尾形が入院して半月、相変わらず右腕はギブスで固定されたままで、顎も包帯が取れない。ただ投薬量が減ったのか短時間は起き上がれるようになった為、病院の敷地内なら外を歩く許可も出たのだが、その為なのか鶴見中尉の監視が2人になってしまった。
アンの朝飯の配膳係を勤めている小宮一等卒が病院の入口や中庭を出入りするようになったのだ。表向きは三島と同じく、尾形がまた襲われないように見張りを立てた、と聞いているが恐らく違うだろう。
しかしこの小宮という男、初心な三島と違い雰囲気に呑まれない、というか察しない。
どのような状況でも遠慮なく側に来るし声を掛けてくるのでこれでは最低限の報告ーー小樽の師団の動き、捜索隊の様子などーーしかできず、お陰で未だにアイヌの金塊とやらの詳細を聞けていない。尾形曰く、長い話になるからできないとの事だった。しかし実際のところは金塊の探し方を知ったアンが自分の入院中に単独で暴走するのを尾形は恐れていた。
一方で捜索隊の方も進展がない。
スキーを使い出してから効率は上がっている。アンは手伝う旨を玉井伍長に伝えたが、道具を使いこなせないから、と断られていた。
そんなある日の事だった。
その日、アンはいつも通りに朝から尾形の見舞いに来た。手には病院の入口で三島から貰ったみたらし団子がある。
3日前から三島は少女が兵舎や病院にいる時に何かしらの甘味をくれるのだが、疑問に思った尾形がアンに尋ねても“饅頭怖いの逆みたいなモンだよ。”とニヤニヤ笑いながら彼の目の前で食べ出すので、苛ついた尾形は毎回半分を強奪していた。団子なら顎に響くし取られないだろうと少女はタカを括っていたのだが、結局この日も半分取られた。
団子を食べながら声を落として師団の情報の報告をする。相変わらずパッとしない報告ばかりだが尾形は何か考え込んでいた。
廊下から軍靴の音が聞こえて来たのに気付いた尾形がいつものように顔を近づける様に合図したのでアンは慌てて応じた。
「玉井伍長達に、明日そのまま師団を脱走して網走に潜伏、調査するように伝えろ。」
尾形は奪い取ったみたらし団子を少しだけ噛んで飲み込み、小声でアンに伝えた。喉が詰まりそうになり、顎が僅かに痛むが団子は返さない。
三島が廊下に立っており、耳をすましても二人が顔を近づけて小声でする密談は彼の耳には届かない。後ろ姿の初心な一等卒は遠目にも耳が赤くなっているのが見えた。
「いきなり脱走なんて・・・宇佐美と関係が?」
アンが訪ねると尾形は小さく頷いた。
宇佐美は鶴見中尉に網走監獄の潜入を命じられているのを彼女はさり気無く聞き出すのに成功している。宇佐美は厄介な上等兵だが、鶴見中尉を絡めて煽てるとチョロい所があった。
「俺はまだ動けねぇからな。お前が伍長達を網走まで案内しろ。」
ーーアンタはどうするんだ。
少女は尋ねそうになったが止めた。この男の事だ、何かしら考えがあるのだろう。
しかし網走とは、遠い上に責任が重そうだ。兵舎の隙間風の入らない建物、暖かく量の多い食事、暖かい風呂、マトモな布団ともお別れである。
身体を離し、渋い顔をすると尾形はニヤリと笑って大きな声で揶揄ってきた。考えている事を読まれたのだろうか。
「お前、少し太ったんじゃねぇか?餌付けられて食べ過ぎてるんだろ。少し、いや思い切り身体を動かした方が良いな。・・・任せたぞ。」
「・・・うん。」
仕方のない事だ。兵舎のご飯は栄養があり、量も多い。加えて少女は17歳の食べ盛り。ギリギリの生活で痩せていた身体は、健康的な生活で僅か1ヶ月で年相応の身体になろうとしている。
ふと、その時廊下から三島のか細い声がした。
「尾形上等兵殿、こっ・・ここは病院ですから・・・それ以上の事は・・・」
三島が何を勘違いしたのか顔を真っ赤にしてこちらを見ており、その様子を見て尾形は楽しそうに喋り出した。
「ハハァッ!アン、三島一等卒が辛そうだ。気の毒だし今日はもう帰れ。」
ーー元気じゃないか。
とアンは思ったがこれも口にはしない。
帰る旨を告げて病室を出ようと支度をする。次にこの男と会うのはいつになるだろうか。彼が生きていれば、の話だが正直死なれたら困る。
「ちょっと待て。」
ふいに呼び止められて振り返った。
「この前の店、覚えているか?あと3週間もしたら俺も多分退院できる。また奢ってやるからあの時と同じ時間に2人で行こう。」
ーーつまり小樽から網走まで3週間で往復しろ、だと!?
