ある悪人の前半生   作:土鳩

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祝福の童子

菊田特務曹長こと菊田杢太郎は元々陸軍第一師団に所属していたが、中央政府の特命を受けて第七師団27聯隊に所属を変えられていた。

特命、即ち反逆の情報将校・鶴見篤四郎の下に潜入し、アイヌの金塊を彼から横取りする為の工作及び鶴見中尉の暗殺だ。第七師団27聯隊には彼と同じく中央から送り込まれた男がもう1人いた。

 

故花沢中将閣下の落胤である上等兵の尾形百之助だ。

 

彼とは同じ中央スパイでありながらも協力関係には無く、別行動を取っている。

現時点で尾形は鶴見に密偵である事がバレてしまい逐電、脱走兵扱いである。一方の菊田は鶴見には勿論の事、師団の他の連中にもバレていないと思われる。

しかし尾形本人や、尾形が鶴見への造反を唆した人間達が菊田の名前を仲間として出す可能性は・・・まず有り得ないだろうが、考えるだけで背筋が寒くなる。特務曹長の頭の中、乳首のついた頬被りを付けた一等卒の顔が浮かんでは消える。彼は造反がバレて両耳を失い、現在薬物中毒で毎日明る過ぎる生活を送っている。

 

赤毛の娘は、“捕まったら菊田に助けて貰え”と尾形が言っていた、と証言している。コレは間違いなく尾形からの脅しに違いない。彼女を助けなければ彼女は菊田が中央の密偵である事を鶴見にバラすだろう。菊田はそう考えた。

 

赤毛の娘を連れて宇佐美と合流する菊田。半年振りに再会したらしい宇佐美は驚いた顔で固まった後、赤毛の娘に掴み掛かろうとしていたので慌てて身体を張って制止する。

 

「馬鹿、宇佐美!何しようとしてるんだよ!?」

 

「コイツの足の腱を切るんですよ!そうしないとまた逃げられますよ!?」

 

「巫山戯んな!アンタのナニを触っていた手で私に触らないでくれ!!」

 

妊婦を自称する娘は宇佐美から逃げようと暴れている。どう見ても妊婦の動きでは無い。

赤毛の娘が造反に加担していた事は、鯉登少尉や月島軍曹から第七師団に伝わっている。鶴見中尉は彼女を確保するにあたって『五体満足で捕まえて丁重に扱う』から『どんな手段を使っても良いから生かしたまま捕える』に方針転換済みだ。

心底嬉しそうな精子探偵・宇佐美を見て、菊田は心底ウンザリしながらも娘を庇う。

 

「駄目だ宇佐美!この娘は妊婦だ。」

 

「は、妊婦ゥ?百之助の子供!?ウケる!」

 

柔術に心得のある宇佐美を取り押さえるのは実に骨の折れる作業だったが、上官の立場もある為何とか落ち着かさせる事に成功した。

 

「尾形の子供・・・なんだよな?」

 

菊田は恐る恐る尋ねる。もし彼女の言う事が本当なら、亡き花沢中将唯一の孫で、亡きイギリスの犯罪王の唯一の孫にもなる。血筋がヤバい、菊田はひたすら焦る。

 

「尾形以外に誰がいるんだ。・・まだ医者に診て貰っては無いけど、多分・・・・・」

 

赤毛の娘の発言が次第に尻すぼみになっているのに気付き、菊田は思わず彼女を叱った。

 

「何だってこんな時に・・いや、それ以前にちゃんと医者に診て貰わなきゃ駄目だろう!!」

 

「医者に行こうとしたらイギリスの邪魔が入ったんだ!」

 

どうやら妊娠自体が怪しい様だ。宇佐美は苦笑いしながら菊田に話し掛ける。

 

「菊田特務曹長、コイツは嘘吐きだから信じない方が良いですよ。それよりもこのブスを捕まえた事を鶴見中尉殿に報告しなきゃ!僕は鶴見中尉殿に褒められたいんです!!」

 

興奮する宇佐美と、腹を撫でながら神妙な顔の赤毛の娘。

若く、極めて仲の悪い2人を冷ややかに見ながら、菊田の思考回路はショート寸前になっていた。

 

