ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第十七話

 

 

 

 

 飛び入りの体育を終え、気絶したアンブリッジは5年生の女生徒に担がれ医務室へと運ばれた。廊下に落ちた泥と汗の匂いが、彼女がどれほど無様に転がったかを雄弁に語っている。白衣のマダム・ポンフリーは叱りつけるような足取りで先導し、扉を押し開けると同時に治療用のカーテンを引き、ベッドの白いシーツを素早く整えた。アンブリッジの身体は置かれた瞬間、小さく跳ねてから力なく沈み、胸だけが規則正しく上下した。

 

 医務室の空気は薬草と消毒の混じった匂いが濃く、窓の外の薄い曇り空が白い光を落としている。そこへ校長のダンブルドアが入ってきた。続いてスネイプ、マクゴナガル、そしてアンブリッジに随行していた魔法省の役人が2人。役人達は制服の襟を正し、足音をできるだけ立てないように歩いているが、視線だけは落ち着かず、ベッド上の上級次官と壁際の薬棚を交互に見比べていた。

 

 「ふむ」

 

 ダンブルドアはベッド脇で立ち止まり、汗で額に張り付いたアンブリッジの前髪を見て、短く頷いた。老いた目は笑っているようで笑っておらず、状況の全てを飲み込んだうえで、なお余裕を残している。

 

 「気絶してます。暫くすれば目を覚ますでしょう。それと全身の筋肉が“良い感じ”で傷ついています」

 

 マダム・ポンフリーは体温と脈を確かめ、指先で肩や腿の張りを押し、淡々と告げた。医務室では骨折も呪いも日常の範疇だが、筋肉痛の診断だけはどこか人間臭い。役人の片方が思わず顔をしかめ、もう片方は「傷ついてます?」と小声で反芻し、言葉の意味を理解しきれないまま口を閉じた。

 

 「フッ」

 

 ダンブルドアの背後でスネイプが漏らした息は、笑いを飲み込む音だった。肩が一度、二度と震え、黒いローブの裾がかすかに揺れる。嘲りではない、と言い張るには無理があるが、彼は必死に表情を固め、目元だけを細めて持ち堪えた。

 

 マクゴナガルは眉間を押さえ、深く息を吸い、吐いた。目の前の光景は「不適切」の一言で片付けられるはずなのに、結果としてアンブリッジが自分の足で逃げ出さなかった事実もまた、教師としての胸に引っかかっている。

 

 「少しやりすぎでは?」

 

 マクゴナガルの声は抑えられていたが、硬さだけは隠れていなかった。ダンブルドアは視線を役人へ滑らせ、穏やかな口調で問いかけるように言う。

 

 「まぁ……これぐらいいいじゃろう。のぉ?」

 

 役人達は顔を見合わせた。片方は額に汗をにじませ、もう片方は書類鞄を握りしめたまま、言葉を探すように唇を動かす。彼らの任務は“査察”の補助であり、上級次官の意向を損なわず、ホグワーツ側の落ち度を拾い集め、報告書に落とし込むことだった。だが今、上級次官は泥だらけのまま気絶し、校長は平然と茶を飲む前のような顔で「よいじゃろう」と言い、魔法薬学教授は笑いを噛み殺している。常識の秤がぐらつき、どの言葉を選べば自分の身が安全か、判断が遅れる。

 

 「校長……本件は、魔法省へ報告が必要です」

 

 ようやく役人の一人が言った。声は丁寧だが、足が半歩後ろへ引けている。ダンブルドアは頷き、否定も肯定もしないまま、医務室の天井を一度見上げた。

 

 「報告は結構。じゃが、事実は事実として書くのじゃ。アンブリッジ嬢は自ら希望して授業を“査察”し、杖を持ったままでも最後まで続けようとした。止めたのはフシグロ君ではなく、彼女の身体じゃ」

 

