ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
中山競馬場に到着した。改札を抜けた瞬間、空気の密度が一段変わる。冬の冷気なんざ群衆の体温と熱気に押し潰され、コートの中にまで湿った熱が入り込んでくる。やはり有馬記念は異常だ。だがそれがいい。怒号みたいな歓声、紙馬券の擦れる音、新聞を叩く乾いた音、焼きそばとビールと土と芝の匂いが混ざり合って鼻の奥を刺す。この混沌の中でしか得られない金の気配がある。こうでなくちゃ1年の締め括りは納得できねぇ。
「トウジ、パドック見れるか?すごい人だぞ」
シリウスが人混みを見据えながら言った。
群れ。その言葉しか思い浮かばないくらい人がいる。
「私が領域展開をして一気に減らすという手もあるよ」
縫い目の男が掌印を組みながら言った。アホだ。というかコイツ領域展開できんのか。
「お前バカだろ。そんなことしたら有馬記念が消えちまうよ」
「フフフ、冗談だよ」
「フシグロ君、領域展開とはなんじゃ?」
「ジジイ、お前は興味もたんでいい」
「気になるかい?領域展開というにはね。呪術戦の極致と呼ばれる技術にして結界術。まぁ必殺技みたいなものさ」
「説明すんなっつの」
ダンブルドアが感心したように頷き、シリウスが「必殺技ってなんだよ」と笑う。コーネリウスは既に屋台の匂いに釣られてどこかを見ている。騒がしい。だが嫌いじゃない。この雑多な音の中でも俺の耳は蹄のリズムを拾っている。
そんなやり取りをしながら柵の最前列まで潜り込む。鉄柵に腹を預けると、パドックの土の匂いが直に上がってくる。湿り気を含んだ黒土、踏み締められた砂、そこに混じる馬の体温の蒸気。視界を走るのは新聞の印や人気順じゃない。呼吸、筋肉、関節、視線、その全部だ。
最初の一頭が通り過ぎる。首が高い。耳が忙しなく揺れて観客席を拾い過ぎている。歩幅は広いが前肢の着地が浅く、蹄が地面を掴む前に次の脚が出ている。見た目は派手だが芯が浮いてる。切りだ。
次の鹿毛は腹回りが緩い。冬毛が立って艶がない。汗はかいていないが、これは絞れていないだけだ。トモの筋肉が歩くたびに揺れている。論外。
「ほぉ……君は馬の筋肉を見るのかい?」
縫い目の男が感心したように言う。
「筋肉じゃねぇ、連動だ。力の通り道が繋がってるかどうかだよ」
肩から背中、腰、トモ、飛節へと波みたいに力が流れているか。そこが途切れてる馬は最後に伸びない。
三頭目が来た瞬間、俺は視線を止めた。青鹿毛。周囲の喧騒に一切反応しない。耳は適度に動くが、音を切っているわけじゃない。自分のリズムを守っている。歩幅は小さく見えるが踏み込みが深い。蹄が土に沈む瞬間、砂が真後ろに飛ぶ。横じゃない。推進力が前に向いている証拠だ。肩の可動域も広い。騎手が軽く手綱を触れたとき、首だけでなく背中全体で応える。腹は巻き上がり、肋骨のラインが浮いている。絞れているが細くない。筋肉の張りが皮膚の下で呼吸しているみたいに動く。
鼻先から白い蒸気が一定の間隔で吐き出される。心拍が乱れていない証拠だ。目もいい。白目が見えない。だが死んでもいない。前を見ている。
「決まったかい?」
縫い目の男が覗き込む。
「まだだ」
言いながらも、視線はその青鹿毛から離れない。
さらに周回を重ねる。他の人気馬も見る。確かに筋肉量は上だ。馬体重もある。だが踏み込みの瞬間にわずかに外へ逃げる。内に力が集まっていない。直線で伸びを欠くタイプだ。騎手との呼吸も微妙にズレている。手綱の合図に半拍遅れる。たったそれだけでゴール前は変わる。
観客のざわめきが遠のく。蹄のリズムだけが残る。土を掴む音、革の軋み、鼻息、尾が空気を切る音。俺の呼吸もそれに合わせて整う。戦場で敵の踏み込みを読むときと同じだ。違うのは、ここで読むのは金の流れだってだけだ。
