『問1:三角形ABCは、AC=9.5cmで、面積が15c㎡ です。BCの真ん中の点をDとすると、角ADC=135°になりました。このとき、ABの長さは何cmですか?』
『問2:1円玉・5円玉・10円玉が、合わせて20枚あります。合計70円にするには、それぞれ何枚ずつになる?』
『問3:ジュース1本が120円で、1本に券が1枚付いてきて、券8枚でそのジュースと交換できます。(交換したジュースにも券が付いてきます)最低300本のジュースを買うとすると、安くていくらになりますか?』
『問4:とある本棚には、上段・中段・下段の3ついていて、全部で150冊の本があります。中段の棚からは5分の1の本を取り除き、上段の棚から18冊の本を下段に移動しました。その結果、上段と中段の本の数が同じになり、下段の数は上段の本の1.5倍に。さて、初めの段階で上中下段には、それぞれ何冊本があったか求めて下さい』
『問5:彼女aは彼氏bと恋愛関係のもつれが原因で別れることになりました。彼氏bは彼女aと同棲していましたが、別れることにより私物を持って出ていかなければなりません。彼氏bは引越しのため、車を運転して家から引越し先までの距離を往復した。行きは時速40km。戻りは時速60km。では、彼氏bの車の平均時速は?』
「って、言ってること全然わかりませェェェえええええええええええんッッッ!!!!!????」
「“響”!?」
紙に印刷された細かい質問文の文字を追っかけていくごとに少女の眉間の皺の数は増えて行き、許容量を超えたところで彼女は大量に置かれた紙束を真上に放り上げ、両手を天井に伸ばしたまま甲高い奇声を上げた。
「全然終わる気配がしない!! そもそも芸術系の学校なのになんでこんな難問突きつけるの!? 難しすぎてもう何が何だかわけがわからないよっっっ!!???」
「ひ、響!! 煮詰まっているのはわかるけどこんな夜中に奇行に走らないでっ!?」
バサバサバサー!! と大量の鳩が空へと飛び立った後に舞い降りてくる白い羽根のように降り注ぐ宿題の中、同じルームメイトの“小日向未来”が慌てて止める。
女子高生向けの部屋に絶叫が響き渡る。
親友の声が聞こえても『彼女』の脳内は数字で渋滞しているのか、思考を爆発させた。
“立花響”。
本当なら普通の高校生活を過ごしている彼女は、現在目の前の宿敵と対峙している。
『救済措置補習課題・数学計算問題集』とプリントされた紙が散らばった部屋の中、響はアタマがこんらんしてふしぎなおどりを踊っていた。
思考は完全に停止。
そう、課題。
出席日数が足りない救済措置として与えられた膨大な量の課題。彼女はとある事情で出席日数が足りなくて、それで先生達に迷惑をかけてしまい、悪いとは思っていても先生は容赦がなかった。
よって響は苦難にぶち当たっていた。
本来なら今日、もうちょっとドラマチックな日常を送るはずだったがそうはいかなかった。
ドラマチックというか、アニメチックでファンタジックかつアクロバティックな平穏とはかけ離れた日常を幾度も過ごしてきたわけだが、普通の日常というものに苦しめられる日が来ようとは。
今更ではあるものの、この苦しみはどうやっても慣れない。
ある意味、“彼女がいつも戦っている敵”なんかよりも厄介だった。
彼女には、とある“使命”がある。
彼女は普通ではない。普通ではない日常を送っている。
“聖遺物”
“神話”
“認定特異災害”
彼女はそんなものと関わって世界の平和を守るという、一般人からすれば意味不明な任務を手伝っている。
ここで、手伝っているという単語が重要だ。
手伝っていることにより、彼女は平和な日常を過ごす時間がない。
本当だったら、彼女はそんなことをする必要はないのだ。
昔、彼女はとあるライブ会場で認定特異災害、“ノイズ”と呼ばれる化け物の襲撃に遭遇し、否応なく戦いに巻き込まれて瀕死の重傷を負ってしまうという悲劇的な過去を持つ。深手を負って動けなくなった響であったが、その時命の恩人とも言える『彼女』の言葉を胸に刻み、託された想いを継いで彼女は人助けをしている。
『生きるのを諦めるな』
『彼女』が残したその想い、それが『歌』として胸に浮かび、その身に“聖遺物の破片”を纏った。
認定特異災害“ノイズ”を唯一倒すことができる兵器、『シンフォギア』。
それに適合した立花響はノイズの討伐を目的とした組織に正式に所属しており、これまでに多くの事件に関わって、その過程で人助けをするという活動を続けている。
所謂非日常と日常の両立というわけだ。
