本日の空模様も最悪だった。
窓から見える空は、まるで今の自分を表しているようにも見える。
「よ、見舞いに来たぞ·······翼」
病院に風鳴司令はいた。
すでに面会時間を過ぎているが、関係者以上の権限で時間を延ばしてもらったらしい。
政府に属する組織ということもあり、そして面会相手が世界的な歌姫であったら、ここの病院の医師達も尚更断れなかったのだろう。
「············体調はどうだ? 翼?」
「············」
風鳴弦十郎がいるのは個室の病室、無論彼が入院している訳ではない。
弦十郎はここに入院している姪の見舞いにやってきたのだ。
「相変わらず············身の回りの整理整頓という基本の型に関しては随分と疎かになっているようだな」
弦十郎は自身の太い腕をがっしりと組んだまま、静まり返った病室の惨状を見渡して苦笑いを浮かべた。
数時間前に強引に寝かされたばかりの病室であるはずなのに、床やサイドテーブルの周辺には早くも翼の悪癖の痕跡が散乱していた。応急処置のために緒川が用意したであろう着替えの衣類はカバンから無造作に引っ張り出されたままベッドの足元に丸まっており、支給された各種の書類や私物の小物がまるで戦場に撒かれた瓦礫のように乱雑な配置で散らばっている。
彼女にとって身の回りの空間を整えるという行為は、防人としての優先順位では遥か底辺に位置しているようである。
現役のトップアーティストとして世界中を飛び回っている時も、彼女の自室はマネージャーの涙ぐましい清掃活動によって辛うじて保たれているのが実態であった。
「············今の私はそのような瑣末な事柄に意識を割いている暇など──────」
「瑣末なものか。身の内の乱れは心の乱れ、そして戦意の乱れへと直結する。足元に脱ぎ散らかした服に躓いて転ぶような剣が、一体どこの世界にいる?」
「ッ!!」
弦十郎の放つ言葉はいつもの司令としての厳格な命令ではなく、一人の身内としての呆れと親しみが混ざり合ったものであった。
しかし、その豪快な声に翼は包帯に包まれた肩を僅かに震わせ、窓の外の暗黒へと再び視線を逃がした。
近代的なインフラを全て停止され、さながら巨大な墓標のように沈黙したゴーストタウン。
そして陽光すら射すことができぬほどに分厚い黒い雲。
その現実が、彼女の誇り高き剣の矜持を内側から粉砕せんと圧しかかり続けている。
「分かっているんだろう翼。お前が今何を恐れ·······何に囚われているのかを」
組んでいた腕を解き、弦十郎は一歩翼の元へと歩みを進めた。
その巨体から放たれる圧倒的な存在感が、室内を満たしていた絶望の空気を強引に塗り替えていく。
彼はただの身内として慰めに来たのではない。
未知なる脅威を前にして己の無力さに立ち竦み、その剣の刃を錆びつかせている防人の魂に、もう一度確固たる炎を灯すためにここへ赴いたのだ。
ベッドの上で上半身だけ起こしている翼は、
「私は············また歌えなかった」
「············」
翼は一切弦十郎の方を見ない。
その瞳にあるであろうものを、絶対に見せたくなかったのだ。
「············ッ!!」
ベッドのシーツを握り締める翼の指先が白く強張っていく。
彼女にとってステージは単なる自己表現の場ではなく、人々の命を繋ぎ、平和の祈りを届けるための神聖な戦場そのものであった。
かつて天羽奏というかけがえのない半身を失ったあの日から、彼女はその喪失の痛みを抱えながらも、自らの歌声で誰かを守り抜くと固く誓って戦い続けてきたのだ。
それなのに、またしても未曾有の悲劇は繰り返された。
完璧に構築されたはずのソロライブ会場。
人々の笑顔と歓声に満ちていた空間は、あのパヴァリア光明結社の残党が遺した歪んだ執念と人智を超えた聖遺物の一撃によって、跡形もなく蹂躙されてしまった。敵の圧倒的な雷の奔流を前に、自らの手に持つ生半可な剣では何一つ届かず、ただ無様にステージから引き摺り下ろされ倒れ伏すことしかできなかったという事実。
思い切り歌い、その歌で人々を護りたかったという切なる願いは無惨に切り裂かれ、その惨めな敗北感が彼女の剣の如き矜持が刃毀れするようにボロボロと朽ちていく。
「私の········剣としての心が、あの日から何一つ成長していないという証拠です。あの場にいた人々を恐怖に陥れ、挙句の果てには立花までをも行方不明にさせてしまった············これでは、私はただの刃毀れした鈍らと同じ。そんな状態で、一体何を守れるというのですか················ッ!?」
