりと生えた豊かな胸毛に恍惚としながらも、胸毛に巻きついて苦しんでいる哀れなバッタを白く細い指で摘み、床に叩きつけた。
ーーん!?今私は何をして何を考えていた?
自らの思考と行動が何かおかしい事にアンは気付き慌てた。番屋の囲炉裏を見ると、土間から上がった部屋の中央で煮える鍋の中に謎の肉が入っており、湯気を上げながら何とも言い難い匂いを漂わせている。その鍋を囲んでいる全身から色香を漂わせている若い雄達、否、男達はアンの知り合いばかりだ。
可愛らしい杉元、色っぽい白石、綺麗な乳首の谷垣、艶のある尾形。尾形に至っては何故か褌以外を身に纏っておらず、白く艶めかしくも筋肉質な裸体を男を知らぬ少女の前に晒している。
「よう、久しぶりだな。」
野性的な男キロランケが彼らに声を掛けると男達から生唾を飲み込む音がした。
アンも端なく生唾を飲み込み、親子ほど歳の離れた男の鍛えられた上半身に恍惚として、白い肌を赤く染めた。
◇
「どうしたのォ、アンちゃん。こっちに来てラッコ食べなよ。お腹空いてるでしょ?」
先程から白石がしつこく誘ってくるがアンは土間の水瓶の側から離れられなかった。彼女は妙な思考回路に陥りそうになる度に水瓶の水で顔を洗い、物理的に頭を冷やしている。
この場で何が起こっているのか明らかであった。
ーーラッコ鍋のせいだ、口にしなくても鍋から出る湯気のせいで皆おかしくなってる!
何も知らない男共は元凶の鍋を取り囲み、ネットリとした視線を互いに向け合いながら互いを褒め合っている。・・・倒れている尾形1人を除いて。彼らには自分がおかしくなっていると言う自覚は無い様だ。
アイヌとの付き合いがそれなりにある赤毛の少女には、ラッコに催淫作用があるのは分かっていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
外はバッタ、中はラッコ、逃げ場は無い。
幸いにも彼女を女扱いしているのはこの場では白石だけなので、身の危険は無いだろうがあの連中の輪の中に加わるのは流石に怖かった。
いざとなったら尾形は助けてくれるだろうか、アンは倒れている尾形を見た。
尾形は目を薄く開けたままウットリとした表情で天井を見ている。意識はあるようだが・・・
ーーまさか、既に男同士で致された後!?
いやそれは無い、だって褌履いているし、とか考えながら尾形を見る。彼だけはこの場の誰にも興味を抱かずただ一人天井を見ている。ラッコは一人で食べると倒れてしまうと聞いた事がある。
ーーこれだけ人がいてもあの男の心の中は孤独なんだな。アイツにとっては私も大勢の中の1人に過ぎないんだろう。
寂しい男だ。
仰向けに倒れた尾形は色白の顔を紅潮させて浅く呼吸をしている。太い頸、鎖骨、鍛えられた胸は呼吸の度に上下に動いている。腹筋はやはり軍人なだけあって綺麗に割れており、その下・・・
ーー!!?
アンは自分が尾形の顔から褌の辺りまで舐め回す様に観察していた事に気付き、慌てて頭を振って邪念を追い出した。
「アンちゃん、鼻血出てるけど大丈夫?」
「へ?」
興奮しすぎたのか、確かに鼻から鼻血が垂れていて慌てて懐に入れてあった手拭いで拭いたが・・・。
顔を上げた瞬間、尾形を除く全員が自分を見ているのに気が付いた。
◇
「アンちゃん、暫く見ないウチに良い身体つきになったな。俺としてはその3倍くらいが好きだが。」
ーーキロランケさん?そこまで太る気は無いよ!?
「うん、アンちゃん大人っぽくなったよね。」
ーー杉元?何故『田中さん』呼びを止めた!?
