ある悪人の前半生   作:土鳩

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赤黒

赤毛の少女は谷垣に連れられて尾形を載せた犬橇に向かい歩いた。

アンが頭に被っているのはいつもの角巻では無く、稲妻から貰った赤ゲットのみだ。それを頭から被り、弾の入っていない三八式歩兵銃を前に抱えている。

尾形はこれから清潔な病院で処置をされる事になっている。しかし毒を吸い出してちゃんとした処置をしたからと言って、現在意識が無い男が助かるとはアンには到底思えない。

彼女は橇に載せられた死に掛けている上等兵をチラリと見る。頭の上半分を包帯でグルグルに巻かれ、患部の右眼は勿論だが左眼も隠れて見えない。あの真っ黒な瞳が片方だけとは言え無くなっているので、この男の目に吸い込まれた自分の心は半分だけ戻って来たのだろうか、アンはそう感じた。恋しい男が死に掛けているのに妙に冷静なのは、そのせいの様に思える。男は身体に毒が残っているのか顔色は悪いし肌も荒れていた。

 

ーー!!?

 

一瞬だが、死に掛けて意識が無い筈の男の口角が上がった。

 

「田中!遅いぞ、何をしていた!?」

 

アンが鯉登に呼ばれた瞬間、尾形の口が僅かに開き、直ぐに閉じられる。

赤毛の少女は鯉登の発言を一旦放置してアイヌの美少女に視線を動かした。どうやら強い意志を以て尾形を射ったワケでは無い様で、元気がない。

 

「遅くなってゴメン、ちょっと準備に手間取ってた。行こう。」

 

アンは急いで犬橇に乗る。鯉登はやはり尾形を病院に連れて行くのは反対らしくブツクサ言っていたが、杉元はそうでも無い様だ。

 

「救いたいのはアイツじゃねェ。」

 

2台の犬橇は様々な思惑の人間達を乗せて雪道を走り、ロシア人医師の待つ病院へ向かった。

 

ロシア人医師の病院はニヴフの村からそこまで距離の無い場所にあった。旅に慣れたアンならちょっと頑張れば歩いて行ける程度の距離だ。病院の前で樺太先遣隊一行は手術が終わるのを待つ事になる。アシリパは杉元の隣にいて普段通りに振る舞っているが今にも泣き出しそうなのが何となく分かる。アンは彼女に対して呟いた。

 

「アシリパ、大丈夫だよ。」

 

「え?」

 

「鯉登、ゴメン。やっぱり帰っても良い?何か・・色々あって眠くなってきちゃった。あまり遠く無いから一人で戻れるよ。」

 

アシリパから鯉登に目線を動かし、少し大袈裟に欠伸をする。鯉登は“逃げるなよ?”と言うが逃げるつもりなど毛頭無い。

先遣隊から離れて、ニヴフの集落に向かう振りをしながら慎重に遠回りをして尾形の処置が行われる病院に裏側から急いで向かった。治療する場所が場所なので恐らく麻酔が使われるだろう。持っている三八式には弾は入っていないが、小刀は所持している。皮肉な事に尾形に買って貰ったヤツだ。

麻酔が効いてきたら尾形は意識が無くなる、アンはそうなる前に決着をつけたかった。

 

 

日露戦争に従軍したと言うロシア人医師の病院の手術室に尾形は運び込まれた。手術室には医師とその妻らしき看護婦のみ、杉元達は病院の外で待たされている。アンは病院の裏口から侵入し、ロシア語の表記を見ながら木の廊下を歩いた。

 

ーーここだ。

 

『операционная』ー手術室、木札にそう書かれた部屋の扉を叩く。中から応答があり、看護婦らしき女性が出て来た。少女は三八式を構えて銃口を彼女に突きつける。

 

「Встаньте возле стены!!(壁際に立て!!)」

 

アンは看護婦に、そして無理矢理入室してからは医者に、交互に小銃の銃口を突き付けながら脅した。2人とも銃に弾が入って無いとも知らず青ざめて慌てているが、医者はそれでも赤毛の少女に落ち着くように説得して来る。医者とは言え従軍経験があるのが納得出来るような落ち着き振りで、逆にアンが慌てそうになる。

 

ーー私のロシア語、伝わって無い!?

