新・光神話パルテナの鏡〜雷霆の歌姫〜   作:織姫ミグル

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第10章

 

 

女神が小さく小首を傾げながら優しく微笑むと、その膝の裏まで届く鮮やかな緑の髪がサラリと揺れ、白き衣の隙間から微かな光の粒子が零れ落ちた。

 

まさに天上の存在、そう呼ぶに相応しい見た目。

 

 

「ほぇ〜·······」

 

 

響は、そんな女性を前にして言葉を失っていた。

 

その見た目に驚いたというのもあるが、一番の原因はそんな人から自分の名前を呼ばれたことだろう。

 

初対面のはずの天上の存在から自分の名を、さらには自身が今回の件に巻き込まれる原因ともなっているであろう、胸にある『神々の遺産』の正体を正確に見抜かれたという衝撃もあった。

 

そもそも立花響は、聖遺物というものに関する事件に幾度も巻き込まれている。所属する組織がそういうものを専門に扱う仕事だからというのもあるが、だとしても今回ばかりはどうも理解が追いつかない。

 

次元の壁を越えた天の主を前にして、思考の全てが透き通るガラスのように見透かされている感覚を拭えぬまま、彼女は目の前にいる女性を凝視した。

 

だが何よりその美しい姿。

 

彼女はまさしくファンタジー系のRPGなんかに出てくるような、超重要人物らしい風貌をしている。

 

確か、パルテナ様と呼ばれていた。

 

年齢はおそらく二◯歳前後か。肌も髪も綺麗で、世間一般では結構美少女と言われる部類である立花響でも、そのあまりの息を呑むほど美しい姿に、しばらくの間ため息をついて見惚れてしまった。

 

 

「どうかしましたか? 立花響さん?」

 

 

空間そのものを優しく震わせるようなその響き。

 

我に返った響は、跳ね上がるようにして姿勢を正した。

 

 

「·······へ!? あ!! ぜ、全然!! な、なんでもないです!! 大丈夫です!!」

 

 

大声を張り上げて自らの両拳をブンブンと振り回す少女の様子に、パルテナは手にした杖の先端を床面へと軽く突き立て、困ったように微笑んだ。

 

コツン、という硬質な音が響くと同時に、周囲の光の粒子が収束し、響の身体の構造を分子レベルでスキャンしていくかのような細かい波動が通り抜ける。

 

 

「不思議に思うのも無理はありませんね。ですが、神々や英雄達が残した遺物·······貴女方の言う『聖遺物』のエネルギーの波形は、天界から見れば非常に目立つ雑音のようなものなのです。特に、貴女の胸にあるその欠片は、他とは異なる波動を持っています」

 

 

女神の言葉はそれっぽい理屈を並べてはいるものの、実際のところ彼女は仕事の合間に千里眼の泉を覗き込んで、現代の地上界の様子を趣味感覚で観察していただけに過ぎない。

 

つい最近も、今流行りのトップアーティストである風鳴翼のライブ映像にすっかりハマり、化学発光の不思議な棒を頭の上で縦横に振りながら鼻歌を交じりに舞い踊っていたところで、全能の神からの突然の怒号に腰を抜かして泉へ盛大にダイブしたばかりであった。

 

その際に収集していた現世の情報とガングニールの波形が合致したからこそ、彼女は最初から全てを把握していたのである。

 

 

「貴女のことはなんでも知っていますよ、立花響さん」

 

「え?」

 

 

と、パルテナは唐突にそんなことを言うと、

 

 

「立花響、一七歳。誕生日は九月一三日で、血液型はO型。趣味は人助けで好きなものはごはん&ごはん。あとは·······“彼氏いない歴は年齢と同じ”、と」

 

「えぇ!?」

 

「身長は一五七センチ、そして体重は─────」

 

「うわぁぁぁああああああああああ!!??? わわぁぁぁアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!?????」

 

 

大絶叫。

 

大理石の円柱が整然と並ぶ神殿の構造は音波の拡散を極限まで抑制し、中央へと収束させる特殊な反響特性を備えていた。そのため、少女の喉から放たれた最大音量の悲鳴は壁面を構成する乳白色の石材に衝突するたびに増幅され、鼓膜を激しく震わせる音圧の塊となって空間を狂わせるように駆け巡っていく。

 

あまりの精神攻撃により、立花響の自律神経は一瞬にして過剰な興奮状態へと陥っていた。

 

心臓の拍動は急激に加速し、急激に上昇した血圧によって顔面の毛細血管が一斉に拡張を始める。先の戦闘で完全には取れていなかったのか、少々汚れがついた白い肌が、瞬く間に茹で上がった甲殻類を思わせる鮮やかな紅色へと染まっていく。

 

プライバシーの侵害という、神でも決して許してはいけない禁忌。

 

人生におけるあらゆる記録。

 

それこそ現世の役所や学校の指導要録にさえ記載されていない秘匿領域の数値が、初対面の、それもファンタジー世界から抜け出てきたような美女の口から、澱みのない滑らかな口調で読み上げられたのだ。

 

その事実が齎らす困惑は、ガングニールの装者として数々の修羅場を潜り抜けてきた彼女の許容量を遥か彼方へと置き去りにして破綻させていた。

 

あまりの動揺によって脳内がパニックを引き起こした結果、防衛本能の暴走と共に理性が弾け飛ぶ。

 

 

「ちょっ!? 急に何言い出すんですかパルテナ様!!」

 

「うふふ、ごめんなさいね。ちょっと神としての力を見せてあげたくて」

 

「それにしたってもっと他にやり方あるでしょ!?」

 

 

予想外の暴露にピットはようやく脳震盪による機能低下から回復した頭を押さえて、主へと不満の声を向けた。

 

