アシリパ達が亜港監獄に向かった事を聞き、樺太先遣隊は急いで犬橇を走らせているその頃、尾形はキロランケ、アシリパ、白石と共に亜港監獄の壁を爆破してソフィア達パルチザンを解放していた。
流氷の上を歩いてロシア本国に向かう一向。途中、流氷が割れて白石と逸れるも、西に向かって歩く。
しかし尾形はそこまで付き合うつもりは無い。彼にはキロランケやソフィアが夢を抱く、少数民族の独立等は興味は無い。アシリパからアイヌの金塊の暗号を解く為の鍵を聞き出し、金塊を奪って中央に差し出す。そして余所見ばかりしている鶴見中尉を利用して将校に引き立てて貰う。
いずれ父親と同じ師団長となり、父や弟の地位、してきた事や目指した物を、『山猫』の自分にも務まる詰まらぬ事だと否定してやりたかったのだ。
つい先程、監獄の方から聞こえて来た銃声に聴き覚えがあり、彼は一人焦燥感を感じていた。目の前にいるアシリパ以外の2人・・・パルチザンの2人が邪魔だった。特にキロランケが助け出したソフィア・ゴールデンハンドと言う女、尾形は彼女相手に白兵戦では絶対に勝てない。
ーー思っていたのとはだいぶ違うな・・・
女だてらにパルチザンの頭を務めていたので、ある程度屈強なのは想像ついたが、予想していたのより大分横幅があった。しかもアムール虎相手に大立ち回りしており、かなり動ける様だ。
天候が荒れて来た為、流氷の上で風を凌ぐべく氷の壁に身を寄せる。
「アシリパ、もっと流木が無いか探しに行こう。」
「あぁ。」
2人から引き離して暗号を聞き出す為、尾形はアシリパに優しく声を掛けた。その側で屈強なソフィアは重い流氷を持ち上げて風を凌ぐ為の壁を作ろうとしている。この女とだけは争いたくない。
ーー今思えば、アイツにはこんな風に接した事は無かったな。
雑に扱っていた案内人の少女の事を思い出した。彼女はそれでも自分を慕ってくれていた様だし、尾形自身悪い気はしなかった。良くも悪くも、あんなに1人の人間に感情を振り回される様な経験はこれまでの人生では無かった。この感情は何なのかと考えた事もあるが、そんな物は今は邪魔になるだけだ。敢えて突き放した。
ーー北海道に戻ったらまずは土方達の所に潜り込んで、金をせびるか。アイツにせめてこれ迄の分は賃金を払ってやらねぇと、この世の果てまで追いかけて来そうだからな。
彼女の事を思い出した尾形は自然に口角が上がる。
「尾形、アンの事を思い出しているのか?」
突然、アシリパに話し掛けられた。
「いや・・・」
「そうか、私はアンを思い出すと楽しい気持ちになる。笑わせるのが上手いからだろうな。」
笑われるのが上手いの間違えだろ、と思ったが、尾形は黙った。確かに自分自身も彼女といる時はよく笑っていた気がするからだ。
尾形はアシリパには、彼女は鶴見中尉に捕らわれたがイギリスに連れて行って貰えるらしい、と嘘を伝えている。当初寂しそうにしていたが、決して悪い事では無いので納得している様だった。
次第にキロランケ達と距離が開く。彼らが裏切りに気付く前にアシリパから金塊の暗号を解く鍵を聞き出さなくてはならない。アシリパは樺太の旅で父ウィルクの思い出を思い出していた。そしてつい先程、大事な事を思い出した様だった。
ーーアシリパは間違いなく金塊の暗号の鍵を思い出している。樺太まで来た甲斐があった。
尾形はゆっくりとアシリパに近付いた。
◇
その日、アンは生まれて初めてアムール虎を見た。虎が猫科だと知ってはいたが、彼女の中では納得がいかない。可愛くない。この生き物は羆やグズリと良い勝負だ。
「ヒィィィィィッ!!?」
「下がっていろ、田中、チカパシ、エノノカ!!」
「母様が迎えに来た!母様が私を殺しに来た!!」
「どけッ!!」
狼狽するアンの襟首を引っ張って後退させた鯉登、杉元、谷垣、月島が虎に向かって発砲する。しかし何故政治犯ばかりの監獄に虎がいるのか、ロシアでは虎も政治を憂えたりするのか。
監獄の壁は何者か、おそらくキロランケによって大穴が開けられており、中の囚人達は脱獄したようで静かだ。
次第に天候が悪くなってきた。
西へ逃げたと思われるキロランケ達を追って、アンと先遣隊は流氷の上を進む。アンが連れて行かれるのは尾形を油断させてアシリパを確保出来るかもしれないからだ。デコボコの流氷の上は犬橇が使えず、已む無く下りて歩いた。杉元だけはリュウを連れて先に走って行ってしまい、その後を追いかける形である。
ーーん?
