身体の芯が震えるような音響と耳が痛くなるほどの爆音の中で、私はなんだかよく分からない状況になっていた。
隣に座っているのはジョーカー、対面には二人の友達。
ジョーカーの隣に彼女達を座らせるのはよくないと判断した結果こうなってしまったわけだが、別にこれといって他意はない。
本当だ。
──そもそも都会のカラオケはどうしてこんなにも狭いというのだろうか。
手を伸ばせば対面の座席にいる人に手が届きそうなほどの距離、そんな近距離に男女を詰め込んでいったいどうする気だというのだろうか。
ふと隣を見てみればそこにはカラオケのリモコンを真剣な顔で操作するジョーカーの姿があり、暗闇で光に照らされている彼の顔に気づけば見とれてしまっていた。
「どうした?」
「……ジョーカーは何歌うんだ?」
うん、なかなか勇気を出して話しかけられたんじゃないだろうか。
いつぞやは華麗な踊りも見せていた彼のリズム感覚というのは私としても知るところだが、彼が普段どのような歌を聴いているのかと聞かれればなんともふわふわとしている。
去年は何度か鼻歌を歌っているところを見たことがあったものの、その場で流れているBGMや話題に上がった曲を歌っているだけで彼が好んで曲を聴いているところは見たことがない。
『そもそも歌えるのか?』
「任せろ」
「おっ! 雨宮君意外な曲入れるね~いいよいいよ! 盛り上がっていこう!」
画面に映し出される曲は『Break Out Of』。
聞いたことがないはずなのにどこかで聞いたことがある。
そんな不思議な感覚に包まれながらも私はジョーカーが歌う歌を聴きながら自分が歌う曲を決める。
先程までは迷っていたが、ジョーカーがこちらの趣味に寄せていてくれるのならば自分は自分の好きな歌を歌おう。
そうして三時間ほどだろうか、楽しく歌を歌い終わった私達は渋谷のファミレスへと来ていた。
3時間も歌を歌ったことなどない喉はガラガラで、痛みを訴える喉を無理やり水で誤魔化しながら私は机に突っ伏していた。
「つ、疲れたぁ……」
「……お疲れ様双葉」
「ちょっと無理させすぎちゃったかな」
家の外で気を張っていなければいけない場所であることは分かっているのだが、体中を襲う倦怠感はとっととここで横になって楽になってしまえと自分に甘くささやく。
隣を見てみれば黙々と食べているジョーカーの姿。
食事中のジョーカーは割と自分の世界に入っていることが多いので何をしても反応しない事が多い。
ノワールの店にある途轍もない大きさのハンバーガーを食べたという画像がネットに一時期出回りそうになっていたこともあったので、相当に食事というものが好きなのだろう。
机に手をついて無理やり自分の体を起こすと、ふと視界の端から食べ物が差し出される。
「ありがと」
「美味しいぞ」
ジョーカーから渡された食事に手をつけて、もぐもぐと口を動かしていれば先ほどまでに比べて少しは体が楽になってくる。
やはり食事というのは人が生きていくうえで大切な物なんだと認識しつつ、そういえば久々にジョーカーの作るカレーが食べてみたいなという欲求が体の奥からゆっくりと湧き上がってくるのが感じられた。
「なんかこの二人やっぱり……」
「ね、やっぱりそう思う?」
「聞こえてるぞ~」
「あはは、まあ悪口とか言ってたわけじゃないからさ。そういえば双葉知ってる? いま双葉の乗ってる路線止まってるらしいよ」
「本当か!?」
ポケットから滑らせるようにしてスマホを取り出し、路線状況を教えてくれるアプリを開いてみれば確かに書いてある運行見合わせの文字。
ただいまの時刻は6時、帰宅ラッシュに見事にかみ合ってしまっている時間だし惣治郎に迎えに来てもらおうとしたらかなりの時間がかかるだろう。
ましてやジョーカーなんてここから数時間以上の距離なんだから、どうやったって日をまたいでしまう事は間違いない。
『あちゃあ……これじゃあ帰れねえぜジョーカー』
「猫ちゃんも心配なのかな?」
『猫扱いすんな!』
このままジョーカーを帰らせるか? いやそれはありえない。
そろそろ夏が見えてくるころだとはいえまだ夜になれば肌寒いし、いつ帰れるかも分からないとなればジョーカーの両親が心配するだろう。
一番確実な方法はやはりあれしかない。
「ジョーカー、もしよかったらこの後家に来るか? きっと惣治郎も会いたがってる」
「わぁ積極的」
「そんなんじゃないから!」
誤解されることを理解していながらあえてそういう言い回しで誘った私を彼は卑怯だと思うだろうか。
これで断られたのであればそれはそれでいい。
あの時のように私の誘いを断るのであれば、もはや踏ん切りもつくというものだ。
「お世話になるよ」
だがこういう時に限って彼は私の事を頼ってくれた。
