「もし構わなければ尾形上等兵が退院するまでここに残る気はないかね?我々の代わりに着替えや私物の差し入れを兼ねて、毎日様子を見てくれれば助かるのだが。」
そんな提案を鶴見中尉からされたのは、赤毛の少女が第7師団の兵舎に初めて泊まった翌日の事であった。
「でも食事や宿泊費は・・・」
「気にしなくて良い、何なら古着でも良ければ君の着替えも揃えよう。」
素敵過ぎる申し出だ。アンの頭の中で本来ならかかるであろう生活の必要経費が浮かんでは消える。服も古くなってきているようだから新しいのが欲しい。鶴見中尉が輝いて見えた。
「そうですか、仕方ありません。私なんかでもお力になれれば幸いです。」
気持ちとは裏腹に、恩着せがましく承諾したのであった。
一応言われた通りに毎日尾形の見舞いをし続けて一週間以上が経った。しかし尾形は入院時に『フジミ』と筆談したきり全く目を覚ます事がない。右腕以外にも高所から落ちた時に強打したと思われる顎を骨折しており、手術を受けている。顎を固定させるため頭に包帯が巻かれており、痛み止めか麻酔なのかは不明だがその影響で寝ている時間が多い。尾形が何か話す事があれば鶴見中尉に報告する事になっているが、ずっとマトモな報告はできていなかった。まぁ、ちゃんとする気もなかったし丁度良い。医者に聞くとずっと寝ているわけでは無いようなので、彼女の間が悪いのだろう。
この日も尾形の見舞いのため着替えを持参して病院に向かう。暦の上では一応春だがまだまだ寒い日が続いていた。
鶴見中尉宅の女中のお下がりの黄色い着物を着て、いつもの分厚い角巻を被り小樽の街を歩いていると、目の前を知った顔の一団がこちらに向かって来るのが見えた。造反三人組ともう一人、谷垣とか言う角巻を取り返してくれた一等卒だ。
「田中殿、今から尾形上等兵殿のお見舞いか?毎日ご苦労だな。」
谷垣一等卒が気さくに話しかけてきた。『田中殿』呼びは止めろ、と思いつつ頷く。
「ん・・・見舞いと言っても尾形さんはいつも寝ているからなぁ。着替えの下着を持って行くだけだよ。」
「そうか、それは寂しいな。」
お人好しの谷垣は勿論の事、噂が広まり27聯隊のほぼ全員は『アンは尾形の女』と思い込んでいる。そうさせたのは彼女自身であり、お陰でこうして鶴見中尉の依頼もあり、尾形の様子を毎日見に行っても不自然ではない状況を作る事が出来た。ーー谷垣の横で渋い顔をしている3人を除いて何も問題は無い。
「・・・尾形上等兵殿の様子はどうなんだ?」
不機嫌そうに野間が言った。
「さぁ?元気になると良いですね。」
アンが鼻で笑いながら返答すると野間の米神に青筋が走るのが見えた。隣でオロオロとする谷垣と呆れ顔の岡田。揶揄いが過ぎたようなので話題を変える。
「ところで皆さんはどちらへ?」
「我々は尾形上等兵を襲った犯人を探しに山狩をする。」
玉井伍長が野間とアンの間に割って入りながら答えた。
「あー・・・なるほど。網走の脱獄囚ですか?『富士見』って人ですよね。」
網走監獄の脱獄囚24人ーー第七師団が護送中に逃亡されてしまい、何故か迷惑な事に小樽に集まりつつあると聞いた。頻繁な街の見回りはそれのせいだろうし、きっと尾形も脱獄囚にやられたのだろうが、軍人を襲うとはなかなかの奴だ。
「いや、・・・まぁ良い。」
玉井は何かを言いかけてやめた。
◇
病院に到着し尾形の病室へ向かう。薬品の匂い漂う廊下を歩いていると、第七師団の兵舎やここで何回か話した事がある人に出会った。
「こんにちは、三島さん。」
「あぁ、田中さんか。いつもご苦労様です。」
三島と呼ばれた男はそう言うと、優し気な顔をこちらに向けて笑う。
