1912年 イギリス
ベテラン看守の男が気になる囚人と話をしてから2週間が経っていた。彼はあれから色々と日本の北海道で起きた出来事を調べていたが、囚人の脱獄や監獄が襲撃された話は確認出来たものの、アイヌの金塊の話は見つけられなかった。
あの日に話を聞いたのは網走監獄襲撃とその少し後までなので、その先が気になるが嘘を吐いて揶揄われている可能性もある。
ーーそれにあの話はどちらかと言うと・・・
囚人の話は視点がコロコロ変わるので、囚人自身の話というより周りの人間の話に感じる。
今は2月、囚人は春前に処刑されると言う噂もチラホラ流れ出した。その為だろうか、囚人は寝ている時に魘されているようだ。あの者が死刑になる前に話の続きを聞きたい、そう考えて彼はまた件の囚人のいる独房に向かった。
「済まないがまた話を聞かせてくれないか?続きが気になって仕方が無い。」
「アメリカ訛りの英語が聴き取り辛いと話を途中で遮ったのはそちらでしょうが。」
囚人は素っ気ない。英語を教えてくれた人間がアメリカ訛りだったので影響を受けてしまったらしく、イギリスに来てからはそれなりに努力してイギリス英語になるように頑張っていたようだ。
「それはそうだが、どちらかと言うと話の内容が信じ難い事ばかりで・・・」
「つまり、私が嘘を吐いていると?」
「いや、でもアイヌの金塊の話も、あのモリアーティ教授に娘がいたと言う話も聞いた事が無い。この際真偽はどうでも良いから続きを知りたいのだ。」
「物好きなお人だ。」
囚人は牢の奥で苦笑いしながら溜め息を吐いた。艶のある仕草だった。
「一つだけ条件があります。私はイギリスに来て3年になりますが、その間の話は出来ませんよ。周りの人間に迷惑を掛けてしまう。」
「どちらかと言うと仕事柄、そっちの話を聞きたいのだか・・・。モリアーティ教授の周辺の人間が・・」
「駄目です。」
囚人は看守の発言を遮った。そして網走監獄襲撃事件後、樺太に渡った時の話をゆったりとした艶のある声で語り出した。
◇
赤毛の少女が造反組3人と樺太を目指して海を渡っている最中の事。
第七師団の脱走兵扱いとなっている上等兵尾形百之助は、キロランケと共謀して網走監獄でウィルクと杉元の頭を撃った後にアシリパと白石を連れて樺太に来ていた。彼らにはウィルクも杉元も死んだと伝えており、アシリパは慕っている2人の人間を一度に失って悲しみに沈んでいた。
尾形はそんなアシリパに優しく接している。彼女が暗号解読の鍵を握る唯一の人間であり尾形の出世には欠かせない人物なのは勿論だが、それだけでは無い。
ーー真っ直ぐな娘だ。
真面目で誠実、意志が強く清らかな心の持ち主。そして殺人を忌避する。それが尾形が彼女に抱いた印象である。彼は過去に似た様な人間に慕われて、自らの劣等感を強く刺激された事がある。
ーーまるで勇作殿だな。
人は自分とはあまりにも違う人間と接触すると、自分自身を疑ってしまう事がある。
ーー俺は間違っているのだろうか、いや、そんな筈はない。
認めるワケには行かなかった。母、弟、父・・・もうどうしようも無い、人生のやり直しが一切効かない所まで来ているのを彼は無意識ながら理解している。
何を犠牲にしようともこのまま死ぬまで走り続けるしか無いので、罪悪感が無いのはむしろ彼にとって好都合だった。
本当に罪悪感が無いのなら、だが。
ーーあの阿呆はこの状況を知ったらどう思うかな。
ふと間抜けな赤毛の娘を思い出すが、彼女は尾形が自ら突き放した人間で、樺太から戻ったら別れを告げて二度と会わないつもりである。
◇
樺太の大泊に到着した赤毛の少女と玉井達3人。北海道は寒いが樺太は更に厳しい寒さである。肌着や分厚い外套、股引きを購入し4人は厚着をした。アンも袴とブーツはやめて購入した背嚢の中に仕舞い、着物の下に股引きを履いて外套を羽織る。
着替え終わると玉井は野間と一緒に宿探しと情報収集を始めた。
「お前、外套がなければまるで岡っ引きみたいな格好だな。」
「うるさい。」
岡田に笑われながらも2人で樺太アイヌの村を訪れて色々な珍しい物を見せて貰う。差し出されたフレップの塩漬けをご馳走になっていると、樺太アイヌの中年男が話しかけて来た。
「最近和人の集団、良く見るね。その娘はロシア人みたいだけど。」
