ホシノが先生と一緒にクジラに会いに行くお話   作:空を飛ぶジンベエザメ

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十七話 クジラの海

「おはようさん。二人共良く眠れたかい?」

 

船に乗り込んだ時、船長の体からほんの少しだけ酒の臭いがした。昨日の晩、ホシノが神様から貰って来たという大量のイセエビで宴会をしていた時の酒気がまだ残っているのだろう。

 

「あれ、タンクが無いよ船長?」

 

船に乗って直ぐ、ホシノはその違和感に気付いた。いつもなら船長がえっちらおっちら準備してくれているタンクやBCDが甲板に無く、あるのはシュノーケルと足ヒレだけだ。

 

「実を言うとな、今日はスキンダイブ、つまり素潜りで海に入るんだ」

 

「え、そうなの?」

 

「あぁ。クジラは基本的に常に泳いでるから、俺達の力じゃとても追い付けない。だからクジラと泳ぐ時は、クジラが驚かないギリギリまで船で近づいて、そこから海に入るんだ。それにクジラがいる海は流れも速くて底が見えない外海だから、今までみたいに長い間海に入り続けることも出来ない」

 

「そうなんだ...」

 

ホシノは大きな器材が無くなり、スッキリした甲板を眺めた。これから大好きなクジラに会える。ただそれはそれとして、もうタンクを背負って泳げないと考えたら、やっぱり名残惜しい。

 

港の中で素潜りの練習をした後、ホシノ達は最後のダイブへと出発した。今回は決まったポイントに向かうのではなく、海の何処かにいるクジラを探して、ひたすらに大海原を駆ける。船長は操舵室に篭もりっぱなし、先生も船酔いと戦って遠くをずっと眺めている為、ホシノはかなり長い間、退屈な沈黙に耐えなければならなかった。

 

そして島を離れてから30分程経った時、遂にその時が訪れる。

 

「居たぞ!潮吹きが見える!」

 

船長の叫び声と同時に船がスピードを落とした。キャビンから出て来た船長の指す先を双眼鏡で覗いてみる。すると船長の言う通り、海面から白い飛沫が上がっているのが見えた。

 

ホシノの心臓が高鳴る。あそこに、本物のクジラがいるんだ。

 

船はどんどんと速度を落とし、慎重にクジラに近づいていく。その間にホシノと先生は潜水の準備を急いで整える。錨を下ろせない為船長は船から離れることが出来ず、故に今回は二人だけのダイブになる。

 

「先生準備は良い!?」

 

「ばっちりだよ!行こう!」

 

船が止まるのとほぼ同じタイミングで、先生とホシノは海に飛び込んだ。眼下に広がるのは、果てしなく広がる群青色の世界。海底は全く見えず、当然サンゴも白い砂も沢山の熱帯魚も居ない、ただ青一色に染まった海。そんな海の上に小さな白波を立てながら、二人はクジラへと泳いでいく。

 

そしてとうとう、クジラの姿が見えて来た。海面付近で、巨大な白い身体が動いている。二人は逸る気持ちを抑え、その巨体が潜行を始めた少し後に潜行する。自分の力で浮力に抗わなければならない代わりに、今は重たいタンクも、胸を圧迫するBCDジャケットも無い。ホシノはそれこそクジラのようなしなやかさで、青の世界に溶け込んでいった。

 

(本物の、クジラだ...!こんなに大きなクジラが目の前にいるよ!)

 

船が海中で動いていると見紛う程の体。フジツボが付着した口。魚とは違い、全身と、胸から伸びる一対のヒレをゆっくりと優雅に動かし、海中を進む姿。全長数十メートルはあろうかという巨大なザトウクジラが、数メートル先を泳いでいた。

 

(すごい...すごい...すごい...!!)

 

興奮の余り、ホシノはそれしか言葉が思いつかない。クジラが全身をくねらせ、更に深くまで潜行を開始する。ホシノは胸の苦しさすら忘れ、それに続こうとする。しかしクジラが尾びれを大きく振った瞬間、凄まじい水圧がホシノと先生を襲い、二人は一瞬の内に海面まで押し戻されてしまった。

 

「ぷはぁ...!」

 

ホシノはシュノーケルを外し、大きく息を吸う。クジラに夢中になっていたせいで、肺の中の空気が僅かしか無かったことを忘れていた。このまま潜っていたら危なかっただろう。

 

「先生!私やったよ!クジラと一緒に泳いだんだ!」

 

ホシノは直ぐ近くに浮かぶ先生の胸に飛び込んだ。大好きなクジラと同じ海で泳げた。しかもそれを、同じ位大好きな先生と分かち合えた。こんなに幸せなことって、あるだろうか。