 その言葉に、役人達の背筋が僅かに伸びた。逃げ道を塞がれたのだ。事実だけを書けば、上級次官が自ら無茶を選んだことになる。事実を歪めれば、校長に見抜かれた瞬間に終わる。スネイプはその逡巡を楽しむように、役人の手元の鞄へ視線を落とし、マクゴナガルは口を引き結んだまま、ベッドのアンブリッジを見た。

 

 ベッド上のアンブリッジが小さく喉を鳴らし、眉がひくりと動いた。まぶたの下で眼球が転がり、呼吸が一段だけ速くなる。マダム・ポンフリーが即座に近づき、枕の位置を直し、苦くない鎮静の匂いを漂わせる薬瓶を指先で隠すように棚へ戻した。目覚めた瞬間、彼女が叫ぶことは明らかだった。痛みと屈辱と恐怖が混じれば、人は必ず他人のせいにしたくなる。

 

 「……う、うぅ」

 

 アンブリッジが声にならない声を漏らした。ダンブルドアはその顔を覗き込み、柔らかな笑みを浮かべる。

 

 「ホッホッホ、ホグワーツの生徒達は君の努力を見ておったよ」

 

 言葉は慈愛めいているのに、逃げ場のない檻のようでもあった。アンブリッジは焦点の合わない目で天井を睨み、次の瞬間、唇が震え、泣き声の一歩手前で息を詰まらせた。役人達は身を乗り出しかけ、スネイプは咳払いで笑いを誤魔化し、マクゴナガルは「校長」とだけ呟いて、それ以上は言わなかった。医務室の静けさは薄い氷のように張り詰め、割れるのは時間の問題だった。

 

 「こ、こ、ここは……? グッ!」

 

 アンブリッジが上体を起こした。だが腰が途中で止まり、喉の奥で小さく悲鳴が詰まる。薄いシーツの下で脚が引き攣れ、足首から太腿までが一斉に反抗したみたいに震えた。運動を知らない身体に、呼吸が追いつかないまま負荷だけが刻まれている。気絶していたうちに治癒呪文で骨や内臓の異常は消えているはずなのに、筋肉が裂けるように痛むのは魔法では誤魔化せない種類の痛みだった。

 

 ベッド脇の椅子に腰掛けていたダンブルドアが、まるで孫でも見守るような笑みで顔を寄せた。

 

 「目が覚めたかね、アンブリッジ嬢。どうだったかの?フシグロ君の授業は」

 

 アンブリッジは返事の代わりに唾を呑み、首を横へ動かそうとして止まった――首筋まで張っていて、ほんの数度の角度変更が針で刺されるみたいに痛いのに、視界の端では自分のピンクが汗で暗くくすみ、鼻腔には香水と自分の体臭が混ざった湿気がへばりつき、生徒の視線と伏黒甚爾の声とが一緒に脳裏を掻き回し、コートを脱がされたこともヒールを奪われたことも泥がローブの裾に跳ねたことも、整列した子供達が軍隊みたいに黙ってこちらを見ていたことも、杖を抜こうとして掴まれた感触も、鳩尾に入った一撃で呼吸が抜けた瞬間の屈辱も、「やめて」と叫んだ声が自分の耳に情けなく跳ね返ったことも、全部が同じ熱と臭いと痛みで蘇った。

 

 「い、今は……何も言えません」

 

 声が裏返った。本人が一番それを憎んだ。顔を覆おうとして手を上げ、肘が曲がり切らずに落ちる。病人の仕草だ。アンブリッジは歯を食いしばり、唇の端から空気を漏らした。

 

 壁際に立っていたスネイプが、黒い瞳を細めたまま低く言う。

 

 「無理に動けば長引きますよ、次官。元気爆発薬のように一口で済む話ではない」

 

 「……っ!」

 

 アンブリッジは噛みつきたかったが、口を開けば唾が飛ぶ。代わりに鼻で息を吸い、香水の残滓が自分の汗と混ざって鼻腔を汚した。マクゴナガルは眉間に深い皺を刻みながらも、アンブリッジの足元に毛布を掛け直し、声の温度だけは落とさずに言った。

 

 「ポンフリー、容態はどう?」

 