アンが恋愛に全く興味が無い為かどうも思わないが、まともな婦女子なら間違いなく恋に落ちるであろう甘い顔と笑顔だ。失礼ながら27聯隊の中で最も女装が似合う男と考えている。
「三島さんも、いつもご苦労様です。」
さり気無く嫌味を言う。この三島一等卒は何故か毎日この病院に来ているのだ。しかもアンより先に来てアンより後に帰る。初めは三島と尾形とのただならぬ関係を疑ったが違う。
ーー尾形への監視か。
彼は鶴見に疑われているのだろうか。三島が毎日病院に通っているのに鶴見はアンを病院に行かせている。彼女相手なら尾形も油断してボロを出すと考えているのかもしれない。下手したらアンが三島に心変わりして、尾形にとって不利な情報を漏らすのを期待しているのかもしれない。
尾形の病室に入る。日当たりの良い部屋で春の初めの柔らかい日差しが差し込み気分が良い。
大部屋だが尾形のベッドを除いて他は使われていない。密談にもってこいだが肝心の尾形は寝てばかりである、今日もそうだ。ベッド横の台に置かれた筆談用の鉛筆と帳面は使った事がない。
風呂敷包を開いて着替えと洗濯物を交換した。この後は適当な時間まで、起きぬ怪我人の隣で読書に耽るつもりだ。
古本を開きしばらく読み進める。
「・・・く・の・」
ーーん?
声が聞こえた気がして思わず寝ている尾形の顔を見る。
ーー寝てる。気の所為か。
入院当初は顔が痛々しく腫れていたが今は腫れも引いている。ただ顎に痛みがあるようでたまに起きていても会話はほとんどできないらしい。喋る訳ない。
ーー早く回復しなよ。お前は疑われているんだぞ?一緒に宝探しするんだろう?
読書を中断して本をベッドの上に置き、寝ている男の顔を見ながら心の中で語りかけた。普段、狡猾で傲岸不遜な男が今は酷く頼りなく見える。
「お・・かぁ・・・」
やはり声の主は尾形だった。寝言で一言呟いただけとは言え、顎の傷に響いたらしく痛そうに少し眉を顰めている。
ーーおかぁ・・・あぁ、『おっ母』かぁ。
この腹の底が見えない男も一応は人間の母親から生まれたんだなぁ、と失礼な感想を抱きながら観察していると更に口が動きそうな様子があった為、人差し指と中指の先で男の唇を軽く抑えた。痛いなら喋るなという意思表示だ。
折れてない左手がいつの間にか布団から出ているのに気付き、布団の中にしまってやろうと掌を持ち上げると僅かに握り返されたような感触を感じる。
掌は温かい。川から引き揚げて助けた時はあんなに冷たかったのに。
布団の中には戻さず、気紛れにそのまま手を握っておく。
手の温かさで思わずウトウトとしてしまい、空腹で目が覚めた時は正午になっていた。
もう手は握られていなかった。
◇
その日の夜遅く、アンは兵舎の酒保で少し遅めの夕食を食べる。本当はもう少し早い時間に部屋まで食事を持って来て貰っていたが、理由があって夕食だけやめてもらった。
夕食を運ぶのは宇佐美上等兵が担当していたからだ。
アンが食事をする度に近くに座り、芋娘呼ばわりしながら“百之助の何が良いのか?”とか“お前らは互いに異性の趣味が悪い”とか“鶴見中尉のアレコレが素晴らしい”とかの尋問と悪口とノロケを繰り返されてウンザリしていた。
尚、酒保での支払いは全て尾形のツケになっている。
遅い時間で酒保は人も疎らで静かだった。逞しい人間だと自負していても、何人もの武骨な男共に囲まれるのは怖いのでちょうど良い。のんびりと遅い夕飯を食べていると不意に頭上から声をかけられた。
「田中殿、隣を良いか?」
ふと顔を上げるとお人好しの谷垣一等卒、それに造反3人組がいる。手にはそれぞれに軽食や菓子を持っていた。
絶対嫌だーーなどとも言えず承諾する。
「もしかしてそれが夕飯か?」