アンが大きな氷の塊の影に震えながら隠れている人間を見つけた。格好から明らかにこの辺りの少数民族のニヴフではない、ロシアの囚人だ。
「誰かいる!!」
月島も気付き囚人に近寄る。
「月島さん、この人・・・」
「あぁ、スヴェトラーナだ!!おい、ちょっと待て!」
月島達に気付かずに鯉登と谷垣は先に行ってしまった。
月島はスヴェトラーナとロシア語で会話をしている。赤毛の少女には2人の会話の全ては分からないが、家出娘は強盗を犯して収監され、家には帰りたく無い、サンクトペテルブルクに行きたい、と言っているようだ。
ーーこの人も金持ちになりたいのか・・・
アンは共感した。月島は彼女に取り敢えずは一緒に来る様に伝えて、合流した鯉登と共に谷垣を追う。
少し歩くと前に誰か倒れているのが見えた。
「「谷垣!?」」
アンと月島、鯉登はほぼ同時に気付き駆け寄る。谷垣はキロランケにやられたらしく鯉登は激怒している。アンは月島に、スヴェトラーナとその場に留まる様に言われ、走り去る軍人達を見ながら谷垣の怪我を確認した。
「谷垣、しっかりしてくれ!」
谷垣の身体に銃創が無いか確認する。キロランケだけならまだしも、邪悪な上等兵が何処からか狙っていないとは限らないのだ。
「田中、狙撃はされてない・・・。尾形はキロランケと一緒じゃなかった。アシリパもいなかった。」
「へ?」
驚いて変な声が出てしまったが、良く考えたら不思議では無い。尾形がキロランケを裏切るとしたら今しか無いだろう。彼は中央の回し者で、少数民族の独立なんて興味が無いのだ。ロシアなんて行くワケが無い。
「谷垣、尾形が何処かにいるかも知れない!見つけないとみんな危険だ。探して来る!」
「おい、待て!!」
谷垣の静止を無視して走り出したアン。今は吹雪いているので狙撃される心配は無さそうだが、この吹雪だっていつ収まるか分からない。その前に見つけ出したい。
ーー誰よりも先に尾形を見つけられて鯉登達にも伝えられない状況なら・・・私がアイツを手にかけてしまっても良いのかな?
