樺太との海上交通はいくつかの航路があったがいずれも航路状態が悪く、特に冬季間における航路確保が困難を極めていた。
日露戦争直後の1905年、日本郵船の貨客船が函館〜小樽〜大泊間の定期航路を開設。ただし、運航は、毎週1回だけの夏季のみで港が凍る冬季には休航していた。
冬季航路は、1908年『駿河丸』が、小樽~大泊を12月から3月まで10回航海することにより始まる。
更にその翌年には大阪商船が2本の定期航路を開いた。
玉井芳蔵は網走監獄襲撃事件前、上等兵の尾形百之助から頼まれ事をされていた。北海道の旅をするにあたり味方に引き込んだ案内人の少女を預かると言う、胃に穴が空きそうな頼まれ事だ。
「キロランケやアシリパと一緒に樺太に渡り、暗号解読の鍵を探るつもりです。あの阿呆は絶対に樺太には来させないで下さい。まぁ、手段も無いので大丈夫だとは思いますが。」
蕎麦屋から貸家に帰る時、玉井は尾形にそう言われた。尾形が樺太に行った事は秘密にしよう、野間と岡田にもそう伝えている。
玉井達3人と赤毛の少女は小樽を目指し、網走を出発した。
小樽にあった聯隊兵舎は火事で無くなり、鶴見達も網走にいる。残りの刺青囚人が遅ればせながら小樽に来ているかも知れないと言う理由からだった。
赤毛の少女は張り切って道案内をしてくれている。
「玉井さん、私は尾形の役に立っているかな?」
「あぁ、勿論だ。」
時々不安げに漏らす少女に対し、玉井は心が痛んだ。この娘は、別行動の上等兵が戻って来た時にはクビになるのだ。
彼女や尾形と再会した時の様子からして、流石に口封じで始末する等とはならないだろう。しかし何処か遠くに、それこそアメリカ等に行くように強制する事になるかもしれない、玉井は覚悟をしている。
玉井が初めて赤毛の少女を小樽の居酒屋で確認した時は、尾形は彼女を消す事も視野に入れていた様だったのだが心変わりしたようだ。
ーーいや、もしかしたらクビと言うよりは・・・
既婚者の伍長はとある可能性に気が付く。
一行は帯広に到着し、その日は赤毛の娘の知人が住むアイヌのコタンに泊まった。
「おや、アンじゃないか。久しぶりだな!その3人のシサムは全員お前のアレか?」
日本語が達者な40位のアイヌの男に揶揄われ、赤毛の娘はムキになって否定していた。彼のチセで夕食をご馳走になりながら、玉井は少女に尋ねる。
「田中は尾形上等兵とはもう男女の仲なのだろう?簪も貰ったようだし、結婚の約束をした様で安心したぞ。」
玉井の発言により、向かいに座りオハウと言う汁物を“美味い美味い”と啜っていた野間と岡田がほぼ同時に吹き出した。赤毛の娘も目を見開いて赤くなって固まっている。
「い、いえ・・・、そんな事は無いですが?」
「違うのか!?」
「はい・・・」
「たっ・・玉井伍長殿!おかわりは大丈夫ですか!?」
岡田が会話に横槍を入れて来た。その隣で野間は汁が気管に入ったらしく、ひたすら咽込んでいる。
ーー婚約したとかでは無かったのか・・・
結婚を考えているから危険な事に巻き込みたく無い、そんな理由からの解雇だと期待したのだが違った様だ。
『頼むからコレを食べて暫く黙っていてくれ』と言う気持ちを込めて、岡田が玉井の器にオハウを入れる。並々と注がれたオハウを受け取りながら、せっかちな伍長は考えた。尾形が何故に彼女を樺太に連れて行くのを渋ったのか、を。
ーー危険に巻き込みたくない様に見えたのだがなァ。
予想が外れて玉井はガッカリした。
◇
「そう言えば、ご主人、あなた方は妙な刺青を入れた人間を見た事はないですか?」
夕食の片付け後、玉井は家主であるアイヌの中年男に尋ねた。
現在、刺青人皮はかなりの枚数が集まっており第七師団と土方陣営、杉元達がそれぞれ所有している。中央に繋がっている尾形一派には一枚も無いのはやはり出だしでしくじっているからだろう。尾形は土方陣営をいずれ裏切って横取りするつもりの様だが、玉井は折角なので自分達で一枚でも良いから取っておきたかった。全部揃える必要があるのなら尚更だ。