 マダム・ポンフリーは腕組みのまま、淡々と答える。

 

 「命に別状はありません。ただし筋肉の損傷は“良い感じ”です。水分と食事、安静。動かすなら段階的に。痛み止めは出しますが、逃げたら余計に追いかけてきますよ」

 

 「逃げる……ですって?」

 

 アンブリッジの目が吊り上がる。だが怒りの火が上がるより早く、腹の奥がずきりと痛んだ。鳩尾の辺りに鈍い熱が溜まり、息が詰まる。本人はまだ見ていないが、紫色の痣がじわじわと広がっている。役人達はその反応を見て顔色を変え、片方が一歩前へ出かけて止まった。上級次官を守りたいのか、巻き込まれたくないのか、立場が足を縛っている。

 

 ダンブルドアは役人達へ視線を滑らせ、穏やかな調子を崩さない。

 

 「報告書は事実だけを書くのじゃよ。アンブリッジ嬢は自ら望んで授業を査察し、最後まで立とうとした。ホグワーツは無理強いはしておらん」

 

 「校長、わたくしは……!」

 

 アンブリッジが叫ぼうとして、咳に変わった。喉が焼け、胸が軋む。怒号の代わりに情けない咳が医務室に転がり、カーテンの向こうで別の生徒が小さく身じろぎした。静けさが、今度は彼女の敵になる。

 

 スネイプが口元をほんの僅かに歪める。笑いではない、と言い張れる程度の角度だ。

 

 「次官、あなたが問題視したのは“兵士のような教育”でしたな。ならば、あなた自身が見て、評価すればよろしい。見て、倒れた。これ以上明快な資料はない」

 

 マクゴナガルが鋭く睨む。

 

 「スネイプ」

 

 「失礼。だが事実でしょう」

 

 アンブリッジは二人のやり取りを見ながら、胸の中で別の計算を始めた。今日の屈辱は必ず取り返す。だが、ここで取り乱せば、ダンブルドアの言う“事実”に自分で泥を塗る。自分が弱いと認めたことになる。生徒達の前で倒れた上に、医務室で泣き叫んだ女として噂が回る。魔法省でも笑われる。闇の陣営に肩入れしている者達にすら、利用される。だから今は耐える。耐えた上で、規則で縛る。授業の内容を、回数を、評価基準を、紙の上で殺す。身体で勝てないなら制度で勝つ。それが自分の得意分野だと、アンブリッジは痛む腹を押さえながら確かめた。

 

 「……分かりましたわ」

 

 声はかすれたが、語尾に甘さを戻した。役人達がほっと息を吐く。ダンブルドアの笑みは薄くなり、目だけが静かに光る。

 

 「では、回復したら査察を続けます。次は……教室で」

 

 ポンフリーが即座に釘を刺す。

 

 「歩けるようになってからです。今立ったらまた倒れます」

 

 アンブリッジは反射的に「倒れません」と言いかけ、腹の痣が疼いて言葉を飲み込んだ。大人の沈黙だ。負けではない、と自分に言い聞かせながら、彼女はシーツを握り締め、爪が白くなるまで指先に力を込めた。

 

 

 甚爾の授業を受けて医務室で回復したアンブリッジは、役人2人を従えてホグワーツの査察を続けた。廊下に出た瞬間、石床の冷たさが靴底から膝へ伝い、筋肉痛が遅れて噛みつく。背筋を伸ばすだけで腹の奥が鈍く疼き、息を吸うと鳩尾の辺りに熱が戻る。それでも彼女は歩幅を乱さない。敗北を見せたのは中庭だけで十分だ、と胸の内で繰り返しながら、紙と羽根ペンを握る指先にだけ力を集めた。

 

 アンブリッジは嘗てここに通っていた。スリザリンとして学び、卒業した。その記憶は甘い懐古ではなく、爪の先で掻きむしるような痛みと共に蘇る。寮の談話室で交わされた純血の自慢話、血筋を値踏みする視線、笑い声に紛れて投げられる「半端者」の囁き。弟はスクイブ、父は魔法省の窓際、母はマグル。純血の誇りを声高に叫ぶほど、己の血の濁りが喉の奥で腐った。だからこそ、彼女は学んだのだ。魔力の強さではなく、規則と肩書きと紙の束が人を支配するということを。

