ホシノが先生と一緒にクジラに会いに行くお話 作:空を飛ぶジンベエザメ
水中で体を丸めて足ヒレを外した二人はそれを船上の船長に渡し、大量の海水を滴らせながら船に上がる。浮力の助けが無くなったことで、ホシノは地に足を着けて立つ自分の身体がいつも以上に重く感じた。
(早く海に戻りたいな...)
そんな思いを募らせながら、ホシノは三人分の器材のチェックをしている船長をぼんやりと眺めていた。ボンベのコックを捻ったりジャケットから伸びるホースを弄る度に鳴る、空気が吹き出す音が小気味いい。
「よし、器材は問題なしだ。それじゃホシノちゃん、こいつを腰に巻いてくれ」
船長は操舵室の中からブロックのような灰色の金属が通された大きなベルトを取り出し、ホシノに手渡す。
「船長、これはなに?」
「そいつは鉛の重りだ。人の身体ってのは水に浮くように出来てるからな、ダイビング中はそいつを付けて無いとちょっと上向きに泳いだだけでフワーッと海面に逆戻りだ」
「成程ねぇ」
ホシノは二つの重りが通されたベルトを軽々しく腰に回し、素早くバックルを固定した。重さは2kg程だろうか、ショットガンや防弾の盾を常日頃装備している彼女にとって、この程度の重量はどうってことは無い。
「お、流石だね!ボンベも一人で背負ってみるかい?ホシノちゃんの装備は一番手前にある、一番小さいやつだよ。ボンベは20kg近くあるから、周りに注意してやってくれよ!」
「分かったよ~」
ホシノは板に固定されたボンベ付ジャケットをひょいと起き上がらせると、まるでリュックサックを背負うような軽快さでそれを身に着けた。その余りの手際の良さに、船長は細い目をぱちくりさせる。
「おぉ、大したもんだ...!それにホシノちゃん、ボンベを背負ったらやたら貫禄が出たね...!初めて海に潜る人の佇まいじゃないよ!」
「うへ~。それは言い過ぎだよ船長~」
しかし船長の言う通り、全身を黒いウエットスーツに包み、その上から無機質な複数のホースが伸びる重厚な器材を背負ったホシノは、以前カイザーやヒナ相手に大立ち回りをして見せた際に放っていた雰囲気と似たものを呈していた。もっともその時と大きく異なるのは、それを身に着けるホシノの表情に期待と喜びが満ち溢れていることだろう。
ホシノに続いて先生と船長も手早くボンベを背負うと、三人は潜水前のブリーフィングを始める。水中では声でのコミュニケーションが取れなくなる為、事前に注意すべきポイント等を共有しておく必要があるのだ。
「それじゃブリーフィングを始めよう。これから潜るポイントは流れも穏やかで、水深も一番深くて8メートル位しかない、初心者にはぴったりな海だ。海に入ったら水面を移動して、船首から伸びている錨まで泳いで、そこから潜水しておくぞ。ホシノちゃんは初めてのダイビングだから最初の潜行は俺が手助けしよう。先生は一人でも潜れ...大丈夫かい先生?随分と顔が青いが...」
高速船でも酷い船酔いを起こしていたのだ。小さなダイビングボートに揺られ、先生は早くもグロッキー状態になっていた。
「すみません、私船に弱くて...。えっと、潜行は一人で大丈夫です...。それに海に入っちゃえば酔いも収まるので...」
「そ、そうかい...。それじゃ急いで入ろうか。ホシノちゃん、ちょいと失礼するぜ」
船長はホシノが身に着けるジャケットからぶら下がる太いホースを手に取ると、先端のボタンを押し込む。するとプシューッ!という音と共にジャケットが一気に膨らみ、ホシノの細い体を更に圧迫する。
「うへ...何これ苦しい...」
「ちょっとだけ我慢してくれ。今の重装備じゃ、そうやってジャケットの中に空気を入れておかないと直ぐに沈んじまうからな。それじゃ先生が吐く前にエントリーだ!」
三人は足ヒレとマスクを装着し、シュノーケルの代わりに今度はレギュレーターを咥え、次々と海に飛び込む。
(動きにくいし呼吸にしくい...)
