ホシノが先生と一緒にクジラに会いに行くお話 作:空を飛ぶジンベエザメ
「ほ、ホシノ起きて...。そろそろ着くよ...うっ、もう限界...」
不意に肩を揺すられ、ホシノは眠気眼を瞬きながらゆっくりと顔を上げた。船に乗って直ぐ眠ってしまったので、3時間近く座席に座っていたことになる。そのお陰で腰と背中が石になったかのように重く、そして痛い。以前先生の助言を無視して体育のマットで昼寝をしたせいで腰が悲鳴を上げたのを思い出す。
「んにゃ...おはよう先生...。ごめんだけど、あと五分だけ寝させて...ってどうしたの先生!?」
背部の痛みを感じつつもホシノは再び座席に身体を預けようとする。しかし直後、自分の隣に座る先生が真っ青な顔で俯いているのを見て、一瞬にして眠気が吹き飛んだ。
まさか自分が眠っている間に先生の身に何か起きたのか。そうとも知らずに自分は能天気に眠りこけていたというのか...
そんな罪悪感が胸にこんこんと湧き出すのを覚えながら、ホシノは血相を変え、先生の肩に手を置く。
「先生!?先生大丈夫!?」
「だ、大丈夫よ...。でも、そんなに強く揺すらないでもらえると、助かるな...?油断したら先生、出ちゃいそうで...」
「出るって何が!?まさか、吐血...」
「いや、血じゃなくて夜に食べたカップ麺が...あ、ヤバい...」
先生は青い顔のまま強く口を抑える。その仕草と、夜に食べたカップ麺という言葉。何かを察したホシノは先生の肩から手を放すと同時に、冷静さを取り戻した口調でこう尋ねた。
「も、もしかして先生、船酔いしてる...?」
先生は弱々しく頷く。そしてその直後
「ゴメンもう無理...!ホシノ、悪いけど先にデッキ出てて...!」
と物凄い早口でそう伝えると、これまた物凄い速さで船尾にあるトイレに駆け込んで行った。普段の先生からは想像もつかない俊敏さだ。呆気に取られながら、勢いよくトイレのドアを閉めた先生を見ていたホシノ。船が動く前に眠っていた為、どれ程ひどい揺れだったのかは分からないが、周りの乗客を見たところ先生のように青い顔をしていたり、吐き気と懸命に戦っているような者は一人もいない。
(先生、乗り物弱いんだ...。てかそんなに船酔いするのにダイビングなんてやって、大丈夫なのかな...?)
この先のバカンスに一抹の不安を覚えつつもホシノはぼんやりと窓の外を見た。見渡す限りの海原の先には緑に囲まれた小島が点々と浮かんでいる。先生から聞いた話によると、これから向かう離島は窓から見えるような小島が帯状に連なっている諸島の一つらしい。
ホシノは先生が入ったトイレの近くにある荷物置き場から自分の小さなスーツケースを取り出し、他の乗客と共にデッキへと向かう。
「うわはぁ...!何これ...!」
デッキに出た瞬間飛び込んで来た景色に、ホシノは思わず歓声を上げた。
速度を落とし島の小さな港を進む高速船。港を満たすその海は、澄んだエメラルドグリーン一色に染まっていたのだ。昨日水槽越しに見たあの色と同じ、吸い込まれそうな程に透明な緑。しかも今回はそんな海が作り出す、少し磯臭い潮風や、ちゃぷんちゃぷんという波の音も一緒だ。ありのままの自然が生み出す心地良い空間に包まれ、ホシノは胸に残っていた罪悪感が溶けて無くなっていくのを感じていた。
そして船は遂に数隻の漁船が並ぶ波止場へと停泊する。しかし先生が出て来る気配はまだ無い。仕方なくホシノは先生を船に残したままデッキに接続されたタラップを使い、島に上陸した。
生まれて初めて訪れる、離島。波止場と繋がっている道路の先にはこじんまりした家屋が並び、島の沿線に沿って集落が形成されている。そして家屋と道路の前にあるのは、島の向こう側まで果てしなく続く、白い砂浜。海からやってくるさざ波がその砂浜を優しく抱きしめるように、寄せては去っていく。
「きれい...」
ホシノは三度呟くと波止場から離れ、砂浜に足を踏み入れた。スニーカーが、濡れた砂に僅かに沈み込む。乾燥したアビドスの砂ではまず味わえない感触だ。更に周りを見渡すと、砂に混じって、白い石のようなものが幾つも転がっているのが分かった。
「これ、サンゴの死骸だ!」
ホシノは猫のように一番近くに落ちていた死骸に飛びつき、指でそれを拾い上げる。
周囲の海にサンゴ礁がある南の島では死んで骨格だけになったサンゴの欠片が波に乗って砂浜に流れ着く。その情報自体は以前から知っていたが、実際に本物を見るのは初めてだった。拾ったサンゴを朝日にかざすと、付着した砂が陽の光を反射してキラキラとサンゴを彩る。自然が生み出した、小さな宝石だ。
「えへへ、可愛い。お土産に持って帰ろかな」
ホシノはサンゴに息を吹きかけて砂を吹き飛ばすと、肩にかけていたクジラのポシェットにそっとしまう。そしてその後も砂浜をぶらぶらしていると波止場の方から先生と、三毛猫の姿をした住民がこちらに歩いてくるのを確かめた。