せっかく目を覚ました少女を前にして、まず最初に見せつけたのが神としての威厳ではなく、ただのプライバシーの侵害という最悪の悪ふざけであったことに困惑を禁じ得ない。

 

 

「少し大雑把すぎましたね。ですが、これで私が女神ではあることがお分かりいただけたかと思います」

 

「は、はい·······」

 

 

衣服の裾を上品に揺らしながら悪びれもせずに微笑んで見せる女神の態度に、響は未だに荒い息を整えていた。

 

ガングニールの適合者として数々の異端技術の戦場を生き抜いてきた彼女であっても、この天上の主が発揮する規格外の能力の前には、自らの内面全てが丸裸にされているような言い知れぬ気恥ずかしさを拭えない。

 

パルテナはそんな少女の様子をじっと観察しながら、響の制服のあちこちに、先の過酷な戦闘によって付着した汚れや微細な瓦礫の粉塵が僅かに残っていることに目を留めた。

 

 

「それはそうと響さん。貴女の着ているその制服、まだ少し汚れてしまっていますね。せっかく天界へお越しいただいたのですから、私からのお詫びのしるしとして綺麗にして差し上げましょう。水いらずの洗濯·······名付けて『洗濯の奇跡』です」

 

「えっ? 洗濯の、奇跡········?」

 

 

響がその単語の意味に首を傾げるよりも早く、パルテナは手に持っていた杖を掲げ、その先端を響の胸元に向けてゆったりと静止させた。

 

この天界における『洗濯』とは、地上界の化学洗剤や液体の対流によって有機物の不純物を洗い流す摩擦運動などではない。対象に付着した『汚れ』という概念そのものを指定し、その場から『抹消』するという、一種の事象の書き換えであった。液体という媒体を一切介さず、繊維の隙間に絡みついた油分や炭素の結合だけをその場から綺麗に消し去るための加護。

 

感覚的には黴菌を殺す白血球のようなもの。

 

しかし。

 

このあらゆる奇跡を使いこなす女神が発揮する奇跡の出力調整は、大雑把という他なかった。

 

パルテナの持つ杖の頭部から眩いばかりの純白の粒子が放射された瞬間、響の衣服に付着していた頑固な黒ずみが一瞬にして消失していく。

 

それと同時に。

 

奇跡の加護が細部まで行き届いていなかったのか、汚れを形成する物質だけでなく、制(・)服(・)を(・)形(・)作(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)ポ(・)リ(・)エ(・)ス(・)テ(・)ル(・)や(・)綿(・)の(・)繊(・)維(・)の(・)存(・)在(・)ま(・)で(・)が(・)強(・)引(・)に(・)消(・)え(・)始(・)め(・)る(・)。

 

それはもはや、衣(・)服(・)そ(・)の(・)も(・)の(・)が(・)こ(・)の(・)世(・)か(・)ら(・)消(・)滅(・)し(・)か(・)け(・)て(・)い(・)る(・)状(・)態(・)に(・)等(・)し(・)か(・)っ(・)た(・)。

 

白い光が布地を透過していくごとに衣服の境界線が微かに透き通り、磨き抜かれた白大理石の彫刻のような響の肌が、

 

 

「うわわっ!? ちょ!? 服が!? 服が消えかけてますってッ!!!!!」

 

「パ、パルテナ様!? やりすぎ!! やりすぎですッ!! 汚れどころか服まで消してどうするんですかッ!?」

 

「あ、ごめんなさい。この奇跡を人間に使うのは久しぶりで」

 

 

響が慌てて自らの身体を両腕で隠しながら飛び退くと、パルテナは慌てる風もなく指先をパチンと弾き、奇跡の出力を低下させた。

 

空間の歪みが収縮し、消滅の一歩手前で辛うじて存在を繋ぎ止められた制服は、何事もなかったかのように元の状態へと戻り、汚れだけが綺麗に払拭された新品同様の仕上がりとなって響の身を包み直す。

 

ピットは咄嗟に両手で目を塞いだが、響はもしかしたら見られたかもしれないという疑念の目を彼に向けている。その年相応の少年少女の間で発生した言い知れぬ不器用な気まずさは、神聖な大広間の空気をどこか妙に俗っぽい温度へと引き摺り下ろしていた。

 

衣服が消えかけるという不測の事態に陥ったとはいえ、か弱い乙女の防衛本能として響の視線には未だに『本当に一ミリも覗いていないか』を審議するような、じっとりとした圧が混ざり合っている。

 

 

「·········ねぇピット君。もしかして·········見た?」

 

「み、見てないですよ!! これでもボクはパルテナ様に忠誠を誓う清らかな天使なんですから、そんな破廉恥な真似をするわけがないでしょう!?」

 

 

などと言うものの、ピットの頬は先と変わらず林檎を思わせる鮮やかな紅色に染まっている。

 

耳の裏まで熱が回っているのが誰の目にも明らかであり、その必死すぎる弁明が却って室内の気まずさを増大させていく。頭のアホ毛を落ち着かなさそうに揺らしながら少年は自らの背にある白い羽をバタつかせ、これ以上の追及を逃れるように声を荒らげた。

 

 

「そ、それよりもパルテナ様!! 彼女の身だしなみも整ったところなんですから、そろそろ状況の説明をした方がよろしいのでは?」

 

「それもそうですね」

 

 

ピットが助けを求めるように視線を送ると、そんな二人の初々しい押し問答の原因を作った張本人である緑髪の女神はコホンと芝居がかった小さな咳払いを一つ挟んだ。

 

室内に漂っていた十代特有の気まずい空気を強引に切り替えると、手にした杖をトントンと大理石の床に打ち付け、何事もなかったかのように優雅な微笑を浮かべる。

 

 

「それではまず自己紹介からにしましょうか。もう名前について既にお聞き及びかもしれませんが、私は女神パルテナ。この天界エンジェランドの主で、地上界にいる人間達を守る役目を任されています」

