ある悪人の前半生   作:土鳩

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不思議の国のアン

土方一派と共に札幌の町に出掛ける事になったアン、ジャック・ザ・リッパー(仮)狩の情報収集の為だ。ただ最近少し気になる事があり、念の為に脱脂綿を風呂敷に包んで持って行く。

 

「土方さん、家永さんの服の替えをお借りしても良いですか?」

 

「何故だね?」

 

「第七師団が来てるかもしれないならいっそ洋装で異人の振りをした方が良いかな、と思いまして。家永さんの服、血とかついて無かったし大丈夫ですよね?」

 

「なるほど。」

 

「家永は俺達と行動する前、拷問する時は基本的に全裸だったらしいぞ。安心しな。」

 

横から口を挟んだ牛山が家永の服の衛生面を保証してくれたが、アンはゲンナリした。

札幌で起きた2件の娼婦殺害事件はまだ犯人が捕まっておらず、刺青囚人の可能性があるとの事だ。最初に逮捕されたのが横浜と言う事もあり、異人の可能性もあるだろう。石川はアンの気を引く為にジャック・ザ・リッパーの話を出した様だが、実際はどうなのかは分からないらしい。

 

ーーもし異人なら、それも白人なら日曜礼拝に行くかも知れないな。

 

今日は日曜日、丁度良い。洋装なら以前に鶴見中尉に着させられている。うろ覚えだが思い出しながら尾形にも手伝って貰い着るが、コルセットは相変わらず辛かった。

ぎこちない動きで皆の所に合流する。

 

「へへ、アン坊良く似合っているじゃねぇか。」

 

都丹の一言を笑いながら軽く流す。ついでに彼の襟が捻れて曲がっていたので直してあげると、照れ臭そうにされた。土方達はアンの洋装を褒めてくれたが、尾形は何も言ってくれない。彼女が他人に褒められているのが気に食わないのかムスッとして目を逸らしている。

 

一行は札幌の町に繰り出し、アンは到着するとすぐに単独行動に移った。彼らは集団になると存在感がありすぎて情報収集に向かなさそうなのだ。

 

「ちょっと教会をいくつか見て来ますね。それに知人の蕎麦屋にも顔を出して来ます。」

 

『蕎麦屋』の一言に助平な上等兵殿が反応していたが、アンは気が付かない振りをした。

 

ーー尾形ってあんな男だったっけ。

 

ワケが分からない。土方一派と札幌に来てから、彼は毎晩の様にアンの所に来る。買い物やら狙撃の訓練やらは一人になりたがるのに、勝手極まりない。

 

ーーまさか、本当にタダで致せる相手と思われている!?

 

もしそうなら、彼は本当に好きな相手を見つけたら自分を捨てるかもしれない。顔がそっくりな彼の父親が頭を過ぎる。一度ちゃんと話し合わなければ、そう思いつつも嫌われたくなくて拒絶出来ない自分が憎い。

教会を一人で何件か周り、ビール工場から少し離れた場所にある知人の蕎麦屋にも顔を出す。今のところ得られた情報は皆無だ。

 

「あら、アンちゃん!久しぶりだねぇ。綺麗になったわね!」

 

「フハッ、お久しぶりです、女将さん。」

 

ここの女将には、自分の父親や鶴見中尉の情報を調べていた時に良くお世話になっていた。役に立つ情報はまるで得られ無かったが、人生や男女関係の格言は嫌と言う程に聞かされている。

洋装で入る蕎麦屋は目立って仕方が無かったが、女将に誘われるままに席に座って蕎麦を注文した。

 

「あぁっ、財布に穴が空いてる!!」

 

アンが風呂敷から財布を出すと底に穴が空いており、硬貨が何枚か無くなってしまっていた。探そうにも、もう誰かに拾われてしまっただろう。

 

「久しぶりだし、店の奢りで良いわよ。次は男の人を連れていらっしゃいね。」

 

女将はそう言ってくれたが、男を連れて来ると言う事はそう言う事である。知人の店で助平な事などしたく無いので、苦笑いしながら礼を言った。

 

 

アンがその教会に到着したのは昼過ぎになってからだった。立派な石造りの洋風建築で聞いたところによるとプロテスタントの教会だそうだ。欧州の有名なカトリック教会程は大きく無いものの洗練されて美しい。扉を開けて中に入ると、日曜礼拝はとうに終わっているようで、屋内に人は疎らだ。

 

ーー私の様な欲深い人間が来て良い場所じゃないな。

 

アンはさっさと情報収集を終わらせるべく周りを見渡して牧師を捜したが、それらしき服装の人物はいない。

 

「誰カ、お捜シデスカ?」

 

礼拝堂の長椅子に腰掛けている口髭を生やした白人の中年男が、キョロキョロしている赤毛の娘に声を掛けてきた。片言の日本語からして、日本に来てあまり経っていない様に思われる。

 

「えぇと、牧師さんを・・・。懺悔室かな。」

 

「ここはプロテスタントノ教会デス。懺悔室有ルのは、カトリックデス。」

 

「あ、そっか。」

 

「お嬢サン、カトリックデスネ?」

 