三島がいる為遠回しになった尾形の発言の裏の意味を瞬時に読み取り驚愕する。
『3週間で、玉井達を網走に届け、一人で小樽に戻る。そして年末に奢って貰った店で、同じ時間に尾形と合流する。』
寝る時間以外に足を止めなければ間に合うのかもしれないが、そんな無茶はやった事がないので分からない。
ーーしっ、死ねば良いのに!
思わず口に出しそうになった言葉を飲み込み、引き攣った笑顔で頷いた。
「明日は夕方に来い。いいな?」
ーーはいはい、夕方に経過報告してから小樽を出るんだな。分かったよ!!
思わず扉を閉める手に力が入ってけたたましい音を立ててしまい、三島にギョッとした目で見られたが少女は無視して立ち去った。
◇
「いきなり脱走しろと言われても・・・。本当に尾形上等兵はそんな事を言ったのか?」
夜の薄暗い酒保にて、玉井伍長は声を潜めながらアンに話しかけた。話しかけられた赤毛の少女は粗末な木製のベンチに腰掛けて玉井に買って貰ったアンパンを食べながら頷く。
野間と岡田は渋る谷垣を連れて、離れた席に移動して酒を呑んでおり、玉井とアンの周りには誰もいない。
「・・・尾形は警戒してるんでしょうね。玉井さん、谷垣さんをこっち側に引き込む為の説得は上手くいってないんですよね。」
「ああ。」
玉井は、自分の部下である谷垣一等卒を造反に巻き込むべくさりげなく鶴見に対する不満を引き出そうとしていたのだが、真面目な彼は上官に対する不満を言わなかった。おまけに欲もない。仲間にする為の取っ掛かりがまるで無く、お手上げだった。
マタギ出身で山に詳しく射撃が上手い、しかも義理堅い谷垣を仲間に入れたい気持ちは分かるが、あまりしつこくして鶴見中尉の耳に入っていたらと考えるとゾッとする。
「オマケに3日前のアメリカ人との食事会、あれ絶対に私を懐柔してボロを出させようとしてるーーと、尾形が言ってました。」
アン自身の所見ではない。正直なところ、彼女はどうしてあの日トーマスというアメリカ人に会わされたのか分かっていない。彼は自分の父を知る人間かと思ったが話の内容からするとトーマスは武器商人のようで、母の顧客名簿に武器商人と繋がりそうな職業の人間はいなかった。強いて言うなら退役軍人のモランとかいう男くらいか。
「って事で、バレて処分される前に逃げた方が良いですよ。遅かれ早かれそうするつもりだったんですよね?捜索に行った時に適当に谷垣さんと離れてふらっと3人で失踪して下さい。私も合流して一緒に網走まで行きますんで。」
「・・・ああ、分かった。」
玉井は渋々だが了承してくれた。彼から野間と岡田を説得してくれる事だろう。
「あ、そうだ。羆には気を付けて下さいよ、特に子持ちの母羆は。まだちょっと早いかもしれないけど。」
この日彼女は尾形の見舞い後に羆の巣穴らしき物を見つけていた。
『お前、少し太ったんじゃねぇか?』
失礼な上等兵に言われた事を気にして彼女は山の中を歩いていた。何せ3週間で小樽〜網走間を往復するのである、太ったのなら以前ほどは動けないかもしれないと不安だったが、思っていた程体力は落ちておらずスイスイと山を上り気が付いたら自宅にしている古屋からかなり離れた場所まで来ていた。
そこで羆の巣穴の特徴がある洞穴を見つけたのだ。
エゾオオカミなき後、単独で北海道の食物連鎖の頂点に立つあの生き物はアンが最も恐れる動物である。 友人のアイヌの少女から自分の父親が羆の巣穴に入って仕留めたと聞いた事があるが、はっきり言って正気の沙汰では無いと考えていた。
◇
脱走決行日、朝から天気は良いが相変わらず空気は冷たく底冷えがした。兵舎の中にも冷えた空気が入り込み、アンは早くに目が覚めた。
玉井達3人はもう兵舎には戻らないつもりで常より僅かに装備を重くしたが、傍目には気付かない程度である。鶴見中尉に、3人は遭難したと思わせて死んだ事にして貰う為であり、装備が重すぎると企てた上で脱走したのがバレてしまう。
いつもより早く兵舎を出たようで、アンが気付いた時には谷垣含めて4人ともいなくなっていた。
ーーなるべくいつも通りにしろって言ったのに。