「妙な刺青?あー・・・もしかしたら線や漢字が入っているヤツかい?」
余り期待していなかった中年アイヌ男の反応に、4人は顔を見合わせた。
「そうです!ご存知ですな!?」
「ウチのコタンに嫁いで来た者がそんな事を言ってたな。ちょっと待ってなよ、連れて来る。」
彼はチセを出て外に行った。玉井達4人は彼の戻りを大人しく待つ。
「それにしても本当に全て揃えなきゃ駄目なんでしょうか。」
赤毛の少女がポツリと呟いた。
「ん?」
「だって24人もいたら、絶対1人くらいいつの間にか死んでいてもおかしくないですよね。若くない囚人だっているワケですし。」
「まぁ、確かに・・・」
一理ある。火葬されてしまったらもうどうしようも無い。
ーー24枚無くても解読出来ると言うのか?
「そうだとしても、一枚も無いのはマズイだろ。」
「あぁ、そう言う事は半分以上揃えてから考えようぜ?」
野間と岡田がごもっともな意見を言い、赤毛の娘も納得していた。
「シサム達、待たせたな。」
家主が連れて来たのはイナンクルと名乗る30半ばくらいの女のアイヌだった。
◇
イナンクルは自分は元々樺太に住んでいたアイヌだと4人に告げた。
1875年、日露間で千島・樺太交換条約が結ばれ、樺太アイヌは3年の経過措置の後に居住地の国民とされることになった。その後にイナンクルの一族は樺太から北海道に渡って来た。当初は北海道北端の宗谷に移住したが、その後対雁に移住させられ、慣れない生活や流行病で多くが命を落とした。
やがてポーツマス条約によって南樺太が日本領となり、翌年の1906年には樺太アイヌの大多数は故郷へと帰還していく。
「その際に、私の兄が上半身に刺青のある男を密かに船に乗せるよう手配していました。ガンさん・・その刺青の男に樺太アイヌの格好をさせて家族と偽ったのです。」
樺太アイヌの悲劇的な過去に4人は心を痛めたが、刺青と聞き我に返った。
ーーこの話の流れはマズイ!!
玉井だけでなく野間や岡田も焦り、顔を見合わせている。赤毛の娘だけが目を輝かせて喋り出した。
「それってつまり、樺太アイヌの方々に混じって刺青の男が樺太に渡ったと言う事ですよね!」
「はい。兄は喧嘩っ早い人間で、彼とは殴り合いをして仲良くなったと聞きました。一度も勝てなかったとボヤいてましたが。」
「玉井さん!行きましょう、樺太!!」
「い、いやぁ・・・、でもほら、海に隔たれているし?民間人が気軽に行き来できる様な船は無いだろう?」
玉井のしどろもどろな返答に赤毛の娘は怪訝な表情をしており、見かねた岡田が助け船を出すべくイナンクルに話しかけた。
「いやぁ、でもご結婚されてこの村に来たとは言え、樺太のご家族とはもう交流出来ないのは寂しいですね。」
これは岡田が、彼女が樺太とはもう断絶している事を答えさせようとした故の発言だったのだが、結果的に墓穴を掘る事になる。
「そうですね、でも小樽港から日本郵船の船が樺太まで出ていますから助かっています。何かあれば会いに行く事が出来ますから。」
「そーですか・・・」
「小樽から・・船が・・・」
玉井と岡田は虚な目をして呟き、その隣で赤毛の少女は目を輝かせていた。
「残念ながら、夏の間だけの運行なので冬季は使えませんが、来年の冬からは冬季の運行もすると言う噂は聞きました。」
「そっか、夏だけかァ・・・」
その後寝るまでの短い間、玉井は時々赤毛の少女の様子を見るが、樺太アイヌの話を詳しく聞いたり、何かブツブツ言ったり、難しい顔をして考え込んだり、閃いたかの様に目を見開いたりを繰り返し、その度に玉井は神仏に祈った。
ーー絶対、樺太に行く方法を模索しておる!!