「へー・・・」
そう言われた岡田の顔色が悪くなっているのにアンは気が付いた。
「どうしたんだ岡田?」
「いや、何でも無い。」
樺太は北海道より更に寒いので体調を崩したのだろうか、少女は少し心配になった。
その晩は町の宿屋に泊まり、女将からロシア人の村でスチェンカと言う、殴り合いをして勝敗にお金を賭ける遊びが流行っている話を4人で聞く。
「ちょっと前に変な刺青がある男が出ていたらしいよ。その男がスチェンカにお金を掛け出したみたいね。」
「本当ですか!?」
「えぇ、でも参加した日本人が暴れて乱闘騒ぎになってから、スチェンカは暫く行われていないみたい。」
「お金が掛かっているから八百長か何かがあって揉めたのだろうな。取り敢えず行ってみるか。」
玉井の前向きな発言にアンは嬉しくなった。彼は樺太行きを渋っていた様に見えたのだが、やはり気の所為だったのだろう。
翌日、4人はロシア人居留地の町に行く。アンが10人位に話しかけて漸く酷い片言だが日本語を話せる中年男に出会い、スチェンカの話を聞き出せた。
「ワタクシ、スチェンカ、スキ。キョウノヨル、スル。ヒサシブリ。ワタクシ、イク。」
「オジサン、イレズミオトコ、シラナイ?」
「何でお前まで片言で喋るんだ。」
アンは野間に真っ当過ぎる意見を言われてしまった。しかしかつてロシア領だっただけはあり、ロシア人は居留地以外でもチラホラ見る。4人の中にロシア語を話せる人間はおらず英語も通じない為、今後の課題となりそうだ。
「中年男が『ワタクシ』だとよ。」
「仕方ないよ、日本語は『私』を意味する言葉は沢山あるからね。俺、私、自分、僕、妾、某・・・英語なら大体『I』で済ませられるけど、ロシア語はどうなんだろうね?」
「お前、ロシア語勉強しとけよ。英語ができるならロシア語だって出来るだろ?」
死ぬまで庭師予定の男が軽々しくそんな事を言い出すが、勿論ロシア語なんて簡単では無い。英語の方が楽なくらいだ。しかし黙って聞いていた玉井が閃いたような顔をして、ロシア語の辞書を買いに岡田と2人で本屋を探しに行ってしまった。
[newpage]
夜、ロシア人の村にある建物でスチェンカが行われる事となり、昼間に出会った片言男の口利きで野間だけ出られる事になった。
「何で俺が!?」
「仕方ないだろ、3人の中で1番頑丈なんだ。アンタなら、『強い男だと認めないと出て来ない』と言われている刺青囚人を引っ張り出せるかも知れない!頑張ってくれ!」
少女に煽てられた野間はブツクサ言いながらも、控えの間の様な部屋で着物を脱いで準備を始める。
「尾形も良い身体だったけど、アンタはそれより筋肉が盛り上がった良い身体してるな。今夜の勝負は勝てるかもね。」
アンはそう褒めたが、褒められた野間も側にいた玉井と岡田もギョッとした目で赤毛の少女を見ている。
「やだなぁ、変な意味に捉えないでよ。」
少女はケラケラと笑いながら、他の参加者の様子も確認した。皆ロシア人ばかりで縦にも横にもかなり大きく、憎しみや侮蔑の感情をその場にいる純日本人の3人に向けている。
ーー日本軍はこんな連中と戦って来たのか、恐ろしい・・・
アンは目の前の3人含めた日露戦争経験者に感謝した、但し宇佐美は除く。そして折角の賭け事なので出場者全員の身体つきを思い出しながら、キロランケ先生に教わった名馬の見分け方を参考にして、ロシア人の1人にお小遣いの半分を賭けた。
ーーこれなら野間が負けてしまっても、精神的にそこまで落ち込まないはずだ、うん。
赤毛の少女は自らに言い訳をした。
試合は始まろうとしている。
むさ苦しい熱気が充満した広い空間の中央には正方形に柵で囲われた空間があり、周りはこれまたむさ苦しい観客が選手以上に盛り上がっている。玉井、岡田と共にアンは最前列で野間の応援をする。ロシア人だけでなく、かなりの数の日本人がいたので、情報収集の為に試合が始まる迄は彼らの会話を盗み聞きした。
「今日の日本人は1人なんだな。この前の4人組は凄かったよな。更に前の3人組は弱かったけど、アイヌの男は頑張っていたな。」
「アイツらのせいでスチェンカが暫く休業になったじゃねぇか。刺青の横綱も失踪しちまったし最悪だよ。」
「今日の日本人・・・へェ、可愛いね。」
ーー何だと!?