思わず舌打ちしそうになったが、朝食の配膳をしてくれた小宮一等卒の手前でその様な事は出来ない。捜索隊が朝早く兵舎を出たのを教えてくれたのは彼だった。尾形が造反を企んでいるのを知っているか否かは兎も角、玉井達と尾形が繋がっているのは知らなさそうだ。
「野間も岡田も谷垣も忙しそうだよなぁ。君、アイツらについて何か聞いて無いのか?玉井伍長殿と良く話をしてるんだろう?」
「へ?いや何も。」
突然小宮から話しかけられて素っ頓狂な声が出てしまった。
「そうか・・・。」
小宮は何か言いたげだったが無視した。大体、毎日朝早くから捜索に出てるのだから忙しくて当たり前なのにこの男は何を言っているのだろうか。
小宮との会話はそれきりだった。
朝食後、アンは身の回りの整理をして必要最低限の物を風呂敷に包み支度を済ませた。モンペは処分し、鶴見から貰った小豆色の着物を来ている。たが分厚い角巻と母の形見(嘘)は手放さず身につけた。
ーーサヨウナラ、暖かく健康的な生活よ。
正直今迄の自身の暮らしと比べて、ここの生活は悪くなかったというか最高だった。しかし退屈でもあった。未練があるとすれば父親の情報だが、鶴見中尉も暇ではない。一ヶ月やそこらではやはり調べられ無かったのだろう。しかしもう兵舎に戻る事はない。
「おや、おはようアン君!」
部屋を出た瞬間、そこには鶴見中尉がいた。
本日裏切る予定の男が目の前に突然現れ、少女の毛が生えた心臓も動きを止めそうになった。
「おはようございます、鶴見中尉殿。」
動揺を隠して挨拶をする。
「おや、今から尾形上等兵の見舞いかね?」
「はい。行って参ります。」
努めて明るく返事をしたがふと違和感を感じた。しかし今はそれどころでは無い、玉井達に合流する前に自宅の古家に戻ってする事がある。
では、と立ち去ろうとした時、鶴見から投げかけられた言葉に少女は思わず立ち止まった。いや、立ち止まざるを得なかった。
「君のお父上が判明した。私は昼過ぎまで忙しいが・・・そうだな、3時に私の執務室に来てくれたまえ。きちんと説明しよう。」
鶴見は懐中時計を懐に仕舞いながら片目を瞑って見せた。
◇
暇な時はとことん暇だが忙しい時は嫌なくらい予定が立て込むものだ。
この日のアンはここ1ヶ月で最も多忙であった。
其の一、朝食後、身辺整理
其のニ、自宅に一時帰宅し荷物の整理
其の三、自宅前にて玉井達と合流
其の四、兵舎に戻り鶴見中尉に父の話を聞く
其の五、病院に行き尾形に脱走前の報告
其の六、兵舎の門限の時間に小樽を4人で脱出
特に其の三から六の間は四時間で終わらせなければならない。そして其の四は完全に私用であるが外せない。忙し過ぎて考えただけで吐き気がするものの、やり通すと決めたのだ。
そして今は其の二と三の間、自宅の古家にて玉井達を待っているのだが、落ち合う約束の昼二時になったと言うのに現れない。
ーー谷垣さんを撒くのに手間取っているか、今更『不死身』を見つけてしまったか、熊にでも襲われたか・・・
考えれば考える程悪い妄想が頭を巡り落ち着かない為、仕方なく外に出て周りを見渡す。
ーーいない。気配すら無い。
斜面を上って山に入り、暫く歩き続ける。
ーーアイツら何してんだよ、こっちは時間が無いってのに!
そうボヤきながらもう少し歩こうとしていた、その時だった。
「俺は不死身だぁぁぁっ!!」
前方から響いた謎の絶叫に一瞬固まってしまったが、直ぐに走り出す。
ーー!?フジミ・・・富士見・・・不死身!!尾形の言ってた不死身の杉元!?
日露戦争でそう呼ばれていた兵士がいる、と尾形に聞かされていた。彼を襲ったのはその男だとも。嫌な予感がする。
雪の残る山の斜面、足を何度も取られて転びそうになる。今まで履いていたモンペと比べて着物の何と動きづらい事か、裾を膝まで捲り上げて必死に声の聞こえた方へ走った。走って、走って、走り続け・・・
少しだけ開けた場所、スキーを装備した3人の男が銃を同じ方向に向けているのが見えた。濃紺色の軍服に白いマントや紺色の上着を着ているアンのよく知っている3人組だ。
3人の視線は洞穴に向いている。
それは昨日彼女が見つけた羆の巣穴。
3人の男達は何か話し合っているが、先頭の男がしゃがみ込んで洞穴に銃口を向けて狙いを定めている。
「やっ!?・・・やめーーー」
ーーダァーンッ!!