 

取り敢えず深夜は病院も郵便局もやっていない為、軍人2人は赤毛の娘を連れて宿に戻り、翌朝から娼婦殺害事件の調査に着手することにした。

3人は川の字になって敷かれた布団の上にいる。真ん中の布団に捕虜である赤毛の娘を寝かせるつもりだ。

小樽で独寝させた時は監禁数日で兵舎に火をつけられて逃げられたが、旭川で将校2人と川の字で寝た時は一月半は何事も無く過ごしていた。魔術を使えると言う噂はあまり信じていない菊田だが、何かしらの理由を考えてしまう。

取り敢えずは菊田の提案でそうなったが、宇佐美は落ち着かない。窓際の自分の布団から出て、外の様子をしきりに観察している。

 

「何をしていらっしゃるのですか、宇佐美上等兵殿。お外は真っ暗で何も見えませんよ?」

 

赤毛の娘が冷め切った表情でソワソワしている上等兵に対して発言すると、彼は鼻を鳴らしながら彼女を睨みつける。

 

「お前を取り戻しに百之助が来るかも知れないだろうが!そうじゃなきゃお前は何でそんなに落ち着いているんだよ!?」

 

確かにその通りだ、菊田は出来れば早く尾形に連れ戻しに来て欲しかったので、期待をしながら彼女に質問する。

 

「尾形とは何日離れているんだ?お前さんを捜しているんじゃないか?」

 

「尾形とは離れてしまってまだ1日も経っていません。私の事・・・アッ、捜していないかも!?」

 

能天気だった娘は布団から飛び起き、座ったまま頭を抱えていた。彼女の回答に菊田だけで無く宇佐美も驚く。

 

「病院に行くって言って・・入院するかも、って話をしていたから。尾形は私が帰って来なくても、入院していると思っているかも知れない!」

 

赤毛の娘は顔面蒼白のまま、隣で横になっている菊田の顔色をチラリと伺った。尾形の代わりに守って欲しい、菊田には彼女がそう考えている様に思えた。反対に宇佐美はゲラゲラと大笑いしながら窓から離れて布団に入る。尾形の脅威が無くなったと彼は判断したのだろう。

 

部屋の真ん中で真っ青になっている赤毛の娘と、窓際で安心してニヤついている生意気な上等兵。

彼らを見ながら、菊田の思考回路はショート寸前になっていた。

 

3人とも昨夜は一睡も出来なかった。

 

宇佐美は隙あらば赤毛の娘に襲いかかるし、赤毛の娘は菊田に助けを求めてくる。それに尾形が取り戻しに来るなら、それに合わせて彼女を上手く逃さなければならないだろう。

 

事件の調査にあたり、妊婦(仮)を宿に置いて行くと言う考えもあったが宇佐美の暴走が不安な為、やむ無く菊田が付きっきりで彼女を連れて歩く事になった。

 

ーー尾形!早く迎えに来い!!

 

菊田は疲れ切っていた。

 

 

昨日の娼婦殺害事件現場には人集りがあり、官憲や新聞記者も来ている。軍人2人はその様子を双眼鏡で遠巻きに確認した。赤毛の娘は人集りの中に見知った顔がある様で落ち着きが無い。赤ゲットを頭から被り、顔を隠して菊田の背後にいる。

 

「どうしたんだ、尾形がいるなら・・・」

 

菊田が声を顰めて話し掛ける。

 

「違う、尾形じゃない。・・・多分彼に助けて貰えるけど、今は騒ぎを起こさない方が良いでしょう?宇佐美がいるし。」

 

「あぁ、そうだな。」

 

菊田と赤毛の娘の視線の先には手拭いを頭に巻いた大柄な男が立っている。土方一派に二重スパイとして潜入した有古だ。彼と菊田は階級が違えども親友以上の関係である。しかしこの娘は一体、何を何処からどこまで知っているのだろうか。

 