だから早めに宿題をやっておかないと今日みたいに補習課題が出され、残り時間をあっという間に使い切って提出できなくなって留年なんて最悪な運命になりかねない。
というわけで、彼女は早めに勉強に臨んでいる。
しかし。
しかし、だ。
「こんな堅っ苦しくて文字だらけの問題を並べられても情報整理が追いつかない! 面倒臭いっていう邪念に思考が全部弾かれちゃうんだよぉ!!」
「は、はぁ·······」
「むしろ重要なのは問題だよ!? 制限時間いっぱい使って私の頭脳を活性させて留年を阻止させるっていうのも大事だけど、なんで言葉だらけの問題集をこんなにたくさん作るの!? なんか妙に切ない問題もあったし、学生にやらせるレベルじゃないよ!! 頭がパンクするよ!! まずはなぜ別れることになったのかとかの原因を徹底的に調べて和解させてよりを戻させるほうが絶対手っ取り早いよっ!!???」
ゼェ、ハァ。
と、立花響はキャラ崩壊するほどに混乱していた。
どうしようもなくなるともう踊るしかないみたいな状況になった響は一通り叫ぶと、テーブルや床の上に撒き散らかされた問題集から逃れるように後ろへバタンと倒れ込む。彼女は人助け精神は立派であるものの、そのせいで勉学方面は疎かにしていて留年一歩手前危機一髪な人間である。それにたとえ数学を終わらせても、その先には古文やら世界史やら科学といった『問スター』が控えているのもあって、響の精神は多分に追い詰められていた。
そんな彼女を見かねた親友、小日向未来は呆れたようにため息を吐くと、
「仕方ない·······一旦休憩にしよっか」
「本当!?」
やったー、と急に元気に起き上がる響。
そんなに元気なら課題終わらせなよとも思うが、口にはしなかった。
「うん。それじゃあ休憩ついでにお夜食でも作ろうかな。何がいい?」
「未来の作ったものならなんでも嬉しいよ!!」
それが一番困る。
具体的に言ってくれないと本当に望んでいるものがわからない。
だが、そう言うのならばそうしよう。
未来は立ち上がって台所スペースに向かう。
これもまた長年の付き合いからくる信頼関係か。
決して離れることのない固い絆で結ばれている彼女達は、なんだかんだでいつの間にか言葉もなしに通じ合っている。
起き上がったもののテーブルの上に倒れ込んではリモコンを手探りで探し出して掴むと、テレビの電源をオンにする。
映っているのは天気予報。
巨大な日本地図をバックに、スーツを着たお姉さんがニコニコ笑顔で洗濯物乾き指数を告げている。
少し前までは紫外線情報だったので、平凡なる高校生としてはこの辺りに小さな季節の移り変わりを感じる今日この頃だ。
とは言っても、ここ最近は曇りまたは雨続きで洗濯物が乾かない日が続いている。
切り株の年輪みたいなのを指差して天気を伝えるお姉さん。
響はそれでさえよくわかっていなかった。
「これで何で明日の天気って分かるんだろう? 私にはさーっぱり分かりませーん」
「·······授業で習ったんだから等圧線ぐらい覚えててよ響」
それすらも理解していない響にキッチンスペースから未来の呆れたような声が返ってくる。
気圧の山とか谷とか見て雲ができるかどうか大雑把に調べているということは授業で習ったというのに。
響はえへへ〜、と笑って誤魔化し、
「でも最近本当に雨マークが多いよね。これだけ多いと雷も落ちてきそうだよ」
「確かにね。今日だって雷雲みたいな黒い雲が多かったし、それでも雷鳴の一つすらなかったから安心だよ」
「お? 未来、もしかして雷が怖かったりする?」
ニヤニヤと笑って見てくる響。
未来はついビクッと肩を震わせて、
「そ、そんなわけないじゃない·······」
「安心してよ未来!! もし落ちたとしても、未来のおへそは私が絶対に守るからァ!!」
「ちょっ!? や、やめてよ響!!」
「ほらほら〜、未来の可愛いおへそが雷様に取られないようにしないと〜!!」
「も、もう!! 響ったら·······ッ!!」
ガバァ! と勢い良く立ち上がってキッチンまで行くと未来のお腹を両手で押さえる響。
全力で面白がってくる親友から未来はフライパンを巧みに操り、本日のお夜食を作り上げる。
少女達は深くは答えない。
今世界で何が起きているのかも把握せず、二人は夜食に手を合わせる。
テレビ画面に映っていた天気予報は終わり、今度は今週の話題ランキングが始まっていた。
一位は、
【興奮と熱狂、そして感動をあなたに!! アーティスト“風鳴翼”のライブがいよいよ明日!!】
「あ! いよいよ明日だね〜!! 翼さんのライブ!!」