 

「あ!! は、はい!! 改めましてよろしくお願いします!! 私、立花響って言います!!」

 

「えぇ、知っていますよ」

 

 

パルテナの纏う圧倒的な神秘のオーラに圧されながらも、響はいつものように勢いよく頭を下げて挨拶を返した。しかし目の前にいる存在が自らの知る『世界のルール』を遥かに超越した神話の主であるという事実は、未だに彼女の脳を激しく震わせ続けている。

 

そんな少女の緊張をほぐすように、パルテナは膝裏まで届く緑の髪をサラリと揺らし、穏やかな口調で言葉を継いだ。

 

 

「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ響さん。私にとって人間とは身近な存在、謂わば我が子のようなものなのですから」

 

「いや、そう言われても畏れ多くて·········」

 

「なんでしたら───“パルテナお姉ちゃん”、って呼んでもらっても構いませんよ?」

 

「い、言いませんよ!? っていうかそこはお母さんじゃないんだ!?」

 

 

なんて謎の漫才を繰り広げている二人に対し、離れたところから見ているピットは思わず目を細め、『何を見せられているのだろう?』と心の中で静かに思った。

 

まあそれはともかく、気を取り直して、

 

 

「それで私達のことを軽く説明すると、私達はこれまで様々な脅威から地上の人々を守るために戦ってきました。代表的なもので言えば『冥府軍』と呼ばれる勢力───貴女方地上界の言葉で言うところの『神話の怪物』達ですね」

 

「しんわの、かいぶつ·········ですか?」

 

 

響は小さく首を傾げた。

 

聖遺物やノイズ、あるいは先史文明の遺産といった超常災害には何度も直面してきた彼女だったが、それらはどこまでも異端技術の産物であり、本物の『神話の怪物』が実在して軍勢を率いているなどという話は、流石にリディアン音楽院の講義でも聞いたことがない。

 

あり得ないものをいくつも目の当たりにしても、まだ実感が湧いていないのだろう。

 

ある意味当然かもしれない。

 

空想上のものが目の前に現れても、思い描いていたものと違ったら納得できないのも頷ける。例えば、完全聖遺物である『デュランダル』だって、様々な作品でよく取り上げられていて、人によっては思い描いていた見た目は違うだろう。

 

現物が目の前に現れても、これがあの? ってなるのも分かる気がする。

 

だから神話の怪物と言われてもイマイチピンと来なかった。

 

パルテナはそんな響の戸惑いを見越したように指先を顎に添え、分かりやすい例えを提示するように言葉を紡ぐ。

 

 

「そうですね、例えば·········“メデューサ”、という名前に何か心当たりはありませんか?」

 

「あ、はい!! 聞いたことあります!! 確か髪の毛が全部蛇になっている女の人で、その恐ろしい顔を見ただけでみんなカチコチの石になっちゃうっていう怪物ですよね!?」

 

 

響はポンと自らの掌を叩き、今日まさに学校の補習で読まされたばかりの『ギリシャ歴史プリント』の挿絵を脳裏に思い浮かべながら元気よく答えた。

 

テストの点数こそ散々だったが、そのあまりにも奇抜で恐ろしい特徴だけは記憶に新しかったのだ。

 

 

「えぇ、まさしくその通りです。よく知っていますね」

 

 

響の迷いのない回答を聞いた瞬間、パルテナはほんの少しだけその美しい唇の端を吊り上げて優しげに微笑んだ。

 

しかしその微笑みの奥に宿る光は、先程までの慈愛に満ちたものとは僅かに異なり、どこか過去の苛烈な記憶を反芻するような、神としての冷酷な色を帯びていた。

 

地上の人間達が語り継ぐ神話の一頁においては、メデューサは生まれながらの化け物として描かれることが多い。だがその実態は、かつて人間を憎み、地上の作物を枯らして人々の命を脅かした罪により、この光の女神パルテナの手によって『醜い怪物の姿』へと変えられ、冥府の底へと追放された哀れな女神の成れの果てなのだ。

 

自らの下した神罰の重みと、それを『恐ろしい顔』と評した人間の少女の純朴な言葉。

 

その二つがパルテナの脳内で奇妙に合致し、女神はかつての戦いの記憶を思い起こしながら、どこか楽しげに杖の頭部を微かに輝かせるのだった。

 

 

「そのメデューサが率いる冥府の軍勢がかつてこの天界や地上を侵略しようとしたことがありましてね。その時に私達の代わりに最前線で戦ってくれたのが、そこにいるピットなのですよ」

 

「えっ!? ピット君が怪物の軍隊と戦ったの!?」

 

 

響は驚愕の眼差しを、隣でまだ顔を赤くしている天使の少年へと向けた。

 

自分よりも頭一つ分ほど背が低く、跳ね上がったアホ毛を揺らす姿はどう見てもあどけない少年にしか見えない。そんなピットが軍勢を成す無数の化け物を相手に最前線で立ち回ったという英雄譚は、響の直感的な人間観察の範疇には到底収まらないものであった。

 

向けられた驚愕の視線にピットはさっきまでの気まずい羞恥とはまた異なる、誇らしさと面映ゆい感情が入り混じり、再びその頬を微かに紅く染めた。

 

 

「まあ、ボクはパルテナ様の親衛隊長ですからね。これでも飛んでくる弾を切り払ったり、巨大な二首の巨犬を相手にしたりと、やる時は大真面目にやるんですよ」

 

 

ピットは照れ隠しをするようにポリポリと自らの茶髪の生え際を指先で掻きながら、背中の白い翼を小さくはためかせた。

 

その仕草には戦士としての威厳はなく、どこまでも年相応の少年らしさが残っている。

 

響は感嘆の溜息を漏らしながら改めてパルテナの方へと向き直り、胸に手を当てて素直な疑問を口にした。

 

