ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
「気味の悪い奴だったな」
「そうじゃの、ただ中々掴みどころの無い者でもあった。それに面白い」
「そうか?」
俺とダンブルドアは忌庫を出て、縫い目の男と別れた後、予言が保管されている部屋へ向かった。神秘部の黒タイルは光を吸い、足音だけが薄く跳ね返ってくる。冷えた空気が肺の奥に刺さるのに、肌の表面は妙にざわついたままだ。あの男が残した呪力の湿った匂いが、まだ鼻の奥にこびり付いて離れねぇ。ジジイは平然と歩いてるが、長いローブの裾が揺れるたび、杖をいつでも抜ける角度に身体が寄っているのが分かる。俺も同じだ。拳銃の重みを確かめながら、無駄に壁の陰を見た。
「ん……」
「気づいたかね?フシグロ君」
「あぁ、どうやらかなり道草食っちまったみたいだな」
予言の部屋に入った瞬間、空気が変わった。前に来たときの静けさじゃない。魔力が焦げた匂いを立て、石に付いた粉塵が喉に絡み、誰かの汗の塩気が漂っている。争いの跡がある。破裂した予言球の甘いガラス臭に混じって、俺の鼻にはもっと別の臭いが刺さった。《呪力》の臭いだ。腐乱とも鉄とも違う、嫌に湿った負の感情の名残が、棚の陰や床の割れ目に染み込んでる。
少し歩くと呻き声を上げながら倒れる魔法使いが何人かいた。黒いローブが裂け、仮面が転がり、杖が折れている。誰かの血が点々と床に落ちて乾き、そこだけタイルが鈍く光って見えた。
「あの忌庫……時間の流れが違ったのか?ガキ共がここで戦ってる。俺たちが早く来たはずなのに」
「うむ……神秘部は謎が多いからの——あり得ない事がさも普通に起こる場所でもある」
「あの男に調子狂わされたな」
「ホッホッホ、違いない」
俺は倒れている魔法使いに近づきしゃがんだ。まだ息はしてる。だが暫く起き上がれないだろうな。胸の上下は浅く、唇は乾き、指先は杖を探すように微かに震えている。生き残ろうとする反射だけが残っている感じだ。ここで何があったか、説明しなくても分かる。相手は複数、動きは速く、近距離で叩き潰された形跡がある。魔法だけの戦闘じゃこうはならねぇ。殴打の角度、骨に入ったヒビの方向、床に残ったひび割れの形、全部が人間の肉体で殴った跡だ。
「死喰い人だな」
「間違いないの」
「ガキ共が暴れたか、騎士団が来たか……どっちにしても、俺らの出番は遅れたってことだ」
「ホッホッホ、遅れたと言うなら君が悪いのぉ。宇宙人の標本を見て目を輝かせておったのは誰じゃ?」
「いや宇宙人見たら誰でも興奮するだろ。大発見だぞ。それにジジイだって愛がどうのこうの言ってたじゃねぇか」
「ホッホッホ……」
俺は立ち上がり、棚の列を見渡した。割れた予言球の破片が床に散乱し、足を動かすたびにカリ、と乾いた音が鳴る。その音がやけに耳に残るのは、静けさが戻りつつある証拠だ。つまり、戦闘は既にここから移動している。俺の背中を、見えない線が引っ張るような感覚があった。勘だが外れたことはほとんどねぇ。
「……奥だな」
「ふむ、わしもそう思う」
通路の向こう、黒タイルの継ぎ目に沿って、微かに魔力の流れが歪んでいる。空気が重い。喉の奥が無意識に締まり、鼓動が一段低く、強くなる。この先には、まだ生きて動いている連中がいる。味の抜けた緊張じゃなく、確かな手応えを伴った気配だ。
「行くぞジジイ」
「うむ、君が前を歩くのは毎度のことじゃな」
俺は口角をわずかに上げ、拳銃のグリップを軽く叩いた。ここから先は、考えるより先に身体が動く場所だ。神秘部の奥で、誰が何を相手にしているのかは分からねぇが、あの臭いとこの破壊の仕方からして、ただの魔法使い同士の喧嘩で済んでるはずがない。そうして俺たちは、黒タイルの通路を踏みしめながら、さらに奥へと足を進めた。