テレビから流れる憧れの人の歌声が聞こえてきて、響は夜食を食べながらテレビにも食いつく。
彼女は興奮するように映っている翼に目を輝かせている。
「いや〜楽しみだね〜!!」
「そうだね·······課題が終わってないから響は行けるかわからないけど」
「ゔ·······っ!!」
実はこの少女達は日本が誇るトップアーティストと知り合いであり、その関係で特別枠としてライブに招待されている。彼女は世界からも注目される格別の有名人であり、知らない人なんてほとんどいない。
そんなスターとまで知り合いになれるとは、いい時代になったものだ。
─────しかし、
「課題さえ提出すれば追試も補修も免除されるのに·······終わる気がしない」
再び肩を落としてため息をつく響。
そんな彼女を、長年の親友である未来は励ましの言葉をかける。
「わかったら響、ちゃんと終わらせよう? 私も手伝うからさ」
「うぅ〜、未来〜!!」
「私だって響やクリス達と一緒に翼さんのライブに行きたいんだからね。響だけ来れなくなった、なんてことになったら用意してくれた翼さんにも申し訳ないしね」
「未来〜!!」
響は歓喜のあまり目尻から綺麗な涙を流し、思わず未来に抱きつこうとする。
それを未来はヒョイと避け、響は課題が散らばっている床へとヘッドスライディングしていく。
「なんで避けるの!? 感謝のハグをしようとしたのに!?」
「そんなことをする暇があったらさっさと終わらせよう? ほら、続きの課題はどうしたの?」
「え〜っと·······」
ここで今の状況を振り返ってみよう。
立花響は先程取り乱してしまい、山ほどある課題を床へとばら撒いてしまった。ゴチャゴチャと散らかっている紙の山、あの片付けができないトップアーティストのことも笑えないくらいに散乱している。
「·······」
「·······」
立花響と小日向未来はそれぞれ顔を見合わせる。
時間がないというのにやることを増やす響。
小日向未来の大いなる優しさと、立花響の駄目っぷりを比較し、なおかつこの与えられた時間の中で一刻の猶予が奪われると少女達の未来にどれだけの影が差すかなども推測してみる。
沈黙する事およそ数秒。
顔が青くなるのにそう時間はかからなかった。
「しまったぁッ!?」
「もう!! その場の勢いに任せるからこんなことになるんだよ!?」
「お説教は後でいくらでも受けるから一緒に探して未来〜!!!!!」
タイムリミットまであとわずか。常識的に考えてそれまでに終わるはずがない。
だとしても。
この胸に託された生きる想いを無駄にせぬよう。
最速で、最短で、まっすぐに、一直線に。
立花響は、乱筆乱文で課題を終わらせていく。
♡♥♡♥♡
ライブの会場となる貸切アリーナ。
中央にあるセントラルステージ、その周囲に大量の椅子が広がっているという構造になっている。
アリーナの中央。
スタッフが舞台装置の確認をしている。
暗い会場の中、櫓のようにせり上がった舞台だけが下方から幾つものスポットライトに照らされ、光に溢れている。
その真ん中。
光の粒子で縫製されたかと見まごうような煌びやかな衣を纏った歌姫が立ち、会場中に声を響かせていた。
綺麗で所々カッコよさを追求した言語で構成された、まるで雷鳴が轟いて嵐が吹き荒れるような派手な曲調がスタッフ達の鼓膜を震わせる。
意図せずスタッフ達の喉から感嘆のような声が漏れてしまうほどの歌声。流れる曲はスピーディで追いつけるかわからない。だが、その歌声が紡ぐ曲調はまるで耳を通って脳幹に染み渡るかのような錯覚を覚えるほどに圧倒的な力を有していた。
「ハーイ! リハOKです!! 最高でしたよ“翼さん”!!」
「はい、ありがとうございます!」
華やかで煌びやかなステージとは対照的に雑多な空間。
彼女が通るであろう薄暗い通路の両脇に様々な装置が積み重ねられ、そこにいたスタッフが元気よく親指を立てて微笑んでくる。
皆、意図せぬままに小さな声を発していた。
ステージの中央に世界の歌姫の風鳴翼が立ち、会場を一望して明日のライブのリハーサルをしていたのである。
神秘的。
もしくは異次元の光景。
これは、アイドルの迫力によってそう見えるのだろうか。それとも、風鳴翼の持つ魅力的なオーラというやつのせいなのだろうか。
思わず気圧され、皆が感動している。
一通り歌い切った翼は休憩に入る前、手に持っていたマイクで会場中にいるスタッフ達に告げる。
「皆さん、明日もどうか全力でサポートの程よろしくお願いします!!」
そんな声に、会場中に散らばっているスタッフ達からの歓声が響き渡る。