青鹿毛がもう一度目の前を通る。汗が首筋に薄く滲んでいる。泡立っていない。いい汗だ。体温が上がり切る前の理想的な状態。仕上がっている。
「……あれだ」
短く言うと、シリウスが「マジか」と笑い、ダンブルドアが「ほっほっほ」と愉快そうに頷いた。
俺は柵から手を離した。鉄の冷たさが消え、掌に自分の体温が戻る。群衆の圧を肩で割りながら券売機へ向かう。視界の中ではまだ青鹿毛が静かに歩いている。
薄い紙切れ一枚になる未来を、あの踏み込みの深さが保証している気がした。
そうしてパドックで馬の観察を終えた俺たちは券売機へ向かった。通路は人で詰まり、床に落ちた新聞とマークシートが靴底に張り付き、鼻の奥には焼きそばとビールと汗の混じった熱気がこびりついて離れねぇ。遠くでオッズが更新される電光掲示板の電子音が鳴るたびに群衆がざわつき、その波が背中を押してくる。財布の中の札の感触を指で確かめると心臓の鼓動がわずかに速くなる。戦場と同じだ。ここでは金が弾丸だ。
「ジジイはいくら突っ込む?」
「ホッホッホ、いつも通りじゃよ。手堅く10万……いや100万ほど」
「バカだろ」
ジジイは涼しい顔で言いやがるが、指先の動きはやけに速い。迷いがない。ボタンを押すリズムも一定で、まるで呪文を詠唱してるみてぇだ。束になった札が機械に吸い込まれていく音を聞くと、喉の奥が乾く。あの金が倍になるか、ただの紙屑になるか、その分岐点が目の前にあると思うと、魔物の腹の中に手を突っ込むみたいな感覚になる。
「お金はお空に持っていけんからのぉ〜使う時に使うんじゃよ」
「それは違いない」
口ではそう言いながらも、俺は自分の軍資金を数え直した。ドビーに集めさせた情報、パドックで見た筋肉の張り、蹄の接地の癖、騎手との呼吸、それらを頭の中で並べて消していく。勝つ馬は決まっている。少なくとも俺の中ではな。
「お前は?どうする」
俺は後ろに並んでいた縫い目の男に聞いた。人混みの中でもコイツだけ妙に浮いて見える。焦りも熱もなく、まるで時間の流れが違う場所に立ってるみたいに静かだ。
「そうだね……単勝50万かな」
「お前もバカか?ちなみに予想はなんだ?」
「マヤノトップガン、これ一択だね」
その名前を聞いた瞬間、俺は思わず鼻で笑った。パドックで見たあの馬の歩様、汗の浮き方、首の使い方、どれも仕上がり切っていなかった。皮膚の下で筋肉が遊んでいる感じがあった。あれは全開で走れる状態じゃねぇ。
「ほぉ!良い予想じゃな。わしもそれを予想に入れておるよ」
「私もだ」
「うぃ〜私も」
ジジイとシリウスとコーネリウスが一斉に頷く。コーネリウスなんかは顔を真っ赤にして、マークシートを上下逆に持っている。コイツら本当に分かって言ってんのかと呆れながら、俺は券売機の前に立った。
人の熱気が背中を押す。画面に映る数字が歪んで見える。指先で購入額を打ち込みながら、俺はもう一度だけパドックでの光景を思い出した。土の匂い、蹄鉄がコンクリートを打つ硬い音、呼吸の間隔、瞳の焦点。俺の選んだ馬はあの中で一番静かだった。余計な力みがなく、勝つことを知ってる身体をしていた。
「……よし」
発券機から吐き出された紙切れを指で挟む。たったこれだけの薄い紙に、俺の読みと運と今年の締めが全部乗ってる。
横を見ると、ジジイが満足そうに笑っていた。縫い目の男も同じだ。シリウスは既にビールを買ってる。コーネリウスは椅子を探してフラフラしている。
コイツら分かってねぇな。その馬は来ねぇ。
そう確信して、俺はポケットに馬券を突っ込んだ。胸の奥で妙な高揚が膨らむ。絶対に勝つ。そう思っている時が一番楽しい。