「あー・・・なぁ山芋、一枚くらい無くても良いんじゃ無いか?北海道内で探そうぜ。」
「野間!アンタさっき“1枚も無いのはマズイ”って言ってたじゃないか?樺太なら第七師団も土方さんも行かないだろう?貴重な1枚になるかも知れないんだ!」
「・・・そうだな。」
野間はアッサリ言い負かされていた。
ーー尾形上等兵はキロランケとアイヌの娘と共に樺太に渡った。杉元や谷垣は第七師団に捕まっていたし、もしかしたら連中はアイヌの娘を追って樺太に渡っていても不思議では無い。
鯉登少尉の口から赤毛の娘が造反に与している事はバレているだろうし樺太などには行かせられない、玉井はどう樺太行きを諦めさせるか思案した。
ーー他の刺青囚人の情報は無いのか!?
玉井は岡田の方に“何とかしろ”と訴える目線を送り、岡田は首を横に振った。お手上げの様だ。
◇
その後、玉井達一行は帯広を出て小樽に向かっていた。
「小樽なら他の囚人の情報も手に入るかも知れないし、丁度良いですね。尾形が戻って来たら何枚かは刺青人皮を渡してあげたいんです、簪のお礼に。」
道中、赤毛の少女はそう言って恥ずかしそうに笑っているが、玉井は笑えなかった。
ーー田中はやはり樺太に行くつもりだ!もう、お前はクビになるのだよ・・・頑張らなくても良いのだ。
とてもじゃないがそんな事は言えない。辛い。
「交通手段が無いのだ、残念だが樺太は諦めよう。」
玉井は残念で堪らない風を装いながら少女の肩に優しく手を置いた。
その日は野宿となった。
「玉井さん、日高に寄ってもらう事は出来ませんか?」
火を囲んで4人で夕飯を食べながら、赤毛の少女が切り出した。
「ん?何故かね?」
「ダンさんの牧場に寄りたいんです。路銀も無くなりそうだし、少し仕事をさせて貰おうかと思って。」
ダンと言うのは蝮のお銀が出産し、少女が初めて杉元達と接触した牧場を経営するアメリカ人だ。
「そうだな、私達も働かせて貰う事は出来るだろうか?」
「絶対喜ばれます!羆の被害もありましたし、元北鎮部隊が3人いれば間違いなく採用されます!!」
思わぬ時間稼ぎが出来て玉井は安心した。小樽に向かうに連れて彼の胃は痛みを感じていたのだ。
「尾形上等兵には悪いが、そのまま日高で働き続けるのも悪くないだろうな。」
思わずそう本音を言ってしまった玉井だが、少女の怪訝な顔を見て“冗談だ”と笑いながら訂正する。
日高のダンの牧場に到着し、4人は一週間だけ働かせて貰える事となった。赤毛の少女は屋敷に住み込みで家事の手伝い、元北鎮部隊3人は新たにダンの所有地となった土地の開墾と対羆の警戒と見回りをしている。
玉井達3人は使用人の部屋に空きが無い為、牧場近くにあるダンが買い取り修繕した空き家で寝泊まりしている。以前何やらこの家で惨劇があったらしくて誰も使いたがらないのだが、戦場帰りの彼らは気にせず使っていた。屯田兵だった彼らには空き家周辺の開墾の手伝いも頼まれており、3人の真面目な仕事振りに雇用主のダンは感心して雇用期間を延長したいと申し出ていたが、玉井は丁重に断っている。
◇
牧場に来て5日目の事だった。
「おかしいですね。」
夕方、玉井と2人でだだっ広い牧場を見回りながら岡田が呟いた。
「何がだ、熊がいたのか?」
「山芋ですよ、大人し過ぎます。あんなに樺太、樺太と言ってたのに、この牧場に来てから一言も言わない。」
