ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第十八話

 

 

 

 

 少しゆっくりした後、自室を出てハリーのいるグリフィンドール寮に向かった。

 

 夜の廊下は石が吐く冷気で指先まで冷え、鎧の隙間を抜ける風が耳の奥を撫でていく。授業を終えたガキ共の足音も笑い声も消えて、遠くで時計塔の歯車が噛み合う乾いた音だけが周期的に響いていた。革のジャケットのポケットに手を突っ込み、煙草の箱を指で転がしながら歩くと、鼻の奥に蝋の匂いと古い木材の埃が混ざって、眠気とは別の嫌な予感だけが目を冴えさせる。

 

 「開けろ」

 

 絵画の貴婦人に声をかける。コイツは見る度に変わる。ホグワーツに来た頃は太ってて見るに堪えないブスだったが、今は頬の肉が落ちて首の線が出てる。ガキ共が変わったのと同時に、絵の中でダイエットでもしてんだろ。知らんけど。

 

 「いいわよぉ、甚爾くん」

 

 談話室は暖炉の火がくすぶっていて、赤い絨毯に影がゆらゆら泳いでいた。甘い菓子の残り香が薄く漂うが、人の気配はない。俺は階段を登り、ハリーの部屋の前で足を止めた。

 

 風の音、静かな寝息、人数は3。

 

 「ん……?」

 

 扉を開けると、ロンとネビルとシェーマスが寝てやがる。ハリーの寝台だけが妙に整っていて、毛布が半端に折り返され、枕が少しだけずれていた。寝相じゃねぇ。起きた人間が急いで誤魔化した雑さだ。床の艶に裸足の湿りが残り、窓は閉まってるのに外気の匂いだけが混ざっている。

 

 「……ドビー」

 

 声を殺して呼ぶと、空気がぱんと弾けた。

 

 「はいぃフシグロ様ぁ……」

 

 「どっちへ行った」

 

 「階段を下りて左ですぅ……ハリー様、誰にも言うなって目で……」

 

 舌打ちを噛み殺し、廊下へ出た。ハリーが通った線だけが、なぜか空気の温度で分かる気がした、鼻腔に残る血の匂いと皮膚の内側を引っ掻くような焦燥が同時に湧いてきて、俺はその感覚を否定せずに受け入れた、こういう時は理屈より獣の勘の方が当たる、夜の城は迷路で扉も階段も平気で動くが、逃げる足と呼吸は嘘をつかねぇ。

 

 角を曲がると、半開きの教室があった。灯りはない。だが中にいる。俺は扉に手をかけて低く言った。

 

 「出てこい」

 

 返事はなく、布擦れだけが返ってきた。俺は一歩で間合いを潰し、見えない襟を掴む。透明マントがずるりと落ちて、ハリーの青白い顔が露わになった。

 

 「先生……」

 

 「何の用だ。今夜は夢か」

 

 ハリーは唇を噛み、首を振りかけて止めた。閉心術をしてるのに、目の奥だけが怯えてる。

 

 「……シリウスが、叫んでた。真っ暗な場所で」

 

 「行き先は」

 

 「神秘部……って、頭の奥で……」

 

 やっぱり誘導だ。

 

 ハリーの額に落ちる前髪の隙間、あの傷の周りだけ皮膚の色が違う。俺にはそこが“二重”に見える。あいつの魂の輪郭の内側に、針みたいに細い別の輪郭が貼り付いていて、息をするたびに微かに擦れて火花を散らしてる感覚がある。触れたら剥がれそうで剥がれない。生きた肉に埋まった棘だ。俺は指先で空を切り、そこを斬る時の角度を頭の中で何度もなぞった。できる。だが今やればハリーが倒れる。場所も時間も最悪だ。

 

 「痛むのか」

 

 俺が低く聞くと、ハリーは驚いた顔をしてから、小さく頷いた。強がって隠しても、痛みは身体が勝手に吐き出す。

 

 「それで一人で抜け出した?」

 

 「……ごめんなさい」

 