吼えるような翼の悲痛な叫びが、非常用電源の弱々しい光が反射する陰惨な空間に虚しく木霊する。
失うことへの恐怖と自らの無力さに対する憤怒が彼女の理性を塗り潰し、その精神の支えを確実に失わせつつあった。
弦十郎はそんな姪の取り乱す姿に目を背けることなく、その正面から静かに見つめ続けていた。彼は深く息を吸い込むと、病室の空気を震わせるほどの重みを持った、しかしどこまでも温かい包容力を秘めた言葉を、絶望に嘆いている防人へと投げかけた。
「誰もお前を責めはしないし、お前の歌が敗北したわけでもない」
「·······」
「翼········お前がその胸の奥で抱えている悔しさは、お前の言う剣を錆びつかせるためのものではなく、次なる一撃を限界まで研ぎ澄ますための砥石のはずだ」
弦十郎はそこで一度言葉を区切り、ベッドの傍らにどっしりと腰を据えた。
その厚い胸から溢れ出る信頼の念は、後悔に震える翼の心を真っ正面から支えようとしていた。
「しかし········私はあの時········!! 自分の歌を信じて、命を懸けて戦うことすら、その機会すらあの電撃の嵐に毟り取られたのです········!! 奏を失ったあの日の悪夢が、立花の背中と重なって、私の心を········剣としての誇りを錆びつかせ········ッ!!」
翼の瞳からそれまで張り詰めていた想いが崩れるように、一筋の涙が静かに頬を伝い落ちた。
向けられた弦十郎の深く温かい眼差しに耐えかねたように彼女は肩を震わせ、吐き出すような弱音をその口から零した。
防人として、一人の歌姫として。
あまりにも惨めな敗北に対して己への嫌悪感が、涙となってその切れ味の鋭い瞳の奥に滲んでいく。
「無様に倒れ伏したと自分を呪うのなら、その無様さを骨の髄まで噛み締めろ。痛みを忘れた剣などただの飾りだ。行方不明になった響君を想い、己の至らなさに身を灼かれるほどの情熱があるならば、その炎を自らを滅ぼすために使うな。次にあの男と立ち向かう時、その喉元を確実に貫くための力へと変えるんだ」
「次に、立ち向かう時·······?」
翼は何を綺麗事を········!! とでも言うかのように、
「壊滅した都市の只中で、歌すら届かぬこの暗闇の中で················私は一体どうやってあの男に立ち向かえと言うのですかッ!?」
「甘えるな!!」
「ッ!?」
もはやここが病院であるとか関係なかった。
骨が震えるほどの怒号が四方の壁に幾重にも乱反射して、静まり返った病室の重苦しい空気を一瞬にして吹き飛ばす。
弦十郎の放った一喝は、姪への苛立ちなどではない。
己の殻に閉じこもり、防人としての歩みを自ら止めてしまおうとする翼の弱さを力尽くで引っ張り出すため、指揮官としての、そして叔父としての渾身の叱咤であった。
突如として室内に満ちた尋常ならざる威圧感に翼は息を呑んだままベッドの上で言葉を失い、ただ呆然と叔父の顔を見上げるしかなかった。
涙に濡れたその眼差しを真っ正面から射抜くように、弦十郎は太い眉を深く寄せ、自らの熱い魂を言葉に変えて叩きつける。
「己の弱さにばかり囚われるな!! 自分の失態に後悔しているというのなら、今よりも強くなるとここで誓うんだ!!」
「················ッ!!」
「お前の歌は一体何のためにある? 人を傷つけるためか? 違うだろう。お前の歌は·······人を救うための歌のはずだ!!」
その言葉は迷いと後悔に支配されていた翼の心を、熱い槍のように深く深く貫いていった。
かつて天羽奏から託された想い。
そして自らの歌で誰かを守るための剣になるのだと決意したあの日の記憶が、弦十郎の激励によって揺れ動かされる。
どれほど残酷にステージを蹂躙されようとも、彼女の胸にある歌そのものは、決して何一つ失われてなどいないのだ。
「叔父様·······」
「お前がただの刃毀れした鈍らで終わるのか、それともこの屈辱を糧にして一切の理不尽を叩き斬る業物となるのか。それは他でもない········お前自身の意志が決めることだぞ、翼!!」
弦十郎はふんと一つ大きな息を吐き出すと、少しだけ表情を和らげて姪の肩を見つめた。
彼女はその後すぐに顔を俯かせてしまったが、それは悲しみのよるものではない。
「················」
翼は溢れ出る涙を拭おうともせず、ただじっと自らの拳を握り締め、胸の中で防人としての闘志の焔がかつてない熱を持って再燃していくのをはっきりと感じていた。
誇りに感じている後輩、立花響。
あの大好きな片翼が守ってくれた彼女を取り戻すためならば!!
