ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
ファイアボルトに跨ったハリーは、夜の湿った風を顔面で割りながらロンドンへ突っ込んだ。街灯の列が下で滲み、霧が喉の奥に貼り付く。胸の中では焦りだけが増殖して、息を吸うたびに心臓が早鐘になったが、手綱を握る指は硬く固まり、脳内には神秘部の暗い棚と、膝をつくシリウスの姿だけが焼き付いて離れなかった。
公衆電話ボックスの前に滑り込むと、ハリーは扉を叩くように開け、震える指で硬貨を落とし、番号を押した。金属が冷たい音を返す。合図の声が機械的に響き、床が沈み、箱ごと地下へ吸い込まれていく感覚に胃が浮いた。耳が詰まり、灯りが短く瞬き、次に視界が開けた時には、青白い照明の廊下と無人の受付が待っていた。
同じ頃、空から黒い影が2つ舞い降りた。羽が空気を叩き、石畳に爪が擦れる音がやけに大きい。セストラルの背で歯を食いしばっていたロンとジニー、ネビルとハーマイオニーは、着地の衝撃を膝で殺しながら飛び降りた。夜は骨の奥まで冷え、濡れた外套が肩に重い。けれど止まれない。ロンは喉の奥で短く唸って、暗い建物の影へ駆けた。
「こっちから入るぞ!」
「おう!」
入口は違っても目的地は同じだ。冷たい階段を降り、扉を抜け、静まり返った通路を踏み鳴らす。魔法省にいるはずの職員の気配が薄すぎて、足音がやけに反響し、誰かの視線だけが壁から滲んでくるような錯覚が背中を這った。ハーマイオニーは走りながら周囲を見回し、ネビルは奥歯を噛み、ジニーは袖を捲ったまま拳を握り、ロンは肺が焼けても速度を落とさなかった。
神秘部へ向かうエレベーターの前で、ハリーが立ち尽くしていた。額に汗が浮き、息が浅い。扉の金属は冷え切っていて、まるで地下そのものが生き物みたいに、こちらの体温を奪おうとしてくる。
「みんな……!」
ハリーの声が震えた。
「ハリー!」
「1人で突っ走るなよな!」
「嫌な感じがする」
ネビルの低い声に、ハーマイオニーも頷いた。空気が軽くない。静寂が濃すぎる。誰もいないのに、誰かがいるみたいだ。ハリーは唇を噛み、杖を握り直して扉の前へ立った。ここまで来たのに戻れない、そんな表情だった。
5人が乗り込むと、エレベーターは軋みながら下降した。金属の箱の中で息づかいが重なり、壁の小さな窓を流れる階層表示の文字だけが淡く光る。心臓の音が耳の内側で暴れ、ロンは無意識に手を開閉し、ジニーは視線を落とさず、ハーマイオニーは杖先を僅かに上げ、ネビルは喉の奥で獣みたいに息を整えた。ハリーはその中心で、夢の映像を追い払うように何度も瞬きをしたが、瞼の裏に浮かぶのは、白い杖と、笑う影と、苦しむシリウスだけだった。
扉が開き、神秘部の冷えた空気が流れ込む。廊下は暗く、足元の音が吸われる。ハリーが先に出て、杖先に光を灯し、迷いなく進んだ。
「この部屋にシリウスがいる!助けないと……!」
予言の部屋の扉を押し開けた瞬間、光は棚の列を照らした。ガラス玉が無数に並ぶはずの場所には、空っぽの棚が混じり、床の隅に古い破片と埃が寄っている。空気に甘い薬品の残り香と、乾いた粉の匂いが混ざっていた。静かすぎる。棚の奥の闇が、光を飲み込むみたいに深い。
「まさか……」
ハリーの声が擦れた。
「ハリー、罠よ」
ハーマイオニーが強く言い切った、その瞬間だった。
「動くな」
闇から低い声が落ち、別の笑い声が重なった。
「ハーッハッハッハ!本当に来るとはねぇ……」
光の縁に、2つの影が浮かび上がる。長身で刃物みたいな眼をした男、アントニン・ドロホフ。狂気を飾りのように纏った女、ベラトリックス・レストレンジ。さらに、棚の間から、背後から、左右から、黒いローブが増えていく。数が読めない。五人の輪の周囲に、闇が輪を描いて閉じた。
