ホシノが先生と一緒にクジラに会いに行くお話   作:空を飛ぶジンベエザメ

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十一話 それは、空を飛ぶみたいに

その日の夜、ホシノはいつも通り、長い間眠れない時間を過ごした。こちらに背を向けて布団を被る先生の横で、ホシノは薄闇にぼんやりと浮かぶ天井の染みを見つめる。

 

(眠りに付けないのは、昼間に寝過ぎたから。海に潜った時のドキドキがまだ胸に残っているから。女将さんから貰ったあの手帳のせいじゃない...)

 

そんな事をグルグル考えているせいで余計に目が冴えてしまい、ホシノが初めて目を瞑れたのは窓から青い朝日が差し込み始めた時だった。そのお陰で、自分と同じように眠そうな先生に起こされ、昨日と同じように宿の食堂で朝食を済ませ、そして湿ったウエットスーツに着替えて波止場に集合するまで、ホシノはくすぐったい感覚がこびりついた眼を頻繁に擦っていた。

 

「おはようお二人さん!何だか二人共眠そうだけど、大丈夫かい?」

 

目をしぱしぱさせるホシノと先生に、船長は船の上から声をかける。

 

「あはは...。実は私、枕が変わると眠れないタイプでして...」

 

「おじさんはお昼寝し過ぎたせいかな~...」

 

そんな事を言いながら、やはり先生も眠れていなかったことを知り、ホシノは人知れず罪悪感を募らせる。自分が手帳を受け取って船長の言葉をメモしていた間の、チラチラとこちらを見ていた先生の表情を考えれば、生徒思いの彼女が寝付けなかった理由は枕のせいではないことなど自明だ。

 

「そいつはあんまり良くないな!寝不足だと耳が抜けにくくなっちまう。出航する前にこいつを噛んどくと良いぜ!」

 

ただ、そんな二人の事情など一切知らない船長は何の気なしに、ボートに乗り込んだ二人にミントのチューイングガムを渡した。

 

「顎を動かすと耳抜きがしやすくなるんだ。眠気覚ましにもなるぜ!」

 

「ありがとう船長」

 

「ありがとうございます」

 

ホシノは包み紙を開き、シート状のガムを口に放り込んだ。噛む度に鼻を抜けていくミントの爽快感が、眠気だけでなく、心に溜まっていた嫌なものを、ある程度誤魔化してくれる。

 

そして先生とホシノは口をもぐもぐさせながら縁に座り、船長の話を聞く。

 

「今日は昨日も言った通り、水中で泳ぐ練習をしていくぞ!ホシノちゃん、昨日教えた『中性浮力』ってのは覚えてるかい?」

 

「えっと、確か水中でヘリコプターみたいにホバリングすること、だっけ?」

 

「その通り!浮力を調整することでダイバーは浮きも沈みもしない状態を作り出すことが出来る。そうやって海の中を漂うのは本当に空を飛んでいるみたいな感覚で、他ではまず味わえない唯一の体験が出来るんだ。上手くなれば魚の群れに混じって一緒に泳ぐことだって出来るんだぜ」

 

その言葉に、ホシノの胸は更に軽くなる。あの美しい世界の中で、同じように美しい魚達と泳ぐことが出来る...。考えただけでワクワクが止まらない。

 

「そしたら出航する前に、浮力調整の仕方を教えよう。俺達が水中で浮力を操る方法は二つ。一つ目はジャケットにタンクから空気を送り込む方法だ」

 

船長は立ち上がると、既に準備を終えている自分の器材をホシノの目の前に置く。

 

「このジャケットは正式にはBCDって言って、タンクと接続することでタンク内の空気を中に取り込んで浮きの役割を果たしてくれるんだ」

 

「なるほど~。だから昨日、そのボタンを押したら沈んでいったんだね」

 

ホシノはBCDからぶら下がっている、二つのボタンが付いた太いホースを指さす。先生も船長も、昨日海に潜る時にはこのホースを握っていたからだ。

 

「そういうこった!ただこのBCDだけじゃ細かな調整は出来ない。そこで必要になるのが二つ目、ダイバー自身の肺を使う方法だ」

 

「え、肺...?」

 

「そう。ホシノちゃん、大体の魚は浮袋を持っているってのは知ってるかい?」

 

その問いに、ホシノは強く頷く。

 

「知ってるよ!魚はエラから取り込んだ空気で自分の浮袋を膨らませたり縮ませたりして泳ぐって...あ、肺を使うって、もしかしてそういうこと...?」

 

「察しがいいねぇ」と、船長は満足そうに自分の髭を撫でる。

 

「肺を使うってのは早い話、自分自身の呼吸で浮き沈みを操るってことだ。息を吸えば肺が膨らんで、吐けば縮む。BCDである程度の浮力を確保した後は肺の伸び縮みで細かな調整をしていくんだ」

 

「うへ~!?凄いね、本当に魚みたいにするんだ!でも、そんな上手く出来るかな...」

 

ホシノは昨日の海水がまだ乾ききっていない、じとっと湿ったウエットスーツに越しに自分の胸に手をやる。砂の上を這うのだって結構体力を使ったのに、そんなに上手く泳げるのだろうか...。

 

「最初は泳がずに浮かぶ練習をするから安心してくれ!それじゃ、出発するぜ!」

 

船長は器材を元に戻すと操舵室に入り、エンジンをかける。二日目のダイビング、スタートだ。

 

 

 

また数分程船に揺られて訪れたポイントは、昨日のポイントよりも島にずっと近く、それでいて白い砂がどこまでも広がっていた。

 

「綺麗...」

 

砂浜がそのまま海の中に閉じ込められたような光景に、先生は船の上から思わず声を漏らす。

 

「ここは見ての通り、砂地がずぅっと続いているポイントで、少し沖の方に行くと枝サンゴが一面に広がっている、個人的にイチオシな海だ!まずはこの下の砂地で浮力調整の練習をして、上手く泳げるようになったら沖に行って、サンゴの上を泳いでみよう。そしたら準備開始だ。海に入ったらまた錨の上に集合だ」

 

船長のその合図で、三人はそれぞれのBCDに肩を通しそこに空気を入れる。そしてマスクを装着し、順々に海に飛び込んで行く。

 

(気持ち良い...)