男はアンをマジマジと見ながら話しかけてくる。アンは躊躇いながら頷くが、慌てて訂正した。

 

「私は生まれた時に洗礼を受けさせられましたが、もう棄教しました。亡き母に散々神の教えとやらを聞かされましたが、私には合わなかったんですよ。ところで牧師さんを・・・」

 

「Oh my God・・・」

 

棄教したと言った瞬間、金髪男は衝撃を受けて“あぁ、神よ”と呟いている。アンは彼の目の前で踏み絵をして反応を見たくなる衝動に駆られる。

 

「何故ココニ!?」

 

「えぇ?あー、ちょっと色々と話があって・・・」

 

面倒臭そうな男に捕まってしまった、アンはそう思いながらも娼婦殺害事件の話を彼から聞き出そうと試みる。

 

「怖いですよね。知人なんて、ジャックザリッパーの仕業かも、なんて言ってましたし。」

 

「そうデスネ。デモ、罪深い娼婦には救イになった筈デス。」

 

「えぇ・・・」

 

この男は狂信者だ、即座にそう判断した。キリスト教では売春は悪とされている。

 

「あー、でもキリスト教以前から娼婦はいましたからね。世界最古の職業の一つですよ。それを後から出て来た宗教が否定するのは如何なモノかと思いますよ?」

 

別にアンは売春を肯定する気持ちは無い。ただ売春は危険な事なので、しない方が良い程度の認識である。一方で中年男は唖然とした顔で彼女を見ており、期待していた反応をして貰えなかった様な顔である。

 

「・・・娼婦達は生きていく為に仕方なく売春している方が多いんです。あまり悪く言わないであげて下さいよ。」

 

男は神妙な顔付きになる。知人に娼婦でもいたのだろうか、何やら考えこんだ後に喋り出した。

 

「・・・アナタは結婚してイルのデスカ?」

 

「まぁ一応は。」

 

嘘では無い。イギリスではそうなっている。

 

「・・・私、娼婦ヲ殺シタ犯人を知ってマス。」

 

「へ?」

 

目の前の男の突然の暴露にアンは面食らった。思わず男の顔をジッと見てしまうが、彼は嬉しそうに笑みを浮かべる。

 

「私ノ知り合いデス。教えマス。明日また一人でここに来て下サイ。」

 

男はそう言うと長椅子から立ち上がり、アンの隣を横切って教会から出て行った。

断るべきかどうか躊躇していた赤毛の娘は、礼拝堂の真ん中でただ一人残された。

 

 

夜、本堂奥の小部屋にて、自分のすぐ隣で眠っている助平な上等兵を見ながらアンは悩んでいた。

 

月のモノが予定日になっても来ないのだ。

 

元凶の男は穏やかな顔付きで熟睡しており、今夜も彼の来訪を拒絶出来なかったアンは自己嫌悪に陥る。

 

ーー7つの大罪の半分以上を兼ね備えてしまった・・・

 

『7つの大罪』とは、傲慢・憤怒・嫉妬・怠惰・強欲・暴食・色欲を指し、人間を堕落させる悪徳とされている。アンは、自分が嫉妬深く強欲で大喰らいだと考えていたが、更に色欲まで追加されてしまったらしい。確実に地獄行きだが、それでも尾形を拒まないのは、彼はアンと2人でくっついて寝ている時は、寝言で弟の名前を口にする事が無いからだ。

 

ーーまさか、インカラマッさんの言った『欲しい物』って!!?

 

赤毛の娘が優しい身内を欲しがっていたのは本当だが、飽くまでも自分より上の世代であり、下の世代は考えていない。妊娠の可能性を考えると、酷く焦る。もう18なので大人扱いでも良いのだが、子供を育てる程に精神的に成熟しているつもりはない。第一、助平はその事実を受け入れてくれるのだろうか、不安はある。

 

ーーフハッ、尾形の赤ちゃん。

 

取り敢えずは明日以降に町に行く時は、コルセットをしてお腹を締め付けたくないので洋装はやめよう、そう決めた。

 

 

翌日は町の偵察を休みにしたようで、本堂に集めた変装道具を並べて皆で選んでいる。協調性の無い上等兵殿だけは、気付くと三八式を抱えて出掛けてしまっており、アンはガッカリした。

 

ーー町に行く時に付き添って貰おうと思ったのになァ。

 

昨日約束をした白人の男に会いに行くのに一人では不安なので、一緒に来て貰うつもりだったが仕方ない。あの中年男の胡散臭い雰囲気は警戒に値するが、昼間に会う分には問題無いだろう。袴に着替えて、袂に鞭とパチンコをしまい、出発準備をした。

 

「あの・・・土方さん、病院に寄りたいのでお小遣いを頂け無いでしょうか?」

 

「ん?構わないが・・どうした?」

 

「ちょっと風邪をひいたかもしれなくて・・・」

 

「いかん。確か薬があった筈だから、それを飲んで寝てなさい。」

 

気の利く男土方は薬を出そうとしてくれたが、仮病の赤毛の娘は慌てて止めた。

 

「いや、その、えぇと・・・本当は、ちょっと、女性特有のアレでして・・・医者にちゃんと診て貰いたいんです。」

 

