結局、休暇の許可が下りたのは、2日後だった。港の煙突から吐き出される蒸気を背に、パムとポキフは街へと続くタラップを降りる。オプレクの街は、遠目に見ても鉄と煙の塊だった。錆びた鉄骨の高架が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、頭上では貨物用の小型トラムが軋む音を立てて走っていく。潮風が、油と鉄の匂いを運び、足元の路地を静かに満たす。
足元の通りには屋台が並び、香辛料の匂いと油の匂いが混ざり合って漂っていた。工場帰りの労働者たちが列を作り、屋台の主が鉄板の上で肉を焼く音が響く。ジュウジュウという音が、昼の空気に微かな熱を加える。
「うわぁ……! ポキフ先輩、あれ見てください! 串焼きですよ、串焼き!」
「……お前、まずは街の地図を確認しろ。迷ったら戻れなくなる」
「大丈夫ですって! 食べ物の匂いを辿れば、絶対に帰れます!」
パムは胸を張り、ポキフは深いため息をついた。オプレクは古い都市だ。自由航路連盟成立前に建設された開拓拠点が起源なため、あちこちで異なる時代の規格で増築が行われており、下町は迷宮の体をなしている。ポキフは町の匂いを嗅ぐ。油と鉄の臭いしかしない。路地の影が、足元を静かに飲み込み、トラムの軋みが遠くで響く。
「先輩、先輩! あっち並んできていいですか!」
「うんまぁ……行ってこい。私はここで待ってるから」
「わかりました!」
屋台の列にパムが走っていく。ポキフは裏路地近くの壁に体を預けると、右目を閉じる。潮風が頰を撫で、かすかな油の霧が視界をぼやかす。
「今のところ、特に何も無しか……」
ポキフの脳裏に、昨夜の記憶が甦ってきた。
◇◆◇
昨夜、艦の士官室。薄暗い照明の下で、ポキフはジョルユと向かい合っていた。窓も無く、机の上にはラムネ瓶が数珠のように並べられている。部屋の空気が、かすかな炭酸の甘さに染まる。
「ポキフちゃんは前回の“回廊”開通時はどこの所属だったんだい?」
「キルオユヒ航空隊ですよ」
「なるほど、基地航空隊かぁ」
ジョルユは数珠並びの中の1本を手に取った。瓶のガラスが、照明に淡く反射する。
「じゃあ、重工機構相手だった訳か」
「ええ、彼らの防空網には何度冷や汗をかかせられたことか……ハハッ」
「キルオユヒというと……あの戦艦エブクルか」
戦艦エブクル。その言葉を思い出すと、ポキフは心底げんなりする。あの“渡り鳥”ほどではないが、彼女も厄介な存在だ。ジョルユの視線が、瓶の泡のように静かに弾ける。
「重工機構のビッグ11の一角、二度と会いたくないですね」
「そういうこと言ってると、第3に迎撃任務が回ってきそうだけどねぇ」
「いや、第3の戦力でエブクルの相手は無理だと思いますよ……」
「無理か」
「無理です」
ポキフの断定にジョルユは少しシュン、とすると話を切り替える。瓶の蓋が、カチリと鳴る。
「じゃあ、群狼条約の連中にはあまり会ったことはないわけだね」
「彼らの相手はどちらかというと、対潜部隊の仕事ですし……私は制空戦闘や対艦攻撃が主任務でしたので」
自由航路連盟、重工機構、群狼条約。この星系の3つの居住可能惑星を連結した“三星”には、それぞれ勢力がいる。
第一惑星カルミには自由航路連盟、第二惑星ユースには重工機構、第三惑星トリアには群狼条約。
学園管理機構に調停されている三星の勢力は、神々が犯した殲滅戦の愚を再現することはなくとも、互いに対立している。
ジョルユの指が、瓶のラベルを静かになぞる。
「しかし、なぜ群狼条約の話を……まさか、対潜訓練の頻度を増やすとでも?」
「いや……そうじゃないよ」
ジョルユはラムネ瓶を指先で転がし、しばし黙した後に続けた。瓶内の気泡が、静かに昇る。
「総司令部からの報告なんだけど、オプレク周辺で不穏な動きが見られている、ということなんだ。具体的には、哨戒部隊が不審な潜水艦らしきものを捕捉した事例が4か月前に確認されてる」
「つまり、群狼条約が? あり得ません。彼らは専守防衛、自領内での水中艦隊による徹底的な待ち伏せ。それが彼らの基本戦略では」
ジョルユはため息をつく。息が、白く霧散する。
「これは非公表の事案なんだけど、実は前回の開通時に群狼条約の潜水艦が何隻か。カルミに侵入した可能性が高いんだ」
「……どういうことですか?」
彼女はホログラムを投影する。そこには、1枚の衛星写真が映っていた。光の粒子が、部屋の埃を優しく舞わせる。
「これは、10年前から群狼条約領内で確認されている大型潜水艦」
「何ですか、これ……」
それは、潜水艦と呼ぶにはあまりにも巨大で異様な風貌だった。船体は太く、水面より上に出ている艦表面は潜水艦によく見られる涙滴型ではなく平面。まるで、何かを置くためのスペースのようだった。ホログラムの青白い光が、ポキフの顔を冷たく照らす。
「仮称“ボルネス”。情報部の見立てでは、潜水空母だと考えられている」
「潜水空母?!」
あり得ない、という言葉を飲み込んで、ポキフはその巨体を観察した。影の輪郭が、静かに息づくのを感じられるほどだった。
「10年前から群狼条約が躍起になって建造している艦でね。ずっと彼らの中央基地で停泊しているのが確認されていた」