 

所詮は付け焼き刃のロシア語、文法はまだしも発音が酷いのに少女は気が付いていない。医者は優しい口調で宥める様に話してくる。大丈夫とか、彼の心配はいらないとか、私を信じてくれとか、君は彼の恋人なのかとか・・・どうやらアンが恋人を心配して医者を襲撃したかの様に思われているようだ。

 

ーー違う!私は尾形を殺しに来たんだ!!

 

嫉妬に塗れた自分が嫌で、地獄に落ちる覚悟で自ら手を汚しに来た。神がいるなら何処までも逆らってやる、どうせ神様は自分に試練しか与えてくれないのだ。

 

「Девушка говорит мне, чтобы я придвинулся ближе к стене.(その娘は壁に寄れと言っている。)」

 

部屋の窓際中央から声が聞こえた。突然の流暢なロシア語に、手術室に襲来した少女は思わず声の主を見る。

 

「おがた・・・」

 

「・・久しぶりだな、アン。」

 

手術室中央の寝台の上、包帯を解かれて手術着に着替えさせられた尾形が上半身を半分だけ起こして自分を見ていた。尾形は相変わらず顔色は悪かったが彼女の様を見て呆れ返っている。医者達2人は尾形に言われた通りに壁際に寄り、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。

 

「アンタ、やっぱりロシア語が話せたんだな。」

 

「・・・阿呆が、今から手術だから出て行け。」

 

「駄目だ、手術なんて受けさせない。私は・・・アンタを殺しに来たんだ。」

 

「は?」

 

尾形の左目は見開かれた。助けに来たのだと思っていたのだろう、アシリパに射抜かれた右目のあった眼窩も微かに開き、奥には赤黒い血の塊が見える。狙撃によって奪われた何人もの命とアンの心を吸い込んだ右眼は、もう無い。震える声で話を続ける。

 

「アンタは今から死ぬんだ。助かったところでその眼じゃ狙撃手としてはお終いだろ。」

 

「ハッ・・・随分な言い方をするんだな。」

 

「以前に片目を失った羆が、動きが鈍くなるのを見た事がある。狙撃の腕をアンタから奪ったら何が残る?私とした約束だって守れないだろうが。」

 

「・・・夫を殺して欲しい、だっけか?」

 

尾形は苦笑いをしている。上半身を半分だけ起こしているが、息が荒い。体調が悪く動くにも辛いのは明らかだった。

アンは小銃を下ろして右手で小刀を握りしめ、ゆっくりと男に近付く。手術台の横に立ち尾形を睨みながら話を続ける。

 

「橇で出発する前、アンタ笑ってたろ。治療が終われば逃げる気だったのか?」

 

「・・やはり見てたんだな。」

 

「この状況で逃げ切れると本当に思っているのか?もうアンタはアシリパに擦り寄る事も出来ないんだぞ?アイヌの金塊は手に入らないし、中央とやらにも切り捨てられるだけだ。」

 

「ハッ、そう思うなら放っておけば良いだろう。・・ワザワザ俺を殺しに来る事も無いだろうに。」

 

邪悪な上等兵殿は薄ら笑いを浮かべながら赤毛の少女を挑発してくる。

 

ーーあぁ、腹が立つけど凄く尾形っぽい。

 

少女は不思議な事に少し嬉しくなった。尾形の起こした上半身を手術台に力づくで押し倒して仰向けに寝かせる。アンは台によじ登って男に馬乗りになり小刀を彼の首筋にあてた。多少苦しそうにして肩で息をしているものの命を握られている筈の邪悪な男は一切怯える様子もなく、薄ら笑いをやめない。

尾形の位置からは室内照明の逆光になり、赤毛の少女の表情はあまり見えない。それでも彼は恐れる様子は無かった。

 

「私が・・殺したいんだよ。杉元や鯉登、谷垣じゃなくて、私の手で・・・!アンタは・・どうして私を連れて行ってくれなかったんだ?アシリパさえいればどうでも良いと思ったのか!?」

 

「ハッ、ヤキモチかよ、みっともねぇな。」

 

アンの質問に呆れ返りながら男は茶化してきた。

 

「そうだな、ヤキモチかも。本当にみっともない。これじゃあまるで姫みたいだ。」

 

「は?」

 

アンの肯定に尾形は左目を見開いて固まってしまっていた。どうやら予想外の返答だった様で、彼は動揺しながらも質問を続ける。

 

「『姫』って何処の姫だ?」

 

「同じ姫でも人魚姫なら自分が犠牲になる事を選ぶんだろうけど、私には出来ないや。」

 