恥ずかしくなりながらも必要な事なので、しどろもどろになりながら伝えると、土方は含み笑いをしながらもお小遣いを多めにくれた。

 

「必要ならそのまま入院しなさい。」

 

「・・・ありがとうございます。」

 

アンは居た堪れなくて小さくなりながらお礼を言った。

 

 

病院に行くより先、教会には昼前に辿り着き扉を開けた。薄暗い礼拝堂には、長椅子に腰掛ける昨日の男以外に、離れた場所に座る着物の女の背中が見えた。

 

ーー良かった!他にも人がいる。

 

そっと昨日の中年男に近寄り声を掛けると、彼は驚いて振向く。

 

「ヨカッタ。来てくれたんデスネ。来なかったらどうしようかと思いマシタ。殺されてしまいマス。」

 

「へ?いや、殺人犯の正体を教えてくれるんですよね?」

 

男はヤケに安心している。まるでアンが来ない事を危惧していた様だ。嫌な予感がして後退りをすると、何かにぶつかり肩を掴まれた。

 

 

「初めまして、奥方様。」

 

つい先程まで離れた場所に座っていた着物の女だ。いつの間にかすぐ後ろに来ていた。そして現在、赤毛の娘は彼女に強い力で両肩を掴まれている。

高価そうな着物に身を包み髪を結いあげた美しく若い女だが、日本人とは異なる雰囲気がする。しかしそれよりも彼女の言葉がアンには引っかかった。

 

「奥方?」

 

「私はガオ・ファンと申します。貴女を迎えに参りました。ご主人様がイギリスで貴女をお待ちですよ?」

 

「へ?」

 

突然の申し出に面食らう、自力で行こうとしていたイギリスから迎えが来てしまったらしい。自分が悪の秘密結社の親玉の嫁になっている事を知っているのは日本でも一部の人間なので、彼女がイギリスからの使いなのは間違い無いだろうが信じられない。試しにカマをかけた。

 

「私の主人ってアレだろ?全裸に民族衣装を着るのが大好きな・・・」

 

「Mr.ダンですよね、それは。ご主人様は欧州トップクラスの狙撃手の父を持つ元議員の方ですよ。ご存知でしょ?」

 

女の返答にアンは絶句した。彼女は本当にイギリスの組織からの使いの様だ。しかもダンが必死に隠しているだろう秘密の趣味までバレてしまっており、恐ろしく情報通である。

本当ならありがたい話だが、『夫』の存在自体は邪魔だ。『夫』は自分で決めたい・・・あの上等兵殿が了承してくれるかは分からないが。

 

「私は・・・今は日本を離れるワケにはいかない。」

 

「尾形の事が心配かしら?あの男はもう諦めた方が良いですよ。貴女もさっさとアイヌの金塊からは手を引きなさい、競う相手が悪過ぎる。」

 

ガオとか名乗る女に危険を指摘されるが、そんな事は百も承知である。入り口はいつの間にか中年男が塞いでおり、逃げられそうに無い。

已む無く女に向かい合い、質問する。

 

「・・・ガオさんだっけ?私の夫はどう言う人間なんだ?」

 

「・・・・・・・女性の扱いに長けた、50手前の英国紳士ですよ。」

 

清国女の本音を隠す様な表情と言い淀む発言から、人格者である事は期待が出来ない上に、あと数十年は死にそうに無い年齢である。

どの道、彼の本当の妻になるつもりは無いが、この場を逃げるのは難しい。しかし逃げなければ、アンは尾形と引き離された挙句に女好きと思われるイギリスのオジサンの許に連れて行かれてしまう。

 

「取り敢えずアンタ達の泊まっている宿に連れて行ってくれないか?ここだと誰か来てしまうかもしれないしさ。」

 

ガオは大人し過ぎる赤毛の娘を観るが、暴れそうな様子も無い為アッサリと承諾した。

一方でアンは項垂れている。半分は演技だが半分は本当だ。

 

ーー医者に行きたかったなぁ。

 

尾形との子供が本当にいたら自分はどうすべきなのか、考える必要があった。 

 

 

赤毛の娘が半ば無理矢理2人に連れられて、札幌のホテルに到着したのは夕方だった。彼らは別に恋人同士では無いので別の部屋のようだ。アンはガオの部屋に通され、2つある寝台の片方を使う様に言われる。

布団の生活に慣れたアンは寝台で寝るのは久しぶり、取り敢えず座ったり横になったりしていると、ガオが苦笑いしながら話しかけて来た。

 

「日本人は床の上に寝ているから慣れないでしょうね。欧州も私の生まれた清国も寝台を使っています。早く慣れて下さいね、イギリスに着いたら貴女はベッドで2人寝になるのだから。」

 

「へ?」

 

「当たり前でしょう、イギリスには貴女の夫がいるのよ?夫婦は同じベッドで寝るモノですよ。」

 

ガオはごく当たり前の事の様に言うが、アンはイギリス行きを了承した覚えは無い。オマケにイギリスに行けば、勝手に結婚させられたオジサンと同衾するのをさも当然の事の様に言って来る。

 

「ちょ・・私の意志は!?大体、夫とやらは今まで形式上の結婚で満足していたのに、今更何で本格的に夫婦にならなきゃいけないんだよ!」

 