「アンちゃんの赤毛って生まれつきでしょ。もしかして下の・・」
「黙れシライシ!!」
少女は白石の言わんとする事を直ぐに察して発言を遮った。
一方で谷垣は下を向きブツブツと呟いている。
「田中は尾形の女、田中は尾形の女、田中は岡田の女、岡田は田中の女、女は尾形の田中・・・。」
谷垣は必死に自制心を保つべく脂汗を垂らしながら何やら唱えているが、途中から登場人物が1人増えた挙げ句にワケの分からない事になっていた。しかし軍隊の上下関係がこんな場にまで影響するとは、軍とは何とも恐ろしい所である。
非常に良くない状況だ、彼らは紳士だから耐えているようだがはっきり言っていつ迄保つかはわからない。何故この場にインカラマッがいないのだろう、あのトカプなら1人で4人くらいは面倒が見られるだろうに。勿論アンは寝たまま微動だにしない尾形担当である。
取り敢えず魔女の鍋の様な怪しげな匂いを発する元凶を何とかしなくてはならない、アンは決意して桶に水を汲み鍋に向かって行った。
ドスドスと荒々しく歩く少女の手には水が入った桶、歩くたびに水面が激しく揺れて溢れた水が床を濡らす。せめてラッコ鍋に水をぶっかけて冷やし、湯気を無くす作戦だったが・・・
「コラコラ、食べ物を粗末にしちゃいけない!」
寸前でキロランケに止められて桶を取り上げられた。
「キロランケさんそれを返して!これは魔女のサバトの鍋のようなモノだよ!?」
「君、前から思っていたけどクリスチャンか?」
呆れながら言ったキロランケの一言に白石がウットリしながら反応する。
「良いよねェ、クリスチャンて。俺、シスターとか大好きだよ?」
「違う、シスターじゃない!」
気が付くと少女はラッコ鍋で朦朧としている男達の輪の中に入っていた。
この場にいる全員を改めて確認する。脱走兵1人、現役軍人1人、元軍人2人、脱獄王1人・・・皆、逞しい見事な身体つきだ。
ーー全員を相手にしたら四肢が千切れて死んじゃう!
最早、貞操の危機では無く命の危機である。
真っ青になりながら全員の様子を伺っていると、アンの方を向いて横たわっている上等兵と目があった。
彼はアンの狼狽える様子を見て邪悪な笑みを浮べている。少女が困っている様を見て楽しんでいるのだ。
ーーあんまりだ、助けてよ!!
泣きそうな顔で尾形を見ていると彼は溜め息を一つ吐いてヨロヨロと立ち上がった。再び互いをウットリネットリと見つめ出した他の男達を無視し、尾形はアンを手招きする。
ーー?
ワケも分からぬまま男に促されるまま彼の元に行くと、男は息も絶え絶えに隣室に繋がる襖を開き、中に入るように促して来た。
◇
「お・・尾形?」
「早く入れ。」
「い・・嫌!!ウコチャヌプコロする気でしょ?」
赤毛の少女がほぼ全裸の鍛えられた身体を持つ男の誘惑(?)に怯え身を竦めると、彼は驚いた顔で少女を見た後、襟首を掴んで彼女を隣室に放り込んだ。先程まで倒れていて、今も苦しそうにしているとは思えぬくらいの力だった。
「きゃッ!!」
いきなり乱暴に扱われて床の上に倒れるアン、震えながら部屋の入り口に立つ男を見上げる。
「お前・・・さっきから言動がかなりおかしいぞ。少し頭を冷やしてろ。」
尾形はそう言うと部屋に入る事無く、ピシャリと戸を閉めた。
アンは何が何やら分からず暫くポカンとしていたが、ラッコ鍋の匂いを嗅ぎながら1人でいるせいか眩暈が酷いのでそのまま横になり目を瞑る。
隣室から何やら激しい音が聞こえて来る。
ーーあぁ、遂に杉元達が男同士で致しだした・・・
彼らのあまりにも激しいウコチャヌプコロ音(?)に、あの場に自分がいなくて本当に良かった、と少女は思ったのだが、いつからか腹が苦しくなって身体を丸めてやり過ごしていた。
また鼻血が出た。
◇
いつしか隣の激しい音は鳴り止み、窓から入る日の光が赤みを帯びた後に暗くなったので夜になった事が分かった。バッタの羽音も止んでいる。
隣から衣擦れの音と何やらモゴモゴと話す音が聞こえたので、皆が事を終えたのだと判断が出来た。まさしく『男は出すモノ出したらそうなる』の最中なのだろうと推測出来る。