 

 だが久方ぶりに歩くホグワーツは、記憶の色と噛み合わなかった。すれ違う生徒の歩き方が違う。足音が軽いのに揃っている。背中が丸い者が少なく、視線が泳ぐ者も少ない。廊下の空気は相変わらず湿っているのに、漂う匂いが古い羊皮紙と薬草だけではなく、乾いた汗と土の匂いまで混じっていた。窓から差す白い光が床の水たまりを照らし、そこに映る生徒の脚は、ローブの下でも分かるほど引き締まっている。

 

 「次官、どちらへ」

 

 「授業、次に食堂、次に規則確認ですわ。校長の“安全”が本当か、目で確かめます」

 

 役人の1人が頷き、もう1人は小さなメモ帳に何かを書き付けた。アンブリッジはその動きを見て満足した。監視は監視する側の態度で決まる。曖昧な同情は不要だ。必要なのは記録と署名と、提出先だ。

 

 曲がり角の先で、数十人の生徒が壁際に寄り、教師が通るための道を自然に作った。誰かが合図をしたわけでもない。だが全員が同じ判断を同じ速度で行った。アンブリッジは胸の奥で小さく舌打ちする。統率が取れている。つまり、煽れば危険だ。乱すには、別の刃がいる。

 

 「おはようございます、次官」

 

 ハッフルパフの女子が腹から声を出して挨拶した。周囲も続く。

 

 「おはようございます」

 

 無駄に明るく、無駄に揃っている。アンブリッジは笑顔の形だけを作り、頬が攣らない角度を探した。返礼を怠れば「礼儀がない」と書かれる。返礼をすれば「同意」と取られる。どちらも不利だ。だから最小限に、甘く、短く。

 

 「ええ。よろしい態度ですわ」

 

 通り過ぎながら、彼女は生徒の肩の厚みを盗み見た。かつてのホグワーツにも優秀な子はいた。だが、これは種類が違う。筋肉が前に出るのではなく、身体の奥で支え合っている。鍛錬の痕跡が、誇示ではなく習慣として染みていた。アンブリッジは鳩尾の痛みから、杖を握る指が震えた感触を思い出し、握り直した。

 

 「伏黒甚爾の授業が原因でしょうか」

 

 役人が小声で言う。

 

 「原因であり、口実でもありますわ。規則で縛れる部分が増える。素晴らしいことです」

 

 言葉は滑らかだったが、内側では別の声が唸っていた。あの男の視線。嘲りではない。品定めでもない。無関心に近い圧が、自分を“動かせるか”だけで測っていた。自分が嫌う血の話よりも露骨で、逃げ道がない。

 

 廊下の終わりで扉が開き、薬草の匂いが濃く流れ出た。中ではマクゴナガルが数人の生徒に指示を出している。生徒は返事をし、動き、また整列する。アンブリッジの目は自然に、その返事の大きさと間の取り方を数えた。従順。だが従順の形が古い。恐怖で縮む従順ではない。身体が理解している従順だ。これは、抑えつけるほど反発が鋭くなる。

 

 彼女は窓辺で立ち止まり、校庭を見下ろした。遠くの中庭で、授業の名残なのか、数人の生徒が黙々と走っている。ローブが揺れ、呼吸が白くなる。誰も笑わない。誰も喋らない。自分が知る“子供”の風景から、軽薄さだけは抜け落ちていた。戦場ではない、と彼女は言った。だが戦場の匂いだけは、ここにある。

 

 胸元のブローチに指を当てると、汗で冷えた金属が肌に貼りつき、吐き気の手前で胃がうねった。あの拳の衝撃は屈辱として残り、同時に、反撃の理由としても残る。

 

 「……変わったのは生徒だけではありません」

 