黒タイルの通路に出て、さらに進む。壊れた扉が1つ。扉枠ごと歪み、蝶番が引き千切られて壁に刺さっている。力ずくの破壊だ。魔法だけじゃない。肉体で殴り潰した痕が混じってる。胸の奥が嫌な予感で重くなる。
「この部屋は……」
ジジイが言った。声の調子が一段落ちた。
「どうした?知ってるのか?」
「ふむ……死のアーチが保管されておる部屋じゃ」
「死のアーチ……」
名前を聞くだけで、空気が冷たくなる気がした。死に近いもんは、魔力も呪力も関係なく、人間の芯を掻き毟る。扉の向こうから、うねるような圧が漏れてくる。誰かが怒り、誰かが怯え、誰かが必死に守っている。その感情の熱が混ざった魔力の奔流が、壁を通して肌を押してくる。鼓動が勝手に速くなり、耳の奥で自分の血流の音が響き、空気がやけに重たく肺の奥に沈み込んでくる感覚があって、ただの魔法具の部屋じゃないと身体が先に理解していた。
「オエッ」
「えっフシグロ君?いきなりどうしたんじゃ!?気分が悪いんか!?」
「んなわけねぇだろ。武器だよ武器」
「うぉ……なんじゃそれは」
俺は手のひらに吐いた芋虫呪霊を指で突き、膨らませた。湿った皮膚がくねり、体表が粘つく音を立てて床に触れる。巻き付く圧が腕に伝わり、芋虫の口が裂けると、内側から生臭い呪力の匂いが溢れ出た。神秘部の澄ました魔力とは質が違う、もっと生々しくて、もっと現実的な匂いだ。
「コイツはな、呪霊で俺の呪具を格納してる。普段は自分で自分を飲み込ませて小さくして腹に入れてる」
「呪霊を飲む?」
「常人じゃ死ぬぞ。俺は天与呪縛で内臓まで強化されてるからな」
そう言って俺は芋虫の口に手を突っ込んだ。ぬるい粘膜が指に絡み、内部の筋肉が微かに収縮する感触が伝わってくる。奥へ奥へと腕を差し込んだ先で、ようやく固い柄の感触に触れ、それを確かめてから引き抜いた瞬間、空気の密度が変わったように感じた。細身の刃、黒光りする金属、握っただけで手の皮膚が微かに震える。
「それは?」
「天逆鉾、特級呪具だ。術式を無効化する」
俺は軽く一振りして空を切った。刃が空気を割る音は小さいのに、周囲の魔力の流れが一瞬だけ歪むのが分かる。扉の向こうから漏れてくる圧が、刃を構えた瞬間わずかに後退した気配があった。つまり、この先にあるもんは間違いなく、生きて動いて、こちらを認識している。
「なるほどのぉ……君の切り札というわけじゃな」
「切り札ってほど大層なもんじゃねぇ。ただの道具だ」
言いながら、俺は壊れた扉の奥を見据えた。割れた石、引き摺られた血の痕、崩れた床、その全てが奥へ奥へと続いている。感情の奔流は、ここからさらに強くなる。誰かがまだ戦っている。誰かが必死に耐えている。その気配が、皮膚の裏側を直接引っ掻くみたいに伝わってくる。
「行くぞジジイ。ここから先は、少し急いだ方が良さそうだ」
「うむ……同感じゃ」
そうして俺は天逆鉾を握り直し、歪んだ扉の影を踏み越えながら、死のアーチの部屋を覗いた。
床がない。下方へと続く穴があり、その底で光が錯乱していた。赤、青、緑、絡み合う魔力の残光、焦げた石の粉塵、焼けた布の匂い、血の鉄臭さ、すべてが混ざり合い、空気が重く粘ついている。視界の奥にはガキ共と騎士団、散開する死喰い人の影、そして中央に浮く一つの闇、ヴォルデモート。背筋にぞわりとした冷気が走る。これはただの戦場じゃない。死が何度も往復した場所だ。
「ジジイはゆっくり来い」
「うむ」
俺は迷いなく踏み出した。躊躇する理由はどこにもねぇ。