「まあ3日も経てば相手するのに慣れてどうでも良くなりますよ。」

 

「イギリスに行くなんて言って無いだろう!」

 

この女に話し合いは一切通用しない、騙して逃げるのも難しいだろう。それにしても彼女は清国人らしいが、もしかしたらイギリスの人間も同じ様に話し合いが出来ない人間ばかりだろうか、アンは不安になった。

しかし腹の立つ女である。冷たいと言うより、そもそも自分を人間として扱っていない様に感じる。赤毛の娘は彼女を困らせてやりたくなった。

 

「なぁアンタ、ご主人様とやらは実子はいるのか?いたらやっぱり同居になるだろ?嫌だなぁ、この年で大きな子供がいるのはさ。」

 

ガオは片眉を少し上げてアンを一瞥した後、考え込みながら指を繰り返し曲げたり伸ばしたりして数えている。嫌な予感しかしなかった。

 

「別れた奥様との間に3人・・・それ以外の女性達に10人、認知していない子供が・・」

 

「分かった、もう言わなくて良い!!」

 

殺すと決めていた相手の貞淑さ等はどうでも良いが、あまりにもあまりである。『女性の扱いに長けている』男の正体は、タダの助平ジジイだった。尾形などはまだまだヒヨッコだったのだ。

 

「お子様方の最年少は一歳ですよ。貴女にもまだ可能性が・・・」

 

「何の可能性だよ!」

 

ーーイギリスではコレが普通なのか!?理解が出来ない。

 

もちろん普通では無いが、アンは困惑した。子供の数とお相手の数がまるで徳川家康である。集めていた情報に『イギリス人は性に大らか過ぎる』と言うのは無かったが、やはりキリスト教で多産を推奨されている為にそれが普通になっているのだろうか。

赤毛の娘がひたすら混乱していると、ガオがまたしても苦笑いしながら質問をしてくる。

 

「どうせ尾形とは何も無いんですよね?別に良いじゃないですか?」

 

ーー!?

 

彼女は、アンと尾形の関係が進捗しているのに気が付いていない様だ。一瞬だが狼狽えた表情を見せた赤毛の娘を見て、ガオも僅かに動揺を見せた。

 

「・・・一応聞いておきますが、貴女、最後に月のモノが来たのはいつかしら。」

 

「・・・樺太にいた時。50日くらい前かな。」

 

哎呀(アイヤァ)・・・」

 

清国女の口から、日本では絶対に使わない様にしていた母国語がポロリと溢れる。かなり衝撃的な事実だった様だ。

 

 

「貴方が、早く、彼女を、見つけないから!!」

 

「止めて下サイ、ガオサン!!痛イデス!!」

 

ガオは隣室の中年男の部屋にアンを引っ張って連れて行き、中年男に事の次第を説明。唖然として固まる男に対し、彼女は叫びながら何度も繰り返して彼の弁慶の泣き所を蹴っていた。

夜のホテルに男の汚い叫び声が響き渡る。

 

ーーイギリスでは例え上流階級でも女の方が強いのだろうか。

 

いや、そう言えばこの女は清国人だった等と思い直し、あまり詳しくない清国に対して恐れを抱く。しかし、イギリス人らしい男の方は蹴られながらも微かに恍惚としているのが表情から伺えてしまい、アンはイギリスに対しても恐れを抱く。今思えば、アメリカ人のダンはまだまともであったのかもしれない、趣味が自己完結していた分は。

 

赤毛の娘の目の前で2人の外国人によって繰り広げる第三次阿片戦争は、他のホテルの客から苦情が入った事により終戦を迎えた。

しかしガオの方はまだ憤懣やるせない様子で、アンを睨みながら彼女の腕を引っ張って、中年男の部屋から自分の部屋に戻る。

ガオはウンザリした様子で寝台に腰掛けて何やらブツブツと呟いていた。やはり、アンが妊娠しているのは組織的に非常にマズイ事の様だ。

 

「すみませんが、少し考え事をするので話しかけ無いで下さい。」

 

「じゃあ帰っても良いのか?」

 

「そんなワケ無いでしょ!言っておきますが、お腹に子供がいたとしても、諦めて貰いますからね!!」

 

「へ?」

 

諦める、と言う事は子供を殺すと言う事だ。赤毛の娘は、お銀の出産に立ち会う羽目になった時の事を思い出した。あの小さく無垢な存在を彼らはアンから奪おうとしている。

 

「い・・嫌だ、冗談じゃない!」

 

「何をムキになっているんですか。まだ妊娠したと決まったワケじゃ・・・」

 

「この子は半分は尾形なんだ!アンタ達には触らせない!」

 

泣きそうになりながらも反論すると、冷酷な女は溜息を吐き呆れながらボヤいた。

 

「貴女・・・本当にあのモリアーティ教授の娘なの?」

 

「・・・そんな事言われても。」

 

父娘関係の証拠等持っていない。鶴見中尉なら父娘関係を証明する書類の写しを持っているが。

 

「貴女のお父様とは、私は何度か面識があるんですよ。彼と目元は似ているけど、中身がまるで違う。あの方はもっと冷静で非情な方でした。」

 