尾形はアシリパと一緒にいる筈だ。彼女を守る為に仕方なく・・と言う理由さえあれば鯉登は納得するだろう。自分ならあの男は油断する筈だ、そう考えて小刀を握りしめる。油断させて近付き頚動脈を切る・・・流石のアンも軍人相手に真っ向勝負はしたくなかった。
しかしそうなると、月島達と別行動の杉元が気になる。彼はアシリパの為なら何でもするだろうし、先を越されたくない。
アンは叫んだ、尾形とアシリパの名前を。
◇
・・・・・・尾形ーーーッ
吹雪の音に紛れて自分を呼ぶ声が聞こえた、気がした。
幻聴だ、あの阿呆がいるワケ無い、玉井伍長殿に預けて来たのだから・・・尾形はそう考えた。
今はそれどころでは無い。アシリパに自分を信用させて暗号の鍵を聞き出さなくてはならない。アシリパの疑り深い眼差しが尾形に刺さる。
「故郷の山で鹿を獲って自由に生きて行けば良い。」
「お前の父親が撃たれた時、キロランケが何処かに合図していた。」
「俺は杉元に頼まれた。」
双眼鏡から見えた不死身の杉元の姿、目の前の少女の相棒の存在が尾形を焦らせる。殺して筈の男は生きていた。嘘に嘘を重ねてアシリパから暗号の鍵を聞き出そうとするが、彼の気も知らずに杉元の最期をしつこく尋ねる少女。
尾形は目の前の無垢な少女の存在に苛立った。亡き弟と同じ清らかな存在、自分とは余りにも違い過ぎる彼等。彼等が人として正しいのなら、自分は一体なんなのか、存在してはいけないとでも言うのか。彼等の存在そのものが尾形自身の存在を否定している様に感じた。
尾形はアシリパに苛立ちながらも、彼女の質問に慎重に答えていく。
「あぁ、確かトメだ。俺にはそう聞こえた。」
・・・・・・尾形ーー、アシリパーー
また微かな幻聴が聴こえる。アシリパは尾形の話に集中しているせいか聞こえていない様だ。やはり彼の気の所為だろうか。
ーーアイツならもっと器用に聞き出すのだろうか。
ふと幻の声の主を思う。
尾形は頭は回るが人の心を掴むのは苦手だ。アシリパの質問に対し、自らの過去を重ねて返答していく。杉元の幼馴染の嫁の名は、彼がどんなに呼びかけても、父親の面影に囚われて自分を見てくれなかった母親の名前にしていた。
ーー母が亡くなった時は別に何とも思わなかった。あの人の心は生きながら彼岸にあったからな。
しかし小樽の兵舎が家事になり、案内人の少女が死んだと知った時は激しく動揺した。造反計画に致命的な狂いが生じたからだろうと当初は考えた。彼女がよく食べていた物を用意して、実は生きていて待ち合わせ場所に来るのを期待した。しかし結局少女は来なくて、ソレはそのまま陰膳になった。
生きていたと知った時は驚いたが、彼女は自らの判断で自分から離れて行った。やはり自分は選ばれない、両親が自分に対してそうだった様に、そう考えて諦めた。
「最期に何か食べたいとか言ってなかったか?」
アシリパが目に涙を溜めて質問してくる。尾形の嘘が効いている様だ。あと少しでこの少女は自分を信じて鍵を教えてくれる、尾形は確信した。自分の中の記憶を辿りながら答えを探す。杉元は大体の物は“ヒンナ、ヒンナ”と言いながら食べていた。何を答えても大丈夫な様に思える。
「杉元は最期に・・・」
尾形はアンコウ鍋と答えるつもりだった。
自分の好物でもあり、亡き母が会えない父の為に狂った様に作っていたモノでもある。あの間抜けな案内人のような逞しさがあれば母は狂う事も無かっただろう、そう思いながら・・・
「アンパンが食べたいと言っていた・・」
言った瞬間、アシリパも、尾形自身も動揺した。
「杉元なら“干し柿”と答える筈だ。尾形、お前、誰の話をしているんだ!?」
ーーんなモン、こっちが聞きてェよ。
「お前は何ひとつ信用できない!!」
アシリパは尾形の手を振り解き、飛び退いて弓矢を構えて矢を彼に向ける。
ーーもう駄目だ。上手くいかないモンだ。
尾形は開き直った。鍵を教えて貰えないのなら、せめてこの清らかな存在を穢してしまいたい、そう考えながら彼女を挑発する。弟の時は上手くいかず、尾形が殺した。次こそは上手くやる、この清らかなアイヌの象徴はあの父親の娘だからできる筈なのだ。
「やれよ、俺を殺して見ろ。」
◇
アンは尾形とアシリパの名前を呼びながら探し回った。邪悪な上等兵殿は応えてくれないだろうが、素直な美少女は応えてくれる筈だ。
途中何処かで何か爆破される音が聞こえ、反射的に身をすくめる。爆発の衝撃で自分の足下の流氷が割れないとは限らない。
「尾形ーーーッ!!!」
進行方向から突然杉元の声がした。明らかに捜す為に呼んだ声では無いドスの効いた声。
ーー杉元に先を越される!!
