ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
魔法省への入り口を潜り、内部へと侵入した俺とダンブルドア。中はビックリするぐらい静かで、人の気配はまるで無い。大きな像と噴水のある広場は静けさが支配してる。
「夜の魔法省はいつもこんな感じか?」
俺は像を見上げながら言った。
「他所の国は知らんが、イギリス人は時間だけはしっかり守るからのぉ、夜は働かん。この時間だと誰もおるまいよ」
腕を後ろに組み、俺の横に立つダンブルドアが言う。
「へぇ……」
少し前に訪れた時は手紙の紙飛行機が飛び、無数の魔法使いが往来していたが、それが嘘みたいに静かだ。これ夜に盗みに入れば……なんていう無粋な考えが浮かんだ。
「随分ザルだな」
「まぁ……そうじゃな」
そうして歩きながら神秘部に繋がるエレベーターの前に着いた。
それに乗り込み、ダンブルドアが階数のボタンを押して扉を閉めようとした時、閉まりかかった扉に手が差し込まれた。
「私もいいかな?」
無理矢理入ってきたのは茶色の髪を撫で付け、額に縫い目、そして草臥れたスーツを着た男だった。俺たちの前、扉側に立った。
「お前……」
なんだコイツ……気味の悪い奴だ。見掛けは若く見える。ただ、魂の皮が随分厚い。100年や200年生きた奴の魂じゃねぇ……それに何か術式を持ってやがるな。呪詛師か……?魔法使いには見えねぇ。
「忘れ物かの?」
ジジイが呑気に男に尋ねる。
「少し神秘部にね、あなた達も?」
「ホッホッホ、そうじゃよ。で……君は何者かな?」
ダンブルドアの長い裾から手元にするりと杖が落ちた。
「いやぁ……やっぱ警戒されてるね。戦う気はないよ。アルバス・ダンブルドア、それと——
男が前を向きながら言った。
俺は腰元に差してある拳銃に触れた。
「てめぇ……」
言葉にした瞬間、喉の奥が乾く。銃身の冷えが掌に伝わって、逆に頭が冴えた。こいつの呪力は薄く広がってるんじゃなく、皮膚の内側に染みるみたいにじっとりまとわりつく。敵意が濃いわけじゃねぇのに、近くにいるだけで不快になるタイプだ。しかも俺の名前を、あえて禪院で呼びやがった。知ってる。どこかで見てる。あるいは、知る手段を持ってる。
「物騒だね。君はいつもそうなのかい?」
男は振り向かない。前を向いたまま、扉の合わせ目を指で軽く撫でた。爪が金属に当たって、キィ、と小さく鳴る。その音だけがやけに響く。ダンブルドアは杖を下げないが、俺に撃てとも止めろとも言わない。ジジイのそういう所が一番腹立つ。全部見て、全部計算して、俺にやらせる。
「自己紹介もしねぇで乗り込んできて、警戒されてるね、じゃ済まねぇだろ」
「名は大事だからね。安売りしたくない」
「じゃあ降りろ」
「神秘部に用があるんだ。君たちと同じ」
エレベーターが僅かに震え、上の機械が唸る。下降が始まった。浮遊する感覚が胃を持ち上げ、耳の奥が詰まる。男の呪力が、その揺れに合わせて微細に波打った。術式の気配が、一瞬だけ刃の形になる。見えないのに、刺さる。俺は拳銃から指を離さず、視線だけで男の肩甲骨の位置を測った。撃てば当たる。だが、当たった後に何が起きるかが読めねぇ。
「………フシグロ君、今夜は忙しくなる。ここで余計な火種は増やさん方がよいじゃろう」
ジジイが穏やかに言う。穏やかだから余計にムカつく。
「余計な火種を持ち込んでるのはそっちだろ」
「持ち込んだ覚えはないのぉ。勝手に入ってきたのじゃ」
「ほら、こういう時に校長は強いね」
「うるせぇよ」
男が笑った。笑い方が軽いのに、背中が重い。笑いながら人を殺せる匂いがする。
「で、神秘部で何する気だ」
「見に行ってちょっと物を拝借するだけさ。魔法の深い所、触れてみたい。君たちが向かう理由も、だいたい察しはつくけどね」