ガオは幼い頃に母国を見限った両親に連れられてイギリスに渡ったそうだが、両親は早くに亡くなりアンの父親が部下に面倒を見させていたらしい。それだけ聞くと良い話だが、要は才能のありそうな娘を手元に置いて手駒とする為に教育を施しただけである。しかし彼女が教授の話をする時の様子を見ると、ガオは今の上司より亡き教授に対して心酔しているのは間違い無かった。

 

ーーまるで宇佐美だな。

 

鶴見中尉に対する宇佐美の表情を思い出すが、彼女が宇佐美を知っている可能性を考えると迂闊にそんな事は口に出来ない。

 

「・・・貴女、尾形と一緒にイギリスに来る事は・・まぁ考えて無いですよね。」

 

突然の女の発言に驚く赤毛の娘。彼女は自分をご主人様の許に連れて行くつもりで接触して来た筈で、何故そんな事を言い出したのか意図が不明だ。アンが答えに窮していると、清国の女はニヤリと笑いながら喋り出した。

 

「今から面白いモノを見せて差し上げます。その時の貴女の反応で、これからの事を決めようと思います。」

 

 

深夜の札幌の町、ガオに連れられて歩く赤毛の娘。貧民窟に入りそうになり、アンは慌てて連れの女を止めた。

 

「こっちは貧民窟だ、夜に出歩く場所じゃない。」

 

「・・・知ってます。」

 

彼女は構わずに夜の街を歩く。月明かりがあるので周囲の状況が全く分からないワケでは無いが、この地域は風紀が悪く、旅に慣れたアンでも夜は出歩かない。女には何かしらの考えがあるのだろうが、早い所切り上げて欲しかった。

 

暫く歩いていると少し先に誰かが立っているのが見えた。背が高い洋装の帽子を被った男だ。

しかしこの場所はーー

 

「ガオさん、ここって・・・」

 

「えぇ。最近娼婦が殺された場所ですね。目的地はもう少し先ですが。」

 

正直怖いし気味が悪い、アンがそう思いながらも通り過ぎようとした時、聞き覚えのある声に思わず足が止まった。

 

 

「ありましたッ、菊田特務曹長。こっちに来て下さい!」

 

ーーこの声は・・・宇佐美?

 

オマケに『菊田』の名前まで飛び出している。ガオを引き留めて声のする方に向かい、壁に隠れながら声の主達の様子を覗いた。

 

「あれは・・洋装だけど、身体つきからただ者じゃないですね。貴女のお知り合い?」

 

「敵だよ、第七師団の宇佐美上等兵。もう一人は・・・多分菊田って人。」

 

月明かりで2人の様子を見る。宇佐美の姿は見当たらないが、どうやら民家の床下に潜り込んで何やらはしゃいでいる。菊田(仮)はその様子を呆れながら“おべべが汚れるぞ”等と忠告していた。菊田(仮)は背の高く彫の深い顔立ちの中年男だ。

 

ーー彼も尾形と同じ、中央の回し者?

 

悶々と考え込んでいると床下から人間が出てきた。それはやはり宇佐美だったが、何故か軍服ではなくタキシードだ。

 

ーー何やってんだアイツ!?

 

何故か深夜の貧民窟、上司であろう男の前、宇佐美は股間の宇佐美2世を剥き出しにして息を荒くしながらウロウロしている。

アンは嫌いな男のそんな姿を見たくも無いので思わず目を背けると、宇佐美の痴態を気にせずに観察している清国女に気が付いた。

 

「ガオさん?」

 

「何かしら?」

 

「いや、その・・・平気なのか?」

 

「ロンドンの一部で真昼間からあぁ言う事してた人を何人か見た事があります。慣れてますよ。」

 

アンはイギリスに行くのが不安になってきた。今日一日この女ともう1人の男に捕まってからと言う物、碌な情報が入って来ない。

 

「コイツはとんだ精子探偵だぜ。」

 

聞き耳を立てていると、菊田(仮)の口から初めて聞く単語が飛び出して来て、アンはウンザリする。娼婦殺害犯が今夜ここに現れると言う話をしているらしいが、もう少し他の方法で調べられなかったのだろうか。

 

「凄いわ、あの男。まるでホームズね。」

 

アンは知らないが自分の実父の仇である名探偵の名前が、秘密結社の女の口から溢れる。比較された名探偵はこの事を知ればさぞかし不満を覚えるだろう。

しかし宇佐美達は一体こんな所で何をしているのか、恐らく彼らは刺青囚人を捜しているのだろうが、何故破廉恥な行動を深夜の貧民窟でしているのだろうか。師団の他の連中は、何故に洋装、疑問は尽きない。

 

変態軍人2人の移動に合わせて後をつける女2人。宇佐美は相変わらず自分の行為と推理に夢中だし、菊田は宇佐美に気を取られていて彼女らに後をつけられているのに気が付かない。

 

ーーこれはもしや、イギリスからの手の者から逃げる絶好の機会!?