アンは慌てて立ち上がり走る。会いたかった、殺されてしまう前に話がしたかった。出来る事なら自分が手に掛けたかった。息を切らしながら走ると前方に人がいる、白石だ。何故かリュウと一緒にいる。
「白石!!」
「えェ・・・!?アンちゃん・・あ、駄目だ、見るな!?」
「へ?」
白石が真剣な表情で慌ててアンの視界を塞ごうと片手を翳したが、アンには見えてしまった。
尾形の足が見えた。
冷たい氷の上で倒れている。
杉元が血を吸っては吐き出している。
何が行われているのか理解が出来ない。
ボンヤリした頭で周辺を見渡すと、アシリパが弓を握ったまま氷の上にしゃがんでおり、近くには矢尻が血で染まった矢が落ちていた。
ーー毒矢を喰らった?
アシリパが積極的に人を傷付けるとは思えない。倒れている尾形の横には三八式が落ちているので、邪悪殿が彼女を殺そうとして返り討ちにあったのだろう。
ーーフ・・・間抜け。
何故か笑えて来た。内心、ザマァ見ろと言う気持ちもある。忌々しいモノから解放された気分だ。白石に大丈夫と伝え、アンは尾形と杉元の方に近付く。優しい白石は狼狽えて何か言って来るが耳に入らない。
「杉元、尾形は生きているのか?」
「!!?田中さん・・・」
尾形の両目は外套の切れ端でグルグルに巻かれ、あの真っ黒な瞳は見えない。
底無し沼の様な不思議なあの瞳。
杉元は躊躇いながらも応えてくれた。
「生きてるけど、右眼に刺さってさ・・・」
「そうか。ありがとう。」
ーー効き目だ。運良く助かっても狙撃手としてはもうお終いだな。
アンは自分でも呆れるくらい冷静になっている。自分を捨ててアシリパを取った男は、選んだ相手に全力で拒絶されたのだ。しかし当のアシリパは初めて人を射ってしまった事で我を失いかけている。赤毛の少女はなるべく優しい声で美少女を励ました。
「気にするな、コイツは遅かれ早かれこうなっていたんだ。アシリパの運が悪かっただけだよ。」
「・・・アン。」
「杉元、尾形の三八式は私が貰っても良い?」
「え?・・・あぁ、別に良いけど。」
危ないので、杉元に小銃から弾を抜いて貰い受け取る。売り飛ばせばそれなりの額になりそうなので、せめてもの案内人としての給料代わりに貰ったつもりであった。
ーー思ったより呆気なかったな。あんなに腹が立ってどうしようも無かったのに、現実じゃないみたい。
直後、アシリパの足元の流氷が割れて彼女を助けようとした杉元の外套のボタンに美少女の瞼がくっついてしまい、白石の放尿で事なきを得る珍事があった。
アンは白石の液体が届かない場所まで離れ、穏やかな表情で3人を見守る。
ーー彼らの間に尾形が入り込む隙なんて、最初から無かったんだ。
少女は意識の無い上等兵の隣にしゃがみ、三八式小銃を抱き締めながら彼を見た。
ーー憐れなヤツ。
◇
アンと尾形を背負った杉元達5人が駆け付けた時にはキロランケは既に事切れる寸前だった。アシリパが彼の元に駆けつけて必死に話しかけており、2人は周りに聞こえない声で内緒話をしている様だ。
ふとキロランケと目が合った。息絶えようとしている優しかった男はアンを見ながら口を動かしている。
ーー“ごめんな”?