 

「でも、そもそも神話の怪物って本当に実在してたんですね·········私はてっきり昔の人が作ったおとぎ話の中だけの存在なんだと思ってました」

 

「あら? 数々の聖遺物に関わり、その人知を超えた脅威をその身で受け止めてきた貴女がそれを言うのですか?」

 

 

パルテナは手にした杖を軽く弄び、意外な言葉を聞いたというように眉を優雅に持ち上げて見せた。

 

 

「いやぁ·········確かにそうなんですけど、言われてみれば私の胸にある“これ”だって何千年も前の大昔の道具ですし。でもやっぱりメデューサとか言われちゃうと、絵本や教科書の向こう側の世界というか。その、あまり実感が湧かなくて·········」

 

 

響は苦笑いを浮かべながら頬を掻く。

 

私立リディアン音楽院での講義や、超常災害対策機動部での任務を通じて、彼女は世界の裏側に眠る超常の力を何度も目撃してきた。

 

しかし何度も言うが、それらは常に高度な解析データやエネルギー波形といった『異端技術の数値』として処理されることが多く、どこか無機質な自然災害に近い認識だったわけだ。

 

それが目の前の麗しい女神から『かつて天界を侵略しようとした軍勢』として語られると、まるでファンタジーの小説の物語にそのまま迷い込んでしまったかのような奇妙な浮遊感を覚え、適合者としての確固たる理性がどうしても拒んでしまう。

 

パルテナはそんな少女の、『英雄』としてはあまりにも純朴で人間らしい戸惑いを慈しむように見つめると、その表情を少しだけ引き締め、

 

 

「確かに、今ではもうその存在は御伽話として語られています。ですが、思い出してもみてください。貴女のその胸のペンダントだって、元々はオーディン様の槍の欠片をベースに作られたものなのですよ? つまり、神話上で語られている英雄達は実際に存在していたのです」

 

 

響の認識をパルテナは笑って否定した。

 

その大雑把な、言ってしまえば『何を今更』みたいなのが逆に納得してしまう。響は元々普通の女子高生、本当ならこんなものに関わるはずではなかったのだ。だがなんの因果か、彼女は過去にその胸に“とある歌姫”から託された想いを受け継ぎ、そしてこれまで様々な事件を解決してきたのだ。

 

それこそ、神話規模の。

 

それで何を今更驚くことがある? みたいに言われると、悲しくも納得してしまうのだ。

 

 

「オデュッセウス、ペルセウス。クーフーリンにトールなど、彼らの残した英雄譚は今でも語り継がれています。実際近年ではスマホゲーとかによく出てくるでしょう?」

 

「·········」

 

 

言われてみると確かにそうなのだが、女神本人の口からスマホゲーという単語を聞くと緊張感に欠ける。

 

神秘性が一気に失われていくような感覚に、響はどう反応して良いのかわからなくなった。

 

 

「ん?」

 

 

しかし。

 

そうして頭の芯を奇妙な脱力感に揺らされているうちに、響の頭にとある疑問が浮上してきた。

 

メデューサと戦ったという事実。

 

それはすなわち、今日の補習で読まされた『ギリシャ歴史プリント』にも記されていた、遥か紀元前六世紀頃から地上の人間達によって語られ始めた神話の時代そのものを指している。そこまで思考を巡らせた瞬間、響の視線は自然とポリポリと頭を掻いているあどけない天使の少年へと吸い寄せられた。

 

どう見ても自分より年下の、下級生にしか見えない少年の顔。

 

もしもその神話の時代から、彼は同じ姿のままで戦い続けてきたのだとしたら。

 

 

「え? そんな人達と戦ってきたってことは········ピット君今何歳なの!?」

 

「えぇッ!? そこですかっ!?」

 

 

あまりにも予想の斜め上を突き抜けた質問を投げかけられ、ピットは元気いっぱいに跳ね上がったアホ毛を大きく揺らし、文字通り裏返った声を上げた。てっきり自分の輝かしい戦歴や、天界の軍勢の勇猛さについてもっと詳しく聞かれるものと身構えていただけに、完全に虚を突かれた形だった。

 

響は生唾を飲み込み、自らの推理の正しさを証明しようとするように、人差し指をピットの鼻先に突き付けてさらに詰め寄る。

 

 

「だって、紀元前とかそういう大昔からずっと生きてるんだよね!? まさか········その見た目でもしかして年齢は千とか遥かに超えて──────!?」

 

「違いますッッッ!!!!!」 

 

 

響の言葉が最後まで紡がれるよりも早く、神殿全体の空間をびりびりと震わせるような凄まじい大音量の声が響き渡った。

 

 

「パ、パルテナ様········!?」

 

 

あまりの気迫にピットが思わず肩を跳ね上がらせて怯む中、それまで優雅に微笑んでいた女神はその白き衣を激しく翻し、響の前へと大股で詰め寄ってきた。

 

その麗しい顔にはさっきまでの熱を持たない神としての余裕などは微塵もなく、何か国家の重大な最高機密を死守するかのような、必死極まりない形相が浮かんでいる。

 

 

「響さん、よくお聞きなさい。私達天界の住人は信仰と奇跡によって形作られた神聖な存在。肉体の新陳代謝も時間の経過による細胞の劣化も一切存在しないのです。だから歳なんか取らないし、年齢という概念そのものが最初から存在しないのです」

 

「は、はあ········?」

 

 

突然の女神の猛烈な勢いに圧倒され、響は両手を前に出して身を引くしかなかった。

 

しかしパルテナの怒濤の如き言葉の弾幕は、困惑する少女の様子などお構いなしに容赦なく畳み掛けていく。

 

 

「地上では永遠の一七という言葉もあり、それに貴女のところにも全然歳をとってなかった錬金術師の少女がいたはずです。そういうのもあるということです。だから歳なんかないので、ピットは決して“おじさん”ではないのです」

 

「ぼ、ボクが········おじさん········!?」

 

「そうです。ピットはおじさんなんかじゃないのです」

 

 

なんでもう一回言ったんだい?