ここで折れている時間など、一瞬たりとも残されてはいないのだ!!
「················申し訳ありません、私が間違っていました」
「翼········」
「自分の至らなさを前に無様に吼えるなど········剣としても、防人としても、恥ずべき醜態でした。私はもう、迷いません。たとえこの喉が焼け切れ、歌声が届かぬ暗闇であろうとも········私はもう一度この剣を研ぎ澄まし、必ずや立花を救い出してみせます」
ゆっくりと顔を上げた翼の切れ味鋭い瞳からは、先程までの濁った絶望の色は完全に払拭されていた。
包帯に包まれたその身からは己の情けなさを押しのけるように、再戦への強固な覚悟を帯びた気迫が静かに立ち上り始める。
自らの過ちを認め、理不尽に抗うための一歩を再び踏み出そうとする姪の姿に、弦十郎は満足そうにその分厚い胸を揺らした。
────その時であった。
ピピピッ、と。
病室の机の上に置いてあった弦十郎の私物である通信端末が、不穏な高音のアラートと共に激しく震え始めた。
街中の電気が停止している中でも正常に作動する着信音。
つまりは秘匿の回線から来た緊急コール。
弦十郎はその通信端末を見つめ、即座に表情を組織の司令官のそれへと切り替え、分厚い手で端末を拾い上げて通信回線を開通させる。
「どうした?」
『司令、 今よろしいですか?』
端末のスピーカーから響いてきたのは、本部のオペレーター席にいる藤尭朔夜の声であった。
「あぁ、今は翼の病室だ。一体どうした?」
弦十郎が短く促すと藤尭は息を呑み、詳細を伝えようと言葉を紡ぐ。
『はい、それが──────』
だが藤尭の報告が最後まで紡がれるよりも早く、本部の通信システムのさらに奥。
メインモニターにあるマイクから響く音がそのまま通信回線へと流れ、慌てた声が大音量で聞こえてきた。
『本部!! こちら切歌!! マル被と思わしき“男の子”を発見デース!!』
「············マル被? “男の子”?」
唐突な警察ドラマとかでよく聞く隠語に、弦十郎は一体なんのことだという感じで目を細める。
その隣で翼もまた、涙の乾かぬ目で通信端末に耳を澄ましていた。
画面のない端末の奥、雷雲の下に広がる街の環境音のさらに向こう側から、暁切歌と思われる少女の緊迫した、しかしどこか必死な叫びが響いてくる。
『現在件のライブ会場前から移動を開始!! これより確保に移るデース!!』
暗黒に包まれた日本の首都圏、そこで偶然捕捉された未知の影。
パヴァリア光明結社の残党や謎の聖遺物が齎した未曾有の災害の只中で、ザババの装者が発見したその“少年”の存在は。
沈黙していた地上の運命を、再び動かそうとしていた。
♡♥♡♥♡
「今日のご飯はどうするデス調?」
「うん········今日も、二九八円のラーメンかな」
時を少し遡り。
月読調と暁切歌はどんよりと張り詰めた空気の中、本日の献立の相談をしていた。今日も学校はお休み、ほとんどの生徒達が実家などに帰省して過ごしている中、残念ながら装者である彼女達は現地に留まることになっていた。
災害の対策も彼女達の組織の仕事の一部、だからこの二人も勝手に街の外に出ることは許されなかった。
いや、そもそも二人は孤児であるため、帰る場所すらないのだ。
強いて言うなら、学生寮か本部が家であろう。
そこを拠点として動く以上、人があまりいなくなったこの街では食材を手に入れるのも一苦労だった。
だから今日もカップラーメン、いつものような真面なご飯ではないことに対して調が申し訳なさそうにしているものの、
「ご馳走デース!!」
元から彼女達はあまり恵まれない環境にいたせいか、プラスチックや発泡スチロールなどの耐熱性の容器に乾燥させた麺と具材にスープの素が入ったインスタント食品すらも高級料理となる。
ある意味、強い子供達であった。
袋の中に収められた二つ分の即席麺のパッケージを大事そうに抱え直し、二人は重苦しい黒雲が漂う商店街から帰路につくべく歩みを進め始めた。
目指す先は超常災害に対応する要塞───『S.O.N.G』の潜水艦本部である。
規格外の聖遺物が齎した余波は、彼女達が暮らす私立リディアン音楽院の学生寮をも例外なく直撃していた。近代的な送電網が寸断され、安全確保のためのセキュリティシステムすら機能停止した薄暗い寮の部屋に留まるのは危険が大きすぎる。そのため学校側からの指示もあり、二人は一時的に本部へと寝泊まりすることを余儀なくされていたのだ。