腕を広げて落下速度を調整する。空気を切る音が耳元で唸り、頬に当たる風圧が皮膚を削る。身体の感覚は研ぎ澄まされ、筋肉の一本一本が命令を待っているのが分かる。下方でヴォルデモートの圧が一段と膨れた。その視線の先には、ハリーを庇って前に立つシリウスの背中。覚悟の硬さが、空気を通して伝わってくる。
俺は天逆鉾を構えたまま、シリウスとヴォルデモートの間へ落ちた。
着地の瞬間、膝で衝撃を殺し、床の砂が円を描いて弾ける。そのまま流れる動作で天逆鉾を振るった。間一髪だった。シリウスへ向けて放たれた緑の閃光が刃先に触れた瞬間、空気が裂ける音が走り、焼けた草と金属が混じった苦い匂いが鼻の奥に残る。呪いは途中でほどけ、霧のように散って消えた。死の気配だけが床を舐めるように這い、やがて何事もなかったように沈黙する。
「おいおい、ご挨拶に死の呪文たぁ行儀が悪いな、蛇野郎」
「甚爾!」
「シリウス、1人で突っ走るなって言ったろ」
「ハハ、助かったよ」
軽口を叩きながらも、シリウスの肩はまだ硬い。背後ではハリーが息を荒くし、騎士団の連中が杖を構えたまま緊張を解かない。誰もが次の一撃を待っている空気だ。俺はゆっくりと顔を上げ、宙に浮くヴォルデモートを見据えた。
「伏黒甚爾!……スクイブが何をした」
覚えてやがったか。まぁ当然だ。頭を撃ち抜かれかけた経験を、忘れられるほど鈍くはないだろう。
だが、それよりも気に障るのは奴の気配だ。魔力の濃さは相変わらず胸焼けするほどだが、その底に湿った呪力が混じっている。魂の質も、以前見た時とは別物だ。割れた鏡を無理矢理貼り合わせたような歪さ、そしてどこかハリーに似た感触。理由を探るのは後回しだ。今は目の前の蛇を捌く、それだけでいい。
俺は足元の砂を軽く蹴り、粉塵を舞わせて風の流れと距離を測る。背後からは死のアーチの冷気が這い寄り、耳の奥で誰かの囁きが微かに蠢いた。死を見た者にだけ届く声だろうが、今は無視する。後ろではハリーが呻き、シリウスが前に出ようと踏ん張っている。騎士団の面々も、それぞれの呼吸を揃え、次に飛び散るであろう破片の軌道を読み切ろうとしている。俺は身体でハリーへの視線を遮り、胸の奥に力を沈めたまま、肩の力だけを抜いた。相手が焦れた瞬間が、一番甘い。
「魔法使いの喧嘩に割り込む趣味はねぇがな。ガキがいる。俺の授業の生徒だ。勝手に殺されると面倒なんだよ」
ヴォルデモートの視線が俺の背後を舐める。ハリーが額を押さえ、膝が揺れる。傷が疼くんだろう。
俺は一歩横にずれて、その視線を肩で叩き落とした。
「見てんじゃねぇ」
次の瞬間、杖がわずかに動いた。
緑の閃光じゃない。床と壁の石礫が軋みながら浮き上がり、鋭い破片が雨のように飛来する。俺は天逆鉾を逆手に構え、手首の角度だけで受け流した。最初の礫は刃で受け粉砕し、次は柄で叩いて軌道を折り、三つ目は踏み込みで距離を潰し拳で潰す。命中した破片は空中で砕け、頬に砂が当たり、耳元で破裂音が連続して鳴る。床に落ちた欠片が跳ね、死喰い人の仮面の残骸を刻み、白い粉が煙のように舞い上がった。
「面白い」
ヴォルデモートが呟く。こっちは一切面白くねぇ。
俺は粉塵の幕を蹴破るように踏み込み、石床を軋ませた。天逆鉾の切っ先を奴の喉元へ通す想定で腰を落とし、次の動きで距離を奪える位置まで詰める。だが相手もただの間抜けじゃない。杖先がわずかに上がり、空気が一段と重く沈む。魔力の圧が肺を押し、喉が乾き、舌に鉄の味が滲んだ。シリウスが何か言う、音が遠い。俺は小さく笑ってやる。
