ラノベを読んで思想を振りかざす人っていますよね。
そんなめんどくさい女がヒロインです。
人生には世界の見え方が変わる瞬間がある。
出来ることが増え、新たな選択肢が日常に紛れ込むように。
新たな知見を得ることで、世界が輝いて見えるように。
大切な人の死によって、その後何年も引きずるように。
僕の場合、その変革は柔らかさ、そして匂いと共に来た。
あの頃、僕たちは毎日のように放課後に会っていた。
互いに遊ぶ友人もおらず、それぞれの理由で家にも帰りたくない。
かといって部活動や恋人などの青春活動に花を咲かせる気力もない。
そんな僕たちが放課後の彷徨いの中で出会い、意気投合するのは必然だった。
あの日々には既に、僕たちは互いに魅せられていたのだろう。
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時刻は放課後、空き教室。
生徒数が減少した高校の吸収により校舎の増築を行ったが、用途が見つからず物置と化したそんな空間で。
また明日と別れを告げようとする夕方の太陽により、既に半分以上は陰に沈んだ教室と、陰に溺れる机や椅子といった備品たち。
運動部の青春を謳歌している声が、水泳の授業で水面越しに聞こえる声のように、遠くから微かに聞こえる。
そんな陰と遠い音で満ちた閉じた世界で。
誰が世話をしているかも定かではない、廊下で飼育されている水生生物のように、僕たちは椅子に座り佇んでいる。
この日、僕たちは互いにラノベを貸しあって読む催しを開催していた。
そしていつも通りの会話が、始まる。
「幸福を知らない子供は幸福になれない」
日本人らしい黒髪を胸元まで伸ばし、10人に7人位が美人と答えそうな容姿。
その瞳には眼鏡をかけており、黒のフレームが教室の陰に紛れている。
あまり活発な人間ではないからか、スカートで隠しきれていない先輩の組んだ足は日焼けをしていなく。
夕暮れの陽ざしも相まって幻想的な雰囲気を漂わせている。
背景に紛れそうな容姿の僕とは大違いだ。
そんな先輩が闇が深いことを唐突に呟いた。
だけど、それも何時もの事。続きを促すことなど造作もなかった。
「今、ボクが読んでいる
いまいち先輩の言っていることが良く分からない。
きっと今のボクはあほ面を晒している事だろう。
僕の顔を見た先輩は口を動かすことを再開する。
「君も知っている展開のとおり、主人公が差し伸べた救いの手を少女は掴んだ。その結果、父親は二人に倒され衛兵につかまり罪を償うことになる。無事にハッピーエンドだ。素晴らしいね」
パン、と雑に本を閉じ、両の手を広げ、演劇のように主役は私だと言うように先輩は話し続ける。
一応その本、弟から貸りた本だから雑に扱わないで欲しいのだけれど……まぁ良いか、僕のじゃないし。
それに
クラスでは大人しく過ごしていると前に言っていたから、先輩のこの姿を見れるのは僕だけなのだろう。
……ほんの少し、欲が満ちる。
「しかしここで疑問が生じるわけだよ後輩君」
調子付いてきたのか、今度は人差し指を立てながら喋り続ける。
調子付いた先輩の頭の中では探偵や役者になっているのだろうか、いつももったいぶって喋るんだよなこの人。
それは決して声には出さないけれど。
「その場面でおかしな描写ってありましたっけ?」
僕が貸したのはよくあるファンタジー世界物のライトノベル。
調子付いた先輩が先ほどまで読んでいた巻は確か……そうだ、特殊な能力を持った少女が父親に監禁されている所を主人公が救い出す話。
ライトノベルではよくある、ヒロインを救い出す話だったはずだ。
僕の問いを受けた先輩は口角を少し上げ、組んだ足を解き、前のめりになる。
思わず反射的に足に目線が向きそうになった。分かって僕を誑かしているのだろうか。
この人の場合、両方あり得るから困る。
「なぜ少女は救いの手を掴めたか。だよ後輩君」