本部であれば、独自の回線や非常用発電によって最低限の電力や温水が確保されている。
だったら本部の食堂で温かいご飯を食べさせてもらえばいいのにと、いい大人達であれば誰もがそう声をかけたことだろう。
事実、司令のような心が広い大人であればどれほど物資が枯渇していようとも、まだ十代の成長期にある彼女達のために最低でも温かい汁物の一杯くらいは喜んで用意したはずだ。
しかし。
二人はそれを頑なに拒み、こうしてわざわざ不気味な空模様でも街を歩いて、市販の即席麺を買い求めていた。
それは········過酷な過去を潜り抜けてきた孤児としての彼女達なりの不器用な配慮であり、遠慮でもあった。
行方不明になった立花響の行方を捜すために本部の大人達は今、それこそ寝る間も惜しんで麻痺した情報網の復旧に奔走している。
倒れたエルフナインの看病にかかりきりになっている未来の負担や、自分達のようにやることが限られている者を維持するために消費される本部の貴重な備蓄物資の消費。
そうした状況を幼いながらに敏感に察知していたからこそ、『このような非常事態にタダで本部の温かいご飯をいただくわけにはいかない』と、互いに言葉を交わさずとも心の中で決めていたのだ。
自分達の身の丈に合った二九八円の即席麺。
それこそが、今の自分達が甘えて良い唯一の境界線であり贅沢なのだと、幼い背中に装者としての誇りを宿しながら耐えていた。
「早く戻ろう切ちゃん。スープのためのお湯、本部のポットに残ってるといいけど」
「大丈夫デース! もしもの時はそのまま食べても大丈夫ってテレビでも言ってたデース!!」
「それは絶対にダメ。顎が疲れるほど硬いし、口の中を怪我するかもしれないから」
調の微かな苦笑いに、切歌がいつもの快活な笑い声を返す。
街全体の機能が死に絶えたかのような静寂の中で、二人の少女の小さな足音だけが、薄暗いアスファルトの上を規則正しく刻む。
と、そこで。
「あ················」
「·········」
切歌が歩みをピタリと止めたのは、大通りへと繋がる交差点の角であった。
そこに佇む巨大な建造物の影を見上げた瞬間、二人の少女の顔から、さっきまでの穏やかな日常の空気が急速に引いていった。
そこにあるのは、かつて無数の人々で賑わい、大好きな先輩であり世界的なアーティストである風鳴翼が誇り高い聖なるステージに立っていたはずの、ソロライブ会場の跡地であった。
本部に向かう際に必ずと言って良いほど通る場所のため、嫌でも目にしてしまう。そこは今や天を衝くほどの外壁は無惨に焼け焦げ、あの雷の聖遺物が放った苛烈な電撃の余波によって近代社会の象徴であった鉄骨やコンクリートはまるでガラス細工のように粉砕されている。
その上空を重苦しく漂う、雷雲のような黒い雲。
この光景を見ていると、まるで機能を喪失して凍りついた都市の頭上を、巨大な怪物が這い回っているかのようにも思えた。
その黒い雲はまさに今の彼女達の心を表しているようであり、お先真っ暗とでも言いたげだった。
二人にとっても、そして翼にとっても。
今はあまりにも痛ましく、雷雲漂うその場所は、できれば目を背けたくなるようなところであった。
一番の超常災害地ということもあり、会場の周辺には警察組織の手によって黄色いビニール製の規制線が何重にも張り巡らされている。だがインフラが完全に麻痺し、避難勧告が出された今の街には、そこを見張るべき警備の警官すら一人も残されてはいなかった。
ただ沈黙するだけの巨大な墓標。
人が一人も通らない寂しい地。
ここにいつまでも留まる理由はない。
「行こっか、調」
「········うん」
あまりの息の詰まる光景に、胸を痛めた二人がそのままその場を立ち去ろうとした。
「───ん?」
と、そこで。
調の細い眉が、微かな違和感を捉えて不意に動いた。
歩みを止め、再び崩落した付近の奥へと視線を向けた彼女の瞳が小さく見開かれる。
誰もいるはずのない、立ち入りを厳しく制限された黄色いビニール紐の向こう側。
不穏に渦巻く黒雲の下、瓦礫が山を成すその静寂の只中に───確かに一つの異質な“人影”が静止していた。
“そいつ”は周囲を覆い尽くす異様な気配など微塵も気にする様子もなく、ただその場に佇んでいた。
それどころか、まるで古代の遺跡調査でもするかのように足元に転がっている焦げ付いた鉄の破片やコンクリートの瓦礫を素手でひょいと拾い上げては、目の前でじっくりと観察を続けているのだ。