そして俺の背後に、ゆっくりと重たい気配が降りてきた。羽織ったローブが空気を撫でる音もなく、ただ空間そのものがわずかに軋むような感覚だけが伝わる。振り返らなくても分かる。あの老獪な魔法使いの気配だ。死のアーチの冷気とは質が違う、長年積み上げた魔力の圧が、背中の皮膚を薄く押してくる。
「トム、じき闇祓いがわんさかくる。逃げた方がよいのではないかね?」
ダンブルドアの声は静かだった。だが柔らかさの奥に、刃のような覚悟が滲んでいる。まるでこの場の結末をすでにいくつも思い描いた上で、その中から最も現実的な道筋を選び取った、そんな声音だった。
ヴォルデモートは宙に浮いたまま、細く歪んだ口を吊り上げた。血の臭いと焦げた魔力の匂いが混じった息が、遠目にも分かるほど濃い。
「ダンブルドア、闇祓いがくる頃には貴様らは死んでおるわ」
低く掠れた声が広間に落ち、死のアーチの奥で反響した。言葉そのものが呪いのように空気へ染み込み、床の砂が微かに震えた。ハリーの背中が強張り、シリウスの握る杖先が僅かに揺れるのが視界の端で見える。
ダンブルドアは一歩、俺の隣へと進み出た。長い髭が胸元で揺れ、その奥で老いた眼が静かに細められる。
「トム、お前はいつも自分の勝利を早く語りすぎる。それが敗因だと、まだ学ばんのかね……」
空気が張り詰めた。魔力と呪力、殺意と執念、そして守る意志が絡み合い、まるで目に見えない糸が何百本も張り巡らされたようだった。俺は天逆鉾を握り直し、指の腹で柄の感触を確かめる。次の瞬間、どちらが先に動いてもおかしくない。
静寂はほんの数秒だったが、その短さがかえって耳鳴りを強める。
俺は首の骨を鳴らしながら言った。
「ほら、続けろ。俺の前でだけな」
そして、ヴォルデモートの口角が、釣り上がった。
「もう貴様に油断はせん。天与呪縛のフィジカルギフテッド」
「へぇ……知ってるなら話は早い。よし!お前ら撃て!!!」
俺は腹の底から声を張り上げた。あの時と同じだ。1年目の地下、クィレルに憑いたヴォルデモートを囲んで、ガキ共に撃たせた時の構図。理屈は単純で、術者の集中を徹底的に削り、思考の余地を潰す。それだけで十分に戦況は傾く。
「よし!」
「いくわよ!」
「待ってたぜ!」
「今度こそ!」
「しゃおら!」
ハリー、ハーマイオニー、ロン、ネビル、ジニーが一斉に杖を構え、躊躇なく呪文を放つ。赤、青、白、黄金、色とりどりの光が空気を裂き、ヴォルデモートへと収束していく。呪文が交錯するたびに空気が震え、床の砂が細かく跳ね、耳の奥がじんと痺れる。さすがにこの物量は堪えるらしい。ヴォルデモートは身体の周囲に防御の魔力を張りながらも、完全には捌ききれず、攻撃と防御の配分を強いられているのが手に取るように分かる。
「おい!大人共もやれ!」
俺は唖然として立ち尽くしていた騎士団連中にも声を飛ばした。戦場に立ってるくせに、様子見なんて許してやるほど優しくはない。
「エゲツないのぉ、フシグロ君」
ダンブルドアが口元に僅かな笑みを浮かべ、杖を前に差し出す。
「甚爾にはいつも驚かされるな」
シリウスも低く笑い、肩の力を抜いたまま狙いを定める。
次の瞬間、騎士団の呪文が加わった。ムーディの重い一撃、キングズリーの正確な連射、トンクスの変則的な軌道、リーマスの無駄のない詠唱。空間そのものが光で満ち、ヴォルデモートの周囲だけが嵐の中心みたいに歪む。
「おのれ……愚かなっ!」
ヴォルデモートが苛立ちを隠さず叫び、腕を振り回す。その動きが滑稽に見えるほど、今の状況は奴にとって不利だ。闇の帝王だろうが、集中を削られ、視界を埋められ、思考を乱されれば、ただの術者に落ちる。
「ホッホッホ!こりゃたまらんわい」
ダンブルドアが楽しげに笑いながら魔法を重ねる。年寄りのくせに余裕がありすぎて腹が立つ。