 アンブリッジは呟いた。役人達は聞こえないふりをした。

 

 ホグワーツは変わった。教員の目つきも、沈黙の質も、規則が破られる前提で組まれている気配も。だからこそ、彼女は決める。懐かしさで揺らぐ暇はない。劣等感で歪む暇もない。ここは忌むべき場所であり、同時に奪い返すべき舞台だ。彼女は羽根ペンを立て、羊皮紙の1行目に、甘い丸文字で書き始めた。査察所見。改善勧告。教育の適正化。次に来るのは命令だ、と自分に言い聞かせながら。

 

 

 

 

 アンブリッジ達が校内を練り歩いている頃、校長室では伏黒甚爾とダンブルドアが向かい合っていた。壁一面の肖像画は半分ほど眠り、半分ほどは耳だけをこちらへ向けている。暖炉の火は小さく、炭の匂いと古い羊皮紙の酸味が混じる空気の中で、机の中央に置かれた水晶だけが妙に澄んだ光を返していた。水晶の内部では大広間の長卓が縮図のように揺れ、銀食器の反射が小さな波になって走り、その波の中心でピンク色の影が忙しなく首を回している。

 

 「ジジイが校内を見てるの、前から不思議だったがよ。まさかそんな古典的な魔法具で済ませてたとはな」

 

 甚爾が水晶へ顔を寄せて言った。頬に当たる冷たさが、石畳の冷気みたいにじわりと伝う。

 

 「古典的などと侮るでない。機嫌の悪い者ほど、派手な術に気づきやすいからの」

 

 ダンブルドアは仰々しく手を翳しながら答えた。口元には相変わらずスルメイカが咥えられており、噛むたびに乾いた音が鳴る。湯気の立つ湯呑みからは緑茶の香りが立ち、校長室らしからぬ生活臭が、奇妙に落ち着きを作っていた。

 

 水晶の中でアンブリッジが立ち止まり、生徒の皿を覗き込み、隣の役人へ何かを囁く。長卓に並ぶのは肉と野菜、豆と穀物、濃いスープ、果物、塩気の効いた保存食まで揃っていた。以前のホグワーツなら、脂っこい焼き物と甘い菓子が目立ち、腹を満たすだけの茶色が支配していたはずだが、今の卓は色がある。蒸気の匂いも違う。鉄分の匂いと、香草と、発酵の酸味。鍛えた身体が欲しがるものが、わざとらしくなく置かれている。

 

 「食事の文句も言いづらそうだな。あのババア、甘味が減ったとか喚きそうだが」

 

 「欲しければ取り寄せればよい。屋敷しもべ妖精は優しいからの」

 

 ダンブルドアが笑みだけを動かす。甚爾は鼻で笑い、水晶から視線を外した。

 

 「で、闇の陣営に与したって話、どこまで本当だ。今までのあいつは権力に媚びるだけの小物に見えたが」

 

 「小物ほど厄介じゃよ。ヴォルデモートは予言を手にすべく魔法省を内側から食っておる。アンブリッジはその歯の1本、ハリーを神秘部へ誘き寄せるために、ホグワーツを揺らして外へ出す理由を作りたいのじゃろう。教師を締め上げ、授業を縛り、規則を増やし、子供の逃げ道を奪い、裁定だの通達だのと紙切れを積み上げて正義の仮面を被せれば、恐怖は都合よく形を変えるからの」

 

 言い切った声は穏やかなのに、室内の空気がわずかに重くなる。肖像画の中の誰かが寝返りを打ち、布の擦れる音がした。

 

 「なるほどな。問題“あり”として引っ張り出す。だが予言は——」

 

 「そうじゃ。予言は既に無い。フシグロ君が壊してしまったからのぉ」

 

 ダンブルドアは軽く肩を揺らし、喉の奥で笑った。甚爾は笑わない。自分の手で砕いたガラスの感触を思い出すと、胸の奥が少しだけ冷える。あの場で壊したのは正解だった。けれど破片の行き先は、いつも別の厄介を呼ぶ。

 