 

そう思う響であったが、パルテナは手にした杖を床に激しく叩きつけると、膝裏まで届く長い緑色の髪を乱暴に振り乱しながら、

 

 

「絶対おじさんなんかじゃないのですッ!!(私がおばさんになるじゃないですかッ!!)」

 

「はい!! 分かりました!! 分かりましたから!?」

 

 

大広間の大理石の壁が震えるほどの声量で、裏の本音を隠しながら絶叫した。

 

部屋の隅では『そこまで連呼しなくても········必死に否定し過ぎると逆効果ですよパルテナ様ぁ』と呪文のように呟きながら両手で頭を抱えるピットの姿を見ながら、響は神様の世界のあまりにも世俗的で切実すぎる『年齢の壁』を前に、ただ呆然と口を開けて硬直するしかなかった。

 

 

 

♡♥♡♥♡

 

 

 

はぁ、はぁ、と。

 

豊かな胸を大きく上下させながらパルテナは手にした杖を握り直し、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 

自身の長い緑髪を指先でエレガントに整え、衣服の乱れをサッと直すと、まるで最初から何も起きていなかったかのような熱を持たないいつもの極上の微笑みをその麗しい顔へと張り付かせる。

 

 

「失礼、少々説明に熱が入ってしまいました········コホン。何はともあれ、私達が文字通りの意味で『不老』であるということはご理解いただけたかと思います」

 

「は、はい········」

 

 

落ち着いたような姿勢を取るが、あんなすごいど迫力な姿見せられてしまったら今まで通りの神聖なイメージは通用しない。

 

むしろ。

 

 

(何だか·······神様っていうよりはうちの学校の怒らせると怖い先生みたいだったなぁ··············)

 

 

と思ってしまった響だったが、そこでパルテナはそんな彼女の様子を右から左へ受け流すと、再びその眼差しを峻烈なものへと切り替え、神殿の中央に据えられた大きな水盆へと優雅に向き直った。

 

 

「どうぞこちらへ、貴女にお見せしたいものがあります」

 

 

パルテナは白き衣の裾を滑らかに引いて、大広間の中央に鎮座する彫刻が施された巨大な水盆へと歩みを進めた。

 

その一歩一歩が床面の大理石に触れるたびに足元から波紋のようなものが広がり、神殿全体の光が水盆の周辺へと収束していく。未だに頭を抱えて小刻みに震えているピットをその場に残したまま、響は促されるようにして女神の隣へと並び、その底の深い水面へと視線を落とした。

 

 

「これは·······?」

 

「これで地上の様子を覗き見ることができるのです。私達はこれを通じて貴女のことを知ったんですよ?」

 

 

響しか知らない情報をこれで盗み見ていたという事実、そのことを聞いて思わず背筋に悪寒が走る。

 

千里眼の泉。

 

それは地上の科学技術が誇る、いかなる超高精細電子モニターをも凌駕する、多次元的な情報の受容体であった。パルテナが手に持った杖の先端で水盆の縁をトントンと軽く叩いた瞬間、それまで静止していた水面が波立ち、激しい過電流のノイズを伴いながら大雨に覆われる地上界の情景を鮮明に映し出し始めた。

 

水底から浮かび上がってきたのは、人工の光を悉く奪われ、凍りついた都市の風景。

 

天を衝くほどの高層ビルの群列も、網の目のように張り巡らされた交通網も、その全てが機能を凍結させられている。

 

近代的な信号機は冷たく消灯し、不意の制御不全によって立ち往生した車両が路頭に溢れ、静まり返った道路の隙間を人々の焦燥が満たしていく。

 

それは、かつての活気に溢れた街並みが、今やどこまでも冷たく染まった墓標の如き冷酷さで沈黙している姿そのものであった。

 

 

「これ、私達が住んでる街·······? 電気が全部消えちゃってる·······!?」

 

 

泉の縁に両手を突き、水面を覗き込んだ響の顔から瞬く間に血の気が引いていく。

 

彼女が去った後の地上界は、あのライブ会場を襲ったローブの男が放った一撃によって都市のインフラが一瞬にして融解し、完全に麻痺させられていたのだ。

 

 

「そうです。世界中から全ての稲妻が消え去り、代わりにあの街の周辺だけに変則的な過電流が集中していた。これはオリンポス最高神、ゼウス様の用いる神器·······『雷霆ケラウノス』が齎した異常現象なのです」

 

「らいてい··············ケラウノス?」

 

 

聞き馴染みのない不穏な響きを持つその単語に、響が表情を硬くする。

 

パルテナは重いため息を一つ吐いて、額にそっと指先を当てながら、女神としての締まらない困惑を語り始めた。

 

 

「全宇宙をも焼き尽くす膨大な力を秘めた、主神ゼウス様の最高武具。本来であれば、地上の人間はおろか私達であっても軽々しく扱ってはならぬ聖なる武器なのですが·······ヘルメスという、神々の伝令使を務める神がおりましてね。彼が神器を預かって持ち運んでいる最中にうっかり転んで、よりにもよって人間達の住まう地上へと落としてしまったらしいのです」

 

「ええっ!? か、神様なのにそんなうっかりミスがあるんですか!?」

 

 

今日の補習で読まされたギリシャの歴史プリント、そこに書かれていた『人間の根源的な問いへの説明』や『西洋文化の根幹』としての厳かな神々というイメージとはあまりにもかけ離れたとんでもない不祥事に、響は目を丸くして驚愕するしかなかった。

 