彼女は感謝するように礼をすると、休憩に入るためにステージ裏へと入っていく。
裏は表とは違ってそこまで綺麗ではなく、むしろ道具があちこちに乱雑に配置されていて通りづらい。光もあまりなく暗い通路の中、それでも慣れている彼女は堂々と歩いていく。
と、
「お疲れ様です。翼さん」
前から男性の声が飛んでくる。
その声に顔をあげる翼は、微笑んで、
「“緒川”さん!!」
彼女のマネージャーである、“緒川慎次”。
眼鏡を掛けた好青年で、彼の見せる笑顔はとても暖かった。アーティストとして活動する彼女が夢に向かって全力で羽ばたけるように、ずっと支えてきてくれた存在。
ちなみに、トップアーティストとして活動する翼をよく思わない連中が送り込んでくる刺客を撃退し、必要とあらば大本のヤクザなどの事務所に突入して単独で壊滅させるだけの戦闘力を発揮する、ちょっと凄いマネージャーでもある。
慎次はリハーサルを終えた翼にスポーツタオルを渡し、ストローのついたドリンクボトルを手渡す。
「リハーサルとても良かったですよ。あ、これ差し入れです」
「ありがとうございます」
貰ったタオルで顔の汗を拭い、ドリンクを受け取った翼はチューチュー吸いながら喉の渇きを潤す。
リハーサルも完璧にこなす翼に、慎次は一度眼鏡を外す。
その行動はマネージャーモードを切り替えるための彼の癖であったが、今回はそういうわけではなく単に眼鏡についた霜を拭うために一回外して、レンズに傷がついたりコーティングが剥がれたりしないようにマイクロファイバー製の布で綺麗に拭き取っていく。
その間、彼は控え室に戻る翼の横を歩き、
「これで、明日のライブはバッチリですね」
「はい、見てくれる人達の期待を裏切るわけにはいきませんから」
「·······何事も全力で向かっていく翼さんの歌声は、きっと“奏さん”にも届いているでしょうね」
「············はい」
翼は慎次の言葉に笑いかける。
“奏”。
本名は“天羽奏”。
『片翼』と呼ぶべき存在。
かつて、風鳴翼と一緒に組んでいたパートナーであり、彼女にとって心の支えであった。彼女はとても明るく、奔放な言動が目立っていたが、当時気弱だった翼をサポートして一緒に羽ばたいていた。今はもう一緒に歌うことはできないが、彼女が生きた証を残すように歌い続けている。
一緒に隣で歌っていたそんな彼女の想いを胸に、翼は今日という日を全力で生きている。
弱かった自分を支えてくれた、彼女の姿を思い浮かべつつ、
「私は恵まれていますね」
「翼さん?」
「この日のために私を支えてくれた奏···········それだけじゃない、音響スタッフに衣装デザイナーさん。ステージ、演出、照明、特効だって。何一つ欠けても成り立たないこのライブを、全力で支えてくれているみんながいます。そして─────」
翼はスキップするように慎次の前に出ると、
「私のライブを楽しみにしてくれているみんながいる! 私は決して一人で歌っているわけではない、そんな幸福を改めて噛み締めていますよ」
「翼さん···········」
「私を支えて導いてくれる緒川さん、このライブを強く支持してくれたトニー・グレイザー氏···········未熟だった私の背中を押してくれた立花達。共にステージに立って、隣で歌ってくれたマリア。みんながいてくれたから、私は今日まで羽ばたいて来れたんです!!」
そう言って笑顔を見せる翼。
彼女は救われた。
この広い空を羽ばたくための翼の片方を失った時、その歌声から湧き出る想いは絶望しかなかった。墜落したイカロスが地面に叩きつけられたように、目に灯る光が死んでいた翼であったが、ここまで彼女が再び羽ばたけたのは仲間達がいたからだ。
それのどれかが一つでも欠けていたら、彼女はそのまま息絶えるように歌うことしかできなかったはずだ。
それでも、彼女はまた思いっきり歌えるようになった。
目を閉じたら聞こえてくるんだ、彼女達の応援してくれる声援が。
翼はニッコリと笑って、指を一本立てて慎次の鼻先の前に立てると、
「だから緒川さん、これから大空へと羽ばたく風鳴翼から目を離さないでください」
思わず笑みを浮かべる慎次は、マネージャーとして彼女が全力で羽ばたけるようにサポートすることを誓い、その拭き終わった眼鏡を掛け直して、
「勿論です、翼さん」
優しく頷く。
これからのことなんて誰にもわからない。
ずっと羽ばたいていけるという保証もない。
それでも。
だとしても。
託された胸の歌を、彼女は歌い続ける。
(見守っててね···········奏!!)