「察し?俺たちの事情を知ってるってことか」
「君たちは子供の後始末をしに来た。違う?」
その一言で、空気がきしんだ。俺の中で何かが一段階だけ硬くなる。ガキ共はまだ到着してないはずだ。それなのに、こいつは言い当てた。偶然で言える口調じゃねぇ。ダンブルドアが小さく息を吐く。杖先がほんの少し上がる。男の背中に、見えない圧が触れた。
「……君、今のは言い過ぎじゃよ」
「おっと。失礼。だが否定しないんだね」
エレベーターの照明が一度だけ明滅し、冷たい空気が隙間から流れ込んだ。湿った石の匂い。遠くで水滴が落ちる音。神秘部の気配が、箱の外からじわじわと滲んでくる。男がようやく小さく振り返り、縫い目のある額をこちらに向けた。目が合った瞬間、魂を覗かれたみたいに背中がぞわりと粟立つ。
「フフフ、禪院甚爾。君は面白い。魔法とも呪術とも違う場所に立ってる。今夜、その価値が証明されるよ」
「証明だァ?」
俺は笑わなかった。引き金に掛けた指が、ほんの少しだけ強くなる。
「チッ……薄気味悪い野郎だ。その呪力、そしてその額、魂の厚み……お前普通の呪詛師じゃねぇな」
「へぇ……君は魂の観測もできるのかい?流石だね。君の言う通り私は
飄々としながら言いやがった。何が目的なのか掴めない。声色は軽いのに、言葉の裏側に積もってる時間の重さだけが異様で、百年やそこらの人間が背負える匂いじゃねぇ。エレベーターの床を伝ってくる微細な振動に合わせて、男の呪力がわずかに脈打つ。呼吸と同調してるわけでもない。まるで別の生き物が皮膚の内側で動いているみたいで、見ているだけで胸の奥がざらつく。
「どうだい?私と少しばかり神秘部の探索をしてみるというのは」
「いきなり何を言ってんだ?」
冗談に聞こえねぇのが厄介だ。こいつは本気で言っている。俺とジジイと、そしてコイツで並んで歩く未来図を、頭の中で既に組み立てているような目をしてやがる。
「ふむ……」
待てジジイ、何考えてる?もしかして一緒に行くつもりか?
「フシグロ君、わしらの見えないところで何かされるより、側で見ていた方が安心だとは思わんかね?」
「理屈は分かるがな……コイツは信用できねぇぞ。見るからに怪しい」
男は肩をすくめた。その仕草だけは妙に人間臭い。
「めっちゃ私に聞こえてるんだけどね……」
「聞こえるように言ってんだよ」
俺は腰の拳銃に触れたまま視線を外さない。撃てば殺せる距離だ。だが撃った瞬間に、何が起きるのか分からねぇ。弾が当たるかどうかすら怪しい。こいつの周囲の空気が、微妙に歪んで見える。
「安心していい。少なくとも今夜、君たちの邪魔をするつもりはないよ。むしろ興味があるだけだ。魔法と呪術と、そのどちらにも属さない君の在り方に」
エレベーターがゆっくりと減速し始めた。金属が擦れる低い音が箱の中に響き、空気がさらに冷える。神秘部の匂いが濃くなって、石と埃と、そして説明のつかない何かが混じった臭気が喉に絡みつく。
扉が開くまで、あと数秒。
俺は男を見据えたまま、静かに言った。
「余計な真似した瞬間、撃つ。それだけは覚えとけ」
男は笑った。楽しそうに、心底愉快そうに。
そして、扉が完全に開いた。
警戒しながらエレベーターを降りる。神秘部に着いた。黒いタイルが全面に貼られた通路は光を拒むように鈍く、壁も床も天井も自分の輪郭を飲み込んでいくような感覚がある。靴底が石を踏むたび、乾いた反響が遅れて戻ってきて、そのわずかなズレが神経を逆撫でする。空気は冷たく、埃と古い魔力が混じった匂いが鼻の奥に残り、息を吸うたびに胸の内側までひやりとする。
「ここに来たことは?」
男が言った。
「わしは何度か」
ダンブルドアが平然と答える。なんか慣れてねぇか?
