ホシノが先生と一緒にクジラに会いに行くお話   作:空を飛ぶジンベエザメ

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十話 たのしいバナナとり手帳

「ホシノ、起きて」

 

また先生に肩を揺すられ、ホシノは「う~ん...」と唸りながら目を覚ます。生まれて初めて体験するスキューバダイビング。40分程の海中散歩を終え島に帰って来たホシノは宿で昼食を取った後、疲れのせいか物凄い眠気に襲われ、部屋でぐっすりと眠ってしまっていた。

 

「おはよう先生...今何時...?」

 

「もう6時過ぎだよ。女将さんが夕食出来たって」

 

「え、6時...?私そんなに昼寝してたの...?」

 

ホシノは慌てて布団から起き上がる。先生の言う通り時間は夕暮れ時のようで、畳の香りが心地良い部屋にはオレンジ色の柔らかな西日がこれでもかと満たされていた。

 

(こんなに長い間寝たの、久しぶりだな...。体も何だか軽い気がする)

 

軽く寝た後に島を散策でもしようと考えていたホシノはその計画がおじゃんになってしまったことに小さく肩を落としつつも、久方ぶりに6時間以上の睡眠が取れたお陰か慣れないダイビングをした後にも関わらず身体の調子がすこぶる良い事に気が付く。

 

「途中で起こそうかと思ったんだけど、凄く気持ちよさそうに寝てたから...。ごめんね、ホシノ」

 

「ううん、大丈夫だよ。おじさんお昼寝は大好きだから...って見て見て先生!夕陽が凄い綺麗だよ!」

 

部屋の窓には、まん丸な夕陽が、緩やかな弧を描く水平線に向かって行く美しい光景が広がっていた。水面に星のような輝きを走らせながら沈む夕陽は、普段見ている砂の地平線に消えていく真っ赤な夕陽とは異なり、見ているだけでホシノの心を穏やかにしてくれた。

 

(私、あの海の中に入ってたんだよね...)

 

背中に背負ったタンクが少なくなるまでの、40分という短い時間。しかしそんな短い間でも、自分は確かにあの美しい海と、そこに住む生き物達の中に溶け込んでいた。それに対する充足感と、これからまだまだその感覚を味わえるという期待感から、ホシノは思わず笑みをこぼしてしまう。

 

「ねぇ先生」

 

ホシノはゆっくりと先生に振り返る。

 

「先生、今回の旅に誘ってくれて本当にありがとうね。私、今とっても幸せだよ」

 

優しい微笑みと共に告げられた感謝の言葉。自己嫌悪という鎖に長い間縛られ、己の未熟さが祟って堕ちるところまで堕ちかけた生徒の口から出た、「幸せだよ」という言葉。それは、”シャーレの先生”にとって他の何にも変えられない、一片の曇りも無い幸福をもたらしてくれるものだった。

 

「どういたしまして。ホシノが幸せになってくれたのなら、私にとってこれ以上嬉しいことは無いよ」

 

そう返した先生の表情は、ホシノに負けず劣らず優しかった。大好きな先生にそんな顔をされ、少し照れくさくなったホシノは

 

「そ、そしたら食堂行こっか!お昼ご飯も凄く美味しかったし、夕飯も楽しみだね!」

 

とやや強引に話題を逸らし、そそくさと布団から這い出した。

 

 

 

女将さんが用意してくれた夕飯はご飯に味噌汁、小鉢に入ったお刺身と、20センチ程の小魚をそのまま油で揚げたフライという、実にシンプルなものだった。しかし主菜として出されたそのフライは味もさることながらじっくりと火を通してあるのか骨まで柔らかく、ホシノと先生は骨の一本も残す事無く全て平らげてしまった。

 

「ごちそうさまでした。こんなに美味しい魚のフライ食べたの、初めてだよ~」

 

「あら~。そういって貰えるなら時間をかけて二度揚げした甲斐があったわね~」

 

女将さんは可愛らしく自分の翼で嘴を覆い隠す。

 

「今食べた魚は『タカサゴ』っていう名前の魚でね、この島で一番ポピュラーな魚なの。唐揚げやフライにすると絶品なのよ」

 

「あ。タカサゴって魚、今日のダイビングで見たよ!でも、海で見た時は青っぽい色してなかったっけ?」

 

ホシノは首を傾げる。船長が水中で教えてくれた、サンゴの上で群れを成して泳いでいたタカサゴは細長い体に青緑がかった体色をしていたが、今しがた食べ終わった魚は細長い体こそ同じだが、その体色は鮮やかな赤色をしていた。

 

「生きている時はそうなんだけどね、実はタカサゴって体の色が変わる魚で、死ぬと体色が青緑から赤に変わる性質を持っているの。ホシノちゃんが食べたタカサゴが赤かったのはそのせいよ」

 

「へ~!死んで体の色が変わる魚なんているんだ!」

 

また一つ、知らなかった魚の知識に触れたホシノは関心したような声を漏らす。

 

「ふふっ。ホシノちゃんは本当に魚が好きなのね。さっき船長さんがお茶しに来たんだけど、『俺が生き物を見つける度に海の中でも分かりやすくリアクションをしてくれるから、ホシノちゃんはガイドし甲斐のあるお客さんだよ』って嬉しそうに言ってたわ」