「オイ、質問に答えろ。」

 

「アンタが私を選ばないから、死んで欲しいと思ってたんだよ、日高の姫みたいにさ!あぁはなりたく無いと思ってたのに・・・私は最低な人間だ。稲妻達の方がよっぽどマトモだった。でももう良いんだよ。」

 

赤毛の少女は尾形に対して説明しているつもりの様だったが、余計に彼を混乱させていた。已む無く弱っている上等兵は彼女が何を言おうとしているのかを、文字通り死ぬ気で推測するしか無かった。しかし、日高に姫と言われる人間なんていただろうか。

 

「お前は・・俺を愛していた、と言う事か?」

 

「違う!こんなモノは愛じゃ無い。本当に愛ならこんな醜い感情は生まれたりしない。」

 

「じゃあ何なんだよ・・・」

 

アッサリと否定された尾形は途方に暮れそうになっている。彼は『愛』って何だっけかと考えたが、そもそも互いの『愛』の概念が違い過ぎる事に2人は気付いていない。

 

「死んでくれ、尾形。私はアンタが鯉登や杉元に殺されるのも、何処か知らない所で誰か知らない女と結ばれるのも耐えられそうにない!」

 

少女は肩を振るわせており、泣いている様に思えた。アンの表情は彼からは見え辛い。

しかし、この阿呆は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか、そう思い尾形は酷く困惑する。平常心を保てているのは彼の頚動脈に当てられた小刀のお陰もあった。

その時、部屋の隅に追いやられた医者達が少女を説得しようと話しかけてきた。彼女はそちらを振り向き下手糞なロシア語で叫びながら必死に医者を黙らせる。

 

ふと手術台上に仰向けに寝かされた尾形はある事に気付いた。自分を殺そうとしている少女が医者の方を見る為に顔を上げた瞬間、はっきりとその顔が見えた。

 

尾形も思わず口角が上がる。コイツも俺と同じだ、欠けている人間だ、と。

 

「アン、何で笑っているんだ?」

 

「へ?」

 

「ハ・・良い顔して笑うじゃねぇか。」

 

「わ・・笑ってなんか無い・・・」

 

尾形に揶揄う様に指摘され、アンは狼狽えた。笑っている自覚は全く無い、悲しんでいる、泣きたい、そう感じていた筈だ。

 

彼女の右手にある小刀を握る力が一瞬弱まったのを、尾形は気が付いた。

 

「あっ・・!!」

 

突然、死に掛けていた筈の男は弱った身体で力を振り絞り、形勢逆転を図った。

 

アンの小刀を持つ手は左手で強く掴まれて、手術台の下に引っ張られた。尾形に馬乗りになっていた彼女は体勢を崩して前に倒れ込み、彼の上に覆い被さってしまった所を男の空いている右腕で抱き込む様に押さえ付けられる。

アンは混乱した。つい先程まで自分が尾形を殺そうとしていたのに、気が付けば自分は彼に抱き締められている。顔を真っ赤にして身体を離そうとするも両腕を使えず満足な力が入らない。

 

「助平!!離せ!」

 

「誰が助平だ。離したらお前は俺を殺すんだろうが。・・よく分からねぇが、お前は俺に惚れているって事で良いんだな?」

 

「ほッ?・・・そんな事一言も言って無いだろ!?」

 

「ハァ・・まぁ良い、治療が終わり次第ここを抜け出す。馬と俺の荷物を準備しろ。」

 

いけしゃあしゃあと要求を押し付けて来る厚かましい男にアンは絶句した。右手の小刀も丸ごと押さえ付けられた左腕と腰も、死に掛けていた筈の男の力の方が上らしく動かせない。どうやら少女が想像していたより彼は元気だった様だ。厚かましい男は苦しそうにしながらも更に続ける。

 

「お前は俺が杉元や鯉登に殺されるのが嫌なんだろう?」

 

「だから私が殺しに来たんだろうが!アンタが死んだ後、私は鶴見中尉にイギリスに連れて行って貰えるし、玉井さん達だって助かる。鯉登が約束してくれた・・・」

 

アンはそこまで言って黙った。尾形の残された左目が憎しみでいつも以上に黒く濁っている様に見えたのだ。

 

「お前は一緒に来い。残る気ならこの場で殺す。」

 

「ハァッ!?」

 

「鯉登なんぞにお前の価値は分からねぇよ。やめとけ。」

 