「俺も数回ってとこだ」
数回とは言ったが、好んで来る場所じゃねぇ。毎回、皮膚の裏を舐められてるような感覚が残る。
「なるほどね。ダンブルドア校長は分かっていると思うけど、此処は魔法界の不思議を集めた場所……甚爾君に分かりやすく言えば呪術高専にある忌庫みたいなもの」
「甚爾君って呼ぶのやめてくれ」
縫い目の男が教授ヅラして言った。
「フフフ、私はとある目的の為に
「ある物?」
「そう、特級呪物、獄門疆」
獄門疆……禪院家の蔵書にあったな。紙の上の文字でしか知らねぇが、あれは確か、何でもかんでも封印できるって代物だ。どっかの時代の結界術を極めた術師の成れの果て。
「獄門疆……?それは一体どんな呪物なのかね?」
おいジジイ……興味津々じゃねぇか。
「興味あるかい?」
「あるとも」
「おい」
「獄門疆というのはね、生きた結界と呼ばれた源信なる人物の成れの果てとされていて、あらゆるものを封印する力を持つ呪具さ。一度取り込まれれば内側から出る術はほぼ存在しない。肉体も魂も、時間の感覚さえも切り離されたまま、ただ閉じ込められ続ける」
「ほぉ」
男の声は淡々としていたが、その内容は洒落にならねぇ。通路の奥で何かが軋むような音がして、俺は無意識に肩の筋肉を締めた。
「……そんなもんを探してどうするつもりだ」
「使うかどうかはまだ決めていない。ただ、必要になる未来が来る可能性が高いと踏んでいるだけだよ。君も分かるだろう?この世界は今、色々なものが同時に歪み始めている」
ダンブルドアは顎に指を当てたまま黙って聞いていた。否定もしない。肯定もしない。ただ、観察している顔だ。
「必要になる未来、ね……」
俺は通路の先を見た。扉がいくつも並び、それぞれが同じように見えて、同じじゃない。呪術の忌庫に並ぶ扉と同じで、開けた瞬間に戻れなくなる種類の気配が混じっている。
「案内してくれるってわけか」
「そう思ってくれて構わないよ。君たちが神秘部で何を探しているのかは知らないけれど、目的が衝突しない限りは協力できると思う」
信用はできねぇ。それでも、こいつがここまで踏み込んできてるって事実だけは重い。偶然で来られる場所じゃない。
俺は舌打ちを飲み込み、歩き出した。
通路の奥で、また微かな音がした。今度は確かに、こちらへ近づいてくる気配だった。
そうして黒タイルの通路を男の案内で歩いて行くと、ひときわ分厚い扉の前で足が止まった。周囲の空気だけが妙に澱み、肌に触れる温度がわずかに変わるのが分かる。魔法省の施設のはずなのに、呪術の忌庫に足を踏み入れる直前の、あの嫌な感覚に酷似していた。
「ここが忌庫だね」
男が扉に触れながら言う。指先が触れた部分だけ、金属の色が微かに濃くなった気がした。
「ふむ、この部屋はわしも見たことがないのぉ……開けられるのかね?神秘部の職員でもない君に」
ジジイが後ろに手を組み、警戒を解かぬまま淡々と問う。
「私が無策で此処に来るわけがないだろう?」
「いやそれは知らんが」
コイツ、距離の詰め方が妙に自然で気に食わねぇ。初対面の相手にする態度じゃない。まるで昔から俺たちを観察してきたみたいな口振りだ。
「神秘部の職員である無言者に教えてもらったんだ。パスワードってやつさ」
男はポケットから紙切れを取り出し、視線を落としながら扉脇のダイヤルをゆっくりと回した。金属同士が擦れる乾いた音が規則正しく続き、最後の一段を回した瞬間、内部で何かが噛み合う鈍い振動が伝わってくる。
「ザルだなぁおい」
「まぁ否定はできんの」
魔法に胡坐をかきすぎて、物理的な管理が雑になる。呪術界でも似たような連中は腐るほど見てきた。
「よし、開いたよ」
男が扉を押すと、重たい音を立てて隙間が生まれ、そこから冷たい空気が流れ出した。中に足を踏み入れた瞬間、視界いっぱいに並ぶのは棚、棚、棚。大小様々なガラスケース、封印札のような文様が刻まれた箱、液体に満たされた管、魔力の光を帯びて浮遊する物体。秩序だっているようでいて、雑多な狂気が同居する空間だった。
「ほぉ……!これは!」
ジジイが足を止め、ひとつのガラスケースを覗き込んだ。中には淡い乳白色の球体が浮かび、心臓のようにゆっくりと脈打っている。