(誰、あれ········警察の人じゃない········)
調の背筋に言い知れぬ悪寒が走る。
僅かに力が残っている街灯から漏れる微弱な光に照らされたその影。
よく見れば、その背中には人間にはあるはずのない、深い闇の色彩を帯びていた異形の『双翼』が静かに折り畳まれていた。
その堂々とした、それでいて人間とは明らかに一線を画する強烈な気配に切歌もまた息を呑み、胸元で即席麺の袋を強く抱き締めた。
正式な報告を本部に届けるべきか否か、その判断を巡って思考を巡らせた。
その時。
「調!! あの子なんだか───“
「!!」
切歌にそう言われて、調はそいつのことをさらに観察するように目を細める。
確かに、似ている。
あの服、現代ではほとんど見かけない古代ギリシャの服、名前は確かキトンだったか。ところどころの色が違うが、あの時見た特徴とほとんど一致していた。
袖がなく、膝上丈の短いアクティブなデザインに、右肩の部分に宝石のついた留め具をつけている。頭に被っている植物の冠も、古代ギリシャで勝者や英雄に授けられた伝統的な装飾のもの。
あんな印象に強く残りやすい服装を着込んだ連中はそういない。
あの時は確か白だったはずだが、黒い服を着ているというのは、おそらくだが変装のつもりなのかもしれない。
色を変えただけで、完全に別人になりすませていると本気で思っているのだろうか?
全然隠せていないが。
犯人は現場に戻ってくるなんて話をテレビの刑事ドラマでよく耳にするが、まさか本当にその場面に出会すなんて。
「「················」」
二人は息を合わせるようにして同時に無言で向かい合った。
言葉を交わす必要などなかった。
互いの瞳に宿る確固たる決意を確かめ合うと、二人は静かに深く頷き、それぞれの衣服の懐へと同時に手を滑らせる。そして素早く取り出されたのは、何の変哲もないプラスチック製の伊達メガネであった。
カチャ、と小さな音を立ててそれを揃って顔へと装着する。
レンズの向こう側でそれぞれの瞳が鋭く引き締まった瞬間、二人の纏う雰囲気は一変した。
それまでの即席麺の袋を抱えた普通の少女としての佇まいは消え去り、さながら闇の歴史を生き抜いてきた隠密か、あるいはあらゆる対象を逃さない尾行のスペシャリストとでも呼ぶべき洗練されたプロの風格がその身に宿る。
········もっとも、メガネを一つかけただけであり、手元にはしっかりと二九八円のカップ麺の袋が握られたままなのだが、本人達の心の世界においては完璧な変装が完了したことになっていた。
目の前いる奴のことを好き勝手に言えないような絵面ではあるが、どちらも何も思っていないようなのでここでは触れないでおく。
二人は音もなく同時に動き出すと、まるで一つの影が路地を這うかのような滑らかな動作で近くの傾いた電柱へと身を隠した。
上空を這い回る不気味な黒雲によって、陽の光すらも完全に遮断された暗黒の檻。
一筋の稲妻すら走らない不気味な静寂の闇に紛れながら、二人は突出した気配を限界まで殺し、規制線を越えて歩き始めた黒い少年の背中をじっと監視下に置く。
標的から決して目を離さず、その間に二人は本部との連絡を取る。
変装としてはあまりにも大雑把すぎる両者であるが、目の前にいる少年は気付く様子はない。
♡♥♡♥♡
彼にとって人がいないというのは好都合であった。
今この街の住人には避難命令が出されているのか、限られた場所以外には人の気配はない。さっきのゲーム屋さんは被害を免れた地点にあったため通常営業を許されていた。
だが客もいないのでは意味がないと思う。
ある意味店主もこの少年のことを不審に思っただろう。わざわざこんな時にゲームソフト買うのか、と。
だが。
そんな地上の人間が抱く感情など、彼にとっては意に介するほどのことではなかった。
手に入れたパッケージ版のゲームをビニール袋に入れたまま、少年は足元に転がっている焦げ付いた鉄の破片を一つ、素手でひょいと拾い上げる。
「········」
少年は指先に感じる微かなエネルギーの残りを確かめるように、その表面の焦げ付きをじっと見つめた。
ただの超高圧電流による熱融解ではない。
コンクリートの分子結合そのものが反発を起こして崩壊している、その異質な破壊の痕跡。
地上のいかなる兵器をも超越したその気配を、彼の優れた観察眼は一瞬にして正確に見抜いていた。