俺はその間に、芋虫の口へ手を突っ込んだ。ぬるりとした感触の奥で、指に硬い金属が触れる。引きずり出したのは万里の鎖。もう片方の端が認識されなければ、延々と伸び続ける特性を持つ呪具だ。
鎖の先に天逆鉾を結びつける。即席の鎖鎌のようなもの。単純だが、機能としては十分すぎる。
鎖を軽く振る。空気を切る音が低く唸り、刃の重さが手首に伝わる。間合い、風向き、重心、すべてを一瞬で計算し、俺は腕をしならせた。
天逆鉾を乗せた鎖が、弧を描いてヴォルデモートへと放たれる。光の嵐の中を縫うように、刃が真っ直ぐに蛇の中心を捉えに行く。
そして、次の瞬間だった。
「「もう貴様に油断はせん。天与呪縛のフィジカルギフテッド」」
あ?待て。何が起きた。
今、確かに俺は万里の鎖で天逆鉾を投げた。空気を裂く感触も、鎖が伸びきる直前の重みも、手首に残っている。それなのに、目の前の光景は数拍前に戻っている。ヴォルデモートの立ち位置、ガキ共の構え、騎士団の息遣い、そのすべてが「さっき」と同じだ。音も匂いも、床の粉塵の揺れ方まで一致している。胸の奥が嫌に静かになり、逆に背骨の内側だけがぞわりと冷えた。
「てめぇ……」
声が漏れた。小さく、低く、誰にも聞こえない程度の声だ。周囲の誰も気づいていない。ハリーは歯を食いしばって杖を握り、ロンは肩を怒らせ、ハーマイオニーは次の詠唱のタイミングを計り、ネビルは獲物を睨む獣の目をしている。シリウスも、ダンブルドアも、騎士団の連中も、全員が「最初から今に至るまで」をそのまま進んでいる。俺だけが、確実に一度進んだはずの時間を踏み外している。
これは偶然じゃねぇ。間違いなく呪力を伴う術式だ。ヴォルデモートの力の質が、さっきから妙に濁っていた理由がようやく繋がった。魔法とは違う、呪術の構造に近い歪み。発動の瞬間、空気が一瞬だけ裏返るような感覚があった。あれが引き金だ。だが発動しても、周囲の全員が影響を受けていない。受けていないというより、気づいていない。いや、正確には俺だけが影響の外に弾かれている。
理由は二つ考えられる。一つは天与呪縛。俺の身体は呪力の理から外れた存在で、術式の網にかからなかった可能性。もう一つは天逆鉾。あの呪具が常時、術式の効果を拒絶している可能性。どっちにしろ、今の現象は「俺にだけ見えている事実」だ。つまり、このまま黙っていれば、同じ状況が何度でも繰り返される。
繰り返される、か。いや繰り返されるのかは実際に分からねぇ。今はまだ
俺は息を殺し、視線だけでヴォルデモートの動きを追う。杖の角度、指先の癖、魔力の揺らぎ、その奥に潜む呪力の流れ。わずかな違和感を拾い上げるために、耳鳴りがするほど神経を研ぎ澄ませた。足元の砂粒が跳ねる音、死のアーチから漏れる低い囁き、誰かの荒い呼吸、そのすべてが今の俺には手がかりだ。
時間を弄ぶ術式なんて、碌な代物じゃねぇ。代償がある。制限がある。無制限に使えるなら、こいつはもう勝負を決めに来ているはずだ。だがそうじゃない。今はまだ、俺たちを「なかったこと」にできていない。つまり、突破口はある。
俺は天逆鉾を握り直し、ほんの僅かに口角を上げた。
「……いいぜ。もう一回だ。次は、お前の癖ごと斬る」
ヴォルデモートは術式を発動した。そのタイミングは「もう貴様に油断はせん。天与呪縛のフィジカルギフテッド」と言葉を放った、あの一瞬である。死のアーチの部屋に満ちた魔力がわずかに歪み、空気の温度がほんの一拍だけ沈み込み、床に散った砂粒が誰にも気づかれぬほど僅かに浮いて落ちた。だがその違和感を捉えたのは伏黒甚爾ただ一人で、他の誰もがそれを「起きなかった現象」として受け流していた。光、音、匂い、すべてが寸分違わぬ形で再配置され、時間は断ち切られることなく、しかし確実に巻き戻されていた。