そう心に思って、翼達は控え室へと入っていく。
翼は、一つでは空へと羽ばたけない。二つ揃っていないと、飛ぶことはできない。その失った翼を、彼女は頼れる仲間達と出会えたことで取り戻すことができた。
決して折れることはない、強い翼。
風を受けて羽ばたく翼のように、
彼女は、
風鳴翼は、
♡♥♡♥♡
『それ』は確かに見守っていた。
天界。
歴史を感じさせる外観から想像するのが精一杯という謎と魅惑に包まれた空間であり、多少なりとも地位や権力といったものを意識する『女神』であるのならばそこに居座るに値する、玉座そのものと言っても過言ではない確かな『場所』だ。
人間にはあまり縁のない、それ故に徹底した神聖さが湧き出るこの建物は、地上で起こっていることを全て見通せることができる設備が整っている。
誰も入ることがないよう、柱の配置から壁紙の模様、西洋ランプの光量に至るまでその全てが女神の加護という『奇跡』によって単一のトラップとして機能する。
館そのものが巨大な一つの装置である以上、『要塞』として、夢という夢を詰め込んだものをそのまま実現させたような設計思想を持っているのだ。
そんな場所も、現在は陽光に包まれていた。
地上と天界では想像できないほどの時差があるのだ。
人間から勘付かれることはなく、隠れて地上を見渡せるそんな神殿の中で、
『今日は私の歌を聴きにきてくれてありがとう!!』
『『『『『『『『『ウオォォォオオオオオオオオオッッッ!!!!!』』』』』』』』』
『みんなの想いは全部受け取っている··········だからみんなにも、私の胸の歌を受け取ってほしい!!』
『『『『『『『『『ウワァァァアアアアアアアアアッッッ!!!!!』』』』』』』』』
響く声。
神殿の中にはそれほど人はいない。なのに大勢の声が重なって聞こえてくる。
『まだまだこれから!! どうか今日は最後まで楽しんでいってください!!』
『『『『『『『『『ウワァァァアアアアアアアアアッッッ!!!!!』』』』』』』』』
神殿内部にある噴水。
別に大した装飾もされてなく、無難に水盆のように水が溜まっている。
もはや池では? ってくらい大きいそんな噴水から綺麗な女性の声が聞こえてくると同時、軽快な伴奏と甲高い歓声が鳴り響いた。
噴水に溜められている水面には今、フリルに飾られた衣装を纏ってステージで歌い踊る蒼い髪の女性の姿と、その前方に広がった紫色のサイリウムの絨毯が映し出されている。
映像は粗く、どう見ても公式販売されているライブDVDなどではなかった。それもそのはず、どうやらこの『女神』が
「
鮮やかでたっぷりとした緑色の髪は膝まであり、白を基調とした美しい装飾が施された衣服と様々な模様を象った金色の装飾が目を引き、髪の毛と同じ緑の瞳を細める“その女性”は美しい声音を響かせる女性の姿を楽しく眺めている。
いつもは神聖な杖を持っているのに、何故かその手にはポキっと折ったら化学発光で綺麗な色の光を灯す不思議な棒が握られている。そんな棒を流れてくる音楽に合わせ、頭の上で縦横に振ったりしている。
側から見たら奇妙な光景。
噴水の前で楽しげに舞い踊り、美しい声音を響かせる女性の歌に共鳴している。
「〜〜〜♪」
鼻歌が反響する。
神秘に満ちたその空間を見れば、ギリシャという神話に神々しさを抱き高貴なイメージを巡らせている連中は腰を抜かすかもしれない。
噴水と言ってもただの噴水ではない。
地球で起こるありとあらゆる出来事を見通せる水が湧く、千里眼の泉だ。
その昔、とある『天使』がこの噴水から湧き出た大乱闘と言えるお祭り映像に目を奪われ、つい自分もジャブとかして興奮していたというエピソードがあるが、それはまた別の話。
そんな噴水で“その女性”は現代の地上界で起きている光景を眺めているが、明らかに私事的目的で使っている匂いがぷんぷん漂っている。