プリントには人間の本質を理解するための高尚な概念として神話が語られていたはずなのに、目の前で語られたのは、ただの神様達の不手際による大迷惑なトラブルではないか。

 

そのことに関してはパルテナでさえも思うところがあるらしく、

 

 

「あるのですよこれが。おかげでゼウス様は大激怒され、地上の人間を守る立場にある私に対して『一刻も早く取り戻せ、もし人間の手に渡ったらお前ごと冥界の底に突き落としてくれる』と、理不尽極まりない脅しをかけてこられたのです。神々は地上への直接的な干渉を禁じられているため、私が全責任を押し付けられる形になってしまいました。本当に、あの浮気性で怒りっぽい上司にはうんざりさせられます」

 

 

はぁ、と。

 

頭を押さえて溜息をこぼすパルテナの姿は、まるで理不尽なノルマを課された中間管理職のようであり、響は神様という存在に対する神秘的なイメージがバラバラに崩れていくのを感じていた。

 

 

「ピットもそのことを聞いた時、貴女のような反応を見せていました。『神様のわがままっぷりには誰にも敵わない』って、何だか前にピットが言っていた言葉の重みが今ならすごく分かる気がします」

 

 

呆れたように呟くパルテナ。

 

しかし、そうして神々の身勝手さにずっこけている間にも、泉の水面に映し出される地上の暗黒は刻一刻と深刻さを増していく。

 

水盆の縁を穏やかに満たしていた水が不意に地上の大気電位の上昇に呼応するかのように、パチパチと青白い火花を散らして激しく沸き立ち始めた。

 

水面に映る凍りついた都市の中心部。

 

かつて風鳴翼がその誇り高いステージに立ち、そして蹂躙されたあのソロライブ会場の周辺から天を衝くような一本の巨大な雷の柱が虚空へと立ち上っている。それは自然界の気象現象が齎らす放電などではなく、世界の構造そのものを内側から強引に変質させていくような、異質な波動に他ならなかった。

 

響の眉が深刻な危機感を察知して、一段と険しく寄せられる。

 

 

「これ、あの時のライブ会場の映像ですか······?」

 

「えぇ、そうです。この泉は過去に起きた出来事をも正確に保存し、記録としてその水面に留めることができるのです。響さん、ここをよく見てください」

 

 

パルテナは手にした杖の頭部を微かに傾け、水盆の焦点をあの未曾有の惨劇が引き起こされた瞬間の時間軸へと収束させた。

 

波紋が激しく広がったその先、青白い電磁の嵐が渦巻く中心部には、自らの身体を覆う衣服すら過電流の熱量で焦げ付かせた、あのローブの男が佇んでいた。

 

その手には、地上のいかなる武器をも凌駕する『雷』そのものが握られている。

 

それこそが、主神ゼウスが世界を統治するために用い、そして全宇宙の破壊をも可能とする神器であった。

 

 

「あのローブの男········! ライブ会場で私達を襲ってきたパヴァリア光明結社の生き残り········!!」

 

 

泉に映し出される『過去の記録』を前にして、響の拳にギリリと異様なまでの力が加わる。

 

その脳裏に蘇るのは、あの圧倒的なエネルギーの奔流を前に金属製の銃弾を全て磁力反発で撃ち返され、シンフォギアの防御フィールドを突破したジュール熱の残響によって灼かれ続けている翼の無念の姿であった。

 

 

「ヘルメスがうっかり地上へと落としてしまったケラウノスは、よりにもよって地上の歴史の闇に葬られるべきだった錬金術の使徒········彼の近くへと落下してしまったのです。神器とは、それ自体が宇宙の始まりに立ち会った高位の概念の結晶、人間がまともに手をして良い代物ではありません。ですが、あの男は自らの魂を燃やし尽くすかのような異様な執念で、その強大すぎる力を強引に自分のものとしたのです」

 

 

パルテナの言葉は、まるで学術書の一節を読み上げるかのように淡々と響き、そして神殿の神聖な空気の中に溶けていく。

 

女神の解説によれば、ケラウノスが齎らす真の脅威とは、単に高電圧の電撃を放つという兵器的な次元には留まらない。

 

伝承通りならば、その力は世界を焼き尽くす力を秘めている。怪物テュポンとの決戦ではケラウノスが放たれたことで地球上の全大陸が沸騰し、海や川が干上がったという。

 

天や大地、地底の冥界までもが激しい熱風と閃光に包まれたとされているのだ。

 

そしてその力は、神すらも滅ぼす一撃があるという。

 

不死である神々や、それに匹敵する巨神をも一撃で戦闘不能にし、地底深くへ叩き落とす威力を持っている。

 

ギリシャ神話に登場する全ての神器の中で、ケラウノスは間違いなく『第一位』の最強兵器として君臨しているのだ。

 

 

「それをあの男は、私利私欲のために力を振り回し、そしてその結果が現在のあの暗黒の街並みなのです。このままではまず間違いなく、彼の手によって世界は滅ぼされるでしょう。あの力は人が手にして良いものではない。それは、貴女が一番わかっていると思います········立花響さん」

 

「················はい」

 

 

過去の記録から、再び現在の凍りついた都市の情景へと戻っていく水面。

 

未来という大切な少女の名や、傷ついた仲間達の顔が脳裏を過った瞬間、響の胸が引き裂かれるような焦燥に支配された。

 

地上で自らの帰りを待つ『陽だまり』の存在。

 

その片割れと繋がっているはずの第六感が、今は次元の壁に隔てられて不気味なほどの虚無を示している。

 

 

「ッ!!」

 

 

眉間の皺を寄せる響。

 

彼女の瞳には、反射した水盆の奥でかつてない暗黒に沈む日本の首都圏の情景が頼りなく揺らいでいる。

 

その凍りついた都市の寒気は、次元の壁を越えてなお響の胸を冷酷に締め付けていた。

 