「諦めたのだろう。あのダン氏ともかなり仲が良いみたいだし、あの娘はこのままこの家に引き取られて暮らすのが幸せかも知れんな。」
少し寂しげな表情で話す玉井を見ながら岡田はスッキリしない気持ちになっていたのだが、牧場の端で野間の発砲音がして2人は慌てて駆けつけた。これは羆が出た合図だ。岡田の疑問は有耶無耶のウチに話が打ち切られた。
その日の晩、牧場近くにある元農家の空き家で3人が夕飯の片付けをしていると、ダンの屋敷で住み込みで働いている筈の赤毛の少女が訪ねて来た。
「うわァ、ここ懐かしいなァ。」
入ってくるなり何やら感動していた。
「そうそう、そこの階段に生首が2つあったんだよね。」
あっけらかんと笑いながら話す少女に、3人はこの家で何があったのか分からず困惑した。
「ど・・どうしたんだ山芋、牧場近くとは言えこんな時間に外を彷徨くのは危ないだろう?」
「フハハッ!!朗報だよ。皆、聞いて驚かないでくれ。」
ーー朗報だと!!?
岡田の質問をとんでも無く良い笑顔で躱す少女に、玉井は嫌な予感がした。もう冬が近いと言うのに背中に冷たい汗が滲み出る。野間と岡田も固まっている。
「私はダンさんに対してこの5日間、樺太アイヌの話をし続けていたんだ。ほら、あの人民族衣装が大好きだからさ。」
「ヘェ・・・」
玉井からしたら初耳である。
「遂にさっき、樺太に行って樺太アイヌの民族衣装の買い付けをして来て欲しいと頼まれたんだ。玉井さん、喜んでくれ。樺太に行けるんだ!!日本郵船は海外製馬具の輸送でダンさんと遣り取りをしているから樺太行きの船に乗せるように紹介状を書いてくれるって。」
「いや、でも来年の夏だろう?」
冬の便は無いから半年以上先の話だ、玉井は安心したがそれは甘かった。
「いや、来年冬から冬季便の運行を始めるから、11月から何往復か小樽から樺太の大泊間を試験運行するみたいで、それに乗せて貰えるんだ!」
得意気に話す赤毛の少女に対して、野間と岡田は口をアングリと開けて呆然としている。
「よくやってくれたぞ、田中ァ!!」
玉井は褒めた。叫んだ。ヤケクソだった。
◇
一週間後、玉井達4人は小樽港に来ていた。
この後彼らは流氷のある海を渡り樺太の大泊に行く予定である。
「いやぁ、水夫の数がギリギリだったから助かったよ。頼むのは雑用ばかりだけど、その分船賃をタダにするから頑張ってくれよ!」
「あぁ、帰りの船は別になるがそれでも良いならな。」
「構わねェよ!行きだけでも助かるさ。」
エディ・ダンの紹介状を見た船長は快く4人を乗せてくれて仕事までくれた。
「玉井伍長殿、良いのですか?尾形上等兵殿は樺太に連れて来るなと仰っていたのに。」
岡田はウンザリした顔をしていたが、玉井は既に開き直っている。彼は自らの胃に穴を空けない為に諦める事にしたのだ。そもそも赤毛の娘に大人しく留守番してろと言うのが無理だ。
「大丈夫だ。要は尾形上等兵に見つからなければ良いだけだからな。それに・・・」
港に停泊された船を隅から隅まで走り回って観察し、生まれて初めて乗る大きな船に胸を躍らせている少女を見ながら、オジサン伍長は話を続ける。
「どうせ数ヶ月後にはあの娘とお別れとなるのだ。思い切りやりたいようにやらせてやろう。」
玉井伍長殿は山芋に甘い、野間と岡田はそう思いながら上官を見ていた。
4人は荷物を持って船に乗り込んで行き、船はすぐに出航した。