「ホシノ、お待たせ。早速楽しんでるみたいね」
自分も砂浜に降り立った先生はホシノの横で胸いっぱいに息を吸う。出すものを出してすっきりしたのか、顔色が随分と良くなっている。
「はぁ~!やっぱり私、海の近くの空気が好きだわ!」
「はっはっは!シャーレの先生程の人にそう言われるとは、一人の島民として鼻が高いね!」
先生が気持ちよさそうに深呼吸をしていると、彼女の横に立つ住民が自分の髭を撫でながら豪快に笑う。
「紹介するわね、ホシノ。この人はこの島でダイビングショップを営んでいる船長さんよ」
「ホシノちゃん、だっけか?これから一週間よろしくな!」
船長はピンクの肉球が付いた丸っこい手をホシノに差し出す。
「えっ...と。よろしくお願いします」
ホシノはやや戸惑いながらその手を取り、握手を交わす。今まで先生を除き、ろくでもない大人とばかり関わって来たホシノにとって、船長の、損得勘定なんて一切存在しないようなその態度は、少し慣れないものだった。
「いやー!それにしてもシャーレの先生だけじゃなくて、こんな若い生徒さんがうちの島に来てくれるなんて夢にも思ってなかったよ!それにさっき仲間から聞いたんだが、先生達以外にも若い女の子4人組が船から降りて来たそうじゃないか!?観光地化に乗り出した甲斐があるってもんだ!」
船長は白い歯を見せながら「がっはっは!」と更に豪快に笑う。悪い人では決してないだろうが、ホシノにとっては今まであまり関わって来なかった類の大人だ。ぱっと見の雰囲気は柴大将と似ているが、彼と比べれば何というか、言葉は悪いがガサツな感じだ。
「おっと、無駄話をしてちゃいけねえな!早速俺の船に...と言いたいところだが、お二人とも長旅でお疲れだろう。既に荷物はこっちで運んであるから、お二人はまず宿に向かってくれ!ホシノちゃんへのレクチャーもあるから、今日のダイブは軽めで行く予定だ。準備が出来たら宿まで迎えに行くから、それまでゆっくり休んでいてくれ!」
「ありがとうございます!それじゃ行こっか!」
「うん!」
そこでホシノは船長と別れ、先生の案内の下、これからお世話になる宿へと向かった。
先生とホシノが泊まる宿。それは事前に宿だと分かっていなければ他の民家と全く見分けがつかない、看板すら立っていない民宿だった。だがそんな商売っ気の欠片も無い雰囲気とは異なり、スズメの姿をした宿の女将さんはとてもアットホームな雰囲気の人で、休憩の為に出してくれた冷たい麦茶を飲みながら軒先に座り、柔和な彼女と談笑しているだけで、旅の疲れがほぐれていくようだった。
「へ~。あの船長さん、そんなに凄い人なんだ~」
「そうなの。あの人が島の周りを徹底的に調査して、安全に潜水出来るポイントや、クジラとかの生き物に出会える場所を洗い出してくれたお陰で、私達はそれを観光資源にすることが出来たのよ。まだまだ観光地と呼べるには盛り上がりが欠けるけど、いつかあの高速船に人がいっぱいになって降りて来る位に、この島が活気あふれる場所になったらいいわね~」
「きっと叶いますよ!こんなに綺麗な海が見られる場所、人気にならないはずありません!」
「ありがとうね先生~。あ、そういえばホシノちゃん。貴女のスーツケースにクジラさんのストラップが付いていたけど、もしかしてホシノちゃん、クジラが好きだったりするのかしら?」
「うへへ~。女将さんご名答~。私、海の生き物の中でもクジラが一番好きなんだ~」
ホシノはいつも通りの眠そうな声で答える。これまでの経験から初対面の人は無意識に警戒してしまうホシノだったが、女将さんが自分の素を出しても問題ない人物だと判断した瞬間、かしこまった態度を崩すのは実に早かった。
「そうなのね!だったらホシノちゃん、滞在中にあの子に会えたら良いわね~」
「あの子...?」
「あら、船長さんから聞いていなかったかしら?」と、女将さんは麦茶を置いていたお盆を自分の胸に抱く。
「実は今この海域にいるクジラの家族の中に、ちょっと変わった親子がいるの。子供のクジラって、生まれて直ぐにお母さんから泳ぎ方を教わるんだけどね、その親子の子供が、何というか言葉が悪いんだけど、凄くドジで要領の悪い子でね。傍目から見れば凄く一生懸命に泳いでいるのは分かるんだけど、息継ぎをしようとする度にお母さんのお腹に激突したり、泳ぐのに夢中になるせいで潜水中のお母さんの尾びれに気付かずひっぱたかれたりして、それは散々なのよ。ただお母さんクジラもそんな我が子に呆れつつも、それでも熱心に教えてるのが伝わって来てね、『あの子これから独り立ち出来るのかな』ってちょっと心配になりつつも凄くほっこりするのよ」
「あははっ!何それ~!」
手の中のコップに入った氷をカランッと鳴らしながら、ホシノはけたけた笑う。その時、玄関のほうから
「う~い、俺だ!先生とホシノちゃんはいるかい!?」
という船長の声が聞こえて来た。いよいよ、水中世界に旅立つ時間のようだ。