「どうした?」
「これは愛じゃよ」
「愛ぃ?」
思わず眉が動いた。ふざけてるように聞こえるが、ジジイの声は本気だ。ガラス越しにその球体を見た瞬間、胸の奥がわずかに熱を持った。理由は分からねぇ。ただ、懐かしさとも違う、触れれば何かが壊れそうな感覚があった。
「人の感情を抽出し、こうして保存する研究があっての。愛、憎悪、後悔、希望……強い感情ほど形を持ちやすい。これはその中でも特に希少なものじゃ」
ジジイは面白そうにそれを眺めながら、まるで展示品を解説する学芸員のように続ける。
「神秘部ってのはつくづく趣味が悪いな」
吐き捨てると、ジジイは小さく笑った。その笑いが、この部屋の空気に妙に溶け込んでいて、余計に胸の奥がざわつく。
そして俺たちはさらに奥へと足を進めた。獄門疆とやらが、この狂った収蔵のどこかに眠っていると分かっている以上、立ち止まっているわけにはいかなかった。
奥へ足を進めるごとに、空気の重さが微妙に変わっていく。冷えた金属と古い紙、薬品の匂いが混じり合い、鼻腔の奥にまとわりつく。棚に並ぶガラスケースの中には、生きているのか死んでいるのか判別のつかないものが幾つも収められ、微かに魔力を放つものもあれば、ただ異様な存在感だけを残して沈黙しているものもあった。
「おいおいなんだこれ?宇宙人か?」
思わず足を止め、ひとつのケースを覗き込む。中に横たわる標本は体高2m強、盛り上がった筋肉の輪郭が皮膚越しにも分かり、トカゲの鱗のような表皮が鈍く光っている。頭部から垂れ下がるドレッドヘアーめいた触手状の髪、潰れたような鼻孔、形容し難い形状の口蓋。人間でも魔法生物でもない。見慣れないが、どこかで聞いた記憶が引っかかる。
「魔法生物でもなさそうじゃの」
「ヤウジャ……?やっぱ宇宙人か。宇宙人いんのかよ」
ケースの台座に取り付けられた金属板には細かな文字が刻まれている。1719年、アメリカ大陸にて回収。発見時、周囲に複数の焼死体と不可解な損壊痕を残す、と続いていた。魔法省がこんな連中まで回収して保管してるって事実の方が、よほど不気味だ。
「興味深いのぉ」
ジジイは顎に手を当て、子供が珍しい玩具を見つけた時みたいな目をしている。こいつにとっては危険かどうかより、面白いかどうかが先に来るんだろう。
他にも棚を覗けば、刃渡り30cmほどの短剣が勝手に微振動していたり、干からびた胎児のようなものが瓶の中で脈打っていたり、金でできた分厚い本があったり、完全に石化した巨人の指だけが台座に乗っていたりと、禪院家の蔵でも滅多に見ねぇ代物が平然と並んでいる。目が慣れてきた自分が一番怖い。
「フシグロ君、何かよからぬ事を考えてないかね?」
背後から投げられた声に、内心で舌打ちする。確かに、値段が付きそうな物が幾つもあった。持ち出して闇市に流せば、一生遊んで暮らせるくらいの金にはなる。
「チッ……何品かくすねて売ろうかと思ったが……ジジイにはお見通しか」
「顔に出とるぞい」
「……あの男の盗みは許すのか?」
縫い目の男は少し先を歩きながら、まるで自分の家みたいに棚を眺めている。気配も足音も薄く、油断すると見失いそうだ。
「それは言えとる。まぁ此処を見れた礼だと思おう」
「俺らも勝手に入ってるだけだけどな」
軽口を叩きながらも、指先は自然と腰の拳銃に触れていた。どれだけ異様な展示物を見ても、本当に警戒すべきなのは、この空間でも呪物でもなく、俺たちの前を歩くあの男だと、直感が告げ続けていた。
そうして展示物を一通り眺め終えた頃、少し離れた棚の向こうから男の弾んだ声が響いた。
「あったあった!いやぁ、やっと見つけたよ」
その声音には、長い探索の末にようやく辿り着いた者だけが見せる安堵と、同時に目的を達成した者の薄気味悪い高揚が混じっていて、思わず舌打ちしたくなる。俺とダンブルドアは顔を見合わせ、言葉を交わさぬままその声の方へ足を向けた。黒タイルの床を踏むたびに、靴底が乾いた音を立て、その反響がやけに大きく感じられる。