「もう食べ終わるから、先に戻りますね。」
谷垣の問いに素っ気なく笑顔で返すと後ろの3人組は互いに目配せしてアンを囲むように着席した。
「まぁ、そう言うな。ゆっくりしていきなさい。」
隣に座った玉井がアンの肩に手を置いた、と言うより肩を掴んだ。
思わず掻き込んだ饂飩が咽せて鼻から出そうになる。彼女は逃げるのを諦めた。
◇
谷垣曰く、4人は夕方まで山狩をしていたらしい。しかし何の成果も得られず門限ギリギリに戻り、報告書を作り夕食が遅くなったとの事。
広い山々を4人で犯人の捜索とか無理だろ、と思うがどうも造反3人組が誰からとも無く言い出したようだ。鶴見中尉に進言して捜索隊に立候補しつつ事情を知らない哀れな谷垣を巻き込んだ。
ーーアイツ、脅したり唆して3人を仲間に引き入れた訳じゃないのか・・・。
今この場にいない上等兵に感心する。犯人捜しをすれば尾形が回復するというワケでもないのに、3人は仇を討とうとしている。あの男にも人望じみたモノは多少はあったようで、何せ聞き込みでは悪口ばかりだったので意外である。
となると脅されて仲間になった自分は明らかに異物で、3人の警戒する理由も分からないでもない。
この場でもそれとなくアンが裏切らないか様子を見ている筈だ、というかその為に引き留めた筈だ。
現在、彼女は裏切りを考えていない。確かに鶴見中尉に父の情報を集めさせようとはしているが、別に鶴見の味方をするつもりは無い。造反の鍵となる尾形の容態は落ち着いているが、怪我により暫く動けないので取り敢えずは鶴見に期待している。
「えー・・・玉井さん、野間さん、岡田さん。尾形さんですがだいぶ体調は良くなってるみたいです。回復したら私は彼から離れるつもりはありません。良かったら、明日はお見舞いを休みにして捜索のお手伝いしましょうか?私ができるのは『案内人』程度ですが、ここらの山には詳しいので『お仲間』に加えて下さいよ。迷子になっても『見捨てません』から。」
突然のアンの申し出に谷垣除く3人は呆気に取られて目を丸くしている。
一方で谷垣は“そうか。田中殿は本当に尾形上等兵殿を好いておられるのだな”とか言い出す始末である。笑うから黙っていて欲しい。
少女の発言の意図に一番先に気付いたのは玉井だった。
「そ、そうだな。『案内人』は必要だ。『仲間』として宜しく頼む。」
野間と岡田も発言の意味に気付いたようだが、まだ疑っている様子だ。特に野間には“礼儀知らずの生意気な餓鬼”と思われているようだ。実際その通りではある。
しかし本来蚊帳の外の谷垣が"助かる”と一番喜んでくれていて気が抜けた。
ーー着替えの持参は三島にでも押し付ければ良いや。
そう思いながら尾形の見舞いで暇潰しに使った小説を風呂敷包みから出した。途中で寝てしまった為に中途半端な所で読むのが止まっていたのだ。明日は読めないだろうし、少しでも読み進めたいと思いながら本を開いた。
「ん?」
「どうした?」
アンの本を捲る手が止まっているのを見て玉井が本を覗きこむ。
「・・・あー、そうだな。明日は案内は良いから尾形上等兵のお見舞いに行ってあげなさい。」
「はい・・・」
本の見開きに筆談用に準備した鉛筆で書かれた文字が嫌でも目に入る。右利きの人間が無理して左手で書いた乱れた文字。怒りの感情が筆圧の強く角ばった文字から伝わる。
『アス ウワサ ニツイテ セツメイセヨ』
アンが病室でうたた寝している間にやられたようだ。
◇
「宇佐美に・・・聞いた。」
翌日の病院にて、アンは尾形と一ヶ月以上振りに会話をした。
彼は身体をベッドに横たえたまま、ポツポツと話し始めた。顎が痛そうだが口を小さく動かして喋っている。