それから所謂VIP席に向かった。一般人との無駄な接触を避ける為に日本魔法省とマホウトコロがタッグを組んで俺たち専用の席を設けてくれた。有馬記念のようなビッグイベントの時ぐらいしか解放されない席だが、まぁありがたいっちゃありがたいな。ガラス張りの通路を抜けると一気に喧騒が遠のき、さっきまで全身にまとわりついていた汗と酒と土の匂いが薄まり、代わりに磨かれた木材と新しい絨毯の乾いた匂いが鼻に入ってくる。だが窓の向こうにはさっきまでいた群衆の熱がそのまま残っていて、空気が揺れて見えるほどの歓声が壁越しに伝わってきた。静かなのに静かじゃねぇ、妙な場所だ。
「さて……」
シリウスがソファに腰を下ろしながら双眼鏡を首から下げた。足を組んでいるが膝が小刻みに揺れている。分かりやすい奴だ。
「ふむ……」
ジジイは椅子に深く座り、指先で髭を撫でながらコース全体を見渡している。力は抜けているが視線だけは鋭い。あの爺さん、戦場でも賭場でもやることが同じだ。
「よし……」
俺はガラス越しにパドックから本馬場へ向かう馬の気配を追った。遠目でも分かる。踏み込みの深さ、首の振り、尻の筋肉の収縮のリズム。地面を掴む蹄の音が腹に響く。空気が震えてる。レース前独特の張り詰めた気配だ。
「ひぃっく」
コーネリウスは既に顔を真っ赤にして椅子に沈み込み、片手に持ったカップを揺らしている。中身が溢れてテーブルに染みを作っているのに気づいていない。
「フフ……」
縫い目の男は窓際に立ったまま、まるで観劇でもするみたいに目を細めてコースを見下ろしている。コイツだけ空気の温度が違う。観客じゃねぇ、何か別の視点で見てやがる。
ファンファーレが鳴り響いた。
腹の底に直接叩き込まれる金属音。観客の歓声が爆発してガラスが微かに震える。鳥肌が腕に立った。血が熱くなる。脳の奥で何かが開く。
馬がゲートに入る。
1頭ずつ、静かに、だが確実に収まっていく。暴れる奴、首を振る奴、やけに落ち着いている奴。枠入りの順番で気配が変わるのが分かる。俺の買った馬は――いい。無駄な力みがない。耳の向きも前だ。騎手との呼吸も合っている。
「トウジ、どうだ?」
「問題ねぇ」
短く答えながら、俺は視線をマヤノトップガンに向けた。外から見ても分かる。僅かに腹が緩い。歩様も重い。パドックで感じた違和感は消えてねぇ。
来ねぇな。
確信して口の端が上がる。
スターターが台に上がるのが見えた。全頭静止。空気が止まる。数万人の呼吸が一瞬で揃う。
心臓の音だけがやけに大きい。
ゲートが開いた。
馬が一斉にスタートした。
ゲートが弾け飛ぶ音が腹の底に叩き込まれ、視界の中の全てが一瞬だけ引き延ばされたように遅く見える。芝を蹴り上げる蹄の土煙、騎手の体重移動、各馬の首の振り方、その全部が線になって繋がり、流れとして俺の目に入ってきた。
先頭は俺が予想してるイブキタモンヤグラだ。やはり間違いねぇ。スタートの反応が完璧だ。前脚の出が速い。腰の落とし方が深く、推進力が一歩目から違う。騎手も無理に抑えず、だが行かせ過ぎない絶妙な手綱捌きだ。パドックで見た通り、筋肉の張り、呼吸のリズム、気配の滾り方、全部が噛み合ってやがる。
ここからでも分かる。あの馬は今、勝つ為の走りをしている。
俺の観察眼、ドビーの情報、過去のラップ、馬場状態、全部が一本の線になって頭の中で確信に変わる。
もう当たる以外の道はねぇ。
「『イブキタモンヤグラが先頭!続いてサクラチトセオー、ナリタブライアン、ナイスネイチャ!』」
実況の声が部屋に響き、ガラス越しに観客の歓声が爆ぜる。空気が振動してソファの背が微かに揺れた。
ヤバい、これはマジで当たる。
「きてる!俺の時代が!」
思わず立ち上がり、拳を握りしめる。血が耳の奥で鳴っている。
「ホッホッホ、まだ分からんぞいー!!」
ジジイが笑いながらも身を乗り出している。いつもの余裕の顔だが、杖を握る時と同じ目になってやがる。
「いけー!ナイスネイチャ!」
シリウスが双眼鏡を握り潰しそうな勢いで叫ぶ。