そう言っている様に見えた。何故謝られるのか分からない、彼は自らの信念の為に尾形を連れて行ったが、尾形とアンは赤の他人だ。謝られる筋合いは無いのだ。
キロランケは最期に愛する女の名前を口にして息絶える。北海道に残した妻子ではなく、苛烈な青春を共にした女の名前を。
「キロちゃんはさ、真面目過ぎたんだよ・・・!!」
そう呟く白石と共に、赤毛の少女はキロランケの亡骸に氷の塊を積む。春になれば氷が溶けて、キロランケの魂が故郷のアムール川に帰れるだろうと言う白石の提案だった。
ーーこの人は北海道まで移住したのに、魂はパルチザンのままだったんだな。
アンは優しい男の穏やかな死に顔を見る。金塊や民族の独立、残して来た妻子達との生活・・彼がやり残した事は多いだろうに、どこか満足そうな顔をしているのが不思議だった。
流氷から陸地に向かって皆で戻る。
鯉登も谷垣も怪我をしているが、月島は重症、尾形は瀕死だ。暫くはこの地を動けそうに無い。
その時、アシリパと杉元が近くにいたスヴェトラーナに気付いた。更に彼女の向こうに人がいるのに気付き、2人は鯉登の制止を振り切って駆け出した。
ーー!!
危うく声が出そうになる。アシリパを追いかける杉元が、背負っていた尾形を乱雑に下ろしたのだ。殺してやりたいとまで思っていた尾形は流氷の上に落とされてもピクリともせず、明らかに死にかけていて痛々しくて見ていられない。
ーー違う!こんな状態の尾形は見たくなかった!!いつもみたいに憎ったらしく振る舞ってくれれば良いのに!!私は・・・何がしたいんだろう・・
アシリパ達が岩息とか言う、異常に目の綺麗な巨漢を連れて戻って来た。彼がどうやら、アンと玉井達が追っていたスチェンカの横綱である刺青囚人らしい。
ーー今更だな。
尾形はこの後、近いうちに殺されるだろう。アンは鶴見中尉の庇護下に入り、恐らくだが鯉登辺りと縁談でも組まれるかもしれない。そして玉井達3人は不名誉除隊だ。もう金塊争奪戦に直接関わる事は無いのだ。
人数の増えた一行は犬橇で待つチカパシ達の所に戻り、その日は近隣のニヴフ族の村に厄介になる。
岩息とスヴェトラーナは月島に説得され、スヴェトラーナは燈台守の両親に手紙を書いた後にサンクトペテルブルクに向けて流氷を歩いて旅立った。ロシア語が喋れないが強い岩息とロシア語を喋れるが非力なスヴェトラーナ。良い相棒になりそうである。
因みに2人はこの後、大陸に渡って大暴れするのだが、それはまた別の話である。
ニヴフの集落では『モス』と言う甘味をご馳走になった上に、住人は怪我人の手当までしてくれた。鯉登は『モス』が気に入ったみたいで“モス、モス”煩い。アンは寝かされている尾形から少しだけ距離を取って、床に座り三八式を抱えたままモスを頂く。
「鯉登!月島さんの口にちゃんとモスを入れてやりなよ!鼻の上に置くなんてどういう嫌がらせだ!?」
「喧しいぞ、田中!大丈夫だよな、月島!?」
「・・・2人とも、頼むから静かにしてくれ・・」
月島は辛そうだった。
ニヴフの女性は白ヨモギを使って治療をしてくれるが、月島はともかく尾形迄は治してやれない、と言っているようだ。日を跨いでも良くなる事は無く、容態は悪化している。医者をここに呼ぼう、杉元がそう言い出した。しかし鯉登は勿論、アンも反対である。
「我々は密入国者で日本軍だぞ!?」
「殺す予定の人間をワザワザ治療させるのか?医者からしたらたまったもんじゃ無いぞ?」
このまま死なせてやりたい、これ以上この男に自分の気持ちを振り回させたく無い、アンはそんなつもりで医者を呼ぶのに反対していたが杉元は強情だった。
「月島軍曹も医者に見せた方が良いだろう。それに・・・コイツには色々と聞きたい事があるからな。」
アシリパを拐った理由を訊くだけとは到底思えぬ杉元の気迫にアンと鯉登は圧倒された。
◇
杉元達が医者を連れて来たのでニヴフの家で診察を頼むが、やはり月島はまだしも尾形は病院で処置をした方が良いとの事だった。仕事熱心な医者に説き伏せられ、已む無く尾形を病院に搬送して処置を受けさせる事となる。杉元はアシリパに殺人をさせたく無い様で、医者の説得に了承していた。
ーー何でこんな事に・・・!!