 「じゃあヴォルデモートの狙いは外れる。だが、外れたからって諦める奴じゃねぇ。別の餌を探す」

 

 「うむ。だからこそ、君の目が要る。ハリーの周りに起きる違和感を、魔法使いの感覚だけで追うのは遅い。わしは守れるが、気づくのは君のほうが早い」

 

 甚爾は腕を組み、短く息を吐いた。金で動く、と口では言う。だが子供の命の値段を、いちいち天秤にかけるほど鈍くもない。校長の老獪な目は、そのあたりを最初から見抜いている。

 

 「ババアが持ち帰る報告書は、どうせ都合よく歪む。なら逆に、こっちも数字で殴ればいい。怪我の減少、欠席の減少、体力測定の改善。生徒の顔色。全部、紙に落とす」

 

 「ほぉ、君が珍しく官僚的じゃの」

 

 「官僚は嫌いだ。だが、あいつらの首を折るには、あいつらの武器を奪うのが手っ取り早い」

 

 ダンブルドアは湯呑みを置き、指先で水晶の縁をなぞった。縁に薄い霜のような光が走り、映像がわずかに寄る。大広間の片隅で、アンブリッジが急に動きを止め、羽根ペンを握った手を震わせているのが見えた。視線の先には、整然と並ぶ生徒の背中と、礼儀正しい返答、鍛えられた姿勢。その“普通”が、彼女には異常に見えるのだろう。

 

 水晶越しに、役人の片方が帳面を押さえ、もう片方が周囲へ目配せをする。生徒の視線は好奇より規律に寄り、誰も余計な囃し立てをしない。アンブリッジにとってはそれが一番気味が悪い。子供は騒ぐもの、だから規則が要る。そう信じてきた前提が、静かに剥がれていく。

 

 「アンブリッジは体育を軍隊扱いだと言い張るじゃろう。なら“安全”の証拠を積む。怪我の減少、医務室の対応、訓練の段階。見せるのは中庭だけで十分じゃ」

 

 ダンブルドアの声は柔らかいのに、内容は刃物みたいに実務的だった。

 

 「さて、フシグロ君。彼女が次に何を言い出すか、当ててみるかの」

 

 甚爾は水晶の中のピンク色を見つめ直し、唇の端だけを吊り上げた。校長室の空気が、静かに張り詰めていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 校長室で水晶越しにアンブリッジの動向を眺め、俺は自室へ戻った。廊下の石床は冷たく、窓の外は霧が濃い。壁の肖像画が小声で噂を回している。あのピンクガエルが倒れた程度で、城全体が少しだけ息を吐いたのが分かった。

 

 椅子に腰を落としてタバコを取り出す。マッチを擦ると硫黄の匂いが一瞬鼻を刺し、火が芯に移った途端、乾いた紙が焦げる音が耳の奥へ入り込む。吸って吐く。肺の奥の煤が少しだけ剥がれる気がした。机の隅には収支表が置きっぱなしで、赤いマイナスが列を作っている。指先が勝手に紙をくしゃりと掴みそうになるが、今は我慢だ。

 

 「ふぅ……アンブリッジが引っ込んだら、次はハリーだな」

 

 口に出すと現実味が増す。ハリーに貼り付いたヴォルデモートの欠片を剥がす。呪具はある。体力も鍛えた。問題は日程だけ……そう思いたいが、分霊箱が残ってる以上、あいつの影は薄くならない。切った後の傷口をどう塞ぐか、魂の縫い目が荒れたらどうなるか、考え始めると煙が苦くなる。

 

 「ドビー」

 

 虚空へ名を投げる。

 

 「はいぃフシグロ様ぁ!」

 

 ぱん、と空気が弾けて小柄な屋敷しもべ妖精が現れた。でかい目がぎらつき、耳がぴくぴく動く。こいつは嬉しい時ほど声がうるさい。

 

 「来月は有馬記念だ。情報は出揃ってるか?」

 

 「もちろんでございますぅ!直近の騎手と馬の成績、調教の様子、当日の天気予報、オッズ、新聞の印、滞りなく全て!」

 