止めるより先に銃声が山にこだました。
◇
アンは口喧嘩においてほぼ負け無しと自負するくらい口が達者だ。尋常小を暴行事件で中退したものの、趣味で多くの書物を読み、知識を蓄え、語彙力を鍛えた。
過去に狩猟で取れた獣の皮を売るに際して値切ってきた商人、情報収集に立ち寄った蕎麦屋で出会ったタチの悪い客、理不尽な理由で言い掛かりをつけてきた屯田兵等、全て言い負かして逆上してきた相手に殴られた事もある。
しかし脳に混乱を生じると、言語能力が五歳児並になる事は誰でも起こりうる。
この時の彼女もそうであった。
「馬鹿ーーッ!馬鹿ーーッ!!馬鹿で阿呆ッ!!!」
錯乱しながら罵倒する言葉を叫び、裾を膝まで捲り上げて雪まみれになった知人が自分達の元に走り寄って来たのに3人の軍人ーー玉井、野間、岡田は気付いた。
「お前!誰が馬鹿で阿呆だ!?」
「何でここに、危ないから帰りなさい!」
「この山芋娘、何ちゅう格好してんだよ!」
三者三様、人の気も知らずに好き勝手叫んでいる。
「お前らも馬鹿だし私も馬鹿だよ!!こん畜生がぁぁぁぁッ!!!」
決死の形相で3人に走り寄るアン。
取り敢えず羆の巣穴の一番近くで小銃に次弾を装填していた玉井目掛け、数年ぶりに飼い主と再会した大型犬の如く激しく飛びつき、そのまま地面に押し倒した。
その直後・・・
ーーブォォオォォォォ!!!
地獄の底から響くような低く深く大きな唸り声をあげて黒い塊が巣穴から飛び出した。成獣の羆の手。羆の手は玉井の頭が数秒前まであった空間を切り裂き、巣穴に戻った。
ーーのそり、のそりと小さく仄暗い巣穴から本体が出て来る。巣穴の入り口にて後ろ足で立ち上がり、再び低く恐ろしい声で天に向かって吠えた。空気がビリビリと揺れる。
巣穴の大きさに対して物理法則を無視したかの様な、全長4メートルはあろうかと思われる見事な雌の羆だ。
因みに羆のすぐ横で玉井に折り重なって倒れているアンには、もっと巨大な恐怖の塊に見えているが、飛びそうになる意識を舌を噛んで保つ。口の中が鉄臭い。
「羆だとっ!!?」
狼狽した岡田の声が聞こえた、と同時に2度の発砲音。2人の一等卒の撃った弾は羆の頭部と胸部にそれぞれ命中したが倒すには至らず、羆は一瞬グラリと体を揺らしただけだ。
「引け、2人とも!!」
倒れていた玉井が上体を起こして叫ぶが、スキー板が邪魔になり野間も岡田もすぐには動けない。羆が2人を目掛けて走り出した瞬間・・・羆と2人の間に何かが落下してきた。
アンが放り投げた5メートル程の長さのある革製の太い紐の様な物が、まるで意思を持った動物の様にグニュグニュと全体をくねらせながら、まるで落下する蛇のように、ぽすり、と雪の上に落ちた。
一瞬動きを止めて地獄の雄叫びを上げる羆、その横を走り抜ける赤毛の少女の左手にはY字形をした木製の棒の様な物があり、棒の先端2つが緩くゴム紐で繋がれている。
少女は次弾の装填を諦めて銃剣を構えた野間の前に止まった。Y字の棒を持つ左手を前に突き出し、右手で棒に繋がれたゴム紐を後ろに強く引っ張り、手を離す。
まるで弓で矢を放つような仕草であった。
放たれたのは矢ではなく小石。
勢いよく羆の右目に命中し、激しい痛みのあまり羆は悶絶し、体勢を崩して倒れ・・・
羆はそのまま急斜面を激しい音を立てながら滑り落ちていき、完全に4人の視界から消えた。
「・・・」
「・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
4人共その場で固まって暫く動かなかったが、
「お、おい、あの羆生きてるぞ。」
野間の一言で全員正気に戻り、アタフタと動き出す。崖下で上ろうともがく羆に4人の視線が集中した。羆は右目を失明して空間の把握が上手くできないのか、なかなか傾斜を登る事ができない。
「上るのに苦戦していますね。ここから撃ちますか?」
「もういい、放っておけ面倒臭い。当分はこっちに来ないだろう?」
「あぁ〜!!生まれて初めて自力で羆を仕留めたと思ったのになぁ。」