私立リディアン音楽院が一時的に閉鎖され、信号機すら沈黙したゴーストタウンのような街並み。携帯の液晶画面に浮かぶ『圏外』の二文字を見つめながら、家族の安否すらも確認できない人々。

 

全てが、あのローブを纏った男が振るう神器によって齎された大災害なのだ。

 

 

「世界が、滅ぼされる··········あんな、神様のうっかりで落とした、ただの武器のせいで··········」

 

 

響は水盆の縁を掴む両手に、指先が白くなるほどの力を込めた。

 

胸から湧き上がってくるのは、未知なる恐怖と、それ以上に重い責任の感覚だ。

 

彼女の胸にあるガングニールの欠片。

 

それはかつて先史文明の神であるシェム・ハの支配に抗い、人間が自らの意志を繋ぎ止めるための『神殺しの神器』として機能した因果を持つ。神という身勝手な存在が齎らす理不尽な暴力から、人々の日常をもぎ取るようにして戦ってきたのが、これまでの立花響の歩みであった。

 

だが、今回の戦いは何かが決定的に違っていた。

 

これまではどんなに過酷な運命であっても、地上の同じ空の下に、必ず自分の歌を信じて待ってくれる小日向未来という『陽だまり』がいた。響が迷い、傷つくたびに未来はその暖かい両手で彼女をこの世界へと繋ぎ止める命綱となってくれていたのだ。

 

しかし今、彼女が立っているのは、現世のあらゆる物理法則も、常識すらも届かない神話の彼方の天界。

 

どれほど魂の感覚を研ぎ澄まそうとしても、未来の存在を肯定するあの第六感は、不気味なほどの完全な虚無を返すばかり。

 

まるでこの宇宙のどこを探しても、立花響という人間の生きてきた足跡ごと最初から消失してしまったかのような、圧倒的な虚無感が彼女の精神の拠り所をじわじわと侵食していく。

 

あの神器の脅威を知っているのは自分だけ、それが彼女にとってはとても重かった。

 

 

(このことをみんなに伝えに行きたいけど········今私は天界にいて、どうやって戻ればいいのかも分からないし)

 

 

彼女の弱点は抱え込み過ぎること、だ。

 

共に手を取り合ってきたみんなの顔が、霧の向こうへ消えていくような錯覚を覚える。

 

神隠しにあって行方を眩ませた自分を前に、未来がどんなに消え入りそうな光をその目に宿して俯いているか、想像するだけで内臓を掴まれるような寒気が全身を駆け抜けた。独りきりで異界に置き去りにされたという孤独感、相談できる司令もいないという実感が、ガングニールの適合者として数々の修羅場を潜り抜けてきた彼女の理性を今まさに内側から粉砕せんと圧しかかっていた。

 

 

「········」

 

 

パルテナはそんな少女の、今にも崩れ落ちそうな顔を静かな眼差しで見つめていた。

 

彼女が背負う『神殺し』の宿命の重みも、現世の繋がりを断たれた絶望も、天上の神にとっては千里眼の泉に映る情報の一つに過ぎない。

 

しかし。

 

その上で、この麗しい女神は手にした杖をゆっくりと傍らの床へと立てかけ、響に向けて、その白く柔らかな右手をそっと差し伸べた。

 

 

「独りで抱える必要はありませんよ、立花響さん」

 

「え?」

 

 

空間そのものを優しく震わせるような、鈴を転がすような声が響の閉ざされかけた心を心地よく包んでいく。

 

 

「確かに、神器ケラウノスの力は絶対であり、今の貴女方では抗うことすら叶わない代物です。ですが、神々の誤りによって地上が闇に包まれるというのなら、それを取り戻すための『奇跡』を授けることこそ、天界の主である私の役目なのです」

 

 

パルテナの差し伸べられた掌からは、現世の衣服を優しく清めたあの純白の光の粒子が、今度は温かい春の陽だまりのような波動となって穏やかに溢れ出していた。

 

それはまるで、自らの命を救い、想いを託してくれた天羽奏のような、あの真っ直ぐな優しさとどこか奇妙に重なる暖かさがあった。

 

 

「貴女の胸にあるガングニールは、神をも打ち破る力。そして私達の持つ力があれば、あの高圧電流の防壁を突破することだってできます。だからもう一度、あの光に満ちた日常を··········貴女の帰りを待つ大切な人達の世界を取り戻しに行きましょう」

 

 

女神の言葉は、響のの中で蝕んでいた焦燥の灯火を、一瞬にして力強い決意の炎へと変えていく。

 

 

「パルテナ、様··········」

 

 

女神を前にして、だが響は決して目を離さなかった。

 

未来は絶対に待ってくれている。

 

クリスも、マリアも、翼も、切歌や調も。

 

みんな絶対にまだ戦う意思を失ってはいない。

 

ならば。

 

自分がここで立ち止まり、その歌を汚してしまうことなど、絶対に許されるはずがなかった。

 

 

響は大きく一歩を踏み出すと、胸にある聖遺物の欠片─────『シンフォギア』を握り締めながら。

 

 

パルテナの差し伸べたその手を、両手で力強く、まるで忠誠を誓うように片膝をつき、そして断固たる意志を込めてギュッと握り締めた。

 

 

「はい!! 私、諦めません!! 神様がどれだけワガママで、あの人の力がどれだけ凄くても、みんなのいる大好きな場所へ帰るためなら········私は絶対に諦めたりしませんッ!!」

 

 

少女の瞳には、天界の眩い光をも凌駕する輝きがはっきりと宿っていた。

 

神殺しの歌姫と、天上の女神。

 

二つの因果が、今まさにその手を通じて、固く結ばれた瞬間であった。

 

 

 

♡♥♡♥♡

 

 

 

「それで、具体的には何をすれば?」

 

 