突然戸が開いて尾形がひょっこりと顔を覗かせた。
「尾形・・・。」
アンは寝っ転がって丸まったまま尾形を見上げた。先程まで全裸同然だった色白上等兵は既に軍服を着ていた。この男はやはりこの格好が一番似合うなァ、と思いながら眺めていると、アンはまた腹が苦しくなってきてダンゴムシの様に身体を丸める。
「ハァ・・・まだ落ち着かねぇか?」
尾形は少女の横に座りながら溜め息混じりに話しかけて来たが、口調から男の『面倒臭い』感情が伝わって来る。
「・・・お腹が苦しい。放っておいてくれ。」
「また吐く気かよ。それか腹でも減ったのか・・・」
「違う・・」
「ったく、何なんだよ。胃が痛いのか?」
「違う・・・・臍の下が・・・苦しい。」
子供扱いしていた少女が顔を真っ赤にして目を逸らしながら漏らした思わぬ発言に、薄情な上等兵殿は目を丸くしたまま“そうか”と一言呟き、そそくさと部屋を出て行ってしまった。動揺していた様だがきっちりと戸を閉めて出て行くのは忘れない。
アンは何ともやり切れない気持ちで暫く丸まっていた。
何故か酷く惨めな気持ちになった。
それでも少し経つと腹具合も落ち着いてくる。
隣から人の気配や息遣いが聞こえるが、少女は地元の漁師が来たのだろうと考えた。空腹なので早くアシリパの大叔母のコタンに戻ろう、そう思いそっと襖を開けて隣室を確認する。
いつの間にかインカラマッを相手にし、静かに二回戦だか三回戦だかを始めていた谷垣が視界に飛び込む。
インカラマッは気付いて無いが谷垣とは目が合い、そっと戸を閉じて見なかった事にしたのだが・・・暫くは耳を塞いで外には出られない。
いつしか谷垣達が番屋を出た気配もあったが、彼らのせいでまた腹の具合がおかしくなった少女はひたすら静かにやり過ごすしか無かった。
何とか外に出た時には夜が明けようとしていた。
色々と散々な日であった。
◇
明け方、浜辺で焚き火をしているアシリパの元に尾形達や谷垣達が集まって来ていた。
ーーうわァ・・・顔を会わせづらいな。
アンは下を向いたままオズオズと皆の輪の中に一番最後に加わったのだが、男達の顔を直視出来ない。しかし周りの男達は先程まであった出来事を忘れたかの様に振舞っており、しかも何やら揉めている。
話の流れからするとアンが合流する直前、かなり深刻な論争が始まったらしい。
インカラマッがアシリパの父含む7人のアイヌを殺した犯人はキロランケだと訴えているのだ。
しかしキロランケはそれを否定している。
尾形はインカラマッが鶴見中尉と繋がっていると言い出し、キロランケは彼女が鶴見中尉にはめられていて仲間割れを起こすよう誘導されていると言っている。
ーー厄介だな、見た所どちらも嘘を言っていないように感じる。
個人的に赤毛の少女はどちらとも仲良くやっているつもりだが、彼らに私情は一切挟まずにそう感じた。
インカラマッがキロランケを疑うのは、7人のアイヌ殺人事件の現場にあった指紋だが、それは鶴見からの情報だ。敵対勢力に仲間割れを起こさせ自滅を促すなど如何にも情報将校がやりそうな事である。尾形もそう感じたのか、インカラマッよりもキロランケ側についている。
「谷垣源次郎〜、色仕掛けで丸め込まれたか?」
相変わらず邪悪な上等兵殿は谷垣を苛める時は恐ろしく生き生きとしていた。
◇
疑心暗鬼のまま何も解決せず時間だけが過ぎて行った。
「インカラマッとキロランケ、旅の途中もしどちらかが殺されたら・・・俺は自動的に残った方を殺す。それで良いな?なんてな。」
杉元はそう言って笑っているが何も笑えない。
裏切りに関しては、アンと尾形は人の事を責められない筈なのだが、尾形は厚かましくも“寝首を掻かれるのは御免だぜ”と抜かしている。
「尾形、『お玉ちゃん』から返事あったのか?機嫌が良さそうだけど・・・」
釧路の町でまたしてもフラッといなくなった尾形にアンはコッソリ尋ねた。
「・・・まぁな。『お玉ちゃん達』は良くやってくれているぜ。網走に着くのが楽しみだ。」
少女の質問に何やら臭わせるような回答をしながらも、尾形ははっきりとは教えてくれなかった。