昨日の殺害犯と探偵の撃ち合いの際に手に入れた情報を菊田と宇佐美は共有する。菊田は犯人の馬から落馬する前に、彼の身体的特徴を宇佐美に伝えていた。ナニにアザがある、そんな特徴である。それを話している間の赤毛の娘が菊田に向ける視線、気の所為かも知れないが冷たいモノに彼は感じた。昨夜あった2つ目の現場を見に行くと言う宇佐美を先に行かせて、菊田は手拭いを頭に巻いた有古の背後に近付いた。

 

「有古力松一等卒、振り返るな。その見慣れたガタイの良さで俺にバレねぇと思ったかよ。」

 

菊田は親しい彼を自分達中央側に引き入れたいと考えていた。有古は何故か菊田の側に赤毛の娘がいるのに気付き、慌てている。二重スパイの彼は土方達に信用されていない、鶴見中尉にもだ。

 

「じゃあ、俺につけよ。気にするな、この娘はこちら側の人間だ。」

 

「!?」

 

「中央は鶴見中尉に金塊を見つけさせて、最後には消せと言っている。」

 

「アンタ・・中央のスパイか!?」

 

有古は驚いているが、菊田がチラリと赤毛の娘に視線を動かすと彼女も有古同様に驚いている。

 

ーーまさか俺が中央のスパイだと知らなかったのか!?

 

目を見開いて菊田を見る自称妊婦に問い掛ける。

 

「知らなかったのか?」

 

「・・・もしかしたらとは思ってました。」

 

赤毛の娘は苦笑いしながら答えていた。

 

菊田は鶴見中尉に『田中安を確保した』とだけ電報を送り、あやふやな妊娠疑惑と彼女を追うイギリスの組織については報せなかった。何も知らずに第七師団とイギリス組織が潰し合うならそれで構わないし、イギリスの組織がわざわざ海を渡って大勢来るとも思えない。幸い件の清国女の存在に宇佐美は気付いておらず、赤毛の娘は娼婦の亡骸を見つけて腰を抜かしていたところを菊田が捕まえた事にしてある。

 

「お前さん、あの清国の女がどうして犯行現場が分かったのか知らねぇか?」

 

「・・・さぁ。」

 

すっトボケているのか本当に知らないのかは、彼女の様子からは読み取れなかった。

 

宇佐美と別行動している隙に取り敢えず病院に行こうと言う事になり、町の大きな病院に向かうも何故か擦れた雰囲気の女達で溢れかえっておりなかなか診察をして貰えない。どうやら娼婦殺害事件のせいで、すすきの遊郭の女達が店を休む為に何らかの診断をして貰いたがっている様だ。仕方無く病院で紹介された産婆の自宅に向かうが、外出中で結局産婆には会えなかった。

 

「犯人は店で働く娼婦は狙ってねェのにな。まさかこんな影響があるとは思わなかったぜ。」

 

「・・・」

 

赤毛の娘は元気が無い。医者に診てもらいたかったのか、尾形にこのまま会えなくなると考えると不安なのか。

 

「元気出せよ。ちゃんと尾形の元に返してやるよ。」

 

「菊田さん・・・」

 

不安気な赤毛の娘を見て菊田は少しだけ心が温かくなった。尾形と言う男は周囲と馴染めない人間だ。

かつて第七師団には彼の異母弟が少尉として所属していた。異母弟の少尉は妾腹の兄に対して“兄様、兄様”と懐いており、軍内の規律が乱れると尾形は気にしていたが本当は嬉しかったのでは無いかと考えていた。

残念ながら異母弟は戦死したが、今の尾形にはこの娘がいる。そう思うとお人好しの特務曹長は少し安心した。

 

 

結局その日の昼は犯人を見つける事が出来ず、深夜に再び精子探偵が出動する事になった。

 

「アンタら正気ですか?」

 

捕虜の娘が軍人2人に冷たい視線を向ける。“アンタら”と言う事は菊田の事も宇佐美と同類だと考えているかも知れない。

 

「菊田さんも宇佐美と一緒にアレを為さる・・・」

 

「宇佐美だけだよ。安心しろ。」

 