ヴォルデモートが内側に取り込んだ呪物は、かつて日本の平安期に存在した名も残らぬ呪術師の骨だった。死を夢として拒絶し、現実を否定し、再び目覚めるためだけに己の肉体と魂を削り続けた狂人の遺骸。その骨に宿っていた執念は長い年月の中で結晶化し、そしてとある人物の手によって呪物となり、ついには術式として形を成した。そしてヴォルデモートはそれを偶然ではなく意図的に取り込み、魂を傷つけることを厭わず、自身の魔力と歪に縫い合わせることで、後天的に術式を刻み込むという常軌を逸した選択を成し遂げていた。
その術式の名は【睡死夢生】。死を迎えた現実を夢として処理し、覚醒と同時に基点へと引き戻る、極めて歪な呪術である。使用者は確かに死を経験する。肉体が裂かれ、心臓が止まり、意識が闇に沈む感覚も、すべて現実のものとして刻まれる。だが術式が発動した瞬間、それらは強制的に「夢」として再分類され、現実は発動時点へと巻き戻る。周囲の人間にとっては時間は途切れず連続しているが、使用者の内側だけで死と再生が循環している状態だ。
もっとも、この術式は万能ではない。死を夢として処理する代償として、使用者の記憶は完全には保持されない。断片的な感覚、強烈な痛み、恐怖、あるいは相手への印象だけが曖昧な影のように残り、具体的な過程や手段は霧の中に溶けていく。そのためヴォルデモート自身も、自分が何度やり直しているのか、どの瞬間で何が起きたのかを正確には把握できていなかった。ただ「このままでは不利だ」という直感だけが積み重なり、警戒と執着だけが異様な重さで蓄積していく。
それでも彼は術式を使った。死を拒絶するためではなく、勝利を掴むために。基点は自らの口からあの言葉を発した瞬間に固定されている。あの台詞が引き金となり、現実は何度でもそこに引き戻される。伏黒甚爾とアルバス・ダンブルドア、そして子供達と騎士団の包囲、そのすべてを前にして、ヴォルデモートは表情には出さぬまま、内心で冷たく思案していた。何度でもやり直せる。何度でも試せる。ならば、いつか必ず最善の一手に辿り着く、と。
だが同時に、その思考の奥底で、名もなき呪術師の骨が残した執念が微かに蠢いていた。死を夢に変え続けるたびに、現実と虚構の境は摩耗し、魂の輪郭は削れ、元の自分が何であったのかすら曖昧になっていく。それでも歩みを止めるという選択肢は、彼の中には最初から存在していなかった。
そして伏黒甚爾が手にする特級呪具、天逆鉾は、呪術の世界においては術式そのものを断ち切るための刃であり、その性質は魔法という異なる体系にも及び、刃先に触れた魔力は形を保つことを許されず、呪文の意図も構造も、発動した力の流れも、すべてが触れた瞬間に分解され、霧散し、存在しなかったかのように掻き消えていくという異常な挙動を示していた。
死の呪文であろうと、変成の呪文であろうと、プロテゴの膜であろうと、そのいずれもが刃と接触した刹那に音もなく崩れ落ち、空気に残るのは焼け焦げたような匂いと、魔力が無理やり引き剥がされたときに生じる鈍い痛覚の残滓だけであり、その現象を間近で見続けていたヴォルデモートの冷たい視線は、次第に刃そのものへと集約されていった。
ヴォルデモートは愚かではなかった。むしろ異常なまでに観察力に長け、相手の能力を咀嚼する速度においては魔法界でも屈指の存在であり、伏黒甚爾に向けて放った呪文が、どの角度であれ、どの強度であれ、刃が触れた瞬間に必ず無に帰すという事実を、戦闘の最中に既に理解していた。魔力の圧が確かに存在していたにもかかわらず、天逆鉾に触れた途端、流れが断ち切られ、魔法の構造だけが崩れていく光景は、彼にとっても初めて見る異質な現象であり、その不可解さは恐怖ではなく、強烈な警戒として心の奥に沈殿していった。