 謝る声が細い。俺は溜息を飲み込み、マントを畳んで胸に押し付けた。

 

 「謝る相手は俺じゃねぇ。次に同じことしたら、お前の足を折ってでも止める」

 

 ハリーの喉が鳴る。怖がってる。だが逃げない。そこは嫌いじゃない。

 

 「ドビー」

 

 「はいぃ……」

 

 「今夜のことはお前の責任じゃねぇ。だが次は目を逸らすな。命令の“目”より、俺の命令を優先しろ」

 

 ドビーが耳を握り潰すみたいに両手で掴んで、涙目で何度も頷いた。

 

 俺はハリーの背中を押して廊下へ戻り、足音を殺したまま速く歩いた。壁の肖像画がひそひそ喋り、鎧が勝手に首を回してこちらを見送る。暖炉の煙の匂い、夜気の湿り、遠くの湖の水音。全部がいつも通りなのに、ハリーの隣だけ空気が重い。隣を歩くガキの中に、別の奴の視線が混ざっている気がして、俺は反射的に肩を前へ出し、万一背後から何か来ても盾になる位置に体を滑らせた。

 

 「お前が見たのは、見せられたものだ。だからこそ危ねぇ。シリウスは俺が守る」

 

 ハリーは答えず、ただ歩調を合わせた。俺はその沈黙を許したまま、校長室へ向かう階段を選んだ。今夜中にジジイを叩き起こす。予定は早める。あの棘を、引き剥がす。

 

  校長室へ行く道すがら、俺はハリーに聞いた。

 

 「閉心術はしっかりやってるんだろ?」

 

 「はい……やってます。でも審問会の後くらいから夢を見るようになったんです」

 

 「そうか」

 

 閉心術ってのは覚えちまえば厄介だ。頭の内側に堅い箱を作って鍵を掛けるみたいなもんで、どんなに腕の立つ開心術の使い手でも、覗こうとした瞬間に指先が滑って壁に爪を立てるだけになる。拷問みてぇに身体を壊して揺さぶられない限り、無理矢理こじ開けるのは不可能に近い。なのにハリーはまた悪夢を見る。覗かれてるんじゃねぇ、繋がってる。俺の目には、あいつの魂の輪郭に貼り付いた薄い異物が、息のたびに微かに脈打って、心臓の鼓動より遅い間隔で“合図”を送ってるように見える。閉心術は頭を守るが、魂の傷口までは塞がねぇ。

 

 そうして校長室に着いた。扉を抜けた瞬間、古い羊皮紙とレモン菓子の甘い匂いが鼻に貼り付く。天井近くで揺れる灯りが真鍮の器具を鈍く光らせ、棚の肖像画たちが半分眠った顔で俺とハリーを眺めていた。魔力の膜が幾重にも重なって室内の空気を押し固めているが、その中心にいるジジイの気配はいつも通り薄い笑みみてぇに軽い。油断してるんじゃない、見落とさねぇだけだ。

 

 「ジジイ、起きてたか」

 

 「うむ。夜更かしの生徒を捕まえたのかの?」

 

 「捕まえたのは俺だ。ハリーが夢を見てる。閉心術をやってるのに、だ」

 

 ジジイの目が細くなる。俺はハリーの背中を軽く押して前へ出した。ハリーは一度だけ唇を噛み、呼吸を整えてから顔を上げた。目の奥が冷えている。眠気じゃない。夢の後に残る、皮膚の裏側にへばりつく嫌な感触だ。

 

 「ハリー、内容を言え。細かい所まで」

 

 「はい。……神秘部です。暗くて、棚がずっと並んでて、ガラスみたいな球がたくさんあって、息をすると音が返ってくる。僕はそこを“見てる”んじゃなくて……そこにいる感じで」

 

 「自分の目じゃない、と。以前の夢と同じじゃの」

 

 「はい。視点が低くて、床の匂いが近い。石の冷たさが腹に伝わるみたいで……進むたびに体がしなる。僕はそのまま、シリウスの声を聞きました。助けを呼ぶんじゃなくて、何かに脅されてるみたいで、無理に笑って……」