(間違いないな········これは人間どもどころか、俺達が扱うような生半可な神器の類じゃねぇ)
それは少なくとも、彼がいつも使っているようなものではない。
今はもう失われてしまったが、数々の怪物達を討ち倒してきた“三種の神器”に近い、いやそれよりも強力なものであった。
まさしくそれは、最高神しか扱えないと言われている『雷』の神器。
それが地上の者の手に渡り、圧倒的な破壊力を以てして、この惨状を引き起こしたという事実が瓦礫の表面から伝わってくる。
状況を正確に把握した少年は持っていた鉄屑を放り捨てると、その場に佇んだまま自らの頭の奥深くへと意識を集中させた。
次元の壁を越え、神の領域へと直接意志を繋ぐ天界の住人特有の特殊な術───『念話』の展開である。
「おい、聞こえるか」
少年がそう呼びかけると、瞬時に彼の脳にあの勝気で超ワガママな上司の声がダイレクトに響き渡ってきた。
『まったく·······そなたはいつになったらわらわのことを名前で呼んでくれるのじゃ?』
「名前なんてどうでもいいだろ」
『ほう、そうかそうか·······で? どうしたのじゃ“ブラピ”?』
「ブラピって言うな!!」
脳に直接響き渡ったその不名誉な略称に対し、少年はまるで重いアレルギー反応でも引き起こしたかのように露骨に顔を顰め、全身の毛を逆立てるような態度を隠そうともしなかった。
“ピットの色違い”、“黒いピット”だからそう呼ばれ、挙句略されるという失礼極まりない呼び方。
その侮辱的な響きを持つ言葉をよりにもよって自分の上司を自称する神から投げかけられた事実が、彼の誇り高い精神を激しく逆撫でする。
そんな少年のあからさまな反応などどこ吹く風といった様子で、脳裏の奥から響く高飛車な少女の声は、さらに愉悦を深めるように弾んでいた。
『そなたがわらわを敬う姿勢を少しも見せぬから、わらわもそなたが嫌がる呼び方をわざわざ選んでやっているのじゃ。神聖でとても偉い、自然の王たるこのわらわをぞんざいに扱うなど、一◯◯万年早いわ!!』
「·······チッ」
『気のせいかのぉ〜? 舌打ちが聞こえた気がするのぉ〜? 投げキッスの聞き間違いかのぉ〜?』
どれほど不快感を露わにしようとも、このワガママな神はそれを上質な玩具でも見つけたかのように面白がり、さらにからかいの度合いを強めてくる。
その性質は天界の女神が発揮する大雑把な悪ふざけとはまた異なる、純粋な子供っぽさと大人の余裕に満ちていた。
少年は苛立ちを噛み殺すように深く眉を顰め、頭に響く声に鬱陶しそうに、そしてわざとらしく舌打ちしたら、
『自分がされて嫌なことは人にしないようにとあれだけ教えたじゃろう!! ほんとそなたという子はまったくもう!!』
「俺に命令するな。これ以上ふざけるようなら念話を切るぞ」
『おっと待て待て、そうやってすぐに怒るのがそなたの悪い癖じゃぞ? それで、わざわざこのように念話を繋いできたということは、地上の調査に何か進展があったのじゃな?』
声の調子を少しだけ引き締め、本来の目的へと話題を戻した。
少年は小さく息を吐き出すと、視線を足元の瓦礫から、ライブ会場の崩落した天井の奥へと移す。
「あぁ·······ゼウスの神器についてだ。今この街の真ん中にあるライブ会場の跡地に立ってるが、残された破壊の痕跡から見て間違いなく本物だ。ただの神器じゃまずここまでにはならない、しかもこの惨状から見て、地上の人間の手に渡ったと見るのが妥当だろう」
『なんと!? あのゼウスの神器がよりにもよって人間の手に!?』
脳内から伝わってくる声には、明らかな不快感と焦燥の響きが混ざり始める。
彼女は人をあまりよく思っておらず、よりにもよって地上の忌々しいサル風情が神器を我が物とし、しかも世界中から雷を奪い去って自然の調和を歪めているという事実は決して看過できるものではなかった。
「ま、あくまで可能性だがな。それでも、この状況を見た感じじゃそうなんだろうぜ」
『ふむ、そうか·······それでそやつは今どこに?』
「さあな。それを調べるのは俺の仕事じゃないと思うが?」
『な、なんじゃその言い草は!? そなたは自然軍の幹部としての自覚が足りんのではないか!?』
「元からねぇよそんなの」
『ムムムムムムムムム··············ッッッ!!!!!!』
頭から響く少女の声に、明確な苛立ちのトーンが混ざり込む。