「刺青人皮は勿論ですが、どうせなら今後の活動資金を貯める為に民族衣装をいっぱい仕入れます!ダンさんへの恩返しにもなるし。」
赤毛の少女は張り切っており、玉井は諦め切った笑顔で頷く。
「張り切りすぎて無理するなよ。」
「大丈夫だよ、野間。大きな船で欲しい物が手に入るって占いで言われたから、きっと大丈夫。刺青も手に入るよ。」
「・・・占いかよ。」
岡田が呆れた口調で呟いている。
船は小樽港から次第に離れて行った。
「ん?港に異人がいるぞ。」
双眼鏡で船から港を見ていた岡田が不思議そうに野間に話しかけた。
「そりゃ、小樽港なら異人なんて大勢いるだろ。鶴見中尉だってトーマスとか言うアメリカ人と小樽港で会っていただろ?」
「んー・・・いや、こっち見て叫んでいたような気がしたんだが。」
「おい、アンタらもこっちに来て手伝え!」
2人は水夫から仕事を割り振られて慌てて船内に入る。
小樽港では遠ざかる樺太行きの船を見ながら1人の白人中年男が悲痛な声を絞り出し、その場で打ちひしがれていた。
「Oh my God・・・!!」
◇
その男はとある人物を探して北海道中を彷徨っていた。
ある時は小樽、ある時は羅臼、根室、登別、旭川、函館、札幌、江別、宗谷・・・。北海道中を旅して歩く赤毛の少女を捜して漸く居場所を突き止めた、そう思い小樽港に向かった。
「赤毛の娘?さっきあの船に乗ってたぜ。アレの行き先は樺太だとよ。」
男の心はポキリと折れた。心が折れるのはこれで5回目だが、今回は本当に駄目だった。
ーーやめだやめだ!!
彼は札幌に向かった。以前来た場所だが、彼の心に強く残っていたのだ。赤毛の娘を捜している振りだけはしないといけないので、仕送りをしてくれているイギリスの元議員に経過報告の手紙を送る。
札幌のホテルに宿泊中、ホテルの支配人がイギリスからの手紙を持って来た。差出人は『オーガスタス・モラン』、これは偽名で差出人の祖父の名前である。手紙にはいつもと同じく、早く成果を出さないと仕送りを打ち切る、と書かれていた。
ーー焦っているな。
男はそう感じた。送られて来る手紙の頻度が上がっているのだ。
捜しているのは差出人の書類上の妻であり、悪名高き数学教授の実の娘らしい。教授の築いた組織を継ぐのに必要な結婚だったワケだが、あの組織の人間達の殆どは書類だけの結婚では納得しなかった様だ。現に差出人の父親である『ロンドンで2番目に危険な男』は投獄されたまま、助け出す事も出来ていない。
差出人が、書類上の妻が日本で健在である事に気付いたのは10ヶ月前、それまでは妻は密かに野垂れ死んでいるだろうと考えていたらしい。日本軍の鶴見ナントカと言う情報将校からイギリス政府機関に対して『アン・タナカ』の父の情報を問い合わせる為の連絡があった事が切っ掛けだ。
そして差出人の元議員は自らの情報網から直ぐに問い合わせがあったと言う事実に気付き、日本在住の彼に手紙を送って仕送りと妻の捜索が始まった。元議員は株や不動産の投資、更には保険金詐欺を行い金には困っていないようだ。
網走監獄を脱獄し、まともな仕事にありつけなかった男には渡りに船だ。赤毛の娘捜しをする事をあっさり了承した。
ーー娘はいつ樺太から戻るのだろうか。
いくら無職とはいえ、差出人に樺太に行けと言われたら流石に困るのだ。
◇