ネビルはベラトリックスの顔を見た途端、頭の中が白く焼けた。母と父の叫びが一瞬で蘇り、血が逆流するみたいに身体が熱くなる。踏み出しかけた足が止まったのは、視界の端でローブが揺れ、囲みが完成していると理解したからだ。理性が怒りを辛うじて縛り、代わりに拳が震えた。
「囲まれてるな」
ロンが吐き捨てる。
「そうみたいね」
ジニーが前へ出そうになる肩を、ハーマイオニーが半歩だけ横へ寄って止めた。ハリーは歯を食いしばり、杖先の光を揺らさないように腕を固定しながら、ベラトリックスを睨んだ。
「何が目的だ」
「予言だよ。アンタが持ってるんだろう?」
ベラトリックスは舌なめずりして笑い、ドロホフは無言のまま、杖をわずかに持ち上げた。棚の影が伸び、空気が冷たく締まる。
「そんなの知らない」
ハリーの声は強がりのようで、けれど嘘ではなかった。棚のどこにも、それらしい球は見当たらない。あるはずの場所が、空白になっている。ベラトリックスの笑みが一瞬だけ歪み、苛立ちが覗いた。
「知らない?じゃあ探しな。ここに来たんだもの、役目は果たしてもらうよ」
闇の輪が、さらに一歩だけ近づいた。
5人はそれぞれ違う方向を向いた。ハリーとネビルは正面、ロンは左の通路、ハーマイオニーは右、ジニーは背後。棚に並ぶ予言球が淡く瞬き、埃の匂いと冷えた石の湿気が肺に刺さる。魔法省の地下は静かすぎて、誰かが唾を飲む音まで響いた。
「予言はその本人にしか取れないって知ってるはずだよ。だからアンタにしか取れないのさ」
「だから知らないって言ってるだろ!ヴォルデモートが自分で取ればいい!」
ハリーは声を荒げたが、視線は走り続けていた。棚の角、通路の幅、足場になる段差。肉体強化で熱くなった血が指先まで回り、拳を握ると革手袋が軋む。ネビルは床の割れ目を踏み締め、怒りをまだ喉の奥で飼っていた。
「軽々しく名前を言うんじゃないよ!!」
ベラトリックスが杖を突き出した。笑い声が反響し、予言球がカタカタと揺れた。
「……うるせぇ女だ」
ネビルが低く吐き捨てる。ベラトリックスはその男を一度見たが、眼中にない。狙いはポッターだけだ。
「あぁ?横の大男、あんたは誰だい。護衛気取りかい?」
「……俺はネビル、ネビル・ロングボトムだ。クソ女」
名を聞いた瞬間、ベラトリックスの笑みが歪んだ。獲物の名前を思い出したみたいに、瞳がぎらつく。
「へぇ!あんたロングボトムの子かい。大きくなったねぇ。で、あんたの母さんと父さんは元気かい?まだ、まともに喋れもしないのかいぃ?」
ネビルの背筋が鳴った。筋肉が一斉に硬くなり、呼吸が短く切れる。次の瞬間、床石が砕け、巨体が消えた。
ベラトリックスは碌に反応できず杖を持つ腕を掴まれた。握力が骨の上から食い込み、指先が白くなる。彼女は笑ったまま抵抗しようとするが、笑い声が息に変わった。
「お前を殺す」
「離せぇ!!」
ネビルが肘を外へ折り、関節の限界まで捻る。嫌な音が走り、杖が床に落ちて転がった。棚のガラス球が揺れ、1つが落ちて割れ、誰かの囁きが空気を裂いた。
ドロホフがすぐにネビルへ杖を向けた。その腕をハリーが掴む。掌が袖越しに震えを伝え、ドロホフの魔力が逃げ場を探すのがわかる。
「遅い、判断が遅すぎる」
ハリーは淡々と言い、反対の拳を鳩尾へ沈めた。息が押し潰れ、ドロホフの身体が折れる。ハリーは倒れる前に襟を掴み、棚の角へ叩きつけて動きを止める。
その瞬間、周囲の死喰い人が一斉に散った。通路の左右と背後から呪文が飛ぶ。赤、緑、青白い光が棚の隙間を縫い、破裂音が連鎖する。だが5人は止まらない。鍛え上げた脚が石床を蹴り、光より先に距離を潰す。