少し先を泳ぐ先生の足ヒレを追いかけながら、ホシノは上半身を縛り付けるジャケットの圧迫感と、マスクで鼻が覆われているせいで口でしか呼吸が出来ない事に強い違和感を覚えていた。それを紛らわせる為に、ホシノは眼下の美しい世界と、呼吸の度にコポコポと頬を撫でる、レギュレーターから出て来る泡の感触に集中する。
船に沿うように泳いで、三人は海底に沈む錨に繋がれたロープの元に辿り着く。
「先生、悪いが先に入って錨の足元で待っていてくれ」
猫の顔でも装着出来る、レギュレーターと一体になったフルフェイスタイプのマスクを外した船長がそう告げた直後、先生は右の親指と人差し指で丸を作ると、先程船長が触ったボタンを押し込む。すると空気が抜ける音と共に、先生の身体がどんどんと海に沈んでいく。まるで見えない何かに足を掴まれ、海底に引きずり込まれているかのようだ。普段通りの呼吸が出来ないせいで、ホシノはその様が少し恐ろしく思えた。すると
「ホシノちゃん、少し呼吸が荒いよ。ゆっくり、のんびり、深呼吸だ」
船長がそう言われ、ホシノは海底を覗いたままの状態で、ひたすらにゆっくりと呼吸をする。
息を吸って、吐く。呼吸に合わせて胸が上下する感覚に集中する。そうしている内に息を吐き出す度、心の奥から不思議と安心感が溢れ出して来た。口だけで息をするというのも、思ったより心地良いものだ、そう思える程に。
「良い感じだ。それじゃ、ホシノちゃんも潜行開始だ...っといけねぇ!一番大切な事を伝え忘れてたぜ!ホシノちゃん、水ってのは深く潜れば潜る程、水圧が強くなる。そして人の体の中でその影響を一番強く受けるのが、耳だ」
船長は波に揺られながら、ピンと立った自分の耳を指す。
「何の対策もしないで深い海に潜ると流れ込んで来た水圧で鼓膜が圧迫されて大変な事になる。だから潜っている間は耳抜きっていうのが重要だ。やり方はマスクの上から鼻をつまんで、息を出す。やってごらん、耳が詰まるような感じがすれば成功だ」
ホシノは言われた通りに鼻を摘まむと、鼻を噛むみたいに力を入れた。すると耳が内側から押されるような感覚と共に、パツッ、という音が響く。
「船長、出来たよ!」
「よし、問題なさそうだな。海に入っている間は俺が傍に居るから安心してくれ。それと底に着いたら、ホシノちゃんは基本的に海底を這うみたいに移動してくれ。初心者にいきなり泳げっていうのは、ちょいと難しいからな」
「うん!」
「じゃ、いくぜ!」
船長は自分とホシノの空気を抜く。身体が海に沈んでいく。見上げると、ついさっきまで浮かんでいた海面がもう随分と遠くにある。
(うわ、バランス取れない...!)
普通に海を泳ぐのとは全く異なる感覚に、ホシノは船長が「海底を移動しろ」と告げた意味を直ぐに理解した。油断していたら身体がどの方向を向くか全く予想が付かない。それに対する不安感から不必要に足ヒレを動かすせいで余計にバランスを崩してしまう。
船長の手助けで何とか錨の傍に着底したホシノ。
(これが、海の中...)
美しい白い地面に手をつくとその衝撃で砂が煙のように舞い上がる。少し視線を上げると、目の前には高さ2メートル程の大きなサンゴの岩。海面から差し込む光で、サンゴと魚達が柔らかい光を湛えている。
水族館のサンゴ礁館で見た景色が360度、そこには広がっていた。互いの世界を隔てるガラスの壁も無ければ、がやがやとした騒音も聞こえない、自分だけの、透明な南の海の景色。ホシノは浮力に身を任せながらすいっと上半身を持ち上げる。
(凄い...私ホントに、あの中にいるんだ...)
上下左右、何処を見ても、大好きな魚しか見えない。背中に背負うタンクに満たされた空気が無くなるまで、彼らと同じ世界を生きることが出来る...吐き出す泡の代わりに温かい充足感が、ホシノの胸を満たし始める。
トントンと、不意に肩を叩かれる。振り返ると自分の直ぐ斜め後ろに先生が浮かんでいた。先生は長い髪をひらひらさせながら水中で宙返りをすると、その勢いのままホシノの横にふんわりと着底した。先程のグロッキー状態は何処へやら、水を得た魚とはこの事だ、と言わんばかりの身のこなしだ。
そんな二人の前に船長が現れ、沖のほうを指さす。「こちらに進むぞ」のハンドサインだ。それに従い、先生とホシノはのそのそとカエルのように海底をゆっくり進む。直ぐ頭上には船長、そして真横には先生。慣れない海中では心強い布陣だが、自分のせいで満足に動くことの出来ない先生に、ホシノは若干の罪悪感を覚える。
その時ホシノの目の前に、黄色とオレンジが混じったような派手な体色の魚が泳いで来た。人に慣れているのか、ただ単に警戒心が薄いだけなのか、その魚はホシノ達の事などお構いなしと言わんばかりに、目の前で砂をモソモソと咀嚼し始める。そしてその鯉のような口から二本の髭がひらひらと覗いた瞬間、ホシノの脳に電気が走った。
(これオジサンだ!!)
そう、ホシノの目の前に来た魚は口元から生える髭のせいで「オジサン」の俗称を持った、ヒメジという種類の魚だった。以前水族館でこれと同じものを見つけ、そこでオジサンの名を知った時、人目も憚らずケタケタと大笑いしたのを、良く覚えている。
(オジサンが目の前にいるよ!それに水族館のやつよりもずっと大きい...!)
すっかりオジサンに夢中になってしまったおじさんもといホシノは、船長がマグネットのシートで書いてくれた「アカヒメジ」という説明書きに全く気付かず、沖のほうに泳ぎ去っていくまでその姿をずっと見守っていた。
それからもホシノは底を這いながら、海中世界を楽しんだ。カクレクマノミやナンヨウハギと言った、図鑑に載っているような有名な魚から、船長でなければまず見つけられないような、サンゴの先端でのんびりやっている小さな小さなウミウシまで、実に多様な生物に触れ、ホシノの初ダイブは無事に終了した。