刺青の横綱・・・つまりスチェンカ最強の刺青男が失踪したと聞き、赤毛の少女は焦った。これでは無駄足かつ無駄スチェンカだ、野間が哀れである。
合図と共に8人の男達の殴り合いが始まった。
哀れな野間は試合に出た他のロシア人の集中攻撃を食いながら5人は殴り倒すも、アンが小遣いを掛けた男に拳で鳩尾を抉られて倒れてしまった。
ーーゴメン野間、でも凄かったぞ!
玉井と岡田は試合が終わって周りの客達が帰って行っても、ガックリと項垂れて動けずにいる。いくらか金を掛けていたようだ。その隙に少女は密かに賭け金の回収に向かい、増えた小遣いを喜びキロランケ先生にも感謝する。
ーーキロランケさん達は無事かな?
網走で生き別れた14人は皆どうなってしまったのかは分からない。一個聯隊が駆逐艦に乗って急襲して来たのだ、皆第七師団に捕まってしまったか死んでしまったのだろうと推測される。
◇
その後、日本人観客の何人かに聞き込みを行い、刺青の男はこの地を離れて豊原方面に向かったと聞き、アン達4人は豊原を目指す事となる。
豊原へは樺太アイヌの村を点々と経由しながら、犬橇に乗って移動。樺太アイヌの村を渡り歩いたのは、ダンに任された民族衣装の仕入れを兼ねている為で、良い品々を安く集める事が出来た。
1週間後には豊原の町に到着し、刺青囚人の情報収集を行う。アンはその際、町外れの広場で曲馬団が公演中と聞き興味が湧いたが、今はそんなモノを見ている場合では無いのだ。
「刺青の男は更に北に移動したようだな。」
休憩で入った店で昼飯をとりながら玉井はぼやいていた。すぐに見つかると考えていた男が、樺太アイヌへの聞き取りでは自分達から逃げる様に北上をし続けており、皆その度に意気消沈し、精神的に疲れ切っていた。
「このままだと国境を越えてロシアに入ってしまいかねん。流石にそこまでは出来ないな。」
アンはまだしも玉井達は脱走兵であり、鯉登の発言から考えると死んだ事になっていた可能性もある。3人は黙って頷き、国境の手前まで行ったら引き返す事にした。
ーーせっかく樺太まで来たのになァ。
辛いが仕方ない、その時は北海道に戻り他の刺青人皮を集める事にする。アンの見立てではまだ誰も未回収の刺青人皮は5枚以上ある筈だ。第七師団側の情報があやふやなので自信は無い。しかし尾形と合流する迄に1枚でも多く集めたい、そう思っていた。
その日は移動は止めて豊原に宿を取って休みにする事になる。
「玉井さん、町外れでサーカスがやってるんだけど見に行っても良いですか?」
「サーカス・・・あぁ、曲馬団か。良いぞ。野間、ついて行ってやれ。」
「ありがとうございます!」
アンは野間の付き添いの下、財布を持って町外れの広場に走って向かった。財布の中身は賭けスチェンカで隣にいる男を裏切ってお小遣いを賭けたロシア人が一人勝ちしていたので、かなりの余裕がある。上手くいかず気分がクサクサしていたので、良い気分転換になる筈だ。
広場には宣伝の為の幟が建てられ、民間人で賑わっている。曲馬団の客引きが鳴物を鳴らしながらもうじき開演すると叫んでおり、アンは慌てて野間の腕を引っ張って巨大な天幕の中に入って行った。
「野間、どうしたんだ?ボーッとして。」
「いや、幟に『不死身の杉元』とか書いてあった気がしたんだが・・・」
「へ?」
天幕の中は日本人の客で埋め尽くされており、開演ギリギリに入場したアン達は隅の席にしか座れなかった。
「杉元がこんな所にいるはず無いだろう・・・」
アンはそう言いかけたが、刺青囚人を追って来た可能性はある。慌てて赤毛を隠す為に角巻と赤ゲットを二重で被った。自分だけならまだしも野間といる所を見られるのはマズイと思われるので念の為だ。
◇
サーカスは山田と言う中年男の座長の挨拶で始まる。
先ずは曲芸からだ。
高く積み重ねられた不安定な盥の上に14〜15位の少年が上り、逆立ちをしている。
「凄い!凄いな!!」
「あぁ。」
2人は先程の不安をすっかり忘れて見入っていると、もう1人の軽業師が出て来た。端正な顔立ちで小麦色の肌の若い男だ。直立した長い竿の先端に足を引っ掛けて身体を傾け、投げ接吻をしている。
ーー!!?