ロンは杖を抜かなかった。拳に魔力を集めるのと同時に、胸の奥にまとわりつく黒い熱が滲む。本人はただ「調子がいい」としか思わない。踏み込んだ一歩で影に重なり、仮面へ拳を叩き込む。仮面が砕け、相手は棚に背中からぶつかり、予言球が雪崩れそうになる。
「オラァ!!!」
ロンは叫び、落ちかけた球を肘で受け止めるように押し返し、そのまま顎へ追い打ちを入れた。倒れた死喰い人の杖が床を転がり、火花を散らす。
右ではハーマイオニーが呪文を撃ちながら前へ出た。飛んできた呪文を杖の柄で払い、反動の勢いで足払いをかける。相手が転倒した瞬間、彼女は杖先を喉元に止めるだけで済ませず、拳で腹を打って呼吸を奪った。
背後のジニーはさらに速い。相手の死角へ滑り込み、膝で腿を砕くように蹴り、崩れた肩を掴んで投げる。床に落ちた杖を踏み、拾わせない。短い呪文が続けて迸る。
「
縄が走り、黒ローブが縛られる。彼女は息を吐き、次の影へ向けて顎を上げた。
「次。来いよ」
予言の部屋は、本来なら静かに未来を眠らせる場所だった。今は違う。割れた球の囁きと、石床を砕く足音と、肉と布がぶつかる鈍い衝撃が混ざり合い、暗闇そのものが震えていた。
ベラトリックスは折れた腕を抱えながらも嗤い、床に転がった杖へ指を伸ばした。
「
決死の杖無しで呪文を使い、杖が跳ねて掌へ戻る。だが握り直すより早く、ネビルが肩でぶつかり間合いを奪った。杖先が逸れて棚の上段を抉り、火花と硝子の鳴き声が散る。彼はそのまま肘を叩き込み、よろめいた手首を捻って杖を落とした。怒りは滾っているのに、殺しへ踏み込まないのが逆に怖かった。
「ネビル、後ろ!」
ハーマイオニーの声。ネビルの背後に飛んできた呪文を一瞬でカバーに入ったハリーが腕で弾き、返すように赤い光を放つ。
「エクスペリアームス!」
杖が弾け飛び、ロンが足で踏み止める。拳がもう1人の仮面を叩き割り、ジニーの縄が別のローブを絡め取った。棚の隙間を逃げ場にしようとした死喰い人たちは、逆に通路へ押し戻され、息を整える暇もなく後退していく。
死喰い人たちは、なす術もなく押し潰されていった。棚の影から呪文を放っていた者は間合いを詰められ、仮面越しの息遣いが乱れ、杖を握る指が震えだす。嘗て闇の帝王の名の下で幅を利かせていたはずの大人たちが、まだ学齢の子供たちに追い立てられる光景は、予言球の冷たい囁きよりも現実味がなかった。割れた球から漏れる声が足元にまとわりつき、石床は砕けた破片で滑りやすくなり、魔力の焦げた匂いと汗の匂いが混じって喉を刺す。それでも5人は息を切らさない。息を切らす前に、次の相手へ距離を詰め、次の一撃を叩き込むからだ。
「強い、強すぎる!!!」
死喰い人の1人が叫び、煙のように形を崩して飛び上がった。続く者も、床を蹴る音も残さず闇に溶ける。逃げるしかないと悟った瞬間の、あの情けない速さだけは妙に正直だった。
「お前達!!逃げるんじゃない!!」
片腕を捻られ、床に這い蹲ったベラトリックスが喉を裂くように叫んだ。怒りだけじゃない。ここで失態を晒して帰れば、主の前で言い訳は通らない。だが、命の方が重い。死喰い人たちは迷いを捨て、煙となって消えた。
静寂が一瞬だけ戻った。
その直後、部屋の空気が沈んだ。音が吸われ、温度が下がり、予言球の淡い光が濁る。胸の奥に冷たい指を差し込まれるような圧が、扉の向こうからじわじわと滲み込んでくる。
「なんだ?」
ネビルが奪った杖を折り、折れた木片を握ったまま気配の方を見た。怒りで熱くなっていた血が、逆流するみたいに冷える。
「……ヤバいな」
ロンも視線を向ける。さっきまで拳に宿っていた熱が、今度は背中の奥で重く蠢いた。正体はわからない。わからないから、余計に嫌だった。