「ゴーゴゼッドー!頼む〜!!」
コーネリウスは椅子から半分転げ落ちながら訳の分からん方向に手を振っている。
縫い目の男だけが静かに笑っている。コイツだけ、最初から結果を知ってるみたいな顔をしてやがる。
向正面に入る。隊列はほぼ予想通りだ。イブキタモンヤグラは力まず先頭を維持している。脚の回転も落ちてねぇ。まだ余力がある。
勝った。
そう思った瞬間だった。
残り半周、俺の目が異変を捉えた。
前脚の出が僅かに鈍る。
次の一歩で踏み込みが浅くなる。
太腿の外側の筋肉が一瞬だけ震えた。
「なにぃ!?!?」
痙攣してやがる。
呼吸のリズムが乱れた。騎手が手綱を押す。だが反応が遅い。推進力が一段落ちた。
後ろから一頭、外を回ってくる影。
長く伸びるストライド。
沈み込む腰。
爆発するような加速。
マヤノトップガン。
嘘だろ。
直線入口で一気に並びかける。イブキタモンヤグラの耳が後ろに倒れる。脚が完全に止まる。
観客の歓声が爆発する。
ガラスが震える。
俺の思考が一瞬空白になる。
「嘘だろ!?!?!?」
「やはり、私の予想通りだったね」
俺の隣で縫い目の男が静かに呟いた。歓声が爆発する中でも声は妙に通り、耳の奥に滑り込んでくる。コイツが賭けたのは単勝50万、マヤノトップガンのオッズは13……頭の中で計算が弾ける。桁が跳ね上がる。50万が、13倍で——指先が冷えた。胃の奥が空っぽになる感覚と同時に、心臓だけが無駄に強く打ちやがる。
「ホッホッホー!!!笑いがとまらんわい!!」
ジジイが椅子の背を叩きながら腹を抱えて笑っている。白い髭が揺れ、目尻に涙まで浮かべてやがる。
「くぅー!私はダメだった!だが気持ちいいな!」
シリウスは悔しそうに頭を掻きながらも、レースの余韻に酔っている顔だ。
「うぇっぷ……うぅ〜ゴーゴゼッド〜」
コーネリウスは机に突っ伏して半泣きだ。酒臭ぇ息がこっちまで漂ってくる。
俺はまだ立ったままだった。視線はターフに釘付けになっている。勝ち馬の呼吸、引き揚げる時の脚取り、騎手の肩の上下、全部がやけに鮮明に見える。
負けた。
それも完璧に外した。
パドックで見た筋肉の張り、汗の質、落ち着き、全部読み切ったはずだった。ドビーの情報も精度は高かった。展開もほぼ予想通りだった。だが最後の最後で脚が止まった。
俺の読みが、現実に負けた。
その事実が腹の奥で鈍く膨らむ。
「ジジイはいくらだ?」
ようやく声が出た。自分でも驚くくらい低い声だった。
「わしは馬連で100万じゃから……配当がこれで……ホッホッホ、およそ900万ほどかのぉ」
さらっと言いやがった。
「は?」
思わずジジイの顔を見る。ニヤニヤしてやがる。完全に勝者の顔だ。
「お主も惜しかったのぉ、フシグロ君。最後の直線までは完璧じゃったのに」
「うるせぇ」
喉の奥が焼けるように乾く。舌の上に鉄の味が広がる。
縫い目の男が当たり馬券を指で摘まみながら、楽しそうに眺めている。その仕草がやけに癇に障る。
「競馬というのは面白いね。観察と統計を積み上げても、最後は生き物の意志と偶然が覆す」
「講釈垂れてんじゃねぇ」
「フフフ、だが君の観察眼は本物だ。あそこまで読める人間はそういない」
慰めになってねぇ。
モニターに払い戻し金額が表示される。数字の羅列がやけに眩しい。
50万が650万。
ジジイは900万。
俺の馬券は紙切れ。
拳を握る。爪が掌に食い込む。だが、不思議と笑いが込み上げてきた。腹の底から、乾いた笑いが漏れる。
「……クソが」
負けた。だが、この熱、この音、この空気。胸の奥でまだ何かが燃えている。
「来年だ」
自然と呟いていた。
「次は絶対に当てる」
縫い目の男が横で笑う。
ジジイがまた笑う。
外ではまだ歓声が続いている。
俺は空になった拳を開いた。
まだ終わってねぇ。
そして次の年末が、もう頭の中で始まっていた