「・・・こっ鯉登少尉!」
呆然としているアンの隣で野間が呟いた。彼は慌てて顔を突っ伏して隠し、全身を強張らせている。
「何で鯉登が?いや、見間違い・・・そっくりさんだろ?」
「鯉登ニシパ!!」
アンの希望的観測は客席から聞こえた可愛らしい少女の応援の声でアッサリと否定された。
「野間、大丈夫だ。鯉登は転職したんだ。多分。」
「・・・あの人に限ってそれは無い。」
「ほら、野間。鯉登が下がって行った!次の出し物だぞ?見なよ、可愛らしい少女団・・・」
鯉登達軽業師が退場すると次は舞台上に可愛らしい衣装をヒラヒラとさせた7〜14位の少女達が上がり、曲に合わせて踊っている。恐らく演目の間の繋ぎだろうが、その中に凡そ少女とは掛け離れた異彩を放つ見た目の人間が2人いた。盛り上がった筋肉の逞しい身体に薄手の可愛らしい衣装をピッタリ貼り付けており、袖やフワフワしたスカートからは太い手足が突き出して、音楽に合わせて動いていた。
「・・・月島軍曹に谷垣、山芋、俺は頭が可笑しくなったのか?」
「私にも見えた。旅で疲れているんだな、きっと。」
2人は顔を突っ伏している。厳つい少女2人と目が合ったらマズイ、そんな気がしたのだ。しかし谷垣は何故軍人達と一緒にいるのだろう、師団に戻ったと言う事だろうか。そもそも軍人とは、少女とは何だろう。
人は自分の考えとはあまりにも違う出来事と接触すると、自分自身を疑ってしまう事がある。この時のアンと野間がそうである。2人は頭を伏せたまま会話をする。
「なぁ、野間。軍ってのは女の子の格好をして踊る事ってあるのか?」
「・・・んなわけ無いだろう。」
この怪奇現象を他の客はにこやかに受け入れている。ならばおかしいのはアンと野間なのだろう。帰ろうと提案する野間を少女は止めた。周りの観客が熱中して演目を見ている今、立ち去るのは逆に目立ち過ぎる。
その後も、大きな独楽からチカパシに似た少年が出て来たり、鯉登似の男が綱を渡りながら猿叫を上げて天幕の中を所狭しと暴れ回ったりした。演目の最中やあい間には厳つい坊主頭の少女2人がヒラヒラの可愛らしい衣装と可愛らしい振り付けで踊っている。
ーー何なんだこれは!?
決して演目が悪いワケでは無いのだが悪夢の様な時間だった。
◇
ハラキリショーでは杉元似の男が日本刀片手に客を焦らしている。アンは舞台の様子を伺う為、少しだけ顔を上げると幕の後ろにいる鯉登似の軽業師と目が合った。向こうは目を見開いて驚いた表情をしたまま固まってこちらを見ている。少女は慌てて顔を伏せ、野間に話しかけた。
「ゴメン!鯉登モドキと目が合った!」
「クソッ、分かった!今の演目が最後だから、終わって客が盛り上がっている間に逃げるぞ。」
「うん。」
俯いている為に舞台上で何が行われているのかはサッパリ分からない。時折り杉元似の男の“ウェへへ〜イ”とか“冷たい、冷たい”とか“痛だだ”とか言う声が聞こえてくる。
ーー杉元と谷垣は第七師団に寝返ったのか!?それで曲馬団に入団したのか!?師団と曲馬団の関係は!?