2人は暗闇の貧民窟で、一生懸命に独自の自慰捜査を続けている宇佐美の後ろ姿を見ている。“チンポに火が着くぞ”と忠告するが精子探偵が唯一成果を上げている方法だと言う宇佐美に、菊田は反論できない。悲しい。菊田は第七師団の上等兵が変なヤツばかりだと嘆き、隣で赤毛の娘は頷いていた。

冷たい目で宇佐美の後ろ姿を見ていた赤毛の娘だったが、ポツリポツリと何かを思い出した様に小声で喋り出した。

 

「・・・宇佐美は、あの犯人と同種の人間なんですね。」

 

「ん?」

 

「私も・・・多分、アイツらと同種の人間です。気付かされてしまいましたよ。」

 

ーーこの娘が宇佐美と同種?人前でああ言う事を!?

 

菊田は困惑した。彼女が魔術を使うと言う噂はあったが、破廉恥だとは聞いていない。

 

「お・・オイオイ・・・」

 

「ロンドンでは偶にああ言う人間が真っ昼間の町に立っているらしいです。」

 

「マジかよ。」

 

「ちょっと!僕の話聞いてます?菊田特務曹長とブス!?」

 

菊田が絶句していると、熱心に行為と推理に耽っていた宇佐美が彼らに向かって話しかけて来た。いつの間にか彼は自分達に対して尾形の話をしていた様だ。

 

「僕をあんなヤツと一緒にしないで下さいよ、あの甘えん坊のハナタレ小僧!」

 

宇佐美はどうやら、名前で呼ぶ癖に尾形と親しいワケでは無いようだ。彼をこき下ろし、自分が鶴見中尉の1番だと主張している。彼は、尾形が入院した時に自分が殺した弟の名前をうわ言で口にした、そう言った。

 

ーー殺した?尾形が弟を!?

 

菊田は信じられなかった。

思わず宇佐美に理由を聞くが、妊婦(仮)の娘は黙って宇佐美の話を聞いている。彼女の反応の薄さが菊田は気になったが、それ以上に尾形が自分を慕っていた弟を殺した理由に戸惑った。

宇佐美曰く、父の花沢中将の愛を自分に向ける為と言う動機だったらしい。尾形は、愛の無い親から生まれて育った自分は欠けた人間だと考えている様だ。

尾形は弟に殺人まで唆すが弟は拒否。結局彼は弟を穢して自分と同じ人間にする事も、弟の代わりに父の愛を受ける事も出来なかったらしい。

 

菊田にも亡くなった弟がおり、彼は弟の死に責任を感じていたが、とある青年と出会い、前を見て生きる事にした。菊田は尾形を理解出来ずに困惑していたが、隣に立つ赤毛の娘は冷静に聞き、そして呟いていた。

 

「神への供物は弟だったのか・・・」

 

「何だよブス、少しくらい驚いたら?」

 

淡々としている赤毛の娘、その反応が面白く無い宇佐美は彼女に食ってかかるが、“よくある話だよ”と言われて宇佐美自身がドン引きしている。

 

「ブス、お前は頭おかしい!!」

 

「ありがとう宇佐美、納得がいった!」

 

「何が!?」

 

「尾形は・・・マトモだよ。」

 

「何処を聞いてそう思ったんだよ!?」

 

若い2人の思惑と会話は全く噛み合っていなかった。宇佐美は苛々しながらもヤケクソ気味に尾形の事を“可愛いでしょ”と笑っている。

 

菊田の思考回路はショート寸前だった。

 

 

翌日、アンは菊田に連れられて再び医者から紹介された産婆の自宅に向かった。宇佐美は昨日同様、一人で事件の調査をしている。

この日産婆は在宅だったので、問診の後に妊娠の確認をして貰う事が出来たのだが、何ともスッキリしない結論が出た。

 

「多分・・・妊娠はして無いだろうけど。半月後にまだ月のモノが無かったら、またいらっしゃい。」

 

「「何だよそれ!」」

 

アンと菊田の不満の声が重なった。

この時代、妊娠検査薬は無い。妊娠の兆候で判断するしかなく、ハッキリと結論を出すのは難しいのだ。

 

「流石に半月後には鶴見中尉が来ちまうな・・・」

 