 

宇佐美は兎も角、菊田に助けを求めれば自分を助けてくれるかも知れない。彼が本当に尾形の言っていた菊田で、中央所属ならばの話だが。最悪鶴見中尉派だとしても、鶴見達が自分を捜しているであろう事は間違い無いので、ガオと彼らが揉めているウチに逃げ出せば良い。幸いあの狂信者の中年男はおらず、女1人だ。

アンが軍人2人に対して声を掛けようとした瞬間、宇佐美の近くに新たに誰かが立っているのに気が付いた。

 

「オストログ・・・」

 

ガオが呟く。

 

「誰?」

 

「私の連れのイギリス人よ。」

 

どうやらあの狂信者の様だ。アン達を追って来たのだろうか。

 

「貴女が本当に教授の娘なら彼の事も理解出来る筈・・・」

 

ガオがブツブツと呟いているが、理解など到底出来ない。

 

オストログは宇佐美に向かい合って、競い合う様に自らを慰める行為を行っている。

彼らはソレを致しながらも互いを睨み合う。

 

宇佐美とオストログ、2人の間に謎の緊張感が走る。

 

「ふふ、名探偵から逃げ切った男と精子探偵が対決してるわ。」

 

「いや、何も面白くない!」

 

「何だこれは!」

 

ガオとアンの声を潜めたやりとりの後に菊田の困惑する声が続いた。

 

次の瞬間、馬のいななきの様な宇佐美の声を切っ掛けとして、宇佐美とオストログによる史上稀に見る最低な撃ち合いが始まり、2人は互いの攻撃を、極めて素早く、超人的な動きで回避した。

 

「「何なんだこれは!!」」

 

思わずアンと菊田(仮)の声が被った。

その瞬間菊田(仮)がこちらを一瞥したので、慌てて隠れる。

 

「はぁ、日本て可笑しな国だったのね。流石にこんな最低な撃ち合いは清にもイギリスにも無かったわ。」

 

アンは呆れながら話す清国女を見ながら、撃ち合いの片方はイギリス人だろ、と言ってやりたくなる。

しかし同時に、イギリスではこんな珍事件はまず見ない、と言う事が分かり少し安心した。

 

探偵と犯人による史上最低な撃ち合いの直後、菊田は銃を取り出してオストログを狙って撃つが、結局当てられずに逃げられてしまっていた。

馬に乗って逃げ出すオストログ。捕まえようとしていた宇佐美を弾き飛ばし、馬に飛び乗って拳銃を彼に突き付けた菊田を、凡人には想像もつかぬ方法で振り落とし、駆け抜ける。

 

「目に入った!!」

 

何やら苦しんでいる菊田を横目に、ガオに連れられたアンは建物の陰に隠れながらも小走りに進む。

2人の女は2人の軍人から隠れながら走る。

 

「ガオさん、何処に行くんだ?」

 

「次の更に次の現場です。」

 

『現場』とは何の話だろうか。

離れた場所、貧民窟の暗闇から女の叫び声がする。

 

「奥様、貴女のお父様は自分の手を直接汚した事は殆どありません。でも彼は間違いなく英国一の犯罪者であり、明るい場所では生きていけない人間達の巨大な受け皿でもありました。教授本人にそのつもりは無くても、です。」

 

宇佐美達から大分距離が空き、女2人は速度を落とした。清国の女は歩きながらだが今までに無いくらい真剣な表情で語りかける。

 

「犯罪組織など無くなってしまえば良いと、まともな人間なら考えるでしょうね。貴女もそうでしょう?でもその様な人間達を纏める者がいなかったら、彼らはどうなりますか?」

 

ガオはどうやら赤毛の娘が組織を継ぐのを渋っていると考えている様だ。しかしアンが渋っているのは助平なイギリス人オジサンの存在のみであり、組織自体は欲しい。

 

「・・・組織は必要悪って事だろ?私は別に組織を嫌がっているワケじゃ無いよ、それを使って金儲けをしたいくらいだし。ガオさんみたいな人が大勢いるなら、かなり稼げるだろう?」

 

「じゃあ尾形はどうするんですか?」

 

返事に詰まる。尾形は中将に成りたがっている。アンとの約束を守ってイギリスに行き、夫を殺してくれたとしても直ぐに日本に帰国してしまうだろう。

 

「今の貴女達の関係に未来は無いですよ。」

 

言い返せない。尾形はアンとは違い罪悪感に囚われている。彼はいずれ罪悪感に飲み込まれてしまうだろう。

黙り込んでしまったアンを鼻で笑いながら、ガオは彼女を誘導して進む。

 

「もうじきオストログが次の現場に到着します。急ぎますよ。」

 

「・・・現場ってなんだよ。」

 

「あの男はジャックザリッパーです。ロンドンにいた時の再現をしているのですよ。」

 

「は!?」

 

あの痴漢男はただの変態では無かった様だ。連れの女の証言からするとジャックザリッパー本人、そして刺青囚人でもある。

 

「分かった、急ごう!」

 

今なら娼婦が殺されるのを止められるかも知れない、アンはそう思いながらひたすらに走った。

 

暫く走ると、アンがオストログ達に初めて会った教会の近くに来た。ここがロンドンでの四件目の事件現場に丁度当て嵌まるそうだ。

そして間の悪い事にここにも娼婦が1人で立っている。アンが彼女に声をかけようとするが、冷酷な清国女に腕を引っ張られ、建物の陰に押し込められた。

道の向こうからオストログがフラフラと走って来るのが見える。馬は下りて徒歩であった。

          