「ぐっ……!!」
ハリーが額の傷を押さえ、膝をつく。歯を食いしばった音が響き、彼の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
「ハリー!まさか……!」
ハーマイオニーが駆け寄り、肩を支える。ハリーの瞳が、暗闇の向こうを見ている。見たくないものを見ている目だ。
「来る……近い……」
ハリーの声は掠れていた。返事を待たず、廊下の奥から闇が迫る。煙ではない。影でもない。意思のある闇だ。
「逃げましょう!!!」
ハーマイオニーが叫ぶと同時に、ジニーがハリーの反対側に回って腕を引いた。ネビルは躊躇なく前に出て、後退しながら通路を塞ぐ位置を取る。
「ハリー、走れ!」
ロンが怒鳴り、背中を押す。5人は走り出した。足音が石床に跳ね返り、棚の列が流れる。通路を曲がるたびに冷気が濃くなり、闇は追ってくるのに、距離が縮まっている感覚だけが強くなる。
「閉める!」
ハーマイオニーが杖を振る。
「コロポルタス!」
扉が轟音を立てて閉まり、金具が噛み合う。だが次の瞬間、向こう側から鈍い衝撃が一撃で響き、扉全体がたわむ。木が悲鳴を上げ、金具が軋む。
「1発で……?」
ジニーが舌打ちする。まだ誰の姿も見えない。姿がないのに圧だけが追いすがる。
「止まらないで!」
ハーマイオニーが息を切らしながら叫ぶ。
ネビルが振り返り、折れた杖の代わりに拳を握った。怒りが残っている。だが今は怒りだけじゃ足りない。
「来たら、俺が止める」
その言葉が終わる前に、背後の扉が砕けた。木片と金具が飛び散り、冷えた闇が通路へ溢れ出す。ハリーが喉を鳴らし、額を押さえる手に力が入る。
「ハリー、見ちゃだめ!」
ハーマイオニーが叫ぶ。ハリーは必死に目を逸らすが、逸らしてもなお、頭の内側に声が滑り込んでくる。
「……ポッター……」
囁きとも笑いともつかない響きが、背骨を撫でる。
ロンの拳が勝手に握り締められた。指の関節が軋む。身体の奥で、魔力とは違う何かが反応して、皮膚の内側がぞわりと粟立つ。
「畜生……また、これかよ……」
走り続けるしかない。5人は通路の先、上へ通じる標識を探して駆けた。闇は追う。追い方が、狩りのそれだった。
通路を曲がった先、ロンが先頭に躍り出て、迷いなく扉に手を伸ばした。標識も何もない。だが背後から迫る冷気と、ハリーの額を裂くような痛みが「立ち止まるな」と命じてくる。錠前に触れた瞬間、扉は拍子抜けするほど軽く開いた。次の一歩を踏み込んだ5人の足元から床が消える。まるで階段の最初の段が最初から存在しなかったみたいに、身体だけが前へ投げ出され、空気が胃を持ち上げた。
落下の最中、ハーマイオニーは息を呑み、ジニーは舌打ちし、ネビルは腕を広げて全員の落ちる角度を揃えるように身体を捻った。ハリーは叫ぶ代わりに歯を食いしばる。額の傷が燃える。視界の端で、黒い布のようなものが揺れた。音が変わる。上は遠く、下は暗い。石壁に刻まれた段差や手すりが、落ちる彼らの影を引き裂くように流れていく。
5人は床に叩きつけられなかった。ネビルが先に着地し、膝を曲げて衝撃を殺す。次いでロン、ジニー、ハーマイオニー、最後にハリー。靴底が石を擦り、砂が跳ねるだけで終わった。伏黒甚爾の授業で培った身体操作は、落下の恐怖より先に働く。重心を落とし、呼吸を合わせ、次の動きへ繋げる。それが当たり前になっていた。
そこは円形の空間だった。階段状の観客席が周囲を取り囲み、中心には古い石の台座。台座の上に、朽ちかけたアーチが立っている。裂けた黒い布がその中に垂れ、風もないのにゆっくり揺れ続けていた。布の向こうは何も見えない。暗闇ではないのに、視線が吸い込まれる。空気が冷たいのではなく、空気そのものが拒絶してくる。