 

涼しい海に再び抱かれた時、まるで溜まっていた澱みが洗い流されるみたいに、ホシノは胸の奥が一気に軽くなるのを確かめた。このまま背後の海底に泳いでいきたい衝動を抑え、ホシノは海面に一度浮上すると先生と共に船首の先から伸びるロープへと泳いでいく。

 

「ホシノちゃん、今回は一人で潜ってみるかい?」

 

昨日と同じように先生が真っ先に潜行を始めた時、船長がそんな事を提案して来た。

 

「良いの...?」

 

「あぁ、ホシノちゃんなら出来るよ。やり方は簡単さ、息を吐いて肺の中の空気を抜きながら、BCDのホース先にある排気ボタンを押してBCDの中の空気も抜く。少し怖いかもしれないが沈んでいる間は力を抜いて、足ヒレを出来るだけ動かさないようにするんだ。それと耳抜きも忘れないようにな」

 

「分かったよ!やってみるね!」

 

ホシノは先生の真似をしてサムズアップした親指を下に向ける。ブーイングではなく、「これから潜行をします」という意味のハンドサインだ。そしてレギュレーターを咥え直し、右手でホースのボタンを、左手で自分の鼻を摘まみ、肺とBCD両方の空気を抜いていく。

 

(ゆっくりと深呼吸だよね...)

 

時折傍のロープに捕まりながらも、ホシノは船長に言われたように、身体の力を抜いて海底へと向かって行く。体を弄んで来る独特の浮遊感に抗うのではなく、敢えて身を任せるように。すると船長のサポートが無いにも関わらず、昨日よりもずっとスムーズに潜り切ることが出来た。錨から少し離れた場所に着底したホシノの周りに、船長と先生が同じように着底する。

 

 

 

『中性浮力やってみよう』

 

 

 

船長がマグネットのボードにそう書いてきたので、ホシノは早速、事前に教えて貰った浮力調整に挑戦してみることにした。まずホースの給気ボタンを二回軽く押す。ポンポンという音と共に、上半身が軽く締め付けられる感覚を確かめる。空気が入った証拠だ。

 

次に息を強く吸い、指先で軽く海底を押す。するとその勢いのまま全身がすいーっと浮かび上がった!海面に逆戻りしないよう、慌てて息を吐く。浮上のスピードが一気に落ちる。また息を吸って吐く。今度は軽く。体は中層に留まったまま、動かない。

 

(出来た...よね!?)

 

ホシノは海面から3メートル程の高さで浮遊を続けていた。呼吸に合わせて多少の浮き沈みはするものの、海面に引き戻されることも無ければ、海底に沈んでいくことも無い。完璧に近い中性浮力を、ホシノは取っていた。

 

 

 

『成功だよ!やっぱりホシノちゃんは上手だ!』

 

 

 

嬉しそうな顔で、眼下の船長がボードをかざす。その横でふわりと浮き上がった先生が、これまた嬉しそうな顔で自分の横に並んで来た。先生は自分の胸をトントンと指さした後にホシノから少し離れ、そしてその場でくるりんっ、と見事な宙返りをして見せた。昨日の着底時といいこれといい、先生はどうやら水中で宙返りするのが好きみたいだ。

 

(真似して...ってことかな?)

 

ホシノは先生に倣って、両足を小さく折り畳むと、頭を強く振り下ろしてみる。瞬間、全身が一気に反転し足ヒレが海面に向いたかと思うと、また直ぐに元通りになった。

 

(これ楽しい!!)

 

楽しくなったホシノは何度も宙返りしてみた。目の前に広がる、透き通った海面の青と海底の白が忙しなく入れ替わる。呼吸の泡を伴いながら、全身が勢いよく水を掻き分ける、心地良い感覚。昨日まで悪戦苦闘していた浮力に身体を預け、好きに動き回れることへの達成感。それらが胸の中を一気に満たし、残っていた暗い感情を、押し流していく。

 

流石に目が回って来たので回転を止めると、先生が目の前で掌を見せて来た。それをハイタッチの合図だと直ぐに理解したホシノは水の抵抗を受けながらも先生と手を合わす。

 

(やったよ先生!私、空を飛んでるみたい!!)

 

感情が高ぶるあまりに声が出かけたホシノは、口からズレたレギュレーターを慌てて元に戻す。その時―

 

 

 

 

ホゥーン...ホゥーン...ホゥーン...

 

 

 

何処からともなく、形容し難い音が響いて来た。驚いてピタリと動きを止めたホシノと先生の元に、慌てた様子の船長が泳いで来て、ボードを見せる。

 

 

 

『近くにクジラがいるみたい!こんな浅瀬でクジラの声が聴けるなんて滅多にないよ!!』

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