「外人さん、そんなに急いで何処に行くの?」

 

娼婦は優しげな口調でオストログに話しかけ、オストログは彼女に近付いて行った。アンは男を慌てて止めに入ろうとするも、ガオに邪魔される。

 

「何するんだ、ガオさん!」

 

「何故彼を止めようとしているのですか?」

 

「当たり前だろう!人が殺されそうになっているんだぞ!?」

 

「じゃあ、何故貴女はそんなに嬉しそうな顔をしているんですか?」

 

「へ?」

 

アンは動揺して固まった。嬉しくなど無い。人殺しを止めないと、そう考えて焦っていた筈だ。

 

すぐ近くで娼婦が斬りつけられ、地面に崩れ落ちる音がした。助けられなかった。

 

「野生の生き物は無益な闘いや殺生をしない、そう考える人間は多いですが、決してそんな事は無いんですよ。貴女も一応は猟師だったんだからご存知でしょ?」

 

清国女の言う事は分かる。ただ食べるだけの為に相手を傷付けるのとは、明らかに違う攻撃を行う動物は多い。肉食獣だけでは無く草食獣ですらそうだ。

 

「・・・それが、何だって言うんだよ。」

 

「人間だって動物ですよ。どこかに本能が残っていて、自分達が受け入れられない相手を傷つけたいし殺したい、そう考えているんですよ。倫理や道徳で無闇にそれを否定するから、宗教や権力に頼って正義を騙ってそれを口実に大勢を傷付ける・・・あの男みたいにね。」

 

オストログは楽しそうに娼婦を刻みながら歌っている。彼が口にしているのは『Green leaves』と言うイギリス民謡。

 

「・・・アンタは組織の存在自体が、あぁ言うケダモノに近いヤツらを集めて制御しているって事か?」

 

「貴女の亡くなったお母様は頑張って倫理や道徳を貴女に躾けた様ですが、本質までは変えられなかった。貴女はあの哀れなオストログと同じです。争いや血生臭い世界でしか生きている実感が得られない。獲物を狩りたくて仕方がない肉食獣の様なモノですよ。」

 

アンは自分の足元が、大きくうねり崩れ落ちる様な錯覚に陥った。ガオの言っている事は正しいと思うだけで無く、納得してしまった。

 

何故、食べていくのがギリギリなのに猟師を続けていたのか。何故、他人と仲良くなれないワケでは無いのに、一箇所に定住して普通に生きて行こうとしなかったのか。

 

 

そして、何故、尾形に惹かれたのか。

 

 

「連れて来て良かったです。貴女は間違い無く教授の娘だわ。」

 

嬉しそうに話す組織の女の背後、楽しそうに犠牲者を刻むジャックザリッパーをボンヤリと眺める。

 

ーーそうか、私はアイツと同じ種類の人間なのか。

 

ここは北海道の札幌だが、今この瞬間のこの場所だけ、アンは間違い無くロンドンを感じられた。世界最強国の首都で一見すると美しく立派で先進的だが、様々な人種が流入して犯罪が横行しているソドムとゴモラの街・・・

 

ーー私はおかしい人間だったのか・・・

 

衝撃的だが得心が行き過ぎて悲しくは無かった。

 

「イギリスに来て下さいますね?日本には貴女の様な人間の居場所はありませんよ。」

 

嬉しそうに話すモリアーティ教授の信者の女を見ながら、アンはボンヤリとしている。

 

ーー日本には居場所が無くてもイギリスには私の居場所があるのか?

 

「父は・・私の本当の父は・・・イギリスに居場所があったのか?」

 

「ええ。勿論です。」

 

「じゃあ何故死んだんだ?」

 

「・・・ホームズと言う探偵に滝に落とされたのですよ。ホームズは天才ですが、自分の命をかけないと教授を殺せなかったのです。」

 

初めて知った事実であった。

 

「フハッ、まるで恋人同士の心中だな。」

 

江戸時代の遊女が客と一緒に入水自殺を図った話を思い出す。水死体などは酷い有様になるらしいが、それでも恋人達が水場を選ぶのは三途の川を意識してなのだろうか。

結局ホームズは生きていて心中ですら無く、モリアーティ教授は1人で滝壺に沈んだらしい。悪人はやはり因果が巡って酷い最期を遂げるようだ。

 

ーー尾形もいずれ、私の前で1人で惨たらしく死ぬのか?

 

アンはそっと下腹部を押さえる。いるかどうかも分からないが、子供がいるならその存在は遠く無い将来に形見となるだろう。イギリスの手の者等には奪われたく無い。

 

気が付くとオストログは殺害現場から既に立ち去っており、女2人きりである。逃げるなら今だが、ふと、この計算高そうな清国女を説得出来ないかアンは試したくなった。有能そうな彼女を利用出来るのならば、したい。

 

「ガオさん、私がイギリスに行くのは今じゃなきゃ駄目なのかな?実はいずれ自力でイギリスに行って組織を貰うつもりだったんだよ。」

 

ガオは疑り深く赤毛の娘を観察している。

 

「正直なところ、イギリスの?夫?年齢が私より2回り近くも年上だと流石に嫌なんだよなァ。いっそ死にそうな爺さんだったら良かったのにな。でも、ガオさんにとっては大事なご主人様なんだろ?」

 

「・・・気持ちは分かりますが、諦めて下さい。」

 

ーーやはりこの女は今の主人に不満がある!!