アンの一言を聞いて崖下を見ていた3人の軍人は、ギョッとした顔で一斉に少女を見た。
「嘘だろ、仮にも猟師だろ!?」
「羆を撃った事もないのに飛び出して来たのか!?」
「お前、猟師は廃業しろ!」
助けてやったのに3人がかりで一方的に責められ、耳が痛い事実を指摘されて、小声でブツブツと文句を垂れるしかできない。でも、羆退治なんてそもそも簡単な物ではないのだ。アンは口を尖らして不平を漏らした。
「・・・そっちが遅れて来るからじゃないか。」
「偶然谷垣が杉元を見つけてしまったんだ。仕方ないだろう。追わなきゃ不自然だ。」
玉井の返答に思わず周囲を見渡した。
「谷垣さんは?それに杉元。」
「杉元は巣穴の中だ、まぁさっきの羆に喰われちまったろうな。谷垣は杉元の連れを追って行ったぞ。」
「撤収しよう!!早く!」
アンは叫んだ。岡田の返答に対して『杉元は生きているかも知れない』と思ったが今はそれどころじゃない。時間が無いし、捕らえたところで3人の軍人はこの後脱走するので兵舎に戻らない。今は別行動の谷垣や崖下でもがく羆だっていつこちらに来るか分からない。
勿体無かったが、3人のスキー道具一式はその場に埋めさせた。目立ち過ぎるし隠せないから持って行けない。
アンは羆の前に放り投げた物を拾いに行った。5メートル程の太い革紐のような物を拾い、クルクルと丸めて着物の左袂に仕舞う。玉井がその様子を見て声を掛けた。
「それは鞭だね?あと、羆に当てたのはパチンコか?」
「はい。両方とも知り合いのアメリカ人牧場主にタダで貰いました。羆は蛇が苦手と聞いていたから長くてうねる物を見せれば隙が生まれると思って。」
パチンコーースリングショットとも言う。
歴史自体はかなり古く、巨大な物なら攻城兵器のカタパルトが有名だが、少女の持っているのは狩猟用の小型の物だった。当然銃に比べて飛距離、殺傷能力は遥かに劣る。
基本、狩猟は罠を仕掛けて行っていたが、スリングショットは兎やリスなら有効だし、鞭は高い木の枝に引っかかった獲物や果物を落とす事もできる。まぁ、鞭を蛇に見せかけて使うのは今回が初めてだが。
ーーこの娘は本当に17なのか?
4人で下山する最中、玉井は思った。自身が17の時とは余りにも違う。
初対面の顔に傷がある鶴見中尉に怯える事もなく大勢の前で嘘をつき通し、分かる人間にだけ分かる言い方で意志を伝え、先程も初めて対峙する羆を相手取り倒してはいないが3人を助けた。
「・・・よくやってくれた。何か食べたい物はあるか?」
「クリーム饅頭!!」
「分かった、分かった。」
食い気味に甘味を食べたいと返され、玉井は何故か安心した。
まだまだ子供らしいーーと。
◇
小樽脱出を兵舎の門限の時間にしたのは赤毛の少女であった。外回りをしている兵卒が兵舎に戻り、夕食で慌ただしくしている時間を狙っての事だ。捜索でいつも遅くなる玉井達がその時間に兵舎にいなくても心配される事はないし、仮にはぐれた谷垣が一人で兵舎に戻っていてもこの時間なら大丈夫だろうと考えていた。
今、玉井達3人は少女がねぐらにしていた古屋にいる。
既に門限の時間は過ぎていた。
暗くなり冷えてきた為、小さな囲炉裏に火を点ける。
火に照らされて小さな古家の壁に映る人影は3人分のみ、家の主人である案内人の少女の影はない。
「・・・遅い。」
野間が呟いた。
少女は自分達と合流した後すぐに兵舎に向かった。聞けば鶴見中尉に父親の話を聞かせてもらいに行くのだと言う。
3人は渋い顔で反対したが、父の名前だけでも知りたいと言われ、玉井と岡田は押し切られた。
野間だけ最後まで反対していたが、彼女が大事にしていると言う所持品を全て押し付けられ、“必ず戻る”と真剣な眼差しで言われ、仕方なく承諾した。
預けられた所持品は、鞭、パチンコ、分厚い角巻、酒瓶に入った紙幣。
自分が戻らなければこれらを好きにして良い、と言い残して少女は行った。
ーーそしてこの日、少女は戻らなかった。