男は雑多に呪具や標本が積み上げられた棚の前に立っていた。埃を被った箱、用途不明の瓶、禍々しい紋様が刻まれた金属片が無秩序に並ぶ中で、ひときわ異質な存在が小さな座布団の上に鎮座しているのが目に入る。
「それか?」
俺が顎で示すと、男は嬉しそうに頷いた。
「そう、これが獄門疆さ」
棚の上に置かれていたそれは、手のひらに収まる程度の立方体で、ルービックキューブを思わせる形状をしているにもかかわらず、各面に不気味な眼球が埋め込まれていて、こちらをじっと見返しているように錯覚させる。視線を合わせた瞬間、背中を這い上がるような寒気が走り、思わず無意識に肩の力が入った。
「俺も書物だけで実物は初めて見た。意外と小さいな」
呟くと、男は獄門疆をそっと持ち上げ、まるで壊れ物を扱うように指先で包み込んだ。その仕草がやけに丁寧で、逆に気味が悪い。
「私も実物は初めてさ。いやぁ、見つけられて本当に良かったよ」
軽口を叩きながらも、男の目は獄門疆から離れない。その様子を見て、これは単なる好奇心や収集癖ではなく、確かな執着と目的があると改めて理解させられた。
「改めて聞くが、その呪物を何に使う?気配からして特級クラスだ」
俺がそう言うと、男は一瞬だけ顔を上げ、意味深な笑みを浮かべた。
「私の目的に必要でね……ただ、使うのはもう少し先になると思う。今は準備段階、といったところかな」
歯切れの悪い言い方だったが、それ以上踏み込んで聞く気は起きなかった。こいつの目的に深入りすれば、ろくなことにならねぇのは経験則で分かる。
「……俺達の邪魔さえしなけりゃ、何を企んでようが知ったこっちゃねぇ。じゃ、俺たちは行くぞ」
俺がそう言って背を向けた瞬間、男は獄門疆を胸元に抱いたまま肩越しにこちらを見た。その視線には先程までの軽薄さとは違う、底の読めない冷たさが混じっていて、まるで俺の背中に薄い刃を這わせるみたいに神経を撫でてくる。ダンブルドアもそれを感じ取ったのか、歩き出しながらもわずかに杖を握る指に力が入っているのが分かった。
「感謝しているよ、2人とも。おかげで随分と楽ができた」
「礼など要らんよ。君が余計なことをしなければ、それで十分じゃ」
ジジイは穏やかな声でそう返したが、その目だけは一切笑っていない。長い年月を生きた魔法使いの警戒心が、言葉の端々に滲んでいる。
「余計なこと、ね……難しい基準だな」
男は小さく肩を竦め、獄門疆をポケットの奥に仕舞い込んだ。布越しでも分かるほどの異質な気配が、男の胸元で蠢いた気がしたが、次の瞬間には何事もなかったように静まり返る。まるで生き物だ。いや、実際に生きているような呪物なんだろう。
俺たちはそれ以上言葉を交わさず、来た道を引き返し始めた。黒タイルの床に靴音が反響し、通路の奥に吸い込まれていく。その背後で、男の気配がぴたりと止まったのが分かる。振り返らなくても、あいつがこちらを見送っているのは容易に想像できた。
通路の角を曲がったところで、俺は小さく舌打ちをした。あんな得体の知れねぇ呪詛師を野放しにしたのは、どう考えても気持ちのいい話じゃねぇ。それでも今はガキ共の方が優先だ。神秘部の奥から微かに漂ってくる血と焦げの匂いが、それを否応なく思い出させる。
「フシグロ君」
「分かってるよ。先に進むんだろ」
ダンブルドアはゆっくりと頷いた。その背中越しに、黒い通路の奥がわずかに歪んだように見えたのは、きっと気のせいじゃない。あの男が持ち去った獄門疆の気配が、まだこの場所に薄く残っている。嫌な予感だけが、じっとりと肌に張り付いたまま、俺たちを神秘部のさらに奥へと誘っていた。
伏黒甚爾とダンブルドアが忌庫を出て行く足音が、黒タイルの通路に吸われるように薄れていくと、縫い目の男はしばらくその場に立ち尽くしたまま、鼻腔に残る埃と薬品の匂い、古い血が乾いたような鉄の気配、そして魔法具特有の甘い煤けた香りをゆっくりと肺に入れ直し、冷えた空気が喉奥を撫でる感触でようやく自分が緊張していたことを認めた。
「フフ……禪院甚爾とアルバス・ダンブルドアか。いやぁ危なかったな」
