艦内の夜は、昼間の喧噪が嘘のように沈んでいた。通路の照明は最低限に落とされ、金属の床に響く靴音だけが、規則正しく空気を震わせる。ジョルユはゆっくりと歩を進め、通信室の前で立ち止まった。扉の前に立つと、わずかに息を吐き、無造作に開閉ボタンを押す。扉が滑る音が、静かな反響を残す。
中には1人の通信士が待機していた。背筋を伸ばし、端末の前に直立している。彼女の顔には緊張の色が濃く、呼吸すら抑え込んでいるように見えた。部屋の空気は、かすかに埃の匂いに満ち、スクリーンの淡い光が、通信士の頰を青白く照らす。
「司令。暗号通信が入っています。……宛先は“お姉さま”です」
その言葉に、ジョルユの眉がわずかに動いた。ラムネの甘い残り香が、喉の奥にまだ残る中、胸に冷たい風が吹き抜けるようだ。
「……やっぱり来たか」
気怠げな声色の奥に、ほんの一瞬だけ硬さが混じる。通信士は一歩前に出て、端末の操作盤を指し示した。指先が、わずかに震える。
「既に回線は確保済みです。認証キーを入力すれば、すぐに接続可能です」
ジョルユは軽く顎を引き、通信士を見やる。鴉のような瞳が、静かに光を捉える。
「ご苦労。ここからは私一人でいい。下がれ」
「はっ」
通信士は深く敬礼し、足音を響かせて退室した。扉が閉じると同時に、室内は再び沈黙に包まれる。機械の低いうなりだけが、かすかな息のように続く。ジョルユは椅子に腰を下ろし、端末に指を走らせた。数秒のノイズが流れ、やがて淡い光がスクリーンに浮かび上がる。光の粒子が、部屋の埃を優しく舞わせる。
「……ジョルユ」
短い呼びかけ。抑揚のない声。スクリーンの向こうに、黒い輪郭がぼんやりと浮かぶ。ジョルユは背筋を伸ばし、普段の気怠げな調子を消して応じた。コートの裾が、椅子の背に静かに触れる。
「お姉さま。ご機嫌麗しゅう」
「艦隊の再編は」
「進んでいます。寄せ集めですが」
「寄せ集めでも、動けば十分です」
淡々とした声。無駄な言葉は一切ない。スクリーンの光が、ジョルユの頰を冷たく撫でる。
「オプレク寄港の件、承知しました」
「……寄港の前に、気になる報告があります。これだけは伝えておこうかと」
ジョルユは片眉を上げる。指先が、無意識にコートのポケットを探る。ラムネ瓶の感触が、ないことに気づき、かすかな空虚を覚える。
「気になる報告?」
はて、そんなものがあっただろうか。とジョルユはいぶかしむ。液晶の光が、部屋の隅の書類の山を淡く照らす。
「近辺で、不審な潜水艦らしき存在の動きが観測されています」
「潜水艦……?」
通信端末越しに、情報が送られてくる。哨戒部隊のレポートが、スクリーンに淡く広がる。波のさざめきのようなノイズが、かすかに混じる。前回の戦争で忍び込んだ群狼条約の残党の分析、オプレクに関する不穏な諜報レポート――文字が、静かに流れ、ジョルユの瞳に映る。はて鯨の影か、狼の残り火か。海の深淵が、スクリーンの向こうで息づいているようだ。
ジョルユは小さく息を吐いた。息が、埃で白く霧散する。
「なるほど。つまり、ただの寄港じゃ済まないかもしれない、と」
「そうです。オプレクの港湾は複雑怪奇。工業都市ゆえに艦船の出入りも多いですし、不審な影が紛れ込むには格好の場所」
「……群狼条約の残党、ね。あいつら、まだ生き残ってるんですか」
通信機越しの声が、わずかに低くなる。黒い輪郭が、スクリーンの光に影を落とす。
「完全に掃討されたわけではありません。潜り込んだ者たちが、いまだに各地で蠢いています。表に出ることは少ないですが、油断すれば牙を剥いてくるでしょう」
ジョルユは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。金属の冷たさが、背中に染み、夜の静けさを思い起こさせる。
「まったく、厄介な連中ですね。こっちは寄港して休みたいだけなのに」
「休むのは後です。まずは兆しを見極めなさい」
声は冷ややかだが、そこに揺らぎはない。言葉が、針のようにジョルユの胸に刺さる。
「……渡り鳥の件も、関係しているんですか?」
「可能性はあるでしょう。あれは必ず再び現れます。だからこそ、あなたたちが必要なのですよ」
ジョルユは苦笑した。唇の端が、かすかに上がる。
「お姉さまは、いつもそう言う。私に期待してるつもりなんでしょうけど……正直、怖いんですよ」
「怖がる必要はありませんよ。あなたは私の妹。それだけで十分です」
短い言葉。だが、その重みはジョルユの胸に沈む。スクリーンの光が、部屋の埃を静かに舞わせ、通信のノイズが、かすかなささやきのように続く。
「それでは、通信はここまで。くれぐれも注意しなさい。貴方も腕がなまっているのだから」
「肝に銘じます」