アンと野間が混乱したまま俯いていると、観客のどよめきと太鼓の音、銃の発砲音がしてその後は割れんばかりの拍手が観客席を包んだ。
「今だな、逃げるぞ!」
「うん!」
2人は周りの観客が興奮して拍手を打ち鳴らしている間に客席を立ちコソコソと天幕から出るが、最後の挨拶で舞台に出て来た薩摩隼人の軽業師は、客席から逃げるアンを見逃さなかった。
赤毛の少女と野間は豊原の町を全力疾走で走る。命懸けの逃走だ。途中、アンがへばりそうになると野間が腕を引っ張って助けてくれるが、遥か背後から“キェッ、キェッ”と言う声が少しずつ近づいており、このままでは2人とも鯉登に捕まるのは間違い無かった。
「・・の・・・ま・・・」
「何だ!?」
「二手に・・別れよう!」
「馬鹿を言うな!」
「このままじゃ、アンタは鯉登に見つかって殺される。アンタは顔を見られて無いんだから捕まったら駄目だ、尾形の為に生きていて欲しいんだよ。」
「・・・」
「私なら捕まっても殺されないから心配するな。」
苦しそうに笑いながら話すアンを見て、野間は何故か辛そうな顔をしていた。彼は建物の陰に少女を引っ張り込み深刻な表情で話を切り出す。
「山芋・・お前は尾形上等兵殿が戻られたら解雇になる予定だったんだ。」
「へ?」
アンは初めて聞いた『解雇』の一言に目を丸くした。
「お前の提案通り二手に別れるが、もし捕まっても無理はするなよ。」
野間はそのまま通りを右に曲がり走り去って行った。アンはワケが分からないまま取り敢えず野間とは逆の方向に曲がる。
鯉登は赤毛の少女の方に向かって追いかけて行った。
◇
「田中、貴様こんな所で何をしている!」
それはこちらの台詞だ、と言いたいがアンは我慢した。と言うよりは走り疲れて呼吸が乱れ、言葉が出て来ない。ゼイゼイと荒く肩で息をして呼吸が整うのを待つが、自分を追って来た男は呼吸が殆ど乱れていない。
曲馬団の天幕を出て、豊原の町を全速力で走ったにも関わらず、舞台挨拶もそこそこに天幕を飛び出した鯉登に追いつかれた。彼はサーカスで見せた軽業さながら町の建物を足場にして忍者の様に飛び回り、隠れながら逃げる少女をあっと言う間に見つけて袋小路に追い詰めた。
「答えろ!」
「・・・知人に頼まれて樺太アイヌの民族衣装を仕入れに来たんだよ。アンタは?何故軍を退役して軽業を始めたんだ?鶴見中尉が嫌になったのか?」
「そんなワケ無いだろう、私は鶴見中尉殿を心酔しているのだぞ!?玉井伍長と岡田一等卒も来ているのだな?どうせ貴様らも尾形を追って来たのだろう!?」
「へ?」
目の前の青年将校の発言に思考停止するアン。
ーー尾形が樺太にいる!?
「いや、アンタらは・・・あ、そうか!金塊は樺太にあるのか!?監獄に隠されてた『のっぺらぼう』をアンタらが見つけて・・・そうだ、『のっぺらぼう』は日本のアイヌじゃ無かったからな、アシリパなんて明らかに私と同じ混血だし・・・」
「何を言っているのだ、『のっぺらぼう』は尾形が殺したんだろうが!杉元だってヤツに頭を撃たれたし、アシリパと白石は尾形とキロランケに拐われて樺太に・・・」
赤毛の少女の顔色が次第に青ざめていくのを見た鯉登は発言を止めた。
「まさか・・・本当に何も知らなかったのか?」
この娘は何も知らずに樺太まで来た、鯉登はそう判断した。彼女は目を見開いているが呆然として、視線は何処か遠くに向けている。
ーー野間が言ってた『解雇』って・・・そう言う事か?