 

 ハリーの指が震えた。握り拳にして抑え込む。俺はその動きだけ見て、余計な慰めはしなかった。怖いのは当然だ。怖いままやるのが仕事ってもんだ。

 

 「襲うのか?」

 

 「……襲います。牙を立てる直前の、息が熱い感じまで鮮明に覚えてる。目が覚めた時、喉が痛くて、手が汗で濡れてて……でも閉心術は、寝る前も、起きた直後もやりました」

 

 ジジイが杖を握り直しただけで、部屋の空気が一段落ちる。肖像画のひとつが小さく咳払いして、また黙った。

 

 「……フシグロ君、君の見立てはどうかの」

 

 「覗かれてるってより、やっぱり繋がってる。閉心術で“蓋”はできても、ハリーの魂に貼り付いた欠片()は内側から夢を押し上げる。シリウスが本当に神秘部にいるかは別問題だが——罠の線が濃いな」

 

 「わしも同意じゃ。ヴォルデモートは予言に固執しておる。神秘部は奴の喉元に刺さる針じゃからの。ハリーの情を使えば、教師や騎士団を出し抜けると考えるじゃろう」

 

 ハリーが息を呑んだ。シリウスの名が出るだけで身体が固くなる。俺は視線で釘を刺した。勝手に走るな、ってな。

 

 「ハリー、お前は今後、夢を見たら起きた瞬間に俺かジジイに報告しろ。誰にも言わない癖は捨てる。閉心術は“守り”だが、使い方が雑だと逆に割れる。起きた直後は特に薄い。呼吸で型を作れ」

 

 「型……?」

 

 「眠る前は深く、起きたら短く。頭の中に余白を残すな。嫌な映像を押し込めるんじゃなく、最初から置かない。空の部屋を作って、鍵を掛ける」

 

 ジジイが頷き、机の引き出しから小さな羊皮紙を取り出した。ハリーの前に置く。そこには短い手順だけが、簡潔に書かれている。余計な飾りはない。俺好みだ。

 

 「閉心術の訓練を強化する。毎晩、わしが確認する。フシグロ君も可能な日は立ち会え」

 

 「おう。俺は覗けねぇが、呼吸と体の反応なら見れる。変な汗のかき方、脈の跳ね方、そういうのは誤魔化せねぇ」

 

 ハリーは小さく頷いた。顔色が少しだけ戻る。対策があるってだけで、人間は立てる。

 

 「もうひとつじゃ、フシグロ君。君が以前言った“剥がす”手段」

 

 ジジイの視線が俺の腹の奥、呪霊の気配へ落ちる。俺は舌打ちを飲み込み、肩を回した。便利な刃物は、同時に面倒も連れてくる。

 

 「俺の準備はできてる。ハリーの魂を傷つけずに欠片だけ落とす。理屈は分かるが、実行は繊細だ。切り分けに失敗すりゃ、ハリーが欠ける」

 

 ハリーの背筋が伸びた。怖がってる。だが目は逸らさない。そういうところは評価してる。

 

 「いつやる?」

 

 「急ぐべきだが、焦って手を滑らせるのが一番最悪だ。閉心術の訓練を数日詰めて、夢の“温度”が上がる前にやる。場所は……外じゃない方がよさそうだ。医務室か、校長室の奥だな。外から入れねぇ所で、ジジイが結界を二重にしろ」

 

 「よかろう。準備はわしが整える。フシグロ君は刃の感覚を研ぎ澄ましておけ」

 

 「ハッ、言われなくてもやってる」

 

 ハリーが声を出そうとして、やめた。代わりに深く息を吸って吐く。今言うべきは不安じゃない。覚えるべきは手順だ。俺はハリーの肩に手を置き、軽く押した。

 

 「今夜は戻って寝ろ。寝るのも訓練だ。夢を見たら、起きた瞬間に息を整えて、鍵を掛け直す。分かったな」

 

 「はい、先生」

 

 ジジイが柔らかく笑った。笑ってるのに、部屋の空気は少しも緩まない。

 