自然軍の幹部となっている者からこれほどまでに無礼な態度を取られたことが余程お気に召さなかったのか、彼女は通信の向こう側でムゥ!! と頬でも膨らますかのような音を響かせる。
神聖なる自然界の王としての面目を丸潰れにされたことへの小さな反発であったが、それ以上追及してもこの素直ではない少年が態度を改めないことは、これまでの付き合いで充分に理解している。
『まあよい。今は神器がどうなったかわかっただけでも充分な収穫じゃ。そやつがどこにおるのかはそなたが戻ってきてから調べることにするとするかのう』
「あぁ、そうしてくれ」
少年はめんどくさそうに短く投げやりな返答をした。
用件が済んだのであれば今すぐにでもこの鬱陶しい通信を切ってさっさと帰還したかった。
しかし通信はそこでは終わらなかった。
むしろここからが彼女にとっての本番であると言わんばかりに、頭に響くその声の温度が突如として跳ね上がる。先程までの最高神の不祥事に対する懸念など綺麗さっぱり忘れたかのような、純粋で期待に満ちた声。
『それで·······例のブツは手に入ったかの!?』
「··············お前、一応聞くが自分の配下がうつ病になったから俺をここに来させたんだよな? 自分の目的を優先してないか?」
『な、なんじゃと!? ひ、人聞きが悪いことを言うでないわ!! わらわにだってちゃんと考えがある!! わらわはそなたが手に入れたそのゲームを一緒にやることでエレカのことを慰めようと────!!』
「うつ病患者にそれは酷だと思うが?」
呆れを通り越して冷ややかな視線を投げかける少年の脳裏で、彼女は図星を突かれたのかさらに通信の向こう側で激しく頬を膨らませた。
実際のところ、今回彼がこの薄暗い地上へと赴くことになった最大の理由は、自然軍最強の戦士である“電光のエレカ”の異変に他ならない。
最高神ゼウスの神器が紛失したことで世界から稲妻が失われ、力の源である電気を補給できなくなった彼女は過剰な喪失感とストレスから精神を病み、自室に引き篭もってしまっていた。
それを聞いた彼女は自分なりに大切な配下の身を案じた結果、『心の傷を癒やすためには楽しい娯楽をみんなで共有するのが一番じゃ!』という、あまりにも子供らしい理屈を言い出したのだ。
そうして発売されたばかりの最新ソフトを彼に買ってこさせ、引き篭もっているエレカの部屋に強引に持ち込んで一緒に遊ぼうという無鉄砲な計画を立てたのである。
心が深く傷付き、無気力に陥っている者に対して最新の対戦ゲームで無理に盛り上がろうなど、外の世界から受ける刺激としては強すぎて却って逆効果になりかねない。
「大体、エネルギー切れで引き篭ってる奴がゲームなんかできるわけねぇだろ。仮にそういうの勧めたいんだったら“あつ森”でもやらせるんだな」
『あれも意外としんどいぞよ? 島の開拓にかなりのこだわりが必要じゃからの』
その言葉はかつて彼女が自然の領域を広げるために、それこそ地球の環境そのものを初期化爆弾で強引に塗り替えようとしていたあの頃のこだわりをどこか奇妙に想起させるものであった。
世界を緑溢れる場所へと戻すという崇高な理想を掲げながらも、破壊という手段でしかそれを成し得なかった己の矛盾。
それに気付いて爆弾という物騒なものは捨て去り、別の道を探し始めた彼女が今や地上の箱庭ゲームの島開拓にまで同じような熱量を注いでいるという事実は、なんとも形容しがたい皮肉が混ざり合っている。
「ならもうどうでもいい、さっさと転送しろ。これ以上無駄話をする必要はない」
少年は心底から疲れ切ったように片手を額に当て、これ以上の無意味な押し問答を強引に遮断しようと言葉を投げた。
『良かろう、じゃがここでは人目に付く。人間どもが少なくなっているとはいえ、万が一誰かに見られでもしたら面倒じゃ。近くの路地裏にでも向かうがよい。そこで転送をする』
「チッ·······」
彼女の冷静な状況判断を伴う提案に、少年はめんどくさそうに吐き捨てるようなため息をつき、その歩みを交差点を抜ける方向へと進めようとした時。
「コラァ!! そこのお前!! 待つデース!!」
機能を喪失して凍りついた都市の静寂を強引に引き裂くような、快活でありながら切迫した少女の叫びが響き渡った。
背後から聞こえてきた女の声に、少年は『あ?』と振り返った瞬間。
「デースッ!!」
「うぐぉッ!?」
ガッと腹に重い衝撃が走る。