「何言ってるんだ、アンタは!?」

 

尾形はトリカブトの毒で錯乱している様だ、いつも以上に理不尽で滅茶苦茶である。身体は強く固定されて動けない。男は左耳のすぐ横で喋るので、アンは耳から脳へ甘い毒を流し込まれる様な錯覚をおぼえる。

 

「約束するぜ?ここでお前が俺に着いて来てくれたら、金塊争奪戦が終わった後の人生を全てお前の為に使ってやる。」

 

思わぬ申し出にアンの心は激しく揺れる。危うく深い意味まで考えそうになり、少女は慌てて妄想を止めた。しかしどうやっても素直に信じてやる事は出来なかった。

 

「黙れ、嘘吐き!・・どうせまた何処かで私を置いて行くんだろう?だったら・・・もう、ここで・・殺してくれ・・・」

 

涙目になりながら男の胸元に顔を突っ伏す。彼に泣いているのが見られない様にする為だったが無駄であった。尾形は溜め息を一つ吐き、両手を離して少女の身体を解放する。

 

「もう行け、いい加減に治療させろ。」

 

「尾形・・・」

 

「荷物は最低限で良い、馬はここの病院のがあるだろう。お前は・・・いや、もういい。勝手にしろ。」

 

尾形の表情は相変わらずの無表情だ。しかし片方だけ残された瞳は何も映しておらず、まるで何処か遠い、それこそ黄泉の国でも見ている様な虚無感があった。

アンはそんな寂しげな顔を垣間見せられ、動揺する。そして尾形に小刀を取り上げられ、さっさと外に出る様に指図された。

三八式を抱えたままフラフラと手術室を出て行く赤毛の少女を呆然として見ながら、ロシア人医師は患者の男に話しかける。日本語が分からない医者からすると、突然やって来た赤毛の娘が半狂乱になって男に跨り、叫んだ挙げ句に男に抱き寄せられた様にしか見えなかったのだ。

 

「Кто она такая?(彼女は誰なんだ?)」

 

「Невеста.(婚約者だ)」

 

尾形は手短に答えた。

 

 

真夜中の樺太の寒空の下、ニヴフの集落に向かって赤毛の少女は雪道を歩く。アンは迷っていた。地理上の道に迷ったのでは無く、人生の道に迷っていた。今迄の人生でこれ程までに迷った事は無い。

 

ーーいや、迷うのオカシイ!!

 

尾形は恐らく、狙撃手としては再起不能だ。中央とやらにも見捨てられるだろうし当然殺されるだろう。それなら鶴見中尉の軍事政権の方が余程可能性がある。仮に鶴見が失敗しても、中央政府に実父の名前を出しておけば手厚く保護される可能性は高い。自身はともかく、血統には価値がある様だ。

 

ーーそう言えば尾形は私の生まれを知る前から私に協力を求めていたな。

 

慌てて頭を振り、脳内の邪悪な男を外に追い出す。

取り敢えずは月島がいるニヴフの家に向かって歩いてはいるが、その先どうするかは決められない。そのまま不貞寝して全てをやり過ごすか、尾形と2人で極寒の樺太を逃避行するか・・・

普通に考えれば前者が正しい。月島も鯉登も嫌いでは無いし、アシリパは友人、杉元達だって結構好きな人間だ。対して尾形は裏切り者である。それに“もういい”と言われた、連れて行くのを諦められたのだ。

 

ーー決めた、寝よう!

 

ニヴフの家に戻り、部屋の隅でゴロリと横になった。部屋の真ん中で燃えている囲炉裏を見ながらウトウトとする。

 

ーーロザリオ、燃えたかな?

 

病院に行く前に火の中に放り込んだ母の形見、十字架の部分は木製だったので焦げたか燃え尽きた筈だ。尾形の心が自分の物にならないなら死んで欲しい、そんな狂気の沙汰の様な衝動に突き動かされて母を、そして神を拒絶して自ら手を汚しに行ったつもりだった。しかし失敗した。

 

ーー金塊争奪戦が終わった後の人生を全てお前の為に使ってやるーー

 

手術室で彼はそう言ったが信じられない、しかし本当は信じたかった。

 

ーーお前は・・俺を愛していた、と言う事か?ーー

 

尾形への気持ちは『愛』では無い。独占欲であり、執着である。しかしここまでの執着を誰かに対して抱いた事は無い。

 

考えれば考える程に答えが出ない。落ち着かない。あの子、アシリパならどうするんだろう、そう思った。尾形が自分を置いて連れて言った彼女・・・

 

ーーお前また頭でゴチャゴチャ屁理屈を考えているな?こういうモノは考えるな、感じろ!ーー

 

「!!」

 

アンは今年の頭にアイヌの美少女に再会した時に言われた言葉を思い出し、跳ね起きる。

 

ーーそうだよ、『何が正しいか』じゃ無い。『何がしたいか』だ!