ハリーが一歩、無意識に近づいた。
「……やめろ」
ロンが掠れた声で止める。ロン自身も、目が離せない。アーチの奥から、囁きが聞こえたからだ。耳ではなく、頭の中で。幾つもの声が重なって、言葉にならない言葉を落としてくる。懐かしいようで、2度と触れたくない温度。ハリーの喉が鳴り、胸の奥が引き裂かれる。
ハーマイオニーは眉をひそめた。
「何? 今、誰か話した?」
ジニーも周囲を見回す。
「誰もいない。……でも、変」
ネビルは拳を握り、ハリーとロンの表情だけを見た。2人だけが、同じ方向に引かれている。何かに呼ばれている。
「聞こえるんだろ」
ネビルが低く言う。
ロンは答えられない。唇だけが動き、声にならない。ハリーは額を押さえたまま、視線を布から剥がせずにいた。死を間近で見た者だけが聞く声。死の境目を踏んだ者だけが、あそこに残る残響を拾ってしまう。
そのとき、上から足音が降ってきた。落下してきたのは5人だけじゃない。階段を駆け下りる複数の影、揺れるローブ、杖先の光。煙のような変化から実体へ戻る者もいる。逃げたはずの連中が、別の通路から集まってきたのだ。
「増援だ!」
ジニーが叫び、杖を抜く。
ハーマイオニーも一瞬で前へ出た。
ネビルはアーチから5人を遠ざけるように立ち位置をずらし、ロンの肩を乱暴に掴んで引いた。
「見るな、引っ張られる」
ロンはようやく瞬きをし、息を吐く。ハリーも強引に視線を剥がされ、足が石に戻った。だが頭の奥にはまだ囁きが残っている。背後から迫っていた、ヴォルデモートを思わせる闇の圧は、まだこの空間には降りてきていなかった。代わりに、死喰い人たちの魔力が、狭い円形の部屋を満たしていく。
「今度は逃がさないよ、子猫ちゃんたち」
甲高い笑い声が上から落ちた。
ベラトリックスではない。別の女だ。だが笑い方は同じ種類の毒を含んでいる。
死喰い人は10人以上。仮面の隙間から覗く目が、子供のはずの相手を見て揺れた。さっきの惨状を知っているのか、躊躇いが一瞬生まれる。だが怯みは長く続かない。杖が一斉に上がり、呪文の唸りが空気を裂いた。赤い光が雨のように落ち、石段が弾け、粉塵が舞う。
ハリーは台座の縁を蹴って跳び、落下の勢いを利用して背後の段に着く。ロンは魔法を受ける角度を読んで身体を捻り、ジニーは短い歩幅で詰めてから一気に距離を殺す。ハーマイオニーは呪文を撃ちながらも相手の足元を見て、転ばせる場所を選んだ。ネビルは一度だけアーチを振り返り、布の揺れに喉を鳴らす。あそこへ落ちたら終わりだ。声がそう囁く。聞こえるのはハリーとロンだけのはずなのに、ネビルの背筋まで冷える。
「散るな!近づくな!」
誰かが叫ぶ。死喰い人側だ。恐怖を隠すための怒鳴り声だった。
5人は頷かない。代わりに同じ呼吸をする。伏黒甚爾の授業で何百回もやった、合図のない連携だ。狙いは一点、出口を確保しつつ、台座から離れる。ヴォルデモートの影はまだ来ない。だが、来る前にここで足を止めれば、彼らの背中はアーチに吸われる。
だが多勢に無勢だった。死のアーチの部屋は円形で逃げ道が少なく、上段の通路から黒いローブが次々となだれ込み、床を回り込むように散っていく。倒しても倒しても数が減らないのは、死喰い人が強いのではなく、数と位置取りで勝とうとしているからだ。薄布の向こうから漏れる囁きが鼓膜にまとわりつき、割れた石片の粉が喉に張りつく。5人は汗と埃にまみれ、呼吸が荒くなっても足だけは止めなかった。止めた瞬間、杖先が揃って一点を焼き抜く。その“狙い”にされるのはいつも、少し動きが鈍った者だ。
「クソ!!何人いんだよ!」