 「フッ……よくやった」

 

 俺は引き出しを開け、砂糖菓子を掴んで放った。ドビーは両手で受け止め、宝石みたいに胸へ抱える。菓子に命かけてやがる。

 

 「うほー!!!ありがたき幸せぇ!!!」

 

 「で、ハリーの様子は?」

 

 「ハリー・ポッター様は順調でございますぅ!去年フシグロ様とダンブルドア様に教えられた閉心術は、ほとんど完璧に!頭の扉を閉めるのが上手になっておりますぅ。ですがぁ……」

 

 ドビーの声が少しだけ落ちる。

 

 「ん?何かあったか」

 

 「最近また悪夢を見るようになったみたいですぅ。寝ている時にうなされて、汗びっしょりで目を覚まして、窓の外を睨んでおりますぅ」

 

 閉心術で干渉は止まったはずだ。なら別口だ。ヴォルデモートが迂回路を作ったか、ハリー自身の恐怖が増えたか、魂の欠片が動き始めたか。どれでも面倒だ。俺は灰皿へ灰を落とし、指先で机を叩く。乾いた音が一定の間隔で鳴り、頭の中の計算を整える。

 

 「俺やジジイに相談してないってことは、内容を言いたくねぇってことだな」

 

 「はいぃ……誰にも言ってないですぅ。ロン様にも、ハーマイオニー様にも、ネビル様にも……」

 

 ドビーは耳をしゅんと垂らす。俺はタバコを咥え直し、煙を細く吐いた。ここで俺が慌てて動けば、あいつの勘が働く。だが放っておけば、夜のうちに夢が糸を太くする。絡んだ糸は、切る時に肉ごと持っていきかねぇ。

 

 「ドビー、今夜の寝室の前に立て。姿は見せるな。音も立てるな。異常があったら、俺の部屋に来い。分かったな」

 

 「はいぃ!ドビー、息もしません!」

 

 「息はしろ」

 

 短く言うと、ドビーは慌てて頷いた。こいつは真面目すぎて加減が利かねぇ。

 

 「で、悪夢の内容、聞けたか」

 

 「聞けませんでしたぁ。ハリー様、目が覚めた後に、額を押さえて……手を洗って……そのまま黙ってしまいますぅ。誰かの名前を言いそうで、言わないのですぅ」

 

 額。傷。そこが疼くなら、欠片が動いてる可能性が高い。俺の喉の奥が、煙とは別の苦さで詰まる。釈魂刀で剥がせば終わる、と簡単に言えるほど魂は軽くない。肉は切って縫えば塞がるが、魂は縫い目を作った瞬間から癖が残る。しかも相手はヴォルデモートだ。剥がした欠片が暴れたら、ハリーのほうが引きずられる。

 

 俺は立ち上がり、窓辺へ歩いた。冷えたガラスに指先を当てると、外気が骨へ染みる。城の灯りは温かい。ここが守りの箱なら、俺はその蓋を閉める役目だ。金のためだと繰り返しても、結局やることは同じになる。

 

 「ジジイに報告は……明朝でいい。今夜は俺が見る」

 

 独り言を落とす。ドビーが勢いよく頷き、菓子の包みががさりと鳴った。

 

 「ドビー、追加だ。ハリーが夜中に寮を出たら、足元にだけ小石を転がせ。転ばせるな。気づかせろ。俺が追う」

 

 「はいぃ……小石、転がしますぅ!」

 

 俺は灰皿にタバコを押し付けて火を潰した。焦げた匂いが立ち、部屋の静けさが戻る。机の上には授業の予定表と、魂を切るための段取りが重なって置かれている。どっちも逃げられない。俺は腹の中の呪霊の存在を確認し、釈魂刀の柄の感触だけを脳裏に浮かべた。冷たい。鈍い。確かな重さだ。

 

 「寝る前に、あいつの目を見に行くか」

 

 そう決めると、胸の奥のざらつきが少しだけ落ち着いた。

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