 

自分の取ろうと考えている選択は色々な人達を裏切る行為だし、尾形がまた自分を置いてきぼりにする可能性もある。次こそは鶴見中尉も自分を殺すかもしれない。アシリパやおっかない杉元に対する敵対行為でもある。それでも・・・

 

「尾形とずっと一緒にいたい・・・」

 

誰にも聞こえない様に小声で呟いた。

 

覚悟は決まった。

 

 

真冬の早朝、亜港に大声が響く。

 

「アシリパさん、尾形が逃げたーッ!!」

 

ロシア人医師の病院に響き渡るのは杉元の声だ。憎い男に逃げられたにしては、声色に微かな喜びを感じられる。

ロシア人医師の自宅兼病院には馬小屋があり、3頭の馬がいた。丈夫そうで長距離に耐えられそうな馬をキロランケ先生に習った見分け方で選択して、二人乗り用の鞍やあぶみ等の馬具を装着させる。人の良さそうなあの医者の顔を思い浮かべると心が痛むが、2人の命が掛かっている、仕方の無い事だ。代わりに馬小屋には賭けスチェンカで儲けたお金をいくらか置いて行く。どうせあぶく銭だ。

 

病院の周りは杉元達が逃げた尾形を捜しているが、尾形はまだ病院にいるだろう。ずっと馬小屋で待っているけど来ないので、まだ逃げていない筈だ。

 

足音が聞こえた。雪を踏みしめる足音。

 

尾形を捜している誰かだろうか、そう思い慌てて馬小屋に隠れる。

物陰から近付いて来る人物を確認する。

待ち人だった。

 

「おがた・・・」

 

近付いて声をかけられた男は驚いて顔を上げる。2人の三つの瞳が互いを確認した。

 

「お前は馬鹿じゃないから来ないかと思ったぜ?」

 

「フハッ、馬鹿だったみたいだ。」

 

あまり時間が無い。尾形は病院着のみの寒そうな格好だった。持って来た彼の外套だけを羽織らせて、荷物を積んだ馬に乗る。

 

「乗れ。」

 

男は腕を引っ張って、自分を前に乗せてくれた。彼が手綱を握ると自分が後から包まれた様な錯覚に陥る。

ふと尻の辺りに柔らかいモノが当たる感触を微かに感じ、男に尋ねる。

 

「病院着の下は何も履いてねぇ。褌もな。」

 

慌てた、焦った、履かせれば良かったと後悔した。何で目の手術で褌まで脱がされたのか不可解だった。しかし男は一切構わずに馬を走らせる。

 

声が聞こえる。尾形の名前を叫んでいる。

友人だったアイヌの美少女の声もする。

 

「アンが乗っていた!尾形に拐われる!!」

 

ーー違うよアシリパ、違うんだ。

 

走る馬の上で無理矢理身体を捻り足を動かして、馬の手綱を握る男と向き合って抱き付く様な姿勢を取る。

 

「尾形・・・三八式、弾は入れたんだな?撃たせてくれ。」

 

「は?」

 

「良いから。」

 

身体を傾けて後ろの元仲間達を見ながら、小銃の銃口を向ける。狙いは適当だ。当たらなくても良いし当てられるとも思えない。しかし引き金を引くと乾いた破裂音がして、危うく落馬しそうな衝撃を受けながらも凄まじい速さで弾丸は飛び出す。弾は誰もいない空間に向かって飛んでいった。

 

「当たったか?」

 

「いや、全く。」

 

「ハァ、何で撃ったんだよ。」

 

「当たらなくて良いんだよ。これは『宣戦布告』なんだから。」

 

尾形は驚いた様な顔をして見下ろしてくるが、暫くすると愉快そうに笑い出した。麻酔に使った薬のせいか、面白いのか、嬉しいのか、はたまた幸せなのか・・・男は笑い続けている。

 