 

「うん!1センチ位しかないウミウシとか、岩の隙間にいるイセエビとか、それどうやって見つけたの!?みたいな生き物も凄い勢いで見つけるから、私びっくりしちゃって。それに船の上で教えてくれる生き物の知識もどれも面白かったんだ!メモ帳か何か持ってくるべきだったよ~」

 

旅の思い出も兼ねて、船長や女将さんが教えてくれた知識を書き留めておけるものを持ってくるべきだった。ホシノがその事を残念がっていると

 

「お邪魔するぜ~」

 

と、玄関から船長がのそのそと入って来た。丸っこいその手には掌サイズの手帳と、「キヴォトスの海洋生物」というタイトルの小さな図鑑を持っている。

 

「あれ、船長どうしたの?忘れ物でもした?」

 

ホシノはキョトンとした顔で訊ねる。ダイビングを通じ、船長とも随分と砕けた調子で話せるようになっていた。

 

「お?ホシノちゃん先生から聞いてなかったのかい?6時半過ぎに一緒にログ付けするって」

 

「実は彼女、お昼ご飯食べてからずっとお昼寝してたんです。だから伝えることが出来なくって...」

 

「あぁそういうことかい。だったら仕方ねえな。海に潜るとどっと疲れるから」

 

そう言いながら、船長は二人と向かい合う形で食堂の椅子に座る。

 

「先生、ログ付けって何?」

 

「ダイビングをした後はね、その日の潜水時間や水深とか水の透明度とか、そこで出会った生物達をメモ帳とかに記録しておくの。特に潜水時間とか水深はその人のダイビングスキルの証明にもなるから、初心者はともかく継続的にダイビングをする人間なら必ずやっておかなくちゃいけないんだ。でも今回は『ホシノちゃんはかなりの海の生き物好きだから』って、船長が一緒にログ付けしようって提案してくれたの」

 

「そういうこったホシノちゃん。ログ付けは安全なダイビングをする為の作業ってだけじゃなくて、一緒に海に潜った仲間とその日の経験をもう一度共有出来る、ダイバー同士の交流って意味もあるんだ。だからホシノちゃんにも、今回のダイビングを形あるものとして持って帰って貰いたいと思ってね」

 

船長の気遣いに、ホシノはまたまた心躍らせる。

 

「ありがとう船長!私も丁度、船長に教えて貰ったことをメモしておけば良かったって思ってたんだ!でも、肝心のメモ帳が無くって...」

 

「それなら心配しなくて良いわ。ちょっと待っててね」

 

すると先生の横に座っていた女将さんが徐に立ち上がり、食堂の奥の方に消えていく。そして

 

「これ、前に泊まったお客さんが忘れていったものなの。一応こっちから連絡したんだけど『普通のメモ帳だから処分してもらって構わない』って言われて。でもまだ何も書かれていない新品同様のメモ帳だから捨てるのも忍びなくってね。だから良かったら使って!」

 

女将さんが持ってきたメモ帳。それは黄緑色の表紙の上に、剥かれたバナナの皮から顔を出す何とも言えない表情の鳥がデザインされたものだった。

 

先生の顔が、一瞬にして引き攣る。紛れもなくそれは、ホシノが過去に囚われ続けていた要因の一つである、「たのしいバナナとり」手帳だった。

 

「あ、えっと...」

 

女将さんの手にあるものを見て、先生は困惑の色を隠し切れていない。この手帳の元の持ち主は当然、ユメでは無い。しかしホシノにとってはこのちょっとシュールで可愛らしい手帳そのものが、先輩との悲惨な別れを思い出させるトラウマに他ならないのだ。だからといって、それを彼らに一から説明することなど...

 

「ありがとう女将さん。折角だから使わせてもらうね」

 

だがその時。自分の横から聞こえて来たその声に、先生は小さく息を飲む。困惑する自分とは対照的に、ホシノは至って冷静に、女将さんから手帳を受け取った。

 

何も言えなくなってしまった先生を横目に、ホシノは手帳を見つめる。バナナとりの右下にある、名前の記入欄。そこには自分が追い求めていたものとは異なり、元の持ち主の名は無い。

 

何気なくページをパラパラめくる。女将さんの言う通り、どのページも白紙で、筆跡すら全く見当たらない。本当に新品同様のまま置いていかれてしまったようだ。

 

「ホシノちゃん、大丈夫かい...?」

 

平静を装っていたつもりだが、それでも心の奥底から滲み出て来たそれを隠し切れなかったのだろう。何の変哲もないメモ帳をやたら思い詰めた顔で見つめるホシノに、船長はやや不思議そうに問いかける。

 

「え、あ、ご、ごめんね船長!おじさんまだ眠気が取り切れてないみたい。居眠りしちゃう前に早くログ付け始めちゃお~う!」

 

ホシノは少し強引に、笑って見せた。だがしかし、その提案で始まった、船長の語ってくれる海や魚の知識は、ホシノの頭にぼんやりとしか入って来なかった。それこそメモ帳が無ければ忘れてしまいそうな程に。

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