こうしてともに帰る事が決まり、路線変更やダイヤの乱れなどから自分たちの路線にも影響が出ることを危惧した二人と早々に分かれると、私達は四茶に向かって歩き出すのだった。
四茶までの道のりというのは何とも遠い。
物理的な距離もそうだが、いまの私にとって一番の距離を生み出す要因は何も話さないこの状況だ。
道を歩き始めて既に10分ほどだろうか。
最初はぽつぽつとあった会話も徐々に減少していき、気づけばいつの間にか会話はなくなってしまい、喉から声を出そうとしてつっかえることに気づいたころに私はついに気まずさから言葉を出せなくなっていた。
声を出そうとしてもどうやっても声が出ない。
勇気を自分の心が出したとしても、臆病な体まではどうやらそう簡単には騙せないようだ。
「なあジョーカー」
だから私は自分を騙す。
この場にジョーカーはいないと自分に言い聞かせれば、それだけで体は案外簡単に動いてくれるのだ。
現実から目をそらして自分のしたいことができなくなるのは私の理念に反しているが、自分のしたいことを実現するために自分の体を騙すくらいならば今回くらいは目を瞑ろう。
「どうした?」
「……ごめん。私本当はきっとあの子たちとの関係に悩んでなかったんだ」
私が惣治郎に出した問いはどうすれば彼女たちに対して怪盗団のみんなのような対応ができるようになるのかというもの。
だが実際問題そんな事が不可能であることを私自身が一番に理解していた。
私を愛し、かわいがってくれたお母さんが誰にも代えがたいように、惣治郎の代わりの人間などこの世の中のどこにも存在しないように、私をナビとして扱ってくれる怪盗団の居場所は他の場所に作ることなどできるはずもないのだ。
個々人にはそれぞれ所属する集団が存在し、その集団の中で自らが手に入れた立場というものは他のどこに行っても替えが利くものではない。
ましてや私のように狭く深い交友関係を持つ人間であればその特徴は顕著に表れようというものだ。
命を賭けることができる相手だけが友達というわけではない、共に過ごして心地よいと思える相手であればそれは十二分に友達と呼べる。
相対的に見れば前者に比べて後者に抱く感情というのは小さいだろうが、何もそれは悪いことではないのだ。
「惣治郎に友達の話をすれば私に答えをゆだねることは分かってた。ジョーカーに私の事を助けてって言えば来てくれるって思ってた。私は悪いやつだ、あの子たちにも迷惑をかけて、惣治郎にも迷惑をかけて、モナにも、いまはジョーカーにまで迷惑をかけてる」
頭でわかっていても自分に納得させることは難しい。
考えだけが先回りし続けた結果、自分の心を置き去りにしてしまうなど何ともおかしなことである。
だから私は無意識でジョーカーに自分の心を持ってくる役目を背負わせ、そのために周りの人間を利用したといってもいい。
非常に利己的で傲慢、あるいは怠惰だと言い換えていいかもしれない。
自分に対しての嫌悪感が増していくのを感じながら、彼から受けなければならない罰を予想して身を震わせているとジョーカーは優しげな声でそんな私に言葉を投げかける。
「知ってた」
彼の言葉の意味を理解して体がびくりと跳ね上がる。
彼が何故わざわざ会いに来てくれたのか、なぜ私を気にかけるような言動ばかりしてくれたのか。
たった一言彼がつぶやいただけなのに、私はその意味を理解してしまう。
「あの日惣治郎から連絡がきた。双葉と会ってやってほしいって」
『言うのかジョーカー』
「隠す方が双葉に悪い」
私に対して隠し事をしないようにするジョーカーの態度を喜ぶべきなのだろうか。
今日の事は惣治郎には喋っていなかったので、私の言動がおかしいと感じた惣治郎が自発的にジョーカーに連絡を取ってくれたというのは嬉しくもあり、惣治郎に更に迷惑をかけてしまったという申し訳なさも感じる。
「そっか、惣治郎はちゃんとわかってたんだ」
息を吐き出し、心を落ち着けて私はジョーカーに許しを請う。
「なぁジョーカー。私悪い子だな」
「そんな事はない。俺に比べれば良い子だ」
「……ジョーカーはイイヤツだな」
正義か悪かだなんて不確かなものは所詮主観に過ぎず、自分の心の中にある正義に従うべきであることを私は知っている。
頭を撫でてくるジョーカーの手を受け入れ、彼のやさしさに身を浸していると全てがどうにでも出来るような気持ちになってしまう。
「手、繋いでくれないかジョーカー。寒いからさ」
「ああ」
手を差し出してお願いすれば、ジョーカーは簡単にそうしてくれる。
望めば望んだように、それはジョーカーの優しさであり私に対しての信頼や好感度の表れだ。
「あったかいな、ジョーカー」
だからこそ、私の心は冷たくなってしまっていた。
そうして手を繋いで四茶まで歩いて帰った私達は、肌寒さから体を震わせながらルブランの扉を押し開く。
からんからんと人が入ってきたことを伝える鐘が鳴るのを聞きながら私は新聞を読んでいる惣治郎に言葉をかける。
