月が、揺れていた。
波打つ光の海の上で、銀の鏡が細く震えている。
潮の匂い。少しだけ焦げた風。
港から少し外れた崖の上。
ミオシティの街灯からは遠く、誰の声も届かない。
ゆっくりと、銀髪の人影は外套の裾を押さえた。
風がその髪を撫でるたび、月の光が跳ねる。
人影――トガクシは、小さく息を吐いた。
その美しい表情に感情の色はない。ただ、ひどく疲れているように見えた。
懐から取り出したのは一枚の写真。
古ぼけたセピア色の写真の中に、数匹のポケモンと人間が写っている。
笑っていた。全員が。
中央には、小さな黒いゾロアを抱いた子供の姿。
そして、隣には幸せそうな男女がいた。
トガクシは写真をしばらく見つめてから、静かに胸ポケットへ戻した。
「ヒスイからこちらに現れたか……ならば、やはり“裂け目”の拡大は進んでいるということですね」
手首の通信端末を軽く叩く。
ノイズの混じった女性の声が応えた。
『トガクシ? 現地での回収、失敗と報告を受けたけど?』
少し苛立った声がスピーカーから流れる。
「ええ。対象個体――原種ゾロア、逃走。トレーナーと思われる少年に介入されました。ただし、もう一方の目的、原種ゾロアークは捕獲に成功しました」
『……少年?』
「はい。……例の研究者夫妻の息子です。どうやら思ったより早く到着していたようですね」
少しの間、沈黙が流れた。
やがて、静かなため息が返ってくる。
『因果ね。まさかあの人たちの子が関わるとは』
「皮肉なものです。協力してくれている彼らの研究結果が、今こうして息子を巻き込んでいる」
『……情は要らないわ。任務を続けて。次の裂け目が開くのは、フタバタウンの隣。そちらの方には別の者を向かわせるわ。あなたは自分の仕事をする。いいわね?』
「了解しました。ですが」
トガクシは夜空を見上げる。
裂けたように歪む雲の隙間から、星々がかすかに流れていた。
あの少年やゾロアも同じ星を見ているんだろうか。
「……あの少年、普通ではありません。我々と近いものを何処か感じます。今後も彼にコンタクトを取ってみます」
『……本来の任務を忘れないように。補給を向かわせたから何か必要な物があったら遠慮なく言って」
「分かりました。では進展があり次第報告します」
通信はぷつりと切れた。ドータクンが鈍く鳴く。
青年はその頭に手を置き、ゆっくりと頷いた。
海の向こうで、汽笛が鳴った。灰色の夜に、波の音が静かに広がっていく。
やがて、彼は踵を返した。
銀の月が、雲の向こうに沈んでいった。
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