 

嫌悪と同情する心を隠しきれていないガオの表情にアンは確信した。黄色人種で阿片戦争の敗戦国出身、しかも女である為に彼女は組織内で不遇なのだろう。しかも心酔していた教授はガオが成人する前に亡くなっている。上手く唆して裏切らせたいが、この手強そうな相手に嘘が通じるのだろうか。敢えて馬鹿正直に話す方が良いかも知れない・・・

 

「私にとってアンタの上司の存在は邪魔なんだよ。何とか出来ないのか?」

 

低い声で遠回しに『夫』に対する殺意を表明、『夫』の部下の女の反応を伺う。彼女は、ただ流される様にしていた赤毛の娘が見せた思わぬ意志表示に僅かに動揺を見せた。

 

しかしガオが何かを言おうとした瞬間、外部から思わぬ邪魔が入った。

 

 

「そこまでだ、お嬢さん方。何で俺達を着けて来ていたのかは知らんが、まさか殺人犯の関係者じゃねェだろうな?」

 

菊田が拳銃をアン達に向けて立っていた。

恐らくオストログか、自分達の存在に気付いて追って来たのだろう。アンは一瞬、菊田を邪魔だと思ってしまったのだが、よく考えたら逃げる機会が向こうからやって来た事に直ぐに気付く。

菊田の近くに宇佐美はおらず、一人だ。ガオの懐柔をしている場合では無い。

 

「菊田さん、助けてくれ!この女は殺人犯の仲間だ!」

 

「は?」

 

「ちょっと・・!?」

 

アンが菊田に助けを求めると、菊田とアンが敵対関係にあると勘違いしていたガオは焦り、踵を返して逃げ出した。彼女はアンを引っ張って行こうとしていたが、腕を振り払われて直ぐに諦める。判断が早い。

一方で菊田は女相手に銃を撃つのを躊躇っている様だ。威嚇射撃をするが修羅場に慣れていると思われる女には通用せず、あっと言う間にイギリスの使いの女は目の前から消えた。

 

その場にはアンと菊田、それに娼婦の遺体のみが残された。

 

「2件連続かよ、畜生が。・・・それでお前さんは誰なんだ?俺の名前を知っていたようだが。」

 

娼婦の遺体を見ながら菊田が尋ねる。眼光が鋭いのはアンを逃げた女と同じくオストログ側の人間だと思っての事だろうか。

 

「菊田さん、私は田中安だ!さっきの逃げて行った女はイギリスの手の者だ。私は彼女に捕まっていたんだ。」

 

「田中・・安?鶴見中尉が探しているイギリス人と混血の?本当に田中安なら何で魔術を使って逃げないんだ。」

 

「んなモン使えるワケ無いだろ!」

 

菊田はアンが本物かどうかは勿論、魔術が使えるかどうかも疑っている。勿論本物だし魔術は使えないのだが、本物なら魔術を使えると思い込んでいそうな男は信じてくれそうに無く、アンは途方に暮れそうになる。

 

「取り敢えず俺の連れの所に戻るから君も来るんだ。宇佐美なら君が本当の田中安かどうか分かる筈だぜ。」

 

菊田は面倒臭そうに溜息を吐きながら赤毛の娘の右腕を掴んだ。

 

ーー宇佐美!?

 

アンは焦った。網走で彼に殺されそうになった事を思い出す。

 

「止めろ!アイツとは仲が悪いんだ!わ・・・私のお腹には尾形の赤ちゃんがいるんだよ!頼むから見逃してくれ!」

 

「はァッ!?」

 

「尾形に言われたんだ。第七師団に捕まったらアンタに頼れ、アンタなら助けてくれるからって・・・」

 

菊田は赤毛の娘を見たまま目を見開いた後、項垂れて大きく溜息を吐き、次は“あんにゃろう・・”と呟きながら天を仰ぐ。

顔色が悪くなっている上に、頭の中は実に忙しそうであった。

 

「菊田さんは・・その、尾形とはどう言う関係なんだ?」

 

流石に“アナタも中央の回し者ですか?”等とは聞けなかった。

 

「菊田特務曹長ー。どちらですかー?」

 

「あぁ、もう!来ちまったよ、精子探偵が!」

 

近くから宇佐美の声が聞こえて菊田は焦っている。彼はウンザリした顔でアンの腕を引き宇佐美の所に一緒に来るよう促すが、娘が真っ青になって抵抗する為に余計に苛立っていた。

 

「大丈夫だから!俺が何とかするから!」

 

菊田の顔に焦りが見える。最早陸軍の下士官と言うよりは、おっちょこちょいで人の良さそうなオジサンにしかアンには見えなかった。

 

ーーこのオジサンで本当に大丈夫なのか、尾形!?

 

アンは不安になった。

 

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