「ただいまそーじろー」
「おう、帰ったか──久しぶりだな」
「今日は世話になる」
「ここはお前の家みたいなもんだ。好きなだけ居ればいい」
私とその後ろから入ってきたジョーカーを見た惣治郎は、一瞬何かを考えたのか言葉に詰まりかけながらも言葉を続ける。
久しぶりにジョーカーと会えたからか嬉しそうな顔をしている惣治郎。
なんだか二人の時間を邪魔する気にはなれず、私は鞄の中にいたモナを抱きかえる。
「私はちょっとモナと上片付けてくるから、ジョーカーは下で惣治郎と喋っててくれ」
『ワガハイ片付けは苦手だぞ?』
「いいからいいから」
ジョーカーが居なくなってからは昼間私がごろごろするためのスペースとして使っているのでそれなりに綺麗にしているつもりだが、もし汚いとでも言われたらちょっと落ち込んでしまう。
「……どうだった?」
「楽しそうだった。カラオケにも行ったぞ」
「そうか。そりゃ良かったよ、ほらコーヒーだ。飲みな」
カウンターに座ったジョーカーに対して惣治郎がコーヒーを出す。
去年ならば見慣れた光景だがそれは数か月前までの事、いまになってみればなんだか新鮮だ。
コーヒーを一口含み、喉を通り過ぎていく熱さを感じながら徐々に末端が暖かくなっていくことに心地よさをジョーカーは全身で受け止めていた。
吐き出す息が暖かくなり、体の芯が温まってきて漏れ出るように声を出す。
「落ち着くな」
「当たり前だろ、俺のコーヒーだ」
「それもだが、この場所が落ち着く」
「──そりゃありがたいことだ」
目を細めて心地よさを全身で感じるジョーカーを前にして、惣治郎は意外だという感想を抱く。
一年間で居心地のいい場所だと思ってくれていたこと自体は嬉しいのだが、この場所に対してジョーカーが少なくない依存を見せていることが意外だったのだ。
惣治郎の目から見てジョーカーという青年は他人を依存させることに関しては天賦の才を誇っているが、他人に対して依存するという事に関しては極端に消極的な人間であるように見える。
例えば店によく来ていた明智という探偵の彼、惣治郎は詳しく知らないが怪盗団のリーダーである目の前の青年とは少なくない確執があっただろうが店内での彼の対応はどこか冷めたものだった。
怪盗団の面々に対しての対応だってどれもこれも受け入れる姿勢こそ見せていたものの、彼自身が踏み込もうとしているのは見たことがない。
そんな彼がこのルブランという店に依存していることが惣治郎には何ともおどろきの事実であった。
「双葉は自分で気づいた。賢い子だ」
「アイツは自分で気づかないくらい、自分の本音を隠すのが上手いからな。お前といて楽しい時間を過ごして、自分の言ってることに整合性がとれないことに気づいてようやく自分が蓋をしてた考えに行き着いたんだろうよ」
自分を騙すというのは意外と難しいものだ。
几帳面な性格を持つ人間であればその難易度は常人のそれの比ではない。
一度自分を騙してしまえばそのわだかまりは心の中に残り続ける。
自分の心を上手く騙せる双葉ですらこれだ、そうでない人間がいま目の前で苦悩しているのを見ていると自分では無理そうだなと思いつつ惣治郎は言葉をかける。
「お前さん、あの子の気持ちには気づいてるんだろ?」
「……ああ」
「怪盗団っつう居場所に遠慮してんのか、それとも双葉に遠慮してんのかしらねぇが、宙に浮かんだままの気持ちは相手を傷つけるだけだ。その答えがなんであれ、素直に答えてやるのが男ってもんだろ」
「その結果俺が惣治郎をお父さんって呼ぶことになってもか?」
「俺はお前のことを息子だと思ってるからな、いまさら言われたところで違和感なんぞねぇよ」
むしろそう呼ばれることを惣治郎は望んでいる。
実際に面と向かって言われるとこそばゆいものの、もし名前を呼ばれるのだとすれば目の前の彼以外にはいないと惣治郎は考えている。
視線が行きかい、ジョーカーがコーヒーを飲みほしたかと思うとふと二階から声が聞こえてくる。
「ジョーカー! 片付け終わったぞー!」
「……ほら行ってこい、俺は今日はもう家帰るから鍵は任せたぞ」
ルブランの鍵を投げ渡し、惣治郎は帰りの準備をてきぱきと終わらせる。
洗い物など本当はやらなければいけない業務もいくつか残ってはいるが、今日のところは明日に回してもいいだろう。
「ジョーカーまだかー」
「いまいく! おやすみ惣治郎」
「ああ、おやすみ」
二階へと上がっていくジョーカーを見送って、惣治郎は外へと向かって歩いていく。
肌寒い夜道を歩き、ふと空を見上げてみれば空には綺麗な星が瞬いて見えている。
「ったく、若さってやつは本当に眩しいな」
明日迎えに行ったとき、もし双葉が泣いていたらどうしようか。
そんなことはないだろうと思いつつ、昔の自分の事を思い返してなんとなく笑みがこぼれるのだった。