どうやら自分の知らぬ間に宇佐美上等兵が尾形の見舞いに来ており叩き起こされた挙句、少女自ら鶴見をはじめとする大勢の前で『尾形の女である』と話した事を揶揄われたようだ。
彼は怒っている。寝たまま米神に青筋が浮いた笑顔を自分に向けている。
アンは敢えて尾形の折れた右腕側のベッド横に座って話を聞いた。今はとてもじゃないが元気な左腕側などに行けない、殺される。
「・・・噂を否定したのか?」
恐る恐る尋ねると尾形は小さく首を振った。
ーー否定しないのかよ。
とは言えず、色々あるんだよゴメン、と適当に謝ると小さく舌打ちする音が聞こえる。
何故かそれ以上、この件について追求される事はなかった。
折角久しぶりに話が出来たので、自分が彼を助けた事、今は兵舎に間借りさせて貰って毎日見舞いに来ていた事、鶴見中尉がアンの父親を捜している事などを報告した。その辺りの師団の人間なら知っているよう情報は予め置き手紙で知らせていたが、念の為である。
鶴見中尉に父親捜しを依頼した件では、尾形は顔を顰めていたが無視する。
ふと視界の端、病室の入口に人影が見えた。三島一等卒だ。アンは背後に視線を感じながら尾形に話しかけた。
「尾形さんと漸くお話しが出来て嬉しいです。次に来る時は何か持って来ますね。」
「?」
突然の敬称付きの呼び方と敬語に戸惑う尾形。少女は無表情で自分の口に人差し指を当てて「黙れ」という仕草を彼に見せた。そして上半身を倒して男の顔のすぐ横、耳の近くまで自分の顔を寄せて、辛うじて聞こえる小さな声で話し出す。突然の接近に狼狽える尾形を無視して。
「三島一等卒が部屋の外にいる。あの人多分アンタの監視だ。」
「!」
「玉井さんらにも伝えたが、もう裏切る気は無いから疑うな。」
ーーもう、とは何だよ。
と尾形は思ったが口には出さずに頷く。
「これから聞かれたら困る会話はこうやってする。大丈夫だ、おかしくない。私はアンタの“恋人”だから。アンタは無理して喋らなくて良い。それでいいか?」
ニヤリと笑うアンを横目で見て、尾形は呆れつつ感心して頷く。恋人を騙ったのはこの為か。ふと顔を動かして病室の入口に立つ三島を確認すると彼は顔を赤くして突っ立っていた。初心な兵卒と目が合い、動く左手でシッシッと追い払う仕草をすると慌てて頭を下げて走り去って行った。
ーーなるほど、こりゃ便利だ。
尾形は少女を見ると、彼女は誇らしげにニンマリと笑っていた。ーー勝手な事をして、と叱りたい気持ちはあったが回復してからでも良いだろう。
そのまま尾形襲撃犯の捜索隊の話になった。
“囚人に富士見とかいうヤツいたか?”と尋ねられて尾形は思わず苦笑いで否定した。顎が痛む。
ーー玉井伍長達の犯人捜索は難航しているようだ。ならいっそ・・・。いや、一緒にいる谷垣はどうする?
尾形が今後について考えていると少女が帰ると言い出した。これ以上報告する事は無いようだ。
病室を出たアンが廊下で三島に挨拶をする声を聞きながら、尾形は眠りに入る為に目を瞑るが頭の中を不安がよぎる。
ーーアイツは鶴見を舐めている。あまり近づかないように言わんとな。
仕方の無い事だった。アンの知っている陸軍将校とは、聞き込みに使った遊郭に出入りしている軍人がほとんどだ。高学歴だが、名家出身の鼻持ちならない人間が多く、揃って石頭で保守的。アンは先入観から自然と、切れ者の鶴見もその中ではマシな方、程度に考えた。
尾形はアンと鶴見を接触させるつもりは毛頭なかった。しかし自分自身が想定外の元軍人と出会い、瀕死の重症を負わされ、少女と自分の上官が出会う切っ掛けを作ってしまった。
彼は自らの立てた計画に少しずつ狂いが生じてきているのを感じ、なかなか寝付けなかった。