電柱の陰から飛び出してきた切歌は勢いが余るあまりにブレーキが間に合わず、そのまま少年の正面へとラグビーのタックルの如き速度で激突したのだ。
すると。
そして。
結果。
『あ』
その声を聞いていたものは一人だけだったろう。
だが本人はそれどころではなく、
「く、くそ·······だ、誰だ一体·······!?」
「ようやく見つけたデスよ!! さぁ!! 響さんをどこへやったのか白状するデース!!」
「はあ·······?」
唐突な展開についていけてない少年であるが、切歌はお構いなしにその体に馬乗りになり、
「しらばっくれても無駄デス!! こっちはもうネタはあがってるんデス!! お前が響さんを連れ去ったって証拠は、私達がこの目でちゃんと目撃してるんデスから!! 観念するのデース!!」
「響って誰のことだよ!? さっきから意味のわかんねぇことばかり言ってんじゃねぇッ!!」
「往生際が悪いヤツデスね!! そう言うのなら本部まで連行してやるのデ────」
「
「「··············え?」」
鼓膜に直接突き刺さるような、張り詰めた怒号。
泣き声にも似たその高い叫び声は念話の奥からではなく、文字通り彼らのすぐ至近距離から響き渡った。
馬乗りになって少年の胸ぐらを掴みかけていた切歌の手が、その尋常ならざる気迫に思わずピタリと止まる。縺れ合ったまま地面に転がっていた二人と、後方から二九八円の即席麺の袋を抱えて駆け寄ろうとしていた調の視線が、同時に声のした方角へと吸い寄せられた。
そこに立ち尽くしていたのは、一人の小さな女の子であった。
見た目は八歳前後の人間の幼い少女そのもので、大柄な弦十郎や装者達と比べれば非常に小柄な姿をしている。その頭部を飾るボリュームのある鮮やかな金髪は、綺麗に切り揃えられた前髪の横で快活なサイドテールとなって激しく揺れていた。
その大きな瞳には今や地上の暗黒をも焼き尽くさんばかりの憤怒と絶望の炎が宿っており、彼女が纏う赤を基調とした豪奢なドレスの裾が、怒りによる小刻みな震えに合わせて激しく波打っている。
あまりにも場違いな神話の衣装を身に纏ったその幼女の出現に、切歌は伊達メガネの奥の目を丸くした。
「な、なんデスか········この子は?」
「おい········お前、なんで地上にいやがる········!?」
「やかましい!! そんなことどうでもよいわ!! それよりもそなた!! 自分が何をしたかわかっておるんじゃろうな!?」
「え?」
切歌が馬乗りになったまま呆然と声を漏らす中、琥珀のような大きな瞳に大粒の涙を溜めた幼女は小さな人差し指をピシッと指して激しく詰め寄ってきた。
「わらわ達はこれまで地上への干渉が禁止されており、だからゲームもあまり手に入らなかったんじゃぞ!! 抽選に抽選を重ねた結果ようやく本体が手に入っても、それをやるためのパッケージ版は別売り!! 手に入れようにも地上に行ける日は限られてるから買いに行くのも一苦労!! それをそなたはなんてことを!! せっかく手に入ったのに!! 万死に値するのじゃ!!」
「え·······え?」
地上の人間には何一つ理解できないであろう、神々の世界の事情。
憤怒と悲痛が入り混じった幼女の鋭い絶叫が周囲に響き渡り、ドレスの裾をバタつかせながら泣きじゃくる姿に、さすがの切歌も勢いを押されて身を縮めさせた。
引き篭っているエレカのために、そして何より己の最大の娯楽のために、幾重もの厳重な制限を乗り越えてようやく確保した至高の現物。
それが地上の人間の猪突猛進な一撃によって文字通りのガラクタへと変えられてしまったのだ。
「ば、万死って········!? こ、壊しちゃったのは悪かったデスけど、こっちだって大真面目に響さんの手がかりを追って────!!」
「地上の人間の事情など知ったことではないわぁ!! わらわの楽しみにしていた新作を木っ端微塵に粉砕しておいて、言い訳など片腹痛いわ!!」
頭掻き毟ってる幼女にどうすればいいのか戸惑っていると、離れたところで見ていた調がようやく近づいてきて、
「お、落ち着いて·······!? ね? 良い子だから────!!」
「バカ!! バカ!! ビーム!!」
もう何もかもが訳がわかんないことになっていた。
下敷きになったままのブラックピットは、目の前で繰り広げられるあまりにも頭の痛い光景に、
「おい、いい加減にしろナチュレ·······!!」
と、不機嫌そうに声をあげるのが精一杯であった。