パルテナの手を両手でしっかりと握りしめたまま、響は上目遣いにそう訊ねた。

 

片膝をついた姿勢のまま、その全身から放たれる熱意は、さっきまでの迷いを完全に払拭している。

 

パルテナはそんな彼女の健気な決意に満足そうに頷くと、そっと手を離し、未だに大広間の隅で両手で頭を抱えたまま落ち込んでいる親衛隊長の方へと視線を向けた。

 

 

「ピット、いつまでそうしているのですか? 出番ですよ、こちらへ来てください」

 

「え·······? はっ、はいッッッ!!! パルテナ様!!!」

 

 

その鈴を転がすような声で名を呼ばれた瞬間、それまでの精神的ダメージが嘘のように消え去り、天使の少年はパッと顔を輝かせて立ち上がった。跳ね上がったアホ毛を嬉しそうに揺らしながら、純白の翼をパタパタとはためかせ、大理石の床を小気味よい足音で駆けて響の隣へと滑り込んでくる。

 

その変わり身の早さと主に対する一途な忠誠心には、響も思わず呆れ顔でパチクリと目を瞬かせるしかなかった。

 

ピットが背筋を正して隣に立つと、パルテナは再びその表情を引き締め、手にした杖を軽く傾けながら説明を再開した。

 

 

「先程も申し上げた通り、最高神ゼウス様の武器『雷霆ケラウノス』は宇宙の事象そのものを書き換える高位の神器。本来であれば、地上の人間が軽々しく扱って良い代物ではありません。触れることすら許されず、その身を分解されるのが関の山です·······ですが響さん、貴女は神を打ち破るための槍───“ガングニールのシンフォギア”がありますね?」

 

「はい! ガングニールのギアなら、どんな神様だって突き破ることができるって信じてます!!」

 

 

響は立ち上がり、自らの胸に拳を当てて元気よく答えた。

 

これまで数々の神話規模の脅威を粉砕してきたその異端技術の槍こそが、彼女にとって最大の武器であり、日常を取り戻すための唯一の鍵なのだ。

 

するとパルテナは満足そうに微笑んだ後、おもむろに隣のピットの方へと滑らかな動作で振り向いた。

 

その美しい瞳に何やら妙に計算高い、おねだりをするような光が宿る。

 

 

「ピット·······貴方確か冥府軍との戦い以降、結構な量の『ハート』を溜め込んでいましたよね?」

 

「え? あぁはい、確かに。あの後は特にこれといって使う予定もなかったので、結構な数が財布に入ったままですけど·······それが何か?」

 

 

ピットは不思議そうに首を傾げ、僅かにズレた自らの月桂冠を指先で少し持ち上げながら問い返した。

 

この天界エンジェランドにおいて、『ハート』とは地上界で言うところの通貨、すなわちお金のような役割を果たす代物であった。

 

そして、親衛隊長であるピットがその財産を大量に消費する状況というのは、天界の歴史においてほぼ一択に限られている。

 

すなわち。

 

パ(・)ル(・)テ(・)ナ(・)の(・)神(・)殿(・)に(・)あ(・)る(・)宝(・)物(・)庫(・)か(・)ら(・)───よ(・)り(・)強(・)力(・)な(・)『神(・)器(・)』を(・)新(・)し(・)く(・)購(・)入(・)、ま(・)た(・)は(・)錬(・)成(・)す(・)る(・)時(・)で(・)あ(・)っ(・)た(・)。

 

 

 

♡♥♡♥♡

 

 

 

その頃。

 

少年は雨水に濡れた黒髪を鬱陶しそうに指先で払いながら、薄暗い店舗の奥に向けてその鋭い視線を投げかけた。

 

電磁パルスの直撃を免れたのか、カウンターの奥からは店員が恐る恐るこちらの様子を伺っている。

 

買うのか買わないのか、そわそわとした感じで少年を見ている。

 

少年は深い溜息を一つ吐くと、無造作にカウンターへと歩み寄り、感情の起伏を感じさせない平坦な口調で目的の品の名を告げた。

 

 

「スイッ█2のカー██のエア██ダーを一つ」

 

「はい、少々お待ちくださいね」

 

 

暗闇から現れた少年に、店員は棚の奥から厳重に梱包された最新のゲームソフトのパッケージを取り出してきた。少年はそれを手際よく受け取ると、自然の聖域から持ち出してきたであろう地上界の紙幣をカウンターの上に滑らせる。

 

彼は今回の騒ぎを調査するために地上へと赴いたついでに、あのわがままな上司から個人的に頼まれていた最高機密(おつかい)の任務もこなしていた。

 

 

(·······なんでネットワークによるダウンロード購入が主流になっている世の中で、わざわざ現物のソフトを店舗まで買いに来なきゃならねぇんだ)

 

 

少年は胸の内で吐き捨てるようにそうぼやいた。

 

あの自然の女神は以前に別のゲームで遊んでいた際、セーブデータの容量が圧迫しただの、本体の通信設定がよく分からないだのと大騒ぎした挙句、この少年との大乱闘対戦に負けて大泣きして八つ当たりしてきたという事例がある。

 

その際思わず持っていたコントローラーをぶん投げ、運悪くゲーム機に当たり、中に挿してあったソフトのカードごとぶっ壊してしまった前科がある。

 

無論、ソフトは物理的に大破、本体のセーブデータも破損。

 

だからダウンロード版ならアカウントさえあればソフトはいつでも無料で再ダウンロードできると言ったのに、『形として手元に残るパッケージ版が一番良いのじゃ!』などというわがままを並べてはこうして彼をパシリとして扱き使っているのだ。

 

世界が神器の脅威によって滅びかけているという瀬戸際において、なおも己の娯楽の確保を優先する主の図太さに、少年は深い溜息を禁じ得なかった。

 

 

 

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