ロンが飛んできた呪文を杖で弾き、反射で手首を震わせながら叫ぶ。
「ロン!口じゃなく目を動かして!」
ハーマイオニーが鋭く返す。声は冷たいのに、指示は的確で、ロンの背後へ回り込もうとする影を先に潰していた。
ネビルは杖先から防護を広げ、それを壁みたいに立てるんじゃなく、厚い板のようにして横から叩きつける。光が当たった仮面がひしゃげ、身体が床を滑って転がる。ハリーはそれを見ているだけじゃなく、倒れた相手の杖を蹴って遠ざけ、次の射線を潰す。伏黒甚爾に叩き込まれたのは呪文の数じゃない。間合いと、奪う順番と、呼吸を乱さないやり方だ。
ジニーが歯を食いしばり、石礫を蹴って飛ばす。だがさっき被弾した脇腹が熱く疼き、動くたびに息が引っかかる。ハーマイオニーがちらりと見た瞬間、死喰い人がそこへ狙いを寄せた。
「キャッ!」
ジニーの足元で石が爆ぜ、身体が半歩ずれる。ほんの半歩。それだけで、死喰い人の連射が密になる。
「ジニー!!」
ロンが前に出かけ、ハリーが腕を掴んで止めた。
「行くな!抜かれる!」
ハリーの声は短い。次の一撃がロンの肩口を掠め、ローブが焦げて黒く縮んだ。ネビルがジニーの前に立ち、
「動ける!」
ジニーが無理やり言い切る。痛みで顔は白いのに、目だけが燃えていた。
その時だった。死のアーチの布が、風もないのに大きく揺れた。聞こえる。耳で、じゃない。頭の奥で、誰かが囁いている。
ハリーが一瞬だけ動きを止めた。額の傷が脈を打つより先に、背筋が冷える。
ロンも同時に息を呑む。自分の名を呼ぶような、遠い声が混じったからだ。生きている者の声じゃない。どこかで一度、終わった者の声だ。
「……ハリー、お前も?」
ロンが震える声で言いかけた瞬間、呪文が床を抉り、2人は反射で跳んだ。聞いている暇はない。布の向こうの囁きは甘く、引きずり込むみたいに優しいのに、足を止めたら終わると身体が知っている。
「集中して!」
ハーマイオニーが叫ぶ。彼女は声で引き戻しながら、杖先で光を散らし、射線を割った。
死喰い人たちは近づかない。近づけば肉弾で折られると理解しているから、円形の外周に散って撃ち続ける。部屋の中央、アーチへ追い込み、背中を布に押しつけさせる。そんな意図が透けて見えた。
「追い込む気かよ……」
ネビルが低く唸り、足を踏みしめる。床の粉が跳ね、巨体が半歩だけ前に出る。だが、その半歩に合わせて呪文の雨が落ちる。防護を厚くすればするほど、体力が削られる。時間を奪われる。
ハリーは一瞬だけ歯を食いしばった。自分がここに来たせいで、みんながこの部屋にいる。怒りが喉に上がり、同時に、冷たい判断が頭の奥で固まる。ここで粘っても削られるだけだ。突破口が必要だ。
――そしてその突破口は、上から降ってきた。
白い光が、無数に降り立った。ぱん、ぱん、ぱん、と乾いた破裂音が連続し、部屋の空気が一気に変わる。黒いローブの列が一瞬で崩れ、仮面が飛び、床に叩きつけられる。死喰い人たちが振り向くより先に、白い閃光が杖先から走り、腕を弾き、膝を折り、包囲を裂いた。
「伏せろ!」
聞き慣れた大人の声が響く。次の瞬間、死喰い人の呪文が中空で弾け、壁に刺さって消えた。
ハリーたちの前に、数人の影が並ぶ。黒い外套、疲れた顔、それでも目だけは鋭い。不死鳥の騎士団だ。先頭に立った男が一歩前へ出た。
シリウス・ブラックだった。
死喰い人の1人が反射でハリーへ杖を向ける。だが、その杖先が光るより早く、シリウスの声が落ちた。
「私の息子に手を出すな」
その言葉と同時に、白い光が走り、死喰い人の杖が弾き飛ばされた。ハリーは息を忘れたまま、シリウスの背中を見上げる。背中は大きくない。けれど今は、死のアーチの囁きよりも、ずっと頼もしかった。