後ろから誰かが小銃を撃ってくるが掠りもしない。

でも、自分の存在も敵として認識されたであろう事はハッキリと分かった。

 

ーーさようなら、みんな。

 

 

アンと尾形は亜港から馬に乗って走り続け、やがて昼過ぎになった。少し先には小さく古い家が点在している集落らしきモノが見える。

 

ーーお腹空いたな。

 

一応お金はある。ただ、あの寒村で食べ物を手に入れられるか不安があった。それだけで無く衛生用品が欲しい、尾形の目の包帯や脱脂綿の交換用だ。ついでにいい加減に褌も履いて欲しかった。

 

「尾形、あの村に寄ろう。」

 

「・・・あぁ。」

 

片目の上等兵殿は明らかに顔色が悪い、色白を通り越して灰色である。極寒の樺太を手術直後に薄着で走れば当たり前であり、もう休憩とかでは無くこのまま泊めさせて貰った方が良さそうである。

アンは一人、馬を下りて尾形を乗せたままの馬の手綱を引きながら集落に入る。すると家から外に出てきた第一村人のロシア人爺様と目が合い、慌てて挨拶と一晩の宿の交渉を行った。

 

「Какие у тебя отношения?(君達はどういう関係かね?)」

 

ある意味当たり前の質問だが、答えに詰まる。白人風の女と素足を剥き出しにした(本当は下半身全裸)アジア人男の組み合わせ・・・兄妹では通らない。ここはロシア領、失敗したらマズイのだ。

 

「Жена этого мужчины.(この男の妻です。)」

 

発音に最大限の注意を払いながら喋ったので通じたようだ、老人は家の中に案内してくれた。アンはふらつきながら歩く逞しい身体の男を必死に支えながら、ペチカの上に彼を押し込んだ。尾形は苦しそうにしており、アンはペチカの脇に長椅子を置かせてもらってそこで彼の様子を見ながら寝た。爺様には一緒にペチカの上で寝るように勧められたが、気持ち的に抵抗があり適当な理由を付けて断っている。

尾形の体調はなかなか回復せず、結局この日だけで無く次の日もその次の日も泊まる事になった。

 

2人が村に来て3日目の昼、爺様は外出したのでアンが留守番をしながら掃除をしていると、ペチカの上の住人に声を掛けられた。

 

「ん?どうした、尾形?」

 

「・・・来い。」

 

男は青白い顔をペチカの上から出してこちらに手招きをしている。そういえば昔こんなカンジの怪談を読んだ事あるなァ、等と暢気に思い出しながら梯子に足を掛けて、アンはペチカの上の幽霊上等兵の近くに座った。

 

「お腹空いたのか?」

 

「いや。」

 

「包帯の交換?」

 

「・・・すっトボケてんじゃねぇ。」

 

横に座っている幽霊殿の顔が近かった。

 

尾形の顔が近い

 

尾形の顔が妙に近い

 

尾形の顔が異常に近い

 

ーー!!?

 

気が付いたら互いの口がくっ付いていた。アンが何も出来ずに顔を真っ赤にしながら固まっていると、そのまま両腕を掴まれてペチカの上で押し倒される。

 

「おっ・・尾形!?」

 

「お前・・・また『俺の女』を騙っただろ。『婚約者』の次は『妻』かよ。」

 

「あっアレは仕方ないだろ!?」

 

2日も経って今更そんな言い掛かりをつけられるとは思わなかった赤毛の少女は、焦って至近距離から自分を見下ろす男を押しのけようとするが、彼はテコでも動きそうに無い。

 

「ハハァ、『俺の女』より『のっぺらぼう2世』の方が良いか?」

 

「阿呆!!」

 

男はアンの様子など一切構わず再び唇を重ね、そのまま彼女の身体に覆い被さり、彼の右手はアンの身体を身体検査する様な動きを始める。

尾形の身体は熱く息は荒い。

 

ーーあぁ、ウコチャヌプコロされる!!

 

嫌では無い、でも困った。自分はどの様に動くべきかがサッパリ分からないのだ。取り敢えず尾形に任せよう、そう考えて寝たまま棒の様に真っ直ぐになって固まっていると、途中で尾形が動かなくなっているのに気が付いた。

 

彼は失神していた。

 

アンはムクリと起き上がり、やり場の無い激情を込めた拳を振り下ろそうとするも相手は怪我人だ。已む無く軽く男の頭を小突くだけに留めた。

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