通信は唐突に切れた。暗い画面を前に、ジョルユはしばし沈黙する。部屋の静けさが、耳に染みる。
「……優しくしてるつもりなんだろうけどな。やっぱり怖いんだよ、お姉さまは」
やがて、深く息を吐き、椅子の背にもたれかかった。コートの裾が、床に静かに触れる。艦内の夜は、再び静寂を取り戻していた。
◇◆◇
艦内の空気はまだ冷たく、夜の余韻を残していた。第2甲板のシャッターが開け放たれると、潮風が一気に吹き込み、格納庫に並ぶ機体の影を優しく揺らす。鉄と油の匂いが混じり、甲板の床に薄い霧が這った。波のさざめきが、遠くから静かに響き、乗組員たちの吐息を溶かす。
パムは欠伸を噛み殺しながら、手すりに肘をかけた。
「うわぁ……でっかい煙突がいっぱい」
視線の先に広がるのは、オプレクの全貌だった。それは都市であると同時に、海に浮かぶ巨大な機械だった。錆びた鋼鉄の骨組みが海面から突き出し、波間に支柱が沈む。数世代前に建造された洋上プラットフォーム――その上に、工場群と港湾施設、そして雑多な街並みが、息づくように積み重なっていた。
白い蒸気を吐き出す煙突の群れが、朝霧のように立ち上り、林立するクレーンが空中を飛び交うコンテナを静かに運ぶ。巨大な倉庫群が幾何学的に並び、港湾全体がひとつの機械のように脈動していた。鉄と油の匂いが潮風に混じり、甲板にまで届いてくる。パムは鼻をひくつかせ、目を細める。あの蒸気の向こうに、何かが息を潜めている気がした。
ポキフが隣に立ち、腕を組んで眺める。左目の包帯が、朝の光に淡く影を落とす。
「工業都市ってのは、こういうもんだ。あの煙突の下で、連盟の陸戦兵器の半分が作られてる」
「へぇ……でも、食べ物屋さんもあるんですよね?」
「お前はそればっかりだな」
甲板のあちこちに、他の乗組員たちも集まっていた。整備員が工具箱を抱えたまま立ち止まり、顔が腫れ上がったパイロットが双眼鏡を覗き込む。誰もが無言で、灰色の都市が迫ってくる光景に目を奪われていた。潮風が、誰かの袖を優しくめくり、静かな溜息を誘う。
ユーデスはゆっくりと速度を落とし、曳船の誘導を受けながら港へと進む。曳船の汽笛が低く鳴り、港湾の水面には油膜が広がり、光を鈍く反射していた。波のさざめきが、船底を優しく叩く。
パムは手すりに額を押しつけ、ぼそりと呟いた。
「なんか……ザ・汚い都市、って感じですね」
「おい待てそれは怒られるぞ」
「でも事実ですし」
ポキフはため息をつき、街の輪郭を見据えた。煙突の蒸気が、朝霧に溶け、遠くの空をぼんやりと染める。
やがて、工業地帯の足元に別の光景が広がり始める。鋼鉄の倉庫群の影に寄り添うように、プレハブ小屋がびっしりと並び、狭い路地には屋台が肩を寄せ合っている。鉄板で焼かれる肉の匂い、油にまみれた煙、香辛料の刺激臭が潮風に混じって漂ってきた。蒸気の向こうで、誰かの笑い声が、かすかに響く。
「うわ……工場の下にもう一つ街があるみたいですね」
パムが目を丸くする。匂いが、鼻腔をくすぐり、空腹を静かに呼び起こす。
「労働者や流れ者の住処だ。オプレクは表と裏が隣り合ってる」
ポキフは煙突の群れと屋台の灯りを交互に見やった。機械油の脈動と、人々のささやきが、同じ風に運ばれる。
甲板に集まった乗組員たちも、無言でその光景を見つめていた。鋼鉄の都市と、雑多な生活の巣窟。二つの顔が、同じ朝の光に照らされている。誰かの袖が風に揺れ、静かな溜息が、潮の音に溶ける。
艦がさらに近づくと、プラットフォームの側面がはっきりと見えてきた。錆びた支柱が波間に沈み、補修の痕跡が幾重にも重なっている。鉄板の継ぎ目からは潮水が滴り、時折、低い軋みの音が響いた。波が静かな抗議のように支柱を叩く。
パムは目を細め、海面に映る錆びた骨組みを見下ろす。
「……あんなの、まだ持つんですかね」
「持たせてるんだよ。補修と溶接を繰り返してな。オプレクは沈まない、ってのが連盟の建前だ」
ポキフの声は低く、どこか皮肉を含んでいた。風が、彼女の髪を優しく乱す。
パムは鼻をひくつかせ、笑みを浮かべた。
「いい匂い……あれ、絶対食べ物ですよね」
「腹壊すなよ」
「大丈夫ですって!」
そのやり取りに、周囲の整備員たちが小さく笑った。だがその笑いも、すぐに潮風にかき消された。汽笛の低音が、再び響き、港のクレーンが静かに動き出す。
艦はゆっくりと接岸の準備に入る。曳船の影が、水面に長く伸び、油膜を優しく揺らす。甲板に立つ乗組員たちは、誰もが言葉少なに、その異様な都市の姿を胸に刻んでいた。
――鋼鉄と蒸気の都市。その足元に寄り添う、雑多な人々の街。そしてそのすべてを支える、古びた洋上プラットフォーム。艦の乗組員たちは、その二重の光景を胸に刻みながら、静かに入港の時を迎えていた。