僕の葛藤など歯牙にもかけず先輩は回答してくれる。
しかしそこはやはり調子付いた先輩、まだ要領を得ない回答。
いまいち先輩の言っていることが良く分からない。
そんな僕に気づいていないであろう先輩は、立ち上がり歩き出しながら再び話し出す。
「少女にとって父親の支配は当たり前であり、監禁も相まって自由も幸福も知らない。そして主人公はその境遇を憂いて、外の世界へ連れ出すための手を差し伸べた」
遠くから運動部の声が微かに聞こえる程度の静寂の中、
1歩、2歩、3歩、4歩。
カウントダウンの様にも聞こえるその足音は。
あばらの奥で収縮と膨張を繰り返すだけの僕の脈動を、脳髄の奥底まで響く、確かな命の音へと変えていく。
いつの間にか先輩の吐息の音も聞こえるようになった頃、先輩は僕の背後に立ち肩に手を置いていた。
力で簡単に振りほどけそうな柔らかい、女性らしい掴み方。
このまま体重を掛けられても恐らく、容易に立ち上がれそうな儚さを秘めた押さえ方。
けれど何故か、僕には先輩を見上げる以外の選択肢が思い浮かばなかった。
「手を取った先にあるものが幸福であることなど少女は知らないんだ。それなのに幸福の為に彼女は手を取れた、というのが腑に落ちないのだよ。ボクはね。」
見上げた世界は髪の毛で区切られていた。
重力に従った長髪。黒く、澱んだ先輩の髪。
世界を分ける帳は、既に下りている。
結果的に高嶋先輩のその端麗な顔が強調された。
先輩の瞳に僕の顔が映る。
同じように僕の瞳には、先輩を映せているだろうか。
そう思いはせた頃、匂いが遅れてやって来た。
女性物の洗髪料が放つ匂い。続けて、他人が持つ独特だが臭くはない口の匂い。
その2つが混ざった、少しだけ甘臭い匂いが僕の鼻孔を誑かす。
閉ざされた教室の中。
陰で満たされた、水槽のような空間。
高嶋先輩の澱んだ髪で区切られた世界。
視覚と嗅覚から入力される強烈な情報の濁流は。
本当は外の世界など存在していないのか。
あるいは僕と先輩の2人以外の人間は皆、彼岸を越え彼方へと消えたのではないか。
そう錯覚してしまうほどの濃密な、されど短い時間を僕にもたらした。
だから聴覚から入力された情報の処理に時間を要してしまった。即ち先輩の発した言葉の理解に。
計測はもう出来ないけれど、時間にして約5秒ほど。
その間、僕はただ高嶋先輩に魅せられ続けていた。
返答も相槌もせず、ただ、目を逸らせずにいた。
先輩は人の表情をよく見ているのを知っていたはずなのに。
簡単な内容なら言葉を発せなくても通じてしまう程、僕たちは一緒に過ごしていたというのに。
そのたった5秒で先輩は僕の表情から共感を得られなかったと悟ってしまった。
「まっ、あくまでボク個人の評価であり、この部分以外は納得できたのと。作品自体は十二分に面白かったから作品の総評としては概ね好評なんだけどね」
先輩は、先ほどまでの真面目な顔はもう浮かべていない。
一転して和やかな笑みを浮かべている。
辛気臭い雰囲気をごまかす様な笑み。
先輩は、既に、もう。
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僕は
だから何故、あの時の先輩がそんな疑問を抱いたのか。
どうして笑ってごまかそうとしたのか。
あなたは、何を求めていたのか。
先輩の事が良く分からない。
だから当時、僕はどんな言葉で返事をしたのか。
何度振り返っても思い出すことが出来なかった。
あれから4年。先輩も僕も高校を卒業し、それぞれの道を歩んでいる。
先輩が卒業して以来。ついぞ連絡先を交換していなかった僕たちは一度も会えていない。
けれど先輩が浮かべた笑みは、今も追憶の底で僕を蝕んでいて。
後悔している、そんな言葉で表すには。
どうすれば良かったのだろうか。
今も尚、僕は正解を知らない。
良かったら感想ください。