 「では今夜から始めようかの。ホグワーツは安全じゃが、安心はせんほうがよい」

 

 俺は扉へ向かいながら、もう一度だけハリーを見た。震えは残ってる。残っていい。逃げなけりゃそれで十分だ。

 

 「行くぞ、ハリー。廊下は俺が見とく。今は眠れ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寮に戻ったハリーは談話室の暖炉の前で外套を脱ぎ、火の粉が弾ける音に呼吸を合わせながら背筋を伸ばした。石床の冷えが靴底から上がってくるのに、炎の熱だけが頬をゆるく撫でる。昼間に刻んだはずの型を反芻し、思考を一つずつほどいて空っぽの部屋を作るつもりで、彼は目を閉じたまま掌を膝に置き、胸の奥を締め、鍵を掛けるように意識を沈めた。

 

 伏黒甚爾に教え込まれた閉心術は、呪文みたいに口で唱えて終わるものではない。息の長さ、瞳の動き、肩の角度、心のどこに隙が開くかまで身体で覚え、怖さも怒りも一旦は棚に上げ、そこに触れたがる何かの指先を噛み切る。ハリーは自分の額の傷を指でなぞり、痛みの記憶ごと引き出しに押し込めた。そうすれば、夢は来ない。少なくとも来ないはずだった。

 

 それから静かに階段を上がり、ロンとネビル、シェーマスの寝息が揃う部屋でベッドに滑り込む。毛布の重みが肩に落ち、枕の匂いが鼻先に近づいた瞬間、ハリーは無の縁に立ったはずだった。

 だが、無を作ったつもりの場所に、見知らぬ冷たい水が差し込むみたいに別の感覚が滲み込み、暗い通路の湿気と埃の味が舌にまとわりつき、床の震えが腹に伝わり、視界が低く細長く伸び、体がしなるように前へ進みはじめる。

 

 やっぱり駄目だ、とハリーは夢の中で悟った。目を覚まそうとしても瞼は自分のものじゃない。逃げ道を探すほど、視点は強く固定され、棚の列が無限に続く神秘部の予言の部屋へ這い込んでいく。鱗が石に擦れる音が耳の裏で響き、吐息は冷たく、舌先に金属の味が残る。ガラス球が並ぶ棚からは鈍い光が滲み、名札の文字が歪んで読めず、空気は金属のように重い。通路の先に膝をつく男が見えた。黒の髪、血の匂い、声だけで分かる。

 

 シリウス。

 

 そして黒いローブの影が、白い杖をゆるく構えたまま笑っていた。蛇の舌のような囁きが鼓膜を擦る。

 

 「おぉ、来たか、ナギニ」

 

 ヴォルデモート。

 

 「さて、シリウス・ブラック。俺様の予言はどこだ?」

 

 「私が知るわけがない。自分で探せ」

 

 「探しても無い。貴様らがポッターを使って取ったのだろう?寄越せばいい」

 

 「そうだとしても無理だ」

 

 次の瞬間、空気が裂けるような音がして、黒い光がシリウスに刺さった。彼の背が反り、喉から声にならない息が漏れ、床に落ちた指が痙攣する。痛みの波が視点を通ってハリーの胸まで突き刺さり、鼓動が脳を殴るように跳ね、視界が白く弾けた。

 

 「クルーシオッ!」

 

 そこでハリーは跳ね起きた。喉が焼けたみたいに渇き、心臓が肋骨を蹴る。汗で髪が額に貼りつき、指先が震えてシーツを掴む。額の傷が熱を持ち、灯りのない部屋でひとりだけ眩暈がするほど鮮明に疼いた。さっきまで閉めたはずの扉が、内側から叩き壊されている感覚が残っている。

 

 「シリウスを……助けないと……!」

 

 ロンが目を擦りながら身を起こし、寝ぼけた声を飛ばす。

 

 「うーん?どうしたんだ、ハリー」

 

 ネビルも半身を起こし、首を鳴らして息を整えた。筋肉の影が暗闇で膨らむ。シェーマスは爆睡してる。

 