鯉登少尉は網走監獄襲撃後、樺太先遣隊として樺太に渡る様に上官の鶴見中尉に命令された。同行者は不死身の杉元、一等卒の谷垣、軍曹の月島だ。
『のっぺらぼう』の娘であるアシリパをキロランケや尾形に樺太へ連れ去られたので、彼女を取り戻すのが目的である。
『のっぺらぼう』は尾形の狙撃で死亡、杉元は尾形に頭を撃たれるも奇跡的に助かり、谷垣とインカラマッは負傷した。網走にいた土方一派は家永以外は全て取り逃がしたが捕らえた家永は優秀な外科医だった為、頭を撃たれた杉元も、キロランケにマキリで刺されたインカラマッも一命を取り留めた。
「尾形もキロランケもぶっ殺してやる。」
入院中、杉元はそう誓っていた。
「田中安も尾形と一緒に樺太に渡ったのだろうか。」
鶴見中尉は相変わらず色っぽい溜め息を吐きながら悩んでいる。
赤毛の少女は、杉元が舎房の下から出られずに足掻いていた時に見たきり誰も行方を知らないようだ。
「田中安は尾形の知人で彼の命の恩人だが、2人は恋人関係では無い。彼女はイギリスの要人の娘であり、我々が保護しようと追っているのだが逃げられてばかりなのだよ。」
鶴見は陸軍病院で杉元達にそう説明し、彼らは驚いていた。
「じゃあ、田中さんは実は嘘を吐くくらい尾形に一方的に惚れていたって事か?趣味が悪い・・!」
「田中と尾形はなんだかんだで思い合っている様に見えたんだがな・・・」
杉元と谷垣はそう感じたようだが、鶴見は特に訂正はしなかった。経験豊富な情報将校には彼らの見解が外れているとは言い難いと感じた為だ。
「鯉登少尉、貴様は田中安を見ていないか?」
「股を蹴り上げられたのを最後に見ていない、と仰っています。」
鶴見の質問に対し、鯉登は月島を通して返事をした。彼は鶴見を心酔し過ぎており、直接喋ると早口の薩摩弁になる為に月島を挟んで遣り取りしているのだ。
「じゃあ、師団側は宇佐美が確認したのが最後となるワケだな。」
鶴見の発言に鯉登は罪悪感を覚えた。
嘘を吐いたからだ。
◇
樺太出立の前日、鯉登は机に向かってある男の資料を再度確認していた。網走監獄襲撃直後より何度も見返している資料だ。
ーー田中の言ってた通りかも知れん、此奴の尾形との接点は奴の入院中だけ、他の連中と比べて有能でも無い、玉井伍長とも殆ど接点が無い。だとしたら無実なのか!?
真っ直ぐ過ぎる青年が沈んだ表情で資料を片付けていると、執務室の扉を叩き軍曹の月島が入室してきた。
「鯉登少尉殿、樺太行きの支度は終わりましたか?」
「ああ・・・、月島、あの時の犯人だが全員死んだと言う事で間違い無いんだな?」
鯉登は昔、ロシア人3人組に誘拐・監禁された事がある。結局犯人達は第七師団の人間に射殺されて全員死亡、少年だった鯉登は現場に駆け付けた父と鶴見中尉に助け出された。
月島は面倒臭そうに返答をする。
「はい。何故今更そんな事を?」
「股を蹴り上げられる前に田中が気になる事を言っていた。・・・尾形はロシア語を喋れたりするのか?」
「・・・聞いた事がありませんね。」
「そうか。」
「田中に何を言われたのか分かりませんが、あの娘は嘘で人を惑わせます。いちいち気にしてはいけません。」
「ハハ、そうだったな!」
鯉登は笑いながら資料を茶封筒に仕舞い、心のモヤモヤを誤魔化すかの様にその封筒を机の引き出しの奥に押し込んだ。
封筒の端には小さく名前が書かれていた。
『小宮 幾太郎』