それもそのはずだ。
“彼女”はこれを使って人間達を見守っているのだ。
だからこれは仕事である。
現在、“彼女”は人間達を見守るという仕事をしつつ、ちょっとだけならいいよね感覚で趣味のアイドルの映像を見ていた。つい最近見つけた今流行りのトップアーティスト、風鳴翼のライブ映像。“彼女”はそんな人間にすっかりハマって気に入っているようであった。
完全に怠けているように見えるが、地上の人間達の今の動きを監視しているので何も問題はない。
ないったらないのだ。
「
今完全に職務放棄することを企んだが、そんな“彼女”の元に、
『“パルテナ”のッ!!』
「ひょわぁッ!?」
“女神パルテナ”。
『人間の守護神』と言える存在で、人間は『神にもっとも近い存在』として慈愛を与える聖なる女神という特別な存在。かつて人間に酷い仕打ちをしていた“悪の女神メデューサ”に呪いをかけて醜い姿にした張本人であり、それがきっかけで地上界含め天界にも争いを生んでしまったこともある。戦いに巻き込んだ罪滅ぼしのため、彼女は自軍を率いて悪の女神メデューサと戦ったという経歴がある。人間を愛し守護するそんな彼女だが、人間の負の面も把握しているために必要以上に人間には干渉しないスタンスを取っている。
パルテナは急に頭に響いてきた声に、ビクッ!! と雷鳴に驚くように全身を震わせた。
パルテナはつい慌ててしまったせいか腰が抜け、その急な動きのせいで足を滑らせ、今まで眺めていた噴水の中へ盛大に落ちていく。
ザッパーン!! と。
その中へとダイブした途端に噴水に波が広がっていき、流れていた映像は波に飲み込まれていく。
頭に直接声をかけてきた“主”は気に留める事なく、
『··········仕事をサボって千里眼の泉を私利私欲のために使うとは、良い度胸であるなパルテナの?』
「!?」
『本当ならば“裁きの雷”を一発お見舞いしてやりたいところだが、まあ良い·········それよりもいつまで水に浸かっている!?』
「ぷはっ!! ゴメンなさい、“ゼウス”様!」
思わず噴水に落ちたパルテナは水面下でぶくぶくと泡立てていたが、声の主人がわかった瞬間に勢い良く水面から顔を出し、
「いきなりどうしたのですか? これでも私は仕事中ですよ? 地上にいる人間達の動向を監視し、問題がないかを確かめて─────」
『··········ほう? ワシには地上にいる派手な衣装を着込んだ娘一人だけを見ていたように見えたが?』
「あ、それはその··········ほら、今地上の人間達の間では歌というものが流行しておりまして、その立役者でもある風鳴翼さんの動きを見れば自ずと他の人間達の様子も見れるかなって─────」
突如、頭の中で血管が切れたような音が聞こえてきた。
自分のものではない、というか自分のものだったら大変なことになる。
頭に語りかけている、上位階級の神が女神パルテナに対してこめかみの血管を意図的にぶっ千切った音だった。
自分よりも下の女神が何やら言い訳していたが、声の主ゼウスはため息を一つ。
『お前に話がある。心して聞け』
♡♥♡♥♡
腕には自信がある。
これでも様々な武器の扱いに長けている。
中でも弓が得意で、竹で出来たような弓に割り箸のような矢で化物達を撃ち倒したことだってある。
「よっと」
的までの距離は約三百メートルほど。
弓に習熟した者でも何の冗談だと呆れかえるだろう距離である。そこまで矢を飛ばすことも相当の難事だというのに、けれど“少年”にとっては大した距離ではない。
構えた瞬間に手元に光り輝く矢が出現したので弓に番え、放つ。
矢は的に届く前に失速していくものだが、どういうわけかその矢は加速していく。
彼が装備しているのはただの弓ではない。
『