笑ってみせた声は軽いが、舌の裏は乾き、背中の皮膚にはじっとりと汗が貼り付いている。目を閉じれば、あの男の視線がまだ額の縫い目を縫い直すように刺さってくる。呪力の形を偽っても、魂の輪郭そのものまでは薄められない。天与の暴君と呼ばれた肉体は、呪力から抜け落ちた分だけ余計に嘘が通じず、こちらの内側を素手で掴まれるような不快さがあった。
縫い目の男は肩を回し、スーツの襟元を指で整える。布地の擦れる音がやけに大きく、静寂が逆に耳を苛立たせる。ヴォルデモートの目的に乗じて魔法省へ潜り込み、神秘部の奥で眠るものを拝借するだけのはずだった。魔法界の連中は鍵も番人も信じきっている。そこに少し指を差し入れれば、扉は案外素直に開く。そう踏んでいた。だが運が悪かった。より正確に言えば、運の悪さを上回るほどの用心が必要だった。こちらの縛りが破れる前に、あちらの嗅覚が先に届いたのだ。
思い出すだけで喉が渇く。エレベーターの狭い箱の中、背後に立つ甚爾が腰の位置に指を置いた瞬間、金属の冷えた匂いが一瞬だけ鼻を刺した。拳銃。魔法使いの杖よりも、はるかに率直で、躊躇のいらない殺意の道具だ。ダンブルドアは穏やかな笑みのまま、こちらの発音ひとつ、瞬きひとつまで量るように見ていた。あの老人は優しいのではなく、優しさを纏ったまま相手を解体できるタイプだと、縫い目の男は長い経験で知っている。
「次に会うときは、もう少し穏やかな場がいいね」
誰に向けたでもない独り言が、通路の奥へ滑っていく。返事はない。あるのは、結界の膜が静かに脈打つ気配だけだ。
彼は歩き出す。靴底がタイルを叩くたび、ひんやりした反響が足首を撫で、通路の曲がり角からはどこか湿った風が流れてくる。魔法の結界は確かに整っているのに、壁の向こうに溜め込まれた異物の気配が、薄い膜越しに指先を痺れさせた。忌庫の棚に並んでいた標本の数々が脳裏をよぎる。知らぬ星の戦士の骨格、古い戦場の記録、名前の付けようもない呪具。価値のあるものは山ほどあったが、今の彼の掌にはたった一つで十分だ。
ポケットの奥で、獄門疆の角が指に当たる。小さく、硬く、冷たい。眼球が貼り付いた面を布越しに撫でると、ぞわりとした感触が指紋の間に残り、まるで生き物を撫でたように皮膚が粟立つ。それでも彼は笑う。封印という概念を、魔法とは別の理屈で成立させる器。使い方を間違えれば喉元から魂を引き剥がされる。だが正しく扱えば、盤面は一気にひっくり返る。
「呪力から完全に脱却した存在……禪院甚爾か。あれは、手に入るなら喉から手が出る」
言葉にした途端、欲が舌に甘く滲んだ。彼は欲を恐れない。欲こそが、千年を超える時間の中で彼を腐らせずに動かしてきた油だ。だが同時に、あの男は危険だ。呪力の匂いがしないのに、殺意だけが刃物のように研がれている。魔法界最強と謳われる老人もまた、笑みの奥に手札を隠している。杖の先で世界の形を変える者と、肉体だけで理屈を踏み潰す者。その二人が同じ方向を向いた瞬間、こちらの計算は紙屑になる。だからこそ、今は触れない。今は、あの戦いを起こさせる。自分は影で拾う。
彼は足を止め、天井の暗い照明を見上げた。灯りの縁が滲み、黒いタイルが鏡のように鈍く光る。その光の中に、自分の顔がいくつも割れて映る。縫い目だけが、どの像でも同じ位置で笑っている。思い出すのは、魔法省の地上で漂っていた人の匂いと、恐怖の汗と、役人たちの無自覚な油断。あの油断は利用できる。ヴォルデモートは予言に飢え、焦り、こちらの小細工にも気づけない。死喰い人が増えれば増えるほど、騒ぎが大きくなるほど、神秘部の奥は手薄になる。獄門疆を持って出る道筋も、騒乱の影に溶ける。
ポケットの重みが確かな鼓動みたいに指先へ伝わる。失敗すればここで喉笛を裂かれる。それでも、彼は止まらないのだ。
そうして縫い目の男は、息を一度だけ深く吸い、吐きながら体の輪郭を闇に馴染ませた。歩みは静かで、しかし迷いはない。視線の先には、これから起こる戦いの匂いがもう漂っている。血と魔力と、魂が焼ける音。その中心に彼は立たない。ただ、最も甘い果実が落ちる瞬間だけを待ち、闇へと溶けるように消えた。
更新が不定期気味ですが、感想評価等いただけると執筆意欲が爆上がりしますので是非お願いします!