菊田の一言にアンは血の気が引いた。可能性は低くなったが本当に妊娠していて、鶴見の許で赤子を産む羽目になれば、トンデモナイ血筋の赤子は取り上げられ、扱い辛いアンと尾形は容赦なく殺されるだろう。

尾形に会いたかった。宇佐美に聞いた過去の話が本当なら、彼の側に寄り添ってやりたかった。アンタは一人じゃ無い、親の愛なんて無くても大丈夫だと・・・

 

「大丈夫だよ、多分子供はいないだろ。むしろこのまま尾形の側にいるより、鶴見の下で監視されてた方がお前さんにとってある意味安全だぜ?」

 

菊田は疲労と睡眠不足から適当な発言をしたが、アンは頭が真っ白である。

 

ーー菊田さんに頼らず自力で逃げなきゃ!!

 

産婆の自宅からの帰り道、もう一回ちゃんとした病院に行きたいとゴネるアンに菊田は渋々付き添い、2人は病院に向かう。

 

町の中央にある病院の待合室、アンは菊田に厠に行く旨を告げて3階へ向かい階段を登る。病院の入り口は待合室のすぐ近く。菊田が目を光らせているので使えない。因みに病院の2階から上は入院施設だ。

一方で菊田は混雑している病院の待合室で、眠気と闘いながら赤毛の娘が戻るのを待っている。

 

ーー菊田さん、ゴメン!!

 

勝手に病室に入って窓を開け、袂から鞭を取り出す。病室の妊婦は驚いて叫んでいるが、アンは彼女に構っていられなかった。

 

3メートル先には隣家の庭に植えられた大木の枝があるのを外から確認済み。アンは鞭を振るって太い枝に鞭を絡ませて引っ張るが、鞭を引っ張っても先に絡まった木の枝はびくともしない。これなら若い娘の体重くらいは耐えられる筈だ。

 

ーーさようなら菊田さん、ありがとう!

 

アンは鞭を強く握って病室の窓枠を蹴り、外へ飛び降りた。

 

病院の3階が騒がしいのに気付き、菊田は慌ててそちらに向かった。最早嫌な予感しかしない。

階段を駆け上がって廊下に出ると、病室から腹の大きな女が出て来て、廊下にいる医者や看護婦に必死に話掛けている。

 

「若い女が・・・若い女が・・飛び降りたのよ!?」

 

菊田は慌てて医者達を押し退けて病室に入り、開いたままの窓から下を覗く。

 

幸い下で倒れている人間は見当たらない。

しかし数十メートル先、妊婦を自称していた赤毛の娘の背中が凄まじい勢いで遠ざかって行くのが菊田の視界に入った。

流石に3階からは飛び降りるのは軍人でも抵抗があり、混み合う病院の入り口から出て追いかけたら間違い無く見失う。

 

「ああ、あの娘、本当に魔術使ったのか。」

 

彼は西洋の魔女が空を飛ぶ時に箒を使うと聞いた事があった。

精神的疲労と2日に渡る不眠で菊田の思考回路はショートしていた。

 

 

アンは札幌の町を走った。妊娠していないだろうから身体に気を使う事は無い。刺青囚人を捜しに町へ出て来ているであろう土方一派を捜しながら必死に走る。

尾形に会いたい、もしかしたら心配しているかも知れない。彼の両親と同じ様に自分を見捨てたと思われたかも知れない。アンはそう思うと気持ちが焦り必死になった。最早彼が自分に対してどれくらい本気であるか等はどうでも良くなっていた。

アンが入院していると思い込んでいる可能性もあるが、そうだとしても心配しているかも知れないのだ。

 

暫く走ると十字路を曲がった場所から声が聞こえて来た。

 

 

「親孝行の息子です、御報謝願います。」

 

 

尾形はその日仮装をして札幌の町に出ていた。『親孝行』と言う芸の仮装だ。第七師団とバッタリ会ってしまってもバレない様に、墨で口髭を生やし顔に皺を付けている。口髭を生やして顔にシワをつけた自らの顔ーー死に際に自分を罵倒した亡き父そっくりだった。

自らの腰の辺りに息子人形の上半身を着け、まるで人形の息子に父役の自分が負ぶわれている様に見せる芸・・・余りにも皮肉な仮装で最初はソレをするかどうか迷ったが、牛山と土方に勧められてソレを選んだ。

 

「アン坊が帰って来ないと言う事は、子供が出来ていて取り敢えず入院したんだろ?『親孝行』なら縁起が良いじゃねェか。」

 

牛山はそう言ったが、自分の様な欠けている人間が父親になっても良いのだろうか、そう思い尾形は不安だった。俺もいつか子供に殺される日が来たりするのだろうか、そんな事まで考えてしまう。

 

 

ーー!!?