弓という名がついてはいるものの、その弓には弦が無い。それどころか少年は矢筒すら携帯していない。
その弓は神々しく金色に輝き、青の装飾が美しく弧を描く部分が刃にもなっており、二つに分離することで剣にもなる。そんな神弓だが、矢がなくとも少年が念じて右手で空を引けば、そこには弓の弦が具現化し、光輪を纏った蒼い矢が出現する。
『パルテナの
少年の主、女神パルテナが自ら丹念に仕上げた、ある意味最も有名な神器。しかしその性質はあくが強い上級者用。加速する弾は最初遅いがだんだん速度を増す。射撃力は立ち姿時が弱く、ダッシュ時に撃てば威力が上がるという中々のクセのある神器。
矢音を響かせて弓なりに飛んだ矢は失速という概念を知らず、真っ直ぐに的である『モノアイ』へと向かっていく。
一撃を貰った『モノアイ』は神弓から放たれる破魔の矢に浄化され、天へと還る。といっても、今目の前で的にしている冥府軍の偵察役として有名な敵の『モノアイ』は模造品のため、攻撃もして来なければ避けもしないのだ。動かない的など彼にとっては百発百中も当然である。
─────とはいえ、だ。
「う〜ん·········やっぱり前と比べたら腕が落ちてるなぁ〜」
と、腕の調子を確かめるように光の弓弦を指先で軽く引いていじる。
あれからいくつもの時代が過ぎ去り、少年達の存在がただの神話へと成り果てて以降、一切地上に降り立っていない。不必要な地上への干渉をすることなく、脅威であった冥府軍の侵略もないため、彼の出番は少なくなっていってその自慢の腕前を披露する機会もなくなっていった。
だが。
そんなことを言ってて二五年、倒したはずのメデューサが復活したこともあり、またいつ冥府軍が現れるかわからない。
二度あることは三度ある、そんなことを思いながら腕が鈍らないように鍛錬を続けているわけであるが、
「な〜んかしっくり来ないんだよな〜。やっぱり手応えがある敵と戦わないと実力が発揮できないのかも」
物足りなさ。
それが少年の腕を鈍らせている。
あの時戦って味わったような高揚感。それがなく、ただ弓矢を構えて動かない敵に放っても何の達成感も湧かない。作業のようなことを繰り返しているようで、少年は思わずため息をつく。
(あ〜、なんかボクらが必要となるぐらいの敵とか現れないかな〜)
『天使』という、人間達を守って平和を願うべき存在がそんなことを思って良いのか。
少年は退屈すぎて地面に寝転がり、どこまでも果てしなく続く空を見上げていると、
『“ピット”ッ!!』
「うわッ!?」
彼がつけている月桂冠から女性の声が聞こえてくる。
その声が聞こえた瞬間、彼はケツを思いっきり蹴られたように飛び上がる。
「は、はい!! 何でしょうパルテナ様!?」
姿はここになくとも、主人に忠誠を誓うようにちゃんと急いで敬礼する少年。
そんな彼に、頭に語りかける女性は焦燥染みた声色で告げてくる。
『緊急事態です! 急いで私の元に!!』
「了解です!!」
彼の性格を表しているかのような元気いっぱいに跳ねたアホ毛。それが激しく揺れて、鮮やかな茶発に金色に輝く月桂冠の声に導かれるように、少年は駆け出して行く。
古代ギリシャの男女が好んで着ていた白いキトンを身に纏う少年のその背中は太陽に照らされ、その純白の翼が光り輝く。
神話の中でしか語られぬ神秘的存在、天使。
推定一三歳ほどの少年であるが、これでも女神パルテナが率いる軍の親衛隊隊長を務めている。
そんなパルテナ軍の親衛隊隊長である少年、“天使ピット”は。
主人の切羽詰まったような声に疑問を抱く暇もなく。
最速で、最短で、まっすぐに、一直線に。
履き慣れたサンダルとブーツを足して二で割ったような形の靴で駆けて行く。
·········天使なんだから飛んでいけばいいじゃん、なんて野暮なツッコミはなしだゾ!