 

「やったねホシノ!本物のクジラ、どうだった?」

 

「すごく大きかったから少し怖かったけど、でもすごく綺麗で、神秘的だった。何だか不思議だね、あんなに大きな生き物が、私達と同じ世界にいるなんて,,,」

 

その時、また強い水圧が足元から込み上がって来た。マスクを海に浸けてみると、さっきのクジラがまた浮かび上がって来ているのが見えた。しかも今度は、以前海中で聞いた、神秘的なあの声を伴って。

 

「『一緒に泳ごう』って言ってるみたい。先生、もう一度潜ろう!」

 

クジラは海面に舞い戻ると、二人の直ぐ目の前で潮を吹いた!「ぶふぅっ!」という派手な音と共に、辺りに磯臭い呼気が降り注ぐ。何だか「一緒に泳ごう」というよりは「付いて来れるなら付いてきてごらん」と二人を挑発しているかのようだ。

 

クジラは潮を吹いた後、噴気孔のある頭だけを海面に出し、潜水艦のように海原を進む。二人は少し離れた場所で、それを追いかけた。

 

日光をベールみたいに纏う流線形の身体。ちゃぷんちゃぷんという波音に混じって時折奏でられる歌。身体の動きに伴ってこちらに押し寄せる水圧。目、耳、身体。全身で感じられるそれら全てが力強く、神秘的で、そしてこの島で見た何よりも、美しかった。

 

暫く海面を泳いでいたクジラだったが、やがて巨大な尾びれを振り上げ、再び海の中に潜り始めた。息を整え、ホシノはそれを追いかける。しかし素潜りに慣れていないこともあり、ホシノは数メートル潜ったところで限界が来て、海面に戻っていった。反対にクジラは深海へとその身体をどんどんと滑らせ、やがて完全に見えなくなってしまった。どうやら一緒に泳げるのは、ここまでのようだ。

 

海面に顔を出した時、直ぐ近くに船長が船を寄越してくれた。休憩の為に二人は一度船に戻る。

 

「おかえりホシノちゃん。ホエールスイムはどうだった...いや、聞くまでもねえみたいだな」

 

胸に手を当て海を見つめるホシノの表情を見て、船長は満足げに微笑む。こんな顔をしてくれるお客さんは、島でダイビングショップの経営を開始して以来、初めてだ。

 

「ありがとう船長、先生。こんな気持ち、生まれて初めてだよ...」

 

「そこまで言ってもらえるとは光栄の極みだよ...って見ろホシノちゃん!あそこでクジラがジャンプしてるぞ!」

 

「えっ!?どこ!?」

 

ホシノは船長が指した先を慌てて見た。

 

「おぉ!あの子クジラ、噂のドジクジラだ!あいつ、遂に跳べるようになったか!」

 

先程よりもずっと小さなクジラが、船の少し先で何度もジャンプしていた。子供とはいえ、海面に顔を出しては派手な水飛沫を立てるのは、かなり迫力のある光景だ。ただ、ドキュメンタリー番組とかで良く見るそれとは違い、そのクジラはジャンプの高度が全く足りていない上、時折空中で体勢を崩し、ヒレを不格好にバタバタさせながら着水している。どうやらドジで要領が悪い、という噂は本当のようだ。

 

「頑張れ~!おじさんが応援してるよ~!」

 

それでもめげずにジャンプを繰り返す子クジラに、ホシノは船の上から激励を飛ばす。

 

「あいつ、今日は頑張るな~!いつもは直ぐにへばっちまうのに」

 

「頑張れ~!」

 

ホシノに続き、先生も大声で子クジラに声をかける。そしてそんな二人の声が届いたのか、数十回目の挑戦にして、子クジラは遂に全身を海面から出す事に成功した!更に身体を捻りながら潮を吹く。噴き出した蒸気が日光に当たり、虹を生み出した。

 

「お~!お見事...」

 

 

 

その時、ホシノの耳から音が消えた。波の音。先生と船長の歓声。自分の呼吸の音。聞こえて当たり前のはずのものが全て突然に、聞こえなくなった。

 

更に子クジラが海に戻るのに合わせ、吹いた呼気の形が不自然に変わった。淡い虹を伴い、白い蒸気が、釣り針のような不思議な弧を描いた。

 

あの形は、良く知っている。かつて自分の目の前でいつも揺らめいていた、優しい水色の髪の毛―

 

 

 

『ホシノちゃん。久しぶりだね』

 

 

 

聞こえなくなった耳の代わりに、温かな声が確かに、頭の中に直接響いて来た。

 

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