 

 

札幌の町の十字路、魔女疑惑の娘と呪われた息子の2人は再会した。

 

一方は病院の3階から飛び降りて髪はボサボサになり、袴の着崩れた女。

一方は自分そっくりの人形に背負われた、父親似の男。

 

「アン・・・子供は・・・?」

 

尾形は尋ねた。

 

「子供なら・・アンタを背負ってくれているだろ。」

 

唖然としつつ肩で息をしてアンは応える。しかし男の顔を見て彼女は突然怒り出した。

 

「口髭生やすなって言っただろうがァッ!!」

 

理不尽だが、思っていたよりずっと呑気な尾形に対し、アンの怒りが爆発した。

 

 

その日の晩、約2か月振りに月のモノが来たのでアンはいつもより早く床に着いた。尾形には今夜から暫くは絶対に来るな、と口を酸っぱくして伝えたので久しぶりの独寝が出来る筈だ。

尚、土方達に誤解させた事を謝ると、“お騒がせ娘め”と笑われてしまったが、何故か都丹は少し残念そうな顔をしていた。

 

ーー赤ちゃん、最初からいなかったのか。

 

安心する気持ちと寂しい気持ちが入り乱れ、何だか虚しくなり布団に包まる。

ふと、部屋の外から自分に呼びかける声がした。尾形だ。

 

「・・・尾形。暫く来るなって言っただろ?」

 

「何もしねェよ。入るぞ。」

 

素っ気ない返事に対し、お構い無しに助平な上等兵殿は入って来て布団の隣で胡座をかいて座るので、アンは已む無く起き上がる。

 

「・・・子供、いなかったんだな。」

 

「うん、心配かけてゴメン。」

 

尾形は寂しそうな、でも安心したような複雑な表情だ。この男は父親になるにはまだ早いのかも知れない。

 

「妊娠していなくても入院って出来るのか?」

 

尾形は訝しげに尋ねて来たので、ここ2日間の受難の内容をアンは包み隠さずに報告する。菊田や宇佐美の話は勿論、イギリスの手の者や娼婦殺害犯についてもだ。

 

イギリスの組織の話をする時は酷く緊張した。信じてくれても嫌われてしまうかも知れない、そう思った。布団に正座して、俯きながら説明したのは尾形の顔を怖くて見れなかったからだ。

 

「金塊争奪戦が終わったら私は日本を出るよ。向こうが私を捜している以上、日本に留まっていたらきっと捕まってしまうから・・・」

 

一緒に来て欲しい、そう言いたかったが言えない。彼には短い間だとしても本懐を遂げて欲しかった。

 

「私との約束はアンタが落ち着いてからで良いよ。」

 

『夫殺し』の約束が果たされるまで、自分が組織から逃げ切れる自信は無い。本当はずっと側にいたかった、その場所がイギリスでなくてももう良かった。

アンは恐る恐る顔を上げて尾形の反応を伺う。

 

尾形の顔はポカンとしていた。

きっと荒唐無稽な話に聞こえたのだろう。

 

「お・・尾形?」

 

「あ、あぁ・・・そうだな。まぁよく分からねェが、取り敢えず鶴見がお前を追い回しているのがその証拠だろうな。今後の事は争奪戦が終わったら考えるか。」

 

アンはこの時ばかりは心の底から鶴見中尉に感謝した。

 

「それより玉井伍長から電報があったぜ。どうやら野間が見つかったらしい。」

 

「え!?本当に?良かったァ・・」

 