そして彼は悟った。天逆鉾に触れれば、睡死夢生の術式そのものも無効化される可能性が高いということを。術式が発動する「死」という結果が刃によって否定されれば、夢へと処理される前に現実そのものが断ち切られる。そうなれば、やり直しは成立しない。術式の基点に戻ることもできず、ただの死として終わる。そして自身に施した分霊箱が天逆鉾によってどのような状態になるのか——それは彼にとって容易に想像でき、そして決して許容できる結末ではなかった。
だからこそヴォルデモートは、伏黒甚爾の一撃が自らに届く直前、そのわずかな瞬間に、己の胸へと杖先を押し当てていた。杖を握る指に一切の迷いはなく、細く引き絞られた魔力が内側へと向かって収束し、次の瞬間、心臓の位置で爆ぜた。肉が裂ける鈍い感触、骨の内側に広がる焼けるような熱、肺の奥から込み上げる血の味、それらを彼は確かに「経験」していたが、その表情は歪まず、ただ静かに、計算通りに、己の死を受け入れていた。
伏黒甚爾の刃が届くよりも早く、ヴォルデモートは自ら命を断ったのである。天逆鉾が自身の肉体に触れる前に、術式の発動条件である「死」を成立させるために。誰にも気づかれぬ一瞬の選択であり、外から見れば、彼がただ倒れたようにしか見えなかっただろう。だがその内側では、現実が音もなく折り畳まれ、睡死夢生の術式が再び作動し、基点へと巻き戻る準備が整えられていた。
それは逃走ではなく、戦術だった。伏黒甚爾という致命的な存在を前にしてなお、ヴォルデモートは己の生存と勝利を天秤にかけ、より確実な一手を選び取っていたのである。そしてその歪んだ執念は、静かに、確実に、次のやり直しへと向かっていた。
・術式名
睡死夢生(すいしむせい)
・伝承
かつて、死を拒むあまりに“眠り”の奥底へと身を沈めた呪術師がいたという。
彼は死の瞬間、世界を夢とみなし、自らの終わりを「悪い夢」として否定した。
その執念が呪となり、骨に宿り、やがて術式として残った。
睡死夢生とは、死を迎えた術者がその死を夢として処理し、現実そのものを巻き戻す異端の呪いである。
術者が命を落とした瞬間、世界は静かに折り畳まれ、基点となる時点へと密やかに帰還する。
空気も、人も、血も、破壊も──すべては何事もなかったかのように元へ戻り、ただ術者のみが「何かを見た」感覚を曖昧に抱えたまま立っている。
周囲の者たちは気づかない。
巻き戻りを感知することも、違和感を覚えることもない。
彼らにとって現実は連続しており、断絶したのは術者の内側だけである。
・効果
術者が死亡した瞬間、死を夢として処理し、あらかじめ定められた基点の時点へと現実を巻き戻す。
周囲の環境、生物、出来事は巻き戻しを認識できず、時間が改変された事実に気づくことはない。
・代償
この術式は慈悲ではなく、緩やかな腐敗である。
死は「夢」として処理されるため、術者の記憶は常に朧げとなり、やり直したはずの出来事は霧の向こうに霞む。
さらに、術式が発動するたびに魂そのものが摩耗し、自己意識は削れ、感情は鈍り、やがて現実と夢の区別すら曖昧になる。
幾度も死を拒み続けた者の末路はただ一つ。
目を開けたまま夢を見続ける廃人。
現実に立ちながら、二度と現実に触れられぬ亡者。
・領域展開
???
超捻り出した。正直どうやってこの章を終わらせようか迷ってます。風呂敷を広げすぎて畳めなくなった感じです。誰か助けて。