 「悪夢か?落ち着け、まず先生たちに——」

 

 「駄目だ!今すぐだ!神秘部にいかないと!」

 

 ハリーは答えながらも、どこかで分かっていた。夢が本物か偽物か、判断する術がないことを。伏黒甚爾とダンブルドアは対策を考えると言っていたし、閉心術をもっと固めれば切れるかもしれない、とも言った。けれど、あの呻き声の温度と血の匂いが、ただの幻だと切り捨てるには生々しすぎた。迷っている時間の分だけ、シリウスの身体が折れていく気がして、ハリーは考えるより先に体を動かした。

 

 ベッド脇に立てかけていたファイアボルトを掴み、窓の留め金を乱暴に外す。夜気が雪みたいに冷たく頬を刺し、カーテンが大きく膨らんだ。ロンが伸ばした手は空を掴み、ネビルが一歩踏み出した時には、ハリーの背中はもう窓枠を越えて闇へ溶けていた。

 

 「おい、待て!ハリー!」

 

 風の音だけが残る。ロンは唇を噛み、寝間着のまま靴を探しながら焦った。そしてネビルを見ながら言う。

 

 「ヤベぇ……行っちまったぞ!」

 

 ネビルが短く頷いた。迷いはない。彼は自分の杖とローブを掴み、視線だけでロンに合図する。

 

 「追う。ハーマイオニーも起こす。校長室に知らせる時間が無いなら、せめて人を増やすぞ」

 

 ロンは一瞬だけ天井を仰いでから、拳を握り直した。

 

 「よし!分かった!行くぞ!今すぐだ!」

 

 2人は寝台を蹴って廊下へ飛び出した。石の階段は夜の冷えで硬く、裸足に近い足裏に痛いほど冷たい。談話室へ下りながらロンは息を呑み、ネビルは短く状況を整理していた。止められるなら止める、止められないなら追いつく。それだけだ。

 

 「俺はハーマイオニーを起こしてくる。馬車に繋いでるセストラルに乗っていこう。いけるか?」

 

 「任せろ!」

 

 2人が動く。

 

 ネビルは女子寮の塔へ駆け、ハーマイオニーを叩き起こした。事情を聞いた彼女は寝癖も直さずローブを掴み、階段を降りながら杖の有無だけ確認すると、頭の中で地図を引き裂くみたいに最短の動線を組み立てた。

 

 ロンは逆に、考えるより先に脚を動かすタイプだ。グリフィンドール塔を飛び出し、夜の回廊を滑るように走り、動く階段の癖を身体で覚えた獣みたいに角を曲がって外へ抜けると、セストラルのいる場所へ来た。

 

 馬車置き場は月明かりが薄く、柵の影が地面に爪のような線を引いていた。そこに、死を間近で見た者にしか見えない影が立っている。黒い皮膚は濡れた革のように艶を失い、肋骨の浮いた胴体が息のたびに僅かに波打つ。背に畳まれた翼は大きく、骨の節が夜の光を吸って鈍く尖っていた。ロンは一瞬だけ息を呑み、すぐに口の端を釣り上げて誤魔化す。

 

 「こんなのが馬車を引いてるなんて、ビックリだよな〜」

 

 言いながら彼は首筋を撫で、硬い毛並みの下の熱を確かめる。セストラルは低い唸り声を返し、鼻先を少しだけ押し付けてきた。怖いのか、落ち着かせているのか、どちらか分からない。ロンは掌に残る体温を握り直した。ハリーは今も空のどこかを飛んでいる。追いつけなければ、夢が本物だった時に取り返しがつかない。

 

 「ロン、行けるか?」

 

 背後からネビルの声がした。振り向くと、ネビルとハーマイオニーが息を切らし、そしてジニーがいた。ジニーは寝間着の上にローブを羽織り、袖を捲って指の関節を鳴らしている。ハーマイオニーの眉は吊り上がっていたが、叱り飛ばすより先に状況の深刻さが勝ったらしい。

 

 「全く……こんな夜に起こして……なんなの?」

 