野間はロシアとの国境近くのウィルタの集落にいたところを玉井が見つけた様だ。凍えていた所をウィルタの老人が見つけて助けたのだが、一時的にほとんどの記憶を失ってしまっており“筋肉質の少女が飛び回っている”とうわ言を呟いていたらしい。

アンは野間のうわ言に心当たりがあったが、玉井達はサッパリ分からないようで、尾形も不思議がっていた。

しかし今は船が無いので、彼らと合流出来るのは少し先になりそうだ。

 

「・・・尾形。」

 

「ん?」

 

「アンタは色んな人から大切に思われているよ。玉井さん達も、私も・・・」

 

「そうか・・・」

 

もしかしたら土方達も、とは思ったが確信が持てないので口には出さない。アシリパだって彼が裏切らなければ尾形を大事に思ってくれただろう。尾形は照れ臭いのか、表情には出さないが髪を撫で付けている。まるで小さい子供のようでアンは思わず含み笑いをしてしまった。

 

アンが百之助坊やを見ていると、坊やが自分ににじり寄って来たので慌てて身を引く。この男、ワザとなのかどうかは不明だが、子供っぽい所を見せた次の瞬間にいきなり寝技を仕掛けて助平な上等兵になるのが非常にタチが悪い。

 

「安心しろ、何もしねェよ。」

 

そう言われて結局2人で布団に包まるが、助平殿はアンに後ろからしがみついているだけで本当に何もしなかった。

 

ーー甘えん坊め。

 

アンは宇佐美の発言を思い出してしまった。彼は小さい頃から甘えたくても誰にも甘えられ無かったのだろう。祖父母はいたらしいが母親の事がある為、背伸びして甘えなかったのかも知れない。

ちょっと寝苦しい、と思いながらも皆の所に戻れた安心感でウトウトしていると、甘えん坊上等兵がいつもの低い声で背後から声を掛けて来た。

 

「簪・・・」

 

「へ?」

 

「軍に戻って給料が出たら、ちゃんとしたヤツを買ってやる。」

 

「!?」

 

今アンが使っている簪は、尾形から“お前に好きな男が出来るまで”と言って渡されたモノだ。『ちゃんとしたヤツ』と言う事は・・・。泣きたくなるくらい嬉しい、しかし本当にソレを受け取れる日が来るのだろうか。

 

「これで良いよ。」

 

アンは断った。

 

「フハッ、この簪を見る度にアンタは私を置いてきぼりにした事を思い出すだろ?このままが良い。」

 

「ハハァ、怖いヤツだな。」

 

尾形は嬉しそうだった。

 

 

その男の名前は大沢房太郎と言う。海賊房太郎とも呼ばれている網走の脱獄囚で、刺青囚人の1人だ。

現在彼は元軍人である不死身の杉元、アシリパと言うのっぺらぼうの娘である少女、脱獄王白石、頭巾ちゃんと呼ばれるよく分からないロシア人と共に行動している。

彼らが向かう先は札幌、刺青囚人の上エ地を追っていた。

ある日宿泊した宿で杉元とアシリパ、白石が房太郎の知らない人間の話をしていた。どうやら異人との混血の娘の話らしい。

 

「アンはやっぱり自分の意思で尾形と一緒にいる事を選んだと思う。」

 

そう言うアシリパの表情には、寂しげな様子が僅かにあるも悲壮感は無く清々しい。一方で杉元と白石は複雑そうだ。

 

「あーあ、どうせならアンちゃんが尾形を引き摺ってイギリスに行ってくれれば良いのにさァ。」

 

「尾形がそんな事になるワケねぇだろ。・・・次に会った時は田中さんも敵になるんだろうな。」

 

白石は気乗りしなさそうだが杉元は覚悟しているようだ。ボンヤリと聞いていた房太郎は自分も知っておいた方が良いような気がして3人に尋ねる。

 

「そのアンちゃんとやらってさ、結構厄介な敵になりそうなの?俺にも教えてよ。」

 

「え?」

 

「あぁ・・・確かにちょっと厄介・・」

 

「杉元に白石!アンは賢いんだぞ!!」

 

杉元と白石は言い淀んでいる。しかしアシリパだけは混血娘を高めに評価していた。

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