万年放置状態、というとユーデスに似ている点はあるが、恐らくこの艦はその逆。かなり長く、綿密で複雑な工事を受けている、ということなのだろうとポキフは容易に想像できた。ジョルユの指がホログラムをなぞり、光が微かに揺れる。
「少し前に気になって、私のコネを使って独自に調査したんだけど、ボルネスは前回の開通時から姿を消している」
「それは……他の基地に移ったという可能性は?」
ジョルユは首を振る。ポキフは脳内で組み立てられていく嫌な予測が拭えなかった。部屋の静けさが、かすかな圧力を増す。
「これが撮影された地点は、群狼条約の中央基地。彼らの保有する施設で、この規模の艦が寄港・メンテナンスを行える場所はここだけなんだ。海底に移った線も捨てきれないけど、あの貧乏人たちがこんな巨艦を常に海中に隠せるなら、今頃彼らは全ての拠点を海中に移している筈だよ」
ラムネ瓶を逆さに置く。瓶内の気泡が動いた。静かな泡の音が、部屋に響く。
「哨戒線のセンサー群の捉えた音は質が悪くて判断しづらいから、確証はないんだけど、私はボルネスがカルミに潜伏している可能性が高いと思っている」
「司令、貴方の話は突飛すぎますよ。質の悪いミステリー小説を読んでる気分です」
ポキフの言葉を受けて、ジョルユは少し固まると口を開く。瞳が、瓶の泡のように静かに弾ける。
「確かに、群狼条約の虎の子が我々の懐に入っている、ということは荒唐無稽かもしれないね」
ジョルユはホログラムを切り替えると、オプレク周辺の海底地図を投影した。青白い線が、海の深淵を静かに描く。
「オプレクが元々、開拓拠点だったということは知っていると思うけど、その理由も知ってるかい?」
「何の話を――」
「この地域でプラットフォームを建設できるくらい浅い地点が、ここしかないからなんだ」
海底地図に映るオプレクの周辺は、壮大な溝だった。いや、棚というべきだろうか。深淵の縁が、静かに笑っている。
「オプレクの基礎建設地点の水深は精々100メートル程度だけど、その周辺はすぐに数千メートルの深さまで拡大する」
「つまり、それは……」
「そう、オプレクは潜水艦が都市の周辺に潜伏するには非常に都合が良い。潜水空母はいなくとも、潜水艦は確実に潜伏している」
ポキフは絶句した。もしも群狼条約がなりふり構わない殲滅主義者たちなら、オプレクは核魚雷で丸ごと吹き飛ばされてもおかしくない。そんなことをしたら、学園管理機構の武力制裁は不可避になり、群狼条約は解体され、オプレクの復興を強制されるだろうが。ホログラムの光が、ジョルユの顔を冷たく照らす。
「ボルネスの件は私の方で再評価するけど、少なくとも小型潜水艦であったとしても、オプレクに工作員を紛れ込ませることは十分に可能だから、パムちゃんと町に出る時は気を付けてね」
ホログラムを消すと、ジョルユはコートの裾を揺らした。部屋の静けさが、かすかな波紋を残す。
「特に、変に近寄ってくる輩には要注意だよ、ナンパかもしれない」
「あんたは私のママか!」
◇◆◇
ポキフは壁に背を預け、昨夜の会話を反芻していた。海底に潜むかもしれない潜水艦、姿を消した“ボルネス”。思考の底に重たい影が沈んでいく――その矢先だった。
「お疲れのようですね!」
鈴を転がすような可愛らしい声が耳元で響いた。ポキフは右目を少しだけ開けて、ため息をつく。
「ナンパは結構なんだが」
「いや、お姉さんはストライクゾーン外です」
前言撤回、鍋底を叩く音だ。
「ぶっ殺すぞヲイ」
「ひえっ」
裏路地の方を向くと、黒いスーツ姿の少女がこちらを涙目で見つめていた。体を縮こませて分かりにくいが、身長はパムより少し高いか。スーツの裾が、路地の埃に静かに触れる。
「そ、その……“幸運を呼ぶクリスタル”欲しいですか?」
「今の流れで変な物を押し売りするか……?」
ポキフは更に深くため息をついた。
「しょ、商人ですから!」
「それ悪徳って形容詞つくだろ」
図々しいところもパムに似ているかもな、とポキフは思う。少女が引っ張る体に不釣り合いな大きさのスーツケースを見る。埃の舞う路地で、かすかな軋みが響く。
「まさか、その中身全部“クリスタル”じゃないよな」
「と て も 重 い で す !」
「いやマジか……」
少女はキラキラした目でスーツケースを開く。中には大量の安っぽいクリスタルが詰まっていた。ガラスの欠片が、路地の薄暗い光を乱反射し、静かな虹を散らす。
「今月中に全部売らないとダメなんですよ」
「いや、え、本気で言ってる?」
スーツケースに詰まったクリスタルたちは、軽く100を超えていた。少女の小さな手が、埃まみれのケースを優しく撫でる。
「えぇ、だから人が沢山いる所に来たんですよ!」
ポキフは頭を抱えた。本当に“変な輩”に会ってしまったかもしれない。路地の影が、少女の背後に静かに伸び、潮風が埃を優しく舞わせる。
「お前、ここが何処か分かってるよな」
「えぇ、オプレクですよね!」
何だろう。頭痛が痛いという言葉が今、とてもよく似合う。少女の涙目が、路地の薄光に静かに輝く。
「労働者が多い地域で、宝飾品が売れるわけねぇだろ……」
「あっ」
少女は筋金入りの馬鹿だったようだ。串焼きの匂いが、かすかに漂ってきていた。