 「いや、ハリーがよ!ってジニー?いや危ないから来んなよ!」

 

 「兄さんじゃ心配だからね。来てあげたわ。それにハリーも」

 

 短い言葉のやり取りの間にも、風が強くなり、雲が月を隠した。セストラルの翼が一度だけ広がり、乾いた膜が空気を擦る音がした。ロンは腹の底で悪態をつき、同時に決めた。今さら引き返せない。ハリーを追うなら、この夜の獣の背に乗るしかない。

 

 「いいか。絶対に離れんな。落ちたら流石に死ぬ」

 

 ネビルが言うと、ジニーは鼻で笑い、ハーマイオニーは無言で頷いた。ロンが先に鞍もない背へ跨がり、膝で挟んで重心を低くする。ネビルが続き、ハーマイオニーはローブをまとめて身を寄せ、最後にジニーが軽い動きで乗った。セストラルは重みを感じても怯まず、むしろ待っていたみたいに首を持ち上げる。

 

 次の瞬間、翼が叩きつけるように振られ、地面が遠ざかった。冷気が頬を切り裂き、涙が勝手に滲む。ホグワーツの塔が下へ沈み、窓の灯りが散った。ロンは歯を食いしばり、闇の中に伸びる進路だけを見た。ハリーのファイアボルトの尾が見えない。だが、風の流れと雲の切れ目が、誰かが先に飛んでいることだけを教えてくる。

 

 その一連を、城の影が静かに見ていた。石壁に寄りかかる男と、杖を握る老人だ。伏黒甚爾は煙草の匂いを風に流し、目だけで空を追う。ダンブルドアは長い外套の襟を上げ、笑いもしないまま小さく息を吐いた。

 

 「行きやがったな」

 

 「わしらも行くとしようかの」

 

 甚爾が視線を落とし、老人を見る。子供だけで魔法省へ向かわせる気はない。ましてや、あの夢が餌なら、誰かが待っている。ダンブルドアは外套の襟を上げ、甚爾の肩に手を置く。甚爾は反射的に周囲を睨み、夜の気配を裂くみたいに息を吐いた。

 

 「しっかり掴まれ、フシグロ君。絶対に離すでないぞ」

 

 「離すかよ」

 

 次の瞬間、校庭の冷気も闇も、二人の足元から折り畳まれた。

 

 圧縮された世界が弾け、二人は石畳の路地に立っていた。鼻を刺す煤と川霧の匂い、遠くの馬車輪、眠らない街のざわめき。ホグワーツの森の冷えとは別種の寒さが骨に触れる。甚爾は反射で周囲の屋根を見上げ、次いで地面の湿りを踏みしめた。魔力の痕跡が濃い。ここはロンドン、魔法省の入口がある地下へ通じる区域の近くだ。

 

 「……早すぎたな」

 

 「早い方がよい。待てる者が勝つ」

 

 ダンブルドアは杖先で空をなぞり、見えない糸のような光を引き出した。魔力の痕跡を探る呪いだ。けれど今拾えるのは、この周辺を行き来した大人の雑多な残り香ばかりで、ハリーの焦りや、セストラルに跨がった子供達の荒い呼吸の匂いはまだ届かない。

 

 甚爾は路地の出口へ歩き、地面の湿りと壁の冷たさを掌の感覚で確かめた。魔法省へ繋がる導線はここから下へ潜る。入口の近くで待てば、先にハリーを捕まえられる。捕まえて、夢の話を吐かせる。閉心術の締め直しを叩き込む。それでも止まらないなら、もう一つの手段へ進むだけだと、甚爾は腹の奥で決めていた。

 

 「ジジイ、ガキが来るまでに仕掛けがあるかもな」

 

 「うむ。だからこそ先に来た。来るまでに潰せるものは潰す」

 

 二人は余計な言葉を切り、地下へ続く階段の方へ足を向けた。ハリー達はまだ空の途中だ。到着する前に、待ち受ける罠の匂いだけを先に嗅ぎ取っておく。そういう順番に変えるのだ。

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