アンは尾形がこのまま穏やかに死ぬと思っていたので安心しきっていた。一命を取り留めたら恨みを抱く杉元達に何をされるか分からないし、鶴見中尉の手に渡れば拷問の末に処刑されるだろう。例え生きて逃げ延びる事が出来ても彼はもうアンを必要としておらず、いずれは何処かで別の女性と所帯を持つかもしれない。そんなモノを見たくはなかった。弾の入ってない三八式歩兵銃を抱き締める手に力が入る。
全ての可能性が彼女には耐えられなかった。
◇
夜、谷垣は医者が一足先に病院に戻った後に意識の無い尾形を載せた担架を犬橇に繋ぎ、病院に向かう支度をしていた。ふと気が付くと赤毛の少女がいない。安静にしている月島を除き、全員が犬橇で病院に行く事になっていたのに。
「杉元、田中を見ていないか?」
「いや・・・でも田中さんには辛いだろうし無理させなくて良いよ。」
「まぁそうだが、一応声だけでもかけて来る。」
ーー月島軍曹の世話でもしているのか?
谷垣はお世話になっているニヴフの家に戻ると、囲炉裏の前に立って燃える火をボンヤリと見ている少女を見つけた。
ーー田中・・・?
一瞬、誰か分からなかった。火の側にいる筈の少女の顔は青ざめて白い肌は更に白く見える。しかし目は爛々としており、野生動物の、それこそ亜港監獄で見た虎の様な獰猛な肉食獣を思わせる恐ろしく美しい生き物に見えた。
ーー女は怖いぞ?ーー
谷垣は、かつて北海道で出会った二瓶と言う猟師から聞いた言葉を思い出す。谷垣が声を掛けようと近付くと囲炉裏で燃えている物が目に入り、彼は焦った。
「田中!これは・・・!!」
少女の角巻が囲炉裏で燃えていた。
小樽の兵舎に初めて彼女が来た時に捨てられそうになって、谷垣自身が慌てて回収した物だ。谷垣が急いで火から出そうとするが燃える角巻の持ち主に止められた。
「もう良いんだ。それはもう要らない。」
穏やかな声で止められて谷垣は躊躇する。ここは冬の樺太だ、被り物が必要無いワケが無い。
「ゴメン、待たせたよね。行こう?」
赤毛の少女は申し訳無さそうに赤ゲットを頭から被り谷垣を外に誘う。その表情はいつものお転婆少女の顔になっており、谷垣が見たモノは目の錯覚と思われた。
「三八式、持って行くのか?」
「うん、弾は抜いて貰ったから安全だよ。・・・手放したくなくてさ。」
「・・そうか、分かった。」
少女は死に掛けている男の小銃を抱き締めている。それを見た谷垣は何も言わず、2人は家を出て犬橇に向かった。
家の中、囲炉裏で燃え続ける赤毛の少女の分厚い角巻。やがてその中から十字架の首飾りの様な物が姿を現したが、やがて火の中に呑まれていった。