「・・・鯉登、尾形が『のっぺらぼう』を殺して杉元を撃ち、アシリパを攫ったのは本当か?」
「本当だ。私と月島はその為に樺太まで来たのだ。杉元と谷垣がいるのはアシリパを確保しやすくする為だ。」
アンは理解した。野間の言っていた『解雇』は嘘では無いだろう、と。
ーー私は・・・尾形にとって要らなくなった人間なのか?でも尾形はアシリパに対しては、杉元を殺そうとしてまで欲しいのか・・・
「わ・・私は・・・」
言葉が出て来ない。
ーーいずれ切り捨てるつもりなら何で旭川で無理矢理私を連れ去った!?大雪山の鹿の中でした約束は!?キロランケさんと樺太に行くなら何故そう言ってくれなかった!?あれだけアンタの味方だと伝えたのに!!
気が遠くなりそうだった。
何だかんだ言っても心を許して貰えている、そう思っていた。
実際はどうだったのか知らないが、裏切られた、そう感じた。
私よりアシリパの方が大切な人間なんだ、と。
「・・・る。」
アンは呟いた。
「何て言った・・・」
「尾形のヤロウ、ぶっ殺してやる!!!」
突然の少女の絶叫に鯉登は唖然としたが、彼女を見て思った。入院している時の杉元と同じ目をしている、と。
◇
アンは玉井達の宿には敢えて戻らず、そのまま鯉登に連れられて曲馬団の天幕のある広場に向かった。所持品に着替え等は無いが、必要な物は鯉登に買わせる事にする。
「連れの男は玉井伍長か野間か岡田だろう?」
鯉登の質問で少女は安心した、野間は鯉登に顔を見られていない様だ。
「言っただろう、アメリカ人の知人に民族衣装の買い付けを頼まれているんだ。彼は私と同じダンさんの牧場の従業員だよ。アンタに玉井さん達と組んでいる事がバレたから、あの連中とは手を切ったよ。」
玉井達にとって尾形は単に金塊や出世だけで繋がった関係では無いのだろう。その点については、アンは尾形が羨ましくなった。しかし彼らだって用済みになれば、尾形に切り捨てられる未来が無いとは限らない。
少女は玉井達が自分に配慮して『解雇』を黙っていたのは理解している。彼らを死なせたく無い。
ーー尾形は目的を叶えたら玉井さん達をどうするつもりだろう。私と同じように切り捨てるつもりかな。
許せなかった。
アンは何故自分がここまであの男に対して頭に来ているのかは分からない。以前よりあったアシリパに対する僅かながらの劣等感のせいなのか、それとも・・・。一つの可能性が頭を過ぎったが、少女はそれだけは考えたく無かったのだ。
鯉登に連れられて曲馬団の天幕に戻ると、杉元と谷垣が驚いた顔をしていた。
「田中さん、まさか尾形と一緒なのか!!?」
「キロランケは何処に行ったんだ!?」
2人は鬼気迫る表情でアンを問い詰めてきた。大切な者達を奪われ、傷つけられたのだから当然だ、彼らの気持ちは痛い程分かる。2人はどうやら自分が尾形と一緒に樺太に渡って来たと思ったらしく必死だった。
「ゴメン、私にも分からないんだ。私はあの時、網走監獄の裏山から逃げて尾形を捜したけど見つからなかった。行く当ても無いから日高に行ってダンさんの牧場で働いていた際に、樺太アイヌの民族衣装を仕入れて欲しいと頼まれてこっちに来たんだよ。」
アンはそう言ってダンに書いて貰った紹介状を2人に見せた。
「あぁ、あの日高のアメリカ人か・・・。そう言えば知人だったもんな。」
杉元と谷垣はガックリと項垂れている。
「尾形達の事は聞いたよ。私も一緒に行く。」
「樺太の旅が終わり次第、お前の身柄は第七師団の預かりとなる。今、北海道に引き返すワケにはいかないのでこのまま連れて行く事になるが鯉登少尉殿と私が面倒を見る、それで構わないな。」
少女は月島にそう言われ、頷いた。
杉元も谷垣も困惑した表情を隠そうともしなのは、尾形との関係を疑われているだろう。それは当然であり仕方がない事だった。
ーー網走監獄へ侵入する準備をしている時が人生で一番幸せだったな。
優しかったキロランケや、距離が縮まったと勘違いしていた尾形は最初からどこにもいなかった。皆それぞれの都合があり、その為に動いているのだ。あの日の皆は同じ物を食べながらも、それぞれ別の思惑の為に動いていた。
ーー杉元はアシリパを拐った尾形を殺したいみたいだけど、それは私だって同じだ。